日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大村益次郎

1905年、日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破しました。
その時の司令長官・東郷平八郎は、戦後、「仁義礼智信」の文字をある幕臣の子孫に送りました。
あて先は、小栗・・・書を送るにあたり、東郷はこう述べました。

「小栗上野介殿による横須賀製鉄所建造が、日本海海戦の完全な勝利にどれほど役立ったかしれません。」

横須賀製鉄所は1865年、徳川幕府によって建造が始まった日本初の近代的造船所です。
横須賀アメリカ海軍基地に、その一部が残っています。
1号ドライドック・・・日本海海戦の勝利には、ここで建造、整備された艦艇が大きな役割を果たしました。
その建設を手掛けたのが、小栗上野介です。

群馬県高崎市にある東善寺・・・
小栗を象徴する品が残されています。
何の変哲もない一本のネジ・・・
アメリカのワシントン海軍造船所を見学した時に、ひと箱もらってきたものです。
蒸気機関を用いて、大量に作っている工業ネジ、みんな規格が同じ・・・。
アメリカの近代工学、文明のシンボルです。
日本もこういうものを作りたい・・・!!

日本の近代化をネジに託して持ち帰った小栗・・・
その先見性はどのようにして生まれたのでしょうか?
1827年、小栗上野介は旗本の嫡男として生まれます。
幼い小栗は、エリート教育を受けます。
小栗は僅か7歳で、漢学者・安積艮斎の塾に入門しています。
艮斎は、非常に開明的な人で、著書「洋外紀略」には次のような一節があります。

「国を守るには大船や大砲を数多く作るしかない
 諸外国は、その費用を交易で賄っている」と。

まさに時代は変革期にありました。
1853年黒船来航。
圧倒的な武力を前に、日本は、1854年日米和親条約の締結に踏み切ります。
艮斎から学んだことが、小栗の目の前に・・・!!

1859年、33歳を向かえた小栗は歴史の表舞台に・・・!!
日米修好通商条約批准の使節に抜擢されたのです。
役職は、使節一行を監督する目付・・・。
その才能を認めた井伊直弼直々の抜擢だったといいます。
使節を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号は、太平洋を横断し、サンフランシスコを経由して東海岸へ・・・およそ2か月の航海の後、首都ワシントンへ・・・!!
大統領に国書を奉呈します。
現地の新聞はその様子を大々的に報じています。
しかし、果たすべき仕事はまだあります。
小栗は出発前に、井伊大老から使命を帯びていました。

「我が国にとって海軍創設は急務。
 海軍工廠を見学したい。」と。

条約批准の8日後・・・1860年4月5日、ワシントン海軍造船所を見学。
最新の造船技術は、小栗の目にどのように映ったのでしょうか?

”銅や鉄製の部品が、すべて蒸気機関を用いて作られている”

とりわけ小栗たちを驚かせたのが、巨大なスチームハンマーでした。
そこではおよそ3トンものハンマーが、蒸気の力で持ち上がり、巨大な鉄の棒をひと打ちで切断していました。
1860年5月13日、ニューヨークを出港。
日本への帰路につきました。
日本を外国から守るため、近代的な造船所を建設する・・・小栗の中に、確かな目標ができました。

しかし、帰国した小栗を待ち受けていたのは、驚くべき報せでした。
1860年3月3日に起きていました。
大老井伊直弼が、尊皇攘夷を掲げる薩摩や水戸の浪士たちによって暗殺されたのです。
桜田門外の変です。
自らをアメリカへ派遣した大老の死・・・夢を描いて帰国した小栗・・・その行く手は突如暗転しました。

アメリカから帰国して一月・・・外国奉行に抜擢されます。
処が翌年事件が起きます。
1861年2月、ロシア軍艦対馬を占拠。
小栗はすぐに現場に急行します。
しかし、ロシア船の船長は、幕府を交渉相手と認めず、対馬藩を交渉相手と直接交渉を主張します。
交渉は行き詰まり、江戸に戻る小栗・・・
一説には、この時小栗は、対馬を幕府領としてロシアと交渉することを考えていたといいます。
しかし、幕閣はこの案を却下。
東アジアに大きな勢力を持っていたイギリスに、対馬に軍艦を派遣してもらい、ロシア軍艦を退去させたのです。
この外交の裏側には、外国通として知られた勝海舟がいたと言われています。

「日本が正面から単独で、ロシアと談判したものなら、なかなかうんとは承知しなかっただろう」by勝海舟

1861年7月、小栗は責任をとって外国奉行を辞任
軍事力無くして国家は成り立たないことを痛感することとなりました。
しかし、幕閣はその才能を放ってはおきませんでした。
1862年、勘定奉行に就任。
これを機に造船所建設を推し進めようとした小栗・・・
しかし、その道は平たんではありませんでした。
当時、幕府内では莫大な金のかかる造船所建設に疑問の声が上がっていました。

「船は外国から買えば良い」

というのです。

「海軍を運用する人材育成に、イギリスは300年かかっている
 日本では500年かかる
 造船所建設よりそちらを優先すべきである」by勝海舟

「我が国はすでに、外国から購入した船を何隻も保有している
 破損すれば修理する場所が必要ではないか?」by小栗

短期的な目で見れば、外国から船を買った方が早い・・・
しかし、メンテナンスせず、ずっと動くかと言ったらそうではない。
外洋を走る船には貝殻が付き、船体が腐らないように塗装をするのです。
そのためには、船を造るだけではなく、実際に毎日修理できる場所が必要なのです。

1864年、幕府は造船所建設に動きます。
しかし、大きな課題が残っていました。
高度な技術と莫大な資金です。
当時の日本に単独での建設は不可能でした。
幕府には、当初アメリカに援助を求める計画がありました。
ところが・・・1861年南北戦争勃発!!
小栗は新たなパートナーを探す必要が出てきました。
虎視眈々と日本を狙う列強・・・!!
もし選択を誤れば、植民地化につながる恐れがあります。

イギリスにする・・・??
海軍に置いてイギリスは世界に冠たる国で、一早く蒸気機関を実用化し、最先端の造船技術は他国の追随を許さない・・・。
しかし、イギリスのアジア進出は、極めて暴力的!!
立ち寄った香港では道の真ん中はイギリス人が歩き、清国人は端に追いやられていた・・・。
造船所建設には多額の費用が要る・・・もし、支払いが滞れば、イギリスに国の富を根こそぎ奪われる事態になりかねない・・・。
そして、イギリスは最近薩摩と接近している・・・!!
この頃薩摩藩は、幕府政治の改革に動き出していました。
政治工作でそれを実現しようとしたが果たせず、方針を転換・・・
イギリスから最新式の武器を購入し、軍隊の近代化を進めていました。
イギリスがその後押しをしているとすれば・・・幕府の要請にこたえてくれるだろうか・・・??

オランダは・・・??
古くから付き合いがあり、海軍建設(長崎海軍伝習所)にあたり頼っていた国だ。
教官はオランダから派遣された士官が勤めていました。
オランダに、技術者肥田浜五郎を派遣してもいます。
目的は、造船の機会の注文と造船所建造方法伝習です。
幕府の一部では、オランダでの造船所建設が具体的に上がっていました。
しかし、近年その国力は衰えていると聞く・・・。
造船所建設という大プロジェクトの全面的援助が可能だろうか・・・??

フランスは・・・??
あまり付き合いのないフランス・
その頃、日本とフランスの関係は転機を迎えていました。
新たな公使レオン・ロッシュが来日、イギリスの植民地政策を非難、幕閣の好意を得ていました。
フランスは正義の国だと宣伝していました。
ロッシュには、日本で手に入れたいものがありました。
それは・・・蚕。
当時、絹織物は、フランスの輸出産業の主力で、伝染病の大流行で蚕が絶滅に瀕していました。
ロッシュは幕府の許しを得て、種紙を購入し本国に送っています。

「日本政府は我が国に皇位を持っています。
 毎日私は、フランスが日本政府に与えた幸福な影響を確認しています。」byロッシュ

友好的な関係を築きつつあるフランスとなら植民地の危険性はないかもしれない・・・。
それにフランスは、イギリスに負けじと造船技術の近代化に努めていると聞く・・・
そこにかけてみる価値はあるのでは・・・??
イギリスか?オランダか?フランスか・・・??

小栗が選んだのはフランスでした。
何が決め手となったのでしょうか?

”小栗上野介がフランス公使ロッシュに要請した造船所建設担当者について回答があった
 ヴェルニーという者が適任だという”

ヴェルニーは、清国で造船所建設の経験もある、フランス海軍きっての技術者です。
そのヴェルニーを日本に派遣し、工事の指揮を執らせると、ロッシュが確約したのです。
ヴェルニーは、契約を待たずに来日し、測量しました。
大型船でも侵入可能な横須賀に白羽の矢を立て設計に取り掛かりました。

ドックから備品の工場まで・・・小栗がアメリカで目の当たりにした造船所が日本で実現しようとしていました。

小栗が勘定奉行として直面していたのが、建設費年間100万ドルです。
ひっ迫する幕府財政の中、何を財源とすべきか・・・??
目をつけたのは生糸でした。
フランスとの契約との何か月も前から、根回しに動く小栗・・・そこで、生糸に気付きます。
生糸の安定供給・・・輸出によって外貨を得、造船所のための機材を買うことができる・・・!!
そしてその、生糸を現物で納めさせ、幕府が海外で売れば、大きな利益が得られるのです。
幕府は動き始めます。

”幕府の改印のない生糸や種紙の売買は一切許さない”

小栗は、幕府による生糸独占に舵を切ったのです。
さらにこの年、幕閣に組合商法の設立を提案しています。
計画は・・・??
幕府が改印制度を使って日本中の生糸を独占します。
さらに、日本とフランスで大商人に組合を作らせ、独占して生糸貿易を行います。
日本とフランスで生糸貿易を独占し、その費用を造船所建設に使おうと考えたのです。
造船所の建設は順調に・・・
しかし、国内情勢は悪化の一途をたどり始めました。

1866年第二次長州征伐
薩摩の仲介でイギリスから最新兵器を購入した長州を相手に、幕府軍は大敗北を喫します。
幕府の威信は充足に低下していきます。
この時、長州との講和講習に臨む勝海舟に対して小栗は・・・
「幕府の下に郡県制度を立てようと思う」
すべての藩を廃止し、将軍が任命した知事が地方を治める中央集権制です。
小栗は、徳川中心の近代国家を構想していました。
明治維新の2年前でした。

1868年鳥羽・伏見の戦い
薩摩長州の新政府軍と旧幕府軍との間に戦いが勃発!!
旧幕府軍は敗北を喫します。
登城した小栗上野介は慶喜に、徹底抗戦を訴えます。
慶喜の袖をとってまで秘策を・・・!!
”東海道を上ってくる新政府軍を幕府陸軍で迎撃
 孤立した敵を、幕府の誇る最新鋭の軍艦で海から砲撃する”

新政府軍の参謀・大村益次郎は・・・
「あの策を用いられれば我が軍は全滅していたかもしれない」と言っています。
しかし、すでに恭順を決めていた慶喜は、小栗の策を却下し、勘定奉行から罷免します。
そして恭順派の勝が・・・江戸城無血開城をするのです。
徳川中心の近代化の夢はついえたのです。

1868年3月1日、小栗は、知行地・権田村に退去
移住から間もなく、この地に屋敷の普請を始めます。
敷地の一角には・・・お茶の苗木を江戸から運んで植えています。
当時お茶は、生糸と並んで重要な輸出品目でした。
この地でも、国をとませる方法を考えていたのです。

国の基本は国民、国民が豊かになって落ち着いた暮らしができるということが大事なのです。
しかし、4月22日、新政府軍から付近の諸藩に一通の命令書が届きます。
小栗上野介は権田村に陣屋を厳重に構え、砲台を築いている・・・反逆の謀略は明らか・・・
手に余るようであれば、誅滅すべし!!

4月5日、小栗は逮捕され、翌日付近の河原で斬首されます。
享年41歳でした。

小栗が手掛けた造船所建設は新政府に受け継がれ、1871年横須賀製鉄所完成!!
製鉄所とは当時の用語で造船所を含む海軍工廠を指します。
後の日本海海戦でバルチック艦隊を沈めた駆逐艦や、魚雷艇の多くがこのドックで建造補習されたといいます。
小栗が造船所建設にあたって同僚に語った言葉が残されています。

「この造船所ができれば たとえ幕府を売り出すとしても、 土蔵付き売り家の栄誉が残る」by小栗上野介

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傷だらけ・・・って、誰が傷だらけなんでしょうかね~~??

江戸城無血開城をやり遂げた吉之助ですが、政府に不満を持つ勢力が、上野に集結!!
彰義隊と名乗りました。
いきなりやってきた大村益次郎の作戦で戦いを開始!!って、命をかけるのに、いきなりやってきた訳の分からない男の言うことに従うんだな??って思うのは私だけ??

「まっこて、果ての見えん戦でごわす・・・」って、暗そうに、戦をしたくなさそうに言う西郷どんですが、でも、やりだしたのはあなたです。
僅か半日で消滅した彰義隊は、オープニング前に終わっちゃいました

「会津、東北諸藩が必死の抵抗を見せていました。」みたいなナレーションですが、違うだろ??
会津は恭順の意を示してたんですよ!!
それなのに、すでに隠居した松平容保に責任を取らせようとするから、徹底抗戦!!みたいに会津がなっちゃったんです!!
それなのに・・・何で抵抗しようとしているのか??そこを書いてほしいんですよ!!
この作品は、ほんと、勝者の歴史のうわべだけをなぞっているだけで、そこにある志や誠を書いてくれないから、全く持って心がないんです!!

お金も兵糧も、武器も、人もない・・・このままの政府なら負け戦だ・・・という大村益次郎。
寡黙な西郷・・・薩摩を動かせと詰め寄る大村。。。

「この戦・・・最後の最後まで戦いつくさねば終わりません・・・
 お引き受けいたしましょう。」by吉之助

??さっき、この戦、果てが見えないって言ってたじゃない・・・
果てが見えないってことは、止めたいってことでしょ??
それなのに、戦いつくさないと終わらないの??
恭順の意を示していた会津に寛大な気持ちで接すれば終わっていたんじゃないの??
徳川慶喜に一撃を喰らわせたかったのに、大政奉還されて、行き場の無くなった振り上げた拳を会津に振り下ろしたんじゃないの??

やっぱり戦するんだ~~~って思うから、戦自体が軽くなってしまって、そこに居る人の命自体が軽くなってしまいそう・・・

薩摩に戻ってきた吉之助、またもや家に一直線です。
そんな暇ないんじゃないかな??
結婚する時、忙しいから結婚しないって言ってたんじゃないの??
そう思うと、女性ののんびりパートが多くって、忙しいから結婚できないのって理由おかしかったよね??
揚げ足とっているようだけど、話しに一貫性がないから理解できないのよ・・・。
みんな命をかけて戦っているのに、早く兵を連れて東京に帰れよ・・・吉之助・・・!!

って思っていたら、なんでか知らんが有名になった・・・でも、ボロボロの西郷家に金の無心に来る輩が要るって”家”の話が始まります。
人のいい吉次郎が、貧乏なのに、金を貸しているというエピです。
男は体面の時代でしょ??
高名になったのなら、うだつを揚げろよなあ~~。

糸は、大島に書物を送っています。
菊次郎の勉強用です。
これも、吉次郎が用意してくれたものです。
いろいろ西郷家を支えているということを言い出しました。
って、今まででも、兄に代わって西郷家を支えてきた吉次郎です。
いろいろ書くことがあるなら、もっと前から書いてあげたら良かったのにね。

で・・・やっと久光に願い出る吉之助。
なんか、久光、上手く丸め込まれたのか、すぐに援軍を了承しました。
薩摩にも援軍を反対する者も沢山いたんですよ??
この大河って、論じないですよね・・・江戸無血開城の時も、もっと議論して激論を交わしてほしかった。
だって、激論を交わすのも、戦争の一つなんじゃないの??
この作品では、なんでも既に決まっている感がたくさんです。
だから、ドキドキしません。

don
















軍人っぽく命令している吉之助を見るそろばんを持った吉次郎。
何を考える??

ちょっと違う世界を観たくなった吉次郎に自分みたいにケガを負いたいのか??という信吾。
本当の信吾って、バリバリの武闘派です。
そこんとこ、よろしく!!

吉之助が帰ってきたら、妹の琴が帰ってきていました。
「あにさ・・・ちょ、ここに座ってくりゃんせ!!」と、怖い顔して言います。
嫁いだ自分が口を挟むことではないけれど・・・と、前置きはするものの・・・
家の者を労わってくれと説教し始めました。
新しい着物の一つでも買ってやれって・・・
う~ん・・・結構男尊女卑が激しいんですよ・・・九州は・・・。
女性がこんなこと言ったら、もう、ダメだよね・・・
そして、一番我慢しているのは吉次郎だと言い出しました。
欲しいものをいえとか、言い出しました。

う~ん・・・まだ、戦争やってるんじゃないの??
こんな話でなあ・・・

「おいも・・・戦働きがしたか・・・!!」by吉次郎

嫁さんは、行ってほしくないと全力で拒否ります。
この当時の女性に拒否権があったのかどうかも疑問だわ・・・。
武士の妻とは言えんな・・・
なんやかんやで吉之助の許しが出て戦いに出ることに・・・!!

don2
















そして、越後へと出立する吉次郎。

ガトリング砲の説明にやってきた村田新八。
この時、ガトリング砲だから河合継之助が・・・と、一言だけで河合継之助とガトリング砲の何が解るか??と思った私でしたが、ず~っと出ている村田新八のこともわからないので、もういいと、諦めました。

士気も下がっているし、西郷吉之助様に出張ってもらうしかない!!と言いますが、吉之助ならガトリング砲に勝てるんでしょうかね??

で、軍艦で越後へ!!
各方面から来てほしいとモテモテの吉之助です。
吉之助は最終兵器でも持ってるんでしょうかね??
軍議中に・・・そこへ、吉次郎が撃たれたと信吾が言いに来ます。
この作品って、いちいち知り合いがやってくるけど、こんなの伝達がやるんじゃないの??
血みどろで急いで来てさ・・・
そんなとこも緊張感ないって思えてくるんだけど・・・ホントのところはわからんわな・・・。
「兵の命は皆同じ!!」と、今回行かないのか??
みんな、行けって言ってるよ??
泣き崩れる信吾・・・亮ちゃんは泣き虫顔似合うけど、信吾はそんな・・・薩摩隼人だろ??

don3















決着がついてからだけど・・・結局来るんじゃん・・・
史実は会えてないけどね!!
体だけは大切に・・・とか言う吉次郎ですが、優しさを表現したいのかもしれませんが、そこは戦場なんだから、「どんなことがあっても勝ってくれ!!」なんじゃないの??と思う、私でした。
結局、家族のことを沢山描いてきたのに、死んでいく吉次郎のことは殆どキャラ立たず・・・残念!!

この後、戊辰戦争は会津、庄内、箱館と続きました。
そんな中、日本は明治へと新しく生まれ変わり、みんなによる明治政府が出来る・・・??
なんと、戊辰戦争、ナレで終わっちゃったよ・・・。
この大河で死んだり傷ついたりしてるのは、薩摩兵だけだよね・・・おかしくない??
悲惨な東北の戦いを書かずして、何が戊辰戦争なんだよ・・・。
悲劇は吉次郎だけじゃないんだよ!!
と、人の命は同じ重さで、吉次郎が悪いわけでもないのに、思ってしまう私なのです。

遂に・・・明治天皇が東京に旅行に行ってしまいました。
ああ・・・ちょっと東京に旅行に行ってただけなのになあ・・・
次の天皇陛下の即位式のために、高御座がこの秋に東京に行ってしまった・・・
東京の人になっちゃうのね・・・天皇陛下・・・。

don4















もう・・・終わってしまった。。。
この東京を首都にするのには、一蔵の戦いがあったはずなんだけど・・・
天皇陛下をどうやって東京に行ってもらうのか?も、大作戦をやったんだけど、そんなこんなもまるっきりスルーなのね・・・。

明治維新最後の攻防~西郷・大久保”革命”への賭けはこちら
明治日本 首都は三択だった!~大久保利通 東京遷都の真実~はこちら

で・・・いきなり役目は終わった・・・と言って薩摩に帰る西郷さんです。
う~ん・・・これでは自分勝手ではないですか??
何でか全くわからんけど、それが民の為らしいわ・・・
勝手なことを言うな!!と、大久保一蔵に怒られてしまいました。
当たり前だわな・・・。
民の為って言うなら、戦を始めるなよな~~!!

吉之助のために久光のご機嫌を取り、島から帰したり×2、いろいろ卑怯モンをしてきたのに・・・と思ったのか??
フハハハハ!!と、一蔵、壊れちゃいましたとさ!!

やっぱり帰ってきた吉之助・・・
家族がまだ吉次郎の死を知らないなんて・・・それからどれだけ立ってると思ってんねん!!とツッコミを入れたいぐらいです。
知らせてやれよ・・・それぐらい。

「すまん!!死なせてしもた・・・」

結構きつい言い方です。
寡黙というよりは、心がこもっていないというか・・・
抑えた演技なんでしょうが、ザ・寡黙の高倉健命の私としては、その抑えた演技が冷たく感じました。

糸が吉次郎が今まで壺にためていた銭を見せます。
貧乏でも、吉之助のためにとためてあったお金です。
吉之介が何かやるときのためにとためていたのです。

泣き崩れる吉之助なのでした。

髷を切り落とした吉之助・・・何を思う??

もう「西郷どん」をやめるのかな??って思っちゃったわ・・・。
どうしてこんなドラマになっちゃったんだろ??家族の絆や愛を書くなら、もっと吉次郎も掘り下げて欲しかったわ・・・って思ったけど、よく出てくる弟・信吾も、遊び人だったり、戦争は嫌だとか。。。およそ薩摩隼人とは大違いのよくわからない弟だわ・・・。

もっと人間を掘り下げてくださいな~~!!
泣けやんやろ~~!!

結局傷だらけだったのは、薩摩の人たちだけでしたね・・・。

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いよいよドキドキの江戸無血開城です!!

1868年4月、西郷吉之助率いる新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜を大将とする旧幕府軍を打ち破りました。
吉之助は家臣たちを残して逃げ出した慶喜を追い、5万の大軍と共に江戸へと向かいます。
江戸総攻撃の日は、3月15日と決まりました。

ということで、前回、幾島と再会した吉之助は、なんと篤姫に会いに大奥へ!!
これじゃあ、山岡鉄舟の説得も、勝海舟との会談も、必要なしよね??

don4















吉之助が懐かしいだとか、篤姫が「頭を下げねばならぬのは私の方じゃ・・・
 西郷、頼みを聞いてくれ。」
その頼みとは・・・??慶喜の助命嘆願ではなく・・・
「慶喜殿の首ひとつで、この戦を終わらせてくれ・・・!!」でした。

思考回路停止だよ・・・全く・・・。
長州征討に当たっては、当主に責任を負わせたら家臣が黙っていない!!ということで、家老の首3つで勘弁してもらったんです。
そして、白旗を揚げて当主の助命嘆願をした会津は許してもらえず、吉之助たちが松平容保の首を!!と言ったもんだから、あそこまで戦争になったわけです。
だって、松平容保は、会津戦争の頃はもう当主ではなかったし、戦争をしたくなかったのに・・・
つまり、殿の首ひとつで勘弁してほしいなんて、当時の人は言わないんです!!
慶喜の命は、家臣の命すべてよりきっと重かったはず・・・。
そんな赤穂浪士的な感じだったんですよ・・・それなのに・・・
徳川家存続をあんなに望んでいた篤姫の口からこんな事を言わせるなんて・・・最低だよ・・・。

実際の篤姫&和宮は、吉之助や新政府軍に手紙を書いて江戸を守るために頑張ります。
そこんところ、お忘れなく!!
実際に会うなんて、恐れ多い・・・!!
そして、この手紙に西郷は涙したとも・・・

自分も自害する覚悟だと頭を下げる篤姫。
嘘かくなよな・・・
「どうか・・・徳川家だけは救ってほしい・・・」by篤姫
って、その慶喜の首が徳川家なんだよ!!

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・・・それなのに、慶喜の首案件はあっさり却下!!
完膚なきまでに叩くんだそうだ!!

嘘ばっかりの内容に、もう・・・見たくなくなっちゃった・・・。

そんな聞き入れてくれない西郷に、「私も命をかけて戦うのみです!!」という篤姫ですが、どんなにして戦うのか??そんなこんなは全くしてくれません。
幾島のゲホゲホ血を吐くのも、必要ないわい!!
憐れみを誘ってんのか??と思っちゃう。
血を吐いても頑張るって”言うこと”が頑張るんじゃなくって、頑張っているところ・・・例えば、〇〇に文を書いたとかそういうのを見たいんだと!!

「よ・・・西郷どん!!」by海舟
なんの緊張感もなく会談が始まったの・・・??

don















西郷どんに江戸を戦で火の海にするのは止めてほしいとサラっという勝さん。
いや・・・勝さんも火の海にしても慶喜を守ろうとしたんじゃん・・・。
条件も、山岡鉄舟で根回し済みなんじゃないの??
スラスラと降伏条件を話し出す勝さん・・・
それって交渉じゃないよね・・・??
話の分かる勝さんで、慶喜の心も、吉之助の心も汲んだ話し方だわ・・・
この時点で勝海舟は緊張な感じで吉之助と対峙すると思っていたのに、どうしてこう負け犬な感じに仕上がっちゃったんだろ・・・??
もっと、交渉バトルしてほしいのに~~!!

「西郷どんが背負う新しい日本って何だい・・・??」by勝

なんて、フラットに聞く勝さんですが・・・
この時点で、西郷どんにはそんな新しい日本の構想なんてのはありませんよ・・・きっと。

「民を見捨てることは、おいはできもはん!!」by吉之助

と、前半、くどいほど民を思っていたことを、今頃思い出した西郷どんなのでした。
いや・・・民を救うためなら戦争しないからね・・・??

「わかりもした・・・明日の総攻撃は取りやめじゃ・・・!!」by吉之助

「ほんとにいいのかい・・・??」by勝

と、涙ぐむ勝海舟・・・。
西郷どんびいきの男・・・と、自ら西郷好き好き光線を発する勝海舟。
慶喜に会いに行けばいい・・・と、慶喜の首を狙っている男に言うという・・・最低の幕臣だ・・・。
今、自分が幕臣だから慶喜の命だけは・・・みたいなことを言ったのに、その舌の根も乾かないうちにそんなこと言う??
自分達のケンカは自分たちでけりをつけろと、サシで勝負しろって言い出しました。
まさに8933かヤンキーの様です。
泣くなよ~~~!!!
「江戸が焼けないで良かった。
 おかげで今年も上野の桜が見られる・・・。
 西郷どん、ありがとよ。
 こうなったら、上野におめえさんの銅像とやらでも建ててもらわねえと・・・!!」by勝

don3















はああ???なんじゃこの展開・・・!!??
銅像の未来予知・・・ありえへんわ・・・。
この一言、要る??蛇足ってもんでしょ??
で・・・これで終わり??無血開城!!??

こんな勝さん見たくない・・・。
本当に見たい勝さんはこちら

で・・・勝海舟の通り、慶喜に会う吉之助。
護衛もないのか??慶喜・・・??

don2
















この姿・・・もう心は決まっている格好ですが・・・。
「俺を殺しに来たんだろう・・・」と言い出します。
それ・・・死に装束ですよね??慶喜さん・・・??
で・・・早く殺せとか、なんだとか、おバカな話です。

どうして逃げたのか?と聞く吉之助に・・・「おれは・・・ロッシュ殿から逃げたのだ・・・」by慶喜

は??

フランス軍12万軍と、銃5万丁を援助するって言われたんだって・・・。
その代わり、勝利した暁には薩摩をよこせと言われたらしい。。。
薩摩からはイギリス軍も参戦し、日本の中でフランスとイギリスが戦って勝った方が乗っ取るから、乗っ取られないように逃げたのだと言い出しました。

あ~、さいですか・・・。

史実は、勝さんが手配して、イギリスに亡命でもする??って話でしたけど・・・??

吉之助は、慶喜が恐ろしかったらしい・・・
「ようやくわかりもした・・・徳川慶喜様ではなく、ヒー様こそがあなたなのでございもすな?」by吉之助

あ??何言っとんじゃ・・・言いたいことが全く理解できません。
おまけに、徳川に生まれたことが不幸だなんて恐れ多い事を言う始末・・・。
??ヒー様が本当の慶喜ってことは、品川宿で飲んで遊んでいるバカだってことを言いたいのか・・・??

「もう・・・よかでごわす
 徳川将軍としてのお覚悟、この牛男、しかと見せていただきもした。
 ヒー様、よくぞ逃げて日本をお守りいただきもした。」by吉之助

だから・・・何のこと??
”徳川将軍としての覚悟”って、どの部分??なんなの??全く解らないわ・・・
っていうか、脚本家先生の言いたいことが、こっちに全く伝わってこないのよ・・・。
ま、フランス精鋭部隊12万軍って言われた時点で「ウソこけ・・・」って思っちゃうから真実味全くなし!!

で・・・殺す、殺すって言ってた慶喜を殺さなかった西郷・・・
木戸が怒ってますが、当たり前でしょう。
史実ではイケイケどんどんの大久保ももう、戦争反対派だしな・・・。

江戸は江戸も徳川家も助かったと、勝と山岡に礼を言う慶喜。
「苦労を掛けたな・・・」by慶喜
「いや・・・一番苦労したのは私たちじゃござんせんよ・・・西郷です!!
 あの男がやってくれやした!!」by勝

やめて~~~!!

勝さん、そんなこと言わないよ・・・
で、何やったって言うんだよ、西郷吉之助!!
敵だろ??なに敵の事褒めてんねん!!天晴なこと、いつしたんだよ!!

1868年4月11日、江戸城明け渡しの日・・・。

城明け渡しでは・・・
またもや篤姫&幾島にあって・・・慶喜の命をとらなかったことを、「西郷さん・・・相変わらず本当に人がよろしいわ・・・」と、幾島に言わす・・・この展開・・・最悪。
「そなたが勝ったのです。そなたの決めたことには逆らえません。」by篤姫
いやいや・・・そんなこと言いません。
徳川の家を守ってくれたことに感謝する篤姫。

「西郷・・・礼を言います。」だって・・・。
徳川が260年かけた書物を差し出す篤姫。
こんだけしかないんか??と言いたくなるしょぼい量です。
西郷の作る国が見たくなった・・・と、ホンワカな3人ですが・・・こんな笑って応対できひんやろ・・・??

もう・・・なんでもええわ・・・。

どこにもいない西郷を、「先生、先生」と探すみんな・・・吉之助は・・・
二宮尊徳の書を胸に寝ていました。
あ・・・キンチョー感ないわ・・・。
で・・・放っていくなよ、みんな・・・。

こうして後の世に言う江戸無血開城は終わったのです。
う~ん・・・全く違うから江戸無血開城って言わないで・・・

しかし、新たな騒乱が起きようとしていました。
上野寛永寺には、彰義隊が・・・やりたくない戦いが始まりました。
って・・・やりたかったんだろ??新政府軍!!
え~!!
会津や米沢、庄内、仙台が徹底抗戦だって。
榎本武揚も軍艦で脱走!!
って・・・会津は、さっきも書いたけど、恭順の意を示してたんだよ・・・
でも、振り上げたこぶしを慶喜に振り下ろすつもりが慶喜が隠居しちゃったから会津に振り下ろしたかったんでしょ??
やりたかったのは、新政府軍の方じゃないの・・・!!
どうしてそうなるかな・・・!!??

そして、そして、いきなり大村益次郎登場。
いきなりだよ・・・「以後お見知りおきを・・・」って、そんないきなり出てきて戦略言い出しても説得力なし!!

「そうか・・・あの大村が出てきたか」by勝

この一言で、大物感を出すという作戦かっ??
「せっかく江戸で血を流させずに済んだってのによ・・・
 お前さん、これからも戦い続ける気かい??」by勝

なんで西郷と酒酌み交わしてんねん・・・??

「死んじゃいけねえよ・・・西郷どん、西郷どん、龍馬が言った新しい国を作ってくれ」by勝

・・・

きっと、勝さんはそんな人じゃない・・・。

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東京が首都になったのは150年前・・・京都から都が移されました。
しかし、東京遷都は、正式には宣言されていません。
それどころか、「首都は東京」と定めた法律もありません。
その理由は明治の初めにありました。
徳川幕府が終焉し、明治新政府が樹立・・・近代国家・日本を目指すために、浮かび上がったのが遷都でした。
この遷都を最初に提案したのが大久保利通でした。
1000年の都京都からどこに移すのか??

①大坂遷都
②江戸遷都
③京都・江戸両都

それぞれの案をめぐって、明治政府は紛糾し、瓦解の恐れもありました。
首都はどこに??遷都宣言はどうして行われなかったのか??

1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い・・・
薩摩長州を中心とする新政府軍と旧幕府軍が京都で激突しました。
結果は、新政府軍の圧勝・・・新政府が日本を代表する政権として確立します。
新しい政権は、天皇の元、総裁(有栖川宮熾仁親王)・議定(皇族・公家・藩主)・参与(公家・藩士)が政治を行うこととなりました。
国の忠臣は京都・・・誰もがそう思っていました。

しかし、1868年1月23日・・・
京都から都を移そうという建白書を出した男がいました。
大久保利通です。
大久保は新政府では参与に任命され、近代国家日本の確立に邁進していました。
大久保の建白書には、都を移す理由と場所が書いていました。
「全てを新ため一から始めようとする王政復古の現在において、実行されるべきは遷都である。」
都を移す先としては、他国との外交、富国強兵などの条件を考えると、地形的に大坂が適当である・・・
”大坂遷都建白書”でした。

さらに大久保は・・・
「天皇が外国の帝王のように従者を連れて国中を視察し、民を大切に育てる・・・それが君主として正しい道である。」と。
大久保が遷都する理由は、若き明治天皇の在り方にありました。
日本を諸外国に対抗する近代国家とするには、古くからの天皇を刷新する必要があるというのです。
それまで天皇は、御所を一歩も出ることなく育てられ、公家たちに囲まれ政治から遠ざけられていました。
大久保は、西洋のように民衆の前に姿を現して近代化を自ら指揮する君主を目指すべきだと考えていたのです。
そのためには、都を京都から、外交、富国強兵、軍備増強に適した大坂に移す遷都を行うべきだと考えていたのです。
大久保は大坂遷都で何を変えることができると怒っていたのでしょうか?
天皇を取り巻く環境を変えなければ、新しい時代は出来ない!!
従来の朝廷の場所で、新たな天皇像を出すのは非常に難しい・・・。
そのために、当時の朝廷、京都から一旦天皇を引き出す狙いがありました。
突然の提案に、公家たちからは猛反対を受けます。

公家たちからすれば、王政復古をすることができたのに、天皇が千年の都・京都から出ることは考えられませんでした。
しかし、更に大久保は続けます。
「未曽有の大変革に当たり、数百年来の因循の腐臭に凝り固まっている朝廷を改革しなければならない。」

この指摘に公家たちは激高!!
互いに主張を譲らず会議が難航!!
会議に出席した大名は・・・
「この問題がこれ以上こじれると、政府が瓦解する恐れすらある・・・!!」

3日後・・・1868年1月26日、大久保の大坂遷都案は廃案となりました。

2月15日・・・新政府軍は関東・東北の旧幕府勢力を制圧する為、東へと出発!!
東征軍です。
一方で大久保は、改革策を考えていました。
それは大坂行幸です。
とにかく、天皇を京都御所の外に連れ出そうというのです。
しかし、それは簡単なことではなく・・・
江戸時代、天皇が御所の外に出た行幸は、僅か3回・・・。
1回目は後水尾天皇の二条城行幸、2回目は孝明天皇の加茂社行幸、3回目は同じく孝明天皇の石清水八幡宮行幸です。
行幸の距離は、輿にのって30分~40分でした。
それを大坂まで・・・かつてない行幸を公家たちに認めさせるためには、大きな困難が予想されました。
そこで、行幸案を盟友・岩倉具視に相談します。
岩倉を通して、新政府に提案します。
岩倉は、意見書に認めます。
「天皇自ら江戸、および会津の賊軍を討てと仰せつけください。
 それにはまず、大坂の海に自ら臨まれ、軍艦の運用方法や鉄砲の作用などをご点検ください。
 そうすれば軍の士気も上がり、人心は一致協力いたします。」
遷都に結び付く表現は一切なく、保守派の公家たちも、大坂行幸を認めざるを得ませんでした。

1868年3月21日、明治天皇大坂行幸に出発。

天皇が京都の外に出るのは初めてのことで、総勢1655人の行列に囲まれ、煌びやかな輿にのって現れた天皇・・・
沿道は、それまで見たこともなかった天皇を一目見ようと賑わい、埋め尽くされます。
3月26日、天皇は、大阪湾・天保山で、大坂行幸最大の行事絵ある海軍展覧を行います。
21発の礼砲が撃たれたあと、天皇の目前を6隻の軍艦が行進・・・
天皇は大きな感銘を受けました。
それはまさに、大久保が狙っていたことでした。

4月9日、京都にいた大久保は大坂に赴きます・・・
天皇が新政府で努力している者たちに直接会って報告を聞きたいと大久保を呼んだのです。
この時、初めて天皇と顔を合わせた大久保・・・それまでは御簾越しだったのです。
天皇と直接対面できた大久保・・・この日の日記に記しています。

「天皇に謁見を許されたのは、一藩士の身分としては、実に未曽有のことであり、この幸せに涙を流すほかない。
 嬉しさのあまり、午後2時ごろから祝の酒を飲んでしまった。」

大久保は、将来の政治は我々藩士が身分を問わず、担わなければいけないと思っていました。
これを突破口にして、新しい政治に向けて一歩でも踏み出せる・・・
そういうものが、大坂で実現したという感激があったのです。

天皇が大坂に行幸して20日後の4月11日、遷都に関わる新しい事態が起こります。
江戸城明け渡しです。
260年間徳川幕府が政治の中心とした江戸が、無傷で新政府のものとなったのです。
江戸開城から1か月後・・・大久保は1通の書状を受け取ります。
差し出し人は旧幕臣の前島密・・・後に、明治政府で郵便制度を確立させた人物です。
認められていたのは江戸遷都案でした。
大坂より江戸にふさわしい理由も書かれていました。

大坂は水路が発達しているものの小型船中心。
今後、海外との貿易を考えると、海外の大型船の入ることのできる港が必要。
江戸なら横浜に港があり、諸外国と貿易が行われている。
さらに、横須賀には造船所が作られつつある。
大坂は都にならなくても商業の街として栄えるが、江戸は都にならなければ住民はチリヂリとなり、人口100万の世界有数の大都市が寂れ果ててしまう・・・。
ロシアの南下を考え、蝦夷地の開拓を考えると、江戸の方が大坂よりも有利である。と。

大久保は、この前島密の案に大きな可能性を感じます。
しかし、問題も・・・
当時の江戸は、旧幕臣などの反発勢力はたくさん存在していました。
東北では、奥羽諸藩が朝敵とされた会津藩などの赦免を求めて新政府と対立しつつありました。
当時の江戸は、天皇や政府関係者の安全、治安を確保できうる状態ではありませんでした。
しかし、新しく登場した江戸遷都案は、遷都が天皇の在り方だけでなく、日本の近代化を左右する重大な選択であることを意味していました。

1868年閏4月、新政府に新しく遷都案が提起されます。
佐賀藩の大木喬任、江藤新平による東西両都案です。
江戸を東の京として、東西二つの都を天皇が鉄道で行き来するという構想です。
江藤は、意見書を提出するにあたり、新政府軍の様子を詳しく調査していました。
新政府軍と敵軍が勝負を譲らぬまま月日がたち、上官も一兵卒も疲れ切っています。
東日本の人々の気持ちを落ち着かせるのは、天皇が江戸に下られるのに勝る策はありません。
関東・東北の争いを鎮め、人心を案じるには、江戸に天皇の居場所が必要・・・という意見でした。
そして、二都ならば、公家たちの理解を得やすい・・・

新しい日本の都はどこにあるべきか??

①大坂遷都
国を富ませるためには大坂が一番だが、道が狭く水路も細い・・・。
鳥羽伏見の戦いで大坂城は焼け、新政府が官庁を置く場所もない・・・。

②江戸遷都
江戸城は明け渡されたものの、江戸にはいまだ新政府に反感を買うものも多い・・・。
東北諸藩も、まだ新政府に従っていない。
これらを速やかに治めるためにも、天皇を江戸に移し、御威光を広めることが肝要・・・。
しかも、無血開城した江戸は、江戸城や大名屋敷が無傷のまま残っていて・・・このまま新政府の官庁として利用することができる。
しかし、幕府の残党を除いても、幕府のあった江戸を都とするのは、新しい日本を内外に印象付けることができるだろうか??
大坂でさえ反対した公家たちは、猛反対するだろう。

③京都・江戸両都
共に都と定める??
京都の公家たちも説得できる・・・しかし、鉄道建設の費用はどうやって捻出するのだ??
大坂への行幸ですら10万両という莫大な金が必要だった。
天皇の移動のたびに、政府機関も動くとなれば、どれだけの金が必要なのか・・・??

いずれの選択肢にも、大きな課題がありました。

1868年5月、大久保の決断を促す事件が起こります。
江戸で上野の山に籠っていた旧幕府勢力・彰義隊が一掃されたのです。
さらに、徳川宗家と家臣たちが静岡に移ることが決定!!
江戸は名実ともに、新政府のものとなりました。
すぐさま大久保は動き出しました。
6月に京都を出発し、江戸に向かいます。
6月27日、江戸城に、大久保利通、木戸孝允、大木喬任、大村益次郎と、遷都推進派が集まりました。
そして、御東幸 御決定・・・!!
大久保は、江戸への遷都を決断したのです。
しかし、あえて遷都という言葉は使わずに、東幸という言葉を使いました。
さらに、正式発表に当たっても細心の注意を図ります。
1868年7月17日、天皇の詔書が出されます。

江戸は、東日本最大の都市であり、天皇自ら統治すべきものである。
よって、これから江戸を東京と称する。

この日を境に、江戸は東京となりました。
しかし、大久保たちは東西同視として、京都を都のように表現します。
京都の公家たちの反対はもちろん、京都市民が立ち上がり公家も巻き込む・・・
更には神社、お寺・・・寺社勢力が強いので、旧来の力を持っている人たちと京都の市民たちが一体化して、反対運動があれば、大きい反対運動となるので、遷都という刺激的な言葉は使わずに、東京に天皇を連れ出す・・・ということにしたのです。

9月20日午前8時・・・明治天皇東京行幸出発!!

その道中、天皇とその一行は、行く先々で人々と積極的に触れ合いました。
名古屋近郊では稲刈りを天覧・・・農民たちには菊の紋章の入った饅頭300個が配られました。
天皇を新しい指導者として人々に印象付ける一大イベントとなりました。
京都を出発して23日後の10月13日、東京に到着!!
沿道には天皇を見ようと多くの人が集まりました。
豪華な衣、冠を身に着けた公家や政府要人・・・
煌びやかな大行列は、江戸の人々の心を捕らえました。
午後3時・・・天皇が江戸城に入ります。
迎えた大久保は・・・

「千年に一度の大きな出来事・・・この喜びは言葉にできない。」

この日江戸城は、東京城となり、京都御所と同じく皇居と定められました。
11月4日、天皇の名で東京市民に酒が振る舞われました。
人々は2日間にわたって仕事を休み、飲んで踊って祭り気分に酔いしれました。
東京市民に天皇を身近に感じてもらおうという大久保たちの仕掛けでした。

50日に渡って東京に滞在した天皇は、一旦京都に帰ります。
しかし、1869年3月28日、再び東京城にに入りました。
この時、最高機関の太政官も東京に移動。
以後天皇は、居を東京城に定め、事実上東京遷都となったのです。
明治政府が東京遷都を宣言することはついにありませんでした。

天皇が去った京都は公家や官吏、有力商人も東京に移り、さびれてしまいました。
しかし、明治半ばになると、千年の伝統をアピールして国際観光都市として発展を続けます。
大阪はその後、商業だけでなく工業都市としても栄え、大正時代には東洋のマンチェスターと言われ、一時は日本最大の人口を誇る都市となります。

首都となった東京は、近代化に伴って、天皇のいる政治の中心だけではなく、様々な産業が発達し、巨大都市への道をたどることとなるのです。

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1866年6月、徳川幕府の大軍勢が西へ・・・
目的は、幕府に反抗するたった一つの藩を叩き潰すため・・・!!
その数十数万・・・。
迎え討つのは長州藩、その数およそ5000!!
この絶望的な兵力差にもかかわらず、長州を劇的な勝利に導き、幕府崩壊のきっかけを作った男・・・
その名は、大村益次郎です。
勝海舟は・・・「長州軍に大村益次郎が出て来ては、とてもかなわぬと思った。」と言っています。

元々は村医者・・・しかし、兵学者へ成長。
長州藩の命運は、大村益次郎に託されたのです。

山口県山口市・・・当時は鋳銭司村と呼ばれていました。
明治維新からさかのぼる事40年前、1825年5月3日、大村益次郎はこの地に村医者の子として生まれました。
1846年、22歳の時、大坂に出ます。
その目的は当時日本で指折りの適塾に入る事・・・。
塾生には、福沢諭吉、大鳥圭介、佐野常民などがいました。
大村は、一心不乱に医学を学ぶ塾生として、注目されていました。

そして3年後には25歳で塾頭に上り詰めました。
当時、適塾の塾頭には、好待遇で仕官を求めてくる藩がいくつもありましたが・・・
翌年の1850年、26歳で故郷に帰りました。
家業の村医者を継がなければならなかったからと言われています。
このままいけば、ただの村医者として一生が終わる・・・。

ところが29歳の時・・・宇和島藩で。
江戸時代、10万石の城下町として栄えた宇和島市。
時の藩主は伊達宗城。数ある大名の中で格別の蘭学好きでした。
大村は、持っている洋学の知識、蘭学の知識、語学の知識を時代に生かそうと思っていたようです。
この宇和島行きが大きな転機となります。
宇和島藩が大村に求めたのは、本業の医学ではなく、兵学でした。
得意の蘭学を生かして、西洋の軍事書物の翻訳を命じられたのです。
こうして、大村の専門は、医学から兵学へ・・・!!

そんな西洋兵学の知識を深めていった大村に目を付けたのが・・・時の政権・徳川幕府でした。
3年前の黒船来航・・・圧倒的武力で開国を迫ってきたペリーになすすべなしの幕府・・・。
開国をきっかけに、老中・阿部正弘を中心とした首脳部は、優秀な西洋兵学者を集め始めました。
大村は、その目に留まったのです。

1856年11月、32歳で、蕃書調所の教授手伝に就任。
翌年には、講武所の教授に就任。
大村益次郎、33歳・・・長州の村医者が、兵学者に歩みを変え、幕府に仕えるまでに上り詰めたのです。
そんな大村に更なる誘いが・・・
それは、故郷・長州藩でした。
依頼内容は、江戸で兵書の翻訳や、藩士相手の蘭学の先生をして欲しいというもの・・・。
大村が適塾で優秀な成績を収め、故郷で村医者をやっていた時には見向きもしなかった長州藩。
どうして態度を変えたのでしょうか??
当時、長州藩は、諸外国を排除する攘夷を主張していました。
外国と渡り合うためにも、大村の西洋兵学の知識が必要だったのです。
大村は、兵学を通じて桂と親しくなり、故郷でも有名になっていきます。

それから5年・・・幕府にも長州にも頼られ、順風満帆な生活を送っていた大村。
しかし、その人生を大きく揺るがす大事件が・・・!!
1863年5月10日、長州藩、関門海峡を通る外国船を攻撃!!
しかし、翌月手痛い反撃に!!
外国の軍事力の前に、長州は手も足も出なかったのです。
このままだと外国に飲み込まれてしまう・・・。
長州藩は、大村に救いの手を求めます。
「外国の軍事力に対抗するため、幕府の役職を辞め、長州に戻ってきてほしい。」と。

幕府に残るか??長州に戻るか??
この時点で安泰なのは、幕府に残る事・・・。
ところが選んだのは長州藩でした。
そこには、大村の幕府に対する不信感があったのです。
大村が友人にあてた手紙には・・・
「大名に砲術などを研究する講武所をみせた。
 大神宮様(阿部正弘)はご自慢だ。
 にもかかわらず、自分の藩の軍隊には今も弓矢を持たせている。
 何のことやら、一切訳の分からない事だ。」と書いています。
大村は、研究はするが、武士そのものの戦い方を変える気などさらさらない阿部を見限っていたのです。
一方の長州藩には、新しい改革が・・・奇兵隊です!!
長州は、これまで武士にしか認めなかった武器を庶民にももたせ、軍事改革をしている長州に、大村は可能性を感じていたのです。
1863年10月、39歳の時に、長州に帰ります。
そして幕府には辞表を・・・!!
兵学者・大村益次郎の一大決心でした。

西洋兵学を学ぶ意義を・・・海軍従卒練習規範に書いています。
「私は、自分が浅はかであることを顧みず、今この本を訳し出版する
 皇国の確固たる独立のための武力をあげ、国家に利益があることを願うのみである。」
自分の能力を認めてくれる場所を求めて・・・行きついた場所は、日本を守りたいという自分の信念の生かせる長州でした。

西洋列強という巨大な敵と戦う決意をした長州藩・・・
しかし、そのためには戦い方の根本を考え直さなけれな・・・!!
大村は、藩の存亡をかけた大改革を託されます。
散兵戦術・・・
「アメリカ独立戦争以来、散兵戦術を用いることが盛んになった。」
西洋で主流となっていた散兵戦術とは・・・??
通常武士は、己の手柄をあげるため、個人個人で敵を目指して突っ込んでいきます。
一方、散兵戦術は、数人単位で行動・・・広く散会しながらも、全員共通の作戦目標の元、敵に向かっていきます。
この時兵は、決められた目標に向かって隠れながら進んでいきます。
兵を統率する指揮官が把握したうえで命令を出します。
そのため、散兵戦術は、兵も指揮官も、徹底的な訓練が必要となりました。
この戦術がみにつけば、敵が多くても少ない兵力で勝つことができる・・・!!
しかし、この大村の改革が実行される前に、長州には次から次へと難が降りかかります。 

1864年8月、英仏蘭米四国連合艦隊が下関を攻撃!!
長州に対して猛攻撃を開始!!
近代兵力の前に、長州藩はなすすべなし!!
さらに1月前には禁門の変が起こっていました。
長州藩は、幕府に完膚なきまでに叩きのめされ朝敵に・・・!!
幕府は15万の軍勢で長州藩を包囲・・・長州藩には降伏するほかありませんでした。
そして藩内は、幕府恭順の一派が牛耳ることに・・・。
その結果、大村は、藩の軍事担当から外されてしまいました。

大村の軍事改革は消え去ったかに見えましたが・・・
一人の藩士が立ち上がります。
高杉晋作です。
1865年1勝月、高杉晋作が、幕府の正規軍を破ります。
結果、長州藩は、再び幕府と対立の道を進みます。
これに対し幕府は、30藩以上から十数万人を動員し、長州を討つべく・・・
迎え討つ長州藩は5000!!
この絶望的劣勢を覆すには・・・この難題を任されたのが大村益次郎でした。

近代兵器の導入
躍起になって集めた武器がミニエー銃。
幕府に対抗する為に、4300丁購入しました。
その特徴は銃身の中・・・らせん状に溝が刻まれています。
銃弾は回転し、射程距離が格段に伸びるのです。
その射程距離はこれまでが100mに対し、500m!!
さらにミニエー銃から照準がつけられていて、これによって命中精度が5倍増します。
しかし、数で勝る幕府軍と対等に戦うためには、見合った近代的な戦術が必要です。

散兵戦術は、当時の兵には実現不可能と思われました。
関ケ原では・・・武士の周りにいる槍や旗を持った人々は奉公人で、その役目は自ら戦う事ではなく、主人を飾り立て手助けすること・・・。
武士は自らを手助けさせるために、無駄な戦力を共にしていたのです。
大村は主従関係で結ばれている武士と奉公人の関係を断ち切ろうと考えます。
武士から切り離した奉公人たちを藩が直接管理し、藩が任命した指揮官の元、兵とする。
そうすると、奉公人たちが兵力となるのです。
さらに奉公人から引き離された武士を銃を持つ兵に・・・
武士集団の解体に挑もうとしたのです。
しかし、それは、800年続いた武士の主従関係を根底から覆すことになってしまう。。。
武士の否定・・・軍制改革・・・??
それは、武士の反発を招き、最悪の場合、分裂を招く恐れが・・・

迫りくる幕府軍に対し、どこまで改革をするべきか??
1865年5月28日、毛利敬親は、重大な方針を家臣に告げました。
「平成は西洋陣法を採用!!」
長州藩はしがらみをすべて捨て、西洋式の軍事改革に突き進むことに・・・!!
大村たちは、前代未聞の改革をするために、絶対的存在の藩主の命令と言う切り札を使ったのです。
藩士たちに信じがたい命令をします。
それは、甲冑の売却!!
先祖代々の甲冑を売却し、そのお金でミニエー銃を買う・・・!!
さらに非情な命令は続きます。
「御一門などの家老職は、戦の時は総奉行としていたが、これからは一部隊とする。」
「主人は一人単騎で働く心得を持って、無用の従卒を連れて来てはならない。」
無用となった従卒は、藩士の禄高によって決められた人数を藩に差し出すように命じました。
これによって長州藩には主従による武士集団は消滅。
代わりに判を頂点として近代軍隊が誕生しました。
奇兵隊などの諸隊以外の・・・家臣団の隊も、西洋式となっていたのです。

1年後の1866年6月、第二次長州征伐
遂に幕府軍が長州に押し寄せてきました。
幕府軍は、芸州口・大島口・小倉口・石州口の4カ所から・・・総勢十数万の大軍勢・・・!!
大村が直接指揮を執ったのが石州口でした。
島根県益田市・・・敵の領地であるここに、打って出る作戦を立てます。
幕府軍があったのが萬福寺。
大村は最新式の銃と、散兵戦術で攻め立てます。
この散兵戦術に翻弄する幕府軍・・・。

「敵は、卑しい黒い装束で、ミニエー銃を持ってあちこち5~6人が隠れて撃ってくる。
 賊徒同様の振る舞いだ!!」

従来の戦術からは、正々堂々と姿を現し戦う・・・西洋戦術では、身体を保護しながら銃撃するのは非常に基本的な事でした。
これまでの武士とは全く違う方法で戦った大村。。。

民衆を味方につけ、武器、戦術ともに勝った長州藩は、幕府軍を圧倒!!
3か月に及んだ戦いは、幕府軍の撤退をもって終わったのです。
僅か長州一藩に敗れた幕府軍・・・その権威は完全に失墜したのです。
翌年・・・260年の長きにわたって日本を支配した徳川幕府は崩壊・・・
明治という新しい時代を迎えるのです。

長州だけでなく、日本全体を近代化へと導くこと・・・大村の役割はここからがスタート・・・!!
ところが、1869年9月4日、京都で襲撃されます。
襲った中には、大村と同じ長州藩の人間もいました。
彼らは大村を許せなかったのです。

大村は全身6カ所に大傷を負いながら、自らの不運を嘆くよりも軍の改革に生かそうとします。
「自分は兵士同様の傷を受けて、軍事病院が不可欠だということを知った。
 至急、軍事病院の基礎を作らないといけない・・・」
深い傷を負いながらも、軍事病院の建設を訴えた大村は、徹頭徹尾合理主義を通して来た男らしい言葉・・・
この書状を送った半月余りのち・・・
1869年11月5日 大村益次郎死去・享年45歳でした。

大村の遺体は山口に運ばれ眠っています。
大村益次郎・・・彼の決断は、800年続いた武士の世さえも終わらせ、日本の近代の礎を築くことに繋がっていったのです。



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>「幕末維新」の不都合な真実 [ 安藤優一郎 ]

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