令和元年10月22日、天皇皇后両陛下は、高御座と御帳台にのぼり、皇位を継承したことを国の内外に宣言しました。
古より続く、古式ゆかしい即位儀礼・・・
その起源は、一人の女帝に遡ります。
飛鳥時代の女帝・持統天皇です。
持統天皇は高天原の神から行為を受け継ぐという前代未聞の方法で即位し、それまでの大王から天皇へと統治者の概念を一変させました。
始まりは、古代日本最大の内乱・壬申の乱でした。
皇位継承をめぐっておきたこの戦いで、持統天皇は夫・大海人皇子と共に謀をめぐらし、この戦いに大きく貢献しました。
その後、大海人皇子は天武天皇として即位、2人は共に、新たな国づくりへと歩み始めました。
しかし、天武天皇が崩御・・・後継者と目されていた息子・草壁皇子までもが相次いで病死・・・
持統天皇は選択に直面します。
次なる天皇を誰にするのか・・・??
奈良県明日香村・・・飛鳥時代に都がおかれた地です。
645年、後の持統天皇・・・鸕野讚良皇女は、中大兄皇子の娘として生まれました。
この年、ある大事件が勃発しています。
乙巳の変・・・中大兄皇子が、宮中で豪族・蘇我氏を謀殺・・・!!
皇太子となった中大兄皇子は、次々と政敵を排除していきます。
こうして手に入れた権力を固めるべく、更なる策を講じます。
657年、13歳を迎えた娘・鸕野讚良皇女を弟・大海人皇子のもとに嫁がせます。
大海人皇子は、中大兄皇子にとって母親の同じ兄弟です。
中大兄はこの結婚によって、自らの血筋へ権力の集中させることを図りました。
背景には、緊迫する海外情勢がありました。
7世紀後半、大帝国・唐と結んだ新羅が、ライバルの高句麗、百済を次々と攻め滅亡させていました。
663年白村江の戦い
倭国は半島の権益を守るため派兵に踏み切りますが、白村江で大敗します。
勢いに乗った唐の侵攻を防ぐためには、中央集権国家への変革が急務・・・
それには、強力なリーダーシップが必要とされていました。
668年、中大兄皇子が天智天皇として即位!!
大海人は、天皇中心の国づくりへ進みだした兄の側近として支えました。
次期天皇として最有力候補でした。
671年10月、鸕野と大海人に転機が訪れます。
天智天皇が大海人に告げます。
「余の病は重い・・・
後のことはお前に託したい」
皇位を託すという天智天皇に対し、大海人は
「私自身も病気がちで、とてもお受けすることはできません
大友王に全ての政務を執り行っていただくのがよろしいでしょう」
大友皇子は、天智天皇の実の息子でしたが、母親の身分が低く、皇位継承者としては大海人皇子の方が上でした。
しかし、天智天皇の真意は、大友への譲位にある・・・
それを悟った大海人皇子は、その日のうちに出家し、政界からの引退を宣言しました。
そして、さらに2日後、降りしきる雪の中、鵜野と共に大津を脱出、当時離宮の置かれていた吉乃に身を隠しました。
そこには、大海人皇子の周到な計算がありました。
当時の王位継承は、天皇が決められるものではありませんでした。
群臣が決めるか、納得して承認するということが必要でした。
大友の継承が実現すれば、それは大海人が辞退することでしかありえません。
当然、場合によっては十分挙兵があり得ました。
この年の21月、天智天皇崩御
事態は大きく動き出しました。
672年5月・・・吉野の大海人のもとに、大友が兵を集めているという知らせが届きます。
これを聞いた大海人は、すぐさま挙兵に踏み切り吉野を脱出します。
最初は20人ほどの少人数でしたが、道中息子の高市皇子や豪族を合わせ、軍勢は次第に膨れ上がります。
両軍はついに激突!!壬申の乱です。
数に勝る大海人軍は、大友軍を圧倒!!
ひと月に渡る激戦の末、大海人勝利に終わりました。
この間、鵜野は何処にいたのでしょうか?
桑名市・・・北桑名神社・・・
壬申の乱の間、鵜野は50キロ離れたこの地に居を定めていました。
自らの産んだ草壁皇子の他、大津皇子、忍壁皇子ら3人の幼子を養育し、前線で戦う大海人を支えたのです。
日本書紀は、鵜野がこれらの戦略の立案に積極的に立ち会っていたと記しています。
鵜野は大海人に従って、東国に危難を避け、軍勢を集結させ、共に謀を定めました。
673年、大海人は天武天皇として即位、鵜野は皇后となります。
2人は新たな国づくりへと手を携えて歩んでいきます。
飛鳥の浄御原宮からほど近く、天武天皇と鵜野の国づくりを象徴する遺跡が発見されています。
飛鳥池工房遺跡です。
7世紀後半から8世紀にかけて稼働していました。
炉跡群があり、炭を炊いて火を起こしてるつぼの中に銅や鉄やガラスを溶かしていた痕跡が残っています。
天武天皇は、この地に300以上の炉を持つ国営の工房を立て、金、銀の金属やガラスを加工し、日常で使う道具や装身具を作らせていたと考えられます。
ここから出土したのが、日本最古の貨幣として知られる富本銭です。
この発見によって、日本の貨幣経済が天武の時代に始まる可能性が高まったのです。
日本書紀には、天武天皇の命令が記されています。
「今より以後、必ず銅銭を用いよ
銀銭を用いることなかれ」
当時使われていた銀銭は、銀そのものの価値で流通している銀の塊でした。
ところが、富本銭は、銅そのものの価値ではなく、貨幣として流通させるために作られたものだち考えられています。
中央集権国家をいかに樹立していくか?
そのことが伺えるのがこの遺跡であり、富本銭に象徴されています。
皇后である鵜野が、積極的に進めた事業があります。
681年、鵜野は天皇と共に大極殿に出御し、律令の編纂を命じます。
飛鳥浄御原令です。
後の大宝律令に繋がる、わが国初の体系的な法廷の編纂が始まったのです。
こうして国家体制を着々と整備する一方、壬申の乱のような争いが二度と起きないように、天武天皇と二人で模索します。
679年、2人は、皇位継承権を持つ6人の皇子と共に吉野を訪れます。
同行したのは、最年長で壬申の乱を父と共に戦った高市皇子、鵜野の実の子である草壁皇子、鵜野の姉・大田皇女の子・大津皇子、さらに彼等と同世代の天智天皇の皇子たちも呼ばれていました。
天武天皇は、6人全員を懐に抱き、こう告げます。
「我が子ども、おのおの異腹にして生まれたり
しかれども今、一母同産の如く 慈まん」
6人すべてを皇后・鵜野の子として扱うと宣言しました。
いわゆる吉野の盟約です。
それまでは、后の宮と大王の宮は別にあって、それぞれにその子供たちがいました。
母の違う子供たちは、成育の場所の違い、背後にいる氏族たちの勢力も違いました。
これは、画期的なことでした。
后の中である1人の人間(鵜野皇后)を特別な位置につける・・・
新しい一歩でした。
この結果、鵜野の実子である草壁皇子が筆頭に位置付けられ、他の皇子たちは皇位を巡って争わぬように諭されたのです。
しかし、それから7年・・・
686年、天武天皇崩御
事態は大きく動き出します。
皇子たちは即位にはまだ若すぎる・・・
鵜野はすぐさま天皇をおかず、自らその代理として政務をとりました。
称制です。
それから1か月後、事件は起こりました。
姉の子である大津皇子謀叛との密告です。
大津はこの時24歳、文武に秀でた才能を見せ、人望を見せ始めていました。
鵜野は即座に大津を捕らえ、死を命じました。
大津を吉野の盟約に反した咎を厳しく処罰することで内乱を未然に防いだのです。
ところが・・・更なる試練が鵜野を襲います。
天武の死から3年・・・689年、草壁皇子死去・・・実の子の病死でした。
継承権1位の草壁の死によって、皇位の行方は再び混沌となりました。
皇后である鵜野は、次期天皇をどうするかの選択を迫られます。
草壁の子・珂瑠皇子に継がせるのがいいか??
しかし、問題は豪族たちの反応・・・即位に相応しいと言われる年齢は、若くても30代・・・皇子はわずか7歳に過ぎない・・・
年長の皇子が数多いる中、即位を強引に進めれば、豪族たちの反発を生み、争いを起こしかねない・・・!!
他の皇子を即位させる??
慣例に従って、年長の皇子の中から即位させれば、彼等も納得するのではないか??
残された皇子のうち、最有力と言われていたのが高市皇子でした。
母親の身分が低く、血統で一段劣るものの、壬申の乱で活躍したことで、実績、人望の面では申し分ありませんでした。
他の皇子が即位した暁には、称制の立場から降りなければならない・・・
一旦権力を手放せば、天武天皇との間ですすめてきた国づくりをこの手で続けることが出来なくなってしまう・・・!!
斉明天皇をはじめ、女性天皇が皇位についたことが無いわけではない・・・!!
ここは、自ら即位するべきではないのか・・・??
しかし、鵜野が天皇でおさまるのだろうか・・・??
天皇亡き今、女性の即位に対し、牙をむいてこないとも言い切れない・・・!!
珂瑠皇子の擁立か、年長の高市皇子か、自ら即位するべきか・・・??
690年1月・・・鵜野は持統天皇となり即位しました。
有力候補だった高市皇子は、太政大臣に任命され、実務で天皇を支える体制が整えられました。
しかし、持統天皇に壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇のようなカリスマはない・・・!!
そのことを自覚していた持統天皇が、即位に当たって行ったのが、前代未聞の即位儀礼でした。
日本書紀にはその様子が詳細に書かれています。
”物部麻呂が大盾を立て、神祇伯中臣大嶋が天の神々の祝福の言葉を読み上げ、さらに後の三種の神器にもつながる行為の象徴・剣と鏡が鵜野皇后に捧げられます
そして、天皇位に就いた持統天皇を群臣は列をなし、廻って拝み、柏手を打ちました”
群臣が主体で王を推挙するというのが旧来の在り方でした。
持統天皇の即位義というのは、王権主導で神として即位・・・
天の神から統治を委託された私が皇位に就く・・・
そういう儀式を作り上げました。
持統天皇の諡は、高天原広野姫天皇・・・皇位継承の源を、高天原の神々に求めたのです。
自らの統治の正当性を求めた持統天皇が、繰返し行った行事があります。
壬申の乱の記憶を色濃く残す吉野への行幸でした。
天武天皇を祀る浄見原神社には、天皇と吉野の深いつながりを表す行事が今に伝わっています。
毎年旧正月に奉納される国栖奏と呼ばれる舞です。
壬申の直前、この地に逃げた大海人皇子に、里人が舞って慰めたといいます。
戦いの後も、天皇と人々との関係は続きました。
大海人皇子が、第40代天武天皇として飛鳥浄御原宮に即位され、その時に、国栖人を呼びになって、国栖舞を奏しなさいとお定めになられ・・・それ以来、宮中に約500年間参内奉仕しています。
持統天皇の吉野への行幸は、9年間で31回にも及びました。
宮中で、そして吉野で、天武天皇と自分は一体であることを折に触れて群臣にアピールしたのです。
即位から4年後、藤原京に遷都・・・これこそ、持統天皇が、天武天皇から引き継いだ大事業でした。
飛鳥の北西4キロの地に建設された藤原京・・・
大和三山に抱かれた5.3キロ四方の土地は、後の平城京、平安京を凌ぎます。
中国の都に習い、碁盤の目状に区画された敷地には、官庁や貴族の邸宅が建設されています。
その目的は、豪族たちに飛鳥から藤原京への移住を促し、官位に応じて仕事を与え、天皇に奉仕させることにありました。
都の中心に建設されたのが、天皇が政務や儀式を行う大極殿です。
正面の幅は40m、高さ25mという巨大な建造物です。
それまで寺院にしか使われていなかった瓦が初めて宮殿に使われ、新たな時代の到来を人々に強く印象付けました。
現在も発掘が続けられている藤原京で、近年興味深いものが発見されました。
旗竿を絶てたであろう柱の穴です。
続日本紀の大砲元年の条、元日朝賀の記事には、7本の幢幡と呼ばれる旗竿を立てたという記事があります。
ここで発見された7本の穴は、その幢幡を示していると思われます。
発掘現場は、大極殿南門のすぐ南に位置します。
大宝元年に行われた儀式では、天皇を象徴する三本足のカラスを象った幡を中心に、太陽と月、東西南北を守る4つの神を描いた旗が翻り、万物の調和があらわされました。
57歳を迎えた持統天皇は、文武百官、外国の使節が参列する中、華やかに正月朝賀の儀を執り行いました。
続日本紀は、その様子をこう記しています。
”文物の儀、これに備われれり”
持統天皇は、ここに天武天皇から引き継いだ国づくりの完成を高らかに宣言しました。
持統天皇が組み上げたこのシステムのおかげで、日本の天皇の精度が長く続いたのです。
696年、それまで太政大臣として持統天皇を支えてきた高市皇子が病死しました。
高市の死は、50を超えた持統天皇に後継者を固めなければならないという思いを新たにさせました。
この時、持統天皇は、草壁の子・珂瑠皇子の立太子を決断します。
しかし、珂瑠はまだ15歳・・・他にも年長の皇子は大勢います。
即位には依然として大きな壁が・・・!!
この時、持統天皇がとった手段について日本書紀は書いています。
”謀を禁中に定めた”
持統天皇は、群臣や継承権を持つ皇子たちを宮中に呼び寄せて話し合いをさせました。
天皇の御前で行われたこの会議には、その後の皇位継承の方針を定める周到な秘策が準備されていました。
群臣がそれぞれ推す皇子を主張し紛糾する中、一人の人物が口を開きました。
壬申の乱の敗者・・・大友皇子の息子・葛野王です。
「神代以来、子孫が皇位を継ぐのが我が国の法である
兄弟継承では乱となる」by葛野王
皇子の一人が立ち上がり、何かを言いかけましたが、葛野王が一喝!!
持統天皇にとって、子孫は珂瑠皇子しかいません。
一部始終を見ていた持統天皇は、葛野王の一言が国を定めたとして大いに褒めたといいます。
697年8月、珂瑠皇子は文武天皇として即位。
群臣の推挙による兄弟間相続から天皇の遺子による直径相続へ・・・
持統天皇は、皇位継承のルールを大きく変えたのです。
一番大きなことは、王権主導で群臣はそれを承認するという立場がはっきりしたことです。
15歳であっても即位できるという先例ができました。
譲位をして次を決める・・・それは、明治になるまで続きました。
皇位を譲った地頭は、太上天皇として文武天皇を後見・・・
その最晩年に行ったのが、遣唐使の再開(702年)です。
持統天皇は、唐に代わって建国された周の女帝・則天武后に使者を送ります。
それまでの話に代わる国号・日本を認めさせました。
白村江の敗戦からおよそ40年、新興独立国家・日本は、東アジアの国際社会の中に船出したのでした。
702年12月、持統天皇崩御・・・58年の生涯を閉じました。
亡骸は、飛鳥の地に夫・天武天皇と共に合葬されました。
文献によれば、天武天皇の棺と持統天皇の骨蔵器は葬られています。
持統天皇は天皇として初めて亡骸を火葬、遺骨を骨蔵器に納めて葬られました。
古代最大の内乱に勝利し、中央集権国家建設に邁進した天武天皇・・・
持統天皇は、夫の遺志を引き継ぎ、現在に続く日本の国の形を完成させたのです。
2人の天皇は、今、共に飛鳥の地で永遠の眠りについています。
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古より続く、古式ゆかしい即位儀礼・・・
その起源は、一人の女帝に遡ります。
飛鳥時代の女帝・持統天皇です。
持統天皇は高天原の神から行為を受け継ぐという前代未聞の方法で即位し、それまでの大王から天皇へと統治者の概念を一変させました。
始まりは、古代日本最大の内乱・壬申の乱でした。
皇位継承をめぐっておきたこの戦いで、持統天皇は夫・大海人皇子と共に謀をめぐらし、この戦いに大きく貢献しました。
その後、大海人皇子は天武天皇として即位、2人は共に、新たな国づくりへと歩み始めました。
しかし、天武天皇が崩御・・・後継者と目されていた息子・草壁皇子までもが相次いで病死・・・
持統天皇は選択に直面します。
次なる天皇を誰にするのか・・・??
奈良県明日香村・・・飛鳥時代に都がおかれた地です。
645年、後の持統天皇・・・鸕野讚良皇女は、中大兄皇子の娘として生まれました。
この年、ある大事件が勃発しています。
乙巳の変・・・中大兄皇子が、宮中で豪族・蘇我氏を謀殺・・・!!
皇太子となった中大兄皇子は、次々と政敵を排除していきます。
こうして手に入れた権力を固めるべく、更なる策を講じます。
657年、13歳を迎えた娘・鸕野讚良皇女を弟・大海人皇子のもとに嫁がせます。
大海人皇子は、中大兄皇子にとって母親の同じ兄弟です。
中大兄はこの結婚によって、自らの血筋へ権力の集中させることを図りました。
背景には、緊迫する海外情勢がありました。
7世紀後半、大帝国・唐と結んだ新羅が、ライバルの高句麗、百済を次々と攻め滅亡させていました。
663年白村江の戦い
倭国は半島の権益を守るため派兵に踏み切りますが、白村江で大敗します。
勢いに乗った唐の侵攻を防ぐためには、中央集権国家への変革が急務・・・
それには、強力なリーダーシップが必要とされていました。
668年、中大兄皇子が天智天皇として即位!!
大海人は、天皇中心の国づくりへ進みだした兄の側近として支えました。
次期天皇として最有力候補でした。
671年10月、鸕野と大海人に転機が訪れます。
天智天皇が大海人に告げます。
「余の病は重い・・・
後のことはお前に託したい」
皇位を託すという天智天皇に対し、大海人は
「私自身も病気がちで、とてもお受けすることはできません
大友王に全ての政務を執り行っていただくのがよろしいでしょう」
大友皇子は、天智天皇の実の息子でしたが、母親の身分が低く、皇位継承者としては大海人皇子の方が上でした。
しかし、天智天皇の真意は、大友への譲位にある・・・
それを悟った大海人皇子は、その日のうちに出家し、政界からの引退を宣言しました。
そして、さらに2日後、降りしきる雪の中、鵜野と共に大津を脱出、当時離宮の置かれていた吉乃に身を隠しました。
そこには、大海人皇子の周到な計算がありました。
当時の王位継承は、天皇が決められるものではありませんでした。
群臣が決めるか、納得して承認するということが必要でした。
大友の継承が実現すれば、それは大海人が辞退することでしかありえません。
当然、場合によっては十分挙兵があり得ました。
この年の21月、天智天皇崩御
事態は大きく動き出しました。
672年5月・・・吉野の大海人のもとに、大友が兵を集めているという知らせが届きます。
これを聞いた大海人は、すぐさま挙兵に踏み切り吉野を脱出します。
最初は20人ほどの少人数でしたが、道中息子の高市皇子や豪族を合わせ、軍勢は次第に膨れ上がります。
両軍はついに激突!!壬申の乱です。
数に勝る大海人軍は、大友軍を圧倒!!
ひと月に渡る激戦の末、大海人勝利に終わりました。
この間、鵜野は何処にいたのでしょうか?
桑名市・・・北桑名神社・・・
壬申の乱の間、鵜野は50キロ離れたこの地に居を定めていました。
自らの産んだ草壁皇子の他、大津皇子、忍壁皇子ら3人の幼子を養育し、前線で戦う大海人を支えたのです。
日本書紀は、鵜野がこれらの戦略の立案に積極的に立ち会っていたと記しています。
鵜野は大海人に従って、東国に危難を避け、軍勢を集結させ、共に謀を定めました。
673年、大海人は天武天皇として即位、鵜野は皇后となります。
2人は新たな国づくりへと手を携えて歩んでいきます。
飛鳥の浄御原宮からほど近く、天武天皇と鵜野の国づくりを象徴する遺跡が発見されています。
飛鳥池工房遺跡です。
7世紀後半から8世紀にかけて稼働していました。
炉跡群があり、炭を炊いて火を起こしてるつぼの中に銅や鉄やガラスを溶かしていた痕跡が残っています。
天武天皇は、この地に300以上の炉を持つ国営の工房を立て、金、銀の金属やガラスを加工し、日常で使う道具や装身具を作らせていたと考えられます。
ここから出土したのが、日本最古の貨幣として知られる富本銭です。
この発見によって、日本の貨幣経済が天武の時代に始まる可能性が高まったのです。
日本書紀には、天武天皇の命令が記されています。
「今より以後、必ず銅銭を用いよ
銀銭を用いることなかれ」
当時使われていた銀銭は、銀そのものの価値で流通している銀の塊でした。
ところが、富本銭は、銅そのものの価値ではなく、貨幣として流通させるために作られたものだち考えられています。
中央集権国家をいかに樹立していくか?
そのことが伺えるのがこの遺跡であり、富本銭に象徴されています。
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皇后である鵜野が、積極的に進めた事業があります。
681年、鵜野は天皇と共に大極殿に出御し、律令の編纂を命じます。
飛鳥浄御原令です。
後の大宝律令に繋がる、わが国初の体系的な法廷の編纂が始まったのです。
こうして国家体制を着々と整備する一方、壬申の乱のような争いが二度と起きないように、天武天皇と二人で模索します。
679年、2人は、皇位継承権を持つ6人の皇子と共に吉野を訪れます。
同行したのは、最年長で壬申の乱を父と共に戦った高市皇子、鵜野の実の子である草壁皇子、鵜野の姉・大田皇女の子・大津皇子、さらに彼等と同世代の天智天皇の皇子たちも呼ばれていました。
天武天皇は、6人全員を懐に抱き、こう告げます。
「我が子ども、おのおの異腹にして生まれたり
しかれども今、一母同産の如く 慈まん」
6人すべてを皇后・鵜野の子として扱うと宣言しました。
いわゆる吉野の盟約です。
それまでは、后の宮と大王の宮は別にあって、それぞれにその子供たちがいました。
母の違う子供たちは、成育の場所の違い、背後にいる氏族たちの勢力も違いました。
これは、画期的なことでした。
后の中である1人の人間(鵜野皇后)を特別な位置につける・・・
新しい一歩でした。
この結果、鵜野の実子である草壁皇子が筆頭に位置付けられ、他の皇子たちは皇位を巡って争わぬように諭されたのです。
しかし、それから7年・・・
686年、天武天皇崩御
事態は大きく動き出します。
皇子たちは即位にはまだ若すぎる・・・
鵜野はすぐさま天皇をおかず、自らその代理として政務をとりました。
称制です。
それから1か月後、事件は起こりました。
姉の子である大津皇子謀叛との密告です。
大津はこの時24歳、文武に秀でた才能を見せ、人望を見せ始めていました。
鵜野は即座に大津を捕らえ、死を命じました。
大津を吉野の盟約に反した咎を厳しく処罰することで内乱を未然に防いだのです。
ところが・・・更なる試練が鵜野を襲います。
天武の死から3年・・・689年、草壁皇子死去・・・実の子の病死でした。
継承権1位の草壁の死によって、皇位の行方は再び混沌となりました。
皇后である鵜野は、次期天皇をどうするかの選択を迫られます。
草壁の子・珂瑠皇子に継がせるのがいいか??
しかし、問題は豪族たちの反応・・・即位に相応しいと言われる年齢は、若くても30代・・・皇子はわずか7歳に過ぎない・・・
年長の皇子が数多いる中、即位を強引に進めれば、豪族たちの反発を生み、争いを起こしかねない・・・!!
他の皇子を即位させる??
慣例に従って、年長の皇子の中から即位させれば、彼等も納得するのではないか??
残された皇子のうち、最有力と言われていたのが高市皇子でした。
母親の身分が低く、血統で一段劣るものの、壬申の乱で活躍したことで、実績、人望の面では申し分ありませんでした。
他の皇子が即位した暁には、称制の立場から降りなければならない・・・
一旦権力を手放せば、天武天皇との間ですすめてきた国づくりをこの手で続けることが出来なくなってしまう・・・!!
斉明天皇をはじめ、女性天皇が皇位についたことが無いわけではない・・・!!
ここは、自ら即位するべきではないのか・・・??
しかし、鵜野が天皇でおさまるのだろうか・・・??
天皇亡き今、女性の即位に対し、牙をむいてこないとも言い切れない・・・!!
珂瑠皇子の擁立か、年長の高市皇子か、自ら即位するべきか・・・??
690年1月・・・鵜野は持統天皇となり即位しました。
有力候補だった高市皇子は、太政大臣に任命され、実務で天皇を支える体制が整えられました。
しかし、持統天皇に壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇のようなカリスマはない・・・!!
そのことを自覚していた持統天皇が、即位に当たって行ったのが、前代未聞の即位儀礼でした。
日本書紀にはその様子が詳細に書かれています。
”物部麻呂が大盾を立て、神祇伯中臣大嶋が天の神々の祝福の言葉を読み上げ、さらに後の三種の神器にもつながる行為の象徴・剣と鏡が鵜野皇后に捧げられます
そして、天皇位に就いた持統天皇を群臣は列をなし、廻って拝み、柏手を打ちました”
群臣が主体で王を推挙するというのが旧来の在り方でした。
持統天皇の即位義というのは、王権主導で神として即位・・・
天の神から統治を委託された私が皇位に就く・・・
そういう儀式を作り上げました。
持統天皇の諡は、高天原広野姫天皇・・・皇位継承の源を、高天原の神々に求めたのです。
自らの統治の正当性を求めた持統天皇が、繰返し行った行事があります。
壬申の乱の記憶を色濃く残す吉野への行幸でした。
天武天皇を祀る浄見原神社には、天皇と吉野の深いつながりを表す行事が今に伝わっています。
毎年旧正月に奉納される国栖奏と呼ばれる舞です。
壬申の直前、この地に逃げた大海人皇子に、里人が舞って慰めたといいます。
戦いの後も、天皇と人々との関係は続きました。
大海人皇子が、第40代天武天皇として飛鳥浄御原宮に即位され、その時に、国栖人を呼びになって、国栖舞を奏しなさいとお定めになられ・・・それ以来、宮中に約500年間参内奉仕しています。
持統天皇の吉野への行幸は、9年間で31回にも及びました。
宮中で、そして吉野で、天武天皇と自分は一体であることを折に触れて群臣にアピールしたのです。
即位から4年後、藤原京に遷都・・・これこそ、持統天皇が、天武天皇から引き継いだ大事業でした。
飛鳥の北西4キロの地に建設された藤原京・・・
大和三山に抱かれた5.3キロ四方の土地は、後の平城京、平安京を凌ぎます。
中国の都に習い、碁盤の目状に区画された敷地には、官庁や貴族の邸宅が建設されています。
その目的は、豪族たちに飛鳥から藤原京への移住を促し、官位に応じて仕事を与え、天皇に奉仕させることにありました。
都の中心に建設されたのが、天皇が政務や儀式を行う大極殿です。
正面の幅は40m、高さ25mという巨大な建造物です。
それまで寺院にしか使われていなかった瓦が初めて宮殿に使われ、新たな時代の到来を人々に強く印象付けました。
現在も発掘が続けられている藤原京で、近年興味深いものが発見されました。
旗竿を絶てたであろう柱の穴です。
続日本紀の大砲元年の条、元日朝賀の記事には、7本の幢幡と呼ばれる旗竿を立てたという記事があります。
ここで発見された7本の穴は、その幢幡を示していると思われます。
発掘現場は、大極殿南門のすぐ南に位置します。
大宝元年に行われた儀式では、天皇を象徴する三本足のカラスを象った幡を中心に、太陽と月、東西南北を守る4つの神を描いた旗が翻り、万物の調和があらわされました。
57歳を迎えた持統天皇は、文武百官、外国の使節が参列する中、華やかに正月朝賀の儀を執り行いました。
続日本紀は、その様子をこう記しています。
”文物の儀、これに備われれり”
持統天皇は、ここに天武天皇から引き継いだ国づくりの完成を高らかに宣言しました。
持統天皇が組み上げたこのシステムのおかげで、日本の天皇の精度が長く続いたのです。
696年、それまで太政大臣として持統天皇を支えてきた高市皇子が病死しました。
高市の死は、50を超えた持統天皇に後継者を固めなければならないという思いを新たにさせました。
この時、持統天皇は、草壁の子・珂瑠皇子の立太子を決断します。
しかし、珂瑠はまだ15歳・・・他にも年長の皇子は大勢います。
即位には依然として大きな壁が・・・!!
この時、持統天皇がとった手段について日本書紀は書いています。
”謀を禁中に定めた”
持統天皇は、群臣や継承権を持つ皇子たちを宮中に呼び寄せて話し合いをさせました。
天皇の御前で行われたこの会議には、その後の皇位継承の方針を定める周到な秘策が準備されていました。
群臣がそれぞれ推す皇子を主張し紛糾する中、一人の人物が口を開きました。
壬申の乱の敗者・・・大友皇子の息子・葛野王です。
「神代以来、子孫が皇位を継ぐのが我が国の法である
兄弟継承では乱となる」by葛野王
皇子の一人が立ち上がり、何かを言いかけましたが、葛野王が一喝!!
持統天皇にとって、子孫は珂瑠皇子しかいません。
一部始終を見ていた持統天皇は、葛野王の一言が国を定めたとして大いに褒めたといいます。
697年8月、珂瑠皇子は文武天皇として即位。
群臣の推挙による兄弟間相続から天皇の遺子による直径相続へ・・・
持統天皇は、皇位継承のルールを大きく変えたのです。
一番大きなことは、王権主導で群臣はそれを承認するという立場がはっきりしたことです。
15歳であっても即位できるという先例ができました。
譲位をして次を決める・・・それは、明治になるまで続きました。
皇位を譲った地頭は、太上天皇として文武天皇を後見・・・
その最晩年に行ったのが、遣唐使の再開(702年)です。
持統天皇は、唐に代わって建国された周の女帝・則天武后に使者を送ります。
それまでの話に代わる国号・日本を認めさせました。
白村江の敗戦からおよそ40年、新興独立国家・日本は、東アジアの国際社会の中に船出したのでした。
702年12月、持統天皇崩御・・・58年の生涯を閉じました。
亡骸は、飛鳥の地に夫・天武天皇と共に合葬されました。
文献によれば、天武天皇の棺と持統天皇の骨蔵器は葬られています。
持統天皇は天皇として初めて亡骸を火葬、遺骨を骨蔵器に納めて葬られました。
古代最大の内乱に勝利し、中央集権国家建設に邁進した天武天皇・・・
持統天皇は、夫の遺志を引き継ぎ、現在に続く日本の国の形を完成させたのです。
2人の天皇は、今、共に飛鳥の地で永遠の眠りについています。
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