先ごろ、ローマ教皇が38年ぶりに日本を訪問・・・広島や長崎を訪れました。
人々が平和に暮らせる世界を願い、祈りを捧げました。
日本に初めてキリスト教が伝わったのは、今から遡ることおよそ470年前。。。
この国は戦乱に明け暮れる戦国時代の真っただ中でした。
キリスト教は救いを求める人々に瞬く間に広がり、大名の中には自ら洗礼を受けるものまで現れました。
その中でも、戦国最大のキリシタン大名であったのが、九州6か国をおさめた大大名・大友宗麟です。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと出会って、その布教活動を手厚く保護・・・宗麟の領国・豊後では、最盛期にはキリシタン3万人を超えたといわれています。
当時、ヨーロッパで作られた日本地図には、九州をBVNGOとし、JAPANと並ぶ一つの国とみられていました。
ルイス・フロイスは、宗麟のことを「日本にある王侯中、もっとも思慮あり、聡明叡智の人」と称えています。
近年の発掘では、南蛮貿易で手にした莫大な富と力を示した品々が伺えます。
ところが、その繁栄を揺るがしかねない選択が宗麟を待ち受けていました。

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フランドル絵画の巨匠Anthony van Dyckの描いた絵・・・
左側がフランシスコ・ザビエルで、右側がなんと大友宗麟です。
ヨーロッパではこんな風にイメージされていました。

実際の肖像画はこちら!!

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大友宗麟は、キリスト教をヨーロッパの文化や文明と一緒に丸ごと受け入れました。

大分県大分市・・・大伴家の最盛を築いた大友宗麟の拠点です。
市の中心部では、大規模な発掘調査が行われています。
それは、全国でも類を見ないほどの館でした。
歴代当主が暮らした大友館・・・広大な敷地に行けや庭園まである全国でも屈指の規模の館だったと思われます。
館を中心に、道が整然と格子状に敷かれ、45もの町が形成されていたといい、およそ5000軒の町屋が並んでいたといいます。
当時の国際貿易都市の堺、博多と匹敵する規模の町があったのです。
発掘調査では当時の繁栄を物語る品がたくさん出土しています。
当時、この館の当主である大友宗麟が、南蛮貿易を積極的に推し進め、たくさんの東南アジアと西洋に関する文物が輸入されていました。
ベトナムやタイの陶磁器、ヨーロッパのベネチアングラスも見つかっています。
南蛮貿易で莫大な財を得ていた証です。
大伴義鎮・・・後の宗麟は、1530年に大友家の長男として生れました。
鎌倉以来、400年にわたって豊後国を治める名家だった大友家・・・宗麟はその嫡男として誕生したものの、当主の座につくまでの道は順風満帆ではありませんでした。
弟・塩市丸を当主にという派閥に、父の義鑑が結託・・・宗麟派の粛正を画策するものの、弟は殺害され、父も巻き込まれて死亡する事件が勃発しました。
そんな肉親同士の骨肉の争いを経て、1550年大友家21代当主になります。
時に21歳・・・不安定な領国統治のために目をつけたのが南蛮貿易でした。
1543年、種子島の鉄砲伝来以来、日本とポルトガルとの交易が始まりました。
豊後・府内はポルトガル船に港を開放し、一大貿易拠点として発展していきます。
ポルトガルから商人が行き交い、町は大いににぎわったといいます。
カンボジアから宗麟に象が贈られたとの記録もあります。

世界史的にみると、大航海時代が日本にやって来ていました。
それに対応する九州の大名は、陸上だけでなく海上勢力とも立ち会わなければならない・・・
そこに活路を見出した・・・一番最先端をいった大名が大友宗麟でした。
宗麟の領国経営を支えた南蛮貿易・・・その成功の裏には、ある人物がいました。
1551年、宗麟はそのイエズス会宣教師を自らの屋敷に招きます。
イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルです。
日本にキリスト教を最初に伝えた人物です。
その時の宗麟の様子がイエズス会側の記録に残っています。

「彼は司祭に対して敬意を表し、愛情をこめて歓迎した」

はるばる日本まで布教に来たイエズス会の活動の背景には、この頃のヨーロッパでの歴史のうねりがありました。
15世紀末・・・大航海時代を切り開いた大国スペインとぽrとがると出の海外領土分割条約・・・それは、独自に引いた線から東はポルトガル、西はスペインが植民地として支配する、世界を二分するというものでした。
アジアへの進出を目論むポルトガルの援助を受け、一体となって進出したのがカトリック教団のイエズス会でした。

大航海時代、ポルトガルとスペインは、海外に植民地を獲得するため進出しました。
カトリック教会が、この枠組みに乗って、海外布教を実現させました。
国家は植民地獲得のために、教会は不況のために・・・
相互に癒着しながら、海外に進出していました。
日本に進出したイエズス会は、キリスト教の布教・保護を領主に求めます。
その見返りとして領主にはポルトガルとの貿易の便宜を図りました。
宗麟はザビエルの求めに応じて、豊後での布教を許可し、多くの土地を提供します。
府内には、教会や育児院などの施設が・・・病院では治療が無料で行われたといいます。
さらに音楽や演劇など西洋の文化が積極的に取り入れられ、府内は異国情緒あふれる町となっていきました。
府内で集中して出土するメダイ・・・この素材は南蛮貿易で輸入したタイの鉛でした。
これと同じ鉛を使って作っていたのは火縄銃の鉄砲玉です。
キリスト教を保護することによって南蛮貿易の恩恵・・・それは富だけではなく、軍事的なメリットもありました。
大友宗麟がキリスト教を受け入れたのも、信仰的な理由も大きいが、戦国時代の中でヨーロッパの進んだ武器を手に入れるということは当然でした。
さらに、重要な貿易品が火薬の原料となる硝石でした。
南蛮の良質な硝石を確保することは、戦国大名の大きな課題でした。
宗麟は九州への進出を企てる毛利氏との戦いの中、ポルトガル側に書状を送っています。

「山口の王(毛利氏)への硝石の輸出を取りやめて、私だけに良質の硝石を輸出してほしい
 そうすれば、山口の暴君は領国を失い、キリスト教は今後も私の国で一緒にいられるだろう」

宗麟は、さらにポルトガルから大砲(国崩)まで入手していました。
領国の強化を図る宗麟と、アジアでの布教拡大を目指すイエズス会・・・両方の思いが合致して、大友家は繁栄を迎えていきます。

豊後から九州全土へと勢力を広げていく大友宗麟・・・
1559年には九州6か国を領有し、室町幕府から九州探題に任じられます。
その間も宗麟の領国では、キリスト教の布教を一貫して保護し続けました。
日本全国でも布教は実を結び、信徒はおよそ10万人に・・・!!

肥前のキリシタン大名・大村純忠の領国に残る記録には、キリシタンが数多くの神社仏閣を破壊し、僧侶を殺害したと書かれています。
キリスト教徒と既存宗教との確執は・・・??
イエズス会では神社仏閣の破壊は日本人のキリシタンが勝手に行ったものであると主張しています。
実際にはイエズス会の宣教師が、日本人のキリシタンに神社仏閣への放火などをそそのかしたのでは・・・??
ヨーロッパ人の宣教師にとって見れば、日本の宗教や信仰というものは偶像崇拝に当たります。
本来容認できるものではありませんでした。
一方仏教徒も・・・キリシタンの住む町に放火、教会は焼け落ち、宣教師は国外に避難する事態となりました。
こうした宗教間の軋轢に、宗麟も悩んでいたといいます。
イエズス会の記録によれば、キリシタンになることを勧めた宣教師に対して、宗麟はこう答えたといいます。

「私がキリシタンになろうとすれば、家臣たちは私を国守と認めなくなるだけでなく、それ以前に殺されてしまう」

大友家は代々禅宗とのかかわりが深く、豊後は仏教信仰に厚い土地柄でした。
1562年、33歳の時、キリスト教の保護をしながら、宗麟は出家し法名を名乗ります。
この時より宗麟の法名を名乗ります。
キリスト教に偏っていたわけではなく、仏教・禅宗への信仰心を維持していました。
宗教受容の多様性・・・その姿勢は、西国大名の場合は根本的に持っていました。

宗麟が目指したものは何だったのか・・・??
この頃、宗麟は本拠地を府内から臼杵に移しています。
出家をしながらも、キリスト教色の濃い町づくりをしています。
町づくりで特徴的なのが、城から教会へとのびる大通り・・・
イエズス会師の教育施設も建てられ、臼杵はキリスト教布教の一大拠点となりました。
近年の発掘調査では、国内最大規模のキリシタン墓地・・・棺桶を埋める穴や、墓標となる石材が66個も発見されています。
さらにこの墓地からは、十字架が建てられた広場や、礼拝堂と思われる建物の跡も発見されています。
臼杵では、キリシタンたちが平和に暮らしていた時代があったのです。
臼杵での宗麟は・・・??
自分は平和のうちにどうやったら領国が統治できるか苦慮していました。
そのために、キリスト教が最もふさわしい教えではないか??
自分の領国を平和のうちに統一して運営できるために、キリスト教を導入したいと思っていました。
キリスト教と既存の宗教が共存できる領国統治を目指した大友宗麟・・・
しかし、その繁栄を大きく揺るがしかねない選択が迫っていました。

日向国を巡って、宗麟は大友家の命運を左右する選択を迫られます。
当時、日向の大半を治めていたのは伊東氏でした。
南の薩摩・大隅を治めていたのは武門の名門・島津氏でした。
1576年、島津氏が日向の伊東領内に侵攻。
領地を奪われた伊東は、姻戚関係のある宗麟に援軍を求めてきました。

この当時、大友と島津の間に大問題が発生していました。
発端は、南蛮貿易を行う大友の船が、島津領で行方不明になったのです。
大友側は、船と積荷が島津に横領されたと疑っていたのです。
さらに日向は、大友家の南蛮貿易にとって重要な寄港地でした。
大友、島津にとって、南蛮貿易の利権をかけた戦いの側面を持っていました。
日向に出兵し、島津と戦うか??否か・・・??

①出兵を回避する??
島津と戦えば、毛利、龍造寺に攻め込まれるかもしれない・・・。
家督は嫡男に譲ったばかり、領国の安定を図るべきではないか??
当時、大友家の重臣たちは、出兵に反対するものが多かったといいます。
相手は勇猛果敢な島津軍・・・戦いは激戦が予想されました。
さらに、家督を譲った中利の義統はまだ21歳。

”義統は国主にそぐわない無能な人間であるとして罷免すべきか家臣の間で協議された”

ともいわれています。
義統は、家臣からの信頼が薄く、当主の資格さえ疑われていたといいます。

②日向に出兵する??
宗麟は、日向を手に入れたのちの構想を、イエズス会の宣教師に語ったと記録しています。

「日向に築く町は、従来の日本のものとは違う新しい法律と制度によって統治されねばならない
 日向の土地に住む者たちは、みながキリシタンとなって愛と兄弟的な一致をもって生きねばならない」

宗麟は、大友家が持つ領地とは別に、日向の地に争いのないキリシタンだけが住む理想郷を作ろうとしていたのです。
領国の統治は義統に任せ、自分は新しい国を造るのだ・・・。
ポルトガルや、東南アジアの協力を得ながら、キリスト教のもとで民と心を合わせ国を統治するのだ・・・!!

日向に出兵する??それとも出兵を回避する・・・??

宗麟の取った選択は・・・??日向へ出陣・・・!!
宗麟は日向に出兵する道を選びました。
この時宗麟は、これまでの自分を振り切る重大な選択をしていました。
洗礼をしてキリシタンとなったのです。
洗礼名は、ドン・フランシスコ。
キリスト教との出会いをもたらしたフランシスコ・ザビエルの名をもらったものです。
日向に向け、4万もの大友軍が進撃を開始。
宗麟の船には、十字軍さながらに深紅の十字の旗が掲げられたといいます。
宮崎県延岡市無鹿町・・・宗麟が本陣を置いた場所です。
この時つけられた無鹿という名前は、ポルトガル語で音楽・・・MUSICAのことです。
宗麟はここに宣教師たちの宿舎や教会を建設します。
その一方で、周辺の神社仏閣を破壊したといいます。
宗麟の挙兵に対し、迎え撃つ島津軍が日向に進出!!
1578年11月、戦いの火ぶたが切られます。
しかし、大友軍はもともと出兵に反対するものも多く、武将の意見がまとまらず一枚岩ではありませんでした。
島津軍は、陽動や待ち伏せを行い大友軍を翻弄します。
結果、戦いは島津軍の圧勝に終わりました。
敗戦の報を受けた宗麟は、急いで臼杵に撤退・・・命からがらの逃避行でした。
この戦いの後、勢いに乗った島津軍は九州北部に侵攻し、大友領にも殺到します。
苦境に立たされる宗麟・・・
領国や命を預かるキリシタンを守るにはどうすればいいのか・・・??

追いつめられた宗麟は、起死回生の一手に打って出ます。
全国統一を目指す秀吉のもとに自ら出向いて援軍を求めたのです。
1586年、宗麟の直訴により秀吉軍が20万軍で九州へ侵攻、翌年島津を降伏させます。
結果、九州全域は秀吉のもとに落ち、大友家は秀吉配下の一大名となりました。
しかし、島津攻略の直後、宗麟は病に倒れその生涯に幕を閉じます。

1587年、大友宗麟死去・・・享年58歳でした。
宣教師やキリシタンの身内に看取られた静かな最期でした。

九州を制圧した秀吉は、宗麟の死から1か月後、突如宣教師たちの国外追放を命じました。
世にいう伴天連追放令です。
この後、秀吉、家康と続く天下の中で、キリスト教徒たちは厳しい迫害の時代を迎えます。
かつてヨーロッパまで轟いた大友宗麟の名も、その輝きを失っていくのです。


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