真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任 [ 倉山満 ] 価格:1,404円 |
長野県軽井沢町・・・戦前、国民の人気が高いある政治家の別荘が残されています。
政財界の友人を招き、当時最先端だったゴルフに熱中していました。
別荘の主は近衛文麿・・・
昭和の初め、日本が戦争に突き進んだ時代に3度にわたって首相を務めました。
別荘に残されていた掛け軸・・・昭和19年、アメリカの戦いのさ中、認めた言葉です。
「度量数称勝」・・・国力で圧倒的に勝るアメリカに勝てない・・・そう思っていたであろう近衛文麿、どうして戦いを避けることができなかったのでしょうか?
昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争・・・
そに8か月前、殊勝だった近衛は、アメリカとの関係改善を目指し、和平交渉を行っていました。
そこでまとめ上げたのが「日米諒解案」です。
両国の主張を盛り込んだだけの外交文書でしたが、その後の日米交渉の土台となりました。
しかし、この近衛の動きを真っ向から否定したのが外務大臣・松岡洋右でした。
松岡は第二次世界大戦下のヨーロッパで快進撃を続けるナチス・ドイツとの同盟を軸にアメリカに対抗する力の外交を進めました。
松岡を支持する国民の熱狂が、近衛を外交を狂わせ、外交交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。
迫り来る開戦・・・近衛はルーズベルト大統領とのトップ会談に託しました。
外交と世論のはざまで揺れた近衛文麿、その選択とは・・・??
京都大徳寺・・・ここに近衛家代々の墓所があります。
近衛家は、藤原鎌足を祖先に持ち、代々歴代天皇に仕えてきた公家の名家です。
宮中の中で、代々文化面を司っていた家で、文麿も最初から政治の道についたわけではなく、華族としての立場で政治に関わっていました。
明治時代に作られた特権階級の華族。
その最高位侯爵だった近衛文麿は、大正5年、25歳で政界デビュー、貴族院議員となります。
当時から大衆の人気は高く、名家でありながら親しみやすい人柄で、政界の貴公子としてもてはやされました。
そんな近衛の言論が注目されるようになったのは、大正7年のことでした。
この年終わりを迎えた第一次世界大戦・・・
イギリス、アメリカを中心とする連合国が勝ち、英米主導の新しい国際秩序が築かれることとなりました。
この時、27歳の近衛の論文が議論を呼びます。
「英米本位の平和主義を排す」
英米は戦後の国際秩序を都合よく再編するつもりだ
豊富な天然資源を独占するなど、他国の発展を抑圧している
日本は正当なる生存権を主張し、それを貫徹すべきである
国際協調を掲げながら自国の利益を優先する英米を強く批判したのです。
そして大正から昭和へ・・・近衛が政治の舞台へと・・・!!
昭和恐慌・・・失業者が続出し、政治への国民の不満が高まります。
昭和6年9月満州事変勃発、満州国が誕生しました。
軍部の勢いは誰にも止められないものとなりました。
日本の行き詰まりは支配層の腐敗が原因だと考えた若者によって暗殺やテロが相次ぎます。
総理大臣が次々と変わる不安定な政局の中、新しいリーダーとして期待されたのは、当時貴族院議長だった近衛文麿でした。
昭和12年6月・・・近衛は45歳という若さで内閣総理大臣に就任します。
メディアはこぞって期待します。
”低迷する暗雲の中から一つの光が忽然として輝きだす”
しかし、組閣からわずか1か月で難局に直面します。
7月7日、盧溝橋事件・・・日中両軍が衝突します。
これをきっかけに日中戦争がはじまりました。
近衛は国民が一丸となって戦うように大演説を行い、ラジオや新聞を使って戦意高揚に・・・!!
日中戦争は拡大の一途をたどり、南京まで陥落!!
熱狂した人々は手旗や提灯をもって行進し、日本中が歓喜の渦に包まれました。
この世論の高揚が、近衛内閣に影響を及ぼすこととなります。
その頃、日本はドイツの仲介で、中国側と交渉していました。
相手は国民政府を率いる蒋介石でした。
しかし、戦勝に湧く世論に押され、交渉条件を釣り上げてしまいます。
それは、満州国の承認、賠償金の要求・・・中国側が容認しがたいものでした。
当時の外交の問題点は、ほぼ呑めないであろうモノを求めてしまった・・・その国際感覚のなさ、国内向けの政治を重視した外交でした。
国民の戦争熱を煽った場合、自分でも止められなくなって・・・外交的に妥協すべきところで妥協できなくなってしまったのです。
昭和13年1月、近衛は中国に対し、事後、国民政府を相手とせずと、自ら和平交渉を打ち切りました。
日中戦争がはじまって3か月後の昭和12年10月・・・
アメリカのルーズベルト大統領が演説を行いました。
「アメリカは戦争を憎む
アメリカは平和を望む
だからこそ、平和のために関与することを辞さない」
名指しこそしなかったものの、日本を強く批判したものでした。
当時、中国との貿易拡大を目論んでいたアメリカ・・・海軍の軍備増強に着手し、中国国民政府に援助物資をするなど、日本との対決姿勢を明確にしました。
日本では泥沼化する日中戦争に国民は厳しい統制下に置かれていました。
昭和14年1月、第一次近衛内閣総辞職。
外交方針を巡って閣内で対立したことが原因でした。
この年、ヨーロッパ情勢は激動を迎えていました。
昭和14年9月第二次世界大戦勃発。
ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスはドイツに宣戦し、戦いが始まりました。
ドイツはデンマーク、オランダ、フランスなど周辺諸国を次々と制圧し、ドイツの優勢をみたイタリアもドイツ側として参戦!!
東京荻窪にあった近衛の邸宅「荻外荘」
昭和15年7月、再び首相に推された近衛は、組閣に先立ち陸海軍大臣、外務大臣予定者を呼び、ドイツ・イタリアとの関係強化を決定します。
この時、外務大臣に任じられていたのが松岡洋右でした。
昭和8年日本は国際連盟脱退を通告。
松岡の演説は、世界を相手に物怖じしない姿に、国民は喝采を送りました。
オレゴン大学を卒業し、アメリカ痛を自負していた松岡、弁が立つと、軍部を押さえられる人材と近衛が抜擢したのです。
第2次近衛内閣発足2か月後、松岡が主導した外交が世界に衝撃を与えます。
昭和15年9月日独伊三国同盟締結。
松岡の狙いは三国の結束を誇示することでアメリカに対抗するというものでした。
この同盟には、近衛にも明確な狙いがありました。
アメリカとの衝突を避けること・・・!!
昭和9年・・・首相になる3年前に近衛がアメリカに50日間滞在した時の記録・・・「米国巡遊日記」には・・・
ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれたり、各地で政財界の要人と交流を深めていたことが書かれています。
「ニューヨークに現代日本を正しく伝える施設を作るべきだ」とも。
両国の文化交流を進めることで、対立を避けられると考えていました。
アメリカ国民に対して友情の大切さを語る画像も残っています。
「私は多くの旧友たちと再会し、新しい友人たちと出会いたいと思っています。
そして、太平洋の反対側にいる私たちが80年育んできた日米間の友情を、どれほど大切に思っているか、私から直接お伝えしたいのです。」
大国アメリカを目の当たりにした近衛にとって、日米開戦は絶対にあってはならないものでした。
昭和15年11月、アメリカから二人の神父が施設として来日・・・
「日米の友好関係の回復を望む」アメリカからのシグナルでした。
当時ドイツと戦うイギリスを支援していたアメリカは、同時にアジアで日本と対立するのは避けたいと考えていました。
しかし、中国問題をめぐり、日米関係が悪化していたために、民間レベルで交渉を始めたのです。
アメリカとの対決に危機感を抱いていた近衛は、期待していました。
昭和16年2月、日本の使節がアメリカに向かいました。
対話の機運が高まったため、僅か2か月で駐米大使・野村吉三郎と国見長官コーデル・ハルの交渉に格上げされました。
日米諒解案・・・
外交方針から経済協定まで、あくまでお互いの主張を記したものに過ぎなかったものの、冷え切った日米関係の解決の糸口となるものでした。
アメリカの狙いは、日本が三国同盟における軍一事情の義務を免れること・・・
アメリカとドイツが戦争になっても、日本は参戦しないという意図が含まれていました。
日本の狙いは、日中戦争の解決でした。
アメリカが満州国を承認すること・・・ルーズベルト大統領による中国の和平勧告日本の有利な条件が盛り込まれました。
さらに、近衛にとって大きかったのは、日米首脳会談でした。
国内の調整をへずにTOPで外交方針を決められる強力なものでした。
しかし・・・ハルは諒解案に基づく交渉を始める前に、前提条件を示していました。
ハル四原則
①領土保全と主権尊重
②内政不干渉
③機会均等
④太平洋の現状維持
それは、中国をはじめとする他国の領土や主権を守り、内政干渉や武力行使を全面的に禁止するというものでした。
交渉が途絶えるのを恐れた野村は、東京に諒解案を伝える前に、この四原則には触れませんでした。
4月18日、諒解案を受け取った近衛は、大本営政府連絡懇親会で検討。
軍部も賛同し、これをたたき台にアメリカとの交渉を始めようとしていました。
ところが・・・この動きに強硬に反対したのが、外務大臣・松岡洋右でした。
松岡は日米交渉の模索が始まっていた3月から1月あまりヨーロッパを外遊していました。
ドイツではヒトラーと会談し、熱狂的な歓迎を受けました。
帰路、ソ連で直接スターリンと直接交渉し、昭和16年4月、日ソ中立条約締結に成功。
松岡は三国同盟に莫大な戦闘機や陸上兵力を加えたソ連との”四国協商”を構想・・・連合国に匹敵する軍事力でアメリカを圧倒しようとしていました。
4月22日、松岡は帰国。
政治家、軍人、メディアが迎える華々しい凱旋となりました。
松岡の外遊は、外交史上画期的な出来事と報じられ、近衛自ら飛行場に足を運び、松岡を出迎えました。
しかし、自分のいないところで近衛が進めた日米交渉に、松岡は警戒心を隠しませんでした。
”本提案は米国の悪意七分善意三分と解する”
日米諒解案をもとに交渉を続けるべきか、四国協商を進めるべきか・・・近衛は国の命運をかける選択に迫られました。
松岡が帰国した1941年4月22日、大本営政府連絡懇談会が開かれました。
近衛が進め、軍部も賛同していた日米諒解案に対し松岡が反発、一人退出し、その後自宅に引きこもってしまいました。
陸海軍首脳からは、松岡に対する反感が高まり、更迭してまでも諒解案を進めるべきという案も・・・
しかし、結局近衛は、松岡にアメリカとの外交を委ねることを選びました。
早いところで罷免することは難しい・・・松岡には日ソ中立条約という手土産がある・・・
5月12日、松岡は自ら手を加えた修正案をアメリカに伝えます。
”三国同盟の軍事義務に基づき、ドイツとアメリカが戦争になれば、日本は参戦する”
あくまで三国同盟の結束を誇示し、アメリカの要求を拒絶する内容でした。
6月21日、国務長官ハルは、日本を非難するオーラル・ステートメント発表。
”日本の指導者は、ナチス・ドイツへの援護に固執している”
日米諒解案に基づく交渉は頓挫しました。
さらに翌日・・・日本に想定外のことが起きます。
6月22日、ドイツが日本と中立のソ連に侵攻。
松岡が構想していた四国協商はもろくも崩れました。
それでもアメリカへの強硬姿勢を変えない松岡・・・
近衛内閣は日米交渉を続けるために松岡を排除することで一致。
7月18日、外務大臣を変えて、第三次近衛内閣発足。
しかし、近衛内閣はアメリカとの対立を決定づけてしまいます。
日本軍は、石油や語句などの資源を求めて、南部仏印に進駐します。
東南アジアは、アメリカが支援する連合軍にとって戦略拠点でした。
そこににらみを利かす進駐は、連合軍に対する挑発とも取れる行動でした。
アメリカは在米日本資産を凍結、さらに日本への石油輸出禁止を発表します。
危機感を募らせた軍部は、早期開戦を主張!!
国民やメディアの間で反米が強まり、開戦は抑えられない事態に・・・。
日米開戦・・・
”ついに、自ら大統領と会見しようという一大決心をした”
8月、近衛は野村を介して日米首脳会談を打診します。
在日アメリカ大使グルーは、近衛の心境を本国にこう伝えています。
「今や近衛はこれまでの政策は根本的に間違っていると認識している。
そして、勇敢にも自らの命を犠牲にしてまでも、日米の和解を実現しようと決心している」
近衛のメッセージを受け取ったルーズベルトは興味を示し、アラスカでの会談を提案。
しかし・・・ハル国務長官は東南アジアに侵攻した日本に不信感を募らせ会談に消極的に・・・。
アメリカとの交渉が停滞する中、9月6日御前会議。
大きな打撃が・・・
決定した国策に軍部の意向が反映され、日米交渉の機嫌が盛り込まれました。
10月上旬までにアメリカとの交渉のめどが立たなければ、アメリカ、イギリス、オランダとの戦争に踏み切る・・・!!
近衛に残された期間は僅か1か月でした。
開戦に傾く軍部を横目に近衛はグルーと極秘に会い、会談を模索します。
この頃の近衛は・・・
コップ酒を煽り、激しく軍部を罵り・・・
陛下が反対だと言われているのに、陸軍は負ける戦争を主張する。
最早アメリカに脱出し、ルーズベルトと会談する以外にない!!
ハルはあくまで四原則の合意と、中国からの撤退を求め、譲歩することはありませんでした。
そしてこの絵が主張した日米交渉は内きりの機嫌が・・・
トップ会談による局面打開の望みは絶たれたのです。
10月16日、近衛内閣は総辞職・・・東条英機内閣が成立します。
その2か月後の12月8日・・・日本は真珠湾を攻撃し、アメリカとの4年にわたる戦争へ突入します。
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