今から1800年以上前の弥生時代・・・日本は倭国と呼ばれていました。
クニと呼ばれるいくつもの小国からなっていましたが、長い間内乱が続いていました。
それを治め、統治したのが卑弥呼だと言われています。
卑弥呼は邪馬台国の女王で、シャーマンのような呪術を使った・・・
古代史の謎の一つ・・・卑弥呼とは何者だったのか??
卑弥呼は日本の歴史書には一切登場しません。
その名が最も古く書かれているのは中国の正史「三国志」。
65巻に及ぶその歴史書の一部、「魏書東夷伝 倭人の条」・・・いわゆる「魏志倭人伝」です。
3世紀後半に中国の歴史家によって書かれたもので、その内容は2000字ほど。
”その国本また 男子を以て王となし
住まること七、八十年 倭国乱れ 相攻伐すること暦年
即ち共に 一女子を立てて王となす
名付けて卑弥呼という”
つまり、魏志倭人伝によれば、倭国に何年も続いた内乱を鎮めるために卑弥呼が女王となったというのです。
それはいつ頃のこと・・・??
手掛かりとなるのが、その後5世紀に出た「後漢書」。
”桓霊の間 倭国大いに乱れ 更々相攻伐し 暦年主なし
一女子あり 名を卑弥呼という
ここにおいて 共に立てて王となす”
注目するのは”桓霊の間”・・・この時期倭国が乱れていたとあります。
この時期は・・・中国の皇帝桓帝、霊帝の時代でAD147年~184?年・・・2世紀の中ごろから後半のことです。
倭国を構成するクニが共に卑弥呼を女王として立てたのです。
邪馬台国の女王とは言っていません。
そのクニとは・・・倭国。。。つまり、連合国家・倭国の女王で、邪馬台国は倭の女王・卑弥呼が暮らしたクニのことです。
つまり・・・
・2世紀後半の人物
・倭国の女王
・倭国内の邪馬台国の王宮で暮らした
と思われます。
”卑弥呼は鬼道に仕え民衆を支配していた”
鬼道こそが卑弥呼が女王として共立された大きな原因でした。
鬼道とはなんなのでしょう?
鬼籍に入る・・・「鬼」とは死者を意味します。
鬼道とは、死者の霊や先祖の霊と交信する神がかり的な行為でした。
青森のイタコやシャーマンのような霊力のある霊的能力を持って女王となったのです。
祖先崇拝・・・死者の声を聞くことのできる最初の人物で、その特殊能力に畏敬の念を抱き女王としたのです。
卑弥呼の王宮があったとされる邪馬台国・・・その場所はわかっておらず、様々な説が・・・
現在有力とされているのが、畿内説と九州説です。
それぞれで主張されている場所は・・・
畿内説での最有力候補は奈良県桜井市”纏向遺跡”です。
南北1.5キロ・東西2キロの巨大な遺跡で、広さはもちろん九州から関東に至る土器が多数出土しています。
そのことからここが当時の日本の交易の中心だったと考えられ、邪馬台国の都ではないかと言われてきたのです。
さらに、平成21年には、3棟の大型建物群の柱の跡が見つかりました。
最も大きな建物で、南北19m・東西12m・・・卑弥呼の時代、国内最大級の建物がここにあったのです。
魏志倭人伝には、卑弥呼の王宮についてこう書いています。
”宮室 楼観 城柵 厳かに設け”とあります。
この宮室に当たるのが、大賀建物群ではないか?と言われています。
しかし、纏向遺跡では、楼観、城柵のようなものが見つかっていません。
九州説は・・・??
佐賀県にある吉野ケ里遺跡です。
日本最規模を誇る弥生時代の集落跡で、現在は98棟の建物が再現されています。
その中の大きな建物が”宮室”ではないか?と考えられてきました。
さらに、平成11年の発掘で、吉野ケ里遺跡最古の堀の跡が見つかり、ここに纏向遺跡では発見されていない巨大な環濠のあることがわかりました。
その堀に沿って城柵があると推測されています。
楼観・・・物見やぐらのあったこともわかりました。
それは、魏志倭人伝にある卑弥呼の王宮そのものでした。
しかし、その真実はわかっていません。
”女王になってから彼女の姿を見るものは少なく、千人の侍女がいたが、飲食の世話などは一人の男子が行っていた”
卑弥呼の食べていたものは・・・??
炊き込みご飯、隊の塩焼き、サトイモ・タケノコ・豚肉のあわせ煮、蛤とイイダコのワカメ汁、ショウサイフグの一夜干しなど・・・フグには毒がありますが、この時代からすでに食べられていました。
中国の歴史書の中にしかない卑弥呼・・・
別の名で日本の歴史書にあるのでは・・・と、古事記や日本書紀で探ろうとしたのですが・・・??
江戸時代の朱子学者・新井白石が唱えたのが、第14歳仲哀天皇の皇后・神功皇后です。
・神功皇后説
神功皇后・・・白石はあるエピソードに注目します。
神功皇后は、仲哀天皇と九州での戦いに向かった際、「海の向こうの宝の国(新羅)を討て」との神の託宣を聞きました。
しかし、戦いで帝が命を落としてしまったため、皇后は身重の体でありながら武装、朝鮮半島に攻め込み、凱旋後には出産した皇子・後の応神天皇の代わりに政を行った。
神のお告げを聞くことができ、自ら戦い、政を行うその姿が重なると考えたのです。
・熊襲の女説
同じ江戸時代、国学者の本居宣長は、卑弥呼=神功皇后としながら・・・
魏に使者を送ったのは、卑弥呼と偽った熊襲の女首。
熊襲とは、ヤマト政権に服属しなかった九州南部の部族です。
その女首長が自分が卑弥呼と偽って手紙を送ったというのです。
魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は偽物だったというのです。
・天照大神説
戦前に活躍した東洋史学者の白鳥庫吉は、著書の中で天照大神こそ卑弥呼であると唱えます。
古事記には、太陽を司る天照大神が天岩戸に引きこもったことで世界が闇となり災いが発生したとあります。
天岩戸伝説です。
卑弥呼が亡くなる前に、日食が起こりました。
月によって太陽が隠され、光が失われていくさまが、天岩戸伝説と重なるというのです。
・倭迹迹日百襲姫説
第七代孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫です。
日本書紀に・・・
崇神天皇の時代、疫病が蔓延し、国の民の半分が失われ・・・帝は当惑し、天照大神を祀ったものの一向に良くならず・・・。
皇族の年配者である倭迹迹日百襲姫に相談したところ、大物主神がつきこう助言します。
「我のことを祀りなさい」
さらに、大物主神は我が子の祀らせよと伝えました。
大物主神とは、人間との間にできたこのことで、天皇はすぐにその子を探し出し、祀らせました。
すると・・・たちまち疫病がおさまったといいます。
大物主神は、祖先神的な要素の強いため、これを呼び出すことのできるものが卑弥呼では??
卑弥呼が軌道を使い、祖先神の声を聴いたように、倭迹迹日百襲姫も祖先神である大物主神と交信できる力を持っていました。
そのことから二人は同一人物ではないか?と言われるようになりました。
最近では倭迹迹日百襲姫が有力ですが、決め手となる証拠は見つかっていません。
魏志倭人伝の中の一節・・・
”年すでに長大なるも 夫婿無し 男弟あり 佐けて国を治む”
卑弥呼は女王になった時、すでに年を取っており、夫はおらず弟に助けてもらいながら国を治めていたといいます。
しかし、弟が補佐していたという説に異を唱える人も・・・
卑弥呼は女王ではない??
卑弥呼の時代前後に、女王はいなかった・・・??
卑弥呼のみが女王というのはおかしい・・・??
卑弥呼という名は、古代中国人が倭人が話すヒミコという音に漢字をあてたと思われます。
古代で言えば”ヒメミコ”なのでは・・・??
ヒメミコ・・・「ヒ」とか特殊な霊力を持った女性・「ミコ」は高貴な人(皇族)の子どもを示したのでは・・・??
よってヒメミコは、霊力を持った少女という意味で、人名ではなく地位の称号ではないのか?ということです。
ヒメミコと名乗る女性は、同時期にたくさん存在すると思われるのです。
女王の称号としてはふさわしくない・・・??
なので、卑弥呼は女王ではなく、男弟が倭国王で卑弥呼はその補佐をしていたのでは・・・??というのです。
では、どうして卑弥呼が倭国の女王ということになっているのでしょうか?
倭国が中国から遠く離れていたので単純に間違えた??
古くからの伝承で・・・”東海の果てに女国がある”とあるので、魏志倭人伝の著者がその国だと思うそうした??
古代中国の思想で・・・中華思想によって女王卑弥呼が作り出されたのでは??
男性が長く国を治めてきた中国・・・人々は女性が政治に介入することをひどく嫌い、辺境の地にはそんな野蛮な国があると思っていました。
そうした思想から、海の向こうの倭国もまた、女王が治める魏よりも劣った野蛮国であると思った可能性があるのです。
卑弥呼が必ずしも魏志倭人伝の通りに女王であった可能性だけではなく、色々な可能性があるのです。
247年・・・卑弥呼は亡くなったとされています。
しかし、そこにはなぜ、どのようにして亡くなったのかが詳しく書かれていません。
卑弥呼の死の真相とは・・・??
・暗殺説
魏志倭人伝によると、卑弥呼は亡くなる直前、狗奴国と戦争していたといいます。
苦戦をしていた卑弥呼は、魏に応援を要請するも、大敗・・・
卑弥呼に従っていた国々は、「戦いに敗れたのは、卑弥呼が神の声を聞き誤ったからだ」として暗殺した?
しかし、狗奴国に敗れたとは考えにくく、敗戦の責任で暗殺されたとは考えにくい。
・生贄説
卑弥呼が亡くなる前、日食が起こったと言われています。
当時の人々にとって、日食は悪い前兆であり、政を行うもののせいだという考えがありました。
そこで、卑弥呼が日食の責任を取った??
・自然死説
魏志倭人伝には、倭国と狗奴国が戦争をしていたのは247年とあります。
しかし、その後の卑弥呼の死や後継者争いについて年代が書かれていません。
卑弥呼は狗奴国の戦いに勝った後も生きていて、自然死した可能性があるのです。
・戦死説
王宮に籠り、戦場に赴くことなどなかったはずの卑弥呼が戦死・・・??
祖先崇拝を維持していくためには、始祖という偉大な祖先が必要です。
卑弥呼は国をまとめて平和を作った偉大な祖先に近い・・・自らが死ぬことで、偉大な祖先神になろうとした??
そんな時、戦いの場が死にやすかった・・・??
そんな卑弥呼の墓は・・・??
畿内説・纏向遺跡の中にある箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の墓だと伝えられています。
倭迹迹日百襲姫=卑弥呼・・・??
箸墓古墳は、全長300m、高さ30mという巨大な前方後円墳で、公演部分の直系が150m・・・魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の大きさは、直径百余歩とされています。
1歩は1.44mなので、同じ150mになります。
平成21年、箸墓古墳に発見された土器から3世紀の中頃ものだということがわかりました。
卑弥呼が亡くなったも、まさに3世紀!!
箸墓古墳は、偉大なる祖先神を祀るために造られたもの・・・??
それは祖先神の始祖になろうとした卑弥呼に相応しく、衣装を身にまとった姿を模した墓にしている??
九州説
吉野ケ里遺跡からおよそ40キロ・・・平原遺跡にある弥生時代終末期に作られたとされる古墳一号墓。
一変がおよそ12mの四隅が丸い長方形の墓に木簡が埋葬されていました。
その周囲から発見されたものの中には耳當と呼ばれるピアスが。。。
埋葬された人物が女性だったことがわかります。
そして木棺の周りから40枚もの銅鏡が・・・意図的に割られており、埋葬されたのは呪術を操る強い力を持った人物で、その力を封印する為に祭事に使う道教が割られたのではないか??
一号墓は女性で強い霊力を持ったその時代のものだと言われるようになります。
もう一つは・・・福岡県・久留米市にある祇園山古墳です。
根拠としているのは、魏志倭人伝の卑弥呼の墓について書かれている部分・・・
”埋葬する者 奴婢百余人”です。
卑弥呼は殉死した100人ほどのものと一緒に埋葬されたとあるのです。
祇園山古墳には、中心の埋葬施設の周りにいくつもの埋葬施設があるからです。
さらに古墳の形・・・上から見ると円の中心が四角いものの、周りは丸くなっています。
その形が方格規矩鏡と似ているのです。
そしてその方格規矩鏡には四神(玄武・白虎・朱雀・青龍)が書かれているので、宗教的な儀式に使われたとされています。
卑弥呼にとって慣れ親しんだ鑑だったので、墓の形として採用したのでは??
魏志倭人伝には、卑弥呼の死後、男性が王になったものの再び混乱が起きてしまったとあります。その後を受け継いだのが、わずか13歳の少女でした。
これによって倭国はまた平和を取り戻しました。
しかし、その後、中国の歴史書から邪馬台国の記述は消え、卑弥呼の名と共に歴史の闇に包まれてしまうのです。
謎多き卑弥呼・・・いったい何者だったのでしょうか。
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クニと呼ばれるいくつもの小国からなっていましたが、長い間内乱が続いていました。
それを治め、統治したのが卑弥呼だと言われています。
卑弥呼は邪馬台国の女王で、シャーマンのような呪術を使った・・・
古代史の謎の一つ・・・卑弥呼とは何者だったのか??
卑弥呼は日本の歴史書には一切登場しません。
その名が最も古く書かれているのは中国の正史「三国志」。
65巻に及ぶその歴史書の一部、「魏書東夷伝 倭人の条」・・・いわゆる「魏志倭人伝」です。
3世紀後半に中国の歴史家によって書かれたもので、その内容は2000字ほど。
”その国本また 男子を以て王となし
住まること七、八十年 倭国乱れ 相攻伐すること暦年
即ち共に 一女子を立てて王となす
名付けて卑弥呼という”
つまり、魏志倭人伝によれば、倭国に何年も続いた内乱を鎮めるために卑弥呼が女王となったというのです。
それはいつ頃のこと・・・??
手掛かりとなるのが、その後5世紀に出た「後漢書」。
”桓霊の間 倭国大いに乱れ 更々相攻伐し 暦年主なし
一女子あり 名を卑弥呼という
ここにおいて 共に立てて王となす”
注目するのは”桓霊の間”・・・この時期倭国が乱れていたとあります。
この時期は・・・中国の皇帝桓帝、霊帝の時代でAD147年~184?年・・・2世紀の中ごろから後半のことです。
倭国を構成するクニが共に卑弥呼を女王として立てたのです。
邪馬台国の女王とは言っていません。
そのクニとは・・・倭国。。。つまり、連合国家・倭国の女王で、邪馬台国は倭の女王・卑弥呼が暮らしたクニのことです。
つまり・・・
・2世紀後半の人物
・倭国の女王
・倭国内の邪馬台国の王宮で暮らした
と思われます。
”卑弥呼は鬼道に仕え民衆を支配していた”
鬼道こそが卑弥呼が女王として共立された大きな原因でした。
鬼道とはなんなのでしょう?
鬼籍に入る・・・「鬼」とは死者を意味します。
鬼道とは、死者の霊や先祖の霊と交信する神がかり的な行為でした。
青森のイタコやシャーマンのような霊力のある霊的能力を持って女王となったのです。
祖先崇拝・・・死者の声を聞くことのできる最初の人物で、その特殊能力に畏敬の念を抱き女王としたのです。
卑弥呼の王宮があったとされる邪馬台国・・・その場所はわかっておらず、様々な説が・・・
現在有力とされているのが、畿内説と九州説です。
それぞれで主張されている場所は・・・
畿内説での最有力候補は奈良県桜井市”纏向遺跡”です。
南北1.5キロ・東西2キロの巨大な遺跡で、広さはもちろん九州から関東に至る土器が多数出土しています。
そのことからここが当時の日本の交易の中心だったと考えられ、邪馬台国の都ではないかと言われてきたのです。
さらに、平成21年には、3棟の大型建物群の柱の跡が見つかりました。
最も大きな建物で、南北19m・東西12m・・・卑弥呼の時代、国内最大級の建物がここにあったのです。
魏志倭人伝には、卑弥呼の王宮についてこう書いています。
”宮室 楼観 城柵 厳かに設け”とあります。
この宮室に当たるのが、大賀建物群ではないか?と言われています。
しかし、纏向遺跡では、楼観、城柵のようなものが見つかっていません。
九州説は・・・??
佐賀県にある吉野ケ里遺跡です。
日本最規模を誇る弥生時代の集落跡で、現在は98棟の建物が再現されています。
その中の大きな建物が”宮室”ではないか?と考えられてきました。
さらに、平成11年の発掘で、吉野ケ里遺跡最古の堀の跡が見つかり、ここに纏向遺跡では発見されていない巨大な環濠のあることがわかりました。
その堀に沿って城柵があると推測されています。
楼観・・・物見やぐらのあったこともわかりました。
それは、魏志倭人伝にある卑弥呼の王宮そのものでした。
しかし、その真実はわかっていません。
”女王になってから彼女の姿を見るものは少なく、千人の侍女がいたが、飲食の世話などは一人の男子が行っていた”
卑弥呼の食べていたものは・・・??
炊き込みご飯、隊の塩焼き、サトイモ・タケノコ・豚肉のあわせ煮、蛤とイイダコのワカメ汁、ショウサイフグの一夜干しなど・・・フグには毒がありますが、この時代からすでに食べられていました。
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中国の歴史書の中にしかない卑弥呼・・・
別の名で日本の歴史書にあるのでは・・・と、古事記や日本書紀で探ろうとしたのですが・・・??
江戸時代の朱子学者・新井白石が唱えたのが、第14歳仲哀天皇の皇后・神功皇后です。
・神功皇后説
神功皇后・・・白石はあるエピソードに注目します。
神功皇后は、仲哀天皇と九州での戦いに向かった際、「海の向こうの宝の国(新羅)を討て」との神の託宣を聞きました。
しかし、戦いで帝が命を落としてしまったため、皇后は身重の体でありながら武装、朝鮮半島に攻め込み、凱旋後には出産した皇子・後の応神天皇の代わりに政を行った。
神のお告げを聞くことができ、自ら戦い、政を行うその姿が重なると考えたのです。
・熊襲の女説
同じ江戸時代、国学者の本居宣長は、卑弥呼=神功皇后としながら・・・
魏に使者を送ったのは、卑弥呼と偽った熊襲の女首。
熊襲とは、ヤマト政権に服属しなかった九州南部の部族です。
その女首長が自分が卑弥呼と偽って手紙を送ったというのです。
魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は偽物だったというのです。
・天照大神説
戦前に活躍した東洋史学者の白鳥庫吉は、著書の中で天照大神こそ卑弥呼であると唱えます。
古事記には、太陽を司る天照大神が天岩戸に引きこもったことで世界が闇となり災いが発生したとあります。
天岩戸伝説です。
卑弥呼が亡くなる前に、日食が起こりました。
月によって太陽が隠され、光が失われていくさまが、天岩戸伝説と重なるというのです。
・倭迹迹日百襲姫説
第七代孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫です。
日本書紀に・・・
崇神天皇の時代、疫病が蔓延し、国の民の半分が失われ・・・帝は当惑し、天照大神を祀ったものの一向に良くならず・・・。
皇族の年配者である倭迹迹日百襲姫に相談したところ、大物主神がつきこう助言します。
「我のことを祀りなさい」
さらに、大物主神は我が子の祀らせよと伝えました。
大物主神とは、人間との間にできたこのことで、天皇はすぐにその子を探し出し、祀らせました。
すると・・・たちまち疫病がおさまったといいます。
大物主神は、祖先神的な要素の強いため、これを呼び出すことのできるものが卑弥呼では??
卑弥呼が軌道を使い、祖先神の声を聴いたように、倭迹迹日百襲姫も祖先神である大物主神と交信できる力を持っていました。
そのことから二人は同一人物ではないか?と言われるようになりました。
最近では倭迹迹日百襲姫が有力ですが、決め手となる証拠は見つかっていません。
魏志倭人伝の中の一節・・・
”年すでに長大なるも 夫婿無し 男弟あり 佐けて国を治む”
卑弥呼は女王になった時、すでに年を取っており、夫はおらず弟に助けてもらいながら国を治めていたといいます。
しかし、弟が補佐していたという説に異を唱える人も・・・
卑弥呼は女王ではない??
卑弥呼の時代前後に、女王はいなかった・・・??
卑弥呼のみが女王というのはおかしい・・・??
卑弥呼という名は、古代中国人が倭人が話すヒミコという音に漢字をあてたと思われます。
古代で言えば”ヒメミコ”なのでは・・・??
ヒメミコ・・・「ヒ」とか特殊な霊力を持った女性・「ミコ」は高貴な人(皇族)の子どもを示したのでは・・・??
よってヒメミコは、霊力を持った少女という意味で、人名ではなく地位の称号ではないのか?ということです。
ヒメミコと名乗る女性は、同時期にたくさん存在すると思われるのです。
女王の称号としてはふさわしくない・・・??
なので、卑弥呼は女王ではなく、男弟が倭国王で卑弥呼はその補佐をしていたのでは・・・??というのです。
では、どうして卑弥呼が倭国の女王ということになっているのでしょうか?
倭国が中国から遠く離れていたので単純に間違えた??
古くからの伝承で・・・”東海の果てに女国がある”とあるので、魏志倭人伝の著者がその国だと思うそうした??
古代中国の思想で・・・中華思想によって女王卑弥呼が作り出されたのでは??
男性が長く国を治めてきた中国・・・人々は女性が政治に介入することをひどく嫌い、辺境の地にはそんな野蛮な国があると思っていました。
そうした思想から、海の向こうの倭国もまた、女王が治める魏よりも劣った野蛮国であると思った可能性があるのです。
卑弥呼が必ずしも魏志倭人伝の通りに女王であった可能性だけではなく、色々な可能性があるのです。
247年・・・卑弥呼は亡くなったとされています。
しかし、そこにはなぜ、どのようにして亡くなったのかが詳しく書かれていません。
卑弥呼の死の真相とは・・・??
・暗殺説
魏志倭人伝によると、卑弥呼は亡くなる直前、狗奴国と戦争していたといいます。
苦戦をしていた卑弥呼は、魏に応援を要請するも、大敗・・・
卑弥呼に従っていた国々は、「戦いに敗れたのは、卑弥呼が神の声を聞き誤ったからだ」として暗殺した?
しかし、狗奴国に敗れたとは考えにくく、敗戦の責任で暗殺されたとは考えにくい。
・生贄説
卑弥呼が亡くなる前、日食が起こったと言われています。
当時の人々にとって、日食は悪い前兆であり、政を行うもののせいだという考えがありました。
そこで、卑弥呼が日食の責任を取った??
・自然死説
魏志倭人伝には、倭国と狗奴国が戦争をしていたのは247年とあります。
しかし、その後の卑弥呼の死や後継者争いについて年代が書かれていません。
卑弥呼は狗奴国の戦いに勝った後も生きていて、自然死した可能性があるのです。
・戦死説
王宮に籠り、戦場に赴くことなどなかったはずの卑弥呼が戦死・・・??
祖先崇拝を維持していくためには、始祖という偉大な祖先が必要です。
卑弥呼は国をまとめて平和を作った偉大な祖先に近い・・・自らが死ぬことで、偉大な祖先神になろうとした??
そんな時、戦いの場が死にやすかった・・・??
そんな卑弥呼の墓は・・・??
畿内説・纏向遺跡の中にある箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の墓だと伝えられています。
倭迹迹日百襲姫=卑弥呼・・・??
箸墓古墳は、全長300m、高さ30mという巨大な前方後円墳で、公演部分の直系が150m・・・魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の大きさは、直径百余歩とされています。
1歩は1.44mなので、同じ150mになります。
平成21年、箸墓古墳に発見された土器から3世紀の中頃ものだということがわかりました。
卑弥呼が亡くなったも、まさに3世紀!!
箸墓古墳は、偉大なる祖先神を祀るために造られたもの・・・??
それは祖先神の始祖になろうとした卑弥呼に相応しく、衣装を身にまとった姿を模した墓にしている??
九州説
吉野ケ里遺跡からおよそ40キロ・・・平原遺跡にある弥生時代終末期に作られたとされる古墳一号墓。
一変がおよそ12mの四隅が丸い長方形の墓に木簡が埋葬されていました。
その周囲から発見されたものの中には耳當と呼ばれるピアスが。。。
埋葬された人物が女性だったことがわかります。
そして木棺の周りから40枚もの銅鏡が・・・意図的に割られており、埋葬されたのは呪術を操る強い力を持った人物で、その力を封印する為に祭事に使う道教が割られたのではないか??
一号墓は女性で強い霊力を持ったその時代のものだと言われるようになります。
もう一つは・・・福岡県・久留米市にある祇園山古墳です。
根拠としているのは、魏志倭人伝の卑弥呼の墓について書かれている部分・・・
”埋葬する者 奴婢百余人”です。
卑弥呼は殉死した100人ほどのものと一緒に埋葬されたとあるのです。
祇園山古墳には、中心の埋葬施設の周りにいくつもの埋葬施設があるからです。
さらに古墳の形・・・上から見ると円の中心が四角いものの、周りは丸くなっています。
その形が方格規矩鏡と似ているのです。
そしてその方格規矩鏡には四神(玄武・白虎・朱雀・青龍)が書かれているので、宗教的な儀式に使われたとされています。
卑弥呼にとって慣れ親しんだ鑑だったので、墓の形として採用したのでは??
魏志倭人伝には、卑弥呼の死後、男性が王になったものの再び混乱が起きてしまったとあります。その後を受け継いだのが、わずか13歳の少女でした。
これによって倭国はまた平和を取り戻しました。
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