政治に不正がはびこれば、名もなき民でも黙っていない・・・
いまからおよそ180年前、大事件が大坂で起きました。
腐敗した幕府の政治に大坂の民が物申す!!300人もの農民たちが、幕府側と対立!!
天下の台所は火の海と化しました。
事件を知った幕府の上層部は驚愕します。
その首謀者の名は、大塩平八郎!!
かつては江戸にもその名を知られた大坂の元与力でした。
時は未曽有の飢饉が起こった天保の時代・・・
庶民の命と生活が脅かされる一方・・・大坂では役人たちの不正が横行・・・!!
幕府の信頼は、地に落ちようとしていました。
大塩は立ち上がります。
私利私欲に目がくらんだ役人たちを誅伐し、商人たちから金や米を奪って人々を救済せよ・・・!!
この救民の思いが、大坂炎上の大波乱へと掻き立てました。

天保8年・・・1837年2月19日早朝・・・大坂の町に大砲の轟音が響きました。
大塩平八郎の乱です。
大塩たちは、商人たちの蔵屋敷に次々と火を放ち、大坂城下の1/5を焼け野原にしました。
それは、島原の乱から200年の時を経て、太平の時代に起きた一大事件でした。
しかし、大坂城代の鉄砲隊の攻撃により、軍勢はもろくも崩壊・・・
大塩の反乱劇は、わずか半日で鎮圧されたのです。

大塩の乱はどうして起きたのでしょうか??
大塩平八郎の「檄文」・・・
決起の直前に大坂近郊の村々に撒かれたという声明文です。
2000字を超える長文の中には、大塩の政治に対する激しい怒りが込められていました。
この檄分の中に、大塩の乱勃発の直接の引き金となった出来事が書かれています。
それは、江戸への買い米です。
大坂の蔵屋敷に合った大量の米を幕府の役人が江戸に送ってしまったというものでした。
当時日本は、天保の大飢饉で都市部は混乱、農村では餓死者が後を絶たない極限状態が襲っていました。
飢饉の被害が深刻になった天保7年、幕府は将軍の代替わりの式典を理由に大坂の米を江戸に移すように指示。。。
町奉行は幕府の命令を受け入れ、大量の米を江戸に送ってしまうのです。
大坂支柱にも餓死者が出ているのに、米を分け与えずに江戸に送るのか・・・??
大塩は、為政者にあるまじき行いだと強い想いを抱いたのです。
激しい怒りはそれだけではなく・・・
江戸時代、天下の台所といわれた大坂は、全国の大名から米が一堂に集まり、それを売り買いする商人たちの活気で溢れる大坂は、日本経済の中心でした。
米の取引がもたらす大坂の富は、鴻池、住友などの豪商を生み、その利益に預ろうと全国から商人たちが集まりました。
しかし、金のあるところに不正がはびこるのは世の常・・・
儲けたい商人たちは、幕府役人と結託し、賄賂や口利きが横行していました。
役人も賄賂を受け取り、不正を隠蔽・・・水面下で横行していた腐敗の構造を、大塩は現役与力の時代に知ってしまうのです。
役人たちは民を救うことには目もくれず、私利私欲に不正に手を染めていきます。

天下りの城代、東町奉行、西町奉行、幕閣の人々・・・
幕閣中枢の人々は、大坂に下ってきて賄賂をもらい、江戸で勘定奉行などの役職についていました。
大坂での賄賂で江戸で出世の道が開けるのです。
政治の公正さ、公私に対する怒り・・・
当時、上級役人は、大坂で数年勤めあげた後、江戸に戻れば出世が約束されていました。
商人と結託して手に入れた賄賂は、出世のための政治資金・・・
その不正の闇を、大塩は与力の職を離れた後も、許せなかったのです。

幕府への反旗を掲げ、決起した大塩平八郎・・・その大塩に命を捧げ立ち上がったのが陽明学を学んだ大塩のもとで陽明学を学んだ私塾の門人たちでした。
大坂天満に私塾「洗心洞」がありました。
江戸でも一目置かれる陽明学者であった大塩の教えを乞おうと城下の若い与力、同心やその子息たちが集まったといいます。
大塩の教えを学んだのは武士だけではなく、大坂周辺の農民たちも参加しました。
中でも村を取り仕切る豪農の若者たちが、大塩と一緒に寝食を共にし、陽明学を学ぶ日々を送っていました。
この大塩の門人となった農民たちが武装蜂起に大きな役割を果たすのです。

どうして農民たちは大塩の乱に加わったのでしょうか?
大塩の門人となった門真のある農民・茨田郡士が残した記録には・・・
茨田の結婚に当たってはお祝いを、父親が亡くなった時には香典をとあります。
大塩と門人の間で冠婚葬祭の報告があり、大塩は家族同然の付き合いを求めていたといいます。
結果、大塩の乱へと発展していくのです。
大塩は、門人を受け入れる際に、いくつかの約束を交わしています。
その一つが、たとえ私生活であっても問題があれば、大塩に相談するようにとしていました。
日ごろから付き合いのあった農民たちから惨状を知ることになったのでしょう。
天保の大飢饉は、門真の農村にもかつてない窮乏をもたらしました。
指導者的立場にあった茨田たち豪農は、農民たちに無償で米を分け与え、なんとか村を支えようとしたが、村は、崩壊の危機に瀕しました。
しかし、幕府はそんな農村を救うどころか、将軍の式典に必要だからという理由で江戸へ大量の米を送っていたのです。
この時、茨田たち豪農も借財を背負い、身動き取れませんでした。
一体誰が村の窮状を救えるのか・・・??
そして、大塩のもとで学んだ者たちが立ち上がるのです。

農民たちは大塩の檄文を農村に撒き、騒動が起こるので生活に困窮しているものは城下に集まるように触れ回りました。
檄文には、決起に参加しなければ、金持ちたちから金や米を取り損ねることになると急き立てるような言葉もありました。
大坂近隣の農民は、庄屋・年寄・小前百姓まで立ち上がれ!!
ここに、幕府に対して名もなき民衆が立ち上がることとなったのです。
しかし・・・門人と農民たちが決起した戦いは、幕府方の一撃で瓦解・・・。
わずか半日での敗北となるものの、大塩の行動は全国の民衆たちの心を強く突き動かしていきます。

民衆のために立ち上がった大塩・・・近年資料が発見されました。
その資料は、決起直前に江戸の幕閣に送ったといわれる極秘文書です。
「大塩平八郎建議書」・・・
これは、当時の韮山代官が書き記した極秘文書の写しです。
そこには、恐るべき幕府の不正の実態が記されていたのです。

不正無尽と呼ばれた金銭詐欺の取調書・・・
庶民がお金を出し合うシステムを利用した巨額の詐欺行為の告発でした。
不正無尽とは、胴元と呼ばれる元締めが町人から金を集め、くじ引きによってその金を配当。
その際に、胴元が不正に高い手数料をせしめているというものです。
仮に大名が不正無尽に関わっていれば、改易も免れないというものです。

その不正無尽になんと老中をはじめとする老中など幕府中枢が大阪商人と結託し、手を染めている・・・!!
大塩はその驚愕の不正実態を告発したのです。
大塩は、与力の頃から丹念に調査を進め、不正に手を染めた幕閣たちの手口も暴露しました。
その手口の一つが大久保出雲守忠真・・・
大久保は、大坂の証人を世話人にし、90人3組、合計270人もの参加者を集めた不正無尽を主催。
3年がかりで9回のくじ引き配当をを行い、その結果、大久保のもとに不当な利益が舞い込むことになりました。
大塩の調査によると・・・716両設けています。
現在の価値にして1億円という巨額なものでした。
こうした不正無尽に大久保以外にも4人の幕閣が手を染めていることを言及・・・
その中には、後に天保の改革を行う水野忠邦の弟も名を連ねていました。
さらに、京都の公家、寺社仏閣も大坂での不正にかかわっていたことを非難しました。

しかし、大塩の建議書は、数奇な運命をたどります。
決起前日に江戸に送りますが、江戸に届いた時点では、幕府は大塩反乱の一方で大混乱に陥っており、建議書を大坂の奉行所へ送り返してしまいます。
飛脚で大阪に戻る途中に盗賊に遭い、建議書は伊豆の山中に捨てられました。
それを通りがかりの村人が発見!!
韮山代官・江川英龍に届けられると、中身を知った江川は驚愕し、急いで写しを取り再び江戸に送りました。
一度は大塩の建議書の受け取り拒否をした幕府・・・大塩の告発は、幕閣たちを思わぬ窮地に追い込みました。

おそらく江戸の幕閣は建議書の中身を見ている・・・
しかし、見て見ぬふりをしていたと思われます。
長年封印され続けてきた大塩の告発・・・
幕府中枢の不正を暴いた密書を、どうして決起直前に江戸に送ったのでしょうか?
その直後、大坂を火の海にした真の目的とは・・・??

救民の旗を掲げ、大坂城下を火の海にし、一方で建議書を提出し、幕政の改革を訴えた大塩平八郎・・・
幕府方の攻撃によって総崩れとなった大塩は、その後意外な行動に出ます。
それは逃亡です。
息子とともに、忽然と逃亡・・・
大塩逃亡の一報を受け、幕府は全国に人相書きを配布
建議書を写し取った江川のもとにも届けられました。
幕府の威信をかけ大捜索が行われました。
その間、反乱に参加した門人や農民が次々と捕縛され、大塩は姿をくらまし続けます。
どうして逃亡を続けたのでしょうか?
一説には、江戸の幕閣が建議書によって政治改革に動き出すか、自分の目と耳で確かめたかったからだ・・・とも言われますが、定かではありません。
そして1か月のち天保8年3月27日・・・大坂城下に潜伏していることが判明・・・
隠れ家を囲まれると、大塩は持っていた大量の火薬に火を点け、息子と共に爆死・・・
壮絶な最期でした。

天下の台所・・・大坂を焼いた大塩平八郎の乱。
それは江戸時代の日本に大きな衝撃を与えていきます。
大坂では大塩の乱をきっかけに大規模な農民一揆が勃発!!
大塩の行動に共鳴した民衆たちが民を救おうとしない幕府に対し、各地で武力蜂起!!
不穏な気運を払拭したい幕府は、事件の4か月後には捜査を開始。
大塩の門人、農民ら750人余りを取調べ、翌年裁決します。
その評決文の中で、幕閣は大塩を貶めるために、スキャンダラスな情報を載せます。
それが、大坂の一部の与力の反発を買いました。
与力をはじめとする役人たちからも幕府に対する違和感がふつふつと生じ始めていました。
大塩の乱の後、水野忠邦が天保の改革を行いますが、失敗・・・
幕府が終焉の時を迎えるのは、大塩平八郎の決起から30年後のことです。


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