日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:太平洋戦争

1945年8月12日・・・太平洋戦争が苦境になる中、国民はまだ日本が勝つと信じていました。
ところが、首相官邸の一室では、ある文書の草案が秘密裏に作られていました。
3日間、ほぼ徹夜・・・!!
終戦の詔書です。
日本政府は、アメリカなど連合国から降伏を迫られたポツダム宣言を受諾し、3年8カ月に及んだ戦争を終わらせる決断をしていました。
しかし、これに全ての者が納得したわけではありませんでした。
玉音放送を阻止しようとクーデターを起こした将校たちがいました。
一体何があったのか・・・緊迫の24時間!!

御前会議 昭和天皇十五回の聖断 (中公新書)

新品価格
¥836から
(2022/12/16 14:21時点)



1945年8月14日、午前11時55分
玉音放送のおよそ24時間前・・・アメリカ軍の爆撃機B-29が、山口県岩国市に焼夷弾の雨を降らせました。
さらに、光市にあった海軍工廠も爆撃。
岩国市と光市で死者1200人以上!!

皇居では、御前会議が終わろうとしていました。
日本の運命を決めるご聖断が下されました。
皇居の防空施設・御文庫付属庫・・・御前会議はこの中にあった会議室で行われていました。
その中で天皇はこう述べられました。

「私は世界の現状と国内の実情を十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考える
 自分は如何になろうとも万民の生命を救いたい
 この際、耐え難きを耐え 忍び難きを忍び 一致協力 将来の回復に立ち直りたいと思う
 私として為すべきことがあれば 何でもいとわない 
 国民に呼びかけることが良ければ 私はいつでもマイクの前に立つ」

天皇の涙ながらのお言葉に、会議の列席者も皆涙していたといいます。
時の総理大臣・鈴木貫太郎は、ご聖断を煩わせたことを天皇に詫び、日本の再建を誓いました。
こうして、日本のポツダム宣言の受諾・・・連合国に対する無条件降伏が決まったのです。

8月14日、午後0時30分(玉音放送まで23時間30分)
御前会議の終了からおよそ30分・・・会議に列席していた陸軍大臣の阿南惟幾が陸軍省に戻ると、すぐに青年将校たちが駆け寄ってきました。

「即時終戦のご聖断が下った
 力及ばず諸君の信頼に添えなかったことを詫びる」by阿南

これに将校たちが激怒、大臣に激しく詰め寄りました。
阿南は、青年将校たちに対してポツダム宣言は受諾しない・・・日本はこのまま戦争を継続すると、言っていました。
青年将校たちは、阿南陸軍大臣が戦争を続行させてくれると思ってたのです。
しかし、阿南陸軍大臣もポツダム宣言受諾を容認したのです。

阿南陸軍大臣が、当初、ポツダム宣言の受諾に反対していたのには理由がありました。
それが国体護持です。
国体護持とは国の在り方を変えずに護るということで、すなわち天皇制の存続を意味していました。
天皇を現人神と考えていた当時の人々にとっては絶対に譲れない条件でしたが・・・
日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言にはそれが明記されていなかったため、阿南は強硬に受諾を反対、徹底抗戦を主張していたのです。
しかし・・・
「陛下は”苦しかろうが我慢してくれ”と涙を流して申された
 自分としては、もはやこれ以上、反対を申し上げることはできぬ
 それでも納得がいかぬなら、まこの阿南を斬れ!阿南を斬ってからやれ!」by阿南

天皇のお言葉に心を打たれた阿南は、ポツダム宣言の受諾を容認するしかありませんでした。
そして、天皇の思いに応えるために、戦争継続を望む青年将校たちを命がけで止めようとしました。
すると・・・一人の将校が絶叫にもにた大声をあげ、泣き始めました。
畑中健二少佐・33歳・・・その泣きわめくさまは、周りの者が怯えるほどでした。
普段温厚な男でも、平静を保てないほど無条件降伏は受け入れがたいものでした。

日本のいちばん長い日

新品価格
¥2,000から
(2022/12/16 14:22時点)



8月14日午後1時(玉音放送まで23時間)
首相官邸において、全大臣出席の元閣議が始まりました。
3日間、ほぼ徹夜で書き上げた終戦の詔書の審議・・・つまり、どのような言葉で終戦を国民に告げるべきか?についてと、その終戦の詔書を天皇が読み上げてラジオで流すという玉音放送についてでした。
日本の敗戦を知れば、国民が激しく動揺し混乱するのは明らかでした。
それを少しでも抑えるべく、天皇の声・・・玉音で伝えることにしました。
閣議では生放送という案も出ましたが、天皇に日本放送協会・東京放送会館まで足を運ばせたうえ、放送時間に合わせてマイクの前に立っていただくのはあまりにも恐れ多いということで、玉音放送に決定しました。
そして、天皇が朗読する終戦の詔書の録音は、14日のうちに宮内省の2階で録音されることになりました。
日本放送協会の会長に録音班を連れて宮内省に出頭せよという命令が下されました。

8月14日午後3時(玉音放送まで21時間)
閣議を中座して陸軍省に戻った阿南大臣は、庁舎にいたもの全員を会議室に集め、ご聖断に従って陸軍も無条件降伏を受け入れたことを報告します。
これは決定事項であり、いかなる背反も許さないと、強く言い聞かせ、最後にこう告げました。

「諸君においてはもはや、玉砕は任務を解決する道ではない
 泥を食い、野に臥しても、最後まで皇国護持のため奮闘せられたい」by阿南

しかし、そこに先ほど大臣室で号泣していた畑中少佐の姿はありませんでした。
畑中は、無条件降伏をどうしても受け入れることが出来ず、同志である椎崎中佐と共に戦争を継続するためのクーデターを模索していました。
それは・・・皇居を占拠し、玉音放送を阻止することでした。

日本政府は日本が劣勢という情報を、一切流していませんでした。
畑中たちにしてみれば、この段階で玉音放送を阻止すれば国民が敗戦を知ることはないため、戦争を継続できると考えたのです。
畑中たちはエリート軍人でした。
最前線で戦った経験もなく、現状もしらず、神国日本が負けるはずがないという考えに凝り固まっていました。
東京周辺の軍の施設には、戦闘機や戦車が、まだ多く残っていました。
絶対に負けない!!と思っていたのです。

東京国立近代美術館・工芸館・・・
現在、重要文化財に指定されているこの地は、かつては近衛師団司令部の庁舎でした。
近衛師団とは、天皇と皇居を警護する陸軍精鋭部隊のことです。
師団とは、一つの作戦を単独で遂行できる最小単位の部隊のことで、トップは師団長でした。
その師団が2つ以上合わさると軍になるなど、複合していくことで大きな組織となり、その軍医上のTOPが司令官と呼ばれました。
クーデターを画策する畑中少佐は、陸軍の中間幹部で司令官や師団長を作戦面で補佐する参謀に起用されることが多い階級でしたが、陸軍省勤務でどの部隊にも属していなかったため、戦況をあまり把握していなかったようです。

1945年8月14日午後2時(玉音放送まで22時間)
畑中少佐は椎崎中佐と共に近衛師団の司令部を訪れ、旧知の中だった古賀秀正参謀らと面会。
戦争継続の正当性を訴え、クーデター実行のための下工作を依頼します。

昭和史12「太平洋戦争開戦前夜~運命の御前会議」

新品価格
¥2,200から
(2022/12/16 14:22時点)



8月14日午後3時(玉音放送まで21時間)
近衛師団の司令部を後にした畑中は椎崎と別れ、日比谷にある東部軍管区司令部へと向かいます。
東日本を統括する東部郡にもクーデターに協力してもらおうと、司令官を説得しにやってきました。
しかし、司令官室に入るなり田中静壱司令官は割れんばかりの声で一括!!

「俺のところへ何しに来た!!
 貴様の考えていることはわかっておる!!
 帰れ!!」

畑中は顔面蒼白となり、しばらくたち尽くしたのち、一礼して逃げる用に帰りました。
東部軍は、関東一円を統括している実働部隊で、各地の戦況をよく把握していました。
日本の悲惨な戦況をよく知る田中司令官は、やみくもに戦争を叫ぶ畑中に腹を立てたのだと思われます。
終戦を決めた日本・・・それを強硬に反対する青年将校たち。
しかし、そんな軍部の状況など国民は知る由もありませんでした。
みな、必死に耐えて生きていました。
日本が必ず勝つと信じて・・・!!

8月14日午後9時(玉音放送まで15時間)
突然、ラジオのニュース番組が告げます。
「明日15日正午に重大なラジオ放送があります
 国民はみな謹んで聞くように」

8月14日午後10時30分(玉音放送まで13時間30分)
ラジオから玉音放送の予告が流れたおよそ1時間30分後・・・
クーデターを目論む畑中と椎崎は、陸軍の先輩将校である井田正孝中佐の元を訪ねていました。
寝ている井田中佐を起こし、クーデターの下工作が進んでいることを説明しました。
近衛師団全体を動かすために、森第一師団長の同意が欲しいと訴えます。
畑中の真剣なまなざしに心を動かされた井田は、「ダメなときは本当に諦めるのだな」と、念を押し、畑中が頷くと覚悟を決めました。

日本のいちばん長い日 Blu-ray

新品価格
¥3,540から
(2022/12/16 14:23時点)



8月14日午後11時(玉音放送まで13時間)
首相官邸で続けられていた閣議がようやく終わり、終戦の詔書の文案が完成しました。
鈴木内閣の閣僚たちが署名し、天皇の裁可を受けました。
続けて、アメリカなどの連合国に、中立国であるスイスを通じてポツダム宣言を受諾した旨を通告しました。
対外的な日本の敗戦はこの時決まりました。
そして、日付も間もなく変わろうとする午後11時30分・・・
宮内省の2階にある御政務室で宮内大臣や天皇の側近である侍従長の立ち会いのもと、終戦の詔書の録音が始まりました。
マイクの前に立った天皇は・・・

「声はどの程度でよろしいか」

と、お聞きになり、「普通で結構です」と、立会人が答えると、静かに朗読を始めました。
天皇の肉声・・・玉音が公式に録音されたのは、この時が初めてです。
朗読は、1回およそ5分、天皇の希望もあって、2回行われ、2組のレコード盤に別々に収録されました。
そして、出来上がった玉音盤は、日本放送協会の担当者によって丸い管の中に納められ、さらにふたが開いてしまわないように木綿の袋に入れられました。
天皇が皇居の防空施設に帰られたのは、丁度日付が変わった頃でした。
玉音放送まであと12時間・・・!!

この時、近衛師団司令部を訪れていた陸軍将校・畑中・椎崎・井田の三人は苛立っていました。
クーデター実行のために、近衛兵を動かしてもらおうと森師団長を訪ねたものの、先客がいたため1時間以上待たされていました。
ようやく室内に通されたのは、午前0時30分ごろでした。
畑中は、別件があってその場を離れていたため、説得役は井田が務めることになりました。
すでに軍服を脱ぎ、くつろいでいた森師団長は、最初こそ
「陛下のご意思に反する行動は許さぬ」
と、反対したものの・・・
汗をびっしりとかきながら懸命に戦争継続の正当性を訴える井田の姿に心を動かされたのか・・・

「諸君の意図は十分理解した
 率直に言って感服した
 今、直ちに明治神宮の神前に額づき、最後の決断を授かろうと思う」

井田は戦後この時のことを手記にこう綴っています。

”この言葉を聞いた時ほど嬉しかったことはなかった”by井田の手記

さらに井田は、森師団長から自分の右腕である参謀長にも意見を聞くようにと言われ、師団長室を退出。
するとそこへ畑中が戻ってきました。
この時、午前1時30分・・・
”ところが、それから10分もたったであろうか
 突如として師団長室が騒がしくなったような気がした”by井田の手記

そして・・・何事かと井田が慌てて師団長室に戻ると・・・拳銃を握りしめた畑中が、顔面蒼白で出てきました。

「時間がなくてやりました
 仕方がなかったんです」

井田が師団長室に飛び込むと、既にこと切れた森師団長が無残な姿で横たわっていました。

師団長の行動はウソではないか??
殺さなければ・・・!!
と畑中は思ったのでした。
時間がない・・・畑中は、近衛師団の協力が遅ければ、クーデターは失敗すると考えていました。

しかし、森師団長の命令がなければ、近衛兵は動かせない・・・!!
そこで畑中たちは、大胆な手を考え付きます。
森師団長の机から印鑑を取り出すと、あらかじめ用意していた偽の命令書に押印!!
この偽の師団長命令を、近衛師団の各連隊に発令したのです。
そこにはこう書かれていました。

”皇居と放送局を占拠せよ”

読む年表 太平洋戦争 開戦から終戦まで1396日の記録

新品価格
¥2,970から
(2022/12/16 14:24時点)



8月15日午前2時(玉音放送まで10時間)
師団長命令が偽物とは知る由もない近衛兵たちは、すぐに動き始めました。
皇居のすべての門を封鎖して、人の出入りを禁じ、東京放送会館を占拠。
さらに、玉音版の作成を終えて帰宅しようとしていた職員たちを捕らえて監禁。
そして、職員たちの尋問によって、玉音盤が宮内省に保管されていることが分かると・・・
近衛兵たちに宮内省を占拠せよという新たな命令が下されました。
近衛兵たちは、瞬く間に宮内省を占拠し、外部と連絡が取れないように電話線を切断。
そのうえで玉音盤を探し始めました。
しかし、そんなに探しても見つかりません!!

8月15日午前2時(玉音放送まで10時間)
近衛兵たちは、玉音盤が保管されているという宮内省を占拠。
各部屋を回り隅々まで探すも、玉音盤はどこにもありません。
宮内省の職員や侍従を脅してみても、みな知らないと答えるばかり・・・
結局見つけられませんでした。
玉音盤はどうして見つからなかったのでしょうか?

玉音盤が完成したのち、それを放送まで保管し、守るべきか検討されました。
宮内省側は「放送局が預かるべき」
日本放送協会は「持ち帰るのは畏れ多い」
結局、常に天皇のそばにいる侍従がいいだろうということになって中堅侍従だった徳川義寛がその大役を任されました。
そして、徳川侍従は、大胆にもその金庫をいつも仕事をしている事務室の戸棚の上に無造作に置いておいたのです。
徳川侍従は、玉音盤の保管場所を秘密にし、近衛兵に摑まった際も、決して口を割りませんでした。
また、宮内大臣ら要人を人質に取られないよういち早く宮内省の地下にある隠し部屋に匿ったことも功を奏しました。
自分の事務室の入り口に、”女官寝室”と書きました。
玉音盤を託された徳川侍従が保管場所を誰にも話さず、しかも機転を利かせたことが玉音盤を守ることとなりました。
玉音盤が見つからなければ、放送を阻止することはできません・・・
クーデターは失敗!!
井田は畑中を説得します。

「畑中・・・もういかんよ
 世が明ける前に兵を引け
 そして、我々だけで責任をとろう
 世の人々は真夏の世の夢を見たと笑って済ませてくれるだろう」by井田

しかし、井田の言葉は、畑中の心を変えることはできませんでした。
諦めきれない畑中は、なんと近衛兵たちに占拠されている放送会館へと向かったのです。

8月15日午前4時30分(玉音放送まで7時間30分)
日本放送協会東京放送会館に乗り込んだ畑中は、報道部室に押し入ると、そこにいた副部長に拳銃を突き付け、
「5時からのニュースに自分を出せ」
と、迫りました。
しかし、副部長はこれを拒否。

「全国同時放送なので、各局と連絡を取ってから出ないとできない」

すると畑中は、隣のニューススタジオに入り込み、現行の下読みをしていたアナウンサーに銃口を向けました。
自分に放送させろと迫る畑中の左手には、クーデターの趣旨を綴った分厚い原稿がありました。
放送させてなるものか!!と思ったアナウンサーは、咄嗟に嘘をつきます。

「現在、警戒警報が発令中です
 会報発令中に放送するには、東部軍の許可が必要です」

東部軍の田中司令官には、昨日、一喝されたばかり・・・畑中は銃口を下ろすしかありませんでした。

同じ頃、近衛兵たちに占拠されていた皇居に、一人の男が駆けつけていました。
まさにその人・・・東部軍管区司令官・田中静壱大将!!
田中は、近衛師団の連隊長たちに、命令が偽物であったことを告げ、即時解散するように命じました。

いまこそ読みとく 太平洋戦争史

新品価格
¥1,870から
(2022/12/16 14:24時点)



8月15日午前5時30分(玉音放送まで6時間30分)
国民に敗戦を告げる運命の日の朝・・・
玉音放送を前に一人の男が自らの手で命を絶ちました。
陸軍大臣・阿南惟幾大将です。
その遺書には・・・
”一死を以て 大罪を謝し奉る”
その命を以て敗戦の責任をとったのです。

8月15日午前7時21分(玉音放送まで4時間39分)
突然ラジオから・・・
”かしこくも天皇陛下におかせられましては本日正午、御自ら放送あそばされます
 誠に畏れ多き極みでございます
 送電のない地方にも、放送の時間には特別に送電しますので国民はひとり残らず謹んで玉音を拝しますように”
この玉音放送の予告アナウンスは、もともと午前5時に放送される予定でした。
しかし、畑中少佐の襲撃の影響で、放送が遅れたのです。

8月15日午前10府(玉音放送まで2時間)
宮内省から、2組の玉音盤が運び出されました。
1組は警視庁の車で東京放送会館の会長室へ、もう1組は宮内省の車で日比谷の第一生命館の地下にあった予備スタジオへ!!
不測の事態を想定し、万全の態勢がとられました。

8月15日午前11時(玉音放送まで1時間)
当日は、アメリカの戦闘機がたくさん飛んでいました。
それが、11時過ぎになると姿を消して音がピタッとやみました。
その頃、玉音放送が行われる東京放送会館のスタジオには、すでに多くの人が集まっていました。
まもなく訪れる終戦の時を前に、えもいわれぬ緊張感が漂う中・・・
畑中たちとは関係のない、ひとりの憲兵が突如乱入しようとしました。
すぐに取り押さえられ、事なきを得たものの、スタジオ内は騒然!!

8月15日午前11時30分(玉音放送まで30分)
皇居前の芝生広場にはクーデターに失敗した畑中と椎崎がいました。
玉音放送を止められなかった・・・日本が負けた・・・その悔しさと共に自ら命を絶ちました。

8月15日午前11時59分(玉音放送まで1分)
この時の東京の天気は晴れ・・・気温はすでに27度を超えていました。
最新の戦況を伝えていたラジオから正午の時報が・・・!!
ラジオが起立を促し、”君が代”が流れた後、天皇の声が聞こえてきました。

”朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ
 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ
 慈ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク”

人々の心の中は、戦争が終わった安堵感と、焼け野原となった日本でこれからどう生きていくのかという不安で入り乱れていました。

3年8カ月に及んだ太平洋戦争が終わりました。
この戦争で300万人以上の日本人が亡くなったと推定されています。
戦争孤児は12万人以上。
戦争は終わっても、人々の生きるための戦いが終わったわけではありませんでした。
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

聯合艦隊司令長官 山本五十六 ?太平洋戦争70年目の真実?

新品価格
¥440から
(2022/12/16 14:25時点)

1944年夏・・・大事件が起きます。
ワクチンを接種された400人近いインドネシアの労働者が命を落としたのです。
労働者の大量死・・・日本軍はインドネシアの研究者が毒を入れたとして逮捕、処刑!!
謀略事件として処理しました。
しかし戦後、冤罪ではないかと疑問の声が上がりました。
近年、研究者たちがこの事件の真相に迫ろうとしています。
日本軍が作った破傷風ワクチンの有効性を試すために、毒素のあるワクチンを労務者に接種してしまった・・・その結果、意図的ではなかったが、彼等は命を落とした??
戦場の感染症に向き合っていた日本軍・・・
ワクチン開発の舞台裏で何が起きていたのでしょうか??



太平洋戦争中、日本は石油資源の豊富なインドネシアを占領します。
オランダ軍を破り、3年にわたって軍政を敷きました。
1944年8月、ジャカルタの病院に、急患が次々と運び込まれました。
手当の甲斐なく、命を落としていきました。
治療に当たった日本人医師は、回想しています。

”口を固く食いしばり、背筋を弓のように張り、前震のけいれんを起こし、呼吸もできぬ悲惨な有様
 恐るべき破傷風であった”

破傷風は、土の中にいる破傷風菌が傷口から入り感染。
脳やせき髄の神経に作用して、筋肉のけいれんが起こり、死に至ることもあります。
患者は当時、ロームシャ・労務者と呼ばれたインドネシア人で、泰緬鉄道の建設のため村々から動員されていました。
ジャカルタ東部のクレンデル・・・労務者たちは、港に近い収容所に集められました。
ジャングルの工事現場に送られる前に、予防接種を受けていました。
コレラ・チフス・赤痢の三種混合ワクチン、接種された直後、破傷風の症状が現れました。
一体何が起きたのでしょうか?
当時、東京の大本営に現地の軍医部長から報告が送られていました。
4回にわたる極秘の報告です。
474人が罹患し、364人が命を落としています。
事件を捜査した憲兵隊は、予防接種に当たったインドネシアの看護人3人とスレイマン医師を逮捕しました。

その後、スレイマン医師の自供により、捜査の矛先は思わぬ方向に向かいます。
当時、ジャカルタで感染症の研究に当たっていたエイクマン研究所。
アフマッド・モホタル所長をはじめ、13人の現地の研究員が連行されました。
憲兵隊の激しい取り調べの末、モホタルが自供したというのです。

”細菌謀略を行い、日本軍の誤れる労務者対策を是正せん”

モホタルが日本軍の労務者動員に反対して、破傷風菌を混入したとされました。
1945年1月、軍律会議はモホタルに死刑、スレイマンに禁固7年の判決を下しました。
事件は細菌謀略として処理されたのです。
しかし・・・捜査の過程に疑問が残ります。
最初は事実関係を述べていて、相違はないと思われます。
しかし、誰が犯人かというあたりで作為が感じられます。
モホタルは、最後まで悪者でした。
モホタルは、オランダへの留学経験があり、当時インドネシアではもっとも著名な感染症の研究者でした。
モホタルが、大量殺人を・・・??

当時、エイクマン研究所は、そもそもワクチンを製造していませんでした。
問題のワクチンはどこで作られたのか??
パスツール研究所は、元々はオランダの植民地時代に設立され、バンドンで感染症の研究を進めていました。
1942年、それを日本軍が接収し、南方軍防疫給水部の支部となりました。
問題のワクチンは、モホタルが所長を務めていたエイクマン研究所ではなく、南方軍防疫給水支部で製造されていました。
しかし、憲兵隊は、エイクマン研究所に疑惑の目を向けました。
拷問が続く中、とらわれていたアリフ医師が命を落としました。
日本の記録では、心臓麻痺とされています。

”アリフ医師の遺体は大きく膨れ、臭気を放っていました
 許しがたい光景でした”



アリフ医師の死の直後、モホタルは自供を始めます。
そこには、どのような背景があったのでしょうか?

”逮捕の理由は、クレンデル収容所の労務者の死に関わることだとわかりました
 伯父が事件の首謀者だと責められている
 威厳があり、評価されていた伯父が、なぜインドネシアの労務者を殺すのでしょうか
 全く筋が通りません?
 モホタルは父に言いました
 「憲兵隊の狙いは私なんだよ
  心配するな、お前たちはもうすぐ釈放される」
 そしてそれは現実になりました。
 父は12月に、1月には全員が解放されました。
 伯父以外全員です。
 自分が自白すれば、全員が釈放されると・・・
 想像できますか?どんな人だったかを?
 私たちがどれほど怒り、憎んだかわかるでしょう”

結局、モホタルひとりだけが死刑となりました。
モホタルを断罪した日本軍には、政治的な意図があったのではないか??
大本営への報告では、モホタルは独立運動に関係しており、細菌謀略を以て原住民の半日反軍思想を醸成しようとしたとされていました。
独立運動の指導者モハメド・ハッタと同じ故郷でした。
スマトラのミナンカバウ族・・・民族運動のリーダーをたくさん輩出していました。
反日謀略のスケープゴートにするには一番都合が良かった。。。
最大の大物・・・反日的なミナンカバウ族の医者だったのです。

モホタルは、冤罪ではないのか??
戦後、遺族は疑問を投げかけてきました。
近年になって、現地に渡ったアメリカの感染症研究者・ケビンが、新たな光を当てようとしています。
2015年、インドネシアの研究者と共に、著書を出版します。

”日本軍占領下インドネシアにおける戦争犯罪”

この本では、モホタルが冤罪の可能性が高いとしています。

日本軍医たちが、意図的に労務者たちを殺したとは思えませんが、即席で作った破傷風ワクチンの有効性を証明しようとしたと考えられます。
日本軍兵士に接種する前に、試そうとしたのです。
そのワクチンが、労務者を殺すことになった・・・
日本軍が破傷風ワクチンの開発のため、労務者で実験をしたのではないか??
当時、日本軍は破傷風ワクチンの開発・製造を急いでいました。
南方の戦場で、破傷風は感染すると死に至る病と日本軍兵士から恐れられていました。
もともと破傷風の治療法は、日本の北里柴三郎博士によって発見されました。
破傷風の毒素を馬に注射して、抗体を得、それを患者に注射する血清療法です。
しかし、血清はすぐに患者に打たないと、効果がなく、大量生産や輸送も難しかったのです。



一方、アメリカ軍などの連合国軍は、太平洋戦争開戦前に破傷風ワクチンの開発に成功していました。
第2次世界大戦中、破傷風の感染はたった12件・・・
陸軍と海軍、そして公衆衛生局が協力して破傷風ワクチンを推奨しました。
ワクチン開発のために軍は民間の研究所と協力しました。
マラリアとの戦い同様に、協力体制を整えたのです。
アメリカは国が主導して、第2次世界大戦中に従軍したすべての兵士に破傷風のワクチンを接種していました。
連合国に追いつこうと、ワクチン開発を急いだ日本・・・
北里柴三郎ゆかりの北里研究所は、日本軍のワクチン開発には不備があったと指摘します。
ワクチンは疾病に対する武器です。
その認識が、陸軍の人たちにありましたが国として重要性を感じていませんでした。
一部の人が認識しているだけで、陸海軍と一緒になって軍全体でやろうという考えはなかったのです。

陸軍と海軍が別個に進めていた破傷風のワクチン開発・・・
海軍が開発を急ぐ中で人体実験を行っていた記録がありました。
日本のBC級戦犯の裁判記録・・・
1945年、インドネシアのスラバヤで、海軍の軍医が死刑囚に破傷風ワクチンを接種し、その効果を確かめようとしました。
その結果、15人が亡くなり、戦後戦争犯罪に問われました。
裁判で実験を担当した軍医将校は、次のように供述しています。

「連合国軍の上陸を前にワクチンの有効性を実証する必要があり、時間がありませんでした
 100%成功する自信を持っていたが、予想に反した結果になったのは実験の過程に原因があったからだと思います」

実験では、破傷風の毒素にホルマリンを加えて不活化。
トキソイドと呼ばれるワクチンを製造します。
このワクチンを、2回にわたって接種。
その後、毒素を注射し、免疫ができているかどうかを確かめます。
軍医と共に裁かれた法務官・・・海軍における法の番人として、当初実験には反対だったと供述していました。

「私は、囚人が処刑されるまで、決まった手順で収監されるべきであり、弁護士の立場から賛同することはできないといいました」

しかし、海軍の准尉から強く説得されたといいます。

「ワクチンの実験が必要との結論に至ったので、実現するために協力してほしい
 心配だろうが、専門家からの意見によれば動物実験でも成功しているので不幸な結果にはならないであろう」

結局、実験では19人中15人が死亡しました。
軍医は最後に接種した毒素の量が多すぎたことが原因だと認めました。
軍医は禁固4年、法務官は3年の判決を受けました。



破傷風の毒素を測定することは非常に難しく、本来はモルモットで試すべき実験です。
彼等は人間を動物として扱いました。
バンドンの日本陸軍も、労務者の存在を実験の機会だととらえたのでしょう。
クレンデルでも日本軍が労務者を使って破傷風ワクチンの効果を確かめようとしたのではないか??
労務者の大量死事件を大本営に伝えた報告書・・・
コレラ、赤痢、腸チフスのワクチンに、破傷風の不活化したワクチンを一緒に入れた・・・
入れた破傷風の毒素が完全に不活化されていなかったことが一番の大きな原因でした。

破傷風の毒素をホルマリンで不活化しワクチンを作った際に問題があったのではないか??
製造のミス・・・混合する前に不活化されているか、チェックする必要がありました。
そもそも日本陸軍は、破傷風ワクチンの開発をどのように進めてきたのでしょうか?

731部隊の破傷風の実験の記録・・・
731部隊でも、ワクチン研究は重要視されていました。
関東軍防疫給水部・・・731部隊。
石井四郎陸軍中将のもと、旧満州で細菌兵器の開発に携わっていました。
ワクチン開発も重要な任務でした。
破傷風ワクチン開発のために、人体実験を行っていたのです。
破傷風の毒素をマルタと呼ばれる中国人に接種し、筋肉の電位変化を測定した実験・・・14人全員が死亡しています。
こうした731部隊の研究は、南方軍防疫給水部に引き継がれたといいます。
731部隊の人脈が、南方軍防疫給水の創始者になっています。
大連にあった支部では、ワクチンの研究が盛んでした。
大連にいた人間が、バンドンの初代所長になっています。
太平洋戦争開戦と共に731部隊の多くのメンバーが、南方軍防疫給水部の設立に関わりました。
彼等はシンガポールやバンドンでワクチン開発を続けていました。
さらに、南方軍防疫給水部でも、細菌兵器の開発も行われていました。

陸軍省の業務日誌に記された南方軍防疫給水部からの報告・・・

”粟は南方において発育良好なり
 繁殖力も大なり
 種餅を1回輸入すれば、あとは現地自活も可能なり”

ノミを粟、ネズミを餅と・・・本来の防疫給水とは違う、国際法に違反することをしているのです。
ペスト菌が体内に入っているノミを敵方の支配地域に投下する作戦を考えていました。
細菌兵器となるペストノミが製造されていたのです。
しかし、使用されることはありませんでした。
細菌兵器を使用すると、連合軍から倍返しされるのではないか?と。

ペストノミの製造と共に、シンガポール本部でもワクチンの開発が進められていました。
当時、ワクチン製造に従事していた現地の男性の証言によると・・・

「私たちは、破傷風のワクチンを作っていた
 豚の胃や肝臓を集めて、培養液を作り、日本人が破傷風菌をいれた
 ネズミやモルモットに注射して、死ぬかどうかを試した」

731部隊から南方軍防疫給水部へと引き継がれたワクチンと細菌兵器の開発・・・
インドネシアの大量死事件を読み解くには、このつながりが重要でした。
開発したものが、日本軍兵士にとって効くかどうか??
南方軍防疫給水部にマルタはいないので、とりあえず労務者に打ってみて効果があれば日本軍兵士にすると・・・労務者を使って試したのではないのか??
日本軍のワクチン接種によって400人近いインドネシア人が命を落としました。
しかし、遺族に事件の詳細が知らされることはありませんでした。

労務者の大量死は、戦後何故問題にならなかったのでしょうか??
戦中、日本軍に協力して労務者動員の先頭に立っていたスカルノ。
戦後、初代大統領となっていました。
スカルノは、日本と賠償協定を結び、インフラの整備を進めていました。
インドネシア社会で、労務者が声をあげることは難しかったのです。



南方軍防疫給水部が本部を置いたシンガポール。
敗戦と共に、旧宗主国のイギリス軍が戻ってきました。
南方軍防疫給水部は、細菌兵器などの証拠書類を隠蔽しました。
イギリス軍は、細菌兵器を製造できる部署がシンガポールやマレーにあったことに気づきませんでした。
その後、各国独立し始めて、誰も追及、研究しようとしませんでした。
段々闇の中に消えてしまって今日までになったのです。
南方軍防疫給水部の隊員が、戦後どのように生きたのか??
現在、確認できただけで30名が細菌や感染症に関わる研究で、医学者として学位を受けていました。
多くが、医療や製薬会社の中枢で活躍しています。
防疫給水部のことは一言も話さず・・・。

戦争中のインドネシアの大量死・・・
その全容は、今も解明されていません。
戦後、BC級戦犯として裁かれたスラバヤでの海軍の破傷風ワクチンの実験・・・
疑問を抱きながらも立ち会った法務官・・・裁判で次のように供述していました。

「彼らが病気になったと聞いたときには大変驚き、すぐに全員を病院に送って治療を受けさせ、私もできる限りのことをしました」

法務官は、禁固3年の刑に服したのち、1950年に帰国。
戦後は弁護士として生きました。

ジャカルタ郊外のアンチョール墓地・・・
日本の占領時代に命を落とした人が葬られています。
終戦の直前・・・1945年7月3日、木の下でモホタルは日本軍の手によって斬首されたという・・・
遺体は密かに葬られたが、近年埋葬場所が明らかとなりました。
6年前から、モホタルの追悼を続けています。

仲間を救うために、自らの豊かな人生を犠牲にしたこと・・・
実験の責任を取らなかったことに対して、無罪の人間に罪を着せ、殺したことに、怒りを抱いています
この事件は、これまで埋もれてほとんど知られていませんでした
私はも夫ひろく知ってほしいと思います
医学の人道的責務が、軍事に踏みにじられた
戦争が軍医たちにそうした道を選ばせたのです
モホタルをめぐる事件は、厳しく強い教訓を残しています    byケビン
 
戦後・・・日本軍の感染症対策、その真相に迫る試みが、今も続いています。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村




]今回は、昭和の選択です~~!!

太平洋戦争開戦時の首相・東條英機・・・
東條は、戦後、東京裁判で絞首刑に処せられました。
彼はどうして、無謀と思われるアメリカとの戦争を選んだのでしょうか?
泥沼化する中国での戦争終結、資源獲得、アジア各国の欧米列強からの解放・・・
果たしてそれが、アメリカとの戦争目的だったのでしょうか?
戦争でしか解決できない問題だったのでしょうか??

昭和11年2月・・・
日本を震撼させたクーデター未遂事件2.26事件が起こりました。
事件を主導したのは、天皇親政を訴える陸軍皇道派に近い青年将校でした。
悪しき側近が、天皇の政を誤らせていると訴え、重臣たちを襲撃しました。
高橋是清大蔵大臣死亡、鈴木貫太郎侍従長重傷・・・

事件は天皇の逆鱗に触れ、鎮圧されました。
しかし、これ以降、軍部の圧力が日本の政治に暗い影を落とすことに・・・
この時、東條英機は関東憲兵司令官として満州にいました。
東條は、皇道派と熾烈な派閥争いを繰り広げていた統制派に属していました。
統制派
は、陸軍にはびこる藩閥人事を脱却し、国家をあげての総力戦体制を訴えていました。
東條は、”反満州抗日本”運動の活動家を強引に検挙しながら、2.26事件に乗じて満州の皇道派
を数多く拘束したといいます。
これを実行したのは、東條に直属する関東憲兵隊でした。
当時、満州で経済官僚として親交を深めていた星野直樹・・・後年、星野は、2.26事件発生時の東條の動きをこう記しています。

”少なからぬ者が、この事件に関係し、または興味を持っていたことが分かった
 東條憲兵司令官は、この事実を掴むと、これらの人々を一斉検束した” 

東條が指揮した憲兵隊には、特殊な任務がありました。
関東憲兵隊は、反満抗日運動の弾圧の先兵の役割を果たしていました。
軍事力を背景にした憲兵隊が力を発揮し、東條は期待に応えて、反満抗日運動を抑えることに成功し、関東軍にとって東條の評価が非常に高くなりました。
それは、憲兵全体が思想憲兵という性格を持っていて、東條は憲兵の新たな役割を引き出し、さらに拡充しました。
憲兵を使って実績を上げた東條は、関東軍参謀長を経て、日本陸軍の中枢へと歩みを進めます。

東條英機 「独裁者」を演じた男 (文春新書) [ 一ノ瀬 俊也 ]
東條英機 「独裁者」を演じた男 (文春新書) [ 一ノ瀬 俊也

昭和13年5月・・・
東條は、陸軍次官という重責で中央に復帰します。
実務能力に長けた東條は、あらゆる書類を精読し、何事も几帳面に記録していました。
常に複数の手帳を持ち歩いていたことが、彼を物語っています。
陸軍次官に就任した東條は、民間の生産力の活用と、反勢力の思想の漢詩に取り組みます。
つまり、総力戦体制の構築です。
東條は、次官に就任すると、満州から加藤泊次郎ら子飼いの憲兵たちを呼び戻し、要職に着けています。

昭和15年、日中戦争は開戦からすでに3年・・・
戦線を拡大する日本に、アメリカやイギリスは、中国での利権を独占されると危機感を覚えました。
戦争の早期解決を期待された近衛文麿内閣で、東條は陸軍大臣として初入閣します。

昭和16年7月、南部仏印注進。
ベトナム南部に石油やゴムなどの資源を求めて軍を進めました。
これにアメリカは激しく反発し、中国からの撤兵を要求します。
日本への経済制裁に加え、石油の輸出禁止という強硬手段に出ました。
石油の多くをアメリカの輸入に頼っていた日本には、受け入れられない措置でした。
日本の石油備蓄は2年分しかありませんでした。

昭和16年9月6日、事態を打開するため天皇隣席のもと、御前会議で国策が決定されました。
それは、10月上旬まで日米交渉を行い、まとまらなければ開戦に踏み切るというものでした。
近衛首相や外交筋は、交渉による解決を模索します。
しかし、陸軍は、中国駐兵に固執しました。
陸軍大臣の東條は、その急先鋒でした。
東條は閣議でこう言い放ちました。

「撤兵問題は心臓だ
 志那事変では数十万の戦死者、その数倍の遺族、数百万の軍隊と、一億国民を戦場および内地で辛い目にあわせており、さらに数百億の国費を費やし、ここで巧妙な米国の圧迫に、屈服する必要はない!!」

東條陸相は、頑なに撤兵を認めず、ルーズベルト大統領との首脳会談開催に望みをかけた近衛内閣は瓦解・・・総辞職しました。
戦争を回避するため、次期首相の選任は、緊急かつ最大の課題となりました。
当時、次期首相は、過去の首相経験者で構成される重臣会議で決められ、天皇に上奏されていました。
何人かの名前が上がるが、決め手を欠きました。
対米戦争を引き起こしかねない陸軍を制御できる者が必要でした。
そこで、天皇の側近・内大臣の木戸幸一が提案します。

「東條英機はどうか??」

東條を陸軍大臣のまま、首相をやらせようというのです。
強硬に対米開戦を主張する陸軍を抑えられるのは、東條しかいないと・・・!!
重臣たちの同意を得て、この意見は上奏されました。
昭和16年10月17日、東條英機・・・組閣の大命が下り・・・首相就任。

東條英機は陸軍大臣兼任のまま総理大臣となりました。
世間は、東條の首相就任でいよいよ開戦と受け止めました。
陸軍も戦争準備に前のめりになっていきます。
しかし、就任に際し、東條は木戸内大臣から天皇の本意を告げられます。

「9月6日の御前会議の決定を白紙に戻し、再検討せよ
 10月上旬までに、交渉が成立しなければ開戦する」
この決定を考え直せというのです。

首相となった東條は、最早、開戦のみを主張するわけにはいきませんでした。
東條は、陸軍が用意した閣僚リストに見向きもせずに、自ら組閣に取り組みます。
その人事に、対米戦争回避への意思が読み取れます。
満州在任以来、旧知の星野直樹を官房長官に当たる書記長官につけ、同じく満州で協力関係を築いた岸信介を物資の計画的動員や配分を握る商工大臣に据えました。
その上で、対米交渉を担当する外務大臣に開戦慎重派の東郷茂徳に就任を要請しました。
東條は、こう言って説得したといいます。

「交渉が成立させられるのであれば、自分も成立させたい」by東條英機

東郷は東條の考えを確認したうえで、入閣を決めました。
大蔵大臣となる賀屋興宣も、外交交渉の継続と東條が陸海軍統帥部を抑え込むことを条件に就任しました。
東條自身は、総理大臣、陸軍大臣に加えて、警察を管轄する内務大臣も兼任します。
戦争回避となった場合に、対米強硬論者たちが起こすであろう騒乱を、自らの権限で抑え込もうという意図でした。
2.26事件のような軍事クーデターのような動きがあれば、憲兵を使って未然に防ぐつもりだったと思われます。
東條は、満州以来の腹心・加藤泊治郎を憲兵司令部本部長につけるなどして体制を強化していました。
憲兵は、社会運動を監視し取り締まるだけではなく、社会全体、戦争に対する人々の意識を監視していました。
社会の人々にとっては、驚異の存在となっていきます。
関東憲兵隊司令官としての経験、成功体験によって、憲兵は十分使いでのあるものという認識は、自らが権力者になったとき国内においても実現していったのです。

池上彰と学ぶ日本の総理 第29号 東条英機/小磯国昭/鈴木貫太郎/東久邇稔彦【電子書籍】[ 「池上彰と学ぶ日本の総理」編集部 ]
池上彰と学ぶ日本の総理 第29号 東条英機/小磯国昭/鈴木貫太郎/東久邇稔彦【電子書籍】[ 「池上彰と学ぶ日本の総理」編集部 ]

東條は、憲兵を情報収集にあたらせ、戦争回避のための治安維持に心を砕いていました。
10月19日、初の閣議後、早速主要閣僚に国策再検討を指示しました。
戦争回避のため、対米交渉を実現させる具体的な道を探ろうというのです。
10月23日午後2時・・・政府と軍の統帥部で、国策を再検討する大本営政府連絡会議が開かれます。
これ以降、詳細な項目ごとに、一週間以上にわたり会議が続きます。
会議は、まずユーロッパの戦況分析に始まりました。
その後、南方資源の需給バランスが議題にあげられ、さらに、開戦した場合の国家財政の検討などが逐一議論されました。
中でも激論が交わされたのが、対米交渉条件の緩和・・・つまり、中国撤兵についてでした。
アメリカとの交渉を進展させるため、撤兵を求める東郷外相・・・
方や陸軍統帥部・参謀総長の杉山元は断固拒否を貫きました。
海軍は、南方の資源を確保できても、長期戦に耐えられないことを理由にあいまいな態度を取り続けました。
船舶の生産量より、沈没させられる方が多いとの見通しから、物資が賄えないとの判断でした。
ところが、会議が始まって1週間がたった10月30日、新たな経済予想が提出されました。
南方を占領できれば、船舶の被害よりも造船量が上回れるというのです。
軍部からの圧力を感じさせる数字でしたが、開戦反対派は言葉を失いました。

会議開始から1週間以上たち、東條には議論は尽くされたように見えました。
首相として、何らかの方針を打ち出す時期に来ていたのです。
東條は、出席者たちに3つの案を提示します。
それが議事録に記録されています。

①戦争することなく臥薪嘗胆す
②直ちに開戦を決意し、戦争により解決
③戦争決意のもとに、作戦準備と外交を併行し、外交を成功するようにやってみたい

いずれの結論に導くのか、煩悶する東條・・・!!
昭和16年11月1日、東條は、この日を最後とする決意で、会議に臨みました。

わずか2週間前、対米強硬論を主張して近衛内閣を退場させた東條・・・しかし、首相になって、開戦へリードしない東條に陸軍内部では侮蔑的な見方が起こります。
陸軍に支えられてきた東條にとって由々しき事態でした。

昭和16年11月1日午前9時・・・大本営政府連絡会議が始まりました。
3つの案から、陸海軍統帥部は第2案・・・直ちに開戦を決意!!
東郷外相、賀屋蔵相は、第3案・・・戦争決意の下、外交を継続を訴えます。
激しい議論の応酬が延々と続きました。
意見が一致しなければ、内閣総辞職しかありません。
しかし、それは時間の浪費にすぎません。
今、この場で結論を出さねばならない!!
なんとか天皇の意に沿うため、東條も第3案に与し、統帥部を説得にかかります。
その結果、ついに統帥部は折れ、戦争決意の下で外交を継続することが決まりました。
すでに日付も変わり、午前1時を回っていました。
しかし、この決定は、期限までに交渉がまとまらなかった場合、アメリカと開戦することを意味していました。
交渉期間は1か月・・・アメリカの要求する中国や仏印からの撤退なしに、交渉の前途はありませんでした。

後に東條は、首相の責任の重さについてこう語っています。

「近衛には悪いことをした
 陸相として力の足りなかったのは反省している
 首相になってみて、それがよくわかった」by東條英機

そして、交渉期限は切れ、昭和16年12月8日未明・・・遂に太平洋戦争は始まりました。

開戦の翌年、昭和17年早々、日本は破竹の勢いで進軍し、マニラ、シンガポールを占領・・・
議会での東條の勇猛な演説は、幾度となく万来の拍手を浴びました。
東條は、早くから国内情勢にも目を光らせていました。
人々の心を一つにした総力戦体制の構築こそが、戦争の行方を左右すると考えていたのです。
憲兵司令部本部長・加藤泊治郎に、反戦活動やスパイ行為に目を光らせるように指示しています。

山口県の民家で発見された加藤の遺品の数々・・・
その中に、加藤の肉声を記録したレコードがありました。
昭和17年4月24日、加藤はラジオ演説で国民に長期戦を戦い抜くための協力を訴えました。
それは、東條の考えに沿ったものでした。

「国家の総力を挙げて、国難に赴くの極致を発揮し、米英撃滅の一点に集中せねばならぬ今日、総理大臣が一億国民が一切を挙げて、国に報い、国に殉ずるの時は、今でありますと申されたのも、この意と存ずるのであります
 4月18日に国内に少しばかりの敵機の襲来があったからといって、悪質なる批判的言動をなすような事では駄目であります
 我が国はいよいよとなれば、日本全土が丸焼けになっても、思想的に大磐石であると確信しますが、私ども憲兵の立場と致しましては、少しでも思想的より起こる害を少なくしたいと考え、失礼ながら皆様方のこれらの点の関心を高めたいためにほかなりませぬ
 同時に憲兵と致しましては、国民各位が佐渡おけさを歌われようが安来節をやられようが、各自褌をしめ、覚悟を決めての上での適度適当なる慰安行楽等にはともに笑って楽しみも致しますが、悪質なる獅子身中の虫は、発見次第憲兵司令官の命のもとに断固処置するにやぶさかでありませぬ
 ご協力をお願いいたします」

東條は、激務を推して頻繁に民情の視察に赴きました。
庶民派宰相を自己演出して国民をまとめようと懸命でした。

しかし、戦局は悪化をたどり、開戦から1年余りで南方の要衝ガダルカナル島を失います。
懸念されていた船舶の供給も思うように任せず、政府と統帥部は一体感を失っていきます。
なんとか総力戦体制を維持しようと、東條は陸軍統帥部のTOP・参謀総長も兼任します。
しかし、もはや、体制を整えることはできず、サイパン島をアメリカに奪われ・・・
これにより日本本土は、アメリカ軍の爆撃圏内に入りました。
国内には、危機感が満ち、重臣たちも東條を見限る時が来ました。
サイパン島陥落から10日後・・・東條英機は、すべての職を辞しました。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング
東条英機暗殺計画 海軍少将高木惣吉の終戦工作 (光人社NF文庫) [ 工藤美知尋 ]
東条英機暗殺計画 海軍少将高木惣吉の終戦工作 (光人社NF文庫) [ 工藤美知尋 ]

2019年10月31日未明・・・日本中に衝撃が走りました。
沖縄・首里城の正殿から火災が発生・・・火は瞬く間に燃え広がりました。
首里城は必ずよみがえる・・・なぜなら、この城は太平洋戦争の戦火にあってもなお、逞しく蘇ったのだから・・・!!

誰もが目を疑ったその火災・・・正殿をはじめとする主要な建物が全焼し、貴重な絵画や工芸品も焼き尽くされました。
沖縄を愛する全ての人にとって、つらく、悲しい事故でした。
しかし、首里城が焼けたのは、これが初めてではありません。
過去にも4度、大火災に見舞われ、そのたびに不死鳥のようによみがえってきました。
14世紀に創建されたと言われる首里城は、15世紀、17世紀、18世紀と、火災に見舞われてきました。

4度目は、太平洋戦争末期の沖縄戦・・・首里城は、アメリカ軍の集中砲火に見舞われました。
城の地下に、日本軍の司令部が置かれていたためでした。
廃墟と化した首里城・・・その再建は、ほとんど不可能と考えられました。
城の情報も、何もかもが失われてしまったからです。
しかし、人々はこの困難を乗り越えました。
志を一つにして、力を合わせました。
そして、戦火から47年後の1992年・・・ついに、首里城は蘇ったのです。
人々はどのように首里城を復元することができたのでしょうか??
困難を乗り越えることができたのでしょうか??
それが、今回の再建の糧となるに違いない・・・!!

敗戦から47年もの間、失われていた首里城・・・元通りに再建することはとても不可能と考えられていました。
何故なら、建物の構造や色など、基礎となる情報が残っていなかったのです。

①歴史家・高良倉吉
彼に与えられたミッションは、再建に必要な資料を日本から探し出し、幻の城の設計図を作り上げることでした。
古の首里城の姿を、追って、追って、追い続けたのです。
琉球史研究の第一人者・高良倉吉・・・平成の首里城復元プロジェクトに当初からかかわりました。

「この島の歴史的な特徴をアピールできる最も偉大な存在です」by高良

しかし、首里城は跡形もなくなくなっていました。
どんな城だったのかを知るには、資料に頼るほかない・・・それを零から探し出すことが、高良のミッションでした。

「首里城を復元するって、具体的にどんな資料があるんだろう・・・
 ハリボテというか、オープンセット風のものしかできないんじゃないか
 それを乗り越えるような知識が全くありませんでした」by高良

首里城の真の姿とは・・・??

戦後、アメリカに統治された沖縄・・・首里城の廃墟には、それを覆い隠すような形で琉球大学が建設されました。
大学の建物が蓋をしている限り、復元は不可能だ・・・
しかし・・・1972年、沖縄返還!!
その5年後、大学の移転が決まり、蓋が取れました。
これで、やっと城の再建が可能になりました。
1984年、沖縄県はついに「首里城公園基本計画」策定。
しかし、いきなり難題にぶつかります。
そもそも首里城がどんな城だったのか??誰にも分からなかったのです。
沖縄戦で、消失した首里城は、本来の姿ではありませんでした。
明治政府による琉球処分により、琉球王国が滅びて以来首里城はもはや城ではなくなっていたのです。
日本軍の施設にされたり、女学校の校舎にされたりした挙句、太平洋戦争前には神社に変えられていました。
復元すべきは、そんな変わり果てた首里城ではなく、誰も見たことのない琉球王国時代の首里城だったのです。

「王国だった頃の首里城を目指そう!!」by高良

現役だった頃の首里城・・・それは一体どんな城だったのか・・・??
正殿の前にある御庭(ウナー)は、中国の皇帝の使節たちを迎えて外交イベントをしたり、様々な祈りも・・・琉球最高の芸能がそこで演じられる・・・琉球最高の劇場でもありました。
しかし、王国時代の首里城の資料は、沖縄戦の戦火によってほとんどが失われていました。
構造も、色も、装飾も、技法も、資材も・・・何一つわかりませんでした。
首里城は、幻の城でした。
高良はその幻を取り戻すため、ありとあらゆる可能性を探し求めます。
東京・文化庁で一つの資料が見つかります。
神社だった時代の資料・・・拝殿図です。
戦前に行われた昭和の大修理の記録です。

正殿の平面図、立面図、建築的にしっかりしたものでした。
正殿を支えている柱のサイズが具体的に議論できました。
屋根の勾配も・・・!!
しかし、大きな問題がありました。
”がらんどうの正殿”だったのです。
1階と2回に部屋がいくつかあったはずなのに・・・それが表現されていませんでした。
そして、その玉座も表現されていない・・・!!
けれども、首里城正殿の大まかな構造がわかったことは収穫でした。

その突破口は・・・沖縄文化の研究家・鎌倉芳太郎の遺品の中に資料がある・・・??
お鎌倉の遺品が保管されていた沖縄県立芸術大学・・・その書庫で、梱包された状態で見つかりました。
風呂敷包みを開いてみると・・・古文書・寸法記が見つかりました。
それこそが、琉球王国時代の首里城正殿の改修記録でした。
まるで王国時代の首里城正殿にタイムスリップしたかのような情報でした。

拝殿図で抜け落ちていた玉座・御差床の位置など、内部構造が描かれていました。
それだけでなく、朱色・・・黒・・・黄色・・・琉球王国時代の首里城は、色鮮やかな城でした。
寸法記の発見で、プロジェクトは大きく前進します。
しかし、高良にはどうしても手に入れたい資料がもう一つありました。
琉球王国最後の王・尚泰・・・琉球処分のあと、明治政府によって東京に移住させられていました。
高良は、尚家代々の秘宝の中に、首里城に関する古文書があるのではないかと考えました。
しかしそれは、一つ地縄ではいかないミッションでした。
尚家の古文書は、これまで一切一般公開されたことのない門外不出の資料でした。
それを管理していたのは、尚泰のひ孫・尚裕でした。
尚裕さんに会いたい・・・しかし王家の末裔・・・どうすればいいのか??

高良たちが通う喫茶店のマスター・徳永盛保さんが、尚裕さんと仲が良かったのです。
徳永は、早速尚に連絡・・・尚は、面会を承諾しました。
高良は東京へ出向き、指定された銀座の会員制クラブで尚裕と会いました。
しかし、この日はまだ、古文書のことは切り出しませんでした。
高良は尚に、首里城復元プロジェクトの進捗状況を伝えます。
その後、沖縄で改めて会った時、高良は初めて本題に入りました。

「資料を観ずに復元は・・・琉球の歴史をずっと伝えてきた先人たちの努力や思いに反することになる!!と、より完全を期すために、尚さんの資料が必要です」by高良

2か月後・・・喫茶店のマスター・徳永から、桐の箱が届けられました。
その中身は、4冊の古文書・・・”普請日記”その複写資料でした。
王国時代の首里城改修の記録でした。
現場状況が詳細にわかる・・・!!
人が、資材が、みえる・・・!!

特に高良が驚いたのが・・・回摺奉行と書かれていたこと・・・これは、琉球漆器などに関わる職人たちを束ねる役職です。
琉球漆器と城の意外な組み合わせ・・・高良は、日本の城とは違う首里城の本質を見抜きました。
漆器職人・・・その技術をベースにして、建物の塗装工事に生かしたのです。
首里城正殿は、巨大な琉球漆器でした。

その後、尚裕は大きな決断をします。
尚家が代々管理をしてきた古文書などの宝物を、すべて那覇市に寄贈したのです。
それらは、沖縄県における戦後初の国宝に指定されました。

「きちんと復元されるということは、尚本家にとっても非常に誇りであり、沖縄の宝であり、国の宝にもなっていく・・・」by尚裕

拝殿図、寸法記、普請日記・・・パズルのピースは、遂に埋まりました。
幻に過ぎなかった城は、現実に姿を現そうとしていました。
資料探しと並行して、首里城跡で発掘調査が行われました。
遺構がしっかりと残っていました。
失われた首里城正殿の石組みが丸々出てきました。
首里城の跡を傷つけないように土をのせて大学本部を作っていたのです。
やがて調査されるかもしれなし、復元されるかもしれない・・・
未来に遺構を送り届けてくれていました。

必要な木材は・・・直径40センチ、高さ8メートルの垂直にまっすぐ伸びた柱・・・
これが、正殿だけでも100本以上必要でした。
木材調達の使命を担ったのは・・・

尚氏と首里城 (人をあるく) [ 上里 隆史 ]

価格:2,200円
(2020/11/15 20:06時点)
感想(0件)



②首里城設計総括者・中本清
日本中で巨木を探し続けた中本は、最後に意外なところから調達に成功します。
建築設計会社の社員だった中本が、この仕事を任されたのには理由がありました。
以前、中本は沖縄の昔の民家を再現した郷土村を設計・・・その経験が買われたのです。
中本には、父の代から続く首里城との縁がありました。
中本の父は、戦後、琉球大学建設に携わっていました。

「大学の本館を作る時、地面をならしたけど、だけど首里城の基盤のところは土をかけて壊さなかったよ」by父

そこにお城があったってことがまぎれもない事実・・・
あの時、古の首里城の遺構を守った一人が、中本の父親でした。

中本のミッションは、首里城の骨格となる木材調達でした。
沖縄の地場で取れる材木で、チャーギ(イヌマキ)、オキナワウラジロガシ・・・この二つです。
しかし、戦後、家を失った住民たちのために、簡易住宅が7万戸以上建てられたため、イヌマキなどを含む木が、県内などで伐採されていました。
沖縄での調達は不可能・・・いっそ、鉄筋コンクリートにしてはどうか??

中本は、日本中で使えそうな木材を探します。
しかし、全国の山林を調査したものの、気候に合わない、数がそろわないなど、条件を満たすものはありませんでした。
戦前の改修工事の資料の中に、意外な記述がありました。
そこには”台湾檜”・・・!!
この時も、沖縄の木材では足りず、一部に台湾産のヒノキが使われていました。
これが活路を見出します。
気候風土からすると、やはり台湾だろう・・・!!
1986年1月・・・中本は、台湾へ飛びます。
訪れたのは、台湾檜の産地・台湾北部の宜蘭県です。
中本たちが車で向かったのは、標高およそ2000mの太平山です。
険しい山道を進みながら、遂にたどり着きます。
巨大な台湾檜・・・!!

樹齢数百年クラスの大木が、林立していました。
しかし、中本のそんな喜びは、交渉で一気にかき消されます。
「もう切れないよ」「ダメかもしれないよ」と言われてしまったのです。
台湾檜もまた戦後の復興期に大量に切り出されたために、伐採制限がかかっていたのです。
中本たちのピンチを見て、案内をしていた陳燈財は立ち上がり、こう言いました。

「首里城を作るんだったら、俺たちは琉球のために一生懸命やるんだ
 お隣同士じゃないか、兄弟みたいなもんじゃないか・・・!!」

陳が育ったのは、日本の統治時代・・・陳は、中本たちを励ましました。

「私も大和魂で頑張るから・・・!!」と。

大和魂は信用を守ることだ・・・!!
木材の調達を一任された陳・・・新たに切り出すことを諦め、伐採済みの台湾檜に切り替えます。
その為には、台湾全土の会社を一軒一軒回って探す必要がありました。
中本の台湾視察から1年後・・・陳親子は、台湾檜およそ350トン分を中本たちのもとへ届けました。
1989年11月、平成の幕開けと共に首里城の再建が始まりました。
沖縄と台湾の絆がもたらした台湾檜は、着々と組み上げられていきました。

③漆芸家と妻・前田孝允、栄
2人は、琉球王国の威風を再現するために、身も心も捧げました。

首里城の近くに住む前田栄・・・
去年のあの日、栄は自宅からの避難を余儀なくされました。

「火の粉がもう・・・空一杯広がってましたよ」

火災の日、夫の前田孝允は、手のケガで入院していました。

前田孝允の火災直後の言葉・・・

「何もかも無くなったが、また新しくやり直そう
 前向きに考えるとやる気が出る」

だが、その思いもむなしく2020年1月14日、逝去・・・享年83歳でした。

平成の首里城復元プロジェクトでは、4つの専門部会(木造部会・彫刻部会・瓦類部会・彩色部会)が設置され、より細かい調査が進められていきました。
前田孝允は、彩色部会のメンバーの一人に選ばれました。
琉球漆器の第一人者・・・孝允の知識と技が必要とされたのです。

「貝摺奉行時代の作品・技法といいますか、そういったものを復元しようと思ってね
 これからも、琉球文化を象徴するものとして、この漆器というものを作っていかなくてはいけない」by孝允

孝允と栄が出会ったのは、伝統工芸の講習会でした。
首里城の復元が始まった後、孝允から栄に声を掛けました。

「一緒に首里城を作りませんか」

これが、プロポーズでしたが・・・

孝允の仕事は、栄の想像を超えていました。
それは、王の威風を取り戻すための真剣勝負でした。

高良倉吉が見つけた寸法記によって、玉座の間の様子はおおむねわかっていました。
王の威風を最も表現している御差床と呼ばれる玉座・・・
孝允は、その玉座の脇に立つ柱に注目しました。
柱の色は朱・・・そして模様は、金龍五色之雲とありました。
正殿正面の柱にも、同じ文字・・・柱の模様は一緒だと推測されました。
しかし、絵は簡素なもの・・・しかも線画・・・五色の色はわかりませんでした。

手掛かりはほとんどない・・・高良倉吉から、博物館である遺物を発見したと報告がありました。
それは、龍透彫仏間引戸・・・一枚の扉でした。
かつて琉球王家の菩提寺だった円覚寺にあったものです。
非常に素晴らしいもので、そこにあったのは空を舞う金色の龍・・・雲には、黄・緑・朱・白・青!!
まさに、金龍五色之雲でした。
まさに”琉球王家の美意識”、首里城正殿もこのような表情をしたものであったのではないか??

「この五色は古代仏教やチベットあたりでは今でも使われている
 青は空、緑は水、朱は火、白は雲を、黄は大地を意味し、五色で全宇宙を表現しているのです」by孝允

あとは、龍のデザイン・・・孝允の創造性が試されます。
孝允は、古今東西、様々な龍を研究します。
首里城に相応しいイメージを探し求めました。
そして下絵に着手しました。
本当に自分で描いているのか??何かに描かされているような感じでした。
孝允が下絵を描き、栄が清書します。
やがて下絵が完成します。
五色の雲が浮かぶ天空を、龍が舞い昇る・・・!!
そして龍の顔は・・・優しくて可愛い・・・!!

前田孝允自身は、
「僕の書いた龍は優しいと言われます
 でも”僕の龍”ではなく”琉球の龍”が優しいのです
 戦を好まない、琉球の人たちの気持ちが伝わるのでしょう
 その優しい龍に守られていると、心が安らぐのです」と言っています。

孝允による金龍五色のデザインが完成しました。

その後、孝允のアトリエに玉座の間の模型が運び込まれました。
実際に色を塗り、雰囲気を確かめるためです。
1989年3月27日、着色模型完成。

首里城の工事が着々と進みます。
そしてようやく、玉座の間での作業の日が来ました。
初めて柱に龍の絵を巻き付けたとき・・・躍動感がありました。
前田夫婦は、城のお披露目2日前まで玉座の間で作業を進めていました。

1992年11月2日・・・
幻だった首里城が、沖縄返還20周年の年に蘇りました。
戦争による消失から47年目の奇跡でした。
一般公開が始まると、初日に訪れた人は4万7000人に上りました。
それは、琉球王国の時代へのタイムトリップでした。
御庭という広場を前に、ひときわ鮮やかな首里城正殿・・・!!
琉球文化独特の装飾、そして色合い・・・!!

海を渡り、台湾から贈られた檜がこの堂々たる威容を作り上げました。正殿内部の玉座の間・・・かつて王たちが儀式を行った神聖な場・・・その空間を支える金龍五色之雲の柱・・・優しい龍の顔には、平和への願いがこめられました。
首里城債権の悲願は、遂にかなったのです。

多くの人々の身を削る努力の末に、古の姿がよみがえりました。
2000年ユネスコ世界遺産登録・・・!!
ところが、2019年10月・・・突如として首里城が燃え落ちたのです。
人々は、再び深い悲しみに打ちひしがれました。
しかし、再建への動きはすぐに始まりました。
平成の復元で培った知識と経験、なにより沖縄の誇り、首里城への変わらぬ思いが背中を押してくれるはずです。
令和の首里城復元は、力強く歩みを進めようとしています。
日本中、世界中が心を痛めた首里城の悲劇・・・しかし・・・!!
沖縄は、すぐに動き始めました。
自分たちの心のよりどころを取り戻そう!!
12月27日、第1階首里城復元に向けた技術検討委員会が開かれました。
委員長には高良倉吉が選ばれました。
現在では、”見せる復興”と題し、令和の復元工事を一般公開しています。
戦後の人々が守った王国時代の遺構も見ることができます。

令和の首里城復元完了は、2026年を目指しています。
琉球の魂は、決して失われない・・・!!

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

プロジェクトX 挑戦者たち 炎を見ろ 赤き城の伝説~首里城・執念の親子瓦~ 【DVD】

価格:1,778円
(2020/11/15 20:06時点)
感想(0件)

甦れ!首里城 報道写真と記事でたどる歴史 [ 岡田輝雄 ]

価格:1,100円
(2020/11/15 20:07時点)
感想(0件)

昭和17年に、一人の若者が書いた詩・・・

ぼくも戦に征くのだけれど

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし
勝ったはなし
三ヶ月もたてば
ぼくも征くのだけれど
だけど
こうしてぼんやりしている

ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう
てがらたてるかな

だれもかれも
おとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど
征くのだけれど

なんにもできず
蝶をとったり
子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた

作者は竹内浩三・・・太平洋戦争の激戦地・フィリピンで戦死しました。
23歳の若さでした。
彼は、その短い生涯の中で、たくさんの詩を書き残しました。
戦後、遺族によって作品集が生まれ、多くの人に読まれるようになりました。

ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死 (中公文庫) [ 稲泉連 ]

価格:796円
(2020/8/13 10:25時点)
感想(3件)





銭湯へ行く
麦畑をとおる
オムレツ形の月
大きな暈をきて
ひとりぼっち
熟れた麦
強くにおう
かのおなごのにおい
チイチイと胸に鳴く
かのおなごは
いってしまった
あきらめておくれと
いってしまった
麦の穂を噛み噛み
チイチイと胸に鳴く


戦時下にあってもみずみずしい言葉に満ちた言葉・・・
それは、どこから生まれたのでしょうか??

竹内浩三は、三重県から出てきて高円寺に下宿していました。
彼が通っていた日本大学専門部映画科は、当時映画制作を学ぶことができる唯一の学校でした。
その頃の日本は、中国大陸でいつ終わるかもわからない戦争を続けていました。
若者たちは、次々と戦地に送られていたのです。
しかし、学生である浩三は、実家からの送金で映画を見たり、音楽を聴いたり、芸術三昧の生活を送っていました。

学生時代、浩三は4歳違いの姉・こうに宛てて頻繁に手紙を書き送りました。
すでに結婚していた姉・・・思春期に相次いで両親を亡くした浩三にとって、たった一人の肉親でした。
レポート用紙や原稿用紙に綴られた手紙は、時に日記替わりであり、時に作品発表の場でした。
そして、いつも金の無心で結ばれていました。

手紙には恋の話もよく書かれていました。
恋の話と言えば聞こえはいいものの、その実、すべて失恋話でした。


あきらめろと云うが

かの女を人は
あきらめろと云うが
おんなを 人は
かの女だけでないと云うが

おれには遠くの田螺の鳴き声まで
かの女の歌声に聞こえ
遠くの汽車の汽笛まで
かの女の溜息にきこえる

それでも
かの女を 人は あきらめろと云う


竹内浩三は、大正10年、三重県宇治山田市・・・今の伊勢市に生まれました。
実家は豪商として知られた呉服店・・・天文学が好きだった父と映画好きの母との間で伸び伸びと育ちました。
浩三が中学時代に熱中していたのが、漫画でした。
普通に書くだけでは飽き足らず、左手で書いたり、口で書いたり、足で書いたり・・・
浩三の漫画は、同級生の間で大人気!!
手書きの漫画回覧誌を一人で発行していました。
有名人の似顔絵シリーズ、四面楚歌をもじった「四面軍歌」、浩三は思ったこと、感じたことを、時に風刺を聞かせて描きました。

浩三は、軍事訓練が大の苦手でした。

昭和15年、浩三は1年の浪人を経て日大専門部映画科に入学・・・
学生生活をスタートさせます。
毎日映画を見、そのシナリオを研究し、自らオリジナルの脚本を書いていました。
そして、恋をしてはふられていたのです。

昭和15年9月、日独伊三国同盟調印・・・
アメリカ、イギリスとの対立を深めていきます。
学生たちが参加する野外連合演習も本格的なものになっていきました。
浩三の学校でも、軍事演習が行われました。

昭和16年10月・・・政府は専門学校生を繰り上げ卒業させることを決定。
浩三たちは、一年後には兵隊になることが決まりました。
その2か月後・・・昭和16年12月8日、真珠湾攻撃!!
太平洋戦争に突入します。


冬に死す

蛾が
静かに障子の桟からおちたよ
死んだんだね

なにもしなかったぼくは
こうして
なにもせずに
死んでゆくよ
ひとりで

生殖もしなかったの
寒くってね

なんにもしたくなかったの
死んで行くよ
ひとりで

なんにもしなかったから
ひとは すぐぼくのことを
忘れてしまうだろう

いいの ぼくは
死んでゆくよ
ひとりで

こごえた蛾みたいに

昭和17年5月・・・浩三は伊勢に帰郷しました。
徴兵検査を受けるためです。
結果は「甲種合格」・・・
入営は5か月後の10月1日と決まりました。
自由に暮らせるのもあと5ヶ月・・・

徴兵検査から戻った浩三は、1か月もたたないうちに新しいことを始めました。
昭和17年6月1日、友人たちと同人誌「伊勢文学」を創刊したのです。
発行部数十数冊の手作り文芸誌は、詩や随筆を掲載、第3号までは浩三が編集し、毎月発行しました。
同人は、中学時代の仲間たちです。
浩三は創刊号のあとがきにこう記しました。

見た通りこの雑誌は貧弱なものである
ぼくたちは、もっともっと勉強してこの伊勢文学をますますいい雑誌にしよう
ぼくたちは、若いんだから何でもできる

第2号に掲載された鈍走記・・・
この作品は、浩三の中に湧き上がる気持ちを短く綴ったものです。

生れてきたから、死ぬまで生きてやるのだ。ただそれだけだ。
日本語は正確に発音しやう。白ければシロイと。
もし軍人が、ゴウマンでなかったら、自殺する。
✕✕は、✕の豪華版である。
✕✕しなくとも、✕✕はできる。

敢えて伏字にしたこの部分・・・
後に発見された草稿に書かれていたのは、
戦争は悪の豪華版である。
戦争しなくとも、建設はできる。
でした。

そして、またしても失恋・・・

メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト

若草山や
そよ風の服
大和の野 かすみ かすみ
そよ風の吹く

おなごの髪や
そよ風の吹く
おなごの髪や
枯草のかかれるを
手をのばし とってやる

おなごのスカアトや
つぎあとのはげしさ
おなごの目や
雲の映れる
そよ風の映れる

二人は いつまで と
その言葉や
その言葉や
そよ風の吹く

内地勤務になるよう挨拶に行って欲しいという姉・こうさんの頼み・・・
浩三は、こんな手紙を送ります。

”別の手紙で書いたように、青木さんに会いました
 一生のお願いだそうですが、こんな他愛もないことに一生のお願いでは人間が安っぽく見えていけません
 一生のお願いは、一生に一度のものだと思いますが、あんたは前にも何かでこのお願いをやらかしたような気がします
 衣料切符のように大切に使って下され
 学校へ出てますから、ご安心下され
 大映の京都の助監督の口があったが、兵隊前なのでダメでした
 僕は、芸術の子です”

昭和17年7月・・・

ぼくも戦に征くのだけれど

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし
勝ったはなし
三ヶ月もたてば
ぼくも征くのだけれど
だけど
こうしてぼんやりしている

ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう
てがらたてるかな

だれもかれも
おとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど
征くのだけれど

なんにもできず
蝶をとったり
子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた

この詩は、愛読していた萩原朔太郎の詩集の余白に書きつけられていました。
伊勢文学には発表できなくても、書かずにはいられなかった素直な思い・・・


昭和17年7月頃の詩・・・

よく生きてきたと思う
よく生かしてくれたと思う
ボクのような人間を
よく生かしてくれたと思う

きびしい世の中で
あまえさしてくれない世の中で
よわむしのボクが
とにかく生きてきた

とほうもなくさびしくなり
とほうもなくかなしくなり
自分がいやになり
なにかにあまえたい

ボクという人間は
大きなケッカンをもっている
かくすことのできない
人間としてのケッカン

その大きな弱点をつかまえて
ボクをいじめるな
ボクだってその弱点は
よく知っってるんだ

昭和17年8月・・・入営まであと2か月・・・
浩三は自分が戦地に行って死ぬことを、より強く意識するようになります。

昭和17年8月

骨のうた

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあはれ
とほい他国でひょんと死ぬる
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬる
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまふや
その心や

苔いじらしや
あわれや兵隊の死ぬるや
こらえきれないさびしさや
なかず 咆えず ひたすら銃を持つ

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なにもない 骨

帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や
女のみだしなみが大切で
骨を愛する人もなし

骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
それはなかった

がらがらどんどん
事務と常識が流れていた
骨は骨として崇められた
骨はチンチン音を立てて粉になった

ああ 戦死やあわれ
故国の風は 骨を吹きとばした
故国は発展にいそがしかった
女は化粧にいそがしかった

なんにもないところで
骨はなんにもなしになった


そして9月・・・入営の日まで1か月を切りました。

みんなして酒をのんだ
新宿は、雨であった
雨にきづかないふりして
ぼくたちはのみあるいた

やがて、飲むのもお終いになった
街角にくるたびに
なかまがへっていった

ぼくたちは
すぐ いくさに行くので
いまわかれたら
今度あうのはいつのことか
雨の中へ、
ひとりずつ消えてゆくなかま
おい、
もう一度、顔みせてくれ
雨の中でわらっていた
そして、みえなくなった

昭和17年9月30日・・・浩三は入営のため、伊勢に帰郷します。
入営の朝、揺れ続ける思いに自分なりに区切りのつけた浩三の姿を、姉のこうさんは忘れることが出来ません。

昭和18年10月1日、浩三は陸軍二等兵として三重県久居町の門をくぐりました。
今は、陸上自衛隊の久居駐屯地となっています。

浩三は、入営の日の朝、自分の机に一枚の書置きを残していました。

入営の日の書き置き

十月一日、すきとおった空に、
ぼくは、高々と、日の丸をかかげげます。
ぼくの日の丸は日にかがやいて、
ぱたぱた鳴りましょう。
十月一日、ぼくは〇〇聯隊に入営します。
ぼくの日の丸は、
たぶんいくさ場に立つでしょう。
ぼくの日の丸は、
どんな風にも雨にもまけませぬ。
ちぎれてとびちるまで、
ぱたぱた鳴りましょう。

ぼくは、今までみなさんに
いろいろめいわくをおかけしました。
みなさんは、ぼくに対して、
じつに親切でした。
ただ、ありがたく思っています。

ありがとうございました。
死ぬるまで、
ひたぶる、たたかって、きます。

軍服姿で写る兵士の写真・・・その中で、ひとり浩三だけが横を向いていました。

浩三が入営して1年半後の昭和19年、戦況の悪化は、国民生活にも影響を及ぼしていました。
空襲に備える訓練、日常の全てが戦争一色でした。
その頃、こうさんのもとに茨城県の筑波から小包が届きます。
送り主は浩三でした。
愛読していた宮沢賢治の作品集・・・
その中がくりぬかれていて・・・中には、手帳が・・・!!
それは、浩三の日記でした。
昭和19年の1月1日から始まり、1日も欠かすことなく書き続けられていました。

この日記は、19年の元旦から始まる
しかしながら、ぼくがこの筑波へ来たのは18年の9月20日であったから、約3か月の記録が抜けているわけである。
といって、いまさらその日々のことをかくこともできない。
ざっとかく。
20日の朝、この部隊へきた。
兵舎が建っているだけで何にもなかった。
毎日、飛行機が飛んでいた。
毎日、いろんな設備ができていった。
西風が吹き始めて、冬であった。

浩三の移動先は、西筑波飛行場に兵制された滑空部隊でした。
木と布で作ったグライダーで、最前線に送られる部隊・・・
ひとたび出撃すれば、生きて帰れる見込みが薄かったといいます。
浩三は、周囲の目を盗み、便所の中で日記を書き続けました。

1月7日
朝から演習であった。
泥路に臥して防毒マスクから梢の日当たりを見ていた。
あ・・・雀が一羽飛び立った。
昼のカレーライスがうまかった。
昼からもまた演習であった。
枯草の上に寝て、煙草の煙を空へふかしていた。
この青空のように自由でありたい。

昼夜を問わず行われる演習・・・
抜き打ちの身体検査、一兵卒が日記を書き続けるのは容易なことではありませんでした。

1月16日
午前中、特火点攻撃・・・これまたひどい風であった。
そしてまたその寒さったらなかった。
干しておいたじばんが凍っていた。
夜、饅頭があがった。
二つの饅頭を食ってしまうと、言うに言われない寂しさがやってきた。

2月4日
ぼくはこの日記を大事にしようという気が益々強くなってきた。
この日記をつけるためだけで、かなり大きな支障が日々の務めの上にきたす。
それほど暇がない。
しかし、この日記はおろそかにはすまい。

2月16日
土屋から手紙がきていた。
土屋も中井も予備学生に合格したことがかいてあった。
めでたいと返事したけれども、なんとなく淋しい気がして、気がふさいだ。

3月6日
野村からたより。
野村も幹候をとおる。
あしたからまた中隊当番とはげっそりする。

かつての伊勢文学の仲間たちは、将校に昇進する機会をつかんでいきます。
浩三は、一兵卒のままでした。

3月16日
星の飛行場が海のよう
便所の中でこっそりとこの手帳を開いて、別に読むでもなく、友達に会ったように慰めて・・・そんなことをよくする。
この日記に書いていることが実に情けないような気がする。
こんなものしか書けない。
それで精一杯。
それが情けない。
もっと心の余裕が欲しい。
中井や土屋のことを思う。
余裕のある生活をして本も読めるだろうし、豊かな心で軍隊を生活し、いい詩やいい歌を作っているだろうなと思う。
貧しい言葉しか持たない。
だんだんと言葉が貧しくなるよう。

昭和19年4月、少年兵の受け入れ係になった浩三は、舞台から離れた小学校に寝泊まりすることとなりました。

4月13日
しょうかしつへ行って、オルガンを鳴らしていたら、子供がどっさり集まってきた。
空の新兵をひいたら、みんなそれを知っていて、声を揃えて歌い出した。
自分も歌って極めていい気持になった。

4月14日
飯がすむと子供のところへあそびに行った。
みんなあつまってこいや。
ぼくは、わけもなくただにこにこして、ものもいわずただにこにこしていた。
やすおくん、たかしくん、ちえこくん、としこくん、エヘヘと笑って他愛もない。


ぼくのねがいは戦争へ行くこと。
ぼくのねがいは戦争を書くこと。
戦争を描くこと。
ぼくが見て、ぼくの手で、戦争を書きたい。
その為なら、銃身の重みが脛骨を砕くまで歩みもしようし、死ぬる事さえいといはせん。
一片の紙と鉛筆を与えよ。
ぼくはぼくの手で、戦争をぼくの戦争が書きたい。


浩三から届いた日記は2冊・・・
昭和19年1月1日に始まり7月27日で終わっていました。

このまずしき記録をわがやさしい姉におくる

昭和22年6月
こうさんの元へ浩三の死亡告知書が届きました。

陸軍兵長竹内浩三 昭和20年4月9日 時刻不明 比島バギオ北方1052高地に於いて戦死

私のすきな三ツ星さん
私はいつも元気です
いつでも私を見て下さい
私は諸君に見られても
はずかしくない生活を
力一ぱいやりまする
私のすきなカシオペヤ
私は諸君が大すきだ
いつでも三人きっちりと
ならんですすむ星さんよ
生きることはたのしいね
ほんとに私は生きている

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

戦死やあわれ (岩波現代文庫) [ 竹内浩三 ]

価格:1,100円
(2020/8/13 10:25時点)
感想(0件)

竹内浩三詩文集 戦争に断ち切られた青春 (東海風の道文庫) [ 竹内浩三 ]

価格:1,540円
(2020/8/13 10:26時点)
感想(0件)

このページのトップヘ