日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大坂夏の陣

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今やっている大河ドラマ、”軍師官兵衛”でも出て来た後藤又兵衛です。
ほら、松寿丸の剣術の相手の。。。

戦国時代を槍一本で生き抜き、1万6千石の大名級にまで上り詰めた男です。
大坂の陣では、真田幸村と共に大坂の方の双璧とまで言われました。
全身に、刀傷、矢弾の傷痕が53か所もあったといわれています。

そんな又兵衛は・・・もともと黒田官兵衛・長政父子に仕える黒田家の重臣でした。
九州征伐、文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いの功で、筑前52万3千石の国主だった長政から、嘉穂郡大隈城1万6千石を預かっていました。

が・・・1611年、主家を退散してしまいます。
長政と又兵衛は、不仲だったとか、父・官兵衛を争ってのライバル同士だったとも言われています。

その諸説は???
①長政が、小姓だった又兵衛の次男・基則に、能の小鼓を打たせたことを、侍の子に芸人のマネをさせたと、又兵衛が怒った。
②長政が九州征伐の時に、官兵衛の指揮を待たずに進軍し敗退。。。
これを恥じて、家来と共に頭を剃った長政。
それに対して又兵衛が、負けるたびに頭を剃っていたら、死ぬまで毛が揃わんと、平然としていたこと。
③文禄・慶長の役で大活躍の又兵衛でしたが、その時猛虎を斬って「将のなすべきことか」と、長政に叱責されたこと
④部下の将と功を争った長政が、嘉山の戦いで敵将と組み合っているのを又兵衛が見ているだけだったこと
⑤戦歴の雄で、大名たちと共に戦ってきた又兵衛が、彼らのことを朋友のように話すのを、長政が我慢できなかったこと・・・

実力のある又兵衛が浪人となったので・・・
細川忠興・福島正則・・・相次いで仕官を薦めてきます。
が、その度に、長政からクレームがつき・・・。
また、俸禄も高すぎるので。。。
仕官の口が閉ざされた又兵衛は、京で物乞いして数年を過ごしました。
そして・・・1614年、豊臣方と徳川方に分かれ始めた頃。。。
又兵衛の元にも使者がやってきます。
そして・・・「五人衆」のひとりとして大将に迎えられ、大坂城に入ります。

大坂夏の陣で道明寺方面に出撃した又兵衛。。。
胸を撃たれて戦死してしまいます。
しかしその首は、家来によって泥田の奥深く埋められたため証拠がなく・・・
お決まりのように、生き残ったという説も残っています。

その説は???
①落城に先だって、真田幸村と共に秀頼を守護して薩摩に落ち、そこで天寿を全うした
②生国・播磨に逃れていたが、数年後、病の治療に京に上ったところを所司代に見つかって毒殺
③四国・道後温泉で湯治療をしていて、土地の無頼者に襲われて死亡・・・

色々ありますが、もちろんお墓もあります。
大分県耶馬渓町に・・・
”義刃智光居士”という戒名の又兵衛のお墓があります。
なんと、命日は1654年1月29日。。。
これが本当なら、94歳まで生きたことになります。

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 戦国時代最大にして最後の激戦・・・大坂の陣から400年になります。
当時の戦いの激戦地は、現在地中に埋まっています。
豊臣・大坂城の石垣は地中にあり、掘り起こされているのです。

1614年に始まった大坂の陣。。。
徳川家康率いる東軍と、大坂城に籠もる豊臣秀頼軍。。。
激突です。
この戦いで豊臣方にあって最大の活躍をしたのは戦国最後のヒーロー・真田幸村です。
最初の戦い・・・冬の陣の後、堀は徳川方に埋められてしまいました。
幸村は、絶対的に不利な中、決戦を迎えます。
3倍の相手に奮戦する幸村。
獅子奮迅の活躍を見せるものの・・・

しかし、その心は揺れ動いていました。
この幸村の抱えていた葛藤とは???

大坂の陣は・・・1614年大坂冬の陣・1615年大坂夏の陣となります。
判官びいき・・・
真田幸村・・・源義経・・・日本人の好きな人たちです。

和歌山県高野山・・・関ヶ原の戦いで西軍に組し敗北した幸村は、大坂の陣までに蓮華定寺など14年間幽閉されていました。
「ここで朽ち果てるのかも知れない・・・」そう思って過ごしていたかもしれません。
老いゆくわが身を悲しむ手紙も残されています。

しかし・・・秀頼と家康の間に対立が生まれ・・・
方広寺の”国家安康”に呪詛が込められていると、徳川方が糾弾し・・・大坂城の明け渡しを要求しましたが・・・
これを秀頼が拒否・・・!!
開戦へ・・・!!と一気に傾きます。
この背景には・・・徳川方と豊臣方の関係が・・・
領地配分で、徳川方の領地は全国の1/3にすぎず・・・多くは家康の勝利に関わったものの、豊臣系大名の領地だったのです。
幕府を開いたものの・・・秀頼の力を無視できない家康。。。
この時、秀頼22歳、家康73歳でした。

豊臣方は、諸国の大名を勧誘し始めました。
幸村にもその知らせが届いたのです。大金と共に・・・!!
関ケ原の時の戦績を高く評価してもらっていました。
この時、幸村48歳・・・。
幽閉生活から脱出するための最大のチャンスでした。

大坂城は、三方を要害に囲まれ、さらに巨大な総掘りを構えた堅固な・・・難攻不落の城でした。
対する家康は、駿府を出て進軍を・・・上京します。

幸村は・・・大坂城を最後の砦として、場外出撃策を訴えます。
が・・・家老・大野治達に握りつぶされ・・・治長は籠城策を取りました。
戦いの経験がないのに軍議を取り仕切る治長・・・
それを目の当たりにした幸村・・・
それでも、籠城戦に備えて真田丸を作りはじめました。

大坂城を徳川20万が包囲し。。。
対する豊臣方は10万。。。大坂冬の陣の始まりでした。
12月4日、真田丸に徳川の軍勢が襲いかかりました。
幸村は、敵を空堀におびき寄せてから反撃する作戦を展開・・・徳川方に大打撃を与えます。
あまりの被害に、それ以後の城攻めを禁じ、代わりに外交によって大坂城の落とす為・・・和議に持ち込みました。
”大坂城の牢人の罪は問わない
 秀頼の領土は安堵する
 堀を(徳川方と)豊臣方で埋める”

この和議は、家康の謀略ではないか?と思った幸村は、籠城の継続を進言します。
12月19日、大野らは、和議を成立させました。
堀を埋め、年老いた家康がなくなる時期を待つ方が上策だと考えたのです。
しかし、徳川方は、わずか1か月で全ての堀を埋めてしまいました。

さらに翌年・・・和議の条件を無視して、秀頼の国替えか、牢人たちの追放を要求してきたのです。

この時・・・幸村の心中もゆれていました。
長野県に、幸村の現存する最後の手紙があります。
そこには・・・
城内では気を遣うことばかり・・・と書いてあります。
主戦派と慎重派で・・・意見が紛糾している中・・・
家康は遂に、諸大名に陣触れを発するのでした。

再びの戦いは確実!!
しかし、大坂城は裸城同然。。。
徳川方の大軍に対処するのは、一枚岩ではない豊臣方・・・
圧倒的に不利な中、幸村は選択を迫られるのでした。

①大坂城を退去
この時、幸村の兄・信之は、大名となり家康の厚い信頼を得ていました。
おまけに幸村にも、寝返るようにオファーが来ていたのです。
しかし、牢人のわが身を引き揚げてくれ、兵を預け、大戦をさせてくれた秀頼。。。
その恩に背くわけにはいかない。。。

②恭順策を進言???
一大名に転落してまで秀頼公を守る???

③家康と決戦・・・
もはや籠城戦は出来ないので、野戦となるのは必然。
そうなれば、兵の少ない豊臣方は苦戦するだろう。。。
しかし、気さくを以て家康の首さえ取れば!!!

当時の宣教師の世情を映す手紙には・・・
「家康が死ぬと、後を継ぐ秀忠は滅びるだろう。
 秀忠は、大名たちに嫌われているため、政権を得られないだろう」

家康さえ討ち取れば・・・徳川は瓦解する???
しかし、寄せ集めの牢人たちで作戦に祖語が生じないだろうか???

戦の機運が高まる中・・・選択を迫られます。
1615年4月4日・・・家康が駿府城を出発します。
徳川方の大軍が動き始めました。
同じ日に・・・決定的な出来事を・・・
秀頼は軍議でこう宣言しました。
「敵が来たなら合戦し、討ち死にせんと思うなり」
この決意が幸村の心を動かしました。

秀頼が、苦しい自分に誇りある生き方を与えてくれた・・・
その秀頼の為に自分は戦う・・・!!

秀頼が戦いに出れば戦意も上がり、勝てる見込みが増えてくるのですが。。。
そして、幸村は、決戦を選んだのでした。
徳川方15万に対し豊臣方5万。。。
夏の陣が始まりました。
5月7日・・・幸村は作戦を提示します。
それは、真田隊がひきつけている間に、奇襲作戦で徳川本陣を襲うというものでした。
この秘策と・・・秀頼の出陣を強く要請しますが・・・
しかし・・・迂回作戦を始める前に偶発的に戦いが始まってしまいました。
徳川方でも大混乱が・・・裏切りがあったと噂が飛び交っていたのです。
幸村は、この機械に乗じて、最後の突撃を敢行します。
家康の旗本たちはちりじりに・・・
家康は、自害を覚悟したと言われています。
ここで秀頼が出てくれば勝てる・・・!!

しかし、秀頼は、側近たちに諌められ、遂に戦場に出てくることはありませんでした。
幸村の秘策はここに潰えたのです。
消耗していく真田軍・・・敗北は決定的でした。

”秀頼公が出てこなかったことが、豊臣家滅亡につながった”と、徳川方の書物にも書かれています。

幸村が最期を迎えたといわれるのが”安居神社”。

一説には、「手柄にせよ」と敵に首を差し出したといわれていますが。。。

槍で組み合い、討ち取られたといわれています。
堂々と戦って亡くなっているのです。

最期まで戦うことを止めなかった男がそこにはいました。

「真田 日本一の兵」
 
戦国史最大の戦いは・・・幸村は、徳川方にも大きな印象を与えたのでした。
幕府は元号を”元和”と改め、太平の世が始まることを宣言します。
戦いが凄惨を極めたのは、幸村のような牢人や大名への統制が甘かったと考えて・・・
武家諸法度を作り、大名や豊臣残党への統制を強化しています。
大坂の陣の苦い経験が幕藩体制を強化していったのです。

江戸時代中期・・・
幸村の評価が変わっていきます。
「主君に忠義を尽くす」ということが最も武士に求められた時代、それまで永久戦犯だった幸村が、豊臣家に最後まで忠義を尽くした武士の鑑となっていったのです。

戦国ヒーローとして。。。


豊臣家のNo,2 真田幸村~家康を震撼させた伝説の武将~はこちら
炎の突撃!真田幸村 戦国最後の華~菩提を超える勇気~はこちら
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今回は、真田幸村さんです。

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真田幸村と申しますと、楠木正成、諸葛孔明と並び称されるほどの名将です。
トレードマークは、真紅の鎧兜、「日本一の兵」と呼ばれています。
戦国武将でありながら、その死後400年間、英雄であり続けています。

そのイメージとは違い、生涯は謎に包まれています。
例えば生まれた年???名前は???

確かなことは、巨大な勢力に立ち向かう、最強一族のDNAが、そこにはありました。
家康が恐れた変幻自在な戦術。。。

そして、壮絶な最期・・・
戦国乱世が生んだ永遠のヒーロー・真田幸村。
その鮮烈な障害の魅力とは???


幸村は、謎だらけ・・・
歴史学者のいやがる研究材料だそうです。

しかし、この謎の男を・・・家康はとにかく嫌がっています。
家康を最も恐れさせた男であることは間違いありません。

その最初の活躍は・・・
大坂冬の陣。

関ヶ原の合戦から14年、天下を手中に入れた家康は、その総仕上げとして豊臣攻めを決定します。

秀頼と淀殿は、かつての臣下に挙兵を求めます。
しかし、それにこたえるものはありません・・・
仕方なく、金目当ての浪人を招集・・・その中に、幸村の姿がありました。

48歳での全国デビュー戦です。

1614年大坂冬の陣が始まりました。
徳川方20万が、大坂城を包囲。

幸村に与えられたのは、5000の寄せ集めの兵でした。
いかに強靭な軍団とするか・・・
武具を赤備えに統一します。
そして、城を守るために・・・
城の南側に、出城を作ります。

天下人・家康が驚愕した、謎の要塞・真田丸!!!
徳川軍は、その異様さに目を見張ります。

その半円形の砦には、10m以上の土塀の上に、防御と攻撃の櫓が交互に設置されています。起動防御・・・
防御と攻撃一体の要塞です。

この砦に、敵を集中させ、一網打尽にしようとします。

おびき寄せて襲撃!!
集中砲火にあった徳川軍・・・合戦全体の8割に及んだと言われています。


幸村の名は、轟きました。

「赤備え」は・・・目立ちすぎる・・・
逃げても目立つ赤で、逃がさないための兵を作ったのではないか???と言われています。


戦国有数のブランド「真田一族」
発祥の地は、長野県上田市です。

その強さの秘密は???

1567年 幸村誕生。
真田昌幸の二男として生まれます。父は、戦で有名な、武田信玄の重臣でした。
情報戦を得意とし、信玄に「我が目」と言わせた情報通でした。

16歳の頃、武田家滅亡。

真田は、織田家の傘下に入るものの、信長暗殺・・・
真田の領地が危なくなりました。

1582年北条氏直と同盟を結びます。
そこに割って入ったのは、徳川家康。
昌幸は、勢力の強くなってきていた徳川につきます。
しかし、家康は、上杉に対抗するために北条と手を結びます。
その時、真田の領地・沼田を勝手に北条に譲ると言い出しました。

昌幸は激怒・・・。
表向きは、家康に恭順を示し、上田城の建設にかかります。

その上田城築城のプロセスとは・・・
築城は、家康に命令させて作らせています。
そして、次の年に寝返ると、対徳川の上杉型の最前線として上田城を城築させているのです。

大勢力を巧みに使って自分の城を築城させたのです。

上田城完成の1585年上杉と同盟。その証に人質として送られたのが、19歳の幸村でした。

裏切られた家康は激怒。
「稀代の大嘘つき」と罵り、「眞田を皆殺しにせよ」と、7000もの軍を仕向けます。迎え撃つ真田軍2000人。
これが、第1次上田合戦です。

昌幸は、陽動戦術で、敵を自軍に引き込み襲撃し、勝利します。
これが、後に真田丸で行われる戦術でした。

ゲリラ戦に長けた真田軍。それは、真田家が持ち続けた土地制度にあります。
秀吉の検地・兵農分離の政策に従わず、中世以来の土地制度を守り続けていました。
武士でありながら、農民。その農民の自衛心。実戦能力を高く買っていました。

「真田の七本槍と言わしめた勇者達は、当家の足軽、百姓なり」
兵農一体の総力戦こそが、真田の強さの秘密でした。

そして幸村は、20歳ごろ、豊臣家へ人質として送られます。
幸村を巧みな外交に使うこと、兵農一体のゲリラ戦、それが、真田ブランドの秘密でした。


父の背中を見て育った幸村・・・。
三大勢力の狭間の地でしぶとく生き残ります。
領地も拡大します。
真田一族を守るために・・・
情報収集をし、戦略戦術の天才だったのです。

そう、この状況下では、強くならなければ生きていけなかったのです。

また、政略結婚も一つの生き残り策です。
兄・信之は、本田忠勝の娘である小松姫を正室に・・・
弟・幸村の側室は、大谷吉継の娘竹姫。。。
つまり、豊臣と徳川とも縁を結んでいました。

そこに深い亀裂が生じます。
「関ヶ原の戦い」です。

天下分け目の合戦前夜、真田兄弟・犬伏の別れです。

1598年幸村が32歳の頃秀吉が亡くなります。
徳川家康が、天下の覇権を握るために・・・

1600年6月上杉征伐に号令をかけます。
7月21日、下野国犬伏に駐屯していた真田に手紙が・・・

「家康が太閤様の掟に背き、秀頼さまをないがしろにしている」

今こそ、家康を討つべき!!石田三成らが挙兵するという内容のものでした。

このまま、家康陣営に残るのか、三成陣営につくのか?

選択を間違えられない・・・

父の出した結論は・・・

「信之は徳川に忠義を尽くせ
 我らは豊臣秀頼様に味方する 
 父子 兄弟が
 敵味方になること
 決して恨みに思うまいぞ」

互いの忠義を尽くそうというものでした。

「豊臣家の御恩は
 浅からぬものがあります
 家の滅ぶべき時
 死すべき時が来たら
 潔く身を捨てることこそ
 武士の本意」

と、幸村が言ったとか・・・。

一族を残すことの大変さを知っている幸村・・・
真田家を滅亡させないために・・・
一族存続をの為の選択かも知れません。


上田城へ帰還した真田親子を待っていたのは、四面楚歌でした。
信濃周辺国は、全て徳川についたのです。
そして、真田が豊臣につくことも、いち早く家康の元へ送られました。

家康は、関ヶ原に向かう途中の秀忠を真田討伐に差し向けます。
秀忠軍は、徳川本隊3万8000。迎え撃つは2500の真田軍。

しかし、ここでも撃退!!
そして、足止めを食らった秀忠本隊は、関ヶ原の戦いに遅れてしまったのです。
家康の怒り、秀忠の恥・・・
秀忠の軍は、徳川の切り込み隊だったのです。
それが使えなくなってしまった・・・
このため、豊臣恩顧の大名・・・黒田長政などの力でようやく勝つことが出来たので・・・
関ヶ原の戦いの論功行賞、没収高の80%を豊臣系の外様大名に与えることになってしまいました。
明治維新にも影響出たかもしれません。。。

このトラウマは、一生残ったと言います。


幸村は勝ったものの、西軍は敗北。
高野山へ流刑となりました。
昌幸は、領地は取りあげられましたが、兄・信幸が継ぎ、真田領は9万5000石となり、一族存続が達成されました。

でも、どうして殺さなかったのでしょう・・・
殺せなかったのでしょうか???

戦国時代の価値観の中で、勇士は殺せなかったことと。
兄・信之の正妻が、本田の娘であったこと。
それが生き残れる道だということを昌幸は知っていたのです。
あらゆる情報を鑑みながら・・・


高野山へ流刑となった昌幸・幸村親子・・・
そんな苦難の中から伝説が生まれました。

高野山の麓にある、和歌山県九度山町・・・
1600年12月34歳の頃に九度山に流刑になります。

それから14年、、、ここで暮らします。
親族に送った手紙には・・・
「長年の山住まいでいろいろ不自由しております
 私なども大草臥れ者になり果てました」

1611年幸村45歳ごろ、父・昌幸65歳で死去。
生活はますます困窮します。

「去年より急に年をとり
 ことのほか病気になりました
 歯も抜け ひげなども 黒いところがあまりありません」

しかし、全く違う幸村の姿も伝えられています。

それは、紀の川で、馬に乗って演習し、体を鍛えたというものです。
頭が禿げて、歯も抜けたというのは、カモフラージュだったのかもしれません。
地元の漁師と鉄砲の訓練をします。

さらに・・・大砲を研究???

謎の14年です。

そこから様々な伝説が生まれました。
江戸時代は、家康を苦しめた事実から、反権力、反権威の象徴とされました。

幸村にはあまりエピソードがないので、作りやすかったのでしょう。
勝手に物語が膨らんでいきます。

そして・・・
この九度山時代の伝説から生まれたのが・・・。

「忍者・猿飛佐助」・・・真田十勇士の一人です。
真田十勇士は、幸村が九度山を抜け出して、諸国漫遊するお話。
来たるべき徳川との決戦の為に・・・

これが、家康をタヌキおやじに定着させたとも言えます。

十勇士は4つのグループからなります。

①ウルトラ忍者・・・猿飛佐助・霧隠才蔵
②強力軍団・・・・・三好伊三・三好清海・由利鎌之助
③はぐれ者・・・・・筧十蔵・穴山小助
④側近・影武者・・・根津甚八・望月六郎・海野六郎

十勇士こそ、実際の真田軍団を示していると言います。
真田一族のゲリラ戦術に必要な忍者。調略やゲリラ戦に巧みな家臣を育てたのです。

上田市・角間渓谷には、猿飛佐助が技の習得に励んだ岩が残っています。
それは、夢のあるお話です。

1614年48歳ごろ・・・豊臣秀頼より招集されます。
参陣を促されます。
この14年の間に培った力と人脈を持って参戦します。

大坂夏の陣、決死の覚悟で臨んだこの戦いで、家康を恐怖に陥れます。
その戦いぶりは、「日本一の兵」「古今これなき大手柄」と言われました。

1614年12月大坂冬の陣和睦成立・・・。

幸村の真田丸が不利だったと気付いた家康は、手立てを考えます。
大坂城内にたびたび文を送り、幸村を寝返らそうとします。

「誠におしい武人だ 
 信濃一国を与えるから 味方にならぬかと 訪ねてまいれ」

幸村は返します。

「たとえ天下を添えて下されようとも 
 秀頼様へそむくような 不義は出来ません」

幸村調略に失敗した家康は、和睦条件として、大坂城の外堀を埋め立て、敵対意思のないことを表すようにと強引な作戦に出ました。

大坂城は丸裸。。。
徳川軍を相手に勝ち目はほとんどありません。

しかし、一縷の望みにかける幸村がそこにはいました。
その執念は・・・
幸村がいつも肌身離さず持っていた小銃・・・最新鋭の武器で、家康暗殺を狙っていました。
火縄銃は、発射までに30秒かかるのですが、8連発できました。

狙撃の危険を感じた家康は、鉄の板を用意したと言われています。

5月7日大坂夏の陣最後の決戦の日。。。
茶臼山に先鋒として構えた真田隊・・・
それを見た家康軍は・・・
「眞田が赤備え つつじの花咲きたるが如く 堂々の陣をはる」

豊臣方の作戦は、真田・毛利隊が家康軍を引き付けて、その隙に別動隊が奇襲攻撃をかける!!!
しかし、布陣が混乱・・・
幸村は、この混乱に乗じて、一気にかたをつけようとします。
幾重もの部隊が重なる家康軍に、無謀とも思える正面突破を繰り返します。

それは、一瞬の勝機に懸けた・・・家康のみを狙った作戦でした。

徳川方は、逃げ出します。

「家康様を守る者は、一人だけにて
 他は散り散りに逃げた・・・」

狙うは家康の首ただ一つ!!
家康の馬印を倒します!!

しかし、家康の援軍に押されて退却します。

ついに、徳川方の西尾という兵士に討たれたと言います。

真田幸村享年49歳。。。

一方、兄・信之は、93歳の天寿を全うします。
真田家は、幕末まで続きました。

晩年兄は・・・

「いわば左衛門左(幸村)は、”本当の侍”であり
 それに比べ我らは 作り髭をして肩を怒らせている
 ”道具持ち”というほどの差がある

 誠に物腰柔らかな男であり
 口数は少なく 日頃いきり立つこともなかった。」

と語ったのでした。


真田幸村の魅力。。。
それは自分を貫くところの痛快さがあるからだと思います。
上田市の山あいに、菩提寺があります。
そこには、祖父幸隆、父・昌幸が葬られています。
しかし、幸村公は、徳川の世にあって、故郷には葬られなかったようです。
墓もなく。。。その死さえも謎のままです。

本当に大人気ですね。黒ハート
カッコいいから仕方ないです。るんるん


「上田の城下町」はこちら

豊臣家のNo,2 真田幸村~家康を震撼させた伝説の武将~はこちら

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やっと、体力が回復してきました。黒ハート

THEナンバー2・天下人を支えた「おかか様」~北政所おね~です。

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1615年大坂夏の陣、栄華を誇った豊臣家は大坂城落城と共に運命を断ちました。
おねは、京都で大坂の空を見上げて
「なんとも申し上げるべき言葉もありません」
と言ったと言われています。

豊臣家に嫁いで54年、この言葉にはどんな思いがあったのでしょう?

名もない足軽からスタートして、知恵と愛嬌で天下の階段を駆け上ったNo,1秀吉。その日本一の出世物語の相方が、No,2北政所おね。

尾張弁丸出しの夫に物申し、数多くの戦国武将を育てた天下を支える母。
しかし、秀吉亡き後は、徳川に加担した悪女とされてきました。その真実は、一体どこに・・・?

天下一の出世男を支えたおね、本人も、足軽から一国一城の主の妻となりました。
その秀吉とおねとの結婚は、当時としては珍しく、恋愛結婚でした。

1561年同じ長屋のひょうきんな男と結婚。その式は、土間に蓆をひいただけの質素なものでした。
秀吉は、織田の家臣として、快進撃を支えていました。

おねは14歳・織田家家臣の足軽の娘として生まれ、引衆・浅野長勝の養女となっていました。
当時の秀吉は、25歳。小者・武家の雑役に使われていて、身分的にもつり合いがとれていたようです。

あけすけで明るい夫婦だったようで、おねは、頭のよい人で、裏方を任せる良き伴侶だったようです。

1566年美濃の斉藤を攻めあぐねていたとき・・・墨俣の一夜城を築いてその勝利への突破口を開きます。
また、夜襲をかけ、念願の近江制覇。

秀吉は、おねに、戦のことを意気揚々としゃべるのが好きでした。
そして、それを楽しそうに聞くおね。あけっぴろげで気さくなその人柄は、偉くなっても変わることがなかったといわれます。

1573年小谷城攻め。
秀吉は、先陣を切って大活躍。その功績に、近江12万石を拝領します。
そして、この琵琶湖のほとりに長浜城を築いたのです。

この長浜城、砦や山城ではなく、政治と商業を司る中枢としての機能としての城になっています。
新しい城下町という町づくりに着手。

広々とした道路、掘割、水路・・・。整然とした町並みを作りました。
その町の区画には、職人や商人たちを移住させ、年貢を減免する措置をとりました。
また、戦に欠かせない、鉄砲集団の育成に力を入れ・・・。
最先端の、町づくりをしました。

しかし、城主秀吉は、すぐに戦地へ・・・。

1577年毛利征伐のため、中国遠征に。
12万石の領国経営はおねに任されました。
辣腕経営者のおね、秀吉の戦国一の懐刀だったのです。

2人は常に手紙でやり取りをしていました。秀吉は常におねに判断を仰いでいたようで、秀吉にとっての知恵袋でした。

また、おねは人材の育成にも着手します。
少しでも見どころのある人間を引き取りました。

尾張では・・・福島正則・加藤清正
長浜では・・・石田三成・増田長盛

などです。

采配を振るって、飯を食わせて、教養を付ける。
みなには、「おふくろさま」と、慕われていました。


秀吉。その戦い方は、知恵のある参謀を使っての調略が主でした。武力によって戦うのは、いたずらに兵を失うだけだったからです。

三木城の干殺しでは、2年にわたって兵糧攻め、高松城では水攻め。向かうところ敵なしの秀吉でしたが、時代は激変。

1582年本能寺の変。
明智光秀の謀反により、信長自害。
秀吉は、わずか6日で取って返し、山崎の戦いであっという間に明智を蹴散らし、天下取りレースに名乗りを挙げました。

その後3年、調略と武力で
1585年見事関白に就任。

自らの権力の象徴として豪華絢爛の大坂城を築城。
おねはこの時から北政所となるのです。

大坂城を築城したものの、秀吉は九州の島津征伐のために兵を出します。
2人を繋ぐのは手紙でした。この手紙、単なるラブレターではなく、政治のホットライン。重要な機密が書かれていました。

例えば・・・。
1587年島津義久が秀吉に降伏。
その時のおねへの書状には・・・。
①島津義久の人質は15歳の娘。
①重臣も十人ほど人質に。
①弟・義弘の人質は15歳の長男
①8歳になる息子も人質とする。

などと書かれています。

「人質」戦略を使い出す秀吉。
この人質の監督管理がおねの役割でした。


京都・聚楽第の周りには、大名屋敷が何十件と次々に出来、「人質」が送り込まれます。
秀忠も12歳の時に「人質」としてやってきます。

秀忠も、北政所が世話をしていました。
以来秀忠は、上洛するたびに、おねを訪ね、折々には贈答の挨拶、お歳暮などを送っていたといいます。
「おかか様」として、情を結ぶのです。

当時の人質の重要性として・・・。
人質とはいえお客様。子供が大きくなると城主になって、天下人を支えられる人に・・・豊臣家を慕うようになるように育てたのです。

つまり、人質とは、教養をつけ、裏切らないように育てる。だから、戦術や礼儀作法まで教えたのです。

黒田長政は、関ヶ原の時、調略して東軍に寝返るように工作をしますが、この時の京での人脈・仲間意識を利用して交渉し、寝返らせるのです。

つまり、おねの役割は大きいのです。
秀忠も、徳川と豊臣が仲良くなれるようにと、育てたのです。
おねがいなければ、秀吉は天下が取れなかったのでは?


そして、最大のライバル淀殿が出現します。
2人の間には様々な噂がありますが。。。2人の真実はどこにあるのでしょう?

1589年鶴松の誕生。ここから確執が生まれるのです。

「二人かかさま体制」の誕生です。
家を守る女性と子供を育てる女性、役割分担が生かされました。

1590年小田原城攻めの時、秀吉は北政所に頼んでいます。
「長い戦になるので淀の者を呼び寄せとうござる」
京を離れられない北政所に代わりに陣中における妻の代わりを淀殿に託したのです。

翌年、そんな3人に悲劇が・・・。
1591年鶴松病没。

跡継ぎをあきらめた秀吉は、甥の秀次に関白職を譲ります。
自らは、朝鮮征伐の指揮官として九州にわたります。
朝鮮での戦いに邁進する日々・・・。
そんな中、思いがけない懐妊の知らせが。。。
秀頼の誕生です。

何としても秀頼に跡を!!
秀吉に暗い野心が灯りました。

自ら位を譲った秀次を高野山に追放。
1595年自害に追い込みます。

豊臣家の将来は?

1598年秀吉が62歳で亡くなります。
北政所にとっては、2人で作ってきた豊臣政権。秀吉の死によって、私は私の道を行こうかしら・・・。と、思ったのかもしれません。豊臣さえ残れば・・・天下一でなくても良いのでは?

淀殿の力が大きくなって・・・おまけに育てた子供たちが反目しだしました。
尾張は武断派、近江は文治派に割れてしまうのです。
朝鮮戦争を戦った尾張派。他国に攻めていって負けたということは、恩賞がありません。その不平不満も、死んでしまった秀吉には文句が言えません。矛先は、石田三成ら近江派に向けられたのです。

しかし、近江派は、朝鮮戦争の用意をしたり、準備をしたり、みんなが帰れるように、兵を退くための用意もしました。「中途半端に戦ったくせに・・・」

この近江派が、淀殿と秀頼方になるのです。

俺たちは排除される・・・追いやられたくない。。。尾張派は、北政所のところに泣きつきに行きました。
相談に乗る北政所。当時五大老筆頭だった家康を頼るように言います。

北政所は、大坂城を淀殿と秀頼に託し、京でひっそりと暮らします。
自分の役割は、夫の菩提を弔うこと・・・。

晩年に建立した高台寺には、御膳・スリッパ・杖、ゆかりの道具や衣装が数多く残されています。
しかし、時代は静かな生活を脅かします。

天下をめぐる争いが・・・。虎視眈々と家康が狙っていました。
秀吉と北政所が育てた小早川秀秋・福島正則・加藤清正は、にわかに権力を振るい始めた石田三成に反発していました。

家康はこれを利用して、内部から切り崩しにかかります。
東軍につくか、西軍につくか・・・。水面下で激しい攻防が繰り広げられました。

北政所のところにも、次々相談にやってきました。その中に、小早川秀秋の姿もありました。
豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった! 天下に愛された女・おねの生き様に秘められた真実
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周りの武士は、北政所を味方につければ「使い道」がある。北政所には逆らえない。。。
そこを突いたのが、策士・黒田長政でした。

いち早く徳川に味方した黒田長政。黒田長政も、北政所が家康に動きかけているのを察知して、小早川に揺さぶりをかけます。

「徳川方につくことを早々に決断されよ
 われわれ北政所様に恩義がある者は、それこそがお心に従うことだとわきまえよ」

東軍につくように勧めます。

1600年関ヶ原の戦いの火ぶたが切って落とされました。
しばらくは互角に見えましたが、小早川の1万5千の軍が東軍へ寝返ります。

これを機に、西軍は総崩れ。わずか1日にして幕を閉じたのです。
このことからも、北政所が天下を大きく左右したと言えるでしょう。

この戦いに豊臣が負けた一番の要因は、尾張閥・近江閥が一致団結していれば・・・。
奥の秩序が保たれていれば・・・。ということに尽きるのではないでしょうか?

事実、北政所は、石田三成に追い出されたような節がありました。

秀吉と最後まで相思相愛だったおね。秀吉の死後は、抜け殻のようになって、思い出に生きたようです。

秀吉辞世の句はあまりにも有名です。

「つゆとおち
  つゆときえにし
    わがみかな
 なにわの事も
    ゆめのまたゆめ」

1615年大坂城落城の折、豊臣家も滅んでしまいました。

たったひとこと

「大坂のことは
  なんとも申し上げる
    言葉もございません」

高台寺霊屋には仲良く二人の木造が並んでいます。
日本一のおかか様はいま、夫婦ゆっくり暮らしているのです。


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