茶湯一会集/閑夜茶話 (岩波文庫) [ 井伊直弼 ]

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一期一会を始めて書物に記したのは、徳川幕府の大老・井伊直弼。
幕末の混乱期に、多くの人間を死に追いやった男です。

大老という地位に上り詰め、安政の大獄で多くの命を奪った男・・・
そこには、冷酷な独裁者なイメージが付きまといます。
しかし、日本を救った人物??
もし、直弼が開国を決断しなければ、西欧列強に占領されていたかもしれない・・・??

冷酷な独裁者か?先見の明のある英傑か??

彦根城のすぐそばに、邸があり、そこで井伊直弼は青年時代を過ごしました。
その屋敷は「埋木舎」とよばれ、自らを埋もれ木と表し、世に出ることなく朽ち果てるという意味を込めたものです。
どうして直弼は自らを埋もれ木に例えたのでしょうか?
井伊直弼は、1815年彦根藩第11代藩主・直中の子として生まれます。
井伊家・・・彦根藩の初代は直政で、直虎の養子とされています。
直政は、徳川四天王として活躍し、その功績として彦根藩を任されました。
そして、幕府において代々重要な役職を担うこととなります。
そんな名門でも、直弼は14男。
将来、彦根藩主の見込みはありませんでした。
それでも、城内にある御殿で何不自由なく暮らします。
1831年、17歳の時に父が亡くなります。
すると境遇が一転・・・末っ子の弟とふたり場外の屋敷に移されて質素な生活に・・・。
井伊家では、世継ぎ以外は他家の養子になるとされ、僅かなあてがい扶持しかもらえなかったのです。
そんな直弼に・・・1834年、20歳の時に養子縁組の話が舞い込みます。
しかし、待っていたのは厳しい現実で・・・養子になったのは弟でした。
直弼は、ただ一人「埋木舎」に取り残されることとなりました。
7万石の世継ぎとなった弟・・・直弼は300俵のあてがい扶持で生活し続けるしかありませんでした。
そんな直弼が、自らの決意を語ったものがあります。

”世を厭うにもあらず
  望み願ふこともあらず
    ただうもれ木の籠り居て
       なすべき業をなさまし”

なすべき業・・・それは、幅広い分野に・・・
武芸では居合の新派を創立。
焼き物を手掛け、能や狂言においても自ら作品を作ります。
そして、最も力を入れたのが茶の湯でした。
技や姿かたちを重視する風潮が強い中、禅に通じた直弼は内なる心を重視・・・一期一会の言葉を残します。
埋もれ木のような生活を送りながら、柳の木に安らぎを求めます。
和歌の題材にしたり、自分の雅号を”柳王舎”と名乗りました。
大元の幹さえしっかりしていれば、柳葉は時流に流されても原点さえ失わなければ・・・

直弼のもとに一人の女性が現れます。
村上たか・・・直弼より6歳年上で、京都・祗園の芸子でした。
直弼がたかに送ったラブレターも発見されています。

 名もたかき
   今宵の月は 
      みちながら

 君しをらねば
   事かけて見ゆ

孤独の時代の直弼にとっては、本当に大事な花だったのです。
17歳で始まった埋木舎での生活は、その後15年続きました。
井伊直弼32歳の時大きな転機が・・・
藩主・直亮の後継者となっていた11男が病気で亡くなりました。
すでに、他の者たちは養子に出されていたので、一人残った直弼が彦根藩の世継ぎとなったのです。
あてがい扶持300俵から彦根藩30万石の世継ぎとなったのです。
大出世でした。
ついに苦労が報われた直弼・・・
「此度の昇進は尋常なことではない。
 実に不思議なことだ。」
世継ぎとなった直弼は彦根藩を代表し、江戸で暮らすことに・・・
ところが、相変らずの貧乏暮らし・・・
藩主である兄・直亮に良く思われていなかったのです。
徳川家第11代将軍家斉の法事の際には、着る者がなく仮病で欠席!!
それでも直弼は、物事の筋を通す人間として、幕府内で評価をあげていきます。

この頃、後の直弼の決断に大きな影響を与える出来事が・・・
外国艦船が増加したことを受けて、彦根藩は、三浦半島の沿岸警備を担当!!
しかし、その実態に直弼は衝撃を受けます。
天下泰平が250年間続く中、武士たちの士気は下がり、警備体制はお粗末なものとなっていました。
しかし、世継ぎという立場の直弼にはどうすることもできませんでした。
世継ぎとなって4年・・・36歳の時に兄が亡くなります。
直弼は、13代藩主に!!
その直弼を支えたのは、家臣の儒学者・中川禄郎でした。
中川の教えを元に、家臣や人々の声に耳を傾けていきます。
”いのちの限り、家中・領内の者どもを大切にする
 私は士民を頼り、士民は私を頼る
 上と下が水と魚のように一体となり、歴代藩主の栄名を汚さないようにしたい”

直弼はいくつかの前例に基づいて前藩主の残したお金を人々に分け与えます。
その金額、15万両!!それは、彦根藩の1年間の収入に当たりました。
自ら領内をくまなく視察。
生活困窮者には食べ物を与え、病気の者には同行の医者の診察を受けさせました。
この直弼に感動したのが・・・後に直弼の命で処刑されることとなる吉田松陰です。

彦根藩主となって3年・・・39歳の時、井伊直弼は思いもよらない出来事・・・黒船来航!!
日本に開国を求めるアメリカ!!
この時、直弼は開国止む無し!!という方針を打ち出します。
どうして・・・??
黒船が現れたのは、彦根藩が警備を担当していた三浦半島でした。
その軍事力のすさまじさは、直弼にも伝えられます。
開国を迫るアメリカにどう対処するのか・・・??
家臣たちに意見を求めます。
その多くが開国に反対する中・・・開国に賛成したのは、儒学者でもあった中川禄郎でした。
儒学者として蘭学者と交流のあった中川は、世界情勢にも精通していました。
沿岸警備のお粗末さを痛感していた直弼は、中川の話を聞いて今戦っても勝ち目はないと心を決めました。

「しばらくは戦争を避け、貿易を行うべきである。
 勇威を海外に振るうことができるようになれば、内外共に充実し、かえって皇国安泰になるはずである。」

現状では軍事力、国力共に圧倒的に負けている・・・
一旦開国し、海外から知識・技術を取り入れ、富国強兵する必要がある
海外と対等な関係になること・・・それから海外へ雄飛する!!

いったん開国するしかないという顔助の考え・・・しかし、他の大名の賛成を取り付けるのは困難で・・・
特に強硬反対していたのは前水戸藩主・徳川斉昭、幕府の海防参与を務めていました。

「外国と戦うことを決意の上 
 武士はもちろん、農民・町人にも覚悟を求め、日本の心力を一つにすべきである!!」by斉昭

水戸藩といえば徳川御三家の一つで、大きな影響力を持つ斉昭は敵に回すと恐ろしい存在でした。

「考えていたよりも難しい事態となり、この先どうなるか心配である。
 水戸殿に睨まれているので、どんな災難が待ち受けているかわかったものではない。」by直弼

結論だ出ないまま・・・1856年、直弼42歳の時にアメリカ総領事、タウンゼント・ハリスが開国を迫ってやってきました。
そこには、欧米列強の植民地争いがありました。
イギリス・フランスが清との戦争に勝利したことによって、アジアでの拠点確保をしたいアメリカが焦りを感じていたのです。
開国止む無しと考える大名が増えてくる中、徳川斉昭らは反対!!
井伊直弼は、開国を説得する為に孝明天皇の勅許を求めます。
勅許は得られると思われましたが、天皇からの返事は・・・

「御三家以下 諸大名で再度衆議した上で、改めて言上するように。」by孝明天皇

戦えともいわない、協約調印をしろともいわない朝廷・・・。
事態が緊迫する中、大老に就任する直弼。

「国家の危機につき、粉骨砕身の覚悟で忠勤に励めとのこと ありがたく思う。」

大老になったとはいえ、独断で物事を進めようとはせず、反対派を説得します。
しかし、斉昭は・・・
「万一、外国の圧力に押され、鎖国を辞めるというのであっては、朝廷・徳川家に対して忠義を尽くしたとは言い難く、国の行く末に関わる重大ごとである。」by斉昭

そんな中、ハリスがこれ以上待てないと忠告してきました。
苦渋の決断をする直弼!!
「なるべく引き延ばし・・・その節は致し方なし!!」by直弼
結局、勅許も得られないまま、反対派も説得できないまま・・・1858年、44歳の時に日米修好通商条約成立!!

「もし外国と戦って敗北し、侵略されることになれば、これ以上の国辱はない。
 しかしながら、勅許を待たずして条約を結ぶという重罪は、甘んじて自分一人で受ける決意である。」by直弼

ところが近年、この言葉が改ざんされていたことがわかりました。
今までの「公用方秘録」は、明治になってから根本的に改ざんされたもので、井伊家にとって都合の悪いことが書いてある唯一残された資料です。
条約締結の夜に側近としたやり取りには直弼が本音を漏らしていました。
「諸大名の意見をまとめずに調印したとなると、天皇の逆鱗にふれることになります」by側近
「いかにもそこには考えが及ばなかった・・・無念の至り・・・。
 このうえは、大老を辞職するより致し方なし。」by直弼

日本画鎖国している間に、世界では産業革命→蒸気船→軍事力の強大化
イギリスは強大なインドを軍事力と科学力で植民地にしてしまいました。
インドで栽培したアヘンを中国に売りつけ、アヘン戦争!!抗議してきた中国を戦力で叩き潰します。
戦争の結果、香港がイギリスに割譲。
その尻馬に乗ったのがフランスで、アロー戦争!!
その頃日本では、北方にロシアが・・・
そしてアメリカは・・・アメリカにとっては、太平洋を渡ってアジアの入り口となる日本に開国し、貿易の基地にしたかったのです。

日米修好通商条約締結から3か月・・・
井伊直弼は安政の大獄に乗り出します。
この大弾圧は、後に自らの死を招きます。
どうして安政の大獄を行ったのでしょうか?
開国問題で揺れている頃・・・徳川斉昭と別の問題でも対立していました。
将軍継嗣問題です。
時の将軍第13代徳川家定には子供がいませんでした。
そこで後継者として直弼が推したのが家定と近い紀州藩・徳川慶福でした。
一方斉昭は、自分の息子で一橋の養子となっていた一橋慶喜を。。。次の将軍に据えようと画策していたのです。
この争いに勝つために・・・一橋派の役人を徹底的に左遷!!
優秀な開国の交渉担当者すら左遷!!
結局、この争いは、直弼が大老に就任したことで決着!!
将軍継嗣は紀州藩の徳川慶福でした。
今や、直弼の政治は盤石になったと思われましたが・・・
その基盤を揺るがす一通の書状が・・・”戊午の密勅”です。
記したのは天皇・・・直弼が独断でアメリカと条約を結んだことを非難するものでした。

「幕府の独断で条約調印を行ったことは、軽率な取り計らいである。
 これからは、御三家を始め、諸大名で衆議して事態に当たるように。」by孝明天皇

直弼が衝撃を受けたのは・・・内容もさることながら、これが対立する水戸藩に先に送られたことでした。
幕藩体制の下では、朝廷の意向は幕府が受け止め各藩に伝発する決まりでした。
それが破られるのは、前代未聞のことでした。
このままでは幕府の権威が・・・!!と恐れる直弼。

「天皇の威光をかさに着て、水戸が権威をつけようと企てるのを許せば、国家の争乱を招くことになる。」by直弼

1858年9月3日、直弼は、戊午の密勅を出すように天皇に働きかけた人物を徹底的に弾圧することに・・・!!
憎むべき悪人たちを厳重に取り調べし、悪だくみを明らかにした暁には、天皇を思うままに操る役人を取り除けるはずである。
安政の大獄が始まりました。
関係者を探し出すにあたり、京都で暗躍した女性が・・・かつての恋人・村山たかでした。
直弼が藩主になってから別れていたものの、影で直弼を支えていました。
その後、安政の大獄における弾圧の対象は、密勅の関係者以外にも拡大。
かつて、直弼を称賛した吉田松陰も犠牲に・・・
この弾圧によって直弼は、赤鬼と呼ばれるようになりました。

こうした直弼の行動に水戸藩の武士たちは激怒!!
その時、徳川斉昭が思わぬ行動に・・・怒る藩士たちを抑え込みます。
水戸藩士たちは、藩外でも活動を始めていて、斉昭も止める方法が無くなってきていました。
これ以上、過激な行動を起こすな!!
この意見に不満を抱いた者たちは、水戸藩を脱藩!!
江戸へと向かいます。
例年なら桜の咲き始める頃・・・江戸では季節外れの雪に覆われていました。
そして・・・桜田門外の変!!
桜田門から江戸城に入ろうとしていた直弼は、水戸脱藩浪士たちに襲われます。
1860年3月3日・・・井伊直弼死去・・・享年46歳でした。

この日、直弼の元には、命の危険を知らせる手紙が投げ込まれていました。
しかし、それを誰にも告げず、警備を増やすこともありませんでした。

「従士の数は、幕府の定めるところであって、大老自らこれを破っては他の大名に示しがつかない。
 人にはそれぞれ天命があり、刺客が余を倒そうとすれば、たとえいかほど用心しても隙は生まれるだろう。」by直弼

季節外れの雪の中・・・桜田門外で46年の生涯を閉じた井伊直弼。
死の前日に詠んだ歌は・・・

咲きかけし
  たけき心の 花ふさは
ちりてぞいとど 香の匂ひぬる

道半ばではあるが、国のための必死な思いは、いつの日か人々につたわるであろう 

桜田門外の変によって、幕府の権威は大きく失墜しました。
薩摩、長州を中心とした討幕が加速します。
将軍・徳川慶喜は、大政奉還によって政治の実権を朝廷に返還。
260年にわたって井伊家が支え続けてきた徳川幕府の時代は終わりました。
そして、井伊直弼は明治新政府から悪人のレッテルをはられることとなります。
しかし、明治時代の終わりには、直弼を再評価する動きも・・・
直弼の決断によって開港した横浜。
その開港50年を記念して直弼の銅像が建てられました。
日本の行く末を案じ続けた直弼・・・その後の日本の歩みをどう見ているのでしょうか?


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