日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:太平洋戦争

2019年10月31日未明・・・日本中に衝撃が走りました。
沖縄・首里城の正殿から火災が発生・・・火は瞬く間に燃え広がりました。
首里城は必ずよみがえる・・・なぜなら、この城は太平洋戦争の戦火にあってもなお、逞しく蘇ったのだから・・・!!

誰もが目を疑ったその火災・・・正殿をはじめとする主要な建物が全焼し、貴重な絵画や工芸品も焼き尽くされました。
沖縄を愛する全ての人にとって、つらく、悲しい事故でした。
しかし、首里城が焼けたのは、これが初めてではありません。
過去にも4度、大火災に見舞われ、そのたびに不死鳥のようによみがえってきました。
14世紀に創建されたと言われる首里城は、15世紀、17世紀、18世紀と、火災に見舞われてきました。

4度目は、太平洋戦争末期の沖縄戦・・・首里城は、アメリカ軍の集中砲火に見舞われました。
城の地下に、日本軍の司令部が置かれていたためでした。
廃墟と化した首里城・・・その再建は、ほとんど不可能と考えられました。
城の情報も、何もかもが失われてしまったからです。
しかし、人々はこの困難を乗り越えました。
志を一つにして、力を合わせました。
そして、戦火から47年後の1992年・・・ついに、首里城は蘇ったのです。
人々はどのように首里城を復元することができたのでしょうか??
困難を乗り越えることができたのでしょうか??
それが、今回の再建の糧となるに違いない・・・!!

敗戦から47年もの間、失われていた首里城・・・元通りに再建することはとても不可能と考えられていました。
何故なら、建物の構造や色など、基礎となる情報が残っていなかったのです。

①歴史家・高良倉吉
彼に与えられたミッションは、再建に必要な資料を日本から探し出し、幻の城の設計図を作り上げることでした。
古の首里城の姿を、追って、追って、追い続けたのです。
琉球史研究の第一人者・高良倉吉・・・平成の首里城復元プロジェクトに当初からかかわりました。

「この島の歴史的な特徴をアピールできる最も偉大な存在です」by高良

しかし、首里城は跡形もなくなくなっていました。
どんな城だったのかを知るには、資料に頼るほかない・・・それを零から探し出すことが、高良のミッションでした。

「首里城を復元するって、具体的にどんな資料があるんだろう・・・
 ハリボテというか、オープンセット風のものしかできないんじゃないか
 それを乗り越えるような知識が全くありませんでした」by高良

首里城の真の姿とは・・・??

戦後、アメリカに統治された沖縄・・・首里城の廃墟には、それを覆い隠すような形で琉球大学が建設されました。
大学の建物が蓋をしている限り、復元は不可能だ・・・
しかし・・・1972年、沖縄返還!!
その5年後、大学の移転が決まり、蓋が取れました。
これで、やっと城の再建が可能になりました。
1984年、沖縄県はついに「首里城公園基本計画」策定。
しかし、いきなり難題にぶつかります。
そもそも首里城がどんな城だったのか??誰にも分からなかったのです。
沖縄戦で、消失した首里城は、本来の姿ではありませんでした。
明治政府による琉球処分により、琉球王国が滅びて以来首里城はもはや城ではなくなっていたのです。
日本軍の施設にされたり、女学校の校舎にされたりした挙句、太平洋戦争前には神社に変えられていました。
復元すべきは、そんな変わり果てた首里城ではなく、誰も見たことのない琉球王国時代の首里城だったのです。

「王国だった頃の首里城を目指そう!!」by高良

現役だった頃の首里城・・・それは一体どんな城だったのか・・・??
正殿の前にある御庭(ウナー)は、中国の皇帝の使節たちを迎えて外交イベントをしたり、様々な祈りも・・・琉球最高の芸能がそこで演じられる・・・琉球最高の劇場でもありました。
しかし、王国時代の首里城の資料は、沖縄戦の戦火によってほとんどが失われていました。
構造も、色も、装飾も、技法も、資材も・・・何一つわかりませんでした。
首里城は、幻の城でした。
高良はその幻を取り戻すため、ありとあらゆる可能性を探し求めます。
東京・文化庁で一つの資料が見つかります。
神社だった時代の資料・・・拝殿図です。
戦前に行われた昭和の大修理の記録です。

正殿の平面図、立面図、建築的にしっかりしたものでした。
正殿を支えている柱のサイズが具体的に議論できました。
屋根の勾配も・・・!!
しかし、大きな問題がありました。
”がらんどうの正殿”だったのです。
1階と2回に部屋がいくつかあったはずなのに・・・それが表現されていませんでした。
そして、その玉座も表現されていない・・・!!
けれども、首里城正殿の大まかな構造がわかったことは収穫でした。

その突破口は・・・沖縄文化の研究家・鎌倉芳太郎の遺品の中に資料がある・・・??
お鎌倉の遺品が保管されていた沖縄県立芸術大学・・・その書庫で、梱包された状態で見つかりました。
風呂敷包みを開いてみると・・・古文書・寸法記が見つかりました。
それこそが、琉球王国時代の首里城正殿の改修記録でした。
まるで王国時代の首里城正殿にタイムスリップしたかのような情報でした。

拝殿図で抜け落ちていた玉座・御差床の位置など、内部構造が描かれていました。
それだけでなく、朱色・・・黒・・・黄色・・・琉球王国時代の首里城は、色鮮やかな城でした。
寸法記の発見で、プロジェクトは大きく前進します。
しかし、高良にはどうしても手に入れたい資料がもう一つありました。
琉球王国最後の王・尚泰・・・琉球処分のあと、明治政府によって東京に移住させられていました。
高良は、尚家代々の秘宝の中に、首里城に関する古文書があるのではないかと考えました。
しかしそれは、一つ地縄ではいかないミッションでした。
尚家の古文書は、これまで一切一般公開されたことのない門外不出の資料でした。
それを管理していたのは、尚泰のひ孫・尚裕でした。
尚裕さんに会いたい・・・しかし王家の末裔・・・どうすればいいのか??

高良たちが通う喫茶店のマスター・徳永盛保さんが、尚裕さんと仲が良かったのです。
徳永は、早速尚に連絡・・・尚は、面会を承諾しました。
高良は東京へ出向き、指定された銀座の会員制クラブで尚裕と会いました。
しかし、この日はまだ、古文書のことは切り出しませんでした。
高良は尚に、首里城復元プロジェクトの進捗状況を伝えます。
その後、沖縄で改めて会った時、高良は初めて本題に入りました。

「資料を観ずに復元は・・・琉球の歴史をずっと伝えてきた先人たちの努力や思いに反することになる!!と、より完全を期すために、尚さんの資料が必要です」by高良

2か月後・・・喫茶店のマスター・徳永から、桐の箱が届けられました。
その中身は、4冊の古文書・・・”普請日記”その複写資料でした。
王国時代の首里城改修の記録でした。
現場状況が詳細にわかる・・・!!
人が、資材が、みえる・・・!!

特に高良が驚いたのが・・・回摺奉行と書かれていたこと・・・これは、琉球漆器などに関わる職人たちを束ねる役職です。
琉球漆器と城の意外な組み合わせ・・・高良は、日本の城とは違う首里城の本質を見抜きました。
漆器職人・・・その技術をベースにして、建物の塗装工事に生かしたのです。
首里城正殿は、巨大な琉球漆器でした。

その後、尚裕は大きな決断をします。
尚家が代々管理をしてきた古文書などの宝物を、すべて那覇市に寄贈したのです。
それらは、沖縄県における戦後初の国宝に指定されました。

「きちんと復元されるということは、尚本家にとっても非常に誇りであり、沖縄の宝であり、国の宝にもなっていく・・・」by尚裕

拝殿図、寸法記、普請日記・・・パズルのピースは、遂に埋まりました。
幻に過ぎなかった城は、現実に姿を現そうとしていました。
資料探しと並行して、首里城跡で発掘調査が行われました。
遺構がしっかりと残っていました。
失われた首里城正殿の石組みが丸々出てきました。
首里城の跡を傷つけないように土をのせて大学本部を作っていたのです。
やがて調査されるかもしれなし、復元されるかもしれない・・・
未来に遺構を送り届けてくれていました。

必要な木材は・・・直径40センチ、高さ8メートルの垂直にまっすぐ伸びた柱・・・
これが、正殿だけでも100本以上必要でした。
木材調達の使命を担ったのは・・・

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②首里城設計総括者・中本清
日本中で巨木を探し続けた中本は、最後に意外なところから調達に成功します。
建築設計会社の社員だった中本が、この仕事を任されたのには理由がありました。
以前、中本は沖縄の昔の民家を再現した郷土村を設計・・・その経験が買われたのです。
中本には、父の代から続く首里城との縁がありました。
中本の父は、戦後、琉球大学建設に携わっていました。

「大学の本館を作る時、地面をならしたけど、だけど首里城の基盤のところは土をかけて壊さなかったよ」by父

そこにお城があったってことがまぎれもない事実・・・
あの時、古の首里城の遺構を守った一人が、中本の父親でした。

中本のミッションは、首里城の骨格となる木材調達でした。
沖縄の地場で取れる材木で、チャーギ(イヌマキ)、オキナワウラジロガシ・・・この二つです。
しかし、戦後、家を失った住民たちのために、簡易住宅が7万戸以上建てられたため、イヌマキなどを含む木が、県内などで伐採されていました。
沖縄での調達は不可能・・・いっそ、鉄筋コンクリートにしてはどうか??

中本は、日本中で使えそうな木材を探します。
しかし、全国の山林を調査したものの、気候に合わない、数がそろわないなど、条件を満たすものはありませんでした。
戦前の改修工事の資料の中に、意外な記述がありました。
そこには”台湾檜”・・・!!
この時も、沖縄の木材では足りず、一部に台湾産のヒノキが使われていました。
これが活路を見出します。
気候風土からすると、やはり台湾だろう・・・!!
1986年1月・・・中本は、台湾へ飛びます。
訪れたのは、台湾檜の産地・台湾北部の宜蘭県です。
中本たちが車で向かったのは、標高およそ2000mの太平山です。
険しい山道を進みながら、遂にたどり着きます。
巨大な台湾檜・・・!!

樹齢数百年クラスの大木が、林立していました。
しかし、中本のそんな喜びは、交渉で一気にかき消されます。
「もう切れないよ」「ダメかもしれないよ」と言われてしまったのです。
台湾檜もまた戦後の復興期に大量に切り出されたために、伐採制限がかかっていたのです。
中本たちのピンチを見て、案内をしていた陳燈財は立ち上がり、こう言いました。

「首里城を作るんだったら、俺たちは琉球のために一生懸命やるんだ
 お隣同士じゃないか、兄弟みたいなもんじゃないか・・・!!」

陳が育ったのは、日本の統治時代・・・陳は、中本たちを励ましました。

「私も大和魂で頑張るから・・・!!」と。

大和魂は信用を守ることだ・・・!!
木材の調達を一任された陳・・・新たに切り出すことを諦め、伐採済みの台湾檜に切り替えます。
その為には、台湾全土の会社を一軒一軒回って探す必要がありました。
中本の台湾視察から1年後・・・陳親子は、台湾檜およそ350トン分を中本たちのもとへ届けました。
1989年11月、平成の幕開けと共に首里城の再建が始まりました。
沖縄と台湾の絆がもたらした台湾檜は、着々と組み上げられていきました。

③漆芸家と妻・前田孝允、栄
2人は、琉球王国の威風を再現するために、身も心も捧げました。

首里城の近くに住む前田栄・・・
去年のあの日、栄は自宅からの避難を余儀なくされました。

「火の粉がもう・・・空一杯広がってましたよ」

火災の日、夫の前田孝允は、手のケガで入院していました。

前田孝允の火災直後の言葉・・・

「何もかも無くなったが、また新しくやり直そう
 前向きに考えるとやる気が出る」

だが、その思いもむなしく2020年1月14日、逝去・・・享年83歳でした。

平成の首里城復元プロジェクトでは、4つの専門部会(木造部会・彫刻部会・瓦類部会・彩色部会)が設置され、より細かい調査が進められていきました。
前田孝允は、彩色部会のメンバーの一人に選ばれました。
琉球漆器の第一人者・・・孝允の知識と技が必要とされたのです。

「貝摺奉行時代の作品・技法といいますか、そういったものを復元しようと思ってね
 これからも、琉球文化を象徴するものとして、この漆器というものを作っていかなくてはいけない」by孝允

孝允と栄が出会ったのは、伝統工芸の講習会でした。
首里城の復元が始まった後、孝允から栄に声を掛けました。

「一緒に首里城を作りませんか」

これが、プロポーズでしたが・・・

孝允の仕事は、栄の想像を超えていました。
それは、王の威風を取り戻すための真剣勝負でした。

高良倉吉が見つけた寸法記によって、玉座の間の様子はおおむねわかっていました。
王の威風を最も表現している御差床と呼ばれる玉座・・・
孝允は、その玉座の脇に立つ柱に注目しました。
柱の色は朱・・・そして模様は、金龍五色之雲とありました。
正殿正面の柱にも、同じ文字・・・柱の模様は一緒だと推測されました。
しかし、絵は簡素なもの・・・しかも線画・・・五色の色はわかりませんでした。

手掛かりはほとんどない・・・高良倉吉から、博物館である遺物を発見したと報告がありました。
それは、龍透彫仏間引戸・・・一枚の扉でした。
かつて琉球王家の菩提寺だった円覚寺にあったものです。
非常に素晴らしいもので、そこにあったのは空を舞う金色の龍・・・雲には、黄・緑・朱・白・青!!
まさに、金龍五色之雲でした。
まさに”琉球王家の美意識”、首里城正殿もこのような表情をしたものであったのではないか??

「この五色は古代仏教やチベットあたりでは今でも使われている
 青は空、緑は水、朱は火、白は雲を、黄は大地を意味し、五色で全宇宙を表現しているのです」by孝允

あとは、龍のデザイン・・・孝允の創造性が試されます。
孝允は、古今東西、様々な龍を研究します。
首里城に相応しいイメージを探し求めました。
そして下絵に着手しました。
本当に自分で描いているのか??何かに描かされているような感じでした。
孝允が下絵を描き、栄が清書します。
やがて下絵が完成します。
五色の雲が浮かぶ天空を、龍が舞い昇る・・・!!
そして龍の顔は・・・優しくて可愛い・・・!!

前田孝允自身は、
「僕の書いた龍は優しいと言われます
 でも”僕の龍”ではなく”琉球の龍”が優しいのです
 戦を好まない、琉球の人たちの気持ちが伝わるのでしょう
 その優しい龍に守られていると、心が安らぐのです」と言っています。

孝允による金龍五色のデザインが完成しました。

その後、孝允のアトリエに玉座の間の模型が運び込まれました。
実際に色を塗り、雰囲気を確かめるためです。
1989年3月27日、着色模型完成。

首里城の工事が着々と進みます。
そしてようやく、玉座の間での作業の日が来ました。
初めて柱に龍の絵を巻き付けたとき・・・躍動感がありました。
前田夫婦は、城のお披露目2日前まで玉座の間で作業を進めていました。

1992年11月2日・・・
幻だった首里城が、沖縄返還20周年の年に蘇りました。
戦争による消失から47年目の奇跡でした。
一般公開が始まると、初日に訪れた人は4万7000人に上りました。
それは、琉球王国の時代へのタイムトリップでした。
御庭という広場を前に、ひときわ鮮やかな首里城正殿・・・!!
琉球文化独特の装飾、そして色合い・・・!!

海を渡り、台湾から贈られた檜がこの堂々たる威容を作り上げました。正殿内部の玉座の間・・・かつて王たちが儀式を行った神聖な場・・・その空間を支える金龍五色之雲の柱・・・優しい龍の顔には、平和への願いがこめられました。
首里城債権の悲願は、遂にかなったのです。

多くの人々の身を削る努力の末に、古の姿がよみがえりました。
2000年ユネスコ世界遺産登録・・・!!
ところが、2019年10月・・・突如として首里城が燃え落ちたのです。
人々は、再び深い悲しみに打ちひしがれました。
しかし、再建への動きはすぐに始まりました。
平成の復元で培った知識と経験、なにより沖縄の誇り、首里城への変わらぬ思いが背中を押してくれるはずです。
令和の首里城復元は、力強く歩みを進めようとしています。
日本中、世界中が心を痛めた首里城の悲劇・・・しかし・・・!!
沖縄は、すぐに動き始めました。
自分たちの心のよりどころを取り戻そう!!
12月27日、第1階首里城復元に向けた技術検討委員会が開かれました。
委員長には高良倉吉が選ばれました。
現在では、”見せる復興”と題し、令和の復元工事を一般公開しています。
戦後の人々が守った王国時代の遺構も見ることができます。

令和の首里城復元完了は、2026年を目指しています。
琉球の魂は、決して失われない・・・!!

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昭和17年に、一人の若者が書いた詩・・・

ぼくも戦に征くのだけれど

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし
勝ったはなし
三ヶ月もたてば
ぼくも征くのだけれど
だけど
こうしてぼんやりしている

ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう
てがらたてるかな

だれもかれも
おとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど
征くのだけれど

なんにもできず
蝶をとったり
子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた

作者は竹内浩三・・・太平洋戦争の激戦地・フィリピンで戦死しました。
23歳の若さでした。
彼は、その短い生涯の中で、たくさんの詩を書き残しました。
戦後、遺族によって作品集が生まれ、多くの人に読まれるようになりました。

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銭湯へ行く
麦畑をとおる
オムレツ形の月
大きな暈をきて
ひとりぼっち
熟れた麦
強くにおう
かのおなごのにおい
チイチイと胸に鳴く
かのおなごは
いってしまった
あきらめておくれと
いってしまった
麦の穂を噛み噛み
チイチイと胸に鳴く


戦時下にあってもみずみずしい言葉に満ちた言葉・・・
それは、どこから生まれたのでしょうか??

竹内浩三は、三重県から出てきて高円寺に下宿していました。
彼が通っていた日本大学専門部映画科は、当時映画制作を学ぶことができる唯一の学校でした。
その頃の日本は、中国大陸でいつ終わるかもわからない戦争を続けていました。
若者たちは、次々と戦地に送られていたのです。
しかし、学生である浩三は、実家からの送金で映画を見たり、音楽を聴いたり、芸術三昧の生活を送っていました。

学生時代、浩三は4歳違いの姉・こうに宛てて頻繁に手紙を書き送りました。
すでに結婚していた姉・・・思春期に相次いで両親を亡くした浩三にとって、たった一人の肉親でした。
レポート用紙や原稿用紙に綴られた手紙は、時に日記替わりであり、時に作品発表の場でした。
そして、いつも金の無心で結ばれていました。

手紙には恋の話もよく書かれていました。
恋の話と言えば聞こえはいいものの、その実、すべて失恋話でした。


あきらめろと云うが

かの女を人は
あきらめろと云うが
おんなを 人は
かの女だけでないと云うが

おれには遠くの田螺の鳴き声まで
かの女の歌声に聞こえ
遠くの汽車の汽笛まで
かの女の溜息にきこえる

それでも
かの女を 人は あきらめろと云う


竹内浩三は、大正10年、三重県宇治山田市・・・今の伊勢市に生まれました。
実家は豪商として知られた呉服店・・・天文学が好きだった父と映画好きの母との間で伸び伸びと育ちました。
浩三が中学時代に熱中していたのが、漫画でした。
普通に書くだけでは飽き足らず、左手で書いたり、口で書いたり、足で書いたり・・・
浩三の漫画は、同級生の間で大人気!!
手書きの漫画回覧誌を一人で発行していました。
有名人の似顔絵シリーズ、四面楚歌をもじった「四面軍歌」、浩三は思ったこと、感じたことを、時に風刺を聞かせて描きました。

浩三は、軍事訓練が大の苦手でした。

昭和15年、浩三は1年の浪人を経て日大専門部映画科に入学・・・
学生生活をスタートさせます。
毎日映画を見、そのシナリオを研究し、自らオリジナルの脚本を書いていました。
そして、恋をしてはふられていたのです。

昭和15年9月、日独伊三国同盟調印・・・
アメリカ、イギリスとの対立を深めていきます。
学生たちが参加する野外連合演習も本格的なものになっていきました。
浩三の学校でも、軍事演習が行われました。

昭和16年10月・・・政府は専門学校生を繰り上げ卒業させることを決定。
浩三たちは、一年後には兵隊になることが決まりました。
その2か月後・・・昭和16年12月8日、真珠湾攻撃!!
太平洋戦争に突入します。


冬に死す

蛾が
静かに障子の桟からおちたよ
死んだんだね

なにもしなかったぼくは
こうして
なにもせずに
死んでゆくよ
ひとりで

生殖もしなかったの
寒くってね

なんにもしたくなかったの
死んで行くよ
ひとりで

なんにもしなかったから
ひとは すぐぼくのことを
忘れてしまうだろう

いいの ぼくは
死んでゆくよ
ひとりで

こごえた蛾みたいに

昭和17年5月・・・浩三は伊勢に帰郷しました。
徴兵検査を受けるためです。
結果は「甲種合格」・・・
入営は5か月後の10月1日と決まりました。
自由に暮らせるのもあと5ヶ月・・・

徴兵検査から戻った浩三は、1か月もたたないうちに新しいことを始めました。
昭和17年6月1日、友人たちと同人誌「伊勢文学」を創刊したのです。
発行部数十数冊の手作り文芸誌は、詩や随筆を掲載、第3号までは浩三が編集し、毎月発行しました。
同人は、中学時代の仲間たちです。
浩三は創刊号のあとがきにこう記しました。

見た通りこの雑誌は貧弱なものである
ぼくたちは、もっともっと勉強してこの伊勢文学をますますいい雑誌にしよう
ぼくたちは、若いんだから何でもできる

第2号に掲載された鈍走記・・・
この作品は、浩三の中に湧き上がる気持ちを短く綴ったものです。

生れてきたから、死ぬまで生きてやるのだ。ただそれだけだ。
日本語は正確に発音しやう。白ければシロイと。
もし軍人が、ゴウマンでなかったら、自殺する。
✕✕は、✕の豪華版である。
✕✕しなくとも、✕✕はできる。

敢えて伏字にしたこの部分・・・
後に発見された草稿に書かれていたのは、
戦争は悪の豪華版である。
戦争しなくとも、建設はできる。
でした。

そして、またしても失恋・・・

メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト

若草山や
そよ風の服
大和の野 かすみ かすみ
そよ風の吹く

おなごの髪や
そよ風の吹く
おなごの髪や
枯草のかかれるを
手をのばし とってやる

おなごのスカアトや
つぎあとのはげしさ
おなごの目や
雲の映れる
そよ風の映れる

二人は いつまで と
その言葉や
その言葉や
そよ風の吹く

内地勤務になるよう挨拶に行って欲しいという姉・こうさんの頼み・・・
浩三は、こんな手紙を送ります。

”別の手紙で書いたように、青木さんに会いました
 一生のお願いだそうですが、こんな他愛もないことに一生のお願いでは人間が安っぽく見えていけません
 一生のお願いは、一生に一度のものだと思いますが、あんたは前にも何かでこのお願いをやらかしたような気がします
 衣料切符のように大切に使って下され
 学校へ出てますから、ご安心下され
 大映の京都の助監督の口があったが、兵隊前なのでダメでした
 僕は、芸術の子です”

昭和17年7月・・・

ぼくも戦に征くのだけれど

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし
勝ったはなし
三ヶ月もたてば
ぼくも征くのだけれど
だけど
こうしてぼんやりしている

ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう
てがらたてるかな

だれもかれも
おとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど
征くのだけれど

なんにもできず
蝶をとったり
子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた

この詩は、愛読していた萩原朔太郎の詩集の余白に書きつけられていました。
伊勢文学には発表できなくても、書かずにはいられなかった素直な思い・・・


昭和17年7月頃の詩・・・

よく生きてきたと思う
よく生かしてくれたと思う
ボクのような人間を
よく生かしてくれたと思う

きびしい世の中で
あまえさしてくれない世の中で
よわむしのボクが
とにかく生きてきた

とほうもなくさびしくなり
とほうもなくかなしくなり
自分がいやになり
なにかにあまえたい

ボクという人間は
大きなケッカンをもっている
かくすことのできない
人間としてのケッカン

その大きな弱点をつかまえて
ボクをいじめるな
ボクだってその弱点は
よく知っってるんだ

昭和17年8月・・・入営まであと2か月・・・
浩三は自分が戦地に行って死ぬことを、より強く意識するようになります。

昭和17年8月

骨のうた

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあはれ
とほい他国でひょんと死ぬる
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬる
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまふや
その心や

苔いじらしや
あわれや兵隊の死ぬるや
こらえきれないさびしさや
なかず 咆えず ひたすら銃を持つ

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なにもない 骨

帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や
女のみだしなみが大切で
骨を愛する人もなし

骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
それはなかった

がらがらどんどん
事務と常識が流れていた
骨は骨として崇められた
骨はチンチン音を立てて粉になった

ああ 戦死やあわれ
故国の風は 骨を吹きとばした
故国は発展にいそがしかった
女は化粧にいそがしかった

なんにもないところで
骨はなんにもなしになった


そして9月・・・入営の日まで1か月を切りました。

みんなして酒をのんだ
新宿は、雨であった
雨にきづかないふりして
ぼくたちはのみあるいた

やがて、飲むのもお終いになった
街角にくるたびに
なかまがへっていった

ぼくたちは
すぐ いくさに行くので
いまわかれたら
今度あうのはいつのことか
雨の中へ、
ひとりずつ消えてゆくなかま
おい、
もう一度、顔みせてくれ
雨の中でわらっていた
そして、みえなくなった

昭和17年9月30日・・・浩三は入営のため、伊勢に帰郷します。
入営の朝、揺れ続ける思いに自分なりに区切りのつけた浩三の姿を、姉のこうさんは忘れることが出来ません。

昭和18年10月1日、浩三は陸軍二等兵として三重県久居町の門をくぐりました。
今は、陸上自衛隊の久居駐屯地となっています。

浩三は、入営の日の朝、自分の机に一枚の書置きを残していました。

入営の日の書き置き

十月一日、すきとおった空に、
ぼくは、高々と、日の丸をかかげげます。
ぼくの日の丸は日にかがやいて、
ぱたぱた鳴りましょう。
十月一日、ぼくは〇〇聯隊に入営します。
ぼくの日の丸は、
たぶんいくさ場に立つでしょう。
ぼくの日の丸は、
どんな風にも雨にもまけませぬ。
ちぎれてとびちるまで、
ぱたぱた鳴りましょう。

ぼくは、今までみなさんに
いろいろめいわくをおかけしました。
みなさんは、ぼくに対して、
じつに親切でした。
ただ、ありがたく思っています。

ありがとうございました。
死ぬるまで、
ひたぶる、たたかって、きます。

軍服姿で写る兵士の写真・・・その中で、ひとり浩三だけが横を向いていました。

浩三が入営して1年半後の昭和19年、戦況の悪化は、国民生活にも影響を及ぼしていました。
空襲に備える訓練、日常の全てが戦争一色でした。
その頃、こうさんのもとに茨城県の筑波から小包が届きます。
送り主は浩三でした。
愛読していた宮沢賢治の作品集・・・
その中がくりぬかれていて・・・中には、手帳が・・・!!
それは、浩三の日記でした。
昭和19年の1月1日から始まり、1日も欠かすことなく書き続けられていました。

この日記は、19年の元旦から始まる
しかしながら、ぼくがこの筑波へ来たのは18年の9月20日であったから、約3か月の記録が抜けているわけである。
といって、いまさらその日々のことをかくこともできない。
ざっとかく。
20日の朝、この部隊へきた。
兵舎が建っているだけで何にもなかった。
毎日、飛行機が飛んでいた。
毎日、いろんな設備ができていった。
西風が吹き始めて、冬であった。

浩三の移動先は、西筑波飛行場に兵制された滑空部隊でした。
木と布で作ったグライダーで、最前線に送られる部隊・・・
ひとたび出撃すれば、生きて帰れる見込みが薄かったといいます。
浩三は、周囲の目を盗み、便所の中で日記を書き続けました。

1月7日
朝から演習であった。
泥路に臥して防毒マスクから梢の日当たりを見ていた。
あ・・・雀が一羽飛び立った。
昼のカレーライスがうまかった。
昼からもまた演習であった。
枯草の上に寝て、煙草の煙を空へふかしていた。
この青空のように自由でありたい。

昼夜を問わず行われる演習・・・
抜き打ちの身体検査、一兵卒が日記を書き続けるのは容易なことではありませんでした。

1月16日
午前中、特火点攻撃・・・これまたひどい風であった。
そしてまたその寒さったらなかった。
干しておいたじばんが凍っていた。
夜、饅頭があがった。
二つの饅頭を食ってしまうと、言うに言われない寂しさがやってきた。

2月4日
ぼくはこの日記を大事にしようという気が益々強くなってきた。
この日記をつけるためだけで、かなり大きな支障が日々の務めの上にきたす。
それほど暇がない。
しかし、この日記はおろそかにはすまい。

2月16日
土屋から手紙がきていた。
土屋も中井も予備学生に合格したことがかいてあった。
めでたいと返事したけれども、なんとなく淋しい気がして、気がふさいだ。

3月6日
野村からたより。
野村も幹候をとおる。
あしたからまた中隊当番とはげっそりする。

かつての伊勢文学の仲間たちは、将校に昇進する機会をつかんでいきます。
浩三は、一兵卒のままでした。

3月16日
星の飛行場が海のよう
便所の中でこっそりとこの手帳を開いて、別に読むでもなく、友達に会ったように慰めて・・・そんなことをよくする。
この日記に書いていることが実に情けないような気がする。
こんなものしか書けない。
それで精一杯。
それが情けない。
もっと心の余裕が欲しい。
中井や土屋のことを思う。
余裕のある生活をして本も読めるだろうし、豊かな心で軍隊を生活し、いい詩やいい歌を作っているだろうなと思う。
貧しい言葉しか持たない。
だんだんと言葉が貧しくなるよう。

昭和19年4月、少年兵の受け入れ係になった浩三は、舞台から離れた小学校に寝泊まりすることとなりました。

4月13日
しょうかしつへ行って、オルガンを鳴らしていたら、子供がどっさり集まってきた。
空の新兵をひいたら、みんなそれを知っていて、声を揃えて歌い出した。
自分も歌って極めていい気持になった。

4月14日
飯がすむと子供のところへあそびに行った。
みんなあつまってこいや。
ぼくは、わけもなくただにこにこして、ものもいわずただにこにこしていた。
やすおくん、たかしくん、ちえこくん、としこくん、エヘヘと笑って他愛もない。


ぼくのねがいは戦争へ行くこと。
ぼくのねがいは戦争を書くこと。
戦争を描くこと。
ぼくが見て、ぼくの手で、戦争を書きたい。
その為なら、銃身の重みが脛骨を砕くまで歩みもしようし、死ぬる事さえいといはせん。
一片の紙と鉛筆を与えよ。
ぼくはぼくの手で、戦争をぼくの戦争が書きたい。


浩三から届いた日記は2冊・・・
昭和19年1月1日に始まり7月27日で終わっていました。

このまずしき記録をわがやさしい姉におくる

昭和22年6月
こうさんの元へ浩三の死亡告知書が届きました。

陸軍兵長竹内浩三 昭和20年4月9日 時刻不明 比島バギオ北方1052高地に於いて戦死

私のすきな三ツ星さん
私はいつも元気です
いつでも私を見て下さい
私は諸君に見られても
はずかしくない生活を
力一ぱいやりまする
私のすきなカシオペヤ
私は諸君が大すきだ
いつでも三人きっちりと
ならんですすむ星さんよ
生きることはたのしいね
ほんとに私は生きている

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長野県軽井沢町・・・戦前、国民の人気が高いある政治家の別荘が残されています。
政財界の友人を招き、当時最先端だったゴルフに熱中していました。
別荘の主は近衛文麿・・・
昭和の初め、日本が戦争に突き進んだ時代に3度にわたって首相を務めました。
別荘に残されていた掛け軸・・・昭和19年、アメリカの戦いのさ中、認めた言葉です。
「度量数称勝」・・・国力で圧倒的に勝るアメリカに勝てない・・・そう思っていたであろう近衛文麿、どうして戦いを避けることができなかったのでしょうか?

昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争・・・
そに8か月前、殊勝だった近衛は、アメリカとの関係改善を目指し、和平交渉を行っていました。
そこでまとめ上げたのが「日米諒解案」です。
両国の主張を盛り込んだだけの外交文書でしたが、その後の日米交渉の土台となりました。
しかし、この近衛の動きを真っ向から否定したのが外務大臣・松岡洋右でした。

松岡は第二次世界大戦下のヨーロッパで快進撃を続けるナチス・ドイツとの同盟を軸にアメリカに対抗する力の外交を進めました。
松岡を支持する国民の熱狂が、近衛を外交を狂わせ、外交交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。
迫り来る開戦・・・近衛はルーズベルト大統領とのトップ会談に託しました。
外交と世論のはざまで揺れた近衛文麿、その選択とは・・・??

京都大徳寺・・・ここに近衛家代々の墓所があります。
近衛家は、藤原鎌足を祖先に持ち、代々歴代天皇に仕えてきた公家の名家です。
宮中の中で、代々文化面を司っていた家で、文麿も最初から政治の道についたわけではなく、華族としての立場で政治に関わっていました。
明治時代に作られた特権階級の華族。
その最高位侯爵だった近衛文麿は、大正5年、25歳で政界デビュー、貴族院議員となります。
当時から大衆の人気は高く、名家でありながら親しみやすい人柄で、政界の貴公子としてもてはやされました。
そんな近衛の言論が注目されるようになったのは、大正7年のことでした。
この年終わりを迎えた第一次世界大戦・・・
イギリス、アメリカを中心とする連合国が勝ち、英米主導の新しい国際秩序が築かれることとなりました。
この時、27歳の近衛の論文が議論を呼びます。

「英米本位の平和主義を排す」
英米は戦後の国際秩序を都合よく再編するつもりだ
豊富な天然資源を独占するなど、他国の発展を抑圧している
日本は正当なる生存権を主張し、それを貫徹すべきである

国際協調を掲げながら自国の利益を優先する英米を強く批判したのです。
そして大正から昭和へ・・・近衛が政治の舞台へと・・・!!
昭和恐慌・・・失業者が続出し、政治への国民の不満が高まります。
昭和6年9月満州事変勃発、満州国が誕生しました。
軍部の勢いは誰にも止められないものとなりました。
日本の行き詰まりは支配層の腐敗が原因だと考えた若者によって暗殺やテロが相次ぎます。
総理大臣が次々と変わる不安定な政局の中、新しいリーダーとして期待されたのは、当時貴族院議長だった近衛文麿でした。
昭和12年6月・・・近衛は45歳という若さで内閣総理大臣に就任します。
メディアはこぞって期待します。
”低迷する暗雲の中から一つの光が忽然として輝きだす”
しかし、組閣からわずか1か月で難局に直面します。
7月7日、盧溝橋事件・・・日中両軍が衝突します。
これをきっかけに日中戦争がはじまりました。
近衛は国民が一丸となって戦うように大演説を行い、ラジオや新聞を使って戦意高揚に・・・!!
日中戦争は拡大の一途をたどり、南京まで陥落!!
熱狂した人々は手旗や提灯をもって行進し、日本中が歓喜の渦に包まれました。
この世論の高揚が、近衛内閣に影響を及ぼすこととなります。
その頃、日本はドイツの仲介で、中国側と交渉していました。
相手は国民政府を率いる蒋介石でした。
しかし、戦勝に湧く世論に押され、交渉条件を釣り上げてしまいます。
それは、満州国の承認、賠償金の要求・・・中国側が容認しがたいものでした。
当時の外交の問題点は、ほぼ呑めないであろうモノを求めてしまった・・・その国際感覚のなさ、国内向けの政治を重視した外交でした。
国民の戦争熱を煽った場合、自分でも止められなくなって・・・外交的に妥協すべきところで妥協できなくなってしまったのです。
昭和13年1月、近衛は中国に対し、事後、国民政府を相手とせずと、自ら和平交渉を打ち切りました。

日中戦争がはじまって3か月後の昭和12年10月・・・
アメリカのルーズベルト大統領が演説を行いました。
「アメリカは戦争を憎む
 アメリカは平和を望む
 だからこそ、平和のために関与することを辞さない」
名指しこそしなかったものの、日本を強く批判したものでした。
当時、中国との貿易拡大を目論んでいたアメリカ・・・海軍の軍備増強に着手し、中国国民政府に援助物資をするなど、日本との対決姿勢を明確にしました。
日本では泥沼化する日中戦争に国民は厳しい統制下に置かれていました。
昭和14年1月、第一次近衛内閣総辞職。
外交方針を巡って閣内で対立したことが原因でした。

この年、ヨーロッパ情勢は激動を迎えていました。
昭和14年9月第二次世界大戦勃発。
ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスはドイツに宣戦し、戦いが始まりました。
ドイツはデンマーク、オランダ、フランスなど周辺諸国を次々と制圧し、ドイツの優勢をみたイタリアもドイツ側として参戦!!
東京荻窪にあった近衛の邸宅「荻外荘」
昭和15年7月、再び首相に推された近衛は、組閣に先立ち陸海軍大臣、外務大臣予定者を呼び、ドイツ・イタリアとの関係強化を決定します。
この時、外務大臣に任じられていたのが松岡洋右でした。
昭和8年日本は国際連盟脱退を通告。
松岡の演説は、世界を相手に物怖じしない姿に、国民は喝采を送りました。
オレゴン大学を卒業し、アメリカ痛を自負していた松岡、弁が立つと、軍部を押さえられる人材と近衛が抜擢したのです。
第2次近衛内閣発足2か月後、松岡が主導した外交が世界に衝撃を与えます。
昭和15年9月日独伊三国同盟締結。
松岡の狙いは三国の結束を誇示することでアメリカに対抗するというものでした。
この同盟には、近衛にも明確な狙いがありました。
アメリカとの衝突を避けること・・・!!

昭和9年・・・首相になる3年前に近衛がアメリカに50日間滞在した時の記録・・・「米国巡遊日記」には・・・
ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれたり、各地で政財界の要人と交流を深めていたことが書かれています。
「ニューヨークに現代日本を正しく伝える施設を作るべきだ」とも。
両国の文化交流を進めることで、対立を避けられると考えていました。
アメリカ国民に対して友情の大切さを語る画像も残っています。
「私は多くの旧友たちと再会し、新しい友人たちと出会いたいと思っています。
 そして、太平洋の反対側にいる私たちが80年育んできた日米間の友情を、どれほど大切に思っているか、私から直接お伝えしたいのです。」
大国アメリカを目の当たりにした近衛にとって、日米開戦は絶対にあってはならないものでした。

昭和15年11月、アメリカから二人の神父が施設として来日・・・
「日米の友好関係の回復を望む」アメリカからのシグナルでした。
当時ドイツと戦うイギリスを支援していたアメリカは、同時にアジアで日本と対立するのは避けたいと考えていました。
しかし、中国問題をめぐり、日米関係が悪化していたために、民間レベルで交渉を始めたのです。
アメリカとの対決に危機感を抱いていた近衛は、期待していました。
昭和16年2月、日本の使節がアメリカに向かいました。
対話の機運が高まったため、僅か2か月で駐米大使・野村吉三郎と国見長官コーデル・ハルの交渉に格上げされました。

日米諒解案・・・
外交方針から経済協定まで、あくまでお互いの主張を記したものに過ぎなかったものの、冷え切った日米関係の解決の糸口となるものでした。
アメリカの狙いは、日本が三国同盟における軍一事情の義務を免れること・・・
アメリカとドイツが戦争になっても、日本は参戦しないという意図が含まれていました。
日本の狙いは、日中戦争の解決でした。
アメリカが満州国を承認すること・・・ルーズベルト大統領による中国の和平勧告日本の有利な条件が盛り込まれました。
さらに、近衛にとって大きかったのは、日米首脳会談でした。
国内の調整をへずにTOPで外交方針を決められる強力なものでした。
しかし・・・ハルは諒解案に基づく交渉を始める前に、前提条件を示していました。
ハル四原則
①領土保全と主権尊重
②内政不干渉
③機会均等
④太平洋の現状維持
それは、中国をはじめとする他国の領土や主権を守り、内政干渉や武力行使を全面的に禁止するというものでした。
交渉が途絶えるのを恐れた野村は、東京に諒解案を伝える前に、この四原則には触れませんでした。
4月18日、諒解案を受け取った近衛は、大本営政府連絡懇親会で検討。
軍部も賛同し、これをたたき台にアメリカとの交渉を始めようとしていました。
ところが・・・この動きに強硬に反対したのが、外務大臣・松岡洋右でした。
松岡は日米交渉の模索が始まっていた3月から1月あまりヨーロッパを外遊していました。
ドイツではヒトラーと会談し、熱狂的な歓迎を受けました。
帰路、ソ連で直接スターリンと直接交渉し、昭和16年4月、日ソ中立条約締結に成功。
松岡は三国同盟に莫大な戦闘機や陸上兵力を加えたソ連との”四国協商”を構想・・・連合国に匹敵する軍事力でアメリカを圧倒しようとしていました。
4月22日、松岡は帰国。
政治家、軍人、メディアが迎える華々しい凱旋となりました。
松岡の外遊は、外交史上画期的な出来事と報じられ、近衛自ら飛行場に足を運び、松岡を出迎えました。
しかし、自分のいないところで近衛が進めた日米交渉に、松岡は警戒心を隠しませんでした。

”本提案は米国の悪意七分善意三分と解する”

日米諒解案をもとに交渉を続けるべきか、四国協商を進めるべきか・・・近衛は国の命運をかける選択に迫られました。

松岡が帰国した1941年4月22日、大本営政府連絡懇談会が開かれました。
近衛が進め、軍部も賛同していた日米諒解案に対し松岡が反発、一人退出し、その後自宅に引きこもってしまいました。
陸海軍首脳からは、松岡に対する反感が高まり、更迭してまでも諒解案を進めるべきという案も・・・
しかし、結局近衛は、松岡にアメリカとの外交を委ねることを選びました。
早いところで罷免することは難しい・・・松岡には日ソ中立条約という手土産がある・・・
5月12日、松岡は自ら手を加えた修正案をアメリカに伝えます。

”三国同盟の軍事義務に基づき、ドイツとアメリカが戦争になれば、日本は参戦する”

あくまで三国同盟の結束を誇示し、アメリカの要求を拒絶する内容でした。
6月21日、国務長官ハルは、日本を非難するオーラル・ステートメント発表。

”日本の指導者は、ナチス・ドイツへの援護に固執している”

日米諒解案に基づく交渉は頓挫しました。
さらに翌日・・・日本に想定外のことが起きます。
6月22日、ドイツが日本と中立のソ連に侵攻。
松岡が構想していた四国協商はもろくも崩れました。
それでもアメリカへの強硬姿勢を変えない松岡・・・
近衛内閣は日米交渉を続けるために松岡を排除することで一致。
7月18日、外務大臣を変えて、第三次近衛内閣発足。
しかし、近衛内閣はアメリカとの対立を決定づけてしまいます。

日本軍は、石油や語句などの資源を求めて、南部仏印に進駐します。
東南アジアは、アメリカが支援する連合軍にとって戦略拠点でした。
そこににらみを利かす進駐は、連合軍に対する挑発とも取れる行動でした。
アメリカは在米日本資産を凍結、さらに日本への石油輸出禁止を発表します。
危機感を募らせた軍部は、早期開戦を主張!!
国民やメディアの間で反米が強まり、開戦は抑えられない事態に・・・。

日米開戦・・・
”ついに、自ら大統領と会見しようという一大決心をした”
8月、近衛は野村を介して日米首脳会談を打診します。
在日アメリカ大使グルーは、近衛の心境を本国にこう伝えています。

「今や近衛はこれまでの政策は根本的に間違っていると認識している。
 そして、勇敢にも自らの命を犠牲にしてまでも、日米の和解を実現しようと決心している」

近衛のメッセージを受け取ったルーズベルトは興味を示し、アラスカでの会談を提案。
しかし・・・ハル国務長官は東南アジアに侵攻した日本に不信感を募らせ会談に消極的に・・・。
アメリカとの交渉が停滞する中、9月6日御前会議。
大きな打撃が・・・
決定した国策に軍部の意向が反映され、日米交渉の機嫌が盛り込まれました。
10月上旬までにアメリカとの交渉のめどが立たなければ、アメリカ、イギリス、オランダとの戦争に踏み切る・・・!!
近衛に残された期間は僅か1か月でした。

開戦に傾く軍部を横目に近衛はグルーと極秘に会い、会談を模索します。
この頃の近衛は・・・
コップ酒を煽り、激しく軍部を罵り・・・
陛下が反対だと言われているのに、陸軍は負ける戦争を主張する。
最早アメリカに脱出し、ルーズベルトと会談する以外にない!!
ハルはあくまで四原則の合意と、中国からの撤退を求め、譲歩することはありませんでした。
そしてこの絵が主張した日米交渉は内きりの機嫌が・・・
トップ会談による局面打開の望みは絶たれたのです。
10月16日、近衛内閣は総辞職・・・東条英機内閣が成立します。
その2か月後の12月8日・・・日本は真珠湾を攻撃し、アメリカとの4年にわたる戦争へ突入します。

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昭和20年8月15日正午・・・
国民に太平洋戦争が終わったことが告げられました。

戦後、昭和天皇は、戦争終結についてこう述べています。
「朕と肝胆相照照らした鈴木であったからこそ、このことができたのだ。」
鈴木とは・・・齢78にして、内閣総理大臣となり終戦へと導いた鈴木貫太郎です。
しかし、戦争終結に至る日々は、まさに命がけでした。

昭和20年、太平洋戦争は最終局面を迎えていました。
3月10日には東京大空襲、大阪、名古屋でも、大規模な空襲が続き、主要都市が次々と焼き尽くされていきました。
4月1日には、アメリカ軍が沖縄本島上陸。
およそ3か月にわたる沖縄戦では、民間人10万人を含む約20万人が命を落としました。
4月5日、戦局を打開できないまま、小磯内閣が総辞職、鈴木貫太郎に組閣の大命が下ります。
天皇の諮問機関である枢密院の議長を務めていた鈴木は、この時78歳。
どうして老齢な鈴木に大命が下ったのでしょうか?

現在の大阪府堺市で生まれた鈴木は、海軍兵学校を卒業後、軍人としての人生を送って行きます。
海軍の要職を歴任し、大将13年には連合艦隊司令長官に・・・!!
この頃、昭和天皇と出会ったことが重要でした。
鈴木が指揮する海軍の大演習を昭和天皇が視察され、見事な統率力を持った鈴木を信頼していました。
その後、昭和4年、62歳の時に天皇の側近中の側近・侍従長になります。
この時、昭和天皇は27歳。
鈴木は侍従長として7年・・・天皇の傍で篤い信頼が得ていきます。
また、鈴木の妻であるたかは、昭和天皇が4歳の頃から宮中で10年もの間、宮中で養育係を務めており、天皇は・・・
「たかは、本当に朕の母親と同じように親しくした」としています。
鈴木夫妻は、昭和天皇にとって信頼のおける特別な存在でした。
この経歴こそが、老齢にもかかわらず、総理大臣への要請の理由の一つでした。
しかし、鈴木は・・・
「鈴木は、一介の武人です。
 鈴木は軍人が政治に関わらないことを明治天皇に教えられ、今日まで自分のモットーにしてまいりました」
さらに、高齢や、耳が遠い事を理由に断ります。
すると天皇は笑みを浮かべこう言いました。
「鈴木の心境もよくわかる
 しかし この国家危急の重大時期に際して もう他に人はいない
 頼むからどうか気持ちを曲げて承知してもらいたい」

この言葉に、鈴木は覚悟を決めました。
そして、1945年4月7日鈴木内閣発足
組閣後、大宮御所に伺った鈴木に皇太后は涙ながらにこう言いました。
「若い陛下が国運荒廃の帰路に立って日夜御苦悩遊ばされている
 鈴木は陛下の大御心を最もよく知っているはずである
 どうか陛下の親代わりとなって 陛下の御軫念を払拭してほしい」

天皇の心のうちとは・・・??
それは、本土決戦を前に何とかして戦争を収拾したいということでした。
ところが、鈴木は親任式の談話でこう語ります。
「今は国民一億のすべてが国体防衛の御楯たるべき時であります
 私はもとより老躯を国民諸君の最前列に埋める覚悟で国政の処理に当たります
 諸君もまた 私の屍を踏み越えて 起つの勇猛心をもって 新たなる戦力を発揚し 共に宸襟を安んじ奉られることを 希求してやみません」

なんと、国民に戦争継続、徹底抗戦の発言をしたのです。
これには理由がありました。
後に自伝で述べています。
「国民よ私の屍を越えて行け」の真意は・・・
第一は、今の戦争は勝ち目がないと予測していたので、大命が下った以上、機を見て終戦に導くそうなれば殺されるということ。
第二は自分の命を国に捧げるという忠誠の意味です。

この時、鈴木貫太郎が目指していたのは、終戦に他なりませんでした。
しかし、どうして戦争継続、本土決戦を言ったのか??
それは、陸軍によるクーデターを恐れていたからです。
鈴木貫太郎と陸軍というと、2.26事件があります。
当時、侍従長だった鈴木は、陸軍青年将校たちのターゲットとされ、4発の銃弾を浴びせられ、瀕死の重傷を負います。
「止めだけは、どうか待ってください・・・!!」
夫人の嘆願によって、鈴木は一命をとりとめていました。
あの時のようなクーデターを起こさせてはならない・・・!!

鈴木は、戦争を終わらせるために、組閣にも慎重になります。
終戦を望んでいた鈴木は、和平派の東郷茂徳外務大臣、海軍での信頼の厚い米内光政海軍大臣らを入閣させます。
そして・・・本土決戦を叫ぶ陸軍の暴発を危惧していた鈴木は、陸軍大臣に阿南惟幾を希望、陸軍に打診します。
すると、陸軍側から3つの条件が出されます。
①戦争の遂行
②陸海軍の一体化
③本土決戦必勝のため陸軍の策を実行すること
でした。

これを飲まなければ、阿南を入閣することができない・・・。
とりあえず、鈴木は「まことに結構なり」と、戦争継続を前提とする条件を飲んでしまいました。
なぜなら、阿南惟幾を陸軍大臣にしたかったのです。
鈴木が侍従長だったころ、阿南も侍従武官として天皇の傍にいたことにあり、その働きぶりや人となりを身近で見ていました。
この人なら、決して裏切らない・・・!!
鈴木の信頼で来る男でした。
阿南なら、戦争終結を受け入れてくれるのでは・・・??
陸軍のクーデターを抑え込んでくれるのでは・・・??
と思っていたのかもしれません。

こうして動き出した鈴木内閣でしたが、日本の戦況は厳しいものでした。
ヨーロッパ戦線では、日本と三国同盟関係にあったイタリア・ドイツが連合国軍に降伏します。
日本は、ただ一国で、世界を相手に戦うこととなったのです。
そんな中、B29爆撃機が東京に襲来、火の手は折からの強風にあおられて皇居である宮城内にまで及び、宮殿の一部など、多くが焼失しました。

「この時の総理は、当時進行していた和平への道を一日も早く達成しなければならないと 胸底深く誓ったに違いありません。」by書記官長・迫水久常

1945年6月22日、戦争に関する決定機関である最高戦争指導会議を開くべく、鈴木貫太郎総理を始め東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長・・・6人のメンバーが集められました。
そして、昭和天皇の言葉が伝えられます。
「戦争の終結についても この際 従来の観念にとらわれることなく 速やかに具体的研究を遂げ これの実現に努力するよう望む」

戦争終結を望む意思を天皇が明確に表明したことを受け、鈴木は中立条約を結んでいたソ連の仲介によるアメリカ、イギリスとの和平交渉に動き出します。
しかし、ソ連に仲介を打診するも、話しは一向に進みません。
そんな中、7月26日・・・
アメリカを中心とする連合国側が日本に降伏を求めてきました。
ポツダム宣言です。
連合国側は、降伏に伴い・・・日本の占領、日本軍の武装解除、戦犯犯罪人の処罰を求めてきました。
そして、これ以外の日本国の選択は、迅速かつ完全な壊滅しかないと・・・!!

7月27日朝、政府は会議を開き、これを検討します。
その結果、ソ連からの回答を待つことに・・・。
暫くは、ポツダム宣言に対する意思表示を明確にはしないという方針をとります。
そんな政府の動きを新聞はこう表現します。
7月28日朝「政府は黙殺!!」
これが日本の運命を大きく変えます。

この黙殺という言葉が、「無視する」「拒絶する」と解釈され、世界に伝わってしまいました。
連合国側は、日本は降伏する意思はないと判断!!
8月6日、広島に原爆投下!!
およそ14万人の命が失われました。
更に8日、日ソ中立条約を結んでいたソ連が無視し、宣戦布告。
翌日、日本が支配していた満州国に侵入してきました。
突然のソ連参戦に首脳たちは愕然とします。
ソ連を仲介役とする和平の道が完全に絶たれてしまいました。

この危機に、9日10時30分に最高戦争指導会議を開きます。
議題はただ一つ・・・ポツダム宣言を受諾するか否か!!でした。
受諾に前向きな会議ではありましたが、日本側の条件を付けるかどうかで終戦派と戦争継続派で意見が分かれます。

終戦派の東郷外務大臣の条件は”国体護持”一つ!!
天皇制の維持のみを提示しようとするものです。
これに反対したのは阿南惟幾。
受諾するのは国体護持は当然で、他の条件も付けるというものでした。
阿南の条件は・・・
①占領は出来るだけ小範囲に、しかも短期間であること。
②日本人自らで武装解除
③戦犯処理は日本人の手に任せること
でした。

この時、鈴木は一言も発しませんでした。
戦争の始末をつけるために・・・!!
会議は紛糾する中、長崎に原爆投下!!
それでも意見はまとまらず、決定は臨時閣議に持ち込まれることとなりました。
しかし、そこでも結論は出ず・・・。
鈴木は最後の手段を使わざるを得なくなります。
鈴木は夜の9時まで続いた閣議を休憩にすると、天皇の下へ向かいました。
そして、天皇隣席の下、御前会議を願い出るのです。
天皇はこれを承諾。
こうして、8月10日午前0時3分、御前における最高戦争指導会議が始まりました。
議論は相変らず紛糾し、平行線をたどります。
すると午前2時ごろ・・・それまで黙っていた鈴木が立ち上がり口を開きます。
「議論を尽くしましたが、決定に至らず
 しかも事態は一刻の猶予も許しません
 誠に異例で恐れ多いことながら、聖断を拝して会議の結論と致したく存じます。」
なんと鈴木は、天皇に決めてもらうという聖断という異例の決断をしたのです。

大日本帝国憲法において、天皇は政府の決定事項に対して裁可を与える存在・・・
天皇に政治的責任を負わせないために、天皇自身が政治的意思決定をすることはありませんでした。
それにもかかわらず、ポツダム宣言を受諾するか否かの重要な決断を、天皇に仰いだのです。

沈黙を守り、議論を聞いていた天皇は、鈴木に促される形で話し出しました。
「本土決戦、本土決戦というけれど・・・
 いつも計画と実行とは伴わない
 之でどうして戦争に勝つことができるか
 もちろん 忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など 其等の者は忠誠を尽くした人々で それを思ふと実に忍び難いものがある
 しかし 今日は忍び難きを忍ばねばならに時と思ふ
 自分は涙をのんで原案(外務大臣案)に賛成する」

この聖断により、国体護持という条件だけを付けてポツダム宣言を受諾することが決定しました。

連合国側にその旨を伝えます。
回答が来たのは8月12日のことでした。
しかし、連合国側の文面に、政府内が再び紛糾します。
かかれていた内容は・・・??
”天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官のsubject toに置かるるものとする”
このsubject to の解釈で意見が分かれました。
外務省は、「制限の下に置かれる」・・・終戦へ導こうとしましたが・・・。
陸軍は「隷属する」という意味で、天皇の尊厳を冒涜すると主張し、国体の維持は貫けないとして本土決戦を主張します。
「これでは外と戦争をしながら、内戦状態にもなりかねない・・・!!」by鈴木貫太郎
そこで、8月14日、再び御前会議を開きます。
全員一致の形での閣議決定を取りたかった鈴木・・・どうすればいい・・・??
内閣閣僚全員に向かって天皇の御聖断をうかがっていただく形に・・・。
しかし、ここでも、阿南は終戦に強く反対します。
本土決戦を主張!!
鈴木は再び天皇に聖断を仰ぎます。
すると・・・

「朕の考えはこの前申したことに変わりはない
 これ以上 戦争を続けることは無理だと考える
 この際 先方の申し入れを受諾してよろしいと考える」
 自分は如何になろうとも 万民の命を助けたい 
 国民に呼びかけるのが良ければ、朕はいつでもマイクの前も立つ」

涙をぬぐいながらのお言葉でした。

そして鈴木は言います。

「我々の力が足りないばかりに
 陛下には何度も御聖断をわずらわし 大変申し訳ございません
 臣下としてこれ以上の罪はありません 
 只今陛下のお言葉をうけたまわり 日本の進むべき道がはっきりしました
 この上は 陛下の御心を体にして 日本の再建に励みたいと決意しております」

会議の出席者たちは涙をこらえきれませんでした。
そして同じく8月14日午後11時に「終戦の詔書」が発せられることとなりました。
祖の御前会議で聖断によりポツダム宣言受諾が決まった後、徹底抗戦を訴え続けてきた阿南陸軍大臣に陛下は慰みの言葉をかけます。
「阿南 お前の気持ちはよくわかっている 
 しかし 朕には国体を護れる自信がある」
阿南は陸軍省へ戻りました。
若い将校たちは、「どうして徹底抗戦を訴えていたのに戦争終結を受け入れたのか?}と怒りの表情で訴えてきました。
これに対し、「聖断が下ったのである!!不服の者は自分の屍を越えて行け!!」
聖断と聞き、将校たちも引き下がらずを得ませんでした。

この日の夜遅く、阿南は鈴木総理の下を訪れます。
「終戦の義が起こりまして以来、総理には大変ご迷惑をおかけしたと思います。
 私の真意はただ一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、この点、どうぞご了解くださいますように。」
そこには、阿南なりの考えがありました。
もし、戦いを続けるのなら辞職して、内閣を瓦解させればよかったのです。
阿南を鈴木のことをよく理解していて、戦争終結を考えていました。
ただ、陸軍に背かれないように・・・中心となる将校を誤魔化して、欺いてでも戦争を完結する気持ちだったのです。
阿南は、終戦の妨げとなる陸軍の暴発を阻止する為に、徹底抗戦を主張する態度をとり続けていました。
阿南を陸軍大臣に任じた鈴木の想いが伝わっていたのです。
鈴木はこの時、阿南に言葉をかけています。
「あなたの想いはよくわかっております。
 しかし、阿南さん、皇室は必ず御安泰ですよ。
 私は、日本の前途に対しては決して悲観しておりません。」
一礼して静かに去っていく阿南を見送った鈴木は、
「阿南君はお別れを言いに来たのだな・・・。」

午後11時過ぎ、玉音放送の録音が行われていました。
そんな中、陸軍で不穏な動きが・・・。
戦争継続を掲げる一部将校がクーデターを計画。
終戦を告げる玉音放送を阻止すべく宮城を占拠。
玉音版を奪うために、宮内省内を探し回るのです。
襲撃は深夜零時すぎ・・・録音を終え、昭和天皇が帰った後でした。
臨時侍従室の金庫に入れてあり、小さな金庫の前には、雑多な書類が積んであるだけでした。
彼等は、玉音版を見つけることができず、結局クーデターに失敗。
このクーデターは、鈴木総理に身にも起こります。
8月15日午前4時過ぎ・・・陸軍大尉に率いられた兵士たちが鈴木貫太郎邸を襲撃、放火します。
鈴木は襲撃の恐れがあるとの情報を得ていたので、間一髪、逃げることができました。
丁度その頃・・・陛下の放送を拝聴するに忍びないと、陸軍大臣阿南惟幾が自決!!

遺書にはこうありました。
”一死を以て大罪を謝し奉る”と。
陸軍の責任者として、その罪は我が死をもってして償う・・・!!

終戦を告げる玉音放送は、8月15日正午からラジオで全国に放送されることとなりました。
前日の14日の午後9時、15日の午前7時21分に放送を聞くようにアナウンス、新聞も号外で告知しました。
8月15日正午、朝から太陽が照り付ける中・・・
終戦の詔書が流れます。
日本の敗戦を伝えた昭和天皇の5分間の肉声・・・。
しかし、この時、玉音放送を理解できた人は少なかったのです。
ラジオの雑音が多くて聞こえず、文語体なので格調が高すぎて理解できなかったようです。
それにもかかわらず、首を垂れ涙しました。
それまで昭和天皇は現人神で、肉声を聞いた人はいませんでした。
ラジオで直接聞けた高揚感・・・直接国民に語り掛けてくれている・・・というだけで感極まったといいます。

内容は・・・
①国体の護持
②国民への慰労と慰霊
③軍部に対する牽制
④天皇は国民と共にあるという決意
でした。

玉音放送・・・堪え難きを耐え 忍び難きを偲び・・・の堪え難きをの後に一瞬の沈黙があります。
その沈黙に、国民と一緒にやっていくという・・・堪え難きを耐えて遺書にやっていこうという昭和天皇の想いがこもっています。
昭和天皇の二度の聖断、そして、終戦へと導いた男たちの命がけの行動が戦争を終わらせたのです。
玉音放送が無事済んだ8月15日午後2時・・・最後の閣議が開かれ、全閣僚の辞表が取りまとめられ、鈴木はそれを天皇に奉呈します。
天皇は・・・「苦労をかけた」と労いました。
僅か4か月の鈴木内閣・・・苦難と激動の日々でした。

鈴木貫太郎は死の間際こんな言葉を残しています。
”永遠の平和 永遠の平和”と。

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今回は、昭和の選択です。

牙を剝き、人々に襲い掛かる自然災害。
災害を予測し、注意を促す天気予報は、私たちの生活に欠かせないものです。
天気予報の育ての親は、岡田武松。
明治から大正・昭和にかけて、日本の気象事業の礎を築いた科学者です。
武松は、台風という言葉の名付け親で、梅雨の原因を解明。
富士山測候所の建設も行いました。
日露戦争では、日本海海戦の気象予報官として活躍。
見事予想を的中させ、歴史的勝利に貢献しました。
武松は、中央気象台のTOPとして紛争しました。
そんな武松に時代の荒波が・・・太平洋戦争です。

近代日本の天気予報は、どこで始まったのでしょうか?
その舞台は、皇居・・・ここにかつて中央気象台はありました。
江戸城の天守を支えていた石垣には、気象台のシンボル・・・大きな風速計が回っていました。
中央気象台は明治8年に発足しています。
お雇い外国人の指導の下、気温、気圧、雨量の計測など地道な作業が行われていました。

1884年天気予報開始。
全国22カ所の観測を元に、街の交番などに張り出されました。
しかし、的中率は低く・・・マスコミの非難の的となります。
そんな中央気象台に1899年就職した岡田武松。
東京帝大で、気象学を学び、日本の気象事業の発展を志していました。

武松が生まれたのは、千葉県我孫子市布佐。
台風や大雨によって度々氾濫した利根川・・・
武松は、自然の猛威に翻弄される人々を目に焼き付けていました。
気象台に入った武松は、正確な観測を徹底、技師たちの再教育を徹底します。
気象の法則性を・・・分析し、測候所を増やすことを提案します。

武松は、勤め始めてわずか5年・・・1904年には中央気象台の予報課長となります。
そして、その直後、重責を担うこととなるのです。
日露戦争の天気予報です。
1905年、日本海軍は世界最強のロシア・バルチック艦隊を迎え討つ準備を進めていました。
決戦の地は対馬海峡!!
その天気予報を、武松が任されたのです。
しかし、問題が・・・日本の気象は、西から東へ移り変わります。
予報するには、西の観測データが不十分でした。
そこで気象台は、朝鮮半島と大陸沿岸に測候所を増設、技師たちを派遣し、観測網を一気に拡大します。
ロシアに負ければ日本の未来はない・・・
善戦からのデータに集中する武松。
5月26日未明、バルチック艦隊が出現!!
明日には戦いが始まる!!
天気は・・・??
戦いの前日、対馬沖は低気圧に覆われ、雨が降っていました。
集められた観測データから低気圧を予想します。

”天気晴朗ナレドモ 波高カルベシ”

低気圧は去り、強風と高波の中、天候は回復すると予想しました。
翌日・・・予報は見事的中!!
連合艦隊は、大本営に向け決意の電報を送ります。

”敵艦見ユトノ警報ニ接シ 
 連合艦隊ハ直チニ出動
 コレヲ撃滅セントス
 本日は天気晴朗ナレドモ波高シ”

この知らせは、日本軍の戦意を大いに上げました。
波が高く、船が揺れる闘いは、砲撃の技術が勝る日本にとって有利!!
バルチック艦隊を撃滅させる大勝利へと繋がりました。
気象観測にかける武松の努力を証明した戦い・・・。
この勝利をきっかけに、気象台への信頼は一気に高まりました。

自分達の予報を国民に役立てたい!!
武松は新しい取り組みを始めます。
それが海難事故でした。
政府は予算不足を理由に計画に反対するであろう読み、

「建設費はこちらで用意します。
 施設の運営費だけ承認してください。」

と、海運業で成功した船成金から寄付金を獲得。
建設費用を自前で用意して政府の許可を得ます。
こうして誕生したのが、1920年海洋気象台です。
天気予報は、3000km離れたパラオまで届きました。
船乗りたちの心の支えになります。

1923年中央気象台長に就任。
予報の伝え方に心を砕くようになります。
天気図を新聞社に提供し、ラジオにも情報を提供します。
より正確に、より分かりやすく・・・人々の支持を集めていきます。
それを支えたものこそ、武松の薫陶を受けた職員たちによって365日、休むことなく行われた観測でした。

「気象人たるもの いかなる天変地災があろうと、観測を放棄してはならない。
 たった一度の観測の誤りが、将来の大きな過ちにつながるのである。」by武松

気象事業の更なる発展を目指した武松・・・
課題は山積みで・・・その一つが、台風でした。
いつどこで発生し、どうどう接近するのか??
正確な予測ができません。
東北の冷害・・・やませ襲来の予測長期予報の確立!!
地球規模で起こる気象現象の解明には、他の国との連携が欠かせません。
武松は、海外の気象台や学者たちと情報を頻繁に交換し、自ら国際会議にも参加。
国際協力体制を築きます。

国際協力のために武松が開発に取り組んだのが、現在も続く上空の気象観測です。
小型センサーを風船につけて高度1万メートル近くの気温や気圧、湿度などを計測し、電波で地上に届ける仕組みです。
そのデータは、世界各国で共有される予定でした。
この観測が長期にわたってできれば、地球規模で起こる気象現象の解明に期待できました。
武松の仕事・・・それは、国境を越えて、各国と協力し、地球、人類全体を見つめることを必要とされました。

しかし・・・時代は・・・。
1931年満州事変。
1933年日本は国際連盟脱退。
第1次世界大戦後の軍縮条約を破棄し、軍備拡充の道へと進み始めました。
そんな中、軍部が重視したのが気象技術でした。
航空機という新しい兵器が出現し、作戦遂行のため、上空の観測データが欠かせませんでした。
第1次世界大戦で登場し、日本でも開発が進んでいた毒ガス兵器・・・ガスを効果的に拡散するためには、気象学が必須でした。
こうして気象学は、軍事分野と密接な関係となっていきます。

そして・・・1937年日中戦争。
日本軍が宣戦を拡大する一方、中国は拠点を内陸の重慶に移し徹底抗戦!!
戦いは泥沼化していきます。
1938年陸軍は、陸軍気象部創設。
しかし、人材が不足していたことから、武松らに人材派遣を要求します。
手塩に育てた人材を、やすやすと手放すわけにはいかない・・・
武松は、希望するのもに限るとします。

戦争の出口が見えない中・・・軍部は中央気象台を陸軍省の管轄下に置こうとします。
設備も、人材も・・・!!
湯治気象台の観測網は、北は満州、南はパラオまで広がっていました。
こうしたインフラや観測技師たちを、軍は利用しようとしたのです。
しかし、武松はこれを突っぱねます。
当時、中央気象台は、文部省に所属していました。
気象は、衛生、土木、農業、航海など、様々な分野の利益のためにあり、軍部に独占させるものではありませんでした。
武松の遺品から手帳が発見されています。
そこには・・・虫のいい・・・軍部への不満が書かれていました。
測候事業の危機・・・苦悩する武松・・・。

忠君愛国は、軍人だけではない。
我々だって、国のため尽くしている。
必要な資料や予報は、軍はもとより各省に提供している。
いま、移管する必要など見当たらない。

武松は、協力できるところは協力したものの、軍の組織となることだけは、頑なに拒み続けました。
抵抗をつづける武松に、陸軍の圧力は日に日に高まります。
命の危険が迫る中、武松の戦いは続いていました。
武松は、あくまで気象台の独立にこだわり続け、陸軍の要請を断り続けていました。
しかし、昭和14年、軍用資源秘密保護法が公布。
外国への情報漏洩を避けるためにできたこの法律、気象に関する情報も秘密とされました。
陸海軍大臣の一存によって、気象情報の取扱いが制限されるようになり・・・気象台は、国家有事の際には、軍の下に置かれることとなったのです。
昭和16年7月30日、岡田武松は中央気象台を退職・・・68歳でした。
その年・・・1941年12月8日太平洋戦争開戦!!
真珠湾への飛行ルートは、軍部が中央気象台に分析を依頼したといいます。
同じ開戦の日、気象台に指令が届きます。
それは、天気予報などを外部などに発表することを禁止する気象報道管制の実施を命じるものでした。
その日を境に、全ての気象情報は極秘となり、観測は続けられたものの外に出すことは固く禁じられました。

国民に伝えられない天気予報が、悲劇につながります。
1942年8月27日周防灘台風では、死者行方不明者、1000名を超える甚大な被害となりました。
被害にあった人の殆どは、台風が来ることも知りませんでした。

そして・・・日本は戦争に負けました。
1週間後、焼け野原となった東京に嬉しい知らせが・・・
それは、禁じられていたラジオ天気予報の復活でした。
天気予報の声が、人々に平和が戻ったことを実感させました。
予報の早期復活には理由がありました。
中央気象台は文部省から運輸省に移管されたものの、最後まで軍部の傘下には入っていなかったのです。
気象台では戦時中も武松の教えが語られていました。

”自然は単純でありながら、複雑でもある
 ゆえにかえって正確なものだ
 熱心に観測していれば、自然の法則がいかに高く険しいものであり、人間がいかに浅はかであるかを知ることになるだろう”

気象台を退職したのち、故郷の安孫子に戻った武松・・・しかし、気象学への情熱が衰えることはありませんでした。
自ら設立に尽力した養成所で教壇に立ち続けます。
気象学の基礎となる物理学から観測機器の扱い方、気象人の心得まで、多岐にわたりました。
養成所は、気象大学校と名を変え、今も気象学を志す若者が集います。
大学校は原則全寮制で、共同生活を送りながら専門知識を学びます。

寮の名は「智明寮」・・・名付け親は武松です。

「青年に最も禁物は自己陶酔である
 老子の言葉に
 ”他人を知るものは智なり
 自分を知るものは明なり”とある
 この”智”と”明”が大切だ
 これさえ心得ておれば、自己陶酔に陥ることもあるまい」 

確かな目を持った人材を育てることが、気象事業の未来につながる・・・そう武松は語っています。

国民の暮らしと共にある気象事業・・・その発展と普及に力を尽くした岡田武松は、1936年9月2日、83年の生涯を閉じたのでした。

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