日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大政奉還

徳川慶喜家にようこそ―わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔 (文春文庫)

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江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜。。。
慶喜といえば、大政奉還によって幕府から政権を独断で朝廷に返還。。。
そして新政府軍との戦いに敗れたアンチヒーローとして知られていますが・・・
その政治手腕が再評価されてきています。

慶喜失くして明治維新は実現しなかった???
慶喜は、歴代将軍にはなかった指導力で、内政、外交に手腕を発揮し、諸外国に日本の新たな国王として高い評価を得ていました。

今まで幕府の敗北宣言だとされてきた大政奉還・・・
新体制を掌握しようという野心が伺えます。
しかし・・・そんな慶喜を排斥しようと・・・王政復古のクーデターが起こります。
薩摩藩士・大久保利通を中心とする討幕の志士たちによって武力討幕が行われたのです。

慶喜はクーデターを事前に察知していた???
予期せぬ事態に対する慶喜の葛藤とは???

江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜は、英雄というイメージよりも敗者のイメージが強いのですが。。。
幕末史の影のヒーロー・・・只者ではなかったようです。

1866年12月5日 慶喜、江戸幕府第15代将軍に就任
この時、江戸幕府の権威は風前の灯でした。
問題のひとつは・・・開国問題。
孝明天皇は、外国との国交に断固反対していました。
開国路線をとる幕府の外交は暗礁に乗り上げてしまったのです。

長州征討も泥沼化・・・外交も内政も混乱の一途をたどっていたのです。

慶喜は起死回生に・・・
外交は・・・通商条約の勅許をもらおうとします。
一旦開港していた横浜を鎮港し、孝明天皇を懐柔し、勅許をえるのです。
その外交力に脅威を覚えたのが、島津久光。。。
幕府に独占されていた貿易に参加することによって利益を得ようと考えていたのです。

孝明天皇がなくなると、開国に舵を取ります。
兵庫の開港問題には・・・
自らの権限で兵庫を開港すると公約します。
自ら最前線で外交をする慶喜に、諸外国は絶賛の嵐。。。

その結果、外交交渉や通商は、幕府主導で進んでいきます。
久光ら大名たちを抑え、外交主導権を掌握する慶喜。

失墜した幕府の力を回復させていきます。
慶喜に求心力が・・・!!
慣例にとらわれない慶喜は、写真にも興味を示し、自らモデルとなっています。

yosinobu

この肖像写真を外交に使います。
自分の肖像写真を各国君主と交換したのです。
日本の新しい国王であるかの景気の姿・・・
しかし、その力を脅威と感じ、退けようとする勢力が水面下で動き出していました。
薩摩藩士・大久保利通、西郷隆盛、公家・岩倉具視・・・武力討幕派です。


慶喜が率いる幕府を力でねじ伏せるために・・・討幕の密勅をあみだします。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を殲滅せよ!!
武力蜂起の極秘命令が下されたのでした。


しかし・・・慶喜は1867年大政奉還をし、大久保たちを驚愕させました。
大政奉還によって、大久保たちの大義名分が失われてしまったのです。
将軍自ら、政権を天皇に返すことによって、倒すべき幕府そのものを無くしてしまったのです。
大久保たちの討幕計画は中止されてしまいます。

これまで、慶喜の敗北宣言のように思われてきた大政奉還・・・
しかし、そこには思惑があったようです。
慶喜が朝廷に政権を返した時の建白書によると・・・
慶喜は政権を返すのは、日本を海外列強と同じような国家に生まれ変わらせるため。

「これからも、国家のために尽くせるのなら、これに勝る喜びはありません。
 全国の諸大名にも、将来の国づくりに意見のある者は、この慶喜に申し出るよう命じてあります。」

と、書かれています。

政権を返上しても、国政には携わり、諸大名からの意見も自分が取りまとめていく・・・
実質的に幕藩体制を維持した新体制を、朝廷に訴えていたのでした。

日本の政治そのものを変えていこうという気持ちが感じられます。

しかし、その後・・・時代は未曽有の大政変劇へ・・・!!


大政奉還によって、武力討幕派の機先を制した慶喜は、自らの指導する新体制を着々と実現しつつありました。
大久保たち武力討幕派は、決死の手に出ます。
王政復古のクーデターです。

慶喜を追い落とすには、天皇の力しかない!!
天皇親政を実現し、慶喜を排除するしか方法はなかったのです。

その為には・・・若き明治天皇を手中に収めなければ!!
明治天皇の外祖父・中山忠能を通じ、天皇の懐柔に極秘裏に成功します。

クーデター当日は薩摩の兵で御所を封鎖!!
西郷隆盛の指揮のもと、新体制を作ろうと目論んでいました。
慶喜と大久保とでは、思い描く日本の未来がかけ離れていたのです。

従来の身分制を無くしたい大久保たち下級武士は、将軍家を無くすことで大改革を実現しようとしていたのです。

クーデター直前・・・前越前藩主・松平春が、藩主に宛てた手紙には・・・
大久保たちのクーデター計画が、慶喜に漏れていて・・・対抗策を練るように書かれています。

「薩摩の大久保・西郷・公家の岩倉具視らが密謀を企てている
 ともすれば、京都に戦争が起こるかもしれない
 しかし、英明な慶喜公のこと、必ずや策を講じ、薩摩の計画を失敗に終わらせてくれるに違いない。」

慶喜の排除を目的に行われているクーデター計画・・・
慶喜どうする??


①武力鎮圧策
この時京都には、会津藩、桑名藩併せて5000の兵力があり、大久保たちを圧倒していました。
慶喜側からクーデターを起こし、薩摩を京都から追い出すのです。
しかし、京都が焼けてしまう。。。
国内に内戦がおこるかも知れない・・・
そうなると、欧米列強の内政干渉もあり得るのです。

②静観策
今、優先すべきは、日本に内乱を起こさせないことだ。。。
各藩にもそう書簡を送っています。
大政奉還を行った私に、どうしてことを起こすのだ。。。
武力を使わなくてもいいのでは???


慶喜は、新政府の主導権をかけた戦いにどう対処していくのでしょうか?
事態を静観する・・・でした。


京都に戦乱が起きないことを優先したのです。
12月9日早朝、クーデター計画は実行に移されます。
薩摩藩兵が御所の紋をすべて封鎖!!
そして、明治天皇による大政復古の大号令が出され、天皇を中心とする新たな体制が樹立されたのです。
新政府には、皇族をはじめ、公家、諸大名、各藩の有志が入閣・・・
しかし、そこには慶喜の名前はありませんでした。
おまけに、慶喜に組した摂関家の廃止・・・

慶喜にとって厳しい状況が生まれたのでした。

この時、京都が火の海になることを怖れ、慶喜は、会津・桑名両藩を、大坂に退去させています。
議会を進めていた大久保によって、慶喜の辞官納地がなされ、徳川の天領800万石は没収となったのです。
新政府の財源になるとのことでした。

すると、諸大名にも疑念が起こってきます。
王政復古の目的・・・それは、大名制の廃絶なのでは???
不協和音が・・・慶喜の復活を願う声が出てきたのです。

1867年12月24日、慶喜が新政府議定職に決定。
新政府に迎え入れることが決定したのです。
この事は、大久保に最後の覚悟を決めさせたのです。

「もはや、薩摩一国となっても、一戦交えるまでだ!!」

この時、薩摩藩浪士たちが、江戸市中を放火やテロ行為で攪乱!!
挑発に乗った庄内藩が、薩摩藩邸を焼き打ちしてしまいます。

藩邸を襲われたことで、薩摩藩は武力討伐に!!
戦闘準備に入ったのでした。

慶喜のいる大坂でも、会津藩・桑名藩が爆発!!
慶喜の手に負えなくなってきたのです。

1868年1月3日鳥羽伏見の戦い勃発!!
薩長新政府軍と旧幕府軍との戦いになりました。
そして、慶喜にとっては最悪なことが・・・
薩長軍の掲げた”錦の御旗”です。
慶喜は、朝敵となってしまったのでした。
慶喜側は、総崩れ・・・わずか3日で敗走!!

それでも大坂城の会津・桑名藩は、戦意は喪失しておらず、当時最強と言われた幕府海軍を、江戸から大阪湾へ持って来れば、勝機はまだある!!

驚愕の事態が起きたのはその時!!
大坂城で戦う旧幕臣たちを残し、慶喜は江戸へ向け船で脱出したのです。

一体なぜ??

時代の流れに押し流されたという諦め???
下品、なりふり構わず・・・ということができない人だったのでしょう。

朝敵となった慶喜は、鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府軍を置いて江戸に帰還・・・
上野の寛永寺に入り、自ら2か月謹慎したのです。
再起を求める声があったものの・・・戦いを避け。。。

江戸に向かう新政府軍に書簡を送っています。
「今回の事態は、まさにこの慶喜の至らなさが引き金であり、どのような処分も受ける覚悟でいる。
 何の罪もない江戸の庶民に苦しみを与えることだけは止めて欲しい。
 すべての罪が、この慶喜にあり罰するのであれば、この私だけを罰してほしい。」

内乱を避けられるのであれば・・・!!

その後、全国に内乱が広がることはなく戦争は終結。。。
ここに徳川の時代は潰え・・・明治新政府の時代が始まるのです。

大久保たちは、藩籍奉還・廃藩置県・秩禄処分・・・何百年にもわたって行われてきた封建制度を一掃したのです。
不平を抱く旧士族から、徳川再興を求めた時も、慶喜が政治的発言をすることはなく・・・旧幕臣が近づくことも良しとしませんでした。

その後、慶喜は、狩猟・油絵・写真・・・趣味人としての生活を40年送るのでした。
政治とは全く無縁の生活を送ったのです。

慶喜の汚名が晴れたのは、明治維新から30年以上も後・・・
明治31年には明治天皇に拝謁。
涙を流して喜んだと言われています。
明治35年公爵綬爵。
それは、慶喜が維新の功労者であるということを、新政府が認めたことを意味していました。

負けを徹底的に受け入れること・・・
受け入れがたいものを受け入れるのが自分の役割・・・

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大正2年11月22日病によって亡くなります。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた。
 私は、その幕府を葬り去るために将軍となったのだ。」

明治維新の犠牲者は、世界的に見てもとても少ない・・・
それは、慶喜の功績なのです。 

”不作為を持って英雄となり
   科目を持って政治を変えた”
慶喜なのでした。


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2020年のオリンピック開催が決まった東京・・・。
世界も認める日本の首都ですが・・・首都を東京と定めた記録がありません。

明治維新・・・幕藩体制が崩壊し、天皇を中心とする新政府が京都に樹立しました。
が・・・都は新しくするべき???
遷都推進派・・・大久保利通・岩倉具視・木戸孝允・三条実美は密かに計画を立てます。。。
㊙大作戦の決行でした。

東京がいつ首都になったのか???解っていません。
1868年、江戸を東京と改名し、京都と同格の都とします。
翌年、明治天皇と政府が東京に遷った時点で東京遷都と思われます。
が・・・平安遷都の時のような詔も出ていません。
なので、知らないうちに遷都され首都に???

天皇は15歳の少年でした。
近代天皇として変わるためには・・・大きな変化をするためには、遷都が必要だったのです。
しかし・・・首都は東京ではなく、大阪、伏見が自然な選択でした。

京都御所は、平安時代から1000年にわたり天皇の住処となり、周りの京都御苑には200の公家屋敷がありました。
九条家屋敷では、明治政府第1回目の会議が開かれました。

大政奉還によって幕藩体制が崩壊し、新政府が京都に樹立したばかり・・・。
鳥羽伏見の戦い・・・外圧・・・
近代国家の建設が急がれていました。
遷都が不可欠だ!!と声をあげたのは、大久保利通。
場所は大坂でした。
因循の腐臭を一新するために!!!

天皇は日常生活では女官に取り囲まれ和装、お歯黒、白粉・・・
左大臣、右大臣・・・平安時代からのしきたりは、政治判断に弊害を及ぼしたのです。
もちろん、無位無官の大久保たちは会議にも参加することができません。

京都から離れなければ近代化は出来ない!!

最初に遷都を提案していたのは、長州藩主・品川弥二郎、世良修蔵。
その候補地は???伏見桃山でした。
京都の南にあり、秀吉、家康も居城を構え、京都と大坂を結ぶ交通の要所でした。

薩摩藩士・伊地知壮之丞が提案したのは奈良。
海に面した大阪は守りに不便、奈良のような内陸部におくべき!!
ロンドンのように運河を作り、蒸気船を!!
しかし、運河を作るお金がありません。

京都は盆地で狭く、地質学的に近代国家の都に相応しくない・・・。
と、考える者もいました。

しかし、公家たちは猛反対。
中山忠能は、天皇の玉座を動かすなどもってのほか。
久我建通は、薩摩と長州の策略だ!!と、大反対。
大坂遷都は一蹴されてしまいます。

そこで大久保は???
歴代天皇は、数百年京都を出たことがありませんでした。
15歳の天皇は、御所を出たこともありませんでした。
そこで、大坂行幸を画策します。
国民の前へ出る能動的な天皇へ!!!

岩倉具視は、下級の公家なので発言力はなく、やはり朝廷内での発言力はありません。
なので、改革を目論んでいました。
岩倉具視は、公家たちを前例を用いて説得します。
「仁徳天皇は国見をした」能動的な天皇を強調します。

総勢1700人で大坂へ行幸!!

天皇は大坂城で諸藩の兵士の訓練を閲兵、はじめて海を見て・・・大坂湾で海軍の演習を視察!!
それは錦絵となり、庶民も目に!!
新しい時代の君主像が出来上がってきました。

天皇自身も・・・自ら積極的に!!

大坂行幸で天皇に謁見することができた大久保・・・無位無官なのに!!
京都にいてはありえないことでした。
京都に戻った天皇は、自らも政治に参加するという”万機親裁”を宣言します。
天皇を補佐する輔相には、下級武士だった岩倉具視がなるのでした。

天皇をいかにして作り上げていくか???
それが明治政府にとっては必要でした。

1868年3月勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城が行われました。
これを境に、江戸遷都論が!!
前島密も江戸遷都論者のひとりです。
①地理的に日本の中心
②西洋式大型船のために深い湾を!!
③道幅が広く、馬車や車に適している
④風景も雄大
インフラ整備に重点を置き、近代の都市計画の視点で遷都を論じました。
それは、これからの日本の国の形でした。

館林藩士・岡谷繁実も・・・
ロシアの南下政策に対しても江戸におくべきと主張します。
日本を外圧から守ることに主眼を置いた遷都論でした。

新政府の推進派も江戸でまとまってきていました。
メンバーは、大久保利通・岩倉具視・木戸孝允・三条実美でした。
しかし・・・京都の公家たちの反対派激しく・・・
推進派は???
都を二つにすることにしました。
つまり”東京”です。
そして、密かに政府も天皇も移すことにしたのです。
江戸を東京にすることを根回ししたのは、木戸孝允。
1868年7月17日明治天皇による詔が・・・
江戸は東京とし、京都と同格の都としました。
一番反乱を起こしそうなところに首都を置くのがベストでした。

天皇の東京行幸の実施!!
無位無官の藩士に対して草案を回覧させる岩倉具視。
内容は、京都から東京への行幸でした。
国家の大事なことを決めるには、平等に扱わなくてはいけない。。。
伊藤博文は、国家が窮迫している上に大費を出すのは自滅だと手紙を送っています。
時間をかけて歩くよりも、浪花より軍艦で行くべきだ!!と、訴えました。

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行幸は・・・1868年9月20日出発します。
歴代天皇が足を踏み入れたことのない東国へ!!
人々に親しまれやすい天皇を見せるために陸路で行くことになりました。
道中慈悲深い天皇を示しながら。。。

16歳の誕生日を迎えたのは、滋賀県にある土山宿。
岩倉具視や木戸孝允と宴・・・酒三石とするめ1500枚を宿の住人達に。。。

9月27日名古屋へ。。。
庶民の稲刈りの天覧が行われました。
庶民と天皇が同じ場所にいるのは、一年前には考えられないことでした。
3000個の菊の御門入り特製饅頭が振る舞われます。
民衆との触れ合いをしながら東京へと向かいました。

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10月13日ついに東京へ!!
岩倉の発案で、公家たちは正装で、雅楽の演奏で先導します。
これには江戸の町人も(*_*;!!
江戸城は東京城となりました。
遷都㊙大作戦が成功したのです。

1868年12月8日天皇は京都へ帰ってきました。
皇后を迎える予定があったのです。
また、京都の人々を安心させるためにも。。。
しかし、大久保らは天皇の住まいを東京へ・・・事実上の東京遷都を目論んでいました。
なのに・・・天皇は京都のまま。。。
大久保たちは、土地と人民を天皇に返す版籍奉還の準備を進めていました。
ところが・・・天皇は東京へ戻って来ません。
京都の岩倉は岩倉で・・・動けません。
配慮していたのは京都の町衆でした。

330年以上にわたり毎日餅を献上していたお店。。。
始まりは、戦国時代・・・御所の財政難の時に・・・困窮した時に餅を献上したからでした。
御所の修繕も町衆で行われていました。
家の家長がどこかへ行ってしまう!!!
長きにわたる町衆の真意を知っているからこその配慮でした。

1869年3月7日東京行幸出発。
今回の行幸は、各藩の藩主が国境まで出迎えます。
自分の藩の殿様が頭を下げる存在として、庶民に認知されていきます。
天皇が中央集権国家のTOPに!!

3月28日東京到着。
東京城は、江戸城は東京城・・・そして、皇城となったのでした。
そして、行政機関も次々と作られていきます。
西洋の君主のいでたちの天皇・・・
東京も文明開化していきます。
東京遷都は行われないまま、145年がたちました。
しかし、遷都の目的であった近代国家の建設は、着実に東京を中心に実現していったのでした。

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ちょっとバタバタしてまして遅れちゃっています。。。

1867年秋、西郷たちは岩倉と手を組んで・・・
土佐の山内容堂は、政権を返上せよと慶喜に進言してきました。

そして、慶喜は大政奉還することで・・・
討つ大義名分を排除することで戦いを回避、徳川の生き残りを考えています。
そのことに、京都の会津藩邸でも大混乱

”大政奉還”・・・江戸幕府を開いてから260年・・・
きっと、当時の人は徳川が朝廷から政権を預かっているなんて、知らなかったんじゃないかなあ・・・とも思うので、本当に大混乱だったことでしょう。
”徳川が無くなる”のですから。。。
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1867年10月15日、遂に慶喜が参内し、大政奉還が行われました。




そこで、薩摩と長州は大義名分を失ったかに見えたのですが・・・

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密談している西郷・大久保・岩倉・・・偽勅を使うようです。。。





あ~こんなに西郷さんのことを悪く書いていいのでしょうか???
初めて見たかもしれませんね。。。
悪は、大久保と岩倉具視ってイメージが強いのですが、ホントにこのドラマでは薩摩が、西郷が”悪”になってますね。。。
そして、王政復古を考えている岩倉具視もいますよ。。。

大政奉還された今、会津は・・・
容保公は、もしもの時は出陣の覚悟を決めたようです。

神保内蔵助は西郷頼母とお話しにきたようです。
「都の様子・・・お聞き及びか・・・??」
大政奉還の事のようです。
そして、挙藩出陣の事を・・・
頼母は相変わらず戦わずに済むように、何とかならないか・・・と、思っているようです。
京都守護職を命じたのは幕府、その幕府が無くなった今、京都守護職のお役目も消えるのではないか???ということです。
薩摩と長州が来る前に、会津に帰るべきだ・・・
しかし、都では、その正論が通らぬ・・・と、内蔵助。。。

尚之助は反射炉について書き留めています。。。
会津のお偉いさん方もなんだかきな臭い方へ・・・

京都でも・・・
覚馬の学問所にお手伝いに来ているのは、小田時栄。
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大垣屋が目の見えない覚馬の為に身の回りの世話によこしたのです。
しかし、女子の手は要らんという覚馬。。。
そんな二人を不逞浪士が襲います。
徳川と会津は厄介者だから。。。

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1867年11月18日・・・薩摩と長州が動き出しました。
土佐・・・その他の藩はどうするのでしょうか???

11月23日・・・
薩摩は藩主警護の名目で相国時に兵を進めます。。。

え・・・何を思ってか、風邪と偽って朝議を欠席する慶喜・・・
うかうか参内して薩摩にとらわれることを思案しています。
容保にもそう言い伝えよとのことですが
これに欠席したことで、反体制派が蘇るというか、全て手のひらが返ってしまうのです。。。
岩倉具視によって、王政復古が行われてしまいました。
摂政関白と幕府を廃絶、政は総裁・議定・参与によって行うこととなります。

そして、御所の護衛は薩摩に・・・

御所では、新政府の会議が初めて行われていました。
徳川は一体どうなるのでしょう・・・
そして、会津は・・・???

慶喜は、官位一等を下げられ、領地の半分200万石は召し上げとなりました。。。
徳川の治世は、ここに終わりを告げたのです。。。

巻き返しを図るため、慶喜は容保と共に大坂へ・・・

あ~、遂に大坂へ向かうのですね・・・。
これで会津の士気はダダ下がり・・・
っていうか、慶喜に振り回されて・・・容保はホント、可哀想です。。。
で・・・これからもっと、過酷な運命が待ち構えているのでした。。。


近代ニッポンを造った男たち。はこちら
大久保利通~明治を創った男・維新の設計者~はこちら
西郷隆盛~明治の礎を作った薩摩の怪物~はこちら

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とっても有名な方です。
徳川300年に終止符を打って、朝廷に大政奉還をした人でするんるん

って、みんな知ってるんですが、なかなかそれって坂本龍馬や西郷隆盛、新選組なんかの資料にちょっとずつ出てくるって感じで、本人のことはあまり知らないんじゃないかなあ・・・って、私自身は思っています。

「八重の桜」では、小泉孝太郎さんが演じてくれます。

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権力者となった・・・って、お父さんも元総理大臣だし、弟は第44代青年局長です。
血筋から行ったらサラブレッドですね。黒ハート
今まで演じて来られたどのドラマの慶喜さんよりも、ダーク慶喜さんで気に入っています。
賢い人だったんですよね。黒ハート

で・・・慶喜さん、水戸烈公こと徳川斉昭の七男です。
1866(慶応2)年、14代将軍・家茂の急死で徳川家最後の将軍の座につきました。

keiki.png

「東照神君は、天下のために幕府を開かれたのであるが、余は天下のために幕府を葬ろうと思う・・・」と言って将軍になった慶喜。

14代将軍になれなかった慶喜。。。
権力がままならない15代目の将軍になってしまった頭の切れる慶喜。。。

そんな慶喜は、英明の誉れ高く「権現さまの再来」ともいわれています。

将軍後見職の時に、会津藩を京都守護職に任命。
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、兵を残したまま会津藩主・松平容保たちわずかな側近とともに大坂城から江戸へ帰り、すぐさま謹慎。

「え~???徳川幕府って本当に負けちゃうの??」
って、まだまだ思われていました。
こんなことしなかったら、もしかしたら鳥羽伏見の戦いで勝っていたかもしれないのにね・・・。たらーっ(汗)

その変わり身の早さから「百才あって一誠足らず」と評されています。
ホント、周りが・・・先が見えていたんでしょうね。。。失恋


徳川慶喜は、明治になってずっと後に、子息に対して次のように語ったと伝えられています。

「あの時は、ああするより他なかった。やっぱり、あれが一番よかったんだ」

「あの時」というのは、もちろん、彼が行った大政奉還のこと。。。あの時代のこと。。。


色んな人を巻き込んで・・・でも慶喜は生き残ります。
どんな気持ちで明治を迎えたのでしょうか???
やがて大日本帝国憲法ができあがったとき、彼はそのことを大変に喜んだといいます。
諸外国と比べて遜色のない、近代国家としてのさまざまな要件を整えた憲法ができあがったと。


「ナンバー1の苦悩~徳川慶喜~」はこちら

「徳川慶喜将軍のナンバー2~勝海舟~」はこちら

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1861年、幕末の日本で史上最大規模のロイヤルウェディングが行われました。
天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂との結婚。和宮の降嫁です。

皇女が徳川家に嫁ぐのは、前代未聞のことでした。

kazunomiya.png

京からの花嫁行列はおよそ3万人。
かかった費用は900万両、当時の幕府の予算の2年分と言われています。

なぜこれほどまでに大事になったのでしょう?

前途多難な結婚でしたが・・・。
どうして降嫁したのでしょうか???

降嫁とは、皇族の娘が臣下に嫁ぐという意味です。
宮家からは・・・
8代将軍・吉宗の正室は、理子。
12代将軍・家慶の正室は、喬子。

しかし、皇女が関東の東夷(野蛮人)に嫁ぐ・・・ありえない・・・前代未聞のことでした。

みんなが諸手を挙げて喜んだわけではありませんでした。

1860年8月、結婚が決まりました。
日本列島が、一気に動き出しました。
和宮の花嫁行列は、中山道を通って、江戸へ向かうことになりました。

準備に取り掛かる街道筋・・・
周辺の宿場町では・・・
赤坂宿では、町全体で家屋を新しくしました。
257の家屋や空き地を調べています。
空き地や古い家屋は見苦しい・・・と、建て替えられたのです。
お嫁入り普請です。

馬籠宿では・・・道路工事が。
畳石に取り掛かり、石垣を二尺引込め道幅を二間に・・・
街中の道路を造り替えました。
このようなことが、中山道すべてで行われていたのです。

ちなみに、和宮とは別の婚礼道具は美濃路、東海道を通って運ばれました。
長さ9m、幅3m、重さ1tの巨大な婚礼道具を70~80人で運びました。
小さな橋は、欄干を外したり、取り替えたり・・・
小さな門は取り壊したり・・・
埃がたたないように石や砂利を敷いたり・・・
通るところはすべてインフラ整備をし・・・
広大な地域を巻き込んだ一大イベントとなりました。

1861年10月20日和宮一行は、京都を出発します。

でも、どうして中山道なのでしょう???
中山道は、東海道に比べて5分の1の交通量です。

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槍を持った人、剣を持った人、伊賀衆30人・・・厳重な警戒のもとに、そんなに混んでいない道を選んだようです。
鉄砲や槍を持ち、戦に出かけるような行列だったそうです。

女官や役人も含めて5000人から7000人、これらの人を江戸に送るために、人足や馬をたくさん出しています。
全行程でかかわった人の数は、総勢70万人。
まさに、史上最大のロイヤルウエディングでした。


どうして、このような国を挙げての大行事となったのでしょうか???
そこには、幕府の権威の失墜がありました。
幕末になると・・・幕府の力が落ちてきて・・・朝廷の力がついてきていたのです。
対外的な国難に立ち向かうためには、公武合体が必要だったのです。

桜田門外の変で、“幕府の権威の失墜”にとどめを刺された幕府は、どうしても和宮が欲しかったのです。

1年半前の1860年4月に、和宮降嫁を要請します。
和宮は、外国人のいる江戸を嫌がっていました。

しかも、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいたのです。
兄の孝明天皇は、要請を繰り返し断っていましたが・・・幕府も必死に食い下がります。

そして・・・
丙午に生まれた女は災いをもたらす・・・と、有栖川宮家に吹き込んで、破談にしてしまいました。

再度降嫁を要請します。
近臣の岩倉具視は・・・
「外圧に晒された皇国の危機を救うには、朝廷権威を回復し、国是を確立させる必要がございます。」
と、朝権の回復を訴えます。
「和宮の身は極めて重いものです。
 通商条約を破棄するよう命じ、幕府がそれを約束するというならば、和宮を説得してはいかがでしょう。」

天皇は、ついに決断します。
「幕府が蛮夷を拒絶するなら和宮を諭そう」
通商条約の破棄と、攘夷を求めました。

幕府の返答は・・・
「7,8年ないし10年以内に条約を廃棄する。」

これが、孝明天皇にとっては重要なことでした。
このことが実現するならば・・・と、政略結婚に進んでいきます。

そして、天皇の決定的な言葉・・・
「降嫁が実現しなければ、朕は譲位する。」
この一言で、和宮はついに決心しました。

和宮は降嫁とともに、5つの条件を出しました。
江戸城に入った後も、身の回りは万事御所風を守ること。
江戸城での生活になじむまで、御所の女官をおそばにつけること。
などです。

これに、孝明天皇が足したのが・・・
和宮が出した5か条を遵守すること。
蛮夷拒絶の方策は、今後老中が後退しても決して変えないこと。

これを幕府に示したのです。
孝明天皇は、今までの無知な天皇とは全く違う天皇だったのです。
16歳の少女が嫌がった・・・
このことが、攘夷の期限を切ることが出来た。
これが、幕府の最期を決定づけさせたのです。


京都から出発・・・

この時に詠んだのが
「住みなれし 都路出て けふいく日 
        いそぐもつらき 東路の旅」

「落ちていく 身と知りながら もみじ葉の
        人なつかしく こがれこそすれ」

しかし、日本中は、興味津々・・・

万歳・万歳です。
行列を見る為のガイドブックまでありました。
出版されたのは、10カ月も前のことでした。

一方で、風刺画も・・・
「和宮降嫁は狐の嫁入り」
朝廷と幕府の化かしあいだというのです。


公武合体を日本人全員に目に見えるような形で示す・・・
大行列は・・・その効果は絶大でした。


1961年11月15日、江戸城へ・・・。京都を出発して25日経っていました。

閉塞状態だった幕末、明るい話はとっても歓迎されました。

1862年2月11日和宮と家茂結婚。二人は17歳でした。
幸せ、ラブラブな二人・・・しかし、この結婚が、幕府を窮地に陥らせます。

5月15日、孝明天皇は“条約破棄”を改めて求めます。
「もし10年以内にことを起こさないならば、自分が最高司令官となって戦う!!」その言葉が、朝廷内の反幕府勢力の原動力となってしまうのです。

京都では、過激な攘夷派の天誅が横行します。
公武合体派の人びとが暗殺されるという異常な状況になってきました。

孝明天皇と家茂の仲をとりもつ和宮。
家茂は上洛します。この将軍上洛は、3代・家光以来240年ぶりのことでした。

幕府としては、戦うのは幕府、その期日は言わないという考えでした。
しかし、朝廷は譲位期限を決めたい!!

1863年4月20日、家茂はこともあろうに譲位期限を5月20日と決定してしまいます。
7~8年ないしは10年を・・・です。
20日後になってしまいました。

家茂は諸藩に命じます。
「海岸防衛を慎重にし、外国が襲来した場合には掃攘せよ」と。

1863年5月10日、長州藩が実際にアメリカ商船を爆破、戦争へと発展します。
翌年、4か国が下関を砲撃し、長州藩は負けてしまいます。


しかし・・・必死に攘夷を迫る和宮・・・そこには、民衆の為という純粋な思いがありました。
天下泰平の道に進めるように・・・

しかし、その役割は突然終わりを告げます。
1865年9月、4か国の連合艦隊が直接朝廷に通商条約の勅許を求めてやってきました。
のど元の大坂湾へやってきます。

勅許せざるを得なくなった孝明天皇・・・それも、なんの断りもなく・・・言葉にできない驚愕でした。
この勅許によって降嫁の意味がなくなってしまった和宮。。。
おまけに、家茂は21歳で急死。。。
孝明天皇までも崩御。。。

和宮は帰京を求める手紙を出しています。
「異人が丸の内まで徘徊するようになりました。
 使命が果たせなかったので帰京したい。」と。


夫と兄を亡くした和宮は・・・新しい役割を担うこととなります。

1867年10月14日、新しい将軍・慶喜のもとで・・・大政奉還。
政権を朝廷へ返照します。

1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発。
薩摩、長州の反幕府軍が官軍となって・・・賊軍となった幕府に襲いかかります。

和宮は、徳川の家名の存続を嘆願します。
自らの命を懸けた嘆願・・・1868年3月15日の江戸城無血開城・・・徳川存続へと繋げていきますが・・・。

徹底抗戦を望む幕府軍の人に・・・
「神君以来の御家名が立つことを心がけ、謹慎を守ることが徳川家代々に対する真の忠義です。」
と、強い思いを持っていました。

旧幕府軍がたてば、江戸っ子たちは幕府側につく・・・
内乱状態になることを避けようとして、火の手をあげさせない!!
そういう強い思いがあったようです。

その後和宮は、徳川家とも天皇家とも親交を深めながら過ごします。
明治8年歌会始で・・・

「玉敷の みやこもひなも へたてなき
       年を迎ふる 御代のゆたけさ」

それから2年後、明治10年(1877年)9月2日、脚気が悪化して亡くなります。享年32歳でした。


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