日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大塩平八郎

政治に不正がはびこれば、名もなき民でも黙っていない・・・
いまからおよそ180年前、大事件が大坂で起きました。
腐敗した幕府の政治に大坂の民が物申す!!300人もの農民たちが、幕府側と対立!!
天下の台所は火の海と化しました。
事件を知った幕府の上層部は驚愕します。
その首謀者の名は、大塩平八郎!!
かつては江戸にもその名を知られた大坂の元与力でした。
時は未曽有の飢饉が起こった天保の時代・・・
庶民の命と生活が脅かされる一方・・・大坂では役人たちの不正が横行・・・!!
幕府の信頼は、地に落ちようとしていました。
大塩は立ち上がります。
私利私欲に目がくらんだ役人たちを誅伐し、商人たちから金や米を奪って人々を救済せよ・・・!!
この救民の思いが、大坂炎上の大波乱へと掻き立てました。

天保8年・・・1837年2月19日早朝・・・大坂の町に大砲の轟音が響きました。
大塩平八郎の乱です。
大塩たちは、商人たちの蔵屋敷に次々と火を放ち、大坂城下の1/5を焼け野原にしました。
それは、島原の乱から200年の時を経て、太平の時代に起きた一大事件でした。
しかし、大坂城代の鉄砲隊の攻撃により、軍勢はもろくも崩壊・・・
大塩の反乱劇は、わずか半日で鎮圧されたのです。

大塩の乱はどうして起きたのでしょうか??
大塩平八郎の「檄文」・・・
決起の直前に大坂近郊の村々に撒かれたという声明文です。
2000字を超える長文の中には、大塩の政治に対する激しい怒りが込められていました。
この檄分の中に、大塩の乱勃発の直接の引き金となった出来事が書かれています。
それは、江戸への買い米です。
大坂の蔵屋敷に合った大量の米を幕府の役人が江戸に送ってしまったというものでした。
当時日本は、天保の大飢饉で都市部は混乱、農村では餓死者が後を絶たない極限状態が襲っていました。
飢饉の被害が深刻になった天保7年、幕府は将軍の代替わりの式典を理由に大坂の米を江戸に移すように指示。。。
町奉行は幕府の命令を受け入れ、大量の米を江戸に送ってしまうのです。
大坂支柱にも餓死者が出ているのに、米を分け与えずに江戸に送るのか・・・??
大塩は、為政者にあるまじき行いだと強い想いを抱いたのです。
激しい怒りはそれだけではなく・・・
江戸時代、天下の台所といわれた大坂は、全国の大名から米が一堂に集まり、それを売り買いする商人たちの活気で溢れる大坂は、日本経済の中心でした。
米の取引がもたらす大坂の富は、鴻池、住友などの豪商を生み、その利益に預ろうと全国から商人たちが集まりました。
しかし、金のあるところに不正がはびこるのは世の常・・・
儲けたい商人たちは、幕府役人と結託し、賄賂や口利きが横行していました。
役人も賄賂を受け取り、不正を隠蔽・・・水面下で横行していた腐敗の構造を、大塩は現役与力の時代に知ってしまうのです。
役人たちは民を救うことには目もくれず、私利私欲に不正に手を染めていきます。

天下りの城代、東町奉行、西町奉行、幕閣の人々・・・
幕閣中枢の人々は、大坂に下ってきて賄賂をもらい、江戸で勘定奉行などの役職についていました。
大坂での賄賂で江戸で出世の道が開けるのです。
政治の公正さ、公私に対する怒り・・・
当時、上級役人は、大坂で数年勤めあげた後、江戸に戻れば出世が約束されていました。
商人と結託して手に入れた賄賂は、出世のための政治資金・・・
その不正の闇を、大塩は与力の職を離れた後も、許せなかったのです。

幕府への反旗を掲げ、決起した大塩平八郎・・・その大塩に命を捧げ立ち上がったのが陽明学を学んだ大塩のもとで陽明学を学んだ私塾の門人たちでした。
大坂天満に私塾「洗心洞」がありました。
江戸でも一目置かれる陽明学者であった大塩の教えを乞おうと城下の若い与力、同心やその子息たちが集まったといいます。
大塩の教えを学んだのは武士だけではなく、大坂周辺の農民たちも参加しました。
中でも村を取り仕切る豪農の若者たちが、大塩と一緒に寝食を共にし、陽明学を学ぶ日々を送っていました。
この大塩の門人となった農民たちが武装蜂起に大きな役割を果たすのです。

どうして農民たちは大塩の乱に加わったのでしょうか?
大塩の門人となった門真のある農民・茨田郡士が残した記録には・・・
茨田の結婚に当たってはお祝いを、父親が亡くなった時には香典をとあります。
大塩と門人の間で冠婚葬祭の報告があり、大塩は家族同然の付き合いを求めていたといいます。
結果、大塩の乱へと発展していくのです。
大塩は、門人を受け入れる際に、いくつかの約束を交わしています。
その一つが、たとえ私生活であっても問題があれば、大塩に相談するようにとしていました。
日ごろから付き合いのあった農民たちから惨状を知ることになったのでしょう。
天保の大飢饉は、門真の農村にもかつてない窮乏をもたらしました。
指導者的立場にあった茨田たち豪農は、農民たちに無償で米を分け与え、なんとか村を支えようとしたが、村は、崩壊の危機に瀕しました。
しかし、幕府はそんな農村を救うどころか、将軍の式典に必要だからという理由で江戸へ大量の米を送っていたのです。
この時、茨田たち豪農も借財を背負い、身動き取れませんでした。
一体誰が村の窮状を救えるのか・・・??
そして、大塩のもとで学んだ者たちが立ち上がるのです。

農民たちは大塩の檄文を農村に撒き、騒動が起こるので生活に困窮しているものは城下に集まるように触れ回りました。
檄文には、決起に参加しなければ、金持ちたちから金や米を取り損ねることになると急き立てるような言葉もありました。
大坂近隣の農民は、庄屋・年寄・小前百姓まで立ち上がれ!!
ここに、幕府に対して名もなき民衆が立ち上がることとなったのです。
しかし・・・門人と農民たちが決起した戦いは、幕府方の一撃で瓦解・・・。
わずか半日での敗北となるものの、大塩の行動は全国の民衆たちの心を強く突き動かしていきます。

民衆のために立ち上がった大塩・・・近年資料が発見されました。
その資料は、決起直前に江戸の幕閣に送ったといわれる極秘文書です。
「大塩平八郎建議書」・・・
これは、当時の韮山代官が書き記した極秘文書の写しです。
そこには、恐るべき幕府の不正の実態が記されていたのです。

不正無尽と呼ばれた金銭詐欺の取調書・・・
庶民がお金を出し合うシステムを利用した巨額の詐欺行為の告発でした。
不正無尽とは、胴元と呼ばれる元締めが町人から金を集め、くじ引きによってその金を配当。
その際に、胴元が不正に高い手数料をせしめているというものです。
仮に大名が不正無尽に関わっていれば、改易も免れないというものです。

その不正無尽になんと老中をはじめとする老中など幕府中枢が大阪商人と結託し、手を染めている・・・!!
大塩はその驚愕の不正実態を告発したのです。
大塩は、与力の頃から丹念に調査を進め、不正に手を染めた幕閣たちの手口も暴露しました。
その手口の一つが大久保出雲守忠真・・・
大久保は、大坂の証人を世話人にし、90人3組、合計270人もの参加者を集めた不正無尽を主催。
3年がかりで9回のくじ引き配当をを行い、その結果、大久保のもとに不当な利益が舞い込むことになりました。
大塩の調査によると・・・716両設けています。
現在の価値にして1億円という巨額なものでした。
こうした不正無尽に大久保以外にも4人の幕閣が手を染めていることを言及・・・
その中には、後に天保の改革を行う水野忠邦の弟も名を連ねていました。
さらに、京都の公家、寺社仏閣も大坂での不正にかかわっていたことを非難しました。

しかし、大塩の建議書は、数奇な運命をたどります。
決起前日に江戸に送りますが、江戸に届いた時点では、幕府は大塩反乱の一方で大混乱に陥っており、建議書を大坂の奉行所へ送り返してしまいます。
飛脚で大阪に戻る途中に盗賊に遭い、建議書は伊豆の山中に捨てられました。
それを通りがかりの村人が発見!!
韮山代官・江川英龍に届けられると、中身を知った江川は驚愕し、急いで写しを取り再び江戸に送りました。
一度は大塩の建議書の受け取り拒否をした幕府・・・大塩の告発は、幕閣たちを思わぬ窮地に追い込みました。

おそらく江戸の幕閣は建議書の中身を見ている・・・
しかし、見て見ぬふりをしていたと思われます。
長年封印され続けてきた大塩の告発・・・
幕府中枢の不正を暴いた密書を、どうして決起直前に江戸に送ったのでしょうか?
その直後、大坂を火の海にした真の目的とは・・・??

救民の旗を掲げ、大坂城下を火の海にし、一方で建議書を提出し、幕政の改革を訴えた大塩平八郎・・・
幕府方の攻撃によって総崩れとなった大塩は、その後意外な行動に出ます。
それは逃亡です。
息子とともに、忽然と逃亡・・・
大塩逃亡の一報を受け、幕府は全国に人相書きを配布
建議書を写し取った江川のもとにも届けられました。
幕府の威信をかけ大捜索が行われました。
その間、反乱に参加した門人や農民が次々と捕縛され、大塩は姿をくらまし続けます。
どうして逃亡を続けたのでしょうか?
一説には、江戸の幕閣が建議書によって政治改革に動き出すか、自分の目と耳で確かめたかったからだ・・・とも言われますが、定かではありません。
そして1か月のち天保8年3月27日・・・大坂城下に潜伏していることが判明・・・
隠れ家を囲まれると、大塩は持っていた大量の火薬に火を点け、息子と共に爆死・・・
壮絶な最期でした。

天下の台所・・・大坂を焼いた大塩平八郎の乱。
それは江戸時代の日本に大きな衝撃を与えていきます。
大坂では大塩の乱をきっかけに大規模な農民一揆が勃発!!
大塩の行動に共鳴した民衆たちが民を救おうとしない幕府に対し、各地で武力蜂起!!
不穏な気運を払拭したい幕府は、事件の4か月後には捜査を開始。
大塩の門人、農民ら750人余りを取調べ、翌年裁決します。
その評決文の中で、幕閣は大塩を貶めるために、スキャンダラスな情報を載せます。
それが、大坂の一部の与力の反発を買いました。
与力をはじめとする役人たちからも幕府に対する違和感がふつふつと生じ始めていました。
大塩の乱の後、水野忠邦が天保の改革を行いますが、失敗・・・
幕府が終焉の時を迎えるのは、大塩平八郎の決起から30年後のことです。


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時代は幕末から明治へ・・・
戊辰戦争、破竹の勢いで進軍する新政府軍に立ちはだかった男がいました。
越後長岡藩士・河合継之助です。
最新兵器ガトリング砲や近代兵器を使って徹底抗戦し、新政府を苦しめました。
郷土を荒廃してまで戦った河合継之助・・・どうしてなのか・・・??
越後の蒼龍と恐れられた男、河合は新政府軍との戦いの先に、何を見ていたのでしょうか?

江戸時代、越後長岡藩7万4000石の城下町として栄えた新潟県長岡市。
1827年、河合継之助は代々藩の勘定方を務めた中級藩士の家に生れました。
河合は若くして勉学に精進します。
藩校での音読中心の勉学では飽き足らず、感銘を受けた書物は一文字一文字写して体得することを心掛けました。
中でも心酔したのは王陽明の陽明学でした。
その思想は、学問を実際の行動に生かす知行合一です。
当時、陽明学の実践者として世に知られたのは、幕臣の大塩平八郎・・・貧民救済のための反乱を起こしたのは、河合が11歳の時でした。
17歳になった河合は誓いを立てます。
”十七 天に誓いて 輔国に擬す”
国のために力を尽くして働く・・・と。
陽明学が、長岡藩のためになると思っていたようです。

17歳の河合が誓いを立てた年、長岡藩を揺るがす大事件が・・・
藩が管理し、日本海海運の要として栄えていた新潟湊・・・各地からの物資に紛れ、中国からの密貿易が発覚!!
そのため長岡藩は、政府に新潟湊を没収されてしまったのです。
湊での商取引から税をとってた長岡藩は、収入減を失います。
河合の誓いは、何の行く末に対する強い危機感からでした。
案の定長岡藩は、6年後には23万両の赤字をだし、財政危機に陥ってしまいます。
藩の再建を一途に考え続けた河合・・・この後、時代の大きなうねりが彼を表舞台へと押し出していきます。

1853年6月、ペリーが黒船を率いて浦賀に現れ日本に開国を求めます。
この時、長岡藩主牧野忠雅は、譜代大名として老中を務めていました。
牧野は未曽有の国難に対する対応策を若手藩士たちに求めます。
河合も意見書を提出・・・これが藩主の目に留まり、初めて藩で役職をもらうこととなります。
藩の重役会議に列席し、意見を述べる機会を与えられた河合・・・。
ところが、席上・・・面と向かって重役たちを批判し激怒させてしまいます。
さらに、藩主の跡継ぎ勉強を教える役に任じられると・・・教えるために学問を学んでいたのではないと断ってしまいました。

1858年、旧態依然とした長岡藩を離れ、遊学の旅に出ることを決心します。
西国にどうしても会いたい人物がいたのです。
天空の城・松山城で知られる備中松山藩・・・石高は5万石でしたが、実高は2万石の小さな藩でした。
慢性的な財政年に陥り、一時は10万両もの借金に苦しみました。
これを立て直したのが、松山藩参与陽明学者の山田方谷でした。
河合は方谷から、藩政改革の極意を学びたいと願いました。
河合の旅日記「塵壺」・・・方谷に面会した日、書留がありました。

封建の世、人に使われること出来ざるは ツマラヌ物

能力があっても藩に使われなくては意味がない・・・
方谷は、藩士としての心得を伝えます。
方谷が藩政改革で力を注いだのは”備中鍬””松山きざみ”など、特産品の生産を領民たちに奨励することでした。
これを藩が買い上げ、領民たちが潤います。
松山藩では、この特産品を江戸に運び、商人を介さず、藩士が自ら販売して大きな利益を上げていました。
方谷は生産性をあげ、武士が自ら経済活動を担うことで、藩全体が豊かになるシステムを作りました。
そして藩の再建を成し遂げたのです。

民は国の本
吏は民の雇い

民衆は国の基礎であり、役人である武士はその雇われ人に過ぎない

江戸時代の身分意識にとらわれない画期的な考え方でした。
方谷から、財政立て直しの秘訣を学んだ河合・・・
長岡に戻り、いよいよ藩政改革に腕を振るうこととなります。

1860年3月、河合が方谷のもとで研鑚を積んでいた頃、幕末の政局を動乱に巻き込む大事件が起こりました。
桜田門外の変です。
開国に反対する攘夷派を弾圧した大老・井伊直弼が暗殺されたのです。
これによって幕府の権威は失墜・・・以後各地でテロ事件が頻発します。
京都では朝廷と結びついて政治の実権を握ろうとする薩摩藩や長州藩が暗躍し、時代は大きく動こうとしていました。
河合は藩主にその行動力を認められ、郡奉行に抜擢されます。
いよいよ藩政改革の重責を担うこととなります。
目をつけたのが、領内を流れる信濃川・・・流域で水害が頻発し、耕作地に甚大な被害がでていました。
河合は治水工事を完工し、米の増産に成功します。
さらに、藩内の流通にも大胆な手を打ちます。
重要な財源だった信濃川の通行税を廃止します。
人や物の往来を促進し、商業が発展するという考え方です。
独占していた商売を開放し、藩への届け出だけで新規参入できるようにしました。
生産性をあげ、流通を促進し、経済を活性化する・・・方谷に学んだ河合の改革によって、わずか2年で10万両を蓄えるようになります。
河合の藩政改革が実り始めていた頃、中央は激動の時代となっていました。

1867年10月14日、大政奉還
     12月9日、王政復古の大号令

新政府は天皇を中心とする新政府樹立を宣言します。
新政府と幕府の対立は強まり、一触即発の状態に・・・!!

内乱の危機を察した河合は京都に向かいます。
長岡藩として朝廷に意見書を提出するためでした。
河合直筆の草稿が残されています。
そこには、内乱を防ぎたいという強い想いが認められていました。
譜代藩の立場から、河合は徳川の政権復帰を提案します。
しかし、朝廷はこれを黙殺・・・
そして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦い勃発
近代兵器を豊富にそろえた新政府軍を前に、旧幕府軍は歯が立ちませんでした。
江戸に戻った河合は、長岡藩邸に会った美術品や茶器を売り払い、その金で横浜の外国商人から近代兵器を購入します。
なかでもアメリカ製のガトリング砲は、1台で歩兵100人分に匹敵するという割れた機関銃でした。
河合はこれを2台購入し、戦乱に備えます。

鳥羽・伏見で圧勝した新政府軍は、三手に分かれ、錦の御旗で諸藩を恭順させながら東へ進軍・・・
江戸の旧幕府勢力を一掃し、会津、東北諸藩と戦端を開こうとしていました。
その途中、北陸道を進む新政府軍は、長岡藩に恭順を求めます。
新政府軍に参加するか、軍資金3万両を供出せよというものでした。
長岡藩の重役たちの意見は割れます。
恭順か抗戦か・・・議会は紛糾し、返答は先延ばしに・・・。
業を煮やした新政府軍は、長岡に向けて侵攻開始・・・
4月27日、長岡藩に隣接する小千谷に進駐・・・長岡城までわずか17キロ・・・!!

この日、河合は家老上席・軍事総督に任命され、名実ともに長岡藩の全権を預かりました。
そして藩士たちに、交戦でも恭順でもない新たな考えを伝えました。

「勤王佐幕の論外に立ち 封土を鎮撫し 十万の民を治め以て 上は朝廷および徳川氏に対し忠実を尽くし 下諸侯たる責めを全うする外なし」

それは、新政府にも旧幕府にもつかず、武装したまま中立を保つという宣言でした。

1868年5月2日、新政府軍と直接交渉する為に、小千谷の慈眼寺を訪れた河合・・・
その時に使われた部屋が残っています。
新政府軍幹部と対峙した河合・・・
自分が必ず東北諸藩を説得すると時間の猶予を乞い、新政府首脳部に向けた嘆願書を差し出しました。
そこには、河合の目指す理想の国家像が書かれていました。

10万もの領民が安心して仕事に励み、藩全体が豊かになるよう努めることが、私の天職です。
長岡のような小さな藩でも、倹約に努め、産業を起こせば海軍を持てるようになるでしょう。
それなのに、戦争によって領民を苦しめ、農業を妨げ、国を疲弊させるのは、かなしむべきことです。
今こそ、日本国中で協力し、世界へ恥じない強国を作るべきです。

河合が訴えようとしたことは、長岡藩の中立だけではなく、全ての藩が富国強兵に努め、国全体を豊かにするというものでした。
しかし、新政府側は、軍備を整えるための時間稼ぎだと決めつけ、わずか30分で立ち去りました。
河合の信念を込めた嘆願書は、受け取ることさえ拒否されたのです。
窮地に立たされた河合・・・

新政府に恭順し、会津討伐に加われば、長岡が戦場になることはない・・・
それとも・・・強引な新政府軍に徹底抗戦する・・・??
ガトリング砲を始め、最新兵器をもってすれば、数か月は持ちこたえることができるはず・・・
雪の季節まで持ちこたえることができれば、勝機も見えてくる・・・??
諸藩も味方に付くかも・・・??
それまでに長岡が戦場となれば、多くの領民が犠牲になってしまう・・・。
中立する・・・??
徳川譜代の長岡藩が、核版図の調停役を買って出れば、新政府にとっても悪いことではないはず!!
どうにかして嘆願書を新政府首脳部に・・・!!

交渉が決裂した翌日の5月3日・・・河合は新政府軍本陣をたずね、再交渉を願い出ました。
中立を貫くことを選んだのです。
しかし、河合の懇願が取り次がれることはありませんでした。
諦めきれない河合は、他藩に仲介を頼みましたが、結果は同じでした。
河合は心を決めます。

此上は君国の為に一藩を挙げて奸賊を防ぐの外途なし

最早、新政府軍と戦うしかない・・・!!
しかし、長岡藩邸1300人に対し、新政府軍はおよそ3倍の4000人!!
兵力の差は歴然でした。
河合は新政府軍と対立する東北諸藩と軍事同盟を結びます。
5月10日、両軍が衝突・・・北越戦争が始まりました。
新政府軍は信濃川の対岸から大砲を撃ちかけ、長岡城下に突入!!
長岡城に陣取った河合は、自らガトリング砲を操りこれに応戦!!
しかし翌日、河合の奮戦虚しく、新政府軍によって長岡城は落城します。
最新兵器をもってしても、新政府軍の物量攻撃には抗いきれませんでした。
しかし、河合は諦めず、地の利を生かしたゲリラ戦を展開!!
領内各地で新政府軍を苦しめます。

7月24日、深夜・・・河合は長岡城奪還の奇襲作戦を試みます。
城の裏手に広がる沼地を胸にまでつかりながら6時間行軍し、早朝・・・
攻撃を開始します。
不意を突かれた新政府軍は大混乱に陥り敗走!!
この時、城を守っていた新政府軍の兵2500に対し、河合の兵はわずか700でした。
河合は兵力差をものともせずに、長岡城の奪還に成功したのです。

しかし、この戦いには大きな犠牲が伴っていました。
河合が左足に銃撃を受けたのです。
河合重傷の報せに長岡藩兵の士気は一気に低下・・・
かたや新政府軍は時を置かず猛反撃!!
新政府軍は、各地からの援軍を加えて3万に膨れ上がっていました。
4日後・・・城は再び新政府軍の手に落ちました。
3か月に及んだ北越戦争で、長岡の町は焼け野原となってしまいました。

河合は長岡藩兵の残兵と会津を目指します。
自力で歩けないために、担架で運ばれながら、80里越えという国境の険しい峠を超えました。
道中、日に日に傷が悪化した河合は、会津の塩沢村に身を寄せます。
今もこの地に河合が最期を迎えた座敷が大切に残されています。

1868年8月16日、この部屋で河合は42年の生涯を閉じました。
塩沢村の人々は、河合の死を悼み、墓を立て弔います。
しかし、墓石に河合の名はありません。
追撃してくる新政府軍に墓を暴かれないためでした。
賊軍の罪人・・・河合は日本の未来を見据えた構想を抱きながら、賊軍の将として世を去りました。
敗走ちゅうの峠で句を詠んだといます。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

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天保8年2月19日午前8時。。。
徳川の世が始まって230年、太平の眠りの中の大坂で・・・
突如、号砲が・・・
乱が始まりました。

リーダーは、大坂町奉行所元与力・大塩平八郎。。。
その矛先は、腐敗した幕府官僚・暴利をむさぼる商人たちに天誅を!!

民を救えと決起します。
世にいう「大塩平八郎の乱」です。
この時代江戸後期は、写楽・歌麿が活躍した”パックス・トクガワーナ”と呼ばれる時代。
幕藩体制を支える元役人が起こした乱に、幕府は驚愕しました。

大塩平八郎は、強大な幕府軍の前に会えなく敗北しましたが、一地方役人の決起に大坂庶民は喝采を送ります。
何故勝ち目のない決起を起こしたのか?

その謎は、伊豆に・・・
28年前に発見された幕閣への密書の写し・・・
そこには、幕府エリート官僚を巻き込んだ一大疑獄がありました。

長く続いた太平の世に、元大坂役人が起こした反乱です。
そこから見えてくるのは、江戸時代の終焉と、明治の幕開けでした。

この乱。。。どんな世の中に、何を訴えて行ったのでしょう?
それは、日本の官僚制度のドロドロした部分を暴き出したということでしょうか?
これをきっかけにして、30年の幕末、明治維新の始まります・・・
体制側の人間なので、人々にとっては、単なる庶民のヒーローではありませんでした。

大坂生まれの大坂育ちの大塩平八郎。。。

この天保年間は、地震や飢饉・・・
多くの自然災害が続いた国民が、大変つらかった時代でした。

大坂は、天下の台所と言われ、日本の経済の中心地でした。
幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられます。
祖父のあとを継いで14歳から与力見習いとなりました。

当時の大坂の町奉行西と東に分かれており、与力30人、その部下である同心は50人でした。
上士に媚びる役人の多い中、正義を貫く清廉潔白で庶民に人気がありました。

菓子折り(付け届け)を持ってこられた時も・・・
「こんなことを許しているから町方に付け込まれ、吟味がなかなか進まないのだ!!」
と怒ったと言います。

当時は、賄賂が横行していたのです。

大塩平八郎は、少し堅物でしたが、優秀な与力でした。

大坂に大塩あり!!と言われた事件が・・・

①キリシタン逮捕事件・・・1827年解決
怪しげな宗教団体を、キリシタンとして摘発しました。

②破戒僧処分事件・・・・1830年解決
寺の中で、とばくをしていた僧・他50人を逮捕しました。

③大坂で横行していた殺人・強盗・・・
その組織犯罪のリーダーは、大坂西奉行所筆頭与力”弓削新右衛門”。
役人の立場を利用して犯罪を行っていました。
せしめた金は、3000両(6億円)。
その手下を摘発し・・・本人も自害となります。

その翌年、38歳で、突然辞職しました。
与力の限界を感じていたようです。

キャリアVSノンキャリの戦いです。
大塩平八郎はもちろんノンキャリ。

大坂城代・京都所司代は、重要拠点に置かれた大臣のようなもので・・・
江戸から来る人は、大坂町奉行⇒若年寄(江戸)・城代⇒老中・・・とキャリアアップしていきます。
与力は、大坂で採用され、大坂で職務する・・・。
江戸に行ったり、昇格することはありません。

その差は大きく、大塩は出世できない。。。
有能さゆえの下級役人の辛さ・・・

フラストレーションがたまる一方でした。

「幕府の重職でなければ、十分に思い通りには出来ない。
 与力はゴリゴリだった・・・。」

大塩平八郎は、与力を辞め、塾(洗心洞)を開きます。


乱まであと7年。。。
38歳で役人を辞めた大塩は、何を考えていたのでしょう???

この大塩の辞職のきっかけは、上司の高井実徳が転属したことにもあったようです。
理解してくれる上司の転属・・・それを機に隠居。
現役よりも、本当にやりたかったこと(教育者)に専念したのです。

彼の考え方の基礎となったのは、王陽明の陽明学。
「知行合一」旨とします。
知識と行動は別々ではなく、行動に移してこそ知識の意味があるというものです。

大塩が町奉行を辞職して3年、日本中を天保の大飢饉が襲います。
その惨状は、目を覆わんばかりでした。
大坂だけでも毎日200人の死者が出たそうです。

さらに、大塩決起の1年前には打ちこわしが相次ぎます。
庶民の窮状を見かねた大塩は、奉行所に対策を進言します。

「米不足とは言っても、大坂には全国から米が集まっている
 その多くは、商人が売り惜しみをし、蔵にため込み
 値を吊り上げようとしている。
 商人に蔵を開けさせ、米を分け与えるよう指導してはどうか。」

しかし、キャリア官僚・大坂東奉行所・跡部山城守良弼は・・・
「元与力の分際で何を言う!!
 身分をわきまえろ」
と言いました。。。

さらに・・・
大坂町奉行所は、江戸に米を横流しし、幕府中枢のご機嫌をとり、出世の点数稼ぎにしていました。

憤慨した大塩は、決意します。
蔵書をすべて売り払い、救済金を捻出。
その金額は、620両、現在の1億3000万に当たります。

大塩は、お金の引換券を渡します。
「天満に火事あらば、必ず駆けつけよ」
と、言い添えたそうです。

機は、熟しました。
檄文を村々に配布します。
版木は細かく分割され、それ一枚では何が書かれているのか解りません。
一枚の板にすることによって、文章がわかるというものになっていました。
極秘裏に進められていました・・・。

決起予定日は、天保8年2月19日。。。

この「怒り」の真意は???
徳川幕府は、国民の政府ではない。。。
市民のための政治を!!という怒り。

腹が減って一揆を起こすのではない。
米を投機対象として見ている商人たち・・・
そこに見えてくる不条理・不公正が見えてくるので立ち上がるのです。

天保8年2月19日。
この日は、新しい東西両奉行が挨拶回りをする日でした。
2人を襲撃する絶好のチャンスでした。

午前8時・・・。
耳をつんざく大砲の音とともに、大塩平八郎の乱が起こります。
当初、目指すは東西町奉行所でした。
が、事前に情報が漏れてしまい頓挫。。。

有力商人の家に向かい、火を放ちます。
「救民」という旗のもと、天満の町を大砲とともに練り歩きます。
街に上がった火を見て、農民たちが立ち上がります。
その人数、300人に膨れ上がっていました。

もはや、奉行所の手に負えません。
幕府軍と淡路町で衝突!!

幕府軍は、大塩たちに発砲!!
民衆は、びっくりして散り散りに逃げてしまいます。

午後4時・・・。
大塩の蜂起は、わずか8時間で鎮圧されてしまいました。

大塩と息子の2人は行方知れず。。。
元地方役人の反乱は、終わったかに見えました。

事件は思わぬ方向へ・・・。
大塩は、事件直前に、幕府に密書を送っていました。
一大不祥事の告発でした。

密書は3通。

うち二通は・・・
昌平坂学問所・林述斎、水戸藩藩主・徳川斉昭宛てでした。
ときの幕府に大きな影響力を与える人物です。

老中6人のうち、4名までもが不正に関わっていたことを告発していたものです。
それは、「不正無尽」という詐欺行為でした。

その構造は・・・
胴元が、多くの人からお金を集めます。
くじのかたちを以て配当するというものですが、不当に高いマージンを胴元がとっていたというものです。

<一例>
出資   270人×9両   =2430両
配当   1等  23両
     2等  12両  =1723両3分
     3等  5両
     4等  2両
手数料          =706両1分

それを老中たちが黙認。

それどころか、胴元から上納金をせしめ、私腹を肥やしていたのです。
大塩は、丹念に帳簿を調べ上げていました。

この「不正無尽」は、大坂町奉行所の役人が差配、疑惑は、かつて赴任していた幕府の上層部にまで及びました。

しかし、この「不正無尽」については、根深いものがあり、大名たちはこの不正蓄財で芸者遊びをしていたわけではなく・・・
当時のキャリア官僚の家計も苦しかったのです。
老中に上がるための運動資金がありません。。。
そんな藩財政補填の面もあったのも事実です。


大塩の告発に対する幕府の反応は・・・

「一切 返答なし」でした。。。

この密書は、一旦江戸に届いたのち、大塩の元へ帰されることになります。
しかし、その途中に盗まれてしまいます。
伊豆山中で拾われて、写しがとられ・・・今から28年前に発見されたのです。

この密書で大塩の評価が変わりました。
エリート官僚に大打撃を与える可能性があったということです・・・。
御家人が、老中に意見が出来ません。もみ消し以前の問題でした。

そこには、大きな身分制度の壁がありました。
届くはずのない書状だったのです。

大塩が消えた!!

大捜索が始まります。
その捜索に白羽の矢が立ったのが、剣豪・斉藤弥九郎でした。
斉藤は、大塩を斬るという密命を帯びていました。

しかし、大坂では大塩は大人気!!

「大坂の民は、たとえ大塩の首にかけられた懸賞金が100両から1000両に上がっても、
 大塩を差し出すつもりの者はいない」

当時江戸にいた平戸藩9代藩主松浦静山もこの乱に衝撃を受けました。
乱の一部始終を書き留めていました。

町民たちは、大塩を太閤秀吉になぞらえて、英雄視している。と、書かれています。
大塩は実は死せず、船に乗り清国へ・・・という噂までありました。

乱から40日余り・・・
御用となる・・・?
持っていた火薬で、息子とともに自害しました。

その遺体は、同志とともに、磔の形となりました。

しかし、逃げ回っていたわけではありません。
東大阪にある潜伏先で、江戸から聞こえてくる幕府の人事刷新を待っていたと思われます。

大塩は、その噂を聞くことが出来たなら・・・本望だったのです。


しかし、最近の研究で、大塩は、水戸藩に抜け米を送っていたことが解りました。
江戸の儒学者山田山川の日記によると・・
「水戸侯は、一斎へたのみて
 大塩にたのみ
 六万両の米を買わせたり」
とあるのです。

もしかすると、大塩は、敬愛する徳川斉昭を頼りに、幕府の人事刷新を願っていたのかもしれません。


大塩平八郎の乱から175年・・・
その大塩の本当の想いは、どこにあったのでしょうか?


どうだったにせよ、下剋上の扉が開いた瞬間であったことには違いありません。

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大塩平八郎の乱―精神科医が診た歴史上の事件

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