日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:太原雪斎

今から400年前の日本に、260年もの長きにわたる平和を実現させた人物がいました。
戦国乱世に終止符を打った英雄・徳川家康です。
家康が築いた天下泰平の世・・・この奇跡は”パクス・トクガワーナ”・・・徳川の平和と呼ばれ、世界にも広く知られています。

しかし、家康75年の生涯は、平和とは程遠い、過酷な試練の連続でした。
幼くして父と母を失い、隣国の人質に・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いなど、あまたの合戦を生き抜き、江戸幕府を開府、そして、大坂の陣で天下人となり、その翌年に死を迎えました。
戦国武将の中で、どうして家康だけが長い平和な時代を築くことができたのでしょうか??

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そんな家康の選択のベスト⑩、最強の家臣ベスト⑩とは??

家康の選択10位・・・今川での人質生活
・今川家の人質となった家康は、空気を読み、相手の気持ちを洞察することに長じるようになった。それが後々まで効いてくる。
・少年から青年になるまでの家庭を、当時、東国の都と呼ばれるほど、文化の成熟した駿府で過ごした経験は、家康の自己形成を考えるうえで非常に重要であったと考えられる

徳川家康が今川家に連れていかれたのは8歳の時でした。
人質生活は、それから12年間続きました。
1542年12月26日、三河・岡崎城主・・・松平家の嫡男が産声を上げました。
幼名は竹千代・・・後の家康です。
松平家は、家康の祖父の代に三河全土に勢力を広げた国衆です。
しかし、東を今川、西を織田に挟まれ、どちらからも領地を脅かされる状況にありました。
そんな不安定な環境が、竹千代の成長に大きく影響します。
母・於大の方の実家と松平家の方針の違いによって両親が離縁・・・3歳で母と離れ離れになりました。
さらに8歳の時、父・広忠が家臣に暗殺されます。
その混乱に乗じたのが、駿河・遠江を治める今川家当主・今川義元でした。
義元は、松平家の嫡男・竹千代を人質にとり、三河を実質的に支配するようになります。
今川の本拠地・駿府・・・現在の静岡市で過ごすことになった竹千代・・・
8歳から19歳まで続いた人質生活は、家康の人格形成に多くの影響を及ぼしました。

奈良時代に創建されたと伝わる清見寺は、家康ゆかりの寺です。
幼い家康が、学問に勤しんだとされる三畳の小部屋があります。
教育係を務めたのは、太原雪斎。
僧侶でありながら、今川家を重臣として支えた人物です。
論語、教養の書物、兵法書を学びながら育ちました。
太原雪斎から、儒教の経典である四書五経や、孫氏の兵法などを学んだという竹千代・・・
人質という立場ではあったものの、当代随一の英才教育を施されていました。
しかし、若き当主が不在の中、三河では松平の家臣たちが辛酸をなめる日々を送っていました。
満足な録もえられず、農業をして凌ぐ生活・・・
それでも彼らが松平家を離れることはありませんでした。
ある時、三河をを訪れる機会を得た家康は、家臣たちが畑で土にまみれている姿を目の当たりにします。
すると涙を浮かべ・・・

「私の所領が少ないせいで、家中の皆に辛く苦しい生活を遅らせ申し訳ない」

家臣たちの忠義は、若い家康の心に深く刻み込まれました。

家康の選択9位・・・大坂の陣
征夷大将軍を息子・秀忠に譲り、大御所として君臨していた73歳の家康。
天下統一の総仕上げとして臨んだのが生涯最後の合戦・大坂の陣でした。
大坂城から南15キロの位置に建つ堺にある南宗寺。
この寺に、家康にまつわる奇妙な言い伝えが残されています。
徳川家康の亡骸を、しばらくの間納めていた墓の跡があるのです。
家康の墓・・・家康が亡くなったのは、大坂の陣の翌年、駿府でのハズです。
大坂の陣の時に、家康が後藤又兵衛に槍で刺されて亡くなったことを公表するとまずい!!となり、しばらくの間、寺で預かっていたというのです。
こうした死亡説が残っているほど、家康にとって生きるか死ぬかの瀬戸際だった大坂の陣・・・。
戦いは庶民たちをも巻き込み、両軍合わせて10万の死者を出したともいわれています。

大坂の陣で家康と相対したのは、豊臣秀吉亡き後、逞しく成長していた嫡男・秀頼でした。
戦乱の世に終止符を打つために避けては通れない決戦でした。
しかし、家康の前に、三国無双と称えられた大坂城が立ちはだかります。
台地の北端に建つ城は、三方を川に囲まれた天然の要害で、巨大な惣構えも備えた難攻不落の城でした。
1614年、冬の陣では・・・家康は、総勢20万とも言われる大軍勢で城を包囲します。
しかし、秀頼率いる10万の籠城軍に阻まれ、戦いは膠着。
そこで家康は、一旦秀頼側と和議を結んだ後、城を囲む堀をすべて埋め立て、再び城攻めを行うこととしました。
この策は、後の記録によれば、家康も参陣した小田原攻めの秀吉を真似た策だと言われています。
生涯最大の戦いに、家康は知恵と経験を総動員して臨んだのです。
翌年の1615年、夏の陣が始まりました。
大坂城を丸裸にした家康は、余裕綽々、甲冑も着ずに側近が具足の着用を求めると、大声でこう言い放ちました。

「あの世倅めに何の具足!!」

しかし、戦の一寸先は闇・・・
豊臣方の真田信繁・・・赤備の軍勢が、家康本陣にまで斬り込んできました。
信州・上田を居城としていた真田家は、一度ならず二度までも、徳川軍を打ち負かしている因縁の相手です。
家康は、夏の陣の直前、信濃一国という破格の待遇で調略を図るも、信繁はこれを拒否していました。
真田軍の猛攻を受け、崩れかける家康本陣・・・
もはやこれまで!!家康は自害まで追い込まれました。
しかし、兵力に勝る徳川軍の猛攻で、形勢は逆転!!
大坂城は炎上し、豊臣秀頼は自刃!!
家康は幕府による全国支配を盤石なものとしました。

勝利から2か月後、家康は年号を元和と改めます。
元和とは、9世紀、中国大陸の唐が大乱を平定した際に用いた元号です。
家康は、応仁の乱以来、150年近く続いた戦乱の終わりと平和の始まりを、改元によって高らかに宣言したのです。
これが、家康の亡くなる9か月前のことでした。

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家康の選択8位・・・長篠の戦い
家康の選択7位・・・信康事件

どちらも、家康と信長、武田との三つ巴の戦いでした。
家康、34歳の時の長篠の戦い・・・
信長の勝ち戦として知られていますが、家康にとっても大事な一戦でした。

織田・徳川連合軍・・・信長は、軍勢の後方に・・・
前線に布陣するのは、ほぼすべて徳川の軍勢でした。
家康にとって長篠の戦いは、長年の宿敵・武田との雌雄を決する戦でした。
1575年5月、家康は窮地に陥っていました。
信玄の跡を継いだ武田勝頼が、徳川方の長篠城を包囲したのです。
その数、1万5000!!
わずか8000の軍勢しか用意できなかった家康は、同盟を結ぶ織田信長に援軍を要請します。
これに応じた信長が、自ら軍を率いて出陣!!
その数3万!!
織田・徳川連合軍は、3万8000の大軍となりました。
さらにもうひとつ、信長は勝利への秘策を戦場に持ち込んでいました。
突撃してくる武田の騎馬隊に向かって放ったのは、当時最新の武器だった鉄砲でした。
信長が用意した鉄砲の数は、3000丁ともいわれています。
これによって、山県昌景や、馬場信春などの武田の名だたる武将を相次いで討ち果たしました。
信長のもたらした大軍と鉄砲によって、家康は宿敵・武田に勝つことができました。
しかし、信長の力にすがったことで、家康はそののち残酷なジレンマに陥ることとなります。

長篠の戦いの4年後に起きた信康事件です。
この時、家康は38歳!!
家族か、信長か、究極の選択でした。
1579年、家康は、同盟相手の信長から思わぬ命令を受けます。

”信康に腹を切らせるよう家康に申し伝えよ”

家康の嫡男・松平信康は、この時21歳!!
跡継ぎにしようという息子の命を奪えというのです。
さらに信長は、家康の正室・築山殿も殺すように命じます。
そのきっかけについて通説では、信康の正室・徳姫が、夫や姑の素行の悪さを父・信長に訴えたためだとされてきました。
近年では・・・
信長に妻子殺害を命じられる前から、徳川家中に織田ではなく武田と組まんとする派閥が生まれ、内紛状態にあったというのです。
武田と徳川の戦争は、一進一退の膠着状態が続いていました。
この武田とたたかっちえる状況を見直したいという動きがあったのです。
信康は、こうした家臣や築山殿と共に、武田方に内通していたといいます。
父・家康の新織田路線の危うさを見て、武田との関係を捉え直そうとしていたのです。
徳川家はふたつに分かれてしまうような状況でした。
その中で、家康としてはどちらに行くべきなのか、立場をはっきりと示さなければならなかったのです。

信長の命令によって、選択を迫られることとなった家康・・・
武田に寝返るか??織田との同盟を継続するのか・・・??
家康は苦渋の決断をします。
家臣に命じて築山殿を殺害!!
続いて信康を切腹させました。
家康は、家族の命と引き換えに、織田との同盟を継続したのです。

家康の選択6位・・・三河一向一揆
22歳の若き当主・家康を襲った家臣団分裂の危機でした。
愛知県豊田市にある隣松寺・・・ここに珍しい像が残されています。
20代前半と伝わる家康の木像です。
この頃、三河統一に向け、着々と勢力を拡大させていた家康・・・
しかし、思わぬ敵が足元から現れます。
一向宗の門徒たちによる一向一揆です。
きっかけは、家康が寺院から強引に米を兵糧として取り立てたことだと言われています。
これに一向宗門徒が反発!!
武装集団が蜂起します。
さらに家康を悩ませる事態が・・・
一揆方に、一向宗門徒の家臣たちがたくさんいたのです。
彼らは離反の理由をこう主張しています。

「主君の恩は現世のみ、阿弥陀如来の大恩は未来永劫つきることはない」

家康軍は、内部分裂に陥ります。

1564年1月、ついに大規模な武力衝突が起こります。
一揆勢が家康方の砦に攻め寄せたのです。
乱戦のさ中、銃弾二発が家康に命中します。
鎧が頑丈だったため、命拾いはしました。
しかし、このまま戦いを続ければ、大勢の家臣を失うのは間違いありませんでした。

一揆方と和睦する??それとも、徹底抗戦・・・??

衝突から1カ月半・・・家康は決断を下します。
一揆方と和議を結び、敵対した家臣たちを不問に処することにしました。
許された家臣の中には、後に徳川十六神将と呼ばれる蜂屋半之丞や渡辺守綱など、家康の躍進に欠かせない人物が多数含まれています。
後に家康の懐刀として辣腕を振るった本多正信ももとは一揆の首謀者の一人・・・
若き家康は、こうして家臣団分裂の危機を乗り越えたのです。

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家康の選択5位・・・本能寺の変と伊賀越え
家康41歳!!
宿敵・武田が滅んだわずか3か月後、家康を襲った絶体絶命の危機・・・その発端が本能寺の変でした。
1582年6月2日、この日、家康は主だった家臣と共に大坂・堺にいました。
長年の武田攻めの労をねぎらうべく、信長から畿内見物に招待されたのです。
そんな家康のもとに知らせが届きます。

21年間、家康と同盟関係にあった信長が、明智光秀の謀反によって本能寺で自害したというのです。
これを聞いた家康は狼狽・・・
信長の後を追い、京の知恩院で切腹すると口走ります。
この時、家康を思いとどまらせたのは、本多忠勝はじめ、家臣たちの言葉でした。

「信長公への方向として追腹を切るのと、弔い合戦をして討ち死にするのとどちらが良いとお思いか・・・??」

我に返った家康は、ひとまず三河に戻ることにします。
しかし、この時の家康の手勢はわずか30人余り・・・
京を通れば光秀の手勢に襲われ太刀打ちできない恐れがありました。
そこで家康たちが選んだのが、最短ルートの伊賀越えです。
しかし、この道のりにも困難が待ち構えていました。
まず、家康一行の前に立ちはだかったのが京都・木津川。
地元の漁師から船を借り、なんとか川を渡るも・・・数百人に地侍たちが家康一行を襲撃。
絶体絶命化と思われたその時!!
助っ人が現れました。
地元の伊賀衆200人余りが家康の警護を買って出たのです。
仲介役を果たしたのが、同行していた家康の家臣・服部半蔵正成!!
服部半蔵は岡崎で生まれていますが、父が伊賀の出身でした。
半蔵を通じて伊賀者との結びつきが強かったのです。
こうして家康一行は、丸3日で200キロ以上の道のりを踏破し、岡崎城へ到着。
幕府の記録には、この伊賀越えこそ、家康の生涯にとって艱難の第一・・・もっとも苦しんだ出来事であったと記されています。

家康の選択4位・・・小牧・長久手の戦い
家康43歳・・・
後に天下人となる秀吉と家康、その最初で最後の直接対決が、小牧・長久手の戦いでした。
江戸時代後期の歴史家・頼山陽は言いました。

「家康の天下をとるは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にあり」

本能寺の変から2年、信長亡き後の家督争いに静観を続けていた家康も、巻き込まれることになります。
畿内を中心に急拡大をとげていた羽柴秀吉と対立することになったのです。
戦いは、明らかに秀吉の優勢でした。
徳川軍およそ2万に対し、羽柴軍は10万もの大軍で攻め寄せたのです。
しかし、結局戦いは和睦で幕を閉じます。

愛知県にある小牧山城は、家康が戦いの拠点とした城です。
かつては信長の居城でもあった山城です。
家康は、如何にして秀吉の大軍に抗ったのでしょうか?

小牧・長久手の戦いの戦いの時に、徳川家康がつくらせた巨大な土塁と堀が残っています。
敵を迎え討つために築かれた高さ8mもの土塁・・・
土手を駆け上ってこないと小牧山城の中心には近づけません。
おまけに、土手の上で鉄砲で迎え撃つことができました。
その奥には大きな空堀があります。
一斉に弓矢や鉄砲で向かってくる敵に対して反撃が出来る!!
当時としては最大級の堀を持っていました。

この巨大な堀が、当時は城を取り囲むように築かれていました。
さらに家康は、山の中腹にも空堀を築き、2重の堀で鉄壁の防御を施します。
小牧山城は、もともと織田も武長がつくった城がありました。
その信長の城は、石垣を中枢部のところに巡らせた当時としては最先端の城でした。
家康は、信長の造った石垣を一部壊しながら、一気に巨大な空堀を作ることで中心部分の守りを強くしていきました。
小牧山城は、「石垣」の城から「土」の城に変わった珍しい城です。

こうした大土木工事をたった5日で終わらせたともいわれる家康・・・
城を攻めあぐねた羽柴軍とにらみ合いの状態に・・・
しびれを切らして先に動き出したのは羽柴軍でした。
秀吉の甥・秀次が大将となり、およそ2万の兵が密かに南下。
家康の領国・三河への侵攻を試みます。
しかし、敵の動きを察知した家康も自ら兵を率いて密かに小牧山城を出陣!!
羽柴軍を追撃します。
決戦の舞台となったのは、現在の愛知県長久手市。
激しい戦いの様子が、屏風絵に残されています。
先鋒を務めたのは井伊直政。
武田の兵法を引き継いだ赤備えの軍団が、弾丸を羽柴軍に雨のように降らせます。
さらに追い打ちをかけたのが、戦場に突如掲げられた金地に日の丸の扇。
家康の所在を示す馬印です。
家康は小牧山にいると思い込んでいた羽柴軍は驚愕!!
瞬く間に戦意を喪失!!
池田恒興や、森長可など秀吉に与した名だたる武将が討ち死に!!
長久手の戦いでは家康の圧勝に終わったのです。
その後、7カ月近くにらみ合いが続いた後、和睦という結果に終わった小牧・長久手の戦い・・・
5倍の兵数を誇る秀吉と互角に渡り合ったことで、家康強しの評価が轟きます。
これが豊臣政権下でナンバー2となるステップとなったのです。

家康の選択3位・・・関ケ原の戦い
家康59歳の時、天下分け目の合戦、関ケ原の戦い!!
家康の目には、戦いの先にどんな風景が映っていたのでしょうか?
秀吉の死後、その遺児・秀頼を頂点とする豊臣政権は大きく揺らいでいました。
政権を支える有力大名で構成された五大老筆頭・徳川家康と五奉行の中心人物・石田三成が政権内の主導権を巡り対立!!
武力衝突にまで発展したのです。

1600年9月15日、家康率いる東軍と、三成の西軍・・・
両軍合わせて10万余りの兵たちが、関ケ原に集結しました。
関ケ原の戦いの幕開けです。
戦いの勝敗は、家康が事前に調略を仕掛けた西軍の武将達が次々と味方したことで決しました。
わずか数時間で決着がついたともされています。
ところが・・・実はこの戦い、勝敗の行方は直前までわかりませんでした。
近年、関ケ原周辺で航空機を使った測量調査が実施されました。
空から地方にレーザー光線を当て、地形のデータを読み取る最新の測量方法です。
その結果、驚くべきことが判明しました。
関ケ原古戦場から西に2キロほどの山頂に、玉城と呼ばれる巨大な山城があったのです。
正体不明の巨大な城は、誰が、何のために築いたのか・・・??
地元には、関ケ原の戦いの200年以上前、城があったという言い伝えが残されていました。
そこには、最新の築城技術がなされていました。
そこからこの山城は、豊臣秀頼の本陣として西軍が築いたものと考えられるようになりました。
もし、この時、兵を挙げた秀頼が西軍陣地である玉城に入城を果たしたならば・・・豊臣恩顧の武将達で編成された家康率いる東軍は、秀頼に歯向かうことが出来ず、家康は大敗北を喫したと推測されます。
石田三成や大谷吉継たちは、勝利の作戦をしっかり立てていて、少し状況が変われば西軍が勝っていたかもしれません。
もし仮に、毛利輝元やあるいは豊臣秀頼が玉城に来てしまうと、家康がつくった戦略の全体が崩れて行ってしまう・・・!!
なんとしてもそれより前に、今いる西軍の主力部隊と決戦をしなければ勝ち目がなくなるという状況に家康はありました。
しかし、秀頼は決戦場に現れることはありませんでした。
そして家康は決戦を制しました。
関ケ原の戦い・・・それは家康にとってまさに薄氷を踏む勝利だったのです。

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家康の選択2位・・・桶狭間の戦い
今川家で人質生活を送る家康・・・19歳。
その危機は、平和を目指す出発点となりました。
1560年5月、今川義元が1万を超える大軍を西へと進めていました。
目指すは織田信長のいる尾張!!
この時、今川軍の先陣には、若き家康の姿がありました。
義元の命によって、家康は本隊から先行し、今川方の大高城に兵糧を搬入。
しかし、待てど暮らせど義元が姿を現すことはありませんでした。
桶狭間にいた今川本体を、信長がわずか2000足らずの兵で急襲。
義元を討ち取ったのです。
家康のいる大高城にも、信長軍が責めてくることは必定でした。
この時、家康には2つの選択肢がありました。
駿府に戻るか、岡崎へ帰るのか??
密かに大高城を抜け出し、家康が向かった先は、岡崎城でした。
敗戦の将となった家康は、実に十数年ぶりに故郷に帰ることを選択しました。

岡崎城の北3キロのところに立つ大樹寺・・・
家康から5代遡った松平家の先祖が建立した菩提寺です。
岡崎城への道中、織田軍に襲撃された家康は、大樹寺へと逃げ込み、祖先の前で自害しようとしたといいます。
しかし、この時、住職は諌めます。

「厭離穢土 欣求浄土」

浄土宗・仏教書に書かれた一節・・・
乱れたこの世を離れて、清らかな浄土を目指していくという意味です。
戦乱の世の中から平和な、皆が安心して暮らせる社会を作っていくために生を受けてきたのだから、もう一度頑張りなさい

平和な世の中を願った松平家代々の思いをここで断ち切るのか、そう住職に諌められた家康は、墓前に額づいたと言われています。
岡崎城に入った家康は、これまでの状況を一変させる動きに出ます。
桶狭間の戦いから9か月後、今川義元の首をとった織田信長と和睦。
さらに、義元から一字を授かっていた名前・元康を家康に改めます。
家康は、今川氏への従属関係を完全に断ち、一国一城の主となる道を選んだのです。
家康は自らの旗印に菩提寺で授かった「厭離穢土 欣求浄土」の文字を刻み、平和国家建設の大望を持って戦乱の世に出て行ったのです。

家康の選択1位・・・三方ヶ原の戦い
家康31歳!!
生涯最大の敗北を喫した三方ヶ原の戦い・・・!!
敗北以上に大きなものを家康は手に入れたとされています。

1572年10月、武田信玄が2万5000の兵を率いて本拠地・甲府を出陣!!
徳川領への侵攻を開始しました。
家康より21歳年上の信玄は、戦国最強ともいわれる武田軍を率い、甲斐の虎と恐れられていました。
武田軍の勢いはすさまじく、徳川方の城を次々と攻略。
なす術のない家康は、武田軍を迎え討つべく浜松城で籠城を決めます。
しかし、ここで信玄は、家康の想定外の行動に出ます。
浜松城に向かっていた軍勢が、突如西へと進路を変えて、家康の前を素通りしたのです。
家康は選択を迫られます。
武田を追撃する??それとも野戦を避けて籠城を続ける・・・??
この時、籠城を勧める家臣たちに対し、家康はこう述べました。

「信玄が領土内を横切るのに、多勢だからといって出陣しないわけにはいかない」

家康は、武士の誇りにかけ、追撃することを選択しました。
12月22日の夕刻、自ら兵を率いて出陣、日が落ちるころ合いをみて背後から武田軍を襲撃しました。
ところが・・・家康の追撃を見越していた信玄は、坂の上で進軍を止め、徳川軍を待ち構えていました。
戦闘はわずか数時間で勝敗が決しました。
徳川軍の惨敗でした。
静岡にある浜松八幡宮・・・
ここに、敗走中の家康にまつわる伝承が残されています。

「雲立の楠」・・・
味方が原の戦いで、この地まで逃げ延びた徳川家康が、楠の根元のウロに隠れて難を逃れたという伝承です。
家康が一心に八幡様に祈りをささげると、瑞雲という吉兆の雲が湧き出て、楠の梢から白馬に乗った白い着物を着た翁が浜松城の方向へ飛び去りました。
家康は、まだ自分に運があることを悟って浜松城に戻りました。
浜松周辺には、権現(家康の神号)谷という地名があったり、八幡様も含めて、匿ってもらった農家の伝承もあります。
浜松市の調査によれば、市内に残る三方ヶ原の戦いの伝承は40以上。
家康の窮地が語り継がれていることが特徴です。
みんな家康に同情的です。
弱き家康、殺されそうな家康を、みんながこぞって匿ってあげた・・・
天下人になり、江戸幕府を作った英雄、東照大権現という仰々しい厳めしい家康ではなく、守ってあげたい弱き家康が伝えられています。

伝承の中には、家康家臣に関するものもたくさん残されています。
その一つが、死を覚悟した家康を諌め、自らが影武者となって討ち死にした夏目吉信の忠義を讃えた日もあります。
この戦いで、家康は1000人もの家臣を失ったといわれています。
自分の未熟さを痛いほど叩き込まれた家康・・・
もし、三方ヶ原での敗戦がなければ、家康の人生は全く違ったものになったかもしれません。

家康が平和の世を切り開くうえで、欠かせない経験・・・
本能寺の変と伊賀越えでは、信長の死を反面教師に持続可能な組織作りとは何かを考え、小牧・長久手の戦いではかつての敵さえ家臣に取り込み力に変える柔軟性を発揮、そして関ケ原の戦いではどんなに理詰めで戦略を練っても最後は勝負は時の運・・・ギャンブルだと悟りました。
桶狭間の戦いでは、平和を目指す原点「厭離穢土 欣求浄土」のスローガンを得ました。
そして、三方ヶ原の戦いでは、人生最大の敗北から自分より優れた者がいることを忘れない謙虚さを学びました。

信長でもなく、秀吉でもなく、家康が平和な世を築けた理由は・・・??

色んな時代のいろんな戦国大名を見てきた家康・・・その中で、戦い方、都市づくり、城づくり、統治・・・すべて学んで、自分の天下に活かしていく術に非常に長けていました。
織田信長からは戦争・合戦で如何にして勝つのかを学びました。
秀吉が認めた戦争しか正統な戦争とは認めない・・・戦争を違法化していく、内戦を違法化していく・・・他の大名は、幕府に許可を得なければ軍事的なことができないようにしました。
そして、家康の残した遺産を後継者たちが上手く理解して応用していった結果が平和な世でした。

戦いの連続を経験し、本当に戦いがない時代になればいいなという思いをずっと持ち続けていました。
関ケ原の3年後、征夷大将軍になった家康は、定を出しています。
その中で、”百姓をむざと殺すまじく候”・・・施政方針を書いた中に、命の大切さを謳っています。
命の大切さを・・・戦いがない時代を実現しよう・・・
家康が一生戦いの連続だったことが、最終的には平和を求める精神になったのです。
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<今川義元と戦国時代>今川家の屋台骨 太原雪斎と岡部元信 (歴史群像デジタルアーカイブス)



1560年5月19日、織田信長率いる2000の軍勢が、今川の本陣を奇襲しました。
桶狭間の戦いです。
この時、2万5000の大軍を率いていたにもかかわらず、討ち取らてれしまった武将が、今川義元です。
トレードマークは白塗りにお歯黒の公家風メイク。。。輿に乗っての進軍でした。

今川家は、足利将軍家から分かれた名門です。
その始まりは、室町時代初頭・・・
1338年、今川範国が駿河国守護職に任ぜられ、やがて隣国の遠江をも治めるようになります。
時を経て・・・7代当主今川氏親・・・その5番目の男子として1519年に生まれたのが義元です。
義元6歳の時、父が亡くなり、長男・氏輝が後を継ぐことに・・・。
しかし、まだ14歳だったので、その母・寿桂尼が後ろ盾となって政治を司ることになりました。
義元の母でもある寿桂尼は、京都の公家の出ですが、今川家の政務をとったことから”女戦国大名”と呼ばれました。
義元は・・・5男だったので、早くから出家し、栴岳承芳と呼ばれていました。
そんな義元の教育係となったのが、太原雪斎。
義元は、雪斎と共に京に上り、建仁寺などの禅宗の寺院で格式を高めていきました。
この頃の義元は・・・京都の知識人と交流し、かなりの教養を身に着けていたようです。
一僧侶として生きる予定だった義元・・・
1536年、義元18歳の時、偶然にも同じ日に、兄である氏輝、次男・彦五郎が病死しました。
氏輝には跡継ぎが居なかったので、残った弟たちの中から跡継ぎを決めることになりました。

四男は、家督争いに加わりません。
六男は、尾張今川家の養子となっておりすでにそちらの家督を継いでいました。
残るはともに出家していた三番目の兄・玄広恵探と義元だったのです。
恵探の母親は、側室で今川家の有力家臣・福嶋氏の娘でした。
ちなみに義元の母は、正室の寿桂尼。
義元になりかけていましたが・・・恵探の母方の福嶋氏が大反対!!
今川家を二分するお家騒動が勃発しました。

が・・・寿桂尼は恵探の元へ・・・。
寿桂尼は、実の息子を裏切ったのでしょうか??
この頃既に、義元は将軍足利義晴から家督を継ぐことを承認されていました。
寿桂尼が恵探に足利家からの注書・・・覚書を見せて説得したようです。
しかし、その注書をを恵探に奪われてしまいました。
寿桂尼もこの時抑留されたのだとか・・・。
注書だけでなく、母も奪われてしまった義元は、すぐさま恵探派を襲撃!!
1536年花蔵の乱・・・今川家を二つに分ける内戦の始まりでした。
義元軍は、恵探派が籠る方ノ上城を攻撃!!
すると恵探は、難攻不落の花倉城へと逃げていきました。
しかし、この鉄壁の守りも、義元家臣・岡部親綱によって破られます。
見事母と注書を奪還!!
恵探は城を捨てて逃げますが・・・その途中、「もはやこれまで!!」と、自刃したのでした。
兄・江探の死によって、熾烈な家督争いは終わりを告げたのでした。
こうして義元は、1536年、9代当主となるのです。

駿河と遠江を治めていましたが、三代当主の頃、遠江を斯波氏に奪われてしまいました。
それ以来、遠江奪還は今川家の悲願でした。
そのカギを握っていたのは井伊家でした。
井伊家は遠江・浜名湖北岸の井伊谷の国人領主で、後におんな城主となる直虎になるまで因縁は続きます。
遠江を取り戻そうと侵攻する今川に対し、斯波氏について抵抗する井伊・・・。
しかし、1513年、井伊家の支城・三岳城が落城・・・井伊は屈服しましたが、それは表面上のことで、その支配はまだ安定していませんでした。
そんな中、今川の家督を継いだのが義元でした。
井伊家支配の強化に動き出した今川・・・遠江・・・そして、三河に進出する為に、井伊家を取り込もうとしたのでした。


井伊家に飴と鞭を使う今川・・・。
奪い取った三岳城を返却し、井伊谷に駐留していた兵を引き上げ、国人領主としての地位を保証します。
温情を見せておいて、当主・直平の娘を人質に出すように命じます。
ちなみに、この娘の産んだ娘が、後に家康の正室となる築山殿です。
こうして、井伊家の支配を強化した義元は、井伊家を利用していきます。

井伊家は今川にとって外様なので、戦になると一番危ないところ・・・
井伊家も早く手柄を立てて忠誠を誓わなければなりませんでした。
井伊家を配下に置くことに成功した義元は、更に三河へと侵攻していきます。
1546年、東三河・今橋城攻略。
この三河進出に刺激されたのが、尾張の織田信秀です。
早速、西三河の岡崎城に攻撃!!
自力で織田と戦う力のなかった松平広忠は、義元に援軍を求めてきました。
義元はこれを利用・・・援軍の代わりに、広忠の嫡男・竹千代を人質にと、命じたのです。
この竹千代こそ、後の徳川家康で、まだ6歳でした。
こうして義元は、松平家の後ろ盾として参戦。
三河から織田方を排除することに成功しました。
人質を取られていた松平家は、今川配下につくしかなく、西三河も義元のものに・・・
したたかかつ、巧妙な外交手段によって、駿河・遠江・三河の大大名となったのです。

着実に領土を広げていく義元・・・そこにいたのは、軍師・太原雪斎でした。
太原雪斎の支えもあって、東海三国を制した今川義元は、領土拡大のためにさらに西へ進出!!
しかし、そのためには、退路を安全にしておかなければなりません。
北には甲斐・武田、東には相模・北条氏康が・・・義元は彼らとの同盟を画策します。
1552年11月、武田信玄の息子には自分の娘を嫁がせます。
この時、信玄は、宿敵・上杉謙信との戦いで背後を安全にしておきたかったのです。
武田は、上杉と敵対していた北条と姻戚関係を結びます。
これによって間接的に北条との間にも同盟が結ばれたことに・・・
念には念を入れて・・・1554年7月、嫡男と氏康の娘を結婚させます。
これは、単なる不可侵条約ではなく、合戦になった場合の援軍という甲相駿三国同盟でした。

例えば・・・1555年の第2次川中島の戦いでは、今川の家臣が武田の援軍として出陣しています。
さらに合戦が膠着状態になると、義元が和平案をあっせんします。
信玄、謙信に匹敵する力を持っていた義元・・・
やがて海道一の弓取りと呼ばれるようになります。

1553年「仮名目録追加」21か条を制定します。
”今川家は自らで法を定め、領民の生活を守っている。
 よって今川以外の権勢がわが領内に及んではならない。”
この頃は・・・守護大名は、室町幕府から任命されて、地方を治め、指示されていました。
そんな幕府の支配を離れ、戦国大名となることを宣言したのです。

自信に満ちた義元は、次々と計画を実行に移していきます。

①検地・・・田畑の広さと収穫量を調べる検地を徹底させます。
山地の多い今川領は推定50万石・・・一国で50万石の尾張と比べると、その差は歴然です。
そのため、別の方法で収入を増やす必要がありました。

②課税・・・田畑の段銭、家屋ごとの棟別銭を領民から徴収し、税収を安定させます。

③金山開発・・・安倍川上流にあった金山に目をつけます。
今川領には金山が無数に点在しており、そこから産出される豊富な金は、大きな収入源となりました。

領国経営のモデルとなった武将・今川義元。
先駆的な経営によって、石高は、50万石から100万石へ・・・!!
義元はこれを戦の資金源として西を目指すのです。
そして今川家は黄金時代を迎えるのです。
駿府は、今でも京都と同じ名のスポットがたくさん残っています。
京都には多くの公家が滞在し、母の寿桂尼が公家出身だったこと、義元自身も京都にいたこと・・・
能や茶の湯をたしなみ、和歌は今川家のお家芸となっていました。
今川家の歌会始には、一族、重臣だけでなく、公家も招かれ、たいへん華やかでした。
だから公家風の装いな義元なのです。

1560年5月12日、今川義元は2万5000の兵を率い、自ら陣頭指揮を行い、東海道を西に登っていきます。
この時、義元が動員した2万5000は、当時としては桁外れ!!
迎え討つ織田信長は、推定でも最大5000!!
全精力を注いで西に向かった義元の狙いは、那古野城??
この時点で、信長は清須城に移っていました。
那古野城は今川家のお城でしたが、信長の父・信秀に乗っ取られたという経緯がありました。
なので、那古野城、清須城を落とし、尾張を攻略しようとしていたのです。

いざ、那古野城奪還!!尾張を我が物に・・・!!

義元は自ら陣頭指揮を執って輿に乗って進軍していきます。
1560年5月18日、今川本体は、尾張との国境にあった沓掛城に入ります。
この時、輿に乗って進軍する義元・・・。
それは馬に乗れなかったからではなく、輿に乗る=守護大名の中でもごくわずかしか室町幕府に許されていなかったのです。
自分はそれだけの身分の人間だということを、尾張の小国大名・織田信長とその家臣たちに知らしめるためだったのです。
敵を威圧する作戦でした。

そして、運命の桶狭間に・・・!!

1560年5月19日、沓掛城を出た義元は最前線の大高城へ・・・。
ここを足掛かりに那古野城を攻めるつもりでした。
午前11時ごろ・・・義元本体は、桶狭間山の陣所で昼休憩をとっていました。
するとその時・・・!!
織田方2000の兵に、正面から奇襲をかけられ、大敗を喫してしまったのです。
どうして2万5000の兵をもってしても、織田軍を打ち負かせなかったのでしょうか?

①天気・・・この日、沓掛で楠木が倒れるほどの大雨が降りました。
豪雨によって視界を妨げられ、織田軍の接近に気付けなかったと思われます。
②油断・・・この日の早朝、今川軍の先鋒、松平元康らは、障害となる丸根砦・鷲津砦を攻略していました。
戦況が有利に進んだことに気を良くし、義元は休憩中に謡などを謳っていました。
この一時の油断が命取りとなりました。
③参謀の喪失・・・そして何より・・・遡ること5年、義元を支えてきた軍師・太原雪斎が亡くなっていました。
④兵の数・・・2万5000のうち、2万は別の方に向かっており、義元本隊5000程度でした。
しかも、この時昼休憩でみんなバラバラになっていて、義元の元にいたのは300ほど・・・僅かだったと言います。

その後、次々と倒されていき・・・間もなく大将である義元が取り囲まれてしまいました。
果敢に応戦する義元!!
義元に一番槍を付けたのは、織田方の服部小平太。
義元は小平太を交わし・・・そこにかかってきたのが毛利新介でした。
最後まで果敢に戦い、夢半ばで散った海道一の弓取り・・・
1560年5月19日・・・42歳の生涯でした。

その首は清須城に・・・
信長によって首実検され・・・本来なら返す必要のない首は、義元の首は駿府に送り返されることに・・・
尾張攻めの最前線であった鳴海城に、義元家臣の岡部元綱が踏みとどまり、主君である義元の首の返還を願い出たのです。
信長は、主君を思うその思いに・・・鳴海城を明け渡す代わりに義元の首を返還。
駿府に戻ったその首は、今川の菩提寺に弔われました。

義元無き後、継いだのは嫡男・氏真。
しかし、桶狭間の後、次々と配下の者たちは離れていきます。
今川家はかつての勢いを削がれるばかり・・・これを好機と見た徳川家康と武田信玄は、東西から攻め込んで・・・
1569年今川家滅亡・・・桶狭間からわずか10年足らずでした。

戦略にも領国経営にもたけていた今川義元・・・
samonji

京都にある建勲神社には、名刀”義元左文字”が大切に保管されています。
桶狭間の戦いで義元が使っていた愛刀です。
義元を討ち取り、歴史の表舞台に躍り出た信長は、この刀を終生大切にしたと言います。
戦国の世を自ら切り開いていった義元への敬意と共に。




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関ケ原・・・そこには、当時の武将たちの陣営がたくさんあります。
町全体が戦場になっていました。

sekigahara












美濃国・・・岐阜県関ケ原、この小さな町で、400年以上も前に日本史上最も大きな戦い・・・関ヶ原の戦いが行われました。
秀吉亡き後次の天下人を狙うのは、徳川家康。
そんな家康に真向から対立したのが石田三成。
秀吉の死から2年の1600年9月15日、両雄ここで会いまみえました。

三成率いる西軍8万4千に対し、家康率いる東軍は7万4千。
16万もの兵が決戦に及びました。
まさに、関ヶ原の町は天下分け目の町、見届けてきた町です。

午前6時・・・
夜からの雨・・・濃い霧に包まれた関ケ原で、日本の覇者を決する戦いが幕を開けようとしていました。
霧が晴れてきた午前8時ごろ・・・
一発の銃声が戦場に響き渡り・・・開戦の火蓋が切られたのでした。
最初に仕掛けたのは・・・東軍・・・井伊直政・松平忠吉でした。
福島正則が仕掛けると決まっていたのに・・・。

そもそも、花形の先鋒は、豊臣恩顧の大名ながら東軍についた福島正則でした。
しかし、突然徳川譜代の2人が先鋒を奪ってしまったのです。

7万4000のうち・・・徳川は3万・・・。
その他は、もともと豊臣方でした。
勝った後、この中で実権をとるためには、徳川譜代によって戦を始める必要があったのです。
徳川の勝利をイメージさせるために、家康によって仕組まれていました。

どうして家康は勝つことができたのか???
そこには大変な苦労がありました。

原点は岡崎。
1542年12月26日、三河国岡崎に生まれました。
家康が幼い頃、岡崎城はまだ砦。

生まれた時の伝説は。。。
井戸から龍が立ち上った。。。龍ヶ井。
「英雄児の生まれ出づるを待つが如く
 城楼の上に雲を呼び風を招く
 金鱗の龍を見たりと云う」

龍が立ち上った伝説の城・・・岡崎城は龍ヶ城とも呼ばれています。
しかし、岡崎での暮らしは長くは続かず・・・6歳の時から、織田家に2年、今川家に11年人質として過ごしたのでした。

育った町・・・駿府では。。。
今川義元の時代に過ごしました。
今川家の菩提寺、大龍山臨済寺では・・・
戦国最高の軍師・・・黒衣の宰相と呼ばれる僧侶、太原崇孚雪斎。。。
義元を天下に最も近い男にした教育係に学びます。
家康を人質として連れてきたのが雪斎でした。
雪斎が儒学や兵法を教えたと言われています。
全てはここから学んだ・・・
非常に吸収力がよく、その知識は家康の財産となりました。
義元も家康をかっていたのです。

1560年桶狭間の戦いで・・・
松平元康(家康)は19歳、今川の家臣として参加していました。
義元が討たれて退却・・・
菩提寺である大樹寺で腹を切ろうとしていた時、住職・登誉上人が・・・
「厭離穢土 欣求浄土」
”苦悩の多い汚れたこの世を
 厭い離れたいと願い
 心から欣んで
 平和な極楽浄土を冀うこと”

戦のない平和な世を解いた上人に、命を救われたのです。

そして今後、この「厭離穢土 欣求浄土」を旗印に、天下統一を目指すのでした。

関ケ原で最も重要な地は・・・
家康最後の陣跡。
午前10時ごろ・・・桃配山に陣を置いていた家康が最前線へ!!
どうして危険を冒してまで最前線へ???
それは午前9時ごろ・・・西軍優勢の形になっていました。
西軍は鶴翼の陣!!そして東軍の後ろ南宮山には毛利が!!
西軍の圧倒的有利・・・敢えて本陣を最前線へ持ってきます。
これは小早川秀秋に対する威嚇でもありました。
松尾山・・・小早川を動かす為だったと言われています。
この小早川の東軍への寝返りで・・・一気に形勢逆転です。

関ケ原から遡ること28年・・・1572年にあった三方が原の戦い。
当時戦国最強の武田信玄との戦いで、人生最大の敗北をしてしまった家康。
こ最大の負け戦があったからこそ天下をとれたと言います。
その舞台は静岡にありました。
当時信玄は、織田信長を倒すために3万の兵をもって挙兵!!
信玄は浜松を素通りし・・・三方が原へ向かいました。
気性が荒く短気だった家康。。。
1万1000の兵を率いて出発しました。

武田軍を追って進軍する家康。
祝田坂で・・・武田軍が反転し、家康を待ち構えていました。
信玄の罠にかかったのです。
撃破される家康は、命からがら浜松に帰ったのでした。
その時に描かれたのがしかみ像です。
もし勝ってしまっていたら・・・信長に殺されていたかもしれません。。。

まだまだ関ヶ原の戦いは続きます。
続きはまた後で。。。

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THEナンバー2
久しぶりに見ました。(*≧m≦*)

夏休みの疲れも、映画でリフレッシュ!やっと、普通の生活になれそうです。

今回は、~戦国最強の僧侶~太原雪斎です。

この人は、実はよく知りませんでした。戦国ゲームの中では、知る人ぞ知る、とっても有名な人だそうですね。彼は、臨済宗の僧侶で、今川義元の名参謀でした。

雪斎は、今川義元の父から、義元の教育係を任されます。

というのも、この義元も、もともと家督を継ぐ立場ではなく、1536年氏輝が死去、その弟も不審死、当時は仏門に入っていた義元が、18歳で家督を継ぐことになったのです。

そうして、跡目争いに勝利し、この義元を当主にするため、お家安泰を望み、立ち上がるのです。

僧侶といえば、今では平和主義的なお坊さんというイメージですが、江戸時代前の僧侶は、織田信長で有名な比叡山焼き討ちなど、結構戦闘的な僧侶が多かったのは事実です。

僧侶は、経文だけでなく、孫子や六韜三略など、軍略書にも明るかった上に、使僧として、全国を回れたという強みがあったのです。この使僧とは、俗世間から切れているという「無縁の原理」によって、国をまたいだ旅が出来たというものです。これが、雪斎の強みでした。

今川の内乱を抑えるため、武田信虎から支援してもらうことを確約させます。これは、最大の敵を味方につけることによって、戦いの先手を取ったのです。義元を当主にした後、武田家との関係を強化するため、武田晴信に京都三条家娘を娶らせ、信虎の娘を義元に娶らせます。いわゆる婚姻外交を進めるのです。

そうした中、1541年、武田晴信が、自分の父である信虎を追放します。この信虎の身元引受人になったのが雪斎で、武田側と話をまとめます。
諸説ありますが、この追放劇は、晴信と雪斎の密約があって、二人の策略かともいわれています。

そして、上洛するため、武田・北条と三国同盟を結びます。これは、武田は上杉と、北条も北と、今川は西と、背を見方にする必要があったからです。

1546年、三河へと侵攻を始めます。軍の総指揮は雪斎。松平とは、竹千代(家康)を人質にとることで同盟を約束したにもかかわらず・・・。田原城主が織田側に買収されていて、「駿河には海で行くほうが・・・。」と、船に乗せられてしまい、船はあれよあれよと織田側へといってしまうのです。織田が、竹千代強奪に成功します。

そんな中、松平の家臣をまとめたのも雪斎でした。小豆坂で織田信秀の長男・信広と対決し、信広を生け捕ります。そうして、竹千代と交換するのです。

そうして、雪斎は竹千代の教育係になるのです。

1554年、北条、武田、今川の間で三国同盟(不可侵条約)が成立しようとしていましたが、雪斎は今までの無理がたたり59歳で亡くなるのです。

後に家康が語っています。

「雪斎亡き後は今川の国政ととのわざりき」と。

雪斎の死から5年、義元は桶狭間の戦い(本当は田楽狭間の合戦らしい)で討ち死にすることになるのです。

今川義元の失敗は、雪斎に代わる人材を作っておかなかったことでしたが、はじめの通り、雪斎はと義元は師弟関係にあり、雪斎を尊敬していた義元には、考えられなかったのかも知れません。

しかし、聡明な愛弟子、家康には数々のことを、自らの兵法の極意を伝授していました。それは、家康の中に類稀な才能を見出していたのかも知れません。そして自分がナンバー2として大きな存在になりすぎたことを憂慮して、家康にはあまり公言しないように、また、家康も公言しなかったといいます。

こんなに有名になる要素がたくさんあるのに、何で知らなかったんだろう?ε~( ̄、 ̄;)ゞフー安国寺恵けいとかぐらいです・・・。

まだまだ修行が足りませんね。(TmT)


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デアゴスティーニ 戦国武将データファイル第46号太原雪斎/大村純忠 他

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駿府城は天下統一を成し遂げた徳川家康が晩年隠居した居城です。
静岡県静岡市人工72万917人、面積1,412㎢、特産は茶・みかん・桜えび
1603年に江戸幕府を開いた徳川家康は、2年後に秀忠に将軍職を譲り、駿府城に移り、大御所として隠居生活を送りました。
家康自ら設計し、江戸と変わらないくらいに繁栄した城下町です。
しかし戦国時代には、今川義元が・・・城下町の基礎を築いていました。
桶狭間の戦いで命を落とし、歴史の表舞台から消えた義元・・・
yosimoto


東海一の弓取りと言われ、武勇に秀でた武将で、多くの戦国武将に影響を与えたと言われています。

駿府城は・・・今はお城はなく公園となっています。
富士よりも大きいと言われたその城・・・家康の頃は、三重の堀に囲まれた堅固な城で、天守は五層七階の壮大な城でした。
sunnpu4




天守閣の後ろに富士が見える・・・そんな大きな城で、東海道を行き来する人は驚いたと言います。

本丸跡には、家康の像が建てられています。
ieyasu
駿府でなければならなかったと言われていますが。。。
駿府には江戸に無い3つのものがありました。
それが、「一富士二鷹三茄子」です。


これは、家康の好きなものを3つ並べたものです。
富士の絶景と鷹狩りの地、そして折戸茄子(献上茄子)は名産でした。
折戸茄子は賀茂茄子の原種と言われています。
家康公にあやかろうということで、「一富士二鷹三茄子」と言われたようです。

東京・銀座のルーツは駿府だった?
両替町には・・・駿府銀座発祥の地があります。
銀座とは、銀貨を作っていたところ。
慶長11年家康が隠居先を駿府と決めたことで、駿府では、大々的な街づくりが行われました。
その資金を調達するために、家康は京都にある伏見銀座を駿府に移したのが・・・現在の両替町です。
両替商もたくさんあったようです。
ここが、江戸京橋に移され・・・今日の東京の銀座となりました。
ちなみに金座もあり、この金座のあった場所は今の日本銀行本店です。

静岡おでんにある黒はんぺん。
徳川家康の家臣が、余ったイワシの活用術として発案したと言われています。

大龍山・臨済寺・・・
ここは、今川家の菩提寺ですが・・・三つ葉葵の家紋が掲げられています。
軍師とは・・・軍略・政治・外交・築城のすべてに関わる大名を影で支える存在です。
有名なのは、山本勘助・北条幻庵・黒田官兵衛・竹中半兵衛・直江兼続・片倉小十郎などそうそうたるメンバーです。
そんな中で、戦国最高の軍師・黒衣の宰相の異名を持つ太原崇孚雪斎が、この臨済寺にいました。
今川義元を天下に最も近い大名に育て上げた男です。
外交面でも手腕を発し、甲相駿三国同盟は、雪斎最大の功績とされています。
また、岡崎城に狙いを定めた雪斎は、岡崎城から家康を人質として迎えるのでした。
竹千代が雪斎から教育をうけた部屋も残されています。
その部屋で、儒学や兵法を学んでいました。
家康は、全てをここから学んだと言っています。
家康の才能を見抜き育てた今川義元と太原崇孚雪斎、天下人は、駿府で育ったのでした。

臨済寺にあるもう一つの不思議・・・
桶狭間で織田軍に負けた今川軍、この臨済寺にある今川神廟には、義元の首が安置されています。
どうして戻ってきたのでしょうか?
桶狭間の戦いののち、尾張の一大名だった信長が、大大名の今川義元を破ったことによって天下に名を轟かせ、戦国列強へと上っていきます。
信長は義元を手厚く葬り、供養しているのでした。

また、西山本門寺にも本能寺で討たれた信長の首塚があります。
信長の遺体は見つかっていません。
しかし、本能寺の変で自刃した信長の首は、密かに西山本願寺に埋葬されてたと言われています。

駿河凧は、今川義元が先勝祝いに揚げたのが始まりと伝えられています。
戦国時代、凧は戦の先勝祝いや情報の伝達などに用いられていました。
それは幕末まで・・・
そして、戦が無くなると凧は平和の象徴として子供たちの遊びに受け継がれていきます。
静岡駿府の城下町、そこは今川義元・徳川家康が培った歴史が色濃く残る富士の絶景に溶け込んだ町でした。
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