秦の始皇帝以来、絶対的な権力者として君臨した皇帝・・・2000年以上続いた歴代皇帝の中で、たった一人だけ女性がいました。則天武后です。
絶世の美女といわれ男たちを虜にしたその裏で、恐ろしい野望を秘めていました。
7世紀の末・・・唐の国で・・・女性が政治に関わることがなかった時代、初めて、唯一の女性の皇帝が生れました。
則天武后です。
名門貴族が牛耳る古い政治体制に風穴を開け、実力のある者たちを次々に登用し、国力を発展させました。
仏教を手厚く保護し、文字の創作など、華やかな唐文化の礎を築きました。
しかし・・・後世に伝えられる多くは・・・稀代の悪女・・・!!

果たして彼女は、知性と美貌を兼ね備えた稀有な皇帝だったのか?
それとも国を傾けた悪女だったのか・・・??

7世紀初頭・・・大陸では10年続いた内乱から唐が誕生・・・
また悪魔に周囲を圧倒し、大帝国への道を歩み始めました。
都・長安の人口は100万を超え、皇帝のもとには隣国の使者が次々と謁見に訪れました。
その中には、日本の遣唐使の姿もありました。

623年・・・武照(則天武后)誕生。
長安から遠く離れた片田舎・・・父は役人とはいえ身分の低い役人でした。
しかし、やがて皇帝の子を身籠ることとなります。

中国の歴史書の中に、則天武后の生涯が書かれています。
裕福な役人の家に生れた武照は、幼いころから噂になるほどの美少女でした。
しかし、12歳の時に父が病に倒れると、苦しい毎日が・・・!!
異母兄弟からのいじめです。
武照は、兄たちから執拗ないじめを受けたということは想像に難くありません。
勝気な彼女は、兄たちに仕返しをしたいと思っていたようです。
そんな武照が14歳の時、チャンスが訪れます。

137年、14歳の時に都から皇帝の使者がやって来て、武照を宮廷に迎えたいと・・・皇帝の側室に抜擢されたのです。
武照が稀に見る美女であるという評判は、長安まで届いていたのです。
時の皇帝は、太宗・・・優れた手腕で、唐の発展をもたらした名君として絶大な権力と人望がありました。
側室の武照に与えられた住まいは後宮・・・
皇帝の寵愛を得るために、多くの女たちが美貌と教養を競い合う愛憎渦巻く場所でした。
ここでも抜群の美貌を誇った武照は、すぐに太宗の目に留まり、3かにあけずと皇帝の寵愛を受けるようになります。
しかし、あることから皇帝の愛は急激に冷めていきます。
それは不吉な予言でした。

”唐三代の後、女の武王 代わって天下を有す”

つまり、名前に”武”のつく女性が唐を滅ぼすというのです。
当時は、天の下に王朝が存在するという考え方がありました。
天の意思をくみ取る専門の部屋・・・「太史局」が置かれていました。
王朝にとって占いの意味は大きかったのです。
これ以後、武照は太宗から遠ざけられてしまいました。

武照は、皇帝の気をひく努力から一転、学問や教養を身につけます。
太宗が重臣たちと会議をしている時にはこっそりと裏で聞き、政治のイロハを学びました。
武照は、10年以上、このような生活をし、勉強しました。

649年、26歳の時、武照は側室として絶体絶命の危機に見舞われます。
それは太宗が病を患い、余命わずかになった事です。
側室は子供に恵まれなかった場合、皇帝が亡くなるとその身を汚してはならないと髪を落として尼になるのが通例でした。
皇帝に遠ざけられ、子宝に恵まれなかった武照・・・
尼寺で生涯を終えることになってしまう・・・??

半年後、遂に太宗は崩御・・・。
武照はしきたり通り、尼寺に送られました。
しかし・・・3年後、尼寺にいるはずの武照の姿が宮中にありました。
どうして・・・??
太宗が病にふせていた時の事・・・連日熱心に見舞いに来る男性がいました。
太宗の息子で皇太子の高宗です。
その心優しい性格が買われ、早々から皇太子にといわれていました。
武照は、このチャンスを逃しませんでした。
見舞いに来る高僧に接近し、深い関係を持ったのです。
太宗の死後も密かに逢瀬を重ね、今度は高宗の側室として宮中に戻ることに成功したのです。
そしてこの時すでに、高宗の子を身籠っていました。
皇帝の子を宿し、その地位を着々と築いていく武照・・・
かつて自分を見下した者たちを排除していきます。
そして、復讐は宮中にとどまりませんでした。
数年後、異母兄弟を宮中に呼び出し、出世させます。
そして栄転と称して長安から遠い辺境の地へ左遷しました。
幼い頃武照をいじめていた異母兄弟たちは、長安に戻ることなく、辺境の地で死を遂げたのです。

皇帝の寵愛を一身に受けた武照・・・しかし、側室の地位に満足せず、邪魔者を次々と消していきます。
そのためには、我が子さえも手にかけました。
どうして、多くの人を残酷に殺したのでしょうか??
652年、29歳の時に長男・李弘誕生。
皇帝の寵愛は益々深まったが、武照は愛だけでは満足しませんでした。
密かに狙ったのは、皇帝の正室・・・皇后の座でした。

しかし、宮中には当然ながら王皇后がいました。
武照は、皇后を失脚させる策略を練り始めます。
武将にとっては、太宗に仕えて、次の皇帝(太宗の息子)の後宮にも入りました。
それは常について回る負い目となりました。
負い目が攻められて潰されるかもしれない・・・
高宗の後宮に入った段階から、皇后の道を考えていました。

654年、31歳の時、大事件が・・・
武照と皇帝との間に、女の子が生まれました。
皇后はお祝いを述べようと武照の部屋をたずねます。
しかし、武照の部屋には誰もおらず、赤子だけが寝かされていました。
皇后は不思議に想いながら赤子をあやし・・・武照が戻らないので部屋を後にしました。
その少しあと、武照は部屋に戻ってきました。
赤子の様子がおかしい・・・??
元気だった我が子が冷たくなっていました。
武将が女官を問い詰めると・・・

「つい今しがた、皇后さまがいらっしゃいました!!」

武照は、すぐにこの事件を皇帝に・・・

「皇后のやつめが、朕の娘を殺したのだ」

宮中でも噂が立ちます。

「子供ができない皇后さまが、武照に嫉妬して、赤ん坊を殺したのではないか・・・??」

この事件・・・武照が皇后を陥れようとした罠でした。
皇后が帰った直後に自ら子供を殺したのです。
王皇后に擦り付けるために・・・!!
この事件以後、高宗は皇后に不信感を抱き、武照を皇后にしたいと思うようになります。
高宗は重臣たちに意見を聞きます。

「皇后さまは名家のご出身にて先帝が決めた方です
 どうして廃することができましょうや」by重臣

皇后になるには、家柄にこだわる家臣が邪魔になる・・・
武照は、今度は政治闘争をしかけて行きます。
目をつけたのは、名門以外の家臣です。
実力があるのに要職につけない・・・政権に不満を持っていました。
武照は、彼らを側近として重用し、王宮での発言する機会を与えます。
高宗はこうした献策を喜び、彼らを昇進させていきます。
すると、その中から「武照を皇后にしてほしい」と願い出る者もあらわれました。

こうして、武照は、新興勢力を拡大、反対勢力と対立します。
国を二分しかねないこのこと・・・重臣の一言で決着がつきます。

「これは陛下の家庭の事でございます
 外部の者の意見をお聞きになる必要はございますまい」

これを聞いた皇帝は、王皇后を幽閉・・・
後宮に入ってから19年・・・656年、33歳で野望を達成・・・皇后の座につきます。

ところが、武照はそれだけでは満足しませんでした。
幽閉されていた王皇后を処刑・・・そのやり方は、非常に残酷なものだったと資治通鑑に書かれています。
まず、王皇后を杖で100回たたかせました。
その後、手足を切断し、酒甕に投げ入れさせこう言いました。

「骨まで酔わせておやり!!」

皇后となった武照は、武后と呼ばれ、皇帝が病弱であったことから政治の実権を握っていきます。
皇帝の背後に御簾をかけてその後ろに座ります。
表向きは皇帝が政治を行っている・・・実際は武后が指導したのです。
人々はこれを”垂廉の政”といいました。
幼い皇帝の場合、皇太后である母親が背後から支えることはしばしばありましたが、大人になっての垂廉の政は、歴史的には稀有なことなのです。
武后に牛耳られ、実質的には武后が動かしている・・・という意識は強くなっていきます。

武后は自分に楯突く可能性のある反乱の芽を摘んでいきます。
我が子でさえ例外ではありませんでした。
政治の実権を握って10年後のこと・・・
皇太子で息子の李弘は、高い教養があり、聡明で正義感が強く名君になるといわれていました。
しかし、武后は自分の政治体制を危うくする存在であるとみなしました。
皇帝が李弘に皇帝の座を譲る前に、自分を脅かす李弘を排除いたい・・・!!
武后は、密かに酒に毒を混ぜ殺害!!
息子を殺してまで守った権力の座・・・まだ・・・更なる野望を持っていました。

武后が皇帝と並んで政治を行う姿を、人々は二聖といいました。
聖人は皇帝の別名で、皇帝が二人いるようだと揶揄したのです。
しかし、武后の野望は、二聖より大きくありました。
それは、男性しかなれなかった皇帝になること・・・
どうして中国史上唯一の女帝になることができたのでしょうか?

武后が実権を握り始めた頃、
668年、武后45歳の時、百済・高句麗を制圧し、勢力拡大に成功します。
それは、名君・太宗が成し遂げられなかった偉業・・・
武后の手腕のたまものでした。
国中が歓喜に湧きます。
武后の権力はますます大きくなり、皇帝は最早飾り物同然でした。

この数年前・・・皇帝は武后を排除しようとしたことがありました。
密かに宰相を呼び、自分を蔑ろにする武后の行いを嘆きました。
宰相は・・・
「皇后の横暴な振る舞い、支持するものは誰もおりません
 いっそのこと、皇后を拝されてはいかがでしょうか」

この言葉に勇気を得た皇帝は、皇后廃位の命令書の作成に取り掛かります。
しかし、このたくらみは、すぐに武后の耳に入ってしまいます。

「誠心誠意、陛下を補佐しておりますのに、何が不足でこのようなことをお考えになられるのですか・・・??」

「これは・・・宰相のしたことなのだ
 あやつがそうしろというから、そうしたまでじゃ」

叛逆の首謀者とされた宰相とその息子を処刑・・・
一族を奴隷の身分に落とされました。
これ以降・・・皇帝が武后に逆らうことはありませんでした。

しかし、実はこの事件は、武后にとってはショックなことでした。
皇后の地位は、絶対的な権力を持っていません。
武后自身も、自分の立場が不安定であることを改めて意識しました。
自分の権力を完全に貫徹するには、皇帝になるしかない・・・!!

最後、そして最大の野望・・・皇帝につくために、武后は・・・??

①氏族の系譜の見直し
先代の皇帝の時代、氏族を格付けした書物が書かれていました。
しかし、武后の氏族”武氏”は、掲載されていません。
そこで、武氏一族を名門に位置付けた「姓氏録」を編纂します。
自身の出自の正当性を作り上げます。

②女性の地位向上
当時、父親と死別した家族は、3年喪に服し仕事を休むという決まりがありました。
武后はこれを母親の場合もするべきだと主張します。
母権を父権に近づけようとしたのです。
そして、皇后の呼び名を天后(てんこう)、皇帝の名を天皇(てんこう)としました。
皇后のくらいは天から授けられたものであり、皇帝と並ぶ立場であると人々に意識させるためです。
着々と礎を築いていた683年、武后60歳の時・・・夫の高宗が病に倒れ、崩御・・・。
しかし、武后は空白となった皇帝の座につこうとはしませんでした。

敢て二人の息子中宗・睿宗を順番に皇帝としました。
女が皇帝になるということは、人々の観念に訴えなければいけない・・・
人々の中に、女性が皇帝になってもいいのではないか?
そのためには時間が必要でした。

宮中の人事を操る一方で、武后は先進的な政策を推し進めていきます。
その一つが、科挙の合格者の重用です。
科挙は、身分を問わず優秀な人材を求める官吏登用試験のことです。
隋の時代に始まった制度ですが、重要な役職につくには、結局貴族階級・・・家柄が重視されていました。
武后は才能はあるが身分の低い彼らを製作ブレーンとして自分のもとに置きます。
そして画期的な政策を生み出します。
銅きという投書箱の設置です。
政治への提言、自作の詩、不正の告発・・・民衆の声や才能を深く募ったのです。
しかし、真の目的は、役人の行いを密告させ、臣下の中の反乱分子をあぶり出すことでした。

「密告しようとするものがあれば、その内容を問わず、途中の駅馬や食事を提供し、上洛に便宜を図る
 たとえ密告が本当でなくても罰せられることはない」

武后は自分が面談し、密告が本当だとわかればだれでも雇用・昇進させました。
すると、たとえ密告が嘘であったとしても、役人を拷問し、無理やり罪を認めさせようとする人たちが現れました。
彼等はそのひどい行いから酷吏と呼ばれました。
告発されたものは、たとえ無実であったとしてもその罪を背負わされ処罰されました。
恐怖政治で役人を押さえつける一方、武后は民衆からの支持を得ることもぬかりありませんでした。
力を入れたのが仏教です。
当時、長安では玄奘三蔵が仏教の経典を天竺から持ち帰ったことで仏教の人気が高まっていました。
武后は多額の寄付をして仏教の保護に努めました。
現在の洛陽市の近郊にある龍門石窟といわれる聖地・・・十万体もの石仏が並んでいるともいわれています。
武后はここに高さ16メートルの廬舎那仏を作らせました。
仏の顔は武后の顔を模して造られたとされ、武后への崇拝の念を刷り込まれたといわれています。
民衆の気持ちを捕らえる権力の中の自分の邪魔者を排除する・・・それをやったうえで、機は熟したと考え、最後の一押しを画策しました。

690年9月3日、宮廷の門前に武后の息のかかった酷吏が900人以上の全国の有力者を従えて現れました。

「国号を改めてください」

国号を改めてくださいとは、武后を皇帝にいただく新たな国にしてほしいという意味でした。
翌日にはこれに官吏や農民、僧侶、異民族の長など・・・宮廷を囲む人は6万人にもなりました。
この事態を受け、皇帝は武后にこう提言します。

「どうか・・・皇帝になって下さい」by睿宗

「われ、天命を受け入れる!!」by武后

この時、史上唯一の女性の皇帝が誕生しました。
14歳で後宮に入ってすでに50年以上・・・武后、67歳の時でした。

あらゆる策略を用いて、遂に皇帝となった武后・・・
国号は、古代中国の国に倣い”周”としました。
古代の周は、平等な社会を築いたとして、孔子から高く評価されていました。
その再現を、武后がしてくれるのでは・・・と、民衆は期待しました。
都も長安から周と同じ洛陽へ・・・!!
新しく宮殿を建設・・・新しい時代が幕を開けました。
この遷都によって、名門貴族は力を削がれ、科挙による人材登用がさらに進みます。

しかし、その一方で、武后は武氏一族を重用していきます。
武后は女帝になることに全力を注いできたので、後継者の問題はほとんど頭にありませんでした。
しかし、新しい王朝を作ったということは、武氏の王朝を作ったということ・・・
武氏の血族を自分の身辺に置くことを考えて、後継者をどうするのか迷い続けていきます。

武后の気をひこうとするものも・・・酷吏たちです。
武后が皇帝となった今、酷吏たちはあまり必要なくなっていました。
そのため、存在価値を高めるべく、嘘の密告を重ねます。
罪のない有能な官僚を処刑・・・盤石だった武后の政権は、足元から崩れようとしていました。
武后がのめり込んだのは、愛人でした。
相手は貴族でも役人でもない・・・一介の商人・・・薬売りの遊び人でした。
男に夢中になった武后は、身分の低い愛人を堂々と宮中に呼び寄せられるようにわざわざ出家させます。
そして、その愛人のために、巨大な寺院を建設させたといいます。

696年・・・73歳の時・・・北方遊牧民族が侵攻してきました。
なんとか洛陽寸前で止めたものの、かつて周辺諸国を圧倒した力は失われていました。
武后への失望は、政権内部から農民にまで広がっていきます。
しかし、そんな情勢も知らんとばかりに80歳も近くなった武后は、再び愛人にのめり込みます。
今度の相手は、まだ20歳前後の美男子兄弟でした。政治手腕などないに等しい二人に新たな役所を作り、要職につけます。
当然成果はなく、兄弟の横暴さを強調させただけでした。
二人を告発する声ががっても、武后は聞く耳を持ちませんでした。
そして705年1月・・・宰相が中心になり、武后の息子・中宗を立ててクーデターを決行!!
愛人の兄弟を斬り捨てて武后に迫ります。

「人々は唐の復興を待ち望んでおります
 どうか、皇帝の座を皇太子に譲られ、万民の要望にしたがってください」

息子を見据えながら、武后はこう言いました。

「来るべきものが来た
 あとは静かに成り行きに任せ、そして消えゆくのみ」

中国史上、最初で最後の女帝・則天武后の治世はこうして終わりを告げました。
皇帝についてから、15年後のことでした。

それからわずか10か月・・・武后は静かに息を引き取りました。
82歳でした。
遺言にはこう書かれていたといいます。

「帝の称号は取り去り、則天大聖皇后と称する
 王皇后の一族、そして自分に逆らった官僚たちやその親族、彼らの罪を赦す」

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