日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:天武天皇

現在教科書に日本初の鋳造貨幣として書かれているのは、和同開珎ではなく、富本銭です。
富本銭は、既に江戸時代の古銭図鑑に載っていてかなり古くから知られていましたが、近年まで数枚しか発見されていなかったので、貨幣ではなく祭事用に作られた特別なまじない銭だとされてきました。
さらに、いつ造られたものかもわかっていませんでした。
ところが、19999年1月、奈良県明日香池工房遺跡で富本銭が大量に出土・・・大発見でした。
ここは、飛鳥時代の漆やガラス、金銀細工の工房跡で、銅の鋳造も行っていました。
発掘された富本銭は、鋳ばりが残っていたり、型や不良品が発見されたのです。
これは、天武・持統朝の時代だとされています。
日本書紀には、天武天皇12年(683年)に「今より以後銅銭を用いよ」という記述があります。
この銅銭が、和同開珎なのか、富本銭なのか、どの銅銭なのか、ずっと議論されてきました。
富本銭の年代がそこに遡るということで、富本銭が作られたのは683年頃と判明しました。
708年の和同開珎より20年近くも古い683年頃の富本銭・・・歴史が大きく変わった瞬間でした。
天武天皇は、中国式の新しい国づくりを行っていました。
都・飛鳥浄御原宮、藤原京、律令制度、氏姓制度、貨幣制度・・・そこで作られたのが富本銭でした。
当時の東アジアで、貨幣を鋳造していたのは中国と日本だけでした。
中国を手本にしながら、それに引けを取らない国づくりをしようとした天武天皇の心意気が、意気込みが感じられます。
富本銭の大きさは、唐の改元通宝とほとんど一緒です。
改元通宝を手本にして作られたと思われます。
実際に富本銭は使われていたのでしょうか??
出土が少ないことから、貨幣として鋳造されたものの、本格的な流通はしなかったと思われます。

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古代史も変わっています。
かつて4世紀中頃は、大和朝廷がその他の豪族を支配下に置き、統一政権として政治を行っていたとされてきました。
しかし、現在の教科書では、”大和朝廷”は”ヤマト政権”と表記されています。
表記が変わった理由は・・・??
大和が漢字ではなくなったのは・・・やまとを”大和”と書いた最古の文献は、8世紀後半の養老律令です。
4世紀中ごろは、大和ではなく、”倭””大倭”という文字が使われていました。
そのため、現在では4世紀中ごろに「大和」という漢字を使っていた確証がないため、カタカナの「ヤマト」と表記するようになりました。
朝廷が政権となったのは・・・??
朝廷は天皇を中心に政治を行う場所です。
しかし、当時の日本では、小国がたくさんありその王が支配し、その上に大王がいた・・・
「ヤマト政権」の時代は、天皇が全国を支配した統一政権ではなく、大王を盟主とした連合政権だったのです。
まだ朝廷という形態はなく、政治権力のみだったため、「政権」と表記するようになったのです。

実際に、朝廷が成立したのはいつ・・・??
朝廷の確立は、天皇が日本全国を支配下に置いたときとされています。
初代天皇といわれた神武天皇・・・古代においても天皇はいましたが、天皇の称号は後からつけられたもので、大王でした。
最初に自らを天皇と名乗ったのは誰でしょう・・・??
それは、第33代推古天皇といわれてきました。
その根拠の一つが法隆寺の薬師如来像で、銘文に大王天皇と書かれています。
そして丁卯年・・・これは推古天皇15年=607年だと考えられました。
なので、この銘文が天皇という表記が最も古い・・・初めて称したのは推古天皇でその頃に朝廷が成立したと考えられてきたのです。
ところが、昭和初期・・・薬師信仰が始まった時期や、銘文の筆跡から、薬師如来像は推古天皇の時代以降に作られたもの・・・もしくは、銘文が後に書かれたものと考えられるようになりました。
その時代についても諸説あり、一つ目は薬師信仰が日本にもたらされた第40代天武天皇の時代という説、もう一つが天智天皇9年・・・670年に、法隆寺が一度消失しています。
その再建にあたり、この薬師如来像が新たに据えられたのではないか??というのです。
つまり、天武天皇の兄である第38代天智天皇の頃という説です。
天智天皇は皇太子時代に大化の改新を断行、その詔で、公地公民制・・・「すべての土地と人民は、天皇が所有し支配する」と政策方針を示し、その後即位しました。
他にも天智天皇は現存しない幻の近江令を出したともいわれています。
なので、朝廷という政治形態が確実に存在した時代は、天智天皇~天武天皇の時代の頃だと思われます。

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日本初の正史・・・公認の歴史書と言われる日本書紀・・・
681年3月、第40代天武天皇の命によって編纂が始まり、40年の長い歳月を費やして720年全30巻が完成しました。
そこには神々による国の創生と天皇家の歴史が書かれ、時代を越えて多くの人に読み継がれてきました。
しかし、日本書紀にはある疑惑が・・・。

1~2巻・・・神代紀・・・神々による日本の創生
3巻以降は、天照大神の子孫である初代神武天皇から天武天皇の妃・第41代持統天皇までの天皇家の歴史

「古事記」も天武天皇の命によって編纂されたもので、この二つを合わせて記紀と言います。
内容も非常に似ていますが違っているのは・・・古事記はすべて漢字で書かれているものの日本語を漢字で記したものです。
日本書紀は、完全な漢文・・・古代中国語で書かれています。
日本の歴史書なのに、どうして漢文で書かれていたのでしょうか?

日本書紀の編纂が始まったのは、681年3月・・・
天武天皇が6人の皇族と6人の役人に編纂を命じたと言われています。
そしておよそ40年後の720年、天武天皇の王子・舎人親王によって完成します。
時を同じくして古事記の編纂も行われていましたが、漢文と日本語・・・二つのモノが必要だった理由・・・それは、編纂が始まる18年前に始まった白村江の戦に関係していました。

660年、日本と友好関係を結んで仏教をもたらした百済が、唐・新羅の連合軍に敗れて滅亡・・・
3年後、日本は百済復興のために3万の水軍を派遣!!
白村江で唐・新羅の連合軍と激突!!
しかし、結果は惨敗!!
日本軍は、全面撤退を余儀なくされます。
この敗戦を機に、朝廷は国防を意識するようになり、時の女帝・斉明天皇の皇子・中大兄皇子は大宰府に水城や山城を建造、対馬と筑紫には防人をおきました。
さらに、中大兄皇子が第38代天智天皇に即位すると・・・国家として唐に劣らない政治体制を築くために近江令を制定、庚午年籍を作成します。
そうした国家の体制づくりを受け継いだ弟・天武天皇は日本書紀によって日本を守ろうとしたのです。

日本は、唐をはじめとするアジア諸国に対して、唐と匹敵する深い歴史や文化があることを、日本書紀によって示したのです。
だから、日本書紀は完全な漢文で書かれているのです。
つまり、日本書紀は国外向け、古事記は国内向けに作られているのです。

「日本」という国名が初めて使われたのはこの日本書紀が初めてです。
それまでは、中国によってつけられた倭と呼ばれていましたが、それを用いず日本を使うことで成熟した独立国家であるとしたのです。

しかし・・・歴史は権力者が作るものです。
権力者に都合のいい歴史が書かれる・・・特定の事件、人物に対して事実とは違うことが書かれています。
日本書紀には虚構の歴史が書かれているというのです。

1~2巻・・・神代紀には、天皇の誕生がこう記されています。
男神の伊邪那岐と女神の伊邪那美が愛し合って日本列島を生み、そこに天照大神の孫である邇邇芸命が降り立ちます。
この邇邇芸命の子孫が、初代神武天皇となったと。
7巻には、日本武尊が登場!!
女装で油断させ、ヤマト王権に抵抗する九州の熊襲を成敗します。
いずれも本当のことかどうか定かではありませんが、天皇家の権威を高まるために書かれたことには違いありません。

ところが・・・16巻に登場する25代武烈天皇は・・・悪行の限りを尽くした稀代の暴君として書かれています。
あろうことか妊婦の腹を裂き胎児を見たり、生爪をはいだものに素手で山芋を掘らせたり、木に登らせたものを射殺したり・・・やりたい放題・・・これほど悪く書かれている天皇は他にありません。
武烈天皇は、自らの悪行が祟ったのか跡継ぎを残せないまま崩御。
天皇家の正当な血統が絶たれてしまったために、10代前の応神天皇の5世孫・継体天皇を越前から呼び寄せて即位させたのです。
天皇を神格化して日本の統治者であることを正当化する為に作られた日本書紀に、どうして天皇家の不名誉な歴史が書かれているのでしょうか?

実際に武烈天皇がそうだったのではなく、中国の歴史書に倣って暴君にされてしまったようです。
中国は有史以来、数多くの王朝交代を繰り返してきていました。
そして王朝が滅び去るときには暴君の存在がありました。
日本書紀によって中国に匹敵する連綿とした歴史があることを主張したい日本でしたが、王朝の滅亡や暴君が登場したことはなく書けない・・・
そこで、跡継ぎを残さないまま亡くなった武烈天皇を暴君に仕立て上げ、血統の交代を中国の王朝交代のようにドラマチックなものにしたのでは・・・??と言われています。

日本書紀にはその編纂を命じた天武天皇に関することも書かれています。
それは、天皇に即位する前・・・大海人皇子の時に起きた大事件です。
672年に多くの皇族や豪族を巻き込んで起こった古代最大の内乱・・・壬申の乱です。
日本書紀28巻にはその経緯が書かれています。
天智天皇は、当初弟の大海人皇子(天武天皇)を次期天皇候補の筆頭にしていました。
ところが・・・第一皇子の大友皇子が成長すると・・・親子の情に流されて、朝廷の官職の最高位である太政大臣に任命。
次期天皇候補の序列を入れ替えてしまったのです。
それでも安心できない天智天皇は、病床に大海人皇子を呼んで揺さぶりをかけます。
「皇位をそちに譲る・・・」
この言葉にまんまと乗ってくるならば、謀反の意ありと討伐!!と考えたのです。
それを察した大海人皇子は出家して吉野の山へ・・・。
こうして天智天皇の子・大友皇子が第39代弘文天皇として即位。
疑心暗鬼の弘文天皇は、吉野の大海人皇子に食料が届かないというような妨害工作を働きかけます。
もともと皇位を奪うつもりなどなかった大海人皇子ですが・・・

「このままだと命を奪われてしまう・・・」

と考え身を守るために兵を集めて挙兵しました。
多くの皇族や豪族を巻き込んで両軍が激突し、これに勝利した大海人皇子が第40代天武天皇となったのです。
つまり、大海人皇子はやむを得ず弘文天皇を討ったというのです・・・が。
真相は全く違っていました。
当時は跡を継ぐのは長男で・・・次男である大海人皇子はそれを補佐する存在にならなければなりませんでした。
つまり、大海人皇子には後継継承権はなかったのです。
それにもかかわらず、地位と権力を奪い取った・・・その通りに書くわけにはいかなかったのです。
後継証券がない大海人皇子が天皇になりたくて起こした一方的な皇位の簒奪だったのです。

大海人皇子が託されたのは、”天智天皇の血を受け継いだ正当な後継者を生み出すこと”でした。
大海人皇子は天智天皇の娘4人を妻にしています。
我が子である大津皇子、草壁皇子などの後見人を期待されていたのです。
しかし、やはり息子たちの後見人では満足できない・・・天皇になりたいという野心がありました」。
おまけに、鵜野讃良皇女は天智天皇の娘でした。
夫である大海人皇子が平の皇族であっては困る・・・後見役で終わってしまっては困る・・・という切迫した思いがこの反乱を起こした一因だったともいわれています。

日本書紀の中で、自分の皇位継承を正当化する為に歴史を作り変えてしまった天武天皇・・・
しかし、編纂が始まってわずか5年後・・・686年10月崩御!!

その後、日本書紀の編纂に大きな影響を与えたのは・・・当時の最高権力者・藤原不比等でした。
朝廷に仕える役人のひとりに過ぎなかった不比等は、701年日本初の本格的な基本法・大宝律令の編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場します。
さらに、娘・宮子が文武天皇に入内し、後の聖武天皇となる首皇子を出産すると、天皇家との関係を強くしたことで、絶大な権力を掌握!!
後に続く藤原家の隆盛の礎となりました。
そんな不比等もまた、史実の改ざんを行った可能性が高いのです。
父である中臣鎌足が大きく関与した歴史的事件・・・大化の改新の発端の真実とは・・・??

奈良明日香村にあるにある伝飛鳥板蓋宮跡・・・35代皇極天皇の宮殿があった場所です。
ここで645年大化の改新の発端とされる事件が起こりました。
乙巳の変です。
日本書紀24巻には、事の顛末がこう記されています。
ある日、皇極天皇の皇子・中大兄皇子が蹴鞠をしていると靴が脱げてしまい・・・その靴を役人のひとりである中臣鎌足が拾います。
これをきっかけに意気投合した二人は、絶大な権力を握り天皇を蔑ろにしていた蘇我氏をうち滅ぼそうと決意をします。
そして、飛鳥板蓋宮で、朝鮮の使節が天皇に貢物を捧げる儀式が執り行われている時・・・
二人は儀式に出席していた蘇我入鹿を襲撃し、斬殺!!
さらに中大兄皇子が入鹿の父・蝦夷の反撃に備えて兵を集めると、蘇我氏の最期を悟った蝦夷は自らの屋敷に火を放ち、自害した・・・。
つまり、乙巳の変は、天皇を蔑ろにする蘇我氏を二人が成敗する・・・正義の決起!!
本当にそうだったのでしょうか?
日本書紀によって大悪人とされている蘇我蝦夷・入鹿親子・・・の蘇我氏。
表舞台に登場したのは6世紀前半からで、入鹿の曽祖父稲目が朝廷の大臣に就任したことに始まります。
稲目の後は馬子・・・馬子は、日本に伝来したばかりの仏教を推進し、権力を拡大。
日本初の本格的仏教寺院・飛鳥寺を建立します。
33代推古天皇のもとでは、中心となって国政を司りました。
蝦夷・入鹿の時代になると、隆盛は極まり、朝廷の権力を掌握!!
そして、大きな事件を起こします。
乙巳の変の1年半ほど前の643年・・・蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇にしたいと考えていた入鹿は、最大のライバルである山背大兄王を襲撃!!
一族もろとも自害に追い込みました。
日本書紀には、入鹿の単独行動による暴挙とされていますが・・・乙巳の変の原因となる事件とされていますが・・・。
入鹿は黒幕に命じられて、山背大兄王を襲撃したのではないのか??
黒幕とは・・・当時の天皇であった皇極天皇??
皇極天皇は、後の天智天皇、天武天皇の実の母親です。
中国の文化や思想に傾倒した天皇で、事件が起こった当初は自らが暮らす飛鳥を、唐の長安のようにしたいと・・・権力の象徴となる都にしたいと思っていました。
しかしこの時、斑鳩に新しい宮殿が築かれており、そこを拠点とする山背大兄王が次期天皇となれば、都が斑鳩に移ってしまう・・・。
そこで、腹心・入鹿に命じて山背大兄王を襲撃させたのでは・・・??
入鹿は皇極天皇の命に従って山背大兄王を襲撃したに過ぎない・・・。
日本書紀の入鹿の単独行動による暴挙はうそ??

入鹿が惨殺された理由は・・・??
日本書紀では中大兄皇子が入鹿を暗殺した際に、皇極天皇にこう訴えています。
「蘇我入鹿は天皇家を滅ぼそうとしていました。
 いるかなどによって、天皇家が滅びるようなことはあってはなりませぬ。」
朝廷をh牛耳っていた蘇我入鹿は天皇家を滅ぼし、その地位を乗っ取ろうとしていた・・・これを防ぐために、入鹿を討ったと言っているのですが・・・??
蘇我氏は当時、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を天皇にしようとしていました。
決して自分達が取って代わろうとは思っていませんでした。
どうして「乙巳の変」は起こったのでしょうか?
そこで出てくるのが黒幕・皇極天皇です。
皇極天皇は山背大兄王暗殺の褒賞として、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇に内定しました。
が・・・これに不満を抱いたのは、次期天皇の座を虎視眈々と狙っていた皇極天皇の弟・軽皇子でした。
軽皇子は、天皇に次期天皇内定の取り消しを願い出ましたが、良い返事が返ってきません。
そこで・・・
「私を次の帝に指名していただければ、飛鳥京の築造に協力いたします。」
と申し入れ、ようやく納得させたのです。
そうなれば、あとは邪魔者を始末するのみ・・・。
邪魔者とは・・・古人大兄皇子を推す蘇我氏でした。
乙巳の変は、日本書紀に記されている正義の決起ではなく、軽皇子が起こしたライバル勢力の排除であり、そこには皇極天皇の心変わりがあったのです。
それは、天皇家や、それにかかわった中臣鎌足の子・不比等にとって知られたくない事実でした。
そのため、蘇我氏は日本書紀によって稀代の大悪人とされてしまったのです。



軽皇子は、乙巳の変2日後に即位し、孝徳天皇となります。
蘇我氏が持っていた公共事業の権利を天皇家が掌握することとなります。
これによって莫大な利権が自分の物となるのです。

中大兄皇子と藤原不比等は一刺客として乙巳の変に参加しました。
中大兄皇子は叔父が即位した方が、皇位が巡ってくる可能性が・・・
鎌足は、乙巳の変当時は軽皇子の腹心でした。
二人が英雄のように書かれている理由は・・・
編纂された当時の天皇の理想像は、一つは天智天皇の血統を受け継いでいる事、もう一つは藤原氏の血脈である事・・・それはまさに当時の皇太子。。。首皇子(聖武天皇)のことだったのです。
二つが結びついた事件が乙巳の変だったのです。
二人が一刺客ではなく主役であったと改ざんされることとなりました。

日本書紀には、天智天皇が自ら鎌足の病床を見舞う・・・そして、669年藤原姓を賜わるというエピソードがあります。
藤原氏が天皇家にとって特別な存在であるということを、知らしめなければならなかったのです。
不比等以降、藤原氏の黄金時代が続きます。
それは日本書紀によってつくられた藤原氏のイメージが根底にあったのです。

軽皇子が孝徳天皇となって始めた政治改革が大化の改新です。
教科書にも、天皇による中央集権化が進んだ重要な改革だったと書かれています。
日本書紀には、その大化の改新の政策方針として発令された「改新の詔」が次のように記されています。

・土地や人民の私有を禁じる公地公民制の施行
・首都の設置
・戸籍の作成
・新しい租税制度の制定

ところが・・・この改新の詔についても・・・1967年に発見された木簡により改ざんがあったことが明らかとなりました。
日本書紀の改新の詔には、”郡”という行政区画の単位は701年以降から使用されたとあります。
木簡から”郡”が使われだしたのは、701年以降であることが判明・・・つまり、改新の詔は本来のモノではなく、701年以降に不比等の時代に書き換えられたものなのです。
どうして書き替える必要性があったのでしょうか?
乙巳の変の正当化のため・・・大改革を目指して行われたとしなければ・・・
大化の改新をより際立ったものにするために、その発端となった乙巳の変の歴史的価値を高め、それを実行した中大兄皇子と中臣鎌足の名声をあげる・・・そのために、改新の詔を改ざんしたのでは・・・??

古代日本を語るうえで欠かせない聖徳太子・・・
日本書紀における聖徳太子についての記述は・・・厩戸皇子・・・。
聖徳太子は、生前の功績をたたえて後世に呼ばれた名前で、本来の名は厩戸皇子です。
日本書紀によると、第31代用明天皇の皇子として生まれました。
生まれてすぐに言葉を話し、青年後は一度に十人の話を聞くことができたという超人的な能力を持っていました。
叔母の推古天皇が第33代推古天皇として即位すると、皇太子として摂政として政治改革に邁進し、冠位十二階や十七条憲法を制定、遣隋使を派遣し大陸の文明や文化を吸収、法隆寺をはじめ、多くの寺院を建立。
仏教の普及に尽力しました。
まさに古代の英雄です。
のはずですが・・・その厩戸皇子に関する資料はほとんどなく、98年後に作られた「日本書紀」にだけ詳しく書かれています。
聖徳太子こと厩戸皇子は実在の人物ではなく日本書紀によって書かれた虚構の人物・・・??

厩戸皇子は実在するものの聖徳太子として広く知られている人物像は日本書紀によってつくられた可能性が高く、さらにその立場も・・・皇太子に立てられ摂政ということですが・・・
厩戸皇子の時代、皇太子や摂政という地位はありませんでした。
皇太子であり摂政であるというのはねつ造だと思われます。

厩戸皇子は、実際にどんな職務についていたのでしょうか?
605年政治の中心だった飛鳥を離れ、斑鳩に築いた宮殿に移ります。
このことから朝廷での職務は・・・??
斑鳩は、当時の国際玄関口である難波にアクセスしやすいところにありました。
期待された役割は外交・・・外務大臣であったのです。
遣隋使の派遣・・・むしろこれが本来の職務で十七条憲法作成には携わっていないばかりか十七条憲法自体、天武天皇の時代以降につくられた可能性が高いのです。
そうなると、厩戸皇子は天才政治家でもなかったことになります。
どうして日本書紀は厩戸皇子を超人的な皇太子に仕立て上げたのでしょうか?
そこには藤原不比等と首皇子(聖武天皇)の存在がありました。

日本書紀が完成される時期に皇太子となったのが首皇子でした。
日本に皇太子という制度が導入されたのは7世紀末・・・編纂された当時、皇太子ってなに?と、認識されていませんでした。
そこで、皇太子とはかくあるべきという皇太子の理想像としてつくられたのです。
頭脳明晰、人の話をよく聞く、仏教を重んじる・・・理想像を示すことで、それを手本に首皇子に学んでもらい、偉大な天皇となってほしい・・・そうなれば、天皇家と密接に結びついている藤原家も安泰・・・。
不比等はそう考えていたのかもしれません。
そんな野望が、聖徳太子こと厩戸皇子の虚構の人物像を作り上げたのです。
そしてそれを学んだ首皇子は、第45代聖武天皇となり、廬舎那仏・・・奈良の大仏建立に情熱を注ぐのです。
仏教によって国を守り安定させることで、天皇の権威を示そうとしました。
そして、そのそばには藤原氏の姿がありました。

日本初の正史・・・国歌公認の歴史書でありながら、時の権力者によって事実でない虚構が数多く記されている日本書紀・・・まさに、歴史は勝者によってつくられるのです。


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シリーズ 古代史ミステリーです。

今から1300年前に作られた歴史書・古事記・・・
国の成り立ちから天皇による統一まで書かれています。

この神話の背景には、日本が直面した対外危機がありました。
侵略の恐怖・・・古代の近代化が行われたのです。
国家神話に込められた意味とはどういうものなのでしょうか???
誰が・・・何のために作ったのでしょうか?
「古事記」上巻に秘められた日本国家誕生の裏側です。

上巻は、神々の物語
中巻は、神と人との関わり
下巻は、人の歴史

に分かれています。

どの民族にもある神々の物語・・・それが古事記に色濃く書かれています。
上巻だけで、文学作品としても一つの作品として確立されていて、日本のアイデンティティ、独自性が見受けられます。

古事記という歴史書を作るために神話が必要である・・・
創作性が入ってきています。が、そこには歴史的背景がある・・・そして、人為的なものも含まれている???

古代の近代化・・・当時の世界最高の大帝国・唐を見倣って、天皇中心の統一国家にしよう・・・ということだったのかも。。。
唐を中心とする統一国家になるためにグローバル化が必要だったのかもしれません。

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日本最古の歴史書・古事記・・・
681年に天武天皇が国史編纂の詔を出します。
そして・・・持統天皇⇒文武天皇⇒元明天皇を経て、712年に「古事記」が完成します。




古事記の序文には、天武天皇の詔が書かれています。
「そもそも帝紀(天皇家の系譜)とは、本辞(神話・物語など)は国家組織の原理を示すものであり、天皇政治の基本となるものである。
正しいものを定めて、更生に伝えようと思う。」

国家組織の原理と天皇政治の基本を示すこと・・・
そこには、日本国の未曽有の国難があったのです。

それが、663年朝鮮半島で起こった白村江の戦です。
倭国は国家の形成途上で・・・唐と新羅の軍に大敗します。
この敗戦を機に、変革が求められたのです。
初めての対外戦争で・・・いともたやすく負けてしまった・・・。
国家の権力を集中させて対応しないといけない・・・。
そこで、税と兵を一転に集中させる体制が必要だったのです。

国史編纂は、中央集権化のため・・・大国に肩を並べるためには、国家神話が必要だったのです。
皇祖神が登場します。
その皇祖神は天照大神です。

天照誕生は・・・???
高天原には天照はいません・・・
17、18番目に登場するのがイザナギノ命・イザナミノ命。
彼らは愛の化身として国生みを行います。
続いて生まれたのが・・・海・風・霧・土・山・木・の神など・・・35にも及ぶ神生みです。

しかし・・・天照はまだ・・・。
どうして古事記にはこのようにたくさんの神が出てくるのでしょうか???

天武天皇は・・・
「諸家に伝わっている帝紀及び本辞には、真実と違い虚偽を加えたものが甚だ多いとのこと・・・」
とあります。

当時の有力豪族は、その出自を正当化したり、天皇とのつながりを誇示するために・・・
それぞれに都合のいい神話を書かせていたようです。

天武天皇は、乱立状態・・・バラバラだった神話を天皇国家にとって有利な神話へとまとめて行こう・・・というものだったようです。
つまり、神話の中央集権化だったのです。

イザナミが最後に産んだのが火の神・カグツチノ神。。。
その時に大やけどを負ったイザナミが黄泉の国へ・・・。
後を追ったイザナギは変わり果てたイザナミの姿を見て・・・命からがら逃げだします。
そして・・・黄泉の穢れを落とすために・・・イザナギが池の水で禊をすると・・・
”左の御目をお洗いになる時成り出た神の名は天照大御神
 右の御目からは月読命
 御鼻からは須佐之男命”
こうして禊によって皇祖神・天照大御神が誕生したのです。

日本古来の神信仰は・・・万物に神がいるというアニミズム信仰なので、たくさんの神が出てきます。

天照はどのようなキャラクターだったのでしょうか???
最も有名なのが、天石屋戸神話です。

天照は、父・イザナギから高天原の支配を任されます。
一方海を任された須佐之男命は父に背き高天原で乱暴狼藉を働きます。
そんな弟を庇う姉として書かれています。
人間的な弱さを持つ人間的な神として書かれているのです。

乱暴狼藉に拍車のかかる須佐之男命。
怖れ慄いた天照は天石戸に隠れてしまいました。
すると・・・
”あらゆる邪神の騒ぐ声は夏の蠅のように世界に満ちあらゆる禍が一斉に発生した”
暗黒に包まれ、世界は危機に瀕します。
困った神々は天石戸の前で、お祭りを始めました。
天照が見ようと戸をあけかけた時、力づくで天照を引き出して・・・

世界は光を取り戻し、秩序も回復したのでした。

天照が、天石戸から引き出される・・・
そこに、多くの者と力を合わせて君臨する神として書かれているのです。
世界の中心であることを知らしめた天照は・・・
女性であることから・・・時の国家の支配者・持統天皇をモチーフにしている???


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持統天皇は、天智天皇を父に持ち、夫は天武天皇・・・律令国家の実現に力を注いだ人物です。
はく祖運航の戦いのあと、唐の侵略に備えて・・・
667年天智天皇は、飛鳥浄御原宮から近江大津宮に遷都。
その途中で亡くなりました。

672年壬申の乱で・・・皇位継承で大海人と大友が戦います。
戦いに勝った大海人の皇子は673年大津から飛鳥へと都を戻して天武天皇となります。
そして・・・独裁政治を始めました。
大臣を廃止し、皇族による政治を始めたのです。

686年天武天皇崩御。

持統天皇は大臣制度を復活させて、官僚の力を活用して、
689年飛鳥浄御原令、694年藤原京遷都・・・夫の成しえなかった計画を成し遂げます。

持統天皇はこう評価されています。
”天皇は、広い度量のお人柄であった
 まろやかな心で国母の徳をお持ちであった”

天武天皇の時は、天皇としての厳しさがないと世の中は動かすことができなかったのですが、持統天皇が女性としての温かさで、世の中の融和を心がけた・・・
そんな持統天皇が天照大御神と合致したのです。

この後、古事記は地上世界の出雲に変わります。
所謂「国譲りの神話」です。

これに対しては、実際に出雲に強大な王朝があったという説や、地方豪族の象徴として書かれているという説・・・様々な解釈がなされてきました。

出雲信仰の神は・・・大国主命。
80人兄弟の末っ子、虐められてばかりいる気の弱い神様です。
しかし、因幡の白ウサギを助けたことから美しい神と結婚。。。
着実に領土を広げて行きます。
葦原中国という地上世界の王のステップをあがって行きます。。。
そこへ国を穣るようにとやってきたのが天照大御神。
大国主命は・・・
「この葦原中国は仰せのとおりことごとく献上しましょう」
と、抵抗することもなく国を譲ってしまうのです。

各地の豪族は各地で国を造る・・・
国譲り=中央集権化・・・各地の国が大和朝廷に服属するということを意味しています。
平和裏に交渉が成立した???

中央集権化に必要だったのが、戸籍制度の整理。
690年庚寅年籍を作成します。
これにより朝廷は、民を管理し、豪族が行っていた徴兵や税の徴収を確実に行うことができるようになります。
公地公民です。
豪族からすると、権益を国に取られてしまう・・・
そこを穏便に運ばせることが目的で・・・その穏便な・・・というのは、日本的な考え方なのかもしれません。

国譲りのあとは、天孫降臨です。
神と天皇とをつなぐクライマックスです。
天照大御神は、息子のホシホミミノ命に地上世界への降臨を命じますが・・・ホシホミミノ命は・・・
「支度をしている間に子が生まれました。
 名は、ニニギノ命と申します。
 この子を降ろすのが良いでしょう。」
ホシホミミは息子に・・・といい、結果的に、天照大御神の孫・ニニギノ命が降臨することになります。
この急遽変更となった天孫降臨・・・
当時・・・697年天智天皇は吉野の盟約で、母親の違う皇子たちに、継承争いが起きないようにちかいをたてさせます。
「我が子供たちよ
 母親は違えども
 同じ母から生まれた
 兄弟のように
 慈しもう」と・・・。


kojiki
そして、天武天皇と持統天皇の息子草壁皇子を後継者としました。
ところが・・・草壁皇子は若くして亡くなり・・・後に残ったのは、幼い軽皇子でした。
つまり、持統天皇と孫の軽皇子との関係がそのまま天照とニニギノ命の関係となるのです。
孫が継ぐことの正当性を訴えたのです。

しかし・・・
この皇位継承は簡単なものではなく・・・
これまでの皇位継承は、
①兄弟内・世代間継承
②30歳以上
③執政経験アリ
という条件でしたが・・・
軽皇子はどの条件も満たしていませんでした。
即位の必然性がない人物を皇位につかせる・・・

しかし、697年15歳で文武天皇即位。
史上最も若い天皇となりました。
天皇の皇位継承は、「実力ではなく、天にいる神様からの血縁で決まる」血統重視の皇位継承が決定した瞬間でした。
当時は、藤原京・・・
国家の政権は天皇家に、政治の実権は官僚である藤原不比等たちに・・・という構図が出来てきていたからです。

日本は権威と権力がはっきりと分かれています。
そこが中国との違いです。だから、中国の皇帝は滅ぼされますが、日本の天皇家は続いてきました。
天照大御神は最高権威でありながら、権力は誇示しません。
でも、それでOKな国民性なのです。

権威と権力の両方を手に入れたのは、天武・持統天皇の頃だけで、それは非常に珍しい時代でした。

門御天皇の時代は、唐にならって国際化を急速に進めた時代でした。
701年大宝律令制定
702年30年ぶりに遣唐使を再開・・・
持統天皇が亡くなるも・・・
中国の都・長安に習って都を造ろうと考えます。
平城京遷都を目前に文武天皇が亡くなると、その母・元明天皇が707年に即位します。
しかし、元明天皇は遷都に反対していました。
なのに・・・大臣たちが推し進め・・・
710年平城京遷都。
長安をモデルにした新しい都でした。
官僚主導の唐に習った急速な近代化・・・
元明天皇はそれに抗うような古事記の編纂。。。
アイデンティティーの最後の拠り所・・・それが古事記だったのです。

そこには”やまと言葉”を使うこと。が決められていました。
その難しさは太安万侶が記しています。
「上古においては 言葉もその内容も共に素朴で、文章に書き表すとなると漢字の用い方に困難があった。」
日本にはもともと文字のない文化・・・漢字と格闘しながら大和の音を作りだしたのです。
ここから万葉仮名が・・・日本独自の文字仮名発達していきます。

712年1月28日「古事記」完成。
その3年後元明天皇は娘・元正天皇に皇位を継承します。

古事記は天皇家の家訓・・・
その後720年にほぼ漢文体で書かれた「日本書紀」完成。
日本の正史として受け継がれていき・・・古事記は歴史の表舞台から忘れ去られていくのです。

本居宣長がいなければ、忘れ去られて現代人に読まれなかったかもしれないことを思えば、古事記を読むことのできることは奇跡なのかもしれません。

現代人が古事記から読み取ることは???
神々が自然と一体となっていること、全てに神が宿っていること。
自然観の原点・生命力の源が古事記なのかもしれません。

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