日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:天然痘

今からおよそ1300年前の奈良時代、日本は疫病の大流行・・・パンデミックに襲われていました。
天然痘です。
強烈なウィルスは、飛沫感染、接触感染で一緒に広まって、国民のおよそ1/3が死亡したといわれています。
平城京は死の街とかしました。
完了8人のうち5人が死亡する異常事態となりました。
聖武天皇は、復興のため、国民の負担を減らす様々な政策を打ち出します。
その一方で、仏によって疫病から守られる国を作るため、大仏造立や国分寺建立を推し進めます。
その問題は、この巨大事業の財源をどう作り出すかでした。
この時、政権を担っていた橘諸兄は、財源確保のために大きな選択を迫られます。
律令国家の根幹である原則を捨てるか否か・・・??

パンデミックに痛めつけられた日本をどう復興させるのか・・・??

古代の群像・橘諸兄【電子書籍】[ 川村 一彦 ]
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732年元旦・・・
平城宮の大極殿で、かつてない儀式が執り行われました。
玉座に座るのは、聖武天皇です。
天皇として初めて中国皇帝と同様の冕冠をかぶったのです。
天皇の権威の大きさを形として人々に示したのです。

あおによし 奈良の都は 咲く花の
           におうがごとく 今 盛りなり

大陸の先進国・唐に習って、初めて本格的な法体系律令制を敷いてからおよそ30年・・・
人口は増大し、国力は充実、律令国家・日本のTOPとして聖武天皇は得意の絶頂にいました。
しかし、そのわずか3年後の735年、九州大宰府で天然痘が発生!!
大陸の党や新羅への使節が、感染源と考えられています。
当時の記録・続日本紀によると、疫病は大宰府から九州全域に広がり、さらに長門を経て紀伊・大倭・伊賀・若狭・駿河・伊豆各国に蔓延していきます。
その報告が平城京に送られると、それに伴う人の往来が疫病を広げることになりました。
第1波はは治まったものの、第2波が襲い、天然痘は735年から737年にかけて全国に広がりました。
ある研究によると、天然痘による死者は100万人から150万人、国民の1/3が失われたとされています。
朝廷は、疫病対策を全国に出しました。

・生水は飲むな
・体を温めよ
・ニラやネギを煮て食べよ

さらに、聖武天皇は、天皇家の聖地・吉野に行幸し、天然痘退散を祈祷したといわれています。
天然痘の蔓延の中、人々はどのようにして暮らしていたのでしょうか?
出土品から伺えます。
呪符木簡が出土しているのをはじめ・・・
天然痘は、人々の生活様式を変えました。
天然痘が流行る前、貴族の邸宅では大皿が使われていました。
大皿に料理を盛りつけ、取り分けていたのです。
しかし、天然痘の後になると、大きな食器は見受けられなくなります。
小型の食器がたくさん使われることになります。
ここに食器を使うことで、天然痘の感染を防止する意味合いがありました。
天然痘を経験したことで、衛生意識が変わり、生活のスタイルを変えていったのです。

さらに・・・灯明皿も出土しています。
皿に油を入れ、灯心を置き、明かりをつけます。
このような皿をたくさん並べて僧侶がお経を読む年頭供養がなされました。
現代も、東大寺で万灯供養会が行われています。
奈良時代の人もまた、多くの明かりをともすことで天然痘の再発防止を願ったのです。

しかし、疫病はやみませんでした。
天然痘は、貴族たちをも襲い、当時、聖武天皇のもとで政権を担っていた藤原四兄弟全員が737年に死去。
見舞いに行って感染したとみられています。
遂には、当時の閣僚である公暁8人のうち5人が死亡という異常事態となりました。
聖武天皇は・・・
「三川に祈り神を祭ったが、効果はなかった
 朕の不徳がこの災いを招いてしまった」といっています。

天然痘による壊滅的な被害と政権中枢の消滅・・・聖武天皇は、即位以来最大の危機に直面していました。

聖武天皇が造った都 難波宮・恭仁宮・紫香楽宮 (歴史文化ライブラリー) [ 小笠原好彦 ]
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737年秋・・・天然痘は収束に向かいつつありました。
聖武天皇は、藤原四兄弟の死で中枢不在となった政権を立て直すべく、人事を行いました。
この時、大納言に抜擢され、新たに政権を担ったのが、橘諸兄でした。
橘諸兄は、皇族出身で、光明皇后の父違いの兄であり、聖武天皇が兄とも慕う存在でした。
橘諸兄を讃えた歌が残されています。

立花は実さへ 花さへ その葉さへ
           枝に霜降れどいや常葉の木

大いなる信任を背に、橘諸兄は天然痘で疲弊した国力の回復に乗り出します。

①農民の負担軽減
当時、豪族などが農民に種もみを貸し、最大10割の利子をつけて返済させていました。
橘諸兄はこれを禁じ、種もみの貸し付けは国が低い利率で行うことで、農民の負担軽減を図りました。
貴族や豪族の貸し出しを禁止し、国からの借り入れに一本化します。
農民の負担を軽減し、国の税収を確保したのです。

②国防より国力回復を優先
当時、日本は新羅と緊張関係にあり、有事に備えて国家の軍事組織・軍団が全ての国に置かれていました。
軍団の兵士には、農民が徴用されていましたが、諸兄は、軍事上重要な地点以外は兵士徴用を廃止します。
対外関係よりも、疲弊している国内を元に戻すことを優先したのです。
兵士は租税を免除されますが、農民に戻れば租税を負担しなければなりません。
労働人口を増やし、余った租税を確実に確保したのです。

③行政のスリム化
当時、地方の行政組織は、国→郡→郷→里の4つに区分されていましたが、諸兄は里を廃止し、行政の簡素化を図りました。
また、地方行政は、朝廷から派遣された国司と地方官の郡司の二重構造でしたが、そこにもメスを入れます。
郡司の定員を削減し、国司の裁量を大きくしました。
郡司の力を削いでいくことによって、国司が直接全国各地を押さえられるように・・・
二重の複雑な支配体制から、一重のスリムで目の行き届く体系に変化させていきました。
聖武天皇と橘諸兄の推し進める政策により、国力は徐々に回復していきました。

しかし・・・パンデミックがおさまって3年後の740年10月・・・聖武天皇は不思議な行動に。

”朕 思うところにより しばらく関東へと赴く
 やむを得ぬ事情がある”

多くの臣下と共に、平城京を後にし、東国へと旅立ったのです。
そして、伊勢・美濃・近江など、壬申の乱の際の天武天皇の進軍コースをたどります。
2か月後、平城京の北およそ10キロの地点で立ち止まり、新たな都・恭仁京の造営を宣言しました。
これまで天皇のこの行動は、九州で巧妙皇后の甥である有力貴族・藤原広嗣が反乱を起こしたことがきっかけといわれてきました。
しかし、近年の発掘調査で新たな発見がありました。
恭仁京遷都の数日前に天皇が立ち寄った場所から、床面積250㎡の宮殿跡が見つかったのです。
この建物は、広嗣の反乱の数か月前には建造が始まっていたと考えられます。
恭仁京への遷都は、以前から計画していた可能性が出てきました。

平城京の嫌な出来事から、どうにか避けたい・・・忌み避けるという気持ちが聖武天皇にはありました。
新しいところに移りたいという考えが・・・恭仁京に移るということを相談に乗り、積極的に推進したのが橘諸兄でした。
恭仁京は、橘諸兄の本貫地でした。

聖武天皇の構想は、恭仁京の造営だけにとどまらず、全国各地に国分寺の造営を命じます。

”国土に仏の経を流布させれば、四天王が擁護して一切の災いを取り除き、憂愁や疫病も除去する”

仏の力で国を守る「鎮護国家」を目指したのです。

しかし、恭仁京の造営や、国分寺の造営は、莫大な費用と労働力が必要で、人々に新たな負担を強いるものでした。

新都造営と国分寺建立・・・その財源を確保するため、橘諸兄はある政策を考えていました。
土地制度の改革です。
天然痘大流行の90年前・・・蘇我入鹿暗殺で始まった大化の改新。
この改革で掲げられた理念の一つが、
”王族や豪族たちによる土地・人民の所有を廃止する”
でした。
全ての土地と人民は、国家のものとする・・・と定めたのです。
そしておよそ50年後の大宝元年・・・班田収授法が制定されます。
農民ひとりひとりに田を支給して税を徴収するという律令国家の財政の根幹制度でした。
しかし、人口が増加すると、支給する田が不足・・・
およそ20年後、三世一身法を導入、新たに開墾した土地は、三代に限り私有できるとして農地の増加を図ります。
しかし、3代後に国に土地を取られてしまうため、農民には不評で農地の増加ははかばかしくありませんでした。
税収を増やしようがなかったのです。

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天然痘の問題で国民が3割近くなくなっている・・・税収が上がらない・・・経済的に逼迫した状況で、それを解決するのが、橘諸兄の至上命題でした。

聖武天皇が推し進めようとしている巨大事業を実現するには、農地増加による税収の増加が不可欠でした。
その為には、開国する者に強力な開発意欲が必要でした。
開墾した土地には所有を認めるという制度を導入すれば、おのずと農地が増え、そこからの税収も増えるはず・・・
しかし、それは、土地と人民は国家のものという大化の改新以来の国づくりの考え方を捨てることを意味していました。

国家の原則を変えない??それともそれとも変える??

743年墾田永年私財法・・・新たに開墾した土地は、永久に自分のものにしていいというものでした。
橘諸兄は、聖武天皇に進言し、”国家の原則を変える”を選んだのです。
従来、この法令で土地の私有を認めたことが、律令体制崩壊の一員となったとされてきました。
しかし、もっと積極的な意味があったと考えられています。
私有といっても、国がその土地を支配できなくなるわけではありません。
国は、確実な租税がとれればいいのです。
私有を認めることで、くにのざいせいは逆に潤いました。
古代国家の基盤を安定させた非常に重要な政策でした。

墾田永年私財法が発令して数か月後、743年7月に聖武天皇は恭仁京の離宮として造営された紫香楽宮に行幸。
この地に、巨大な廬舎那仏を造立する計画を打ち出します。

”仏教の威力と霊力によって、天地が萬代まで安泰になり、生けるものすべてが栄えんことを望む”

この行幸に、橘諸兄は同行していません。
一説には、諸兄は大仏造立の詔に関与しておらず、大仏造立には積極的ではなかったといいます。
それには訳がありました。
後に廬舎那仏は、奈良の大仏として平城京で造営されますが、大仏と大仏殿の建造費は、今の勝ちにして4657億円だといわれています。

疫病の大流行から、経済的にも立ち直りつつある状況で、国費を大きく消耗する大事業”大仏造立”について橘諸兄は疑問に思い、大変だと、困ったことだと考えていました。
橘諸兄の思いをよそに、紫香楽宮では大仏造立の準備が進められていきました。

しかし、745年4月、異変が起きます。
紫香楽宮の周囲で山火事が頻発、大仏づくりに不満を抱く者たちの方かといわれています。
混乱の解決を求める貴族達から閉胸教に戻ろうという声が出始めます。
さらに・・・推定M7.9の大地震が起き、地震は畿内一帯に大きな被害をもたらしました。
この地震を天の意思と感じた聖武天皇は決断を下します。
平城京に戻ることを決めたのです。

”大仏を紫香楽でなく平城京に戻って作ってはどうですか”by橘諸兄

”平城京で大仏を造る”と進言して、聖武天皇の説得に橘諸兄は成功しました。

745年5月、聖武天皇は平城京に戻り、平城京は再び都となりました。
聖武天皇が目指す大仏造立は、都の東のはずれで再開されました。
そして・・・752年4月・・・大仏開眼供養会・・・日本書紀が記す仏教伝来の年から200年、盛大に行われました。
1万人もの僧侶が見守る中、高さ16mの大仏に命が吹き込まれました。
それはまさに、仏によって全ての災いから守られる国家の実現でした。

しかし、一方で、都や大仏の大規模な建設工事に動員された農民の負担が激増・・・
平城京内では、浮浪者や餓死者が後を絶たなかったといいます。
大仏の開眼法要の4年後、聖武天皇は55年の生涯を閉じます。
翌年の757年、橘諸兄もこの世を去りました。
理想のために、民の力を使い尽くす聖武天皇に橘諸兄は如何なる思いを抱いていたのでしょう。
それを語るものは何も残っていません。

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【中古】聖武天皇と仏都平城京 (天皇の歴史)/吉川真司【著】/講談社
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歴史上、日本を襲った数々の感染症・・・天然痘・コレラ・赤痢・インフルエンザ・・・
幕末から明治にかけて感染症の克服に尽力した3人とは・・・??
彼等の志は、現代の危機に何を問いかけるのか・・・??

緒方洪庵「実学の精神」を語る 「適塾」指導者による新・教育論 幸福の科学大学シリーズ / 大川隆法 オオカワリュウホウ 【本】

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①蘭方医・緒方洪庵・・・挑んだのは、江戸時代多くの人命を奪った天然痘です。
洪庵は、西洋伝来の予防法を広めようとしますが理解されず、誹謗中傷に晒されます。

「新しい知識で人々の命を救いたい!!」

洪庵を支えた信念とは・・・??

江戸時代、経済の発展と共に、都市に大勢の人が集まりました。
18世紀前半には、江戸の人口は100万に達したと言われ、大坂や京都でも過密化が進みました。
そうした中、ある疫病が毎年のように流行し、人々の命を脅かすようになっていました。
天然痘(疱瘡)です。
当時、放送と言われたこの病は、子供を中心に流行しました。
体のあちこちに水泡ができ、数日のうちに化膿・・・その後、水泡が内臓にまで広がり肺を損傷・・・10人のうち3人が死に至る恐ろしい病でした。
江戸時代の人々は、天然痘にどのように対処していたのでしょうか?
天然痘が出た家には、赤いものを送る風習がありました。
一体どうして・・・??
みんなが天然痘にかかる・・・しかも、子供のうちにかかる・・・もう生まれながらにして天然痘の毒を内蔵に抱えているんだろう。
だから、毒をうまく引き出すためには赤色(痘)は、赤色を好むだろうから赤をうまく引き出そうとしたのです。
赤い絵には体の中の毒を外に出す力がある・・・人々は、病除けのまじないにすがるしかなかったのです。
そんな天然痘への対策に、革命を起こす人物が現れました。
大坂・適塾!!
日本随一の蘭学塾として知られ、西洋の先進的な学問を学ぼうと各地から若者たちが集まりました。
大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉・・・日本の近代化を導く逸材たちが巣立っていきました。
この適塾を開いたのが、緒方洪庵です。
蘭学者であり、有名な町医者でもありました。
ある日洪庵は、オランダの医学書の翻訳を読み、西洋に天然痘の効果的な予防法があることを知ります。
牛痘の接種です。
牛痘は、牛に感染する病気ですが、人にも感染し、軽い症状を起こすことがあります。
そのウィルスが天然痘のウィルスとよく似ているため、予め牛痘を接種すると天然痘に対する予防ができました。
世界初のワクチンでした。
牛痘の接種は、ヨーロッパやアメリカで広がっていたものの、日本には伝わっていませんでした。
牛痘の海に含まれるウィルスが、長い船旅の間に感染力を失ってしまうからでした。

1849年、ついに、牛痘の輸入に成功したという知らせが・・・!!
洪庵はすぐに牛痘を手に入れた福井藩の医師・笠原良策に面会、人命を救うために牛痘を分けてほしいと頼みました。
しかし、笠原は、「藩に持ち帰るための物だから渡せぬ」と断ってしまいました。
日本全土から放送を根絶しなければという発想がなかったのです。
洪庵の考えは違いました。
”命を救う治療法は、全ての人に施されるべき”
洪庵の必死の頼みに笠原も折れ、牛痘を分けました。
洪庵は、この牛痘を全国に広める決意をします。

まず大阪に除痘館を作り、牛痘接種・種痘をはじめます。
しかし、大坂市中に噂が広がります。

”牛痘を接種すると子供たちが牛の体になる
 洪庵のもとで治療を受けれはいけない”

当時の庶民にとって、西洋医学は得体のしれない妖術のようなものでした。
結果、だれも洪庵の種痘所に寄り付かなくなってしまいます。
おまけに洪庵を悩ませたのは、牛痘の保存でした。
感染力を保ったまま、牛痘を維持していくことは、当時の医療技術では難しいことでした。
当時は、子供から子供へうつしていくしか、長期に維持していくやり方がなかったのです。
子供に牛痘を植えて、4日~1週間で膿が出てきたときに、その膿の中にウイルスがたくさんいるので、それを取り出して別の子どもに植えていくしかありませんでした。
うまく次の子に行かなかったということも時々起こり、維持がそこで絶えてしまうのです。

洪庵は、生活に困っている人々に米や金を与え、牛痘の維持に協力してくれる子供たちを募りました。
しかし、それが3年も続くと資金は底をつき、仲間たちも彼のもとを去っていきました。
それでも洪庵は諦めませんでした。
やがてその苦労が報われる時が訪れます。
洪庵が牛痘を打った子供は、天然痘にかからない・・・牛痘の予防効果が人々の間で知られ始めたのです。
徐々に種痘をしてほしいという人が除痘館に集まってきました。
洪庵は、どんな思いで種痘に挑んだのでしょうか??

「この事業は、医の仁術としての役割を旨とするのみ
 世のために 新しい種痘法を広めることが目的のため、利益を得ることがあっても己の物とせず、さらに仁術を行う資金とする」by洪庵

洪庵は、その誓いを貫きます。
1858年、除痘館は日本初の幕府公認の種痘所となります。
洪庵は牛痘を各地の医師に分け与え、普及に努めました。
それは全国200か所近くにのぼり、天然痘から人々の命を守る拠点となっていきました。


長与専斎 (長崎偉人伝) [ 小島和貴 ]

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②長与専斎・・・肥前国大村藩の生まれ
16歳の時、医者だった祖父の勧めで適塾に入門します。
緒方洪庵の薫陶を受けながら、当時最先端の蘭学や医学を学びました。
明治維新後は、文部省に入省・・・岩倉使節団に加わり海外視察の任務にあたります。
欧米諸国の医学制度を学ぶことが目的でした。
しかし、現地で専斎はあることに気付き、強い衝撃を受けます。
自伝の中で彼はこう語っています。

「諸外国には国民一般の健康保護を担当する特殊な行政組織があることを発見した」

国が土地を清潔に保ち、食べ物や薬の品質を管理し、貧しい人の救済をする・・・
医者だけでなく、行政も国民の健康を守るというのです。
それは、当時の日本にはない考えでした。
江戸時代から行われていた養生という取り組みはありました。
養生は、住民自身が自分で健康管理を行うところが特徴で、行政が幕府の責任で住民の健康を管理する行いはありませんでした。
日本が近代国家になるためには、この仕組みを作らなければならないと、日本に導入しようとします。

帰国した専斎は、ある法令をまとめています。
現代の医学制度の原点と言われている「医制」です。
この医制の中に、専斎は日本の行政支城画期的な言葉を記しました。
”衛生”・・・新たな健康保護事業を衛生と名付けたのです。
そして1875年、内務省衛生局創設。
専斎は、その初代局長となりました。

1877年7月・・・専斎に大きな試練が・・・!!

”清国の厦門でコレラが流行している
 船に乗って日本にやってくるかもしれない” 

コレラは、当時日本人が最も恐れた感染症でした。
コレラは観戦すると激しい下痢症状に襲われ、2.3日でバタバタとひとが死んでいきます。
三日コロリともよばれた恐怖の疫病でした。
もし、再び日本で流行すれば、とんでもない事態となります。



専斎は、早速対策に着手します。

まずおこなったのは、コレラへの予防対策の徹底・・・
その中で専斎は、開港検疫の規則を定めました。
水際で、コレラの流行を食い止めようとしたのです。
しかし、ことは思うように進みません。
外国船が検疫を拒否・・・
幕末に、欧米列強と結んだ不平等条約があったため、日本には外国船を取り締まる権限がなかったのです。
そんな中、9月5日、海の玄関口・横浜で最初のコレラ患者が・・・!!
翌6日には、長崎で患者が発生!!
おりしもその時、九州では西南戦争が行われていました。
勝利した官軍の兵士たちが、鹿児島から神戸へと帰還する船の中でも新たなコレラ患者が見つかります。
神戸につくと、兵士たちは検疫官の制止を振り切り、次々と上陸します。
9月には82人だった大阪・兵庫の感染者は、10月には2223人に膨れ上がりました。
専斎は、各市町村に患者と死亡者の数を届けるよう求めていました。
統計をとることで、流行地域を把握し、拡大を防ごうとしました。
さらに、避病院という隔離病院を設け、感染した患者を隔離しました。
患者の出た家には、「コレラ伝染病あり」と書いた紙を門戸に貼り、近所の人に注意を促しました。
しかし・・・この対策に人々は反発します。

衛生の知識というのは、住民に浸透することが非常に重要ですが、なかなか浸透しません。
隔離される意味が住民には伝わらないので、自分達が患者を出した家であると知られたくないために隠蔽行動に出たりしていました。

町や村では警察を動員して隔離を徹底しようとしましたが、人々は抵抗し、警察所を襲うこともありました。
わずか3か月で流行は広がり、この年のコレラ感染者数13,816人、死者8,027人に及びました。
コレラ蔓延を防ぐために、衛生意識を高めるためにはどうすればいいのか??

流行の後も、コレラは日本を襲い続けます。
特に1879年の流行は、甚大な被害を出し、死者は10万人にも及びました。
衛生局がこれらの対策を練っても、人々は隔離を恐れ、患者を隠蔽してしまう・・・
どうすればいいのか・・・??
専斎は、一つの結論に達します。

「人民の側に立ち、その裏側に入り、懇ろに理義を説き諭すことが必要だ」

庶民の事情にも耳を傾け、じっくり話し合い、粘り強く国民の衛生意識を高める必要があると考えたのです。
1883年、専斎は、大日本私立衛生会設立。
政府要人や衛生局の官僚に加えて、民間からは医者や学者、実業家らが参加しました。
最盛期には会員は総勢6500人に達し、衛生をめぐる活発な議論が行われました。
その成果を社会に還元していくことも重要な務めでした。
毎月発行された会の機関誌には、日本の衛生に関する様々な意見や主張が掲載されました。
食事や運動、衣服の選び方まで新しい時代の衛生的な暮らしを官と民が一緒になって議論しました。
様々な方法で衛生意識の普及がなされました。

専斎は、衛生の知識をわかりやすく人々に伝えました。
国が強制するのではなく、民衆が理解し、自ら実践する自治衛生を目指したのです。
議論の中で特に大きく取り上げられたテーマは・・・飲料水の問題でした。
当時、都市部の人口増加に伴い、飲み水となる井戸水の汚染が大きな問題となっていました。
一方、その頃コレラ菌が発見され、コレラ流行の主な原因が汚染された水だとわかってきました。

近代的な上下水道を作ることが急務でした。
しかし、工事には莫大な予算がかかるため、反対意見も多かったのです。
そこで専斎は、ある物を作りました。
それは今も東京・神田の地下に眠っています。
神田下水・・・専斎は、全長4キロの小さな下水道を作り、その効果を目に見える形で示したのです。
雨水や生活排水を下水に流すことで、飲料水の汚染を減らすことが出来ると証明しました。
さらに専斎は、粘り強く政府と交渉し、東京の上水道施設計画を作り上げました。
すると他でも賛同され、水道工事が全国に広まっていきました。
それぞれ完成した水道は、地元の住民たちの協力によって維持され守られました。
行政と民間が連携して実現する自治衛生・・・それは、専斎はがこれらとの戦いの中から生み出したものでした。

文庫 後藤新平 日本の羅針盤となった男 (草思社文庫) [ 山岡淳一郎 ]

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③後藤新平・・・もともと福島の医学校を卒業し医師として働いていました。
その能力を専斎に見いだされた後藤は、内務省衛生局に入り、局長・専斎の懐刀として活躍しました。
やがて後藤は最大の感染症危機に挑むこととなります。

1895年、前年に始まった中国との日清戦争は日本の勝利で終わろうとしていました。
相次ぐ戦勝に湧く一方、衛生環境の悪い戦地では日本兵が次々と感染症に倒れていました。
戦争が終わり、20万もの兵士が一斉に帰還すれば、未曽有の感染症流行の恐れがありました。
そのことに気付いた政府は、急遽水際での大規模な検疫計画を決定します。
その陣頭指揮を任されたのが後藤新平でした。
しかし、これほど大規模な検疫を日本は経験したことが無い・・・

後藤が任務に就いたのは、4月1日・・・大陸から兵士たちが帰還するまでわずか3か月・・・時間がありませんでした。
瀬戸内海とその近隣の島で検疫を行うことが決定され、検疫所の建設に取り掛かりました。
しかし、2週間後、後藤を追い込む事態が起きます。
4月17日、清との間に講和条約が結ばれ、兵士たちの帰還がさらに1か月早まることとなったのです。
余りにも時間がない・・・しかし・・・

「予定を繰り上げ6月1日に検疫を開始する!!」

兵士たちを1か月待たせてその港で大きな感染が広まってしまうことを恐れたのです。
感染拡大を食い止めることに努力するか、放置してそのまま蔓延を招いてしまうか・・・??
後藤新平自身、それをよくわかっての突貫工事でした。

1か月後・・・似島検疫所・・・出来た建物は401棟・・・そこに、電気、電話の設備を引き、検疫に使う全ての備品を運び込みました。
6月1日、次々と兵士たちを乗せた帰還船がやってきました。
実際の検疫に当たって後藤は綿密な計画を立てていました。
まず沖に停泊させた船に検査を担う検疫兵が入り、患者の有無を確認します。
患者が居れば、すぐに病院に搬送し、隔離します。
症状なしと確認された兵士は陸に上がり消毒されます。

荷物も預け、荷物が液体消毒されます。
脱衣所と浴室で消毒液の入った風呂に浸かり、身体から菌を取り去ります。
彼等が休憩する間に、大量の服は巨大蒸気消毒缶で消毒します。
消毒された衣服は、入れた場所と反対側の方向から出てきます。
注目すべきはルート・・・
後藤は、消毒されているものとされていないものとを決して一緒にならないように計算してこの建物を設計させていました。
患者と接触した可能性のある兵士は停留・・・毎日診察を受けさせました。
最大、9日間止まらせることが可能でした。
完璧に思われた計画・・・しかし、実際に検疫が始まると次々に予想を超えた事態が押し寄せました。

6月29日に帰ってきた白山丸は、航海中に72人のコレラ患者となっていました。
上陸後、なんとか患者を隔離したものの、症状のなかった乗組員たちもあとから次々と発症・・・
検疫所は大混乱となりました。
想像を絶する日々の中、検疫兵も無事では済まされません。
感染し、死んでいった者・・・53人・・・。

後藤は43日間寝床に入らず、検疫の指揮を執ったともいわれています。
上司に出した手紙に、その覚悟を語っています。

「検疫は一つの戦争です
 戦争で銃弾に倒れる者よりも、疫病に倒れる者の方が多いのが明らかです
 検疫兵にはすべて戦地同様の給与待遇を与えることをお願い申し上げます」

そして、遂に検疫は終了しました。
4か月で23万もの帰還兵を検疫・・・コレラ、赤痢、腸チフス、天然痘、あわせて996人の患者を隔離しました。
もし、兵士たちが十分な検疫なしに日本に入っていたら大惨事となっていたでしょう。
この大規模な検疫の成功は、海外にも伝えられ各国を驚かせます。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はこんな言葉を送ったといいます。

「検疫では我が国は世界一だと思っていたが日本の権益には負けた」

この4年後、幕末以来の不平等条約が一部解消され、開港検疫法に基づき、日本が外国船を検疫することが正式に認められました。
日本は衛生国家として大きな一歩を踏み出したのです。


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絵でわかる感染症 with もやしもん (KS絵でわかるシリーズ) [ 岩田 健太郎 ]

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