日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大谷吉継

新装版 島左近 石田三成を支えた義将 (PHP文庫)

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1600年9月15日、関ケ原の戦い・・・!!
勇名をとどろかせたのは島左近!!
石田三成の軍師として知られた天下の猛将です。
その有志は、戦場で対峙した敵からも称賛されました。
しかし、左近の実情は謎多き人物です。

江戸時代に囁かれた言葉・・・
 
三成に過ぎたるものが二つあり
         島の左近と佐和山の城

と、天下の猛将として後世に知られた知られた島左近。
どうして左近は三成に仕えることとなったのでしょうか?
ある時、秀吉は4万石の大名となった三成に、「さぞ、多くの家臣を召し抱えたであろう。」と聞いたところ・・・。

「島左近ひとり召し抱えました。」by三成
「左近は、世に聞こえたる者・・・
 そちの元に少禄でどうして奉公することができようか。」by秀吉
「4万石の半分を分かち、2万石を与えました。」by三成
これには秀吉も驚いたといいます。
三成の軍師として知られた島左近。
左近の実情は資料が少なく、これまで知られていませんでした。

しかし、2016年大きな発見あがりました。
左近の直筆の書状が大阪で発見されたのです。
名前が嶋左近清興と、実茗が分かっただけでも大発見でした。
1590年7月・・・北条氏滅亡直後に書かれた島左近の書状です。
佐竹義久に宛てた手紙には・・・
検地の実施、兵糧米の長州などの統治方法が記されていました。
緻密な政治的折衝までやっていた・・・左近の姿が、初めて明らかになりました。

豊臣秀吉によって北条氏が滅亡・・・
代わりに関東に転付したのが徳川家康です。
豊臣政権最大の領地を有する家康・・・その抑えを期待されたのが常陸の大名・佐竹氏でした。
早い段階から家康対策として、佐竹氏を味方にしておく・・・。
家康を抑え込むことが大問題で、早くからその問題を意識していました。

関ケ原の戦いの2年前・・・
1598年8月18日、左近と三成の運命を大きく動かしたのが、豊臣秀吉の死去でした。
この時、秀吉の後継者・秀頼は僅か6歳・・・
豊臣政権の実力者・徳川家康と石田三成は日に日に対立していきます。
初めて左近は、家康攻略を三成に進言します。

左近の家康戦略①
石田の家を悪む人々が、徳川に心を寄せている・・・
敵の勢力が大きくなる前に討つべし!!と。
左近の作戦は・・・
家康の領国は関東で、兵を動かすのは難しい。
一方、三成に味方する人々は畿内に多く、兵を動かしやすい。
上杉や佐竹と組み、家康のいない関東を攻撃すれば・・・家康打倒など容易い!!と。

しかし、三成は次期尚早と、左近の策を採用しませんでした。

左近は、「どんなに卑怯な手を使ってでも勝ちたい!!」場合によっては暗殺も辞さなかったのです。
しかし三成は、豊臣政権の重鎮であり、卑怯な手段で敵を倒すのは如何なものか??と、思っていたようです。

三成と家康・・・二人の対立の発火点となったのが、1599年閏3月の七将襲撃事件です。
豊臣政権の重鎮、前田利家の死んだ夜、不満を募らせていた加藤清正をはじめとする7人の武将が大坂の石田邸を襲撃!!
三成は大坂から伏見に逃れ、九死に一生を得ます。
しかし、この事件の責任をとり、三成は居城・佐和山城に逼塞を命じられたのです。
三成失脚!!
しかし、左近は、家康攻略の好機と見ていました。

左近の家康攻略②
左近の作戦は・・・
三成の失脚で家康は油断している・・・
この機に乗じて、佐和山城の兵8000を率いて、家康のいる伏見城に攻め上ります。
家康邸を包囲し、一気呵成に攻めれば、攻略など容易い・・・

しかし、またもや三成は左近の策を却下!!

左近の家康戦略③
1600年6月、家康は上杉討伐のために大坂城を出陣!!
この時、家康は東海道で江戸に向います。
左近は、家康は近江の要衝・水口に宿泊・・・夜討ちをかけようと進言します。
これに応じた三成は、すでに長束正家と申し合わせ討つ手はずである・・・と。
長束正家は、三成と同じ五奉行のひとり・・・
この機を逃してはならない!!
左近は3000の兵を率いて出陣!!
しかし、攻略を事前に察知していた家康たち一行は、水口に泊まらず通過していました。

畿内脱出を果たした家康が江戸に到着したのは7月2日。
同じ日、近江・佐和山で大谷吉継らと共に挙兵!!
そしてここから左近の新しい家康攻略が始まろうとしていました。

上杉討伐に出陣した家康の好きを狙って挙兵した石田三成。
この時、三成の戦略とは・・・??
家康は背後に上杉、佐竹という敵を抱えている。
僅か3.4万の兵で上方へ20日かかる道を上洛するのは難しい・・・
例え上洛しても、尾張と三河の国境で討ち取れる・・・
これは、天が与えた好機である!!と。

三成は、西軍を尾張と三河の国境付近に配し、ここで上洛する東軍との決戦を構想していました。
8月8日、佐和山城を出陣した三成は、大垣城、岐阜城を攻略、美濃の大名集を味方につけることに成功!!
後は、清須城の開城が急務でした。
清須城の城主は、三成を襲撃していた福島正則でした。
正則は、上杉討伐のために留守で、留守を預かる老臣は、会場要請に応じず説得工作は難航!!
そのため、三成は清須城に近い大垣城に本陣を構えました。

この時・・・左近には秘策がありました。
”今度の合戦 尾張の熱田を本陣にして、某が先手となり 一戦仕るべく候”
左近は三成に本陣を熱田に置くべきだと進言したのです。
熱田神宮の門前町として栄えた熱田・・・
江戸時代、東海道最大の宿場町でした。
東海道のルートは、熱田から桑名までが唯一の海の道・・・七里の渡しでした。
当時、熱田の辺りは干潟でした。
当日の潮の流れは・・・干潟を徒歩で渡る100㎝を下るのは、午前7時から10時までに限られています。
もし、熱田に布陣すれば、干潟が自然の防御となり、西へ向かう敵の大軍勢を食い止めることができるのではないか??
しかし、左近の進言は、またしても三成に採用されませんでした。

三成が大垣城に本陣を構えた8月11日、東軍は岡崎に到着。。。
難所とみられた熱田を過ぎ、清須城に入城します。
東軍が清須城に入ったことで、三成の東軍迎撃策は崩れてしまいました。
東軍の進軍を迎撃する西軍・・・しかし、各地で撃破され・・・岐阜城も陥落・・・
東軍には、島津や宇喜多が集結・・・!!
杭瀬川を挟んで布陣します。
9月14日、西軍に衝撃が走ります。
東軍本陣の赤坂に、金色の扇を模した馬印が・・・家康が到着したのです。
東軍総大将・家康の突然の登場に、揺れる西軍・・・
左近は最期の戦いに・・・!!

関ケ原の戦いの前日・・・9月14日正午・・・
西軍本拠地・大垣城の4キロ先の赤坂に家康が着陣!!
動揺が広がる中、軍議が開かれました。
そんな中、左近は・・・。
「このような時には、戦を致し、兵に勇気をつけなければ、味方は敗軍に及ぶべし」と。
これこそ、左近の究極の家康攻略でした。
そして、三成は、左近の進言を受け入れます。
左近は500の手勢を率いて大垣城を出陣!!
目指すは家康本陣の赤坂!!
その間には、杭瀬川が流れていました。
この川を境に両軍が布陣・・・杭瀬川の戦いです。

埼玉県行田市にある忍城・・・
城内には、不思議な関ケ原合戦図屏風があります。

sekigahara
全国でも極めて珍しく、こちらは「杭瀬川の戦い」です。

どうして、関ケ原の戦いと同じ大きさで書かれているのか??
この戦いこそが、その後を決める大切な合戦だったのでは??



 sekigahara2






「杭瀬川の戦い」では、右上に家康本陣の赤坂、左下には西軍陣地が書かれています。
左近は、杭瀬川を渡ったところで、東軍を挑発!!
東軍が突撃開始!!
いったん退却する左近!!
西軍陣地へ攻め込む東軍!!
これこそが、左近の狙いでした。
河を渡ってきた東軍を待っていたのは、西軍の一斉射撃でした。
左近が猛攻をかけます。
この時、東軍の名のある武将、30人余りを討ち取ったとされます。
慌てた家康は、家臣の井伊直政、本多忠勝に撤退を命じます。
戦線の拡大を恐れたためともいわれています。

天下分け目の前日に行われた「杭瀬川の戦い」・・・。
既にこの時、関ケ原の戦いは始まっていたのかもしれません。
ひとまず勝った左近・・・次の一手は・・・??

この機を逃さず夜襲をかける??
しかし、百戦錬磨の家康も夜襲を警戒しているであろう・・・。
関ケ原へ転進する・・・??

1600年9月14日夜・・・
西軍最後の軍議で、左近は主張しました。
「今夜、夜襲をかけるほかない!! 
 敵に勢いをつけさせぬうちに、敵をたたくことこそ肝要である!!」
しかし・・・三成は関ケ原への転進を決断!!
そこには、小早川秀秋の動向が大きかったと思われます。

三成が大垣を出て関ケ原へ向かったのは、秀秋の謀反が露呈したため、その動きを封じるため・・・と!!
秀秋が裏切れば、大垣城が危ない・・・左近は、三成の意見に従い、関ケ原への転進が決定します。
9月15日未明・・・西軍は、無事に関ケ原へ転進。
それを追い、東軍も移動!!
東西両軍15万!!
いよいよ天下分け目の合戦の幕開けです。
左近は三成の先鋒大将として最前線で奮戦!!
左近の戦いを目の当たりにした者たちはいう・・・

左近が率いた兵士たちは、皆えりすぐりの物ばかりで、槍を合わせるとさっとのき、追撃するものを陣近くまで引き寄せ一気に殲滅するという手立てであった。
今思い出しても身の毛がたち、冷や汗の出る思いである・・・と!!

しかし、左近は乱戦のさ中、銃弾を負って重傷。
これによって左近の隊が崩れます。
これを見逃さなかったのが、松尾山の秀秋です。
島左近の陣が崩れると、秀秋は、かかれ!!と命じました。
此の一撃がきっかけとなって西軍は総崩れ・・・。
史上最大の合戦、関ケ原の戦いは僅か半日で終了したのです。
西軍は敗れ去りました。
最前線で戦った島左近は、関ケ原の戦場に散ったのです。
享年61歳でした。
そして、その凄まじい戦いぶりは、後々まで語り草となりました。

左近は本当に関ケ原で戦死したのでしょうか??
京都教法院には、島左近の墓があります。
そこには寛永9年6月26日没と書かれています。
これによると、関ケ原の後生き延びて、32年後に亡くなったことになります。

左近が生き残ったという伝説は、全国各地に残っています。
江戸時代を通じて武士の鑑と称えられた島左近。
左近の対する人々の想いは伝説となり、今もなお生き続けているのです。

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某には策があり申す 島左近の野望

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1600年9月15日、日本を二分する大合戦・関ケ原の戦いがありました。
東西入り乱れて15万を越える闘いは、東軍・徳川家康の勝利で終わろうとしていました。
この時、家康には天下の道がはっきりと見えていたかもしれない・・・
そんな家康に立ちはだかったのは・・・西軍の薩摩軍です。
この時、薩摩軍を率いていたのは島津義弘。
前代未聞の先鋒に・・・
家康の本陣に向かい、退却のための突撃を始めました。
”島津の退き口”です。
島津隊は、井伊直政を負傷させ、家康の四男・忠吉にも被弾させ・・・退却といいながら、徳川に大きな打撃を与えました。
更に闘いの後・・・西軍の諸将が改易される中、東軍に屈せず家康を翻弄します。
その中心となったのが、義弘の兄・16代当主島津義久です。

1600年9月15日関ケ原・・・東西両軍15万に及ぶ戦国武者たちが関ケ原に布陣を終えたのが午前6時ごろ・・・
東軍率いる徳川家康の側近の記録には・・・小雨が降り、山間のためにきりが深く、30メートル先も見えない・・・とあります。
濃霧で敵の陣も見えず、戦場に不穏な静寂が満ちていました。
西軍に味方した薩摩軍は、北国街道を隔て、石田三成の傍に布陣。
薩摩軍を率いるのは島津義弘!!
生涯52度の合戦に臨み、鬼島津と恐れられていました。
この時義弘、齢66でした。
午前8時ごろ開戦!!
東軍7万、西軍8万以上・・・!!
一進一退の攻防が続く中、島津は兵を動かしませんでした。
それは、兵数が少なかったためだといわれています。
この時62万石の薩摩軍は僅か1,500。

宇喜多秀家・・・57.4万石・・・17,000
石田三成・・・・・19.4万石・・・・6,000
大谷吉継・・・・・・5万石・・・・・・1,500

島津は62万石を誇ったものの、他の西軍諸侯と比べると、極端に少なかったのです。
戦いの2か月前、義弘が国元に宛てた手紙には・・・
「軍勢がなく、何をしたところでうまくいかずに困っている。」とあり、兄に何度も援軍要請をしています。
しかし、国元にいる義弘の兄・16代当主・義久が断っています。
援軍を送ると、島津は西軍に参加したことになる・・・
もし、東軍が勝った場合・・・申し開きができない。
西軍に、独断で義弘が参加したのであれば、家は安泰だ・・・。

どうして島津は西軍に参加することになったのでしょうか?
石田三成が、打倒家康に立ち上がった時、義弘は僅かの兵を連れて上方にいました。
西軍の大軍勢が大坂に集中し・・・義弘は西軍に味方するよりほかなかったのです。
島津には、西軍に積極的に組する理由はなかったのです。
一方で、義弘の危機に、国元の薩摩武士の中には義弘の元へ駆けつける命知らずの猛者も・・・。
こうして薩摩軍は1500!!
関ケ原の戦いが始まり4時間・・・正午ごろ、一進一退から動き出しました。
松尾山に布陣した小早川の裏切り・・・!!
中山道に布陣した味方に突進し、この一撃で戦いは東軍有利に・・・!!
午後1時・・・混乱の中、西軍の敗走が始まりました。

この時、義弘が戦場を脱し大阪へ向かう選択は、西か南!!
西へのルートは中山道か北国街道で向かう。
東のルートは伊勢街道を南下して伊賀を抜け大坂を目指す。。。
義弘の手勢僅か1500!!目の前には敵の軍勢8万!!
どの道を選んで薩摩に帰るのか・・・??

中山道は敵となった小早川が道を塞ぎ、
北国街道は、西軍が撤退のために殺到!!
どのみち、敵を背に向けての退却は厳しい・・・。

南へ向かう・・・??
そのためには、目の前にある敵の大軍勢を蹴散らさなければならない・・・。
敵中を突破し、伊勢街道を南へ・・・至難の業だ。。。

寡兵をもって大敵を破る・・・
義弘は、九州の桶狭間と呼ばれた1572年の木崎原の戦いで、10倍の数の敵に勝利し、大将を討ち取ったこともある・・・
しかし、この時、自身の兵の8割を失う結果となっています。
中央突破の損害は計り知れない・・・。
関ケ原から薩摩までおよそ1000キロ・・・。
虎口から脱するためにはどうすればいいのか・・・??
一刻の猶予もならない!!
敵の大軍勢が迫る中、どのルートで退却するのか・・・??

僅かな人数では勝利するのは難しい・・・
老武者では西に退却しても、伊吹山を越えるのは困難・・・
義弘は、目の前の敵を蹴散らしながら、南へ退却します。
それも、最も猛勢な敵に向かって、前進退却!!
島津の退き口の始まりでした。
戦場で勢いがるのは、猛将・福島正則、家康本陣!!
どうして猛勢を選んだのでしょうか?
それは、意表を突くためでした。
それに、家康の近くでは鉄砲が使えない・・・
東軍である味方が討たれる可能性が高いのです。
島津勢に迫られた福島正則は、この意表をついた行動に道を譲りました。
島津兵を止めれば、自軍の損害も多大になると思ったようです。

それを見た家康は・・・
「島津は西国一の強将である。
 早く打ち破らなければ、味方の多くは討たれるであろう。」と。
この時、突破を食い止めようとしたのが、徳川四天王のひとり井伊直政!!
直政は、義弘を討てと、島津軍を追撃!!
しかし、島津の銃撃によって負傷・・・この傷が元で、2年後に亡くなることとなります。
直政を襲ったのは、「捨てがまり」という島津独特の戦法です。
義弘本隊を通した後、狙撃部隊が残り、敵を待ち受け攻撃!!
その間に義弘本隊は逃走!!
これを何度も繰り返し、敵との距離を稼ぐのです。
しかし、兵士たちにとっては決死の覚悟が求められる戦法でした。
関ケ原の戦場から南へ10キロ・・・大垣市上石津町には・・・
義弘の甥・島津豊久の墓が残っています。
義弘の身代わりとなって尽力し、命果てたようです。
家臣たちの命がけの犠牲で、義弘は敵の追撃を引き離すことができたのです。
辛くも敵の追撃から逃れた義弘軍・・・しかし、敗者となった者には落武者狩りが・・・!!
義弘はこれらの襲撃を切り抜け、伊勢街道を脇道に・・・堺へ・・・船で瀬戸内海を渡り、薩摩へ帰還したのは10月3日となっていました。
1500の兵のうち、帰ってこれたのは僅か80余り・・・。
しかし、この時、九州にいた軍勢が、薩摩の国境に迫っていました。

島津と家康との戦いの第二幕が始まりました。
1600年10月、加藤清正や黒田如水など東軍の大軍勢が国境まで押し寄せていました。
絶体絶命の危機・・・!!
この時、領国防衛の中心人物は、義弘の兄・第16代当主島津義久です。
合戦で有名な弟に対し、義久とは・・・??
東軍の軍勢が迫る中、兄弟の意見は真っ向からぶつかっていました。
退き口の後、兄の義久は一戦を交えようというものの、弟・義弘は、戦いになるとひとたまりもないと反対。
そのため、家中は二つに分かれてしまいました。
徳川と和睦すべきか、一戦交えるべきか・・・??

弟・義弘の意見。
国元にいる兄は、世間に疎すぎる・・・
三成は処刑され、西国諸藩も家康に下った・・・和睦しかない。
すでに支配者となった家康に・・・敗戦は必至。
おまけに島津家中は一枚岩ではない・・・
内部から反旗が翻るかも・・・??
和議を結んで内政に力を入れるべきでは・・・??

兄・義久の意見
義弘は政に疎い。
是が非でも徹底抗戦!!
はなから和睦すれば、家康になめられ、毛利の二の舞になる・・・。
関が原の戦いで、西軍の盟主となった毛利家・・・。
しかし、毛利は徳川と密約を交わしていました。
「毛利輝元に対しては粗略には扱わない・・・」にもかかわらず、毛利家は120万石から37万石に減封されてしまった。
義弘は、関ケ原の戦いで、薩摩の恐ろしさを見せつけたから、それを使わない手はない・・・。
万が一、家康が攻めて来ても、戦を長引かせることができれば・・・!!
当時薩摩には、強固な防衛システムがありました。
島津の居城・内城を取り囲むように、100以上の外城が配置されていました。
関ケ原の後、防衛拠点を増強していた島津・・・。
徳川に対する臨戦態勢を築いていました。

徳川との戦を回避して和睦するのか?
一戦交えるのか・・・??

東軍が迫る中、義久は弟・義弘に城を修築させ、国境の死守を命じます。
しかし、義久は家康との戦いを決意したわけではありませんでした。
10月10日、井伊直政から薩摩へ使者が送られています。
義久に上洛を催促した書状です。
家康にとっても、薩摩出兵は時間と莫大な戦費がかかります。
義久を上洛させ、謝罪させれば、戦わずして支配下におけます。

義久は・・・
「遠国のため、ご無沙汰しております。
 義弘から事情は聴きましたが、義弘自身、西軍のたくらみなど知らなかったようです。
 家康様も、御承知のように秀頼さまに忠節を尽くすべき誓紙を入れており、君臣の道忍び難く、それに従ったまでということです。」

と、謝罪の言葉は一切ありませんでした。

義久は、戦の準備をしながらも、東軍に対し、自らの兵力を動かすことはありませんでした。
さらに家康との書状のやり取りは続きます。

国境にある東軍勢力のために上洛できないとか、老衰のために体の自由が利かないとか、ありとあらゆる理由をつけて、上洛を拒みました。
その交渉のさ中・・・不可解な事件が起こっています。
1601年5月、明の商船が消息を絶ちました。
島津家のお抱え商人・伊丹屋の仕業とされています。
しかし・・・2隻・・・300人が跡形もなく殲滅されてしまう・・・??
そのためには、兵力は1,000人はいなければならない・・・!!
伊丹屋が、明船を襲ったのであれば、義久の思惑の中で活動したとしか考えられないのです。
明船襲撃の黒幕は義久・・・??

関ケ原以降、国内覇権を確立しようとしていた家康にとって、秀吉の朝鮮出兵以降断絶していた明との国交回復は悲願でした。
国内需要の高い、明の銅銭や生糸などが手にはいる貿易は、多額の富を生み出すこととなります。
後に家康は、朱印船制度を創設し、海外貿易を盛んに行います。
交易ルートにあたる薩摩が、日明貿易のカギを握っていたことは言うまでもありません。
明船襲撃は、義久の家康に対するアピールだったのでは・・・??
家康に対して、このような事件が今後も続くぞ・・・!!と。。。
そうなれば、東シナ海の安寧秩序は永久に訪れません。
天下を目指す家康にとって、これ以上薩摩と対立することに異はありません。

1602年12月、家康は島津の本領安堵を確約しました。
義久の後継者として島津忠恒が上洛し、家康に謁見。
家康は義弘が西軍に参加したことを赦免し、領国を安堵することを認めました。
関ケ原の戦いから2年・・・西軍のうち全領土を安堵されたのは、島津家のみでした。

関ケ原の戦い以降、薩摩は江戸幕府に対し、独立の気風を保ち続けます。
関所では厳しく検査・・・野間之関から熊本県の水俣まで、無人地帯となっていました。
噂では、胡乱な者が見つかった場合、わざと通して切り殺したといわれています。
江戸時代を通じ、この閉鎖性は独自の気風を生み、一筋縄ではいかないものとなっていきます。
鹿児島では関ケ原での退き口をテーマにした行事があります。
妙円寺詣り・・・これには、若き日の西郷隆盛や大久保利通も参加しています。
幕末、新しい時代を切り開いた薩摩藩・・・その原点となったのが関ケ原の戦いで退き口を成功させた弟・義弘と、老練な交渉で家康を翻弄した兄・義久の二人の決断でした。




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戦国時代屈指の名将・真田昌幸、日の本一の兵・真田信繁・・・
二人の英雄のはざまにあったのが、嫡男・真田信之でした。
信之がいたからこそ、江戸260年、真田の家名は絶えることなく明治維新まで続きます。

真田の名が天下に轟いたのは、戦国時代最後の大坂の陣!!
徳川VS豊臣の戦いでした。総勢30万人の戦いで、信之の弟・信繁は、出城・真田丸を拠点にして徳川をさんざん悩ませます。
2016年2月真田丸の新しい絵図が発見されました。
大坂の陣に一番近い絵図・・・そこには、今まで考えられていなかったことが書かれていました。
しかし、信繁が活躍すれば活躍するほど信之は苦境に立たされていきます。
真田家存亡の危機に・・・!!

天下に勇名をはせた父と弟・・・陰に隠れているかに見える兄・信之・・・生涯をかけて真田を守った男の決断とは・・・??

真田信之の菩提を弔う大鋒寺には、信之の生前の姿の門外不出の木像があります。
信之が実際に戦ったのは関ケ原までです。
以降、60年近くは武器を持たず・・・しかし、関ケ原が終わってからが、信之の武器を持たない戦いの始まりでした。
後に、徳川幕府から天下の飾・・・武士の鑑と称えられた信之・・・信之はどうやって真田家の家名を存続させていったのでしょうか?
そこには信之の苦悩がありました。
日本を二分にして戦った関ケ原の戦い・・・実は、この戦いの前夜・・・真田一族の命運をかけた大きな決断がありました。
1600年7月、上杉征伐参陣の途中・・・真田に密書が届けられました。
大老・家康の不在をついて、石田三成が反徳川の兵を挙げたのです。
密書は、家康を糾弾し、三成の西軍に組するように依頼する内容でした。
東につくか?西につくのか・・・??選択に迫られます。
信之の正妻は、徳川重臣・本多忠勝の娘、信繁の正妻は西軍首謀者のひとり大谷吉継の娘でした。
兄弟の姻戚関係は東西に分裂したのです。
昌幸は西軍に組する決意を明かし、弟もそれに賛同・・・しかし、信之は二人に異を唱えます。
ひとたび家康公に従い出陣した以上、逆心を示せば、不義のそしりを受けかねない・・・!!
結果、信之は東軍に、父・昌幸と弟・信繁は西軍に組することとなります。いわゆる”犬伏の別れ”です。

しかし、関ケ原の戦いは、わずか1日で東軍の勝利に終わります。
信之は勝者となり、父と弟は敗者となりました。
関ケ原の戦いは、真田一族の運命を大きく変えていきます。
勝者となった信之は、もともとも領地の沼田に加え、父の領地であった上田などを合わせ9万5千石の大名に列します。
一方、反旗を翻した昌幸に対し、のちの二代将軍・秀忠は「必ず昌幸を処刑すべし!!」と、怒りをあらわにしたと言います。
なぜなら・・・関ケ原の前哨戦となる第二次上田合戦で、昌幸に足止めを食らった秀忠は、天下分け目の合戦に間に合わなかったからです。

信之は、徳川家の重臣たちに助命嘆願の根回しをします。
この時の命がけの言葉が残っています。
「昌幸を誅するならば、それより先に、この私に切腹をご命じください!!」
命がけの信之の嘆願に、父と弟は罪一等を減じ、高野山の麓の九度山に幽閉されることとなります。

そして関ケ原から3年後の1603年、家康、征夷大将軍に就任。
以後、信之は江戸幕府に組し、徳川を支えていくこととなります。
徳川家に忠誠を誓った信之・・・しかし、信之の領国経営は苦悩の連続でした。
江戸城普請など、幕府の公役負担、浅間山噴火による作物被害・・・そのうえ、父と弟の幽閉生活を支えていました。
幽閉先の昌幸からお金の催促も・・・
真田領は災害がひどく、復興にたくさんのお金がかかっていました。
それだけではなく、農民たちは年貢が払えず、借金も払えず、身売りをしていました。
それを自分がお金を出して村に帰してやっているのです。
信之は、厳しいやりくりの中、領国復興を行おうとしていたのです。
おまけに、父と弟の仕送りはかなりの負担でした。
しかし、そんな信之の努力も無に帰します。
1611年6月4日・・・父・昌幸が赦免されることなく九度山で亡くなります。
享年65・・・無念の死でした。
信之は、父の葬儀を行うべく、幕府の許しを請うものの・・・その許可が下りることはありませんでした。
昌幸は危険人物とみなされていたのです。

幽閉先には、信繁が残されます。
父亡きあとも、弟の生活を支えていく信之・・・
しかし、徳川と豊臣との戦いが、二人に亀裂を生じさせていきます。

江戸幕府を開府し、全国統治を目指す家康にとって、どうしても排除しなければならないのが豊臣家・・・
1614年8月、方広寺小鐘銘事件!!
国家安康・・・家康の文字を分け、呪詛をかけている!!という言いがかりを機会に、両者の決戦は避けられないものとなっていきます。
九度山に幽閉されている信繁に心情の変化が・・・??

「こちらにお見舞いに来ることは無用!!
 特に変わったことはありません。」
それまでの信繁は、寄ってほしい、来てほしいという内容の手紙を送っていました。
異質な内容の手紙・・・大阪入城直前の手紙かも知れません。

万が一、弟が大坂城に入れば、信之にとって敵となり、責任を取って改易される可能性もある・・・
おまけに信之は中風を患っていました。
信之は歩くこともままならない・・・弟の説得にも向かえない・・・
どうすればいい??

幕府にとって父・昌幸は”公儀御憚りの仁”・・・徳川と戦った時の主将はあくまでも昌幸、信之ではない・・・。

信繁を説得する・・・??
強行策・・・??
もし信之が弟を亡き者にしようとすれば・・・家臣団は分裂する・・・??

弟の大坂入城をどう阻止する・・・??

1614年10月・・・豊臣と徳川の激突が・・・!!
信之は弟・信繁の入城を阻止するべく、九度山に家臣を派遣、説得を試みます。
幕府に味方するように説得します。
しかし、信繁は、父・昌幸の遺言もありこれを拒絶!!
結果・・・信繁、大坂城に入城!!

信繁同様集まった浪人たちは10万余り・・・!!
対する幕府軍は20万で大坂城を包囲!!
大坂冬の陣の幕開けです。
信之は病のために参陣できない・・・
幕府の許可を得た信之は、長男と次男を大坂へ従軍させています。
大坂冬の陣で大軍勢を破った信繁・・・信繁が築いた真田丸!!
しかし、真田丸にはまだまだ謎が多く・・・知られていません。
今年2月・・・松江で新しい発見がありました。
真田丸の絵図の中でも、大坂の陣に最も近いものです。
真田丸とは陸続きで防御が手薄なために大坂城の南に作られた出城です。
従来の真田丸は、大坂城に接していると考えられていましたが・・・
200mをこえる谷を挟んで大坂城から独立する形になっていました。

さらにこれまでと異なる点は、土橋という出入り口です。
敵が攻め寄せれば防御に徹し、敵が撤退すれば反撃に打って出ることができます。
守るためだけの真田丸・・・と思われていましたが、信繁は反撃する事を考えていたようです。
実際、徳川軍の混乱に乗じて出撃し、手痛い一撃を加えています。
真田丸の信繁の活躍に衝撃を受ける家康。
信濃一国を与える代わりに寝返るように・・・と、調略します。
信繁はこれを相手にしなかったと言います。
しかし・・・信繁の奮戦空しく、大坂城を狙う大筒によって・・・豊臣方の動揺を招き、一時休戦・・・
12月19日講和成立。
講和から半年後、大坂夏の陣!!
徳川15万に対し、豊臣5万・・・
真田丸はすでになく、大坂城の総構えは埋め立てられ、場外出撃を余儀なくされた豊臣方は決死の戦いを敢行!!
しかし・・・1615年5月7日・・・幕府勢を蹴散らし、家康の本陣を目指した信繁は戦乱の中で壮絶な死を遂げます。
享年49歳と言われています。

弟の名声が高まる一方・・・戦後、疑いがかけられています。
真田家が大坂に援軍を送り、密かに領内の信繁とはかりごとをしていたというのです。
それに対し信之は・・・
「若し、反逆の心があれば、関ケ原の時に父と弟と一緒に敵となっている!!
親兄弟と袂を分かち、徳川のために忠義を尽くしてきたわれらが今更反逆を企てるものか?
そう思うなら、言い訳などしない。
速やかに自決して見せよう!!」
それを聞いた秀忠は、信之の幕府に対する忠義を認めたといいます。
かろうじて真田家の存続は保たれました。
しかし、実際、弟ともに戦った家臣たちもいました。
大坂に行った真田領の者の妻子を詮議し、京都に送りました。
処刑されたと言われています。
過酷な処置をとらなければ、幕府からの疑念、弟と密談の結果家臣を贈ったという疑念を払しょくできなかったようです。
真田の家名を守るために・・・!!
93年の長きにわたる生涯を、真田家存続のために奔走することとなるのです。

信之は第二次上田合戦で上田城を壊されて上田に入ります。
立派なお城に・・・とせずに、上田城はそのままに、堀だけ掘って近くの館に暮らしています。
当時の大名としてはあり得ない・・・しかし、それでいいという合理性と、上田城を立派に復興すれば、徳川から目をつけられかねない・・・とわかって配慮に配慮を重ねていたようです。

戦国時代から江戸時代の初めまで、武名が全ての時代に・・・
徳川に一泡吹かせたことで真田の名が天下に轟きました。
反徳川の空気のある人たちは、みんな真田を憧れの目で見ていました。

そんな中でひたすら忠義を尽くす犬に徹する兄・信之・・・
強い真田も徳川の犬となる状態・・・
あれだけ強かった真田も今となっては徳川家の飾りとなった・・・。
だから、改易に処されなかったのかもしれません。

長野県松代は、江戸時代、初代藩主となった信之の治めた土地です。
信之の菩提寺には、信之の隠居後にあった板戸が・・・不思議な絵が描かれています。
籠の中に入れられた鳥・・・
父・信之と、弟・信繁を思ってこんな形の供養をしていたのかもしれません。
もしかすると信幸自身かも・・・。

晩年の信之の、父と弟に対する思いは、単純なものではなかったでしょう。
そして、歴代の藩主が秘蔵してきた箱が・・・「吉光御腰物箱」。
この箱の中には、家康などの将軍家からの書状が沢山ありました。
その中に、関ケ原の戦いで敗れた石田三成や大谷吉継が、西軍に味方するように書かれた書状が残されていました。
幕府に憚りある代物が・・・。
こうした危険な文書を・・・どうして後世に伝えようとしたのでしょうか。
真田家の重要な記録として・・・自分自身が父や弟と袂を分かたねばならなかった・・・本来であれば一緒に行動していたのかもしれない・・・
信之が再興した天厩寺・・・英雄・武田信玄の弟を弔う寺です。
奇しくも信玄の弟の名も信繁でした。
墓の横にある小さな供養塔は、大坂の陣で戦死した弟の供養塔だと伝えられています。
信之が幕府に遠慮し、ここで弟を弔ったのだと言われています。
兵として戦場で華々しく散った弟・信繁、一方真田の名を守るために一生をかけて命がけの折衝をした信之・・・
歩んだ道は違えど、父・昌幸の意を汲んだそれぞれの決断でした。


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<真田三代と戦国時代>幸村復活へ 九度山脱出と大坂城入城 (歴史群像デジタルアーカイブス)




真田は上田城において、またしても徳川軍を撃退した。

勝利に沸く真田家に、関ケ原の合戦で石田三成の軍勢が惨敗したという知らせが届く。

ということで、今回のサブタイトルは「信之」・・・。
信幸だったんですけどね。。。
悲しい板挟みの信幸です。

慶長5年9月15日・・・毛利が率いる西軍と、徳川の東軍は、美濃・関ケ原でぶつかった。。。
結果、何年も決着がつかないと皆が思っていた戦は、たった一日で勝敗がついた。。。

「降伏はせんぞ!!
 金輪際するもんか!! 真田は徳川に勝ったのじゃ!!
 そうだな?内記!!
 何で頭を下げねばならんのじゃ!!」by昌幸

「お気持ちはわかりますが、関ケ原で石田様が敗れてしまったからでは・・・」by信繁

まだまだ戦おうとする昌幸ですが・・・

大坂は徳川の兵であふれかえっているという・・・。
大坂城が徳川の手に落ちた・・・!!
もはやこれまで・・・??

「父上、勝敗は決しました。
 これ以上の戦いは無駄でございます。」by信繁

「まだ、上杉がおる!!
 上杉と図って、江戸を抑えれば・・・!!」by昌幸

「父上!!
 あとは・・・兄上に任せましょう。。。」by信繁

なんとも、眼光鋭い・・・悔しさMaxの昌幸ですが・・・。
致し方ありません。

信幸を通して、降伏を申し入れてきたという昌幸に・・・どうする??家康!!

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真田の処遇はどうなるのか・・・??

上田城の明け渡しには、平野長泰がやってきました。

「一つ、兵は一人残らず去らせる事。
 一つ、武具・鉄砲・玉薬はことごとく召し上げ 
 一つ、真田安房守ならびにその子・左衛門佐は・・・城内に於いて暫し蟄居。 
 処分については後日、 以上!!」by三十郎

読み上げたのは、かつて信繁を支えてくれた三十郎でした。
ああ・・・信繁も辛いけど、三十郎はもっとつらい事でしょう。

昌幸と信繁の命乞いのために大坂へ向かおうとする信幸・・・。

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「なんとしても二人を助けねばならん・・・」by信繁

そこへ、本多忠勝登場!!
信幸をねぎらい・・・信幸に心動かされ・・・一緒に命乞いをしてくれることに・・・!!

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「安房守を助けてやりたいのは山々だが・・・ここは親子ともども死んでもらう。」by家康
しかし、頭を下げるのは平八郎忠勝!!
許してもらえなければ、上田に籠り、徳川相手に討ち死にするという!!

本気の平八郎に根負けした家康・・・
「命まではとらぬ・・・
 平八郎にそこまで言われたら仕方なかろう。」by家康

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「ありがとうございます。」by信幸

父と縁を切る・・・そのために、諱を変えよ・・・と言われます。
昌幸の「幸」を捨てろというのです。

「かしこまりました。
  かたじけのうございました。」by信幸

涙をにじませながら・・・犬伏での約束を守ろうとする信幸がそこにはいました。

母もまた・・・不安な日を送っていました。

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信幸が来てくれたことで、ちょっと一安心でしょうが・・・
どこにいようと・・・今は、豊臣から徳川へ・・・変わっただけの人質に変わりはありません。

「大坂にて徳川内府様におすがりしました。 
 お二人の命までが取らぬということで決しました。」by信幸

「そんなことは当たり前じゃ・・・!!」by昌幸

「無念ですが、小県の料理は全て召し上げ。」by信幸
「後に入るのはどなたです?」by信繁
「まだ決まっておらぬが、おそらくは俺だ。」by信幸
「兄上が治めてくださるのなら、願ったりかなったりです。 
 真田の地が守れます。」by信繁
「・・・で、わしらはどうなる?」by昌幸
「お二人は、高野山に流罪と決まりました。」by信幸
「流罪・・・??
 高野山の坊主たちと暮らせというのか・・・??」by昌幸
「高野山は、女人禁制ゆえ、麓の九度山村に屋敷を建てます。」by信幸
「九度山??
 聞いたこともないわ・・・!!
 この役立たずが!!
 何のために、徳川についた!?」by昌幸

そうですね・・・いらだつ昌幸です。
やんちゃしてきた昌幸と、堅実な信幸とでは、最後のあがきが違うのかもしれませんが・・・
でも、高野山に・・・ということは、本当は出家せよ!!ということです。
が・・・女性を連れて行けるようにと九度山に・・・これって、かなりの配慮だと思います。
信繁が、春を連れて行きたかったからお願いした・・・という説もあるくらいです。
後に子供ももうけていますし、そんなに厳しい蟄居ではなかったのかもしれません。

やっぱり時代に取り残されていってる昌幸なんですね。。。

「すまん・・・言い過ぎた・・・」by昌幸

「これからも、力を尽くします。
 お許しください・・・!!」by信幸

そうですね・・・この板挟み、大坂の陣まで続くんですよ・・・。
どうするよ・・・胃に穴が開いちゃうんじゃないかしら??信幸!!

そして・・・義兄・小山田茂誠は、信幸に付くことに・・・
なるべく真田を生かすためです。

泣く作兵衛は、村に戻って、すえを育てることに・・・。
「すえは、信濃の女子として育ってほしいのだ・・・。」by信繁

内記は、歳も年だし自分の思うようにせよ・・・と、昌幸に言われ・・・九度山について行くことに。。。
死ぬまで殿のおそばで・・・!!

「では・・・各々、ぬかりなく・・・!!」by昌幸

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信幸に任せた昌相にも別れを・・・
病床で・・・大坂城の攻め方を・・・
「徳川内府の寝首をかけ・・・!!」by昌相
「相分かった・・・」by昌幸

二人とも・・・もうそんな時代が帰ってくるとは思っているのかいないのか??
いつまでも二人で戦う・・・そんな昔を夢見ているのでしょうか??

16歳になったすえ・・・信幸の世話になれという信繁に・・・
「すえにとって父は一人でございます。
 作兵衛伯父上だけでございます。」byすえ
父親らしいことを何もしてこなかった信繁・・・これもちょっと辛いなあ・・・。

1600年12月13日・・・上田城は、正式に徳川に明け渡されました。

徳川家康は、信幸に上田を与え・・・信幸は、9万5000石の大名となりました。
父上と縁を切れ・・・と言われ、幸の字を捨てることとなった・・・と、家臣たちに告白する信幸・・・。

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「真田伊豆守信之!!」

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「読みは変わらん・・・
 わしの意地じゃ・・・!!」by信之

高野山へ向かった昌幸は、家康に呼ばれ大坂に立ち寄りました。

そして・・・死罪にすることはできたが・・・死よりも苦しい仕打ちを与えようとしている・・・という。
「一切の兵と、馬と、武具と、城と・・・そして、今後戦にでる一切の機会を奪う・・・
 残りの人生を、高野山のちいさな村の中で過ごすのだ・・・
 1,2年で帰ってこられるなどと、ゆめゆめ思う出ないぞ。
 10年になろうが、20年になろうが・・・お主は死ぬまでそこにおるのだ・・・!!
 この生き地獄・・・たっぷりと味わうがよい・・・
 真田安房守・・・二度と会うことはなかろう」by家康

声高らかに去っていく、家康がそこにはいました。

大坂城で・・・家康が三成を討伐したことを秀頼に報告し・・・三成がすべての罪を被ってくれたので、他のみんなが救われたことを片桐且元に聞く信繁。

そうですね、この時点では、秀頼がトップなわけです。
タヌキオヤジがトップではありませんよ!!
ということで、謀反人・石田三成を徳川家康が討ったという大義名分ができてるわけですよね。
さすが・・・腹黒い・・・徳川家康!!

寧にも最後のご挨拶・・・。

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そこに登場したのは小早川秀秋!!
が・・・オドオド逃げちゃいました。。。
自分のしたこと・・・
徳川と通じていたこと・・・
三成を裏切ったこと・・・
その精神は、幻覚を見るまでに・・・!!

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なんとこんなところで初登場!!
毛利勝永!!

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明石全登!!


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宇喜多秀家!!

小早川秀秋は、関ケ原の合戦より2年後・・・
自分のしたことの罪の重さに苛まれ、21歳で謎の死を遂げる・・・。

って、この時点で↑の皆さんは行方知れず・・・死んでないんですが・・・
そうそう亡霊ではないのです。
が、小早川秀秋・・・世が世なれば、天下人だったかもしれません。
秀頼が生れたことで、小早川家に養子に出されて追いやられ・・・
関ケ原になかなか参加しなかったのは、病気だったからという説もありますが・・・
最後はアルコール中毒で亡くなっちゃうんですよね。。。
なので、やっぱり自分のしたことに後悔していたんでしょう。。。

maru14












大谷吉継は・・・
自分の首を敵に渡すことなく、大名で唯一の自害を遂げることとなります。

maru15












「治部・・・楽しかったぞ・・・!!」by吉継

sekigahara
小早川秀秋の裏切りのせいで窮地に追い込まれた吉継ですが・・・
実は、小早川の裏切りは予想済みで、その”おさえ”としての大谷吉継って説もあります。


なので、赤座直保、朽木元綱、小川祐忠、脇坂安治・・・脇坂は東軍に寝返り予定でしたが、他3人はその場で寝返ったようです。
この4人の裏切りが、大谷吉継を切腹に追いやったと言えるでしょう。

家康も一目置いていたという大谷吉継。
もちろん、三成の親友だったことは間違いありませんが、今までのように”負けるとわかっていても親友のために・・・”ではなく、”三成に勝利をもたらせる”ために、戦った男でした。


加藤清正が、信繁に会いにやってきました。
「会わせたい者がおる・・・」と、三成の妻・うたがやってきました。
三成の最期を伝えるために・・・!!

maru16












「それは・・・見事なご最期でございました。」byうた
この見事な最期って・・・??
見ての通り、三成は、市中引き回しの上刑死です。
吉継が家臣に首を敵に取られないように隠させたように、本当ならば、無念!!が最期な一言でしょうが、
三成は最後にこう言っています。

「大義を思うものは、首を刎ねられる瞬間まで命を大切にするものだ。
 それは、なんとかして本望を達したいと思うからである。」by三成

最後の最期まで、豊臣家のために戦う・・・という意志からでしょう。
上にも書いていますが、この三成の死によって、他の者が罰せられることなく許されたということから見ても、無念な最期ではなかった・・・”見事な最期”・・・。

よく考えれば、小さな石田村の土豪・・・
秀吉に見いだされ、出世しても20万石の小大名が、徳川家康に立ち向かい、日本中を巻き込んで関ケ原の戦いを起こした・・・そう考えると、本人も満足な、それこそ”見事な最期”だったことでしょう。


そして・・・昌幸と信繁は・・・

1611年初め・・・紀州九度山村の屋敷へ・・・!!

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信繁たちの新しい暮らしが始まろうとしていました。

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ということで、次回からはわがふるさとの誇る高野山の玄関口九度山です。

ま、信繁としてはパッとしない時代に入るわけですが・・・
どんな感じになるのでしょうか?
楽しみにしています。
ちなみに↑の村の写真・・・今でもこんな感じよ・・・



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<真田三代と戦国時代>人質生活から大坂夏の陣まで 幸村の波乱万丈なる生涯 (歴史群像デジタルアーカイブス)

遂に、「終焉」・・・
日本史において、一番出世した男の最期です。
輝かしいその男の最期は一体どんな最期なんでしょ・・・??

度重なる天災、朝鮮への再出兵。
世間の不安は高まるばかりだった。
そして今、太閤・秀吉の死が
そこまで迫っている。


「何かございましたら、これをお振りください。
 すぐに誰か参ります。」by信繁

信繁は、秀吉の枕元に鈴を用意・・・
そんな鈴を、何の用事もないのに鳴らす秀吉。
沢山の人に囲まれていたから寂しいんでしょうね、秀吉。

そんなに呼ばれても、信繁はお仕事もありますから・・・。

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「老(おとな)衆・・・徳川・前田・宇喜多・上杉・毛利。
 奉行は浅野・大谷・石田・増田・前田・長束・・・」by信繁
「いかがでしょう・・・?」by三成
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しかし、吉継は自分の体の不調から外してほしいと願います。
が・・・

老衆と五奉行・・・どちらも力を持ち過ぎないように、十人で合議を行う・・・秀吉が考え、三成の配慮がしてありました。
さすが、No,1官僚です。
花押を押す家康・・・。
そこには老衆の血判がありました。

伏見の徳川屋敷では・・・

遂に天下・・・??などと、正信と阿茶・・・

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ことを決めるには、いちいち奉行衆を通せというこの約束に・・・苦虫をかみつぶしたような正信。。。

最後の確認をしに来る石田三成・・・。
やっぱりネックは徳川家康なんでしょう。

「ご遺言に従い、決して内府様おひとりのお考えでは動かれぬ事、改めてお約束いただきたい。」by三成

「わしを疑っておるのか?」by家康

「お約束いただけますか?」by三成



「ご遺言、必ず守ることをお誓い申し上げる。
 治部殿が留守の間、この伏見でおかしな動きが起きぬよう、目を光らせましょう」by家康

「お言葉、こころに刻みつけ申した。」by三成

確認のような・・・前ふりのような・・・??

キツネとタヌキの化かしあい・・・の、始まり、始まり!!

「いっそ・・・反古にしてしまいますか?
 容易いことでございますよ。
 殿下、御自らがお書きになった、より新しいご遺言書があればよろしいので。」by正信


その頃、昌幸は小守??
昔話をやっているのかしら??

「桃太郎は、鬼ヶ島へ鬼退治に向かった。
 だが、抹香から戦っては負けてしまう。
 そんな時、どうする?

 まず、犬を使者に送り、味方だと嘘をつく。
 鬼が安心したところで島に乗り込み、一気に片を付ける!!
 めでたしめでたし!!」by昌幸

聞いているのか、聞いていないのか、無邪気な百助と仙千代。。。
かわいい孫に囲まれても戦いたい昌幸。


家康に釘を刺したものの、心配な三成。。。
油断はできない・・・。

そんな時、秀吉のお見舞いに来た家康。。。
これは、且元も知らなかったようで・・・よっぽど急遽・・・何か企んでる・・・
お見舞いは甲冑・・・??
これは、信長公からもらったものでした。
信長公がお守りくださる・・・??

「殿下に一つお願いがございます。」by家康

「秀頼の事、頼む。」by秀吉

「我ら五人の老衆に対し、後を託すと一筆お書きいただきたい。
 それがあれば、われらも心を一つにして秀頼公をお守りできるというもの・・・。」by家康

「秀頼の事、頼む。」by秀吉

「そのお気持ち、したためておかれませ。」by正信

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と、一生懸命策を弄しているのは正信のようですが・・・家康の本心はどこにありき・・・??
最後まで秀頼のことを心配する秀吉に、家康、ちょっと心が痛んでいますね。。。


で・・・家康に会わせたことを三成に怒られる且元!!

そして・・・一筆書き加えようとさせる三成・・・
”委細、五人の者に申し渡し候”と。。。
あまりの無理やりなやり方に、寧に怒られちゃいました。

そして・・・秀吉の想う秀頼を・・・秀吉に会わせようとはしない茶々・・・。
秀吉のやつれた姿・・・そして・・・心の卑しさ、醜さ、冷たさを感じ取ってしまうと・・・。


秀吉が死ぬと・・・世が乱れる・・・
またも戦の世に・・・??
そう考えている昌幸と昌相・・・。

殿下が亡くなったらどうなる・・・??
みんながこの世の先を心配していました。

先日の手荒な真似を・・・秀吉の枕元で謝る家康。
信繁は・・・秀吉の枕元の蠟燭を替えていました。
そう・・・この蝋燭の火が消えたら自分の命も亡くなる・・・
秀吉はそう思っているようです。

「どれほど華やかな暮らしをしていたところで死ぬときは一人・・・
 諸行無常じゃのう・・・
 生き延びられればよいと思うておるうちに、ここまで来た・・・
 戦は大嫌いじゃ・・・間違いなく勝てる戦など、どこにもない・・・
 伊賀越えは一度でたくさん・・・
 戦場で命からがら逃げ惑うのはもう御免じゃ・・・ 
 殿下が亡くなられて・・・再び世が乱れては、元も子もないしのう・・・」by家康

この言葉を聞くと、家康は野心からではなく、秀頼よりも自分が天下を治めたほうが太平になるっていう信念があって関ケ原の戦い・・・大坂の陣・・・を戦ったのかも知れませんね。
そして、家康に味方をしたと言われる寧も・・・戦国時代を生き抜いて天下を取った男の妻だったからこそ、秀頼ではなく家康を選んだのかもしれません。

お見舞いに来た小早川秀秋・・・

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「秀頼の事・・・頼む。
 秀頼の事、頼む・・・」by秀吉

そんな枕元の灯を・・・秀秋が吹き消しちゃいました
ビックリする信繁&家康。
そして・・・恐れる秀吉・・・!!

その夜から混濁状態となった秀吉・・・

死を恐れていた茶々が・・・ついに、秀頼を連れて秀吉の元へ・・・。
水ごりをする三成・・・
そう・・・死を恐れる茶々が嫌がっていた秀吉と秀頼の面会も・・・
合理主義者の三成が、水ごりをするほど・・・
それほど、殿下の容態は、差し迫ったものとなっていました。

恐れるも気丈に振る舞う茶々・・・

「母上、私が参ります。
 父上・・・!!」と、聡明な秀頼。。。

「秀頼の事、頼む・・・秀頼の事、頼む・・・」by秀吉

その夜・・・魘された秀吉が見たのは・・・

maru2












信長の甲冑が光を受け・・・
「$#@*~~~!!!」by秀吉
maru













秀吉の見た少年は誰・・・??
「佐吉・・・家康を殺せ・・・!!」by秀吉

頷く三成・・・!!

この少年、いったい誰なんでしょうね・・・。
秀吉はたくさんの人を殺してきましたが・・・って、戦国時代ですからね、みんなそれなりに残虐なことしてるんですが、小日向談によると、茶々の兄・万福丸なんだそうです。

浅井を滅ぼす・・・万福丸を死に追いやる戦いで、”しんがり”だったのは秀吉・・・
この戦いで、脚光を浴びることとなった秀吉なんですが、浅井長政だけでなく・・・長男・万福丸(茶々の兄)は、串刺しにされています。
命令したのは信長でしょうが、もちろん、そのいろんなことはまだ下っ端だった秀吉がやったことでしょう。
そして・・・自分が死んだ後・・・秀頼が万福丸の二の舞になるのではないか・・・??

急に現実に引き戻された秀吉・・・!!

三成はそのことを昌幸に相談!!

「何故そのことをわしに・・・??」by昌幸

「忍城攻め以来、安房守殿は私の師匠でござる。」by三成

「この話、聞かなかったことに致す。」by昌幸

「力を貸して頂けぬのか・・・??」by三成

「・・・もし、明日の朝、徳川内府が死んだという知らせが届いたとしても、我が真田は一切預かり知らぬこと・・・。」by昌幸
・・・そういう事ね・・・??

秀吉・・・一生懸命、秀頼の事だけしか言わなかったのに・・・
信繁に、三成を支えてやってほしいと願うのでした。

家康暗殺・・・もちろん行くのはこの人・・・

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おお!!かっこいい!!
が・・・来客はよりによって信幸・・・誰か潜んでいることに気付いてしまったようです。
見つかってしまった昌相・・・!!

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大立ち回りもかっこいい・・・!!
本多忠勝とサシで勝負!!

逃げた先には信幸が・・・!!
あっと思った時には時すでに遅し!!
後から忠勝に袈裟斬り!!

煙幕で逃げる昌相!!

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なんとか帰ってきた昌相・・・。
「わしとしたことが・・・」by昌相

その頃秀吉は・・・

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魘され・・・もがき・・・鈴を取ろうとして・・・

一代の英雄が、最期を向えようとしている。
栄華を極めた男の人生の締めくくりとしては、いかにも淋しいものであった。
太閤・豊臣秀吉・・・享年・62歳。

その眼には、一筋の涙が・・・!!

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この大河ドラマの秀吉の死は、今風というか・・・なかなかリアルなものでしたね。

そして、人の心を浮き彫りにしてくれていたように思います。

誰が何を考えているのか・・・??
そして、天下人が死ぬということはどういうことなのか・・・??

無邪気に、純粋に秀吉の死を悲しんだのは、秀吉が一途に思っていた秀頼だけだったのかもしれません。



小日向文世さん、本当にお疲れ様でした。
この作品が始またっ当初、「秀吉はやっぱり竹中直人さんじゃないとなあ・・・」みたいに思った人が大半だったのではないかと思います。
でも、話が進んでいくうちに・・・小日向さんしかできないような、やさしさと非情さと人間味のある人懐っこい秀吉があったと思います。

本当に、こんな秀吉ははじめてでした。
でもって、大満足です。



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