日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大谷吉継

今からおよそ420年前の9月15日、日本中を巻き込んだ天下分け目の大決戦がありました。
関ケ原の戦いです。
その裏には、武将たちの数々の駆け引き、裏切り、決断がありました。
両軍合わせて10万という大スケールの戦い・・・
3人の人物を通してその実像に迫ります。

岐阜県の関ケ原・・・
東軍を率いる徳川家康、西軍を率いる石田三成・・・全国の大名が東西に分かれ、日本を二分する戦いでした。
勝った家康は、その後260年続く江戸幕府を開いて歴史を変えました。
しかし、その勝利は紙一重でした。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

関ケ原から東へ12キロの大垣市・・・西軍を率いた石田三成は、合戦の前日までここにいました。
水運に恵まれ。古くから栄えていた大垣・・・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた地です。
川に囲まれた地形で、それが三成が大垣に拠点を置いた大きな理由です。

1560年、石田三成は現在の滋賀県長浜市で下級武士の子として生まれました。
三成は次男で家督を継がないため、幼いころから寺に預けられました。
勉強熱心だった三成は、15歳で豊臣秀吉と運命的な出会いをします。
鷹狩の途中で寺により、茶を所望した秀吉・・・
三成は、わざとぬるい茶を出しました。
喉の乾いていた秀吉が、一気に飲めるように考えたのです。
しかし、二杯目、三杯目になると、温度は熱く、量は少なめにしました。
この心遣いに感心した秀吉は、寺から家来として取り立てるのです。

算術も得意だった光秀は、領国経営にも力を発揮します。
秀吉が天下統一を果たすころには、全幅の信頼を得ました。
太閤検地、刀狩りの事業、朝鮮出兵では総奉行を務め、物資の補給に力を発揮しました。
ある大名は、三成のその仕事ぶりを・・・
「三成は豊臣政権の中心人物である」by毛利輝元
しかし、順調だった三成の人生に逆風が吹き荒れます。
1598年、主君・豊臣秀吉が死去
秀吉の意志を継ぎ、豊臣政権を発展させようと思っていた三成・・・しかし、ある武将が天下取りへの野心を露にしました。
徳川家康です。
「天地の格は定まりたることなきものなり」
天下は強い者の持ち回りというのが持論の家康・・・
有力大名と政略結婚を画策し、勢力拡大を図ります。
しかし、これは秀吉が生前禁じていた行為・・・
三成は、秀吉の禁止を破る家康に、強い警戒心を持つようになっていきます。
しかし、1599年3月、三成は思わぬ事件で足を救われます。
朝鮮出兵の温床に不満を持っていた武将たちが、三成を襲撃します。
恩賞を決めたのは秀吉でしたが、伝えたのが三成だったので、不満が三成への反発となったのです。
双方の仲介役となった家康は、この機に乗じて三成を政権中枢から外そうとします。

「秀頼公のため、世情を安定させる」by家康

三成は、混乱を招いた責任をとって、自らの居城である近江の佐和山城へ蟄居します。
佐和山城からほど近くの龍潭寺は、三成ゆかりの寺です。
ここに、三成の人柄を表す貴重なものが残されています。
三成の居城・佐和山城で使われていた板戸です。

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表は桜舞で非常に華やかですが、内側は質素に作られています。
表はお客が通るのでそれなりの絵ですが、自分たちの部屋側は、質素だったのです。

三成は蟄居している間も、大坂城の家康の動向を探っていました。
三成を追い出し、実権を握った家康は、独断で大名に領地を与えるなど、政権を意のままに操ろうとしました。
しかし、蟄居のみでは、三成はどうする事もできません。

ところが、1600年6月・・・三成に千載一遇のチャンスが・・・!!
会津の有力大名・上杉景勝に謀反の疑いありと、会津討伐のため家康は大坂城を離れます。
この時三成は、同志と共に全国の大名に書状「内府ちがひの条々」を送ります。
13か条にわたって、家康の罪を糾弾したのです。
三成はさらに、中国地方の大大名・毛利輝元を総大将にして家康討伐の軍を組織・・・9万を超える兵数を揃え西軍となります。

三成は、関東から引き返してくる家康を迎え撃つために、大坂から岐阜方面に進軍していきます。
一方、三成挙兵の知らせを聞いた家康は、会津討伐を中止し、急遽軍議を開いて諸将に自分につくように約束を取り付けます。
その数9万・・・家康率いる東軍が誕生しました。
三成は、岐阜城と大垣城を結ぶラインを防衛線としました。
そして、関ケ原の戦いの1か月前の8月11日・・・西軍は、大垣城に入城します。

三成はどうして大垣城を拠点としたのでしょうか?
家康が陣を置いたのが大垣城のおよそ4キロ先・・・岡山という小高い丘でした。
三成が西軍の拠点を大垣城としたのは、水の都ならではの守りの堅さがありました。
揖斐川、杭瀬川、水門川に挟まれている地形を利用して、城下町に川から水を引き込んで、何十にも堀を作ることができましいた。
守りに特化した城でした。
大垣城を拠点に、決戦の準備をする石田三成・・・
しかし、9月14日思わぬ知らせが・・・
東軍の陣地・岡山に、徳川家康が着陣したのです。
これは、西軍の予想よりもはるかに速い到着でした。
動揺が走ります。
そこで三成の重臣・島左近が、奇襲作戦を進言します。
「今、東軍をたたけば、味方の動揺を抑え、士気を高めることができる・・・!!」と。
島左近は、隊を囮部隊と伏兵部隊に分ける作戦をとりました。
囮部隊が、両軍の境にある杭瀬川を越えて、東軍陣地に入り敵を挑発・・・わざと敗走します。
追い打ちをかけようと川を渡ってきた東軍を、伏兵部隊が狙い、一網打尽にしました。
この手痛い敗走で、家康は大垣で戦えば不利だということを悟りました。
逆に三成は、この戦いで大きく士気を高めます。
勢いに乗る三成は、ここで一気に東軍をたたく秘策を用意していました。
三成が用意した必勝の策とは・・・??

南宮山・・・南宮山は、西軍・毛利秀元の陣がありました。
ここから大垣方面が一望できます。
毛利のいた南宮山は、三成が大垣城に、徳川が岡山にいれば家康の陣を狙える要の位置となります。
さらに城跡には、大垣城決戦を裏付けるものが・・・!!
南宮山には切岸が作られています。
切岸とは、敵が登れないように人工的に作った急斜面のことで、敵が攻めてこれないようになっていました。
もう一つ・・・竪堀も作られています。
竪堀は、山の斜面を横切れないように造られた堀のことです。
関ケ原方面には何もなく・・・
三成は、どんな戦術を考えていたのでしょうか?

後詰戦法です。
東軍が大垣城を囲んで攻撃しようと展開したタイミングで、毛利が南宮山をおりて背後から攻撃し、挟み撃ちにすること・・・三成の秘策は、南宮山からの後詰戦法だったと考えられます。
こうした山城を作り、1か月にわたって準備してきた西軍・・・しかし、大垣決戦は幻となってしまいます。

9月14日夜・・・
石田三成の元に思わぬ知らせが・・・家康が大垣城を攻めずに、西へ向かい佐和山城を、大坂城を攻めるというものでした。
これを聞いた三成は、急遽陣を移すことに・・・陣を敷くのは関ケ原!!
史実では、西軍は守備隊だけを大垣城に残し、関ケ原に異動。
決戦は関ケ原で行われました。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

西軍は大垣城、東軍は岡山・・・
そして南宮山には後詰の為に毛利勢が控えています。
徳川家康にとっては攻めるのは簡単ではない・・・!!
川と堀がはりめぐらされ、攻略の難しい大垣城・・・家康ならその豊富な水を浸かって、水攻めに・・・!!
大垣は、川の堤防より低い土地・・・
度々水害に見舞われています。
明治29年には、7月と9月に集中豪雨で各河川で堤防が決壊、大洪水に見舞われています。
岐阜市から大垣市まで船で往来できるほど浸水したといいます。
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水害当時も水に浮かぶ大垣城の写真も・・・
豊富な水は、大垣城の強さでもあり、弱点でもありました。
西軍は後詰!!
毛利が一気に南宮山をおりてきます。
大垣城に近づいてきて・・・西軍も大垣城から出てきて・・・!!
東軍に属している人たちは、豊臣恩顧の大名が多く、家康に対して忠誠心はなく・・・寝返るものも出るかも・・・??
しかし、人望がなく・・・西軍の勝利・・・??


②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

関ケ原の戦いで、その名を後世に残した小早川秀秋・・・
武将とは思えないほどの優しげな表情です。
この時、19歳!!
東軍7万4000、西軍8万4000が激突した関ケ原の戦い、ここに参加した小早川秀秋は、最年少の武将でした。
しかし、その手には、巨大な兵力を握っており、勝敗を左右する絶好の位置に陣取っていました。
そのため秀秋は、両陣営の裏工作のターゲットとされたのです。

家康に味方し、地位と領地を得るチャンスを掴むのか??
三成に味方し、豊臣家での出世を狙いのか・・・??
人生最大の決断を19歳で迎えてしまいました。
小早川秀秋に付きまとう裏切り者のイメージ・・・
それは、関ケ原でのどんな行動からだったのでしょうか?

9月15日午前6時・・・霧が立ち込める中、大垣から移動した両軍は、布陣を終え、戦いの時を待っていました。
霧のはれた午前8時、井伊直正の鉄砲隊が、突然発砲し、戦いの火ぶたが切られました。
西軍の小早川秀秋は、関ケ原すべての武将の中でも最大の兵力1万1000を持っていました。
そして、東西両軍を見下ろす松尾山に陣取っていました。
西軍の指揮を執る三成は、のろしを上げて、秀秋に攻撃を合図します。
しかし、秀秋は全く反応せず・・・
正午過ぎ・・・秀秋は満を持して動き出します。
攻め込んだ相手は、大谷吉継・・・なんと、西軍の有力武将でした。
小早川秀秋の裏切りです。
この情報は、たちまち戦場を駆け巡り、東軍に寝返るものが続々と現れます。
こうして、勝敗の行方を決定づけてしまいました。

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

三成は、秀頼の出陣に当たって、関ケ原の人々に陣取りの案内、陣地作成の協力を依頼した書状を残っています。
普通は、家を燃やしたり、青田刈りをしたりしますが、事前に手紙を出しているところに、三成の思いやりが出ています。
関ケ原の戦いは、地元の農民にも一大事でした。
大切なコメを作る水田が戦場となるのです。
おまけに米の収穫時期と重なっていました。
三成からのお達しを受けた農民たちは、例年より米を早く収穫。
そして、本体が移動してくると陣地設営に協力します。
戦いが始まってからは、山中に逃げ込んで、戦いを見物していたといいます。
農民たちが見た戦いとは・・・??

三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ケ原が一望できます。
味方はもちろん、敵の動きも手に取るようにわかります。
しかし、笹尾山から家康の桃配山は見えません。
家康は、最前線から遠いここで戦況を見守っていたのです。
しかし、戦いが始まって3時間後・・・一進一退の戦いにしびれを切らした家康は、遂に本陣を前線に移していきます。
桃配山から前進してきた家康・・・三成の笹尾山まで800mのところに陣取りました。
家康が見える・・・!!
家康を攻める絶好のチャンスが到来しました。
三成は、松尾山の秀秋に狼煙の合図を送るものの、一向に動きません。
大鵬も用意していた三成・・・優位だったのは西軍でした。
カギを握っているのは、松尾山に陣取っている小早川秀秋・・・!!

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

小早川秀秋は、1582年、近江に生れます。
父親の名は、木下定家、叔母はおねでした。
そのため、幼いころに、子供の頃に子供のいない秀吉夫妻の養子となりました。
秀秋は、秀吉の世継ぎとして育てられ、おねからも、深い愛情をもって育てられます。
恵まれた環境の中、心優しく懸命な子に育った秀秋・・・

「貧しい武士や家がなくて困っている人を救いたい」と思っていました。

しかし、1593年、状況は一変します。
秀吉と淀殿の間に、実子・秀頼が生れたのです。
このため、秀秋が豊臣家の世継ぎとなることはなくなりました。
それどころか、秀頼の対抗馬とならないように、小早川家の養子に出されてしまいました。
その翌年、衝撃的な事件が起こります。
秀秋と同じく秀吉家の養子だった秀次が、謀反の罪をかけられ・・・死に追いやられてしまいました。
明日は我が身か・・・??酒におぼれ、手が付けられないようになります。
1598年に秀吉が亡くなり、秀秋の不安は消えました。
しかし、次は家康と光秀の戦いに巻き込まれてしまうのです。
有力武将でありながら、まだ十代の秀秋は、格好のターゲットでした。

石田三成の誘い
「秀頼殿が、15歳になるまで関白職をお願いしたい」
家康の調略
「我が方につくならば、上方の二国を約束する」
黒田長政からは秀秋の弱みを突く脅し文句が・・・
「西軍で戦えば、義母として愛育してくれた北政所様に累(災い)が及ぶことは必至」
東西両陣営から誘いの言葉をかけられた秀秋・・・
どのような思いでこの戦いに参加していたのでしょうか?

松尾山の陣は関ケ原の陣の中でもかなりの高所です。
そこからは、関ケ原が・・・三成の陣(松尾山)、家康の陣も見渡すことができます。

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郭が東西にのびていて、立派なお城です。
松尾山の巨大な山城に陣取った小早川秀秋・・・両軍が促すも、動かず・・・!!
しびれを切らした家康が、小早川の陣地に向かって発砲!!
東軍として、戦いに参加するように促したともいわれています。
秀秋はどんな思いで戦いを見つめていたのでしょうか・・・??

戦いが始まって4時間・・・それまで傍観を続けていた小早川秀秋がついに動き出しました。
この時、松尾山を駆け下りたルートは、西軍の大谷吉継の後方を突くものでした。
大谷吉継は、病を押して戦う西軍の精神的支柱ともいえる武将!!
兵力600の精鋭部隊でした。
しかし、秀秋率いる1万1000の大軍勢、さらにその攻撃を目の当たりにした付近の4武将たちが、東軍に寝返ります。
さすがの大谷軍も、抑えきれなくなり壊滅・・・!!
大谷吉継はその場で自害しました。
大谷軍の敗北により、戦況は一転、東軍は勢いづき宇喜田秀家を追いこんでいきます。
側面を突かれた西軍は一気に総崩れとなり、三成は山中に逃亡・・・
まさに、小早川秀秋の行動が勝敗を決した決断だったのです。
午後2時・・・わずか半日で天下分け目の関ケ原は決着したのです。
これが史実・・・

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??
西軍は山を背後に有利な状況・・・東軍を囲い込む陣形でした。
東軍が攻めて対峙する西軍・・・三成から狼煙があがった時、小早川秀秋が側面から東軍を突きます。
ここで一気に西軍に・・・
大垣城の後詰にいた西軍・・・南宮山の毛利勢が・・・中山道から、伊勢街道から家康軍を挟み、囲まれ・・・西軍の圧勝でしょう。

関ケ原合戦図屏風・・・
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有名人が117名描かれています。
しかし、その中で姿が絵が賀れていない人物が3人います。
その一人は、この戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康、二人目は、最も家康に叛逆した石田三成、そしてあと一人は・・・小早川秀秋です。
小早川秀秋のおかげで東軍は勝てたはずなのに、その秀秋の姿がないのです。
裏切り者として、評価が低すぎたので描かれなかった可能性が高いと思われます。
戦いに敗れ、山中に逃げた石田三成は、やがて捕らえられます。
そして京都市中引き回しの上・・・斬首!!
居城・佐和山城も火を放たれ、焼け落ちました。
この時、佐和山攻めの先陣を切ったのが、小早川秀秋でした。
合戦の二日後、家康に命じられてのことでした。
それから1週間後、秀秋は家康から手紙を受け取ります。

”今回の関ケ原でのご忠節にとても感悦しています
 以前からの約束は、間違いなく実現させます”
   
その言葉通り、秀秋は二国を与えられ、備前岡山城主となりました。
しかし、秀秋は関ケ原の戦いの後、以前にもまして酒浸りとなり・・・家臣を訳もなく切りつけるなど、肉体的にも精神的にも尋常な状況ではなかったといいます。
1602年、小早川秀秋死去・・・享年21歳・・・関ケ原の戦いからわずか2年後のことでした。


③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
天下分け目の戦い関ケ原・・・日本中を巻き込んだこの戦に、黒田官兵衛の姿はありませんでした。
この時官兵衛は、関ケ原から遠く離れた九州にいました。
九州の関ケ原という大合戦に身を投じていたのです。
関ケ原と同時に、九州で戦い始めた官兵衛は、その胸中に野心を秘めていたのでしょうか?

大分県中津市・・・黒田官兵衛は、関ケ原の戦いの13年前からこの土地に来て、城を築き始めていました。
九州の関ケ原では、中津を中心に活動した官兵衛・・・

1546年、黒田官兵衛は播磨国、姫路で生を受けました。
当時の播磨は小大名がひしめき鎬を削る時代でした。
1575年、29歳の官兵衛は、破竹の勢いで領土を拡大する織田信長に目通りしました。
その情報収集力、知略で、官兵衛は信長の部下・秀吉のもとで働き始めました。
この頃、秀吉から官兵衛に送られた手紙には・・・

”我が弟 同然に 信頼している”

と書かれています。
官兵衛は、秀吉から厚く信頼され、軍師として活躍していきます。
1582年、官兵衛に転機が訪れます。
それは、中国地方の難敵・毛利との戦いでした。
明智光秀の謀反により信長が落命・・・
それを聞いて、秀吉は呆然自失、泣き崩れます。
しかし、官兵衛は

”秀吉様、これはあなたが天下を取る好機となります”

官兵衛は、すぐに毛利との和睦をまとめ、秀吉は明智美津冷え討伐のため、200キロの道程を引き返します。
世に言う中国大返しです。
これにより秀吉は、光秀の討伐に成功・・・信長の後継者として全国を平定していきます。
1590年、秀吉は天下統一を成し遂げます。
そのそばには、いつも軍師官兵衛の活躍がありました。
しかし、官兵衛は、優秀されるがあまり秀吉に警戒されます。

ある時、秀吉は、自分の次に天下を取るのは誰かと、家臣たちに聞きました。
家臣たちは口々に徳川家康や前田利家など有力大名の名を口にします。
しかし、秀吉は・・・
”次は官兵衛が天下を取るだろう
 わしがはかりごとを迷っていると、官兵衛は的確な判断を下してくれる
 今の世に恐ろしいのは徳川と官兵衛だ
 しかし、徳川は温和な人である
 官兵衛はどうも心を許しがたい人間だ”
と言ったといいます。

官兵衛は、42歳の時に九州豊前に移り住みます。
秀吉に警戒心を抱かせないために、息子・長政に家督を譲り、自らは隠居しました。
そして秀吉がこの世を去り・・・次期政権は・・・関ケ原の戦いが始まります。
時を同じくして官兵衛も九州で挙兵!!
東軍の武将として西軍の領地を攻めたてます。
この時官兵衛は・・・
”関ケ原が長引けば、中国地方にも攻め入っていた”
と残しています。
官兵衛が居城としたのは、中津城・・・ここで、官兵衛の野心を垣間見えることができるのでしょうか?

官兵衛の石垣は、野面積みでも少し変わっています。
当時の石は自然石を使っていますが・・・官兵衛の石垣は、四角い石です。
川の上流5キロほどのところに7世紀の山城の跡があります。
そこの山城の石を川で運んで再利用したものです。

どうして官兵衛は、中津に城を築いたのでしょうか?
官兵衛が豊前に来た当初は、支配の中心となる城は西に在りました。
しかし、そこでは統治がしにくい・・・と、川と川の交わる交通の要衝・中津を拠点に置いたのです。
船が寄り付きやすいこと、そして海を使って情報を素早く得ていました。
当時は上方が中心なので、瀬戸内海に二カ所拠点を置いて、早舟でリレー形式で情報を掴んでいました。
その速さは、3日だったといいます。
九州での関ケ原に備えたのだといわれています。

中津には、京町、博多町と、現在でも官兵衛が作った町の名前が残っています。
中には官兵衛の故郷・・・姫路町もあります。
この姫路町は、中津城を作るときに姫路から連れてきた大工や石工を住まわせた場所でした。
様々な工夫を凝らして町を発展させ、莫大な富を築き、戦いの軍資金とします。
九州の関ケ原の際にも、その備蓄した金銀を出して、兵を集める・・・その資金で暴れるのです。

関ケ原の戦いが近づくと、息子・長政に大半の軍勢をつけて、家康の東軍に送ります。
自らは城の金庫を開け払い、身分の卑賤を問わず兵を集め、挙兵!!
9月13日、九州の関ケ原の火ぶたが切られました。
官兵衛は、かつて秀吉を天下人に押し上げた策略を駆使し、果敢に戦を展開し、西軍を破っていきます。
そんな中、家康にこんなことを願い出ています。

”清正と自分で切り取った九州の領土を拝領したい”

制圧した九州の領土を自分のものにしたいというのです。
隠居と言っても官兵衛はまだまだ野心に燃えていました。
官兵衛の野心は九州にはとどまらず・・・
山口県岩国市の吉川資料館には官兵衛の手紙が残っています。
10月4日に官兵衛が吉川広家に送ったその手紙の中には・・・
関ケ原の戦いが長引いていれば、中国地方に進軍して一花咲かせようと思っていたけれど、家康が早く戦いを終えてしまったので、戦いに姿を見せられなかったのが残念だと書かれています。

しかし、肝心の関ケ原の戦いは、官兵衛の予想に反してわずか半日で終わってしまいました。
それでも、官兵衛は戦をやめることなく、九州を制圧し続けます。
11月12日、九州の最大勢力・島津を攻める目前の官兵衛に、家康から停戦命令が出されます。
関ケ原合戦から2か月・・・官兵衛の戦いはついに終わりを告げるのでした。

③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
関ケ原の戦い当時、ほとんどの武将が戦いに参加していて留守でした。
九州の諸国は手薄・・・!!
関ケ原が長引いていれば、九州の武将たちは領国が危なくなると戻ってきます。
もともと加藤清正は東軍なので、戦うのは小早川秀秋、鍋島直茂、立花宗茂、小西行長・・・。
島津義弘は1500の兵しか連れて行っておらず、ほとんどの軍勢は島津義久のもと本国に温存されていました。
島津と戦うことは避けたい・・・??
周りを東軍に引き込んで、島津をけん制・・・戦わずして勝てるか・・・??
そして、吉川広家への手紙通りに中国地方に攻め入ります。
吉川を調略し、毛利へ・・・
西軍の総大将だった毛利輝元が東軍に寝返る・・・??
官兵衛は進軍を続け、大坂城に入って戦は終了
黒田官兵衛は、天下人ではなく、秀頼を擁立しナンバー2となったのでは・・・??
結果、家康の行動を止めることができたのでは・・・??

人生最後の戦いを終えた官兵衛・・・その後、息子・長政と共に福岡に移り余生を送ります。
ここでも官兵衛は、福岡城の築城に携わり、現在にも続く100万都市福岡の礎を築いていきました。

官兵衛は、晩年をどのようにして過ごしていたのでしょうか?
太宰府天満宮には官兵衛が奉納した歌が残っています。
「夢想之連歌」は、連歌の最初の句を官兵衛が夢の中で授かり詠んだものです。
そこには、
”松梅や 末長かれと 緑たつ
               山より続く 里は福岡”
と書かれています。
福岡が栄えるようにとの歌です。

この連歌には、黒田家の面々が出てきます。
家族で連歌を詠んでいるのは珍しく、」官兵衛は晩年は家族水入らずで送ったといいます。
戦乱の世の最後に、黒田家の安泰を想い、野心も満たされ、最期を迎えたのです。
福岡で穏やかな余生を過ごした官兵衛は、1604年、59歳でこの世を去りました。
官兵衛の跡を継いだ黒田長政は、こんな言葉を残しています。

「官兵衛が大坂方と通じれば、清正は喜んで味方になるはずだ
 九州の大名が結束して、官兵衛と清正が上れば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が、家康一人と戦うことは、卵に大きな石を投げ入れるようなものだ」

長政も同じように、関ケ原の戦いのシミュレーションを考えていたのです。

少しの違いで日本は変わったのかもしれない・・・

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1600年9月15日、関ケ原の戦い・・・!!
勇名をとどろかせたのは島左近!!
石田三成の軍師として知られた天下の猛将です。
その有志は、戦場で対峙した敵からも称賛されました。
しかし、左近の実情は謎多き人物です。

江戸時代に囁かれた言葉・・・
 
三成に過ぎたるものが二つあり
         島の左近と佐和山の城

と、天下の猛将として後世に知られた知られた島左近。
どうして左近は三成に仕えることとなったのでしょうか?
ある時、秀吉は4万石の大名となった三成に、「さぞ、多くの家臣を召し抱えたであろう。」と聞いたところ・・・。

「島左近ひとり召し抱えました。」by三成
「左近は、世に聞こえたる者・・・
 そちの元に少禄でどうして奉公することができようか。」by秀吉
「4万石の半分を分かち、2万石を与えました。」by三成
これには秀吉も驚いたといいます。
三成の軍師として知られた島左近。
左近の実情は資料が少なく、これまで知られていませんでした。

しかし、2016年大きな発見あがりました。
左近の直筆の書状が大阪で発見されたのです。
名前が嶋左近清興と、実茗が分かっただけでも大発見でした。
1590年7月・・・北条氏滅亡直後に書かれた島左近の書状です。
佐竹義久に宛てた手紙には・・・
検地の実施、兵糧米の長州などの統治方法が記されていました。
緻密な政治的折衝までやっていた・・・左近の姿が、初めて明らかになりました。

豊臣秀吉によって北条氏が滅亡・・・
代わりに関東に転付したのが徳川家康です。
豊臣政権最大の領地を有する家康・・・その抑えを期待されたのが常陸の大名・佐竹氏でした。
早い段階から家康対策として、佐竹氏を味方にしておく・・・。
家康を抑え込むことが大問題で、早くからその問題を意識していました。

関ケ原の戦いの2年前・・・
1598年8月18日、左近と三成の運命を大きく動かしたのが、豊臣秀吉の死去でした。
この時、秀吉の後継者・秀頼は僅か6歳・・・
豊臣政権の実力者・徳川家康と石田三成は日に日に対立していきます。
初めて左近は、家康攻略を三成に進言します。

左近の家康戦略①
石田の家を悪む人々が、徳川に心を寄せている・・・
敵の勢力が大きくなる前に討つべし!!と。
左近の作戦は・・・
家康の領国は関東で、兵を動かすのは難しい。
一方、三成に味方する人々は畿内に多く、兵を動かしやすい。
上杉や佐竹と組み、家康のいない関東を攻撃すれば・・・家康打倒など容易い!!と。

しかし、三成は次期尚早と、左近の策を採用しませんでした。

左近は、「どんなに卑怯な手を使ってでも勝ちたい!!」場合によっては暗殺も辞さなかったのです。
しかし三成は、豊臣政権の重鎮であり、卑怯な手段で敵を倒すのは如何なものか??と、思っていたようです。

三成と家康・・・二人の対立の発火点となったのが、1599年閏3月の七将襲撃事件です。
豊臣政権の重鎮、前田利家の死んだ夜、不満を募らせていた加藤清正をはじめとする7人の武将が大坂の石田邸を襲撃!!
三成は大坂から伏見に逃れ、九死に一生を得ます。
しかし、この事件の責任をとり、三成は居城・佐和山城に逼塞を命じられたのです。
三成失脚!!
しかし、左近は、家康攻略の好機と見ていました。

左近の家康攻略②
左近の作戦は・・・
三成の失脚で家康は油断している・・・
この機に乗じて、佐和山城の兵8000を率いて、家康のいる伏見城に攻め上ります。
家康邸を包囲し、一気呵成に攻めれば、攻略など容易い・・・

しかし、またもや三成は左近の策を却下!!

左近の家康戦略③
1600年6月、家康は上杉討伐のために大坂城を出陣!!
この時、家康は東海道で江戸に向います。
左近は、家康は近江の要衝・水口に宿泊・・・夜討ちをかけようと進言します。
これに応じた三成は、すでに長束正家と申し合わせ討つ手はずである・・・と。
長束正家は、三成と同じ五奉行のひとり・・・
この機を逃してはならない!!
左近は3000の兵を率いて出陣!!
しかし、攻略を事前に察知していた家康たち一行は、水口に泊まらず通過していました。

畿内脱出を果たした家康が江戸に到着したのは7月2日。
同じ日、近江・佐和山で大谷吉継らと共に挙兵!!
そしてここから左近の新しい家康攻略が始まろうとしていました。

上杉討伐に出陣した家康の好きを狙って挙兵した石田三成。
この時、三成の戦略とは・・・??
家康は背後に上杉、佐竹という敵を抱えている。
僅か3.4万の兵で上方へ20日かかる道を上洛するのは難しい・・・
例え上洛しても、尾張と三河の国境で討ち取れる・・・
これは、天が与えた好機である!!と。

三成は、西軍を尾張と三河の国境付近に配し、ここで上洛する東軍との決戦を構想していました。
8月8日、佐和山城を出陣した三成は、大垣城、岐阜城を攻略、美濃の大名集を味方につけることに成功!!
後は、清須城の開城が急務でした。
清須城の城主は、三成を襲撃していた福島正則でした。
正則は、上杉討伐のために留守で、留守を預かる老臣は、会場要請に応じず説得工作は難航!!
そのため、三成は清須城に近い大垣城に本陣を構えました。

この時・・・左近には秘策がありました。
”今度の合戦 尾張の熱田を本陣にして、某が先手となり 一戦仕るべく候”
左近は三成に本陣を熱田に置くべきだと進言したのです。
熱田神宮の門前町として栄えた熱田・・・
江戸時代、東海道最大の宿場町でした。
東海道のルートは、熱田から桑名までが唯一の海の道・・・七里の渡しでした。
当時、熱田の辺りは干潟でした。
当日の潮の流れは・・・干潟を徒歩で渡る100㎝を下るのは、午前7時から10時までに限られています。
もし、熱田に布陣すれば、干潟が自然の防御となり、西へ向かう敵の大軍勢を食い止めることができるのではないか??
しかし、左近の進言は、またしても三成に採用されませんでした。

三成が大垣城に本陣を構えた8月11日、東軍は岡崎に到着。。。
難所とみられた熱田を過ぎ、清須城に入城します。
東軍が清須城に入ったことで、三成の東軍迎撃策は崩れてしまいました。
東軍の進軍を迎撃する西軍・・・しかし、各地で撃破され・・・岐阜城も陥落・・・
東軍には、島津や宇喜多が集結・・・!!
杭瀬川を挟んで布陣します。
9月14日、西軍に衝撃が走ります。
東軍本陣の赤坂に、金色の扇を模した馬印が・・・家康が到着したのです。
東軍総大将・家康の突然の登場に、揺れる西軍・・・
左近は最期の戦いに・・・!!

関ケ原の戦いの前日・・・9月14日正午・・・
西軍本拠地・大垣城の4キロ先の赤坂に家康が着陣!!
動揺が広がる中、軍議が開かれました。
そんな中、左近は・・・。
「このような時には、戦を致し、兵に勇気をつけなければ、味方は敗軍に及ぶべし」と。
これこそ、左近の究極の家康攻略でした。
そして、三成は、左近の進言を受け入れます。
左近は500の手勢を率いて大垣城を出陣!!
目指すは家康本陣の赤坂!!
その間には、杭瀬川が流れていました。
この川を境に両軍が布陣・・・杭瀬川の戦いです。

埼玉県行田市にある忍城・・・
城内には、不思議な関ケ原合戦図屏風があります。

sekigahara
全国でも極めて珍しく、こちらは「杭瀬川の戦い」です。

どうして、関ケ原の戦いと同じ大きさで書かれているのか??
この戦いこそが、その後を決める大切な合戦だったのでは??



 sekigahara2






「杭瀬川の戦い」では、右上に家康本陣の赤坂、左下には西軍陣地が書かれています。
左近は、杭瀬川を渡ったところで、東軍を挑発!!
東軍が突撃開始!!
いったん退却する左近!!
西軍陣地へ攻め込む東軍!!
これこそが、左近の狙いでした。
河を渡ってきた東軍を待っていたのは、西軍の一斉射撃でした。
左近が猛攻をかけます。
この時、東軍の名のある武将、30人余りを討ち取ったとされます。
慌てた家康は、家臣の井伊直政、本多忠勝に撤退を命じます。
戦線の拡大を恐れたためともいわれています。

天下分け目の前日に行われた「杭瀬川の戦い」・・・。
既にこの時、関ケ原の戦いは始まっていたのかもしれません。
ひとまず勝った左近・・・次の一手は・・・??

この機を逃さず夜襲をかける??
しかし、百戦錬磨の家康も夜襲を警戒しているであろう・・・。
関ケ原へ転進する・・・??

1600年9月14日夜・・・
西軍最後の軍議で、左近は主張しました。
「今夜、夜襲をかけるほかない!! 
 敵に勢いをつけさせぬうちに、敵をたたくことこそ肝要である!!」
しかし・・・三成は関ケ原への転進を決断!!
そこには、小早川秀秋の動向が大きかったと思われます。

三成が大垣を出て関ケ原へ向かったのは、秀秋の謀反が露呈したため、その動きを封じるため・・・と!!
秀秋が裏切れば、大垣城が危ない・・・左近は、三成の意見に従い、関ケ原への転進が決定します。
9月15日未明・・・西軍は、無事に関ケ原へ転進。
それを追い、東軍も移動!!
東西両軍15万!!
いよいよ天下分け目の合戦の幕開けです。
左近は三成の先鋒大将として最前線で奮戦!!
左近の戦いを目の当たりにした者たちはいう・・・

左近が率いた兵士たちは、皆えりすぐりの物ばかりで、槍を合わせるとさっとのき、追撃するものを陣近くまで引き寄せ一気に殲滅するという手立てであった。
今思い出しても身の毛がたち、冷や汗の出る思いである・・・と!!

しかし、左近は乱戦のさ中、銃弾を負って重傷。
これによって左近の隊が崩れます。
これを見逃さなかったのが、松尾山の秀秋です。
島左近の陣が崩れると、秀秋は、かかれ!!と命じました。
此の一撃がきっかけとなって西軍は総崩れ・・・。
史上最大の合戦、関ケ原の戦いは僅か半日で終了したのです。
西軍は敗れ去りました。
最前線で戦った島左近は、関ケ原の戦場に散ったのです。
享年61歳でした。
そして、その凄まじい戦いぶりは、後々まで語り草となりました。

左近は本当に関ケ原で戦死したのでしょうか??
京都教法院には、島左近の墓があります。
そこには寛永9年6月26日没と書かれています。
これによると、関ケ原の後生き延びて、32年後に亡くなったことになります。

左近が生き残ったという伝説は、全国各地に残っています。
江戸時代を通じて武士の鑑と称えられた島左近。
左近の対する人々の想いは伝説となり、今もなお生き続けているのです。

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某には策があり申す 島左近の野望

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1600年9月15日、日本を二分する大合戦・関ケ原の戦いがありました。
東西入り乱れて15万を越える闘いは、東軍・徳川家康の勝利で終わろうとしていました。
この時、家康には天下の道がはっきりと見えていたかもしれない・・・
そんな家康に立ちはだかったのは・・・西軍の薩摩軍です。
この時、薩摩軍を率いていたのは島津義弘。
前代未聞の先鋒に・・・
家康の本陣に向かい、退却のための突撃を始めました。
”島津の退き口”です。
島津隊は、井伊直政を負傷させ、家康の四男・忠吉にも被弾させ・・・退却といいながら、徳川に大きな打撃を与えました。
更に闘いの後・・・西軍の諸将が改易される中、東軍に屈せず家康を翻弄します。
その中心となったのが、義弘の兄・16代当主島津義久です。

1600年9月15日関ケ原・・・東西両軍15万に及ぶ戦国武者たちが関ケ原に布陣を終えたのが午前6時ごろ・・・
東軍率いる徳川家康の側近の記録には・・・小雨が降り、山間のためにきりが深く、30メートル先も見えない・・・とあります。
濃霧で敵の陣も見えず、戦場に不穏な静寂が満ちていました。
西軍に味方した薩摩軍は、北国街道を隔て、石田三成の傍に布陣。
薩摩軍を率いるのは島津義弘!!
生涯52度の合戦に臨み、鬼島津と恐れられていました。
この時義弘、齢66でした。
午前8時ごろ開戦!!
東軍7万、西軍8万以上・・・!!
一進一退の攻防が続く中、島津は兵を動かしませんでした。
それは、兵数が少なかったためだといわれています。
この時62万石の薩摩軍は僅か1,500。

宇喜多秀家・・・57.4万石・・・17,000
石田三成・・・・・19.4万石・・・・6,000
大谷吉継・・・・・・5万石・・・・・・1,500

島津は62万石を誇ったものの、他の西軍諸侯と比べると、極端に少なかったのです。
戦いの2か月前、義弘が国元に宛てた手紙には・・・
「軍勢がなく、何をしたところでうまくいかずに困っている。」とあり、兄に何度も援軍要請をしています。
しかし、国元にいる義弘の兄・16代当主・義久が断っています。
援軍を送ると、島津は西軍に参加したことになる・・・
もし、東軍が勝った場合・・・申し開きができない。
西軍に、独断で義弘が参加したのであれば、家は安泰だ・・・。

どうして島津は西軍に参加することになったのでしょうか?
石田三成が、打倒家康に立ち上がった時、義弘は僅かの兵を連れて上方にいました。
西軍の大軍勢が大坂に集中し・・・義弘は西軍に味方するよりほかなかったのです。
島津には、西軍に積極的に組する理由はなかったのです。
一方で、義弘の危機に、国元の薩摩武士の中には義弘の元へ駆けつける命知らずの猛者も・・・。
こうして薩摩軍は1500!!
関ケ原の戦いが始まり4時間・・・正午ごろ、一進一退から動き出しました。
松尾山に布陣した小早川の裏切り・・・!!
中山道に布陣した味方に突進し、この一撃で戦いは東軍有利に・・・!!
午後1時・・・混乱の中、西軍の敗走が始まりました。

この時、義弘が戦場を脱し大阪へ向かう選択は、西か南!!
西へのルートは中山道か北国街道で向かう。
東のルートは伊勢街道を南下して伊賀を抜け大坂を目指す。。。
義弘の手勢僅か1500!!目の前には敵の軍勢8万!!
どの道を選んで薩摩に帰るのか・・・??

中山道は敵となった小早川が道を塞ぎ、
北国街道は、西軍が撤退のために殺到!!
どのみち、敵を背に向けての退却は厳しい・・・。

南へ向かう・・・??
そのためには、目の前にある敵の大軍勢を蹴散らさなければならない・・・。
敵中を突破し、伊勢街道を南へ・・・至難の業だ。。。

寡兵をもって大敵を破る・・・
義弘は、九州の桶狭間と呼ばれた1572年の木崎原の戦いで、10倍の数の敵に勝利し、大将を討ち取ったこともある・・・
しかし、この時、自身の兵の8割を失う結果となっています。
中央突破の損害は計り知れない・・・。
関ケ原から薩摩までおよそ1000キロ・・・。
虎口から脱するためにはどうすればいいのか・・・??
一刻の猶予もならない!!
敵の大軍勢が迫る中、どのルートで退却するのか・・・??

僅かな人数では勝利するのは難しい・・・
老武者では西に退却しても、伊吹山を越えるのは困難・・・
義弘は、目の前の敵を蹴散らしながら、南へ退却します。
それも、最も猛勢な敵に向かって、前進退却!!
島津の退き口の始まりでした。
戦場で勢いがるのは、猛将・福島正則、家康本陣!!
どうして猛勢を選んだのでしょうか?
それは、意表を突くためでした。
それに、家康の近くでは鉄砲が使えない・・・
東軍である味方が討たれる可能性が高いのです。
島津勢に迫られた福島正則は、この意表をついた行動に道を譲りました。
島津兵を止めれば、自軍の損害も多大になると思ったようです。

それを見た家康は・・・
「島津は西国一の強将である。
 早く打ち破らなければ、味方の多くは討たれるであろう。」と。
この時、突破を食い止めようとしたのが、徳川四天王のひとり井伊直政!!
直政は、義弘を討てと、島津軍を追撃!!
しかし、島津の銃撃によって負傷・・・この傷が元で、2年後に亡くなることとなります。
直政を襲ったのは、「捨てがまり」という島津独特の戦法です。
義弘本隊を通した後、狙撃部隊が残り、敵を待ち受け攻撃!!
その間に義弘本隊は逃走!!
これを何度も繰り返し、敵との距離を稼ぐのです。
しかし、兵士たちにとっては決死の覚悟が求められる戦法でした。
関ケ原の戦場から南へ10キロ・・・大垣市上石津町には・・・
義弘の甥・島津豊久の墓が残っています。
義弘の身代わりとなって尽力し、命果てたようです。
家臣たちの命がけの犠牲で、義弘は敵の追撃を引き離すことができたのです。
辛くも敵の追撃から逃れた義弘軍・・・しかし、敗者となった者には落武者狩りが・・・!!
義弘はこれらの襲撃を切り抜け、伊勢街道を脇道に・・・堺へ・・・船で瀬戸内海を渡り、薩摩へ帰還したのは10月3日となっていました。
1500の兵のうち、帰ってこれたのは僅か80余り・・・。
しかし、この時、九州にいた軍勢が、薩摩の国境に迫っていました。

島津と家康との戦いの第二幕が始まりました。
1600年10月、加藤清正や黒田如水など東軍の大軍勢が国境まで押し寄せていました。
絶体絶命の危機・・・!!
この時、領国防衛の中心人物は、義弘の兄・第16代当主島津義久です。
合戦で有名な弟に対し、義久とは・・・??
東軍の軍勢が迫る中、兄弟の意見は真っ向からぶつかっていました。
退き口の後、兄の義久は一戦を交えようというものの、弟・義弘は、戦いになるとひとたまりもないと反対。
そのため、家中は二つに分かれてしまいました。
徳川と和睦すべきか、一戦交えるべきか・・・??

弟・義弘の意見。
国元にいる兄は、世間に疎すぎる・・・
三成は処刑され、西国諸藩も家康に下った・・・和睦しかない。
すでに支配者となった家康に・・・敗戦は必至。
おまけに島津家中は一枚岩ではない・・・
内部から反旗が翻るかも・・・??
和議を結んで内政に力を入れるべきでは・・・??

兄・義久の意見
義弘は政に疎い。
是が非でも徹底抗戦!!
はなから和睦すれば、家康になめられ、毛利の二の舞になる・・・。
関が原の戦いで、西軍の盟主となった毛利家・・・。
しかし、毛利は徳川と密約を交わしていました。
「毛利輝元に対しては粗略には扱わない・・・」にもかかわらず、毛利家は120万石から37万石に減封されてしまった。
義弘は、関ケ原の戦いで、薩摩の恐ろしさを見せつけたから、それを使わない手はない・・・。
万が一、家康が攻めて来ても、戦を長引かせることができれば・・・!!
当時薩摩には、強固な防衛システムがありました。
島津の居城・内城を取り囲むように、100以上の外城が配置されていました。
関ケ原の後、防衛拠点を増強していた島津・・・。
徳川に対する臨戦態勢を築いていました。

徳川との戦を回避して和睦するのか?
一戦交えるのか・・・??

東軍が迫る中、義久は弟・義弘に城を修築させ、国境の死守を命じます。
しかし、義久は家康との戦いを決意したわけではありませんでした。
10月10日、井伊直政から薩摩へ使者が送られています。
義久に上洛を催促した書状です。
家康にとっても、薩摩出兵は時間と莫大な戦費がかかります。
義久を上洛させ、謝罪させれば、戦わずして支配下におけます。

義久は・・・
「遠国のため、ご無沙汰しております。
 義弘から事情は聴きましたが、義弘自身、西軍のたくらみなど知らなかったようです。
 家康様も、御承知のように秀頼さまに忠節を尽くすべき誓紙を入れており、君臣の道忍び難く、それに従ったまでということです。」

と、謝罪の言葉は一切ありませんでした。

義久は、戦の準備をしながらも、東軍に対し、自らの兵力を動かすことはありませんでした。
さらに家康との書状のやり取りは続きます。

国境にある東軍勢力のために上洛できないとか、老衰のために体の自由が利かないとか、ありとあらゆる理由をつけて、上洛を拒みました。
その交渉のさ中・・・不可解な事件が起こっています。
1601年5月、明の商船が消息を絶ちました。
島津家のお抱え商人・伊丹屋の仕業とされています。
しかし・・・2隻・・・300人が跡形もなく殲滅されてしまう・・・??
そのためには、兵力は1,000人はいなければならない・・・!!
伊丹屋が、明船を襲ったのであれば、義久の思惑の中で活動したとしか考えられないのです。
明船襲撃の黒幕は義久・・・??

関ケ原以降、国内覇権を確立しようとしていた家康にとって、秀吉の朝鮮出兵以降断絶していた明との国交回復は悲願でした。
国内需要の高い、明の銅銭や生糸などが手にはいる貿易は、多額の富を生み出すこととなります。
後に家康は、朱印船制度を創設し、海外貿易を盛んに行います。
交易ルートにあたる薩摩が、日明貿易のカギを握っていたことは言うまでもありません。
明船襲撃は、義久の家康に対するアピールだったのでは・・・??
家康に対して、このような事件が今後も続くぞ・・・!!と。。。
そうなれば、東シナ海の安寧秩序は永久に訪れません。
天下を目指す家康にとって、これ以上薩摩と対立することに異はありません。

1602年12月、家康は島津の本領安堵を確約しました。
義久の後継者として島津忠恒が上洛し、家康に謁見。
家康は義弘が西軍に参加したことを赦免し、領国を安堵することを認めました。
関ケ原の戦いから2年・・・西軍のうち全領土を安堵されたのは、島津家のみでした。

関ケ原の戦い以降、薩摩は江戸幕府に対し、独立の気風を保ち続けます。
関所では厳しく検査・・・野間之関から熊本県の水俣まで、無人地帯となっていました。
噂では、胡乱な者が見つかった場合、わざと通して切り殺したといわれています。
江戸時代を通じ、この閉鎖性は独自の気風を生み、一筋縄ではいかないものとなっていきます。
鹿児島では関ケ原での退き口をテーマにした行事があります。
妙円寺詣り・・・これには、若き日の西郷隆盛や大久保利通も参加しています。
幕末、新しい時代を切り開いた薩摩藩・・・その原点となったのが関ケ原の戦いで退き口を成功させた弟・義弘と、老練な交渉で家康を翻弄した兄・義久の二人の決断でした。




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戦国時代屈指の名将・真田昌幸、日の本一の兵・真田信繁・・・
二人の英雄のはざまにあったのが、嫡男・真田信之でした。
信之がいたからこそ、江戸260年、真田の家名は絶えることなく明治維新まで続きます。

真田の名が天下に轟いたのは、戦国時代最後の大坂の陣!!
徳川VS豊臣の戦いでした。総勢30万人の戦いで、信之の弟・信繁は、出城・真田丸を拠点にして徳川をさんざん悩ませます。
2016年2月真田丸の新しい絵図が発見されました。
大坂の陣に一番近い絵図・・・そこには、今まで考えられていなかったことが書かれていました。
しかし、信繁が活躍すれば活躍するほど信之は苦境に立たされていきます。
真田家存亡の危機に・・・!!

天下に勇名をはせた父と弟・・・陰に隠れているかに見える兄・信之・・・生涯をかけて真田を守った男の決断とは・・・??

真田信之の菩提を弔う大鋒寺には、信之の生前の姿の門外不出の木像があります。
信之が実際に戦ったのは関ケ原までです。
以降、60年近くは武器を持たず・・・しかし、関ケ原が終わってからが、信之の武器を持たない戦いの始まりでした。
後に、徳川幕府から天下の飾・・・武士の鑑と称えられた信之・・・信之はどうやって真田家の家名を存続させていったのでしょうか?
そこには信之の苦悩がありました。
日本を二分にして戦った関ケ原の戦い・・・実は、この戦いの前夜・・・真田一族の命運をかけた大きな決断がありました。
1600年7月、上杉征伐参陣の途中・・・真田に密書が届けられました。
大老・家康の不在をついて、石田三成が反徳川の兵を挙げたのです。
密書は、家康を糾弾し、三成の西軍に組するように依頼する内容でした。
東につくか?西につくのか・・・??選択に迫られます。
信之の正妻は、徳川重臣・本多忠勝の娘、信繁の正妻は西軍首謀者のひとり大谷吉継の娘でした。
兄弟の姻戚関係は東西に分裂したのです。
昌幸は西軍に組する決意を明かし、弟もそれに賛同・・・しかし、信之は二人に異を唱えます。
ひとたび家康公に従い出陣した以上、逆心を示せば、不義のそしりを受けかねない・・・!!
結果、信之は東軍に、父・昌幸と弟・信繁は西軍に組することとなります。いわゆる”犬伏の別れ”です。

しかし、関ケ原の戦いは、わずか1日で東軍の勝利に終わります。
信之は勝者となり、父と弟は敗者となりました。
関ケ原の戦いは、真田一族の運命を大きく変えていきます。
勝者となった信之は、もともとも領地の沼田に加え、父の領地であった上田などを合わせ9万5千石の大名に列します。
一方、反旗を翻した昌幸に対し、のちの二代将軍・秀忠は「必ず昌幸を処刑すべし!!」と、怒りをあらわにしたと言います。
なぜなら・・・関ケ原の前哨戦となる第二次上田合戦で、昌幸に足止めを食らった秀忠は、天下分け目の合戦に間に合わなかったからです。

信之は、徳川家の重臣たちに助命嘆願の根回しをします。
この時の命がけの言葉が残っています。
「昌幸を誅するならば、それより先に、この私に切腹をご命じください!!」
命がけの信之の嘆願に、父と弟は罪一等を減じ、高野山の麓の九度山に幽閉されることとなります。

そして関ケ原から3年後の1603年、家康、征夷大将軍に就任。
以後、信之は江戸幕府に組し、徳川を支えていくこととなります。
徳川家に忠誠を誓った信之・・・しかし、信之の領国経営は苦悩の連続でした。
江戸城普請など、幕府の公役負担、浅間山噴火による作物被害・・・そのうえ、父と弟の幽閉生活を支えていました。
幽閉先の昌幸からお金の催促も・・・
真田領は災害がひどく、復興にたくさんのお金がかかっていました。
それだけではなく、農民たちは年貢が払えず、借金も払えず、身売りをしていました。
それを自分がお金を出して村に帰してやっているのです。
信之は、厳しいやりくりの中、領国復興を行おうとしていたのです。
おまけに、父と弟の仕送りはかなりの負担でした。
しかし、そんな信之の努力も無に帰します。
1611年6月4日・・・父・昌幸が赦免されることなく九度山で亡くなります。
享年65・・・無念の死でした。
信之は、父の葬儀を行うべく、幕府の許しを請うものの・・・その許可が下りることはありませんでした。
昌幸は危険人物とみなされていたのです。

幽閉先には、信繁が残されます。
父亡きあとも、弟の生活を支えていく信之・・・
しかし、徳川と豊臣との戦いが、二人に亀裂を生じさせていきます。

江戸幕府を開府し、全国統治を目指す家康にとって、どうしても排除しなければならないのが豊臣家・・・
1614年8月、方広寺小鐘銘事件!!
国家安康・・・家康の文字を分け、呪詛をかけている!!という言いがかりを機会に、両者の決戦は避けられないものとなっていきます。
九度山に幽閉されている信繁に心情の変化が・・・??

「こちらにお見舞いに来ることは無用!!
 特に変わったことはありません。」
それまでの信繁は、寄ってほしい、来てほしいという内容の手紙を送っていました。
異質な内容の手紙・・・大阪入城直前の手紙かも知れません。

万が一、弟が大坂城に入れば、信之にとって敵となり、責任を取って改易される可能性もある・・・
おまけに信之は中風を患っていました。
信之は歩くこともままならない・・・弟の説得にも向かえない・・・
どうすればいい??

幕府にとって父・昌幸は”公儀御憚りの仁”・・・徳川と戦った時の主将はあくまでも昌幸、信之ではない・・・。

信繁を説得する・・・??
強行策・・・??
もし信之が弟を亡き者にしようとすれば・・・家臣団は分裂する・・・??

弟の大坂入城をどう阻止する・・・??

1614年10月・・・豊臣と徳川の激突が・・・!!
信之は弟・信繁の入城を阻止するべく、九度山に家臣を派遣、説得を試みます。
幕府に味方するように説得します。
しかし、信繁は、父・昌幸の遺言もありこれを拒絶!!
結果・・・信繁、大坂城に入城!!

信繁同様集まった浪人たちは10万余り・・・!!
対する幕府軍は20万で大坂城を包囲!!
大坂冬の陣の幕開けです。
信之は病のために参陣できない・・・
幕府の許可を得た信之は、長男と次男を大坂へ従軍させています。
大坂冬の陣で大軍勢を破った信繁・・・信繁が築いた真田丸!!
しかし、真田丸にはまだまだ謎が多く・・・知られていません。
今年2月・・・松江で新しい発見がありました。
真田丸の絵図の中でも、大坂の陣に最も近いものです。
真田丸とは陸続きで防御が手薄なために大坂城の南に作られた出城です。
従来の真田丸は、大坂城に接していると考えられていましたが・・・
200mをこえる谷を挟んで大坂城から独立する形になっていました。

さらにこれまでと異なる点は、土橋という出入り口です。
敵が攻め寄せれば防御に徹し、敵が撤退すれば反撃に打って出ることができます。
守るためだけの真田丸・・・と思われていましたが、信繁は反撃する事を考えていたようです。
実際、徳川軍の混乱に乗じて出撃し、手痛い一撃を加えています。
真田丸の信繁の活躍に衝撃を受ける家康。
信濃一国を与える代わりに寝返るように・・・と、調略します。
信繁はこれを相手にしなかったと言います。
しかし・・・信繁の奮戦空しく、大坂城を狙う大筒によって・・・豊臣方の動揺を招き、一時休戦・・・
12月19日講和成立。
講和から半年後、大坂夏の陣!!
徳川15万に対し、豊臣5万・・・
真田丸はすでになく、大坂城の総構えは埋め立てられ、場外出撃を余儀なくされた豊臣方は決死の戦いを敢行!!
しかし・・・1615年5月7日・・・幕府勢を蹴散らし、家康の本陣を目指した信繁は戦乱の中で壮絶な死を遂げます。
享年49歳と言われています。

弟の名声が高まる一方・・・戦後、疑いがかけられています。
真田家が大坂に援軍を送り、密かに領内の信繁とはかりごとをしていたというのです。
それに対し信之は・・・
「若し、反逆の心があれば、関ケ原の時に父と弟と一緒に敵となっている!!
親兄弟と袂を分かち、徳川のために忠義を尽くしてきたわれらが今更反逆を企てるものか?
そう思うなら、言い訳などしない。
速やかに自決して見せよう!!」
それを聞いた秀忠は、信之の幕府に対する忠義を認めたといいます。
かろうじて真田家の存続は保たれました。
しかし、実際、弟ともに戦った家臣たちもいました。
大坂に行った真田領の者の妻子を詮議し、京都に送りました。
処刑されたと言われています。
過酷な処置をとらなければ、幕府からの疑念、弟と密談の結果家臣を贈ったという疑念を払しょくできなかったようです。
真田の家名を守るために・・・!!
93年の長きにわたる生涯を、真田家存続のために奔走することとなるのです。

信之は第二次上田合戦で上田城を壊されて上田に入ります。
立派なお城に・・・とせずに、上田城はそのままに、堀だけ掘って近くの館に暮らしています。
当時の大名としてはあり得ない・・・しかし、それでいいという合理性と、上田城を立派に復興すれば、徳川から目をつけられかねない・・・とわかって配慮に配慮を重ねていたようです。

戦国時代から江戸時代の初めまで、武名が全ての時代に・・・
徳川に一泡吹かせたことで真田の名が天下に轟きました。
反徳川の空気のある人たちは、みんな真田を憧れの目で見ていました。

そんな中でひたすら忠義を尽くす犬に徹する兄・信之・・・
強い真田も徳川の犬となる状態・・・
あれだけ強かった真田も今となっては徳川家の飾りとなった・・・。
だから、改易に処されなかったのかもしれません。

長野県松代は、江戸時代、初代藩主となった信之の治めた土地です。
信之の菩提寺には、信之の隠居後にあった板戸が・・・不思議な絵が描かれています。
籠の中に入れられた鳥・・・
父・信之と、弟・信繁を思ってこんな形の供養をしていたのかもしれません。
もしかすると信幸自身かも・・・。

晩年の信之の、父と弟に対する思いは、単純なものではなかったでしょう。
そして、歴代の藩主が秘蔵してきた箱が・・・「吉光御腰物箱」。
この箱の中には、家康などの将軍家からの書状が沢山ありました。
その中に、関ケ原の戦いで敗れた石田三成や大谷吉継が、西軍に味方するように書かれた書状が残されていました。
幕府に憚りある代物が・・・。
こうした危険な文書を・・・どうして後世に伝えようとしたのでしょうか。
真田家の重要な記録として・・・自分自身が父や弟と袂を分かたねばならなかった・・・本来であれば一緒に行動していたのかもしれない・・・
信之が再興した天厩寺・・・英雄・武田信玄の弟を弔う寺です。
奇しくも信玄の弟の名も信繁でした。
墓の横にある小さな供養塔は、大坂の陣で戦死した弟の供養塔だと伝えられています。
信之が幕府に遠慮し、ここで弟を弔ったのだと言われています。
兵として戦場で華々しく散った弟・信繁、一方真田の名を守るために一生をかけて命がけの折衝をした信之・・・
歩んだ道は違えど、父・昌幸の意を汲んだそれぞれの決断でした。


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<真田三代と戦国時代>幸村復活へ 九度山脱出と大坂城入城 (歴史群像デジタルアーカイブス)




真田は上田城において、またしても徳川軍を撃退した。

勝利に沸く真田家に、関ケ原の合戦で石田三成の軍勢が惨敗したという知らせが届く。

ということで、今回のサブタイトルは「信之」・・・。
信幸だったんですけどね。。。
悲しい板挟みの信幸です。

慶長5年9月15日・・・毛利が率いる西軍と、徳川の東軍は、美濃・関ケ原でぶつかった。。。
結果、何年も決着がつかないと皆が思っていた戦は、たった一日で勝敗がついた。。。

「降伏はせんぞ!!
 金輪際するもんか!! 真田は徳川に勝ったのじゃ!!
 そうだな?内記!!
 何で頭を下げねばならんのじゃ!!」by昌幸

「お気持ちはわかりますが、関ケ原で石田様が敗れてしまったからでは・・・」by信繁

まだまだ戦おうとする昌幸ですが・・・

大坂は徳川の兵であふれかえっているという・・・。
大坂城が徳川の手に落ちた・・・!!
もはやこれまで・・・??

「父上、勝敗は決しました。
 これ以上の戦いは無駄でございます。」by信繁

「まだ、上杉がおる!!
 上杉と図って、江戸を抑えれば・・・!!」by昌幸

「父上!!
 あとは・・・兄上に任せましょう。。。」by信繁

なんとも、眼光鋭い・・・悔しさMaxの昌幸ですが・・・。
致し方ありません。

信幸を通して、降伏を申し入れてきたという昌幸に・・・どうする??家康!!

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真田の処遇はどうなるのか・・・??

上田城の明け渡しには、平野長泰がやってきました。

「一つ、兵は一人残らず去らせる事。
 一つ、武具・鉄砲・玉薬はことごとく召し上げ 
 一つ、真田安房守ならびにその子・左衛門佐は・・・城内に於いて暫し蟄居。 
 処分については後日、 以上!!」by三十郎

読み上げたのは、かつて信繁を支えてくれた三十郎でした。
ああ・・・信繁も辛いけど、三十郎はもっとつらい事でしょう。

昌幸と信繁の命乞いのために大坂へ向かおうとする信幸・・・。

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「なんとしても二人を助けねばならん・・・」by信繁

そこへ、本多忠勝登場!!
信幸をねぎらい・・・信幸に心動かされ・・・一緒に命乞いをしてくれることに・・・!!

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「安房守を助けてやりたいのは山々だが・・・ここは親子ともども死んでもらう。」by家康
しかし、頭を下げるのは平八郎忠勝!!
許してもらえなければ、上田に籠り、徳川相手に討ち死にするという!!

本気の平八郎に根負けした家康・・・
「命まではとらぬ・・・
 平八郎にそこまで言われたら仕方なかろう。」by家康

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「ありがとうございます。」by信幸

父と縁を切る・・・そのために、諱を変えよ・・・と言われます。
昌幸の「幸」を捨てろというのです。

「かしこまりました。
  かたじけのうございました。」by信幸

涙をにじませながら・・・犬伏での約束を守ろうとする信幸がそこにはいました。

母もまた・・・不安な日を送っていました。

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信幸が来てくれたことで、ちょっと一安心でしょうが・・・
どこにいようと・・・今は、豊臣から徳川へ・・・変わっただけの人質に変わりはありません。

「大坂にて徳川内府様におすがりしました。 
 お二人の命までが取らぬということで決しました。」by信幸

「そんなことは当たり前じゃ・・・!!」by昌幸

「無念ですが、小県の料理は全て召し上げ。」by信幸
「後に入るのはどなたです?」by信繁
「まだ決まっておらぬが、おそらくは俺だ。」by信幸
「兄上が治めてくださるのなら、願ったりかなったりです。 
 真田の地が守れます。」by信繁
「・・・で、わしらはどうなる?」by昌幸
「お二人は、高野山に流罪と決まりました。」by信幸
「流罪・・・??
 高野山の坊主たちと暮らせというのか・・・??」by昌幸
「高野山は、女人禁制ゆえ、麓の九度山村に屋敷を建てます。」by信幸
「九度山??
 聞いたこともないわ・・・!!
 この役立たずが!!
 何のために、徳川についた!?」by昌幸

そうですね・・・いらだつ昌幸です。
やんちゃしてきた昌幸と、堅実な信幸とでは、最後のあがきが違うのかもしれませんが・・・
でも、高野山に・・・ということは、本当は出家せよ!!ということです。
が・・・女性を連れて行けるようにと九度山に・・・これって、かなりの配慮だと思います。
信繁が、春を連れて行きたかったからお願いした・・・という説もあるくらいです。
後に子供ももうけていますし、そんなに厳しい蟄居ではなかったのかもしれません。

やっぱり時代に取り残されていってる昌幸なんですね。。。

「すまん・・・言い過ぎた・・・」by昌幸

「これからも、力を尽くします。
 お許しください・・・!!」by信幸

そうですね・・・この板挟み、大坂の陣まで続くんですよ・・・。
どうするよ・・・胃に穴が開いちゃうんじゃないかしら??信幸!!

そして・・・義兄・小山田茂誠は、信幸に付くことに・・・
なるべく真田を生かすためです。

泣く作兵衛は、村に戻って、すえを育てることに・・・。
「すえは、信濃の女子として育ってほしいのだ・・・。」by信繁

内記は、歳も年だし自分の思うようにせよ・・・と、昌幸に言われ・・・九度山について行くことに。。。
死ぬまで殿のおそばで・・・!!

「では・・・各々、ぬかりなく・・・!!」by昌幸

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信幸に任せた昌相にも別れを・・・
病床で・・・大坂城の攻め方を・・・
「徳川内府の寝首をかけ・・・!!」by昌相
「相分かった・・・」by昌幸

二人とも・・・もうそんな時代が帰ってくるとは思っているのかいないのか??
いつまでも二人で戦う・・・そんな昔を夢見ているのでしょうか??

16歳になったすえ・・・信幸の世話になれという信繁に・・・
「すえにとって父は一人でございます。
 作兵衛伯父上だけでございます。」byすえ
父親らしいことを何もしてこなかった信繁・・・これもちょっと辛いなあ・・・。

1600年12月13日・・・上田城は、正式に徳川に明け渡されました。

徳川家康は、信幸に上田を与え・・・信幸は、9万5000石の大名となりました。
父上と縁を切れ・・・と言われ、幸の字を捨てることとなった・・・と、家臣たちに告白する信幸・・・。

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「真田伊豆守信之!!」

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「読みは変わらん・・・
 わしの意地じゃ・・・!!」by信之

高野山へ向かった昌幸は、家康に呼ばれ大坂に立ち寄りました。

そして・・・死罪にすることはできたが・・・死よりも苦しい仕打ちを与えようとしている・・・という。
「一切の兵と、馬と、武具と、城と・・・そして、今後戦にでる一切の機会を奪う・・・
 残りの人生を、高野山のちいさな村の中で過ごすのだ・・・
 1,2年で帰ってこられるなどと、ゆめゆめ思う出ないぞ。
 10年になろうが、20年になろうが・・・お主は死ぬまでそこにおるのだ・・・!!
 この生き地獄・・・たっぷりと味わうがよい・・・
 真田安房守・・・二度と会うことはなかろう」by家康

声高らかに去っていく、家康がそこにはいました。

大坂城で・・・家康が三成を討伐したことを秀頼に報告し・・・三成がすべての罪を被ってくれたので、他のみんなが救われたことを片桐且元に聞く信繁。

そうですね、この時点では、秀頼がトップなわけです。
タヌキオヤジがトップではありませんよ!!
ということで、謀反人・石田三成を徳川家康が討ったという大義名分ができてるわけですよね。
さすが・・・腹黒い・・・徳川家康!!

寧にも最後のご挨拶・・・。

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そこに登場したのは小早川秀秋!!
が・・・オドオド逃げちゃいました。。。
自分のしたこと・・・
徳川と通じていたこと・・・
三成を裏切ったこと・・・
その精神は、幻覚を見るまでに・・・!!

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なんとこんなところで初登場!!
毛利勝永!!

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明石全登!!


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宇喜多秀家!!

小早川秀秋は、関ケ原の合戦より2年後・・・
自分のしたことの罪の重さに苛まれ、21歳で謎の死を遂げる・・・。

って、この時点で↑の皆さんは行方知れず・・・死んでないんですが・・・
そうそう亡霊ではないのです。
が、小早川秀秋・・・世が世なれば、天下人だったかもしれません。
秀頼が生れたことで、小早川家に養子に出されて追いやられ・・・
関ケ原になかなか参加しなかったのは、病気だったからという説もありますが・・・
最後はアルコール中毒で亡くなっちゃうんですよね。。。
なので、やっぱり自分のしたことに後悔していたんでしょう。。。

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大谷吉継は・・・
自分の首を敵に渡すことなく、大名で唯一の自害を遂げることとなります。

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「治部・・・楽しかったぞ・・・!!」by吉継

sekigahara
小早川秀秋の裏切りのせいで窮地に追い込まれた吉継ですが・・・
実は、小早川の裏切りは予想済みで、その”おさえ”としての大谷吉継って説もあります。


なので、赤座直保、朽木元綱、小川祐忠、脇坂安治・・・脇坂は東軍に寝返り予定でしたが、他3人はその場で寝返ったようです。
この4人の裏切りが、大谷吉継を切腹に追いやったと言えるでしょう。

家康も一目置いていたという大谷吉継。
もちろん、三成の親友だったことは間違いありませんが、今までのように”負けるとわかっていても親友のために・・・”ではなく、”三成に勝利をもたらせる”ために、戦った男でした。


加藤清正が、信繁に会いにやってきました。
「会わせたい者がおる・・・」と、三成の妻・うたがやってきました。
三成の最期を伝えるために・・・!!

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「それは・・・見事なご最期でございました。」byうた
この見事な最期って・・・??
見ての通り、三成は、市中引き回しの上刑死です。
吉継が家臣に首を敵に取られないように隠させたように、本当ならば、無念!!が最期な一言でしょうが、
三成は最後にこう言っています。

「大義を思うものは、首を刎ねられる瞬間まで命を大切にするものだ。
 それは、なんとかして本望を達したいと思うからである。」by三成

最後の最期まで、豊臣家のために戦う・・・という意志からでしょう。
上にも書いていますが、この三成の死によって、他の者が罰せられることなく許されたということから見ても、無念な最期ではなかった・・・”見事な最期”・・・。

よく考えれば、小さな石田村の土豪・・・
秀吉に見いだされ、出世しても20万石の小大名が、徳川家康に立ち向かい、日本中を巻き込んで関ケ原の戦いを起こした・・・そう考えると、本人も満足な、それこそ”見事な最期”だったことでしょう。


そして・・・昌幸と信繁は・・・

1611年初め・・・紀州九度山村の屋敷へ・・・!!

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信繁たちの新しい暮らしが始まろうとしていました。

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ということで、次回からはわがふるさとの誇る高野山の玄関口九度山です。

ま、信繁としてはパッとしない時代に入るわけですが・・・
どんな感じになるのでしょうか?
楽しみにしています。
ちなみに↑の村の写真・・・今でもこんな感じよ・・・



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