日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:太平洋戦争

真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任 [ 倉山満 ]

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長野県軽井沢町・・・戦前、国民の人気が高いある政治家の別荘が残されています。
政財界の友人を招き、当時最先端だったゴルフに熱中していました。
別荘の主は近衛文麿・・・
昭和の初め、日本が戦争に突き進んだ時代に3度にわたって首相を務めました。
別荘に残されていた掛け軸・・・昭和19年、アメリカの戦いのさ中、認めた言葉です。
「度量数称勝」・・・国力で圧倒的に勝るアメリカに勝てない・・・そう思っていたであろう近衛文麿、どうして戦いを避けることができなかったのでしょうか?

昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争・・・
そに8か月前、殊勝だった近衛は、アメリカとの関係改善を目指し、和平交渉を行っていました。
そこでまとめ上げたのが「日米諒解案」です。
両国の主張を盛り込んだだけの外交文書でしたが、その後の日米交渉の土台となりました。
しかし、この近衛の動きを真っ向から否定したのが外務大臣・松岡洋右でした。

松岡は第二次世界大戦下のヨーロッパで快進撃を続けるナチス・ドイツとの同盟を軸にアメリカに対抗する力の外交を進めました。
松岡を支持する国民の熱狂が、近衛を外交を狂わせ、外交交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。
迫り来る開戦・・・近衛はルーズベルト大統領とのトップ会談に託しました。
外交と世論のはざまで揺れた近衛文麿、その選択とは・・・??

京都大徳寺・・・ここに近衛家代々の墓所があります。
近衛家は、藤原鎌足を祖先に持ち、代々歴代天皇に仕えてきた公家の名家です。
宮中の中で、代々文化面を司っていた家で、文麿も最初から政治の道についたわけではなく、華族としての立場で政治に関わっていました。
明治時代に作られた特権階級の華族。
その最高位侯爵だった近衛文麿は、大正5年、25歳で政界デビュー、貴族院議員となります。
当時から大衆の人気は高く、名家でありながら親しみやすい人柄で、政界の貴公子としてもてはやされました。
そんな近衛の言論が注目されるようになったのは、大正7年のことでした。
この年終わりを迎えた第一次世界大戦・・・
イギリス、アメリカを中心とする連合国が勝ち、英米主導の新しい国際秩序が築かれることとなりました。
この時、27歳の近衛の論文が議論を呼びます。

「英米本位の平和主義を排す」
英米は戦後の国際秩序を都合よく再編するつもりだ
豊富な天然資源を独占するなど、他国の発展を抑圧している
日本は正当なる生存権を主張し、それを貫徹すべきである

国際協調を掲げながら自国の利益を優先する英米を強く批判したのです。
そして大正から昭和へ・・・近衛が政治の舞台へと・・・!!
昭和恐慌・・・失業者が続出し、政治への国民の不満が高まります。
昭和6年9月満州事変勃発、満州国が誕生しました。
軍部の勢いは誰にも止められないものとなりました。
日本の行き詰まりは支配層の腐敗が原因だと考えた若者によって暗殺やテロが相次ぎます。
総理大臣が次々と変わる不安定な政局の中、新しいリーダーとして期待されたのは、当時貴族院議長だった近衛文麿でした。
昭和12年6月・・・近衛は45歳という若さで内閣総理大臣に就任します。
メディアはこぞって期待します。
”低迷する暗雲の中から一つの光が忽然として輝きだす”
しかし、組閣からわずか1か月で難局に直面します。
7月7日、盧溝橋事件・・・日中両軍が衝突します。
これをきっかけに日中戦争がはじまりました。
近衛は国民が一丸となって戦うように大演説を行い、ラジオや新聞を使って戦意高揚に・・・!!
日中戦争は拡大の一途をたどり、南京まで陥落!!
熱狂した人々は手旗や提灯をもって行進し、日本中が歓喜の渦に包まれました。
この世論の高揚が、近衛内閣に影響を及ぼすこととなります。
その頃、日本はドイツの仲介で、中国側と交渉していました。
相手は国民政府を率いる蒋介石でした。
しかし、戦勝に湧く世論に押され、交渉条件を釣り上げてしまいます。
それは、満州国の承認、賠償金の要求・・・中国側が容認しがたいものでした。
当時の外交の問題点は、ほぼ呑めないであろうモノを求めてしまった・・・その国際感覚のなさ、国内向けの政治を重視した外交でした。
国民の戦争熱を煽った場合、自分でも止められなくなって・・・外交的に妥協すべきところで妥協できなくなってしまったのです。
昭和13年1月、近衛は中国に対し、事後、国民政府を相手とせずと、自ら和平交渉を打ち切りました。

日中戦争がはじまって3か月後の昭和12年10月・・・
アメリカのルーズベルト大統領が演説を行いました。
「アメリカは戦争を憎む
 アメリカは平和を望む
 だからこそ、平和のために関与することを辞さない」
名指しこそしなかったものの、日本を強く批判したものでした。
当時、中国との貿易拡大を目論んでいたアメリカ・・・海軍の軍備増強に着手し、中国国民政府に援助物資をするなど、日本との対決姿勢を明確にしました。
日本では泥沼化する日中戦争に国民は厳しい統制下に置かれていました。
昭和14年1月、第一次近衛内閣総辞職。
外交方針を巡って閣内で対立したことが原因でした。

この年、ヨーロッパ情勢は激動を迎えていました。
昭和14年9月第二次世界大戦勃発。
ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスはドイツに宣戦し、戦いが始まりました。
ドイツはデンマーク、オランダ、フランスなど周辺諸国を次々と制圧し、ドイツの優勢をみたイタリアもドイツ側として参戦!!
東京荻窪にあった近衛の邸宅「荻外荘」
昭和15年7月、再び首相に推された近衛は、組閣に先立ち陸海軍大臣、外務大臣予定者を呼び、ドイツ・イタリアとの関係強化を決定します。
この時、外務大臣に任じられていたのが松岡洋右でした。
昭和8年日本は国際連盟脱退を通告。
松岡の演説は、世界を相手に物怖じしない姿に、国民は喝采を送りました。
オレゴン大学を卒業し、アメリカ痛を自負していた松岡、弁が立つと、軍部を押さえられる人材と近衛が抜擢したのです。
第2次近衛内閣発足2か月後、松岡が主導した外交が世界に衝撃を与えます。
昭和15年9月日独伊三国同盟締結。
松岡の狙いは三国の結束を誇示することでアメリカに対抗するというものでした。
この同盟には、近衛にも明確な狙いがありました。
アメリカとの衝突を避けること・・・!!

昭和9年・・・首相になる3年前に近衛がアメリカに50日間滞在した時の記録・・・「米国巡遊日記」には・・・
ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれたり、各地で政財界の要人と交流を深めていたことが書かれています。
「ニューヨークに現代日本を正しく伝える施設を作るべきだ」とも。
両国の文化交流を進めることで、対立を避けられると考えていました。
アメリカ国民に対して友情の大切さを語る画像も残っています。
「私は多くの旧友たちと再会し、新しい友人たちと出会いたいと思っています。
 そして、太平洋の反対側にいる私たちが80年育んできた日米間の友情を、どれほど大切に思っているか、私から直接お伝えしたいのです。」
大国アメリカを目の当たりにした近衛にとって、日米開戦は絶対にあってはならないものでした。

昭和15年11月、アメリカから二人の神父が施設として来日・・・
「日米の友好関係の回復を望む」アメリカからのシグナルでした。
当時ドイツと戦うイギリスを支援していたアメリカは、同時にアジアで日本と対立するのは避けたいと考えていました。
しかし、中国問題をめぐり、日米関係が悪化していたために、民間レベルで交渉を始めたのです。
アメリカとの対決に危機感を抱いていた近衛は、期待していました。
昭和16年2月、日本の使節がアメリカに向かいました。
対話の機運が高まったため、僅か2か月で駐米大使・野村吉三郎と国見長官コーデル・ハルの交渉に格上げされました。

日米諒解案・・・
外交方針から経済協定まで、あくまでお互いの主張を記したものに過ぎなかったものの、冷え切った日米関係の解決の糸口となるものでした。
アメリカの狙いは、日本が三国同盟における軍一事情の義務を免れること・・・
アメリカとドイツが戦争になっても、日本は参戦しないという意図が含まれていました。
日本の狙いは、日中戦争の解決でした。
アメリカが満州国を承認すること・・・ルーズベルト大統領による中国の和平勧告日本の有利な条件が盛り込まれました。
さらに、近衛にとって大きかったのは、日米首脳会談でした。
国内の調整をへずにTOPで外交方針を決められる強力なものでした。
しかし・・・ハルは諒解案に基づく交渉を始める前に、前提条件を示していました。
ハル四原則
①領土保全と主権尊重
②内政不干渉
③機会均等
④太平洋の現状維持
それは、中国をはじめとする他国の領土や主権を守り、内政干渉や武力行使を全面的に禁止するというものでした。
交渉が途絶えるのを恐れた野村は、東京に諒解案を伝える前に、この四原則には触れませんでした。
4月18日、諒解案を受け取った近衛は、大本営政府連絡懇親会で検討。
軍部も賛同し、これをたたき台にアメリカとの交渉を始めようとしていました。
ところが・・・この動きに強硬に反対したのが、外務大臣・松岡洋右でした。
松岡は日米交渉の模索が始まっていた3月から1月あまりヨーロッパを外遊していました。
ドイツではヒトラーと会談し、熱狂的な歓迎を受けました。
帰路、ソ連で直接スターリンと直接交渉し、昭和16年4月、日ソ中立条約締結に成功。
松岡は三国同盟に莫大な戦闘機や陸上兵力を加えたソ連との”四国協商”を構想・・・連合国に匹敵する軍事力でアメリカを圧倒しようとしていました。
4月22日、松岡は帰国。
政治家、軍人、メディアが迎える華々しい凱旋となりました。
松岡の外遊は、外交史上画期的な出来事と報じられ、近衛自ら飛行場に足を運び、松岡を出迎えました。
しかし、自分のいないところで近衛が進めた日米交渉に、松岡は警戒心を隠しませんでした。

”本提案は米国の悪意七分善意三分と解する”

日米諒解案をもとに交渉を続けるべきか、四国協商を進めるべきか・・・近衛は国の命運をかける選択に迫られました。

松岡が帰国した1941年4月22日、大本営政府連絡懇談会が開かれました。
近衛が進め、軍部も賛同していた日米諒解案に対し松岡が反発、一人退出し、その後自宅に引きこもってしまいました。
陸海軍首脳からは、松岡に対する反感が高まり、更迭してまでも諒解案を進めるべきという案も・・・
しかし、結局近衛は、松岡にアメリカとの外交を委ねることを選びました。
早いところで罷免することは難しい・・・松岡には日ソ中立条約という手土産がある・・・
5月12日、松岡は自ら手を加えた修正案をアメリカに伝えます。

”三国同盟の軍事義務に基づき、ドイツとアメリカが戦争になれば、日本は参戦する”

あくまで三国同盟の結束を誇示し、アメリカの要求を拒絶する内容でした。
6月21日、国務長官ハルは、日本を非難するオーラル・ステートメント発表。

”日本の指導者は、ナチス・ドイツへの援護に固執している”

日米諒解案に基づく交渉は頓挫しました。
さらに翌日・・・日本に想定外のことが起きます。
6月22日、ドイツが日本と中立のソ連に侵攻。
松岡が構想していた四国協商はもろくも崩れました。
それでもアメリカへの強硬姿勢を変えない松岡・・・
近衛内閣は日米交渉を続けるために松岡を排除することで一致。
7月18日、外務大臣を変えて、第三次近衛内閣発足。
しかし、近衛内閣はアメリカとの対立を決定づけてしまいます。

日本軍は、石油や語句などの資源を求めて、南部仏印に進駐します。
東南アジアは、アメリカが支援する連合軍にとって戦略拠点でした。
そこににらみを利かす進駐は、連合軍に対する挑発とも取れる行動でした。
アメリカは在米日本資産を凍結、さらに日本への石油輸出禁止を発表します。
危機感を募らせた軍部は、早期開戦を主張!!
国民やメディアの間で反米が強まり、開戦は抑えられない事態に・・・。

日米開戦・・・
”ついに、自ら大統領と会見しようという一大決心をした”
8月、近衛は野村を介して日米首脳会談を打診します。
在日アメリカ大使グルーは、近衛の心境を本国にこう伝えています。

「今や近衛はこれまでの政策は根本的に間違っていると認識している。
 そして、勇敢にも自らの命を犠牲にしてまでも、日米の和解を実現しようと決心している」

近衛のメッセージを受け取ったルーズベルトは興味を示し、アラスカでの会談を提案。
しかし・・・ハル国務長官は東南アジアに侵攻した日本に不信感を募らせ会談に消極的に・・・。
アメリカとの交渉が停滞する中、9月6日御前会議。
大きな打撃が・・・
決定した国策に軍部の意向が反映され、日米交渉の機嫌が盛り込まれました。
10月上旬までにアメリカとの交渉のめどが立たなければ、アメリカ、イギリス、オランダとの戦争に踏み切る・・・!!
近衛に残された期間は僅か1か月でした。

開戦に傾く軍部を横目に近衛はグルーと極秘に会い、会談を模索します。
この頃の近衛は・・・
コップ酒を煽り、激しく軍部を罵り・・・
陛下が反対だと言われているのに、陸軍は負ける戦争を主張する。
最早アメリカに脱出し、ルーズベルトと会談する以外にない!!
ハルはあくまで四原則の合意と、中国からの撤退を求め、譲歩することはありませんでした。
そしてこの絵が主張した日米交渉は内きりの機嫌が・・・
トップ会談による局面打開の望みは絶たれたのです。
10月16日、近衛内閣は総辞職・・・東条英機内閣が成立します。
その2か月後の12月8日・・・日本は真珠湾を攻撃し、アメリカとの4年にわたる戦争へ突入します。

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昭和20年8月15日正午・・・
国民に太平洋戦争が終わったことが告げられました。

戦後、昭和天皇は、戦争終結についてこう述べています。
「朕と肝胆相照照らした鈴木であったからこそ、このことができたのだ。」
鈴木とは・・・齢78にして、内閣総理大臣となり終戦へと導いた鈴木貫太郎です。
しかし、戦争終結に至る日々は、まさに命がけでした。

昭和20年、太平洋戦争は最終局面を迎えていました。
3月10日には東京大空襲、大阪、名古屋でも、大規模な空襲が続き、主要都市が次々と焼き尽くされていきました。
4月1日には、アメリカ軍が沖縄本島上陸。
およそ3か月にわたる沖縄戦では、民間人10万人を含む約20万人が命を落としました。
4月5日、戦局を打開できないまま、小磯内閣が総辞職、鈴木貫太郎に組閣の大命が下ります。
天皇の諮問機関である枢密院の議長を務めていた鈴木は、この時78歳。
どうして老齢な鈴木に大命が下ったのでしょうか?

現在の大阪府堺市で生まれた鈴木は、海軍兵学校を卒業後、軍人としての人生を送って行きます。
海軍の要職を歴任し、大将13年には連合艦隊司令長官に・・・!!
この頃、昭和天皇と出会ったことが重要でした。
鈴木が指揮する海軍の大演習を昭和天皇が視察され、見事な統率力を持った鈴木を信頼していました。
その後、昭和4年、62歳の時に天皇の側近中の側近・侍従長になります。
この時、昭和天皇は27歳。
鈴木は侍従長として7年・・・天皇の傍で篤い信頼が得ていきます。
また、鈴木の妻であるたかは、昭和天皇が4歳の頃から宮中で10年もの間、宮中で養育係を務めており、天皇は・・・
「たかは、本当に朕の母親と同じように親しくした」としています。
鈴木夫妻は、昭和天皇にとって信頼のおける特別な存在でした。
この経歴こそが、老齢にもかかわらず、総理大臣への要請の理由の一つでした。
しかし、鈴木は・・・
「鈴木は、一介の武人です。
 鈴木は軍人が政治に関わらないことを明治天皇に教えられ、今日まで自分のモットーにしてまいりました」
さらに、高齢や、耳が遠い事を理由に断ります。
すると天皇は笑みを浮かべこう言いました。
「鈴木の心境もよくわかる
 しかし この国家危急の重大時期に際して もう他に人はいない
 頼むからどうか気持ちを曲げて承知してもらいたい」

この言葉に、鈴木は覚悟を決めました。
そして、1945年4月7日鈴木内閣発足
組閣後、大宮御所に伺った鈴木に皇太后は涙ながらにこう言いました。
「若い陛下が国運荒廃の帰路に立って日夜御苦悩遊ばされている
 鈴木は陛下の大御心を最もよく知っているはずである
 どうか陛下の親代わりとなって 陛下の御軫念を払拭してほしい」

天皇の心のうちとは・・・??
それは、本土決戦を前に何とかして戦争を収拾したいということでした。
ところが、鈴木は親任式の談話でこう語ります。
「今は国民一億のすべてが国体防衛の御楯たるべき時であります
 私はもとより老躯を国民諸君の最前列に埋める覚悟で国政の処理に当たります
 諸君もまた 私の屍を踏み越えて 起つの勇猛心をもって 新たなる戦力を発揚し 共に宸襟を安んじ奉られることを 希求してやみません」

なんと、国民に戦争継続、徹底抗戦の発言をしたのです。
これには理由がありました。
後に自伝で述べています。
「国民よ私の屍を越えて行け」の真意は・・・
第一は、今の戦争は勝ち目がないと予測していたので、大命が下った以上、機を見て終戦に導くそうなれば殺されるということ。
第二は自分の命を国に捧げるという忠誠の意味です。

この時、鈴木貫太郎が目指していたのは、終戦に他なりませんでした。
しかし、どうして戦争継続、本土決戦を言ったのか??
それは、陸軍によるクーデターを恐れていたからです。
鈴木貫太郎と陸軍というと、2.26事件があります。
当時、侍従長だった鈴木は、陸軍青年将校たちのターゲットとされ、4発の銃弾を浴びせられ、瀕死の重傷を負います。
「止めだけは、どうか待ってください・・・!!」
夫人の嘆願によって、鈴木は一命をとりとめていました。
あの時のようなクーデターを起こさせてはならない・・・!!

鈴木は、戦争を終わらせるために、組閣にも慎重になります。
終戦を望んでいた鈴木は、和平派の東郷茂徳外務大臣、海軍での信頼の厚い米内光政海軍大臣らを入閣させます。
そして・・・本土決戦を叫ぶ陸軍の暴発を危惧していた鈴木は、陸軍大臣に阿南惟幾を希望、陸軍に打診します。
すると、陸軍側から3つの条件が出されます。
①戦争の遂行
②陸海軍の一体化
③本土決戦必勝のため陸軍の策を実行すること
でした。

これを飲まなければ、阿南を入閣することができない・・・。
とりあえず、鈴木は「まことに結構なり」と、戦争継続を前提とする条件を飲んでしまいました。
なぜなら、阿南惟幾を陸軍大臣にしたかったのです。
鈴木が侍従長だったころ、阿南も侍従武官として天皇の傍にいたことにあり、その働きぶりや人となりを身近で見ていました。
この人なら、決して裏切らない・・・!!
鈴木の信頼で来る男でした。
阿南なら、戦争終結を受け入れてくれるのでは・・・??
陸軍のクーデターを抑え込んでくれるのでは・・・??
と思っていたのかもしれません。

こうして動き出した鈴木内閣でしたが、日本の戦況は厳しいものでした。
ヨーロッパ戦線では、日本と三国同盟関係にあったイタリア・ドイツが連合国軍に降伏します。
日本は、ただ一国で、世界を相手に戦うこととなったのです。
そんな中、B29爆撃機が東京に襲来、火の手は折からの強風にあおられて皇居である宮城内にまで及び、宮殿の一部など、多くが焼失しました。

「この時の総理は、当時進行していた和平への道を一日も早く達成しなければならないと 胸底深く誓ったに違いありません。」by書記官長・迫水久常

1945年6月22日、戦争に関する決定機関である最高戦争指導会議を開くべく、鈴木貫太郎総理を始め東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長・・・6人のメンバーが集められました。
そして、昭和天皇の言葉が伝えられます。
「戦争の終結についても この際 従来の観念にとらわれることなく 速やかに具体的研究を遂げ これの実現に努力するよう望む」

戦争終結を望む意思を天皇が明確に表明したことを受け、鈴木は中立条約を結んでいたソ連の仲介によるアメリカ、イギリスとの和平交渉に動き出します。
しかし、ソ連に仲介を打診するも、話しは一向に進みません。
そんな中、7月26日・・・
アメリカを中心とする連合国側が日本に降伏を求めてきました。
ポツダム宣言です。
連合国側は、降伏に伴い・・・日本の占領、日本軍の武装解除、戦犯犯罪人の処罰を求めてきました。
そして、これ以外の日本国の選択は、迅速かつ完全な壊滅しかないと・・・!!

7月27日朝、政府は会議を開き、これを検討します。
その結果、ソ連からの回答を待つことに・・・。
暫くは、ポツダム宣言に対する意思表示を明確にはしないという方針をとります。
そんな政府の動きを新聞はこう表現します。
7月28日朝「政府は黙殺!!」
これが日本の運命を大きく変えます。

この黙殺という言葉が、「無視する」「拒絶する」と解釈され、世界に伝わってしまいました。
連合国側は、日本は降伏する意思はないと判断!!
8月6日、広島に原爆投下!!
およそ14万人の命が失われました。
更に8日、日ソ中立条約を結んでいたソ連が無視し、宣戦布告。
翌日、日本が支配していた満州国に侵入してきました。
突然のソ連参戦に首脳たちは愕然とします。
ソ連を仲介役とする和平の道が完全に絶たれてしまいました。

この危機に、9日10時30分に最高戦争指導会議を開きます。
議題はただ一つ・・・ポツダム宣言を受諾するか否か!!でした。
受諾に前向きな会議ではありましたが、日本側の条件を付けるかどうかで終戦派と戦争継続派で意見が分かれます。

終戦派の東郷外務大臣の条件は”国体護持”一つ!!
天皇制の維持のみを提示しようとするものです。
これに反対したのは阿南惟幾。
受諾するのは国体護持は当然で、他の条件も付けるというものでした。
阿南の条件は・・・
①占領は出来るだけ小範囲に、しかも短期間であること。
②日本人自らで武装解除
③戦犯処理は日本人の手に任せること
でした。

この時、鈴木は一言も発しませんでした。
戦争の始末をつけるために・・・!!
会議は紛糾する中、長崎に原爆投下!!
それでも意見はまとまらず、決定は臨時閣議に持ち込まれることとなりました。
しかし、そこでも結論は出ず・・・。
鈴木は最後の手段を使わざるを得なくなります。
鈴木は夜の9時まで続いた閣議を休憩にすると、天皇の下へ向かいました。
そして、天皇隣席の下、御前会議を願い出るのです。
天皇はこれを承諾。
こうして、8月10日午前0時3分、御前における最高戦争指導会議が始まりました。
議論は相変らず紛糾し、平行線をたどります。
すると午前2時ごろ・・・それまで黙っていた鈴木が立ち上がり口を開きます。
「議論を尽くしましたが、決定に至らず
 しかも事態は一刻の猶予も許しません
 誠に異例で恐れ多いことながら、聖断を拝して会議の結論と致したく存じます。」
なんと鈴木は、天皇に決めてもらうという聖断という異例の決断をしたのです。

大日本帝国憲法において、天皇は政府の決定事項に対して裁可を与える存在・・・
天皇に政治的責任を負わせないために、天皇自身が政治的意思決定をすることはありませんでした。
それにもかかわらず、ポツダム宣言を受諾するか否かの重要な決断を、天皇に仰いだのです。

沈黙を守り、議論を聞いていた天皇は、鈴木に促される形で話し出しました。
「本土決戦、本土決戦というけれど・・・
 いつも計画と実行とは伴わない
 之でどうして戦争に勝つことができるか
 もちろん 忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など 其等の者は忠誠を尽くした人々で それを思ふと実に忍び難いものがある
 しかし 今日は忍び難きを忍ばねばならに時と思ふ
 自分は涙をのんで原案(外務大臣案)に賛成する」

この聖断により、国体護持という条件だけを付けてポツダム宣言を受諾することが決定しました。

連合国側にその旨を伝えます。
回答が来たのは8月12日のことでした。
しかし、連合国側の文面に、政府内が再び紛糾します。
かかれていた内容は・・・??
”天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官のsubject toに置かるるものとする”
このsubject to の解釈で意見が分かれました。
外務省は、「制限の下に置かれる」・・・終戦へ導こうとしましたが・・・。
陸軍は「隷属する」という意味で、天皇の尊厳を冒涜すると主張し、国体の維持は貫けないとして本土決戦を主張します。
「これでは外と戦争をしながら、内戦状態にもなりかねない・・・!!」by鈴木貫太郎
そこで、8月14日、再び御前会議を開きます。
全員一致の形での閣議決定を取りたかった鈴木・・・どうすればいい・・・??
内閣閣僚全員に向かって天皇の御聖断をうかがっていただく形に・・・。
しかし、ここでも、阿南は終戦に強く反対します。
本土決戦を主張!!
鈴木は再び天皇に聖断を仰ぎます。
すると・・・

「朕の考えはこの前申したことに変わりはない
 これ以上 戦争を続けることは無理だと考える
 この際 先方の申し入れを受諾してよろしいと考える」
 自分は如何になろうとも 万民の命を助けたい 
 国民に呼びかけるのが良ければ、朕はいつでもマイクの前も立つ」

涙をぬぐいながらのお言葉でした。

そして鈴木は言います。

「我々の力が足りないばかりに
 陛下には何度も御聖断をわずらわし 大変申し訳ございません
 臣下としてこれ以上の罪はありません 
 只今陛下のお言葉をうけたまわり 日本の進むべき道がはっきりしました
 この上は 陛下の御心を体にして 日本の再建に励みたいと決意しております」

会議の出席者たちは涙をこらえきれませんでした。
そして同じく8月14日午後11時に「終戦の詔書」が発せられることとなりました。
祖の御前会議で聖断によりポツダム宣言受諾が決まった後、徹底抗戦を訴え続けてきた阿南陸軍大臣に陛下は慰みの言葉をかけます。
「阿南 お前の気持ちはよくわかっている 
 しかし 朕には国体を護れる自信がある」
阿南は陸軍省へ戻りました。
若い将校たちは、「どうして徹底抗戦を訴えていたのに戦争終結を受け入れたのか?}と怒りの表情で訴えてきました。
これに対し、「聖断が下ったのである!!不服の者は自分の屍を越えて行け!!」
聖断と聞き、将校たちも引き下がらずを得ませんでした。

この日の夜遅く、阿南は鈴木総理の下を訪れます。
「終戦の義が起こりまして以来、総理には大変ご迷惑をおかけしたと思います。
 私の真意はただ一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、この点、どうぞご了解くださいますように。」
そこには、阿南なりの考えがありました。
もし、戦いを続けるのなら辞職して、内閣を瓦解させればよかったのです。
阿南を鈴木のことをよく理解していて、戦争終結を考えていました。
ただ、陸軍に背かれないように・・・中心となる将校を誤魔化して、欺いてでも戦争を完結する気持ちだったのです。
阿南は、終戦の妨げとなる陸軍の暴発を阻止する為に、徹底抗戦を主張する態度をとり続けていました。
阿南を陸軍大臣に任じた鈴木の想いが伝わっていたのです。
鈴木はこの時、阿南に言葉をかけています。
「あなたの想いはよくわかっております。
 しかし、阿南さん、皇室は必ず御安泰ですよ。
 私は、日本の前途に対しては決して悲観しておりません。」
一礼して静かに去っていく阿南を見送った鈴木は、
「阿南君はお別れを言いに来たのだな・・・。」

午後11時過ぎ、玉音放送の録音が行われていました。
そんな中、陸軍で不穏な動きが・・・。
戦争継続を掲げる一部将校がクーデターを計画。
終戦を告げる玉音放送を阻止すべく宮城を占拠。
玉音版を奪うために、宮内省内を探し回るのです。
襲撃は深夜零時すぎ・・・録音を終え、昭和天皇が帰った後でした。
臨時侍従室の金庫に入れてあり、小さな金庫の前には、雑多な書類が積んであるだけでした。
彼等は、玉音版を見つけることができず、結局クーデターに失敗。
このクーデターは、鈴木総理に身にも起こります。
8月15日午前4時過ぎ・・・陸軍大尉に率いられた兵士たちが鈴木貫太郎邸を襲撃、放火します。
鈴木は襲撃の恐れがあるとの情報を得ていたので、間一髪、逃げることができました。
丁度その頃・・・陛下の放送を拝聴するに忍びないと、陸軍大臣阿南惟幾が自決!!

遺書にはこうありました。
”一死を以て大罪を謝し奉る”と。
陸軍の責任者として、その罪は我が死をもってして償う・・・!!

終戦を告げる玉音放送は、8月15日正午からラジオで全国に放送されることとなりました。
前日の14日の午後9時、15日の午前7時21分に放送を聞くようにアナウンス、新聞も号外で告知しました。
8月15日正午、朝から太陽が照り付ける中・・・
終戦の詔書が流れます。
日本の敗戦を伝えた昭和天皇の5分間の肉声・・・。
しかし、この時、玉音放送を理解できた人は少なかったのです。
ラジオの雑音が多くて聞こえず、文語体なので格調が高すぎて理解できなかったようです。
それにもかかわらず、首を垂れ涙しました。
それまで昭和天皇は現人神で、肉声を聞いた人はいませんでした。
ラジオで直接聞けた高揚感・・・直接国民に語り掛けてくれている・・・というだけで感極まったといいます。

内容は・・・
①国体の護持
②国民への慰労と慰霊
③軍部に対する牽制
④天皇は国民と共にあるという決意
でした。

玉音放送・・・堪え難きを耐え 忍び難きを偲び・・・の堪え難きをの後に一瞬の沈黙があります。
その沈黙に、国民と一緒にやっていくという・・・堪え難きを耐えて遺書にやっていこうという昭和天皇の想いがこもっています。
昭和天皇の二度の聖断、そして、終戦へと導いた男たちの命がけの行動が戦争を終わらせたのです。
玉音放送が無事済んだ8月15日午後2時・・・最後の閣議が開かれ、全閣僚の辞表が取りまとめられ、鈴木はそれを天皇に奉呈します。
天皇は・・・「苦労をかけた」と労いました。
僅か4か月の鈴木内閣・・・苦難と激動の日々でした。

鈴木貫太郎は死の間際こんな言葉を残しています。
”永遠の平和 永遠の平和”と。

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今回は、昭和の選択です。

牙を剝き、人々に襲い掛かる自然災害。
災害を予測し、注意を促す天気予報は、私たちの生活に欠かせないものです。
天気予報の育ての親は、岡田武松。
明治から大正・昭和にかけて、日本の気象事業の礎を築いた科学者です。
武松は、台風という言葉の名付け親で、梅雨の原因を解明。
富士山測候所の建設も行いました。
日露戦争では、日本海海戦の気象予報官として活躍。
見事予想を的中させ、歴史的勝利に貢献しました。
武松は、中央気象台のTOPとして紛争しました。
そんな武松に時代の荒波が・・・太平洋戦争です。

近代日本の天気予報は、どこで始まったのでしょうか?
その舞台は、皇居・・・ここにかつて中央気象台はありました。
江戸城の天守を支えていた石垣には、気象台のシンボル・・・大きな風速計が回っていました。
中央気象台は明治8年に発足しています。
お雇い外国人の指導の下、気温、気圧、雨量の計測など地道な作業が行われていました。

1884年天気予報開始。
全国22カ所の観測を元に、街の交番などに張り出されました。
しかし、的中率は低く・・・マスコミの非難の的となります。
そんな中央気象台に1899年就職した岡田武松。
東京帝大で、気象学を学び、日本の気象事業の発展を志していました。

武松が生まれたのは、千葉県我孫子市布佐。
台風や大雨によって度々氾濫した利根川・・・
武松は、自然の猛威に翻弄される人々を目に焼き付けていました。
気象台に入った武松は、正確な観測を徹底、技師たちの再教育を徹底します。
気象の法則性を・・・分析し、測候所を増やすことを提案します。

武松は、勤め始めてわずか5年・・・1904年には中央気象台の予報課長となります。
そして、その直後、重責を担うこととなるのです。
日露戦争の天気予報です。
1905年、日本海軍は世界最強のロシア・バルチック艦隊を迎え討つ準備を進めていました。
決戦の地は対馬海峡!!
その天気予報を、武松が任されたのです。
しかし、問題が・・・日本の気象は、西から東へ移り変わります。
予報するには、西の観測データが不十分でした。
そこで気象台は、朝鮮半島と大陸沿岸に測候所を増設、技師たちを派遣し、観測網を一気に拡大します。
ロシアに負ければ日本の未来はない・・・
善戦からのデータに集中する武松。
5月26日未明、バルチック艦隊が出現!!
明日には戦いが始まる!!
天気は・・・??
戦いの前日、対馬沖は低気圧に覆われ、雨が降っていました。
集められた観測データから低気圧を予想します。

”天気晴朗ナレドモ 波高カルベシ”

低気圧は去り、強風と高波の中、天候は回復すると予想しました。
翌日・・・予報は見事的中!!
連合艦隊は、大本営に向け決意の電報を送ります。

”敵艦見ユトノ警報ニ接シ 
 連合艦隊ハ直チニ出動
 コレヲ撃滅セントス
 本日は天気晴朗ナレドモ波高シ”

この知らせは、日本軍の戦意を大いに上げました。
波が高く、船が揺れる闘いは、砲撃の技術が勝る日本にとって有利!!
バルチック艦隊を撃滅させる大勝利へと繋がりました。
気象観測にかける武松の努力を証明した戦い・・・。
この勝利をきっかけに、気象台への信頼は一気に高まりました。

自分達の予報を国民に役立てたい!!
武松は新しい取り組みを始めます。
それが海難事故でした。
政府は予算不足を理由に計画に反対するであろう読み、

「建設費はこちらで用意します。
 施設の運営費だけ承認してください。」

と、海運業で成功した船成金から寄付金を獲得。
建設費用を自前で用意して政府の許可を得ます。
こうして誕生したのが、1920年海洋気象台です。
天気予報は、3000km離れたパラオまで届きました。
船乗りたちの心の支えになります。

1923年中央気象台長に就任。
予報の伝え方に心を砕くようになります。
天気図を新聞社に提供し、ラジオにも情報を提供します。
より正確に、より分かりやすく・・・人々の支持を集めていきます。
それを支えたものこそ、武松の薫陶を受けた職員たちによって365日、休むことなく行われた観測でした。

「気象人たるもの いかなる天変地災があろうと、観測を放棄してはならない。
 たった一度の観測の誤りが、将来の大きな過ちにつながるのである。」by武松

気象事業の更なる発展を目指した武松・・・
課題は山積みで・・・その一つが、台風でした。
いつどこで発生し、どうどう接近するのか??
正確な予測ができません。
東北の冷害・・・やませ襲来の予測長期予報の確立!!
地球規模で起こる気象現象の解明には、他の国との連携が欠かせません。
武松は、海外の気象台や学者たちと情報を頻繁に交換し、自ら国際会議にも参加。
国際協力体制を築きます。

国際協力のために武松が開発に取り組んだのが、現在も続く上空の気象観測です。
小型センサーを風船につけて高度1万メートル近くの気温や気圧、湿度などを計測し、電波で地上に届ける仕組みです。
そのデータは、世界各国で共有される予定でした。
この観測が長期にわたってできれば、地球規模で起こる気象現象の解明に期待できました。
武松の仕事・・・それは、国境を越えて、各国と協力し、地球、人類全体を見つめることを必要とされました。

しかし・・・時代は・・・。
1931年満州事変。
1933年日本は国際連盟脱退。
第1次世界大戦後の軍縮条約を破棄し、軍備拡充の道へと進み始めました。
そんな中、軍部が重視したのが気象技術でした。
航空機という新しい兵器が出現し、作戦遂行のため、上空の観測データが欠かせませんでした。
第1次世界大戦で登場し、日本でも開発が進んでいた毒ガス兵器・・・ガスを効果的に拡散するためには、気象学が必須でした。
こうして気象学は、軍事分野と密接な関係となっていきます。

そして・・・1937年日中戦争。
日本軍が宣戦を拡大する一方、中国は拠点を内陸の重慶に移し徹底抗戦!!
戦いは泥沼化していきます。
1938年陸軍は、陸軍気象部創設。
しかし、人材が不足していたことから、武松らに人材派遣を要求します。
手塩に育てた人材を、やすやすと手放すわけにはいかない・・・
武松は、希望するのもに限るとします。

戦争の出口が見えない中・・・軍部は中央気象台を陸軍省の管轄下に置こうとします。
設備も、人材も・・・!!
湯治気象台の観測網は、北は満州、南はパラオまで広がっていました。
こうしたインフラや観測技師たちを、軍は利用しようとしたのです。
しかし、武松はこれを突っぱねます。
当時、中央気象台は、文部省に所属していました。
気象は、衛生、土木、農業、航海など、様々な分野の利益のためにあり、軍部に独占させるものではありませんでした。
武松の遺品から手帳が発見されています。
そこには・・・虫のいい・・・軍部への不満が書かれていました。
測候事業の危機・・・苦悩する武松・・・。

忠君愛国は、軍人だけではない。
我々だって、国のため尽くしている。
必要な資料や予報は、軍はもとより各省に提供している。
いま、移管する必要など見当たらない。

武松は、協力できるところは協力したものの、軍の組織となることだけは、頑なに拒み続けました。
抵抗をつづける武松に、陸軍の圧力は日に日に高まります。
命の危険が迫る中、武松の戦いは続いていました。
武松は、あくまで気象台の独立にこだわり続け、陸軍の要請を断り続けていました。
しかし、昭和14年、軍用資源秘密保護法が公布。
外国への情報漏洩を避けるためにできたこの法律、気象に関する情報も秘密とされました。
陸海軍大臣の一存によって、気象情報の取扱いが制限されるようになり・・・気象台は、国家有事の際には、軍の下に置かれることとなったのです。
昭和16年7月30日、岡田武松は中央気象台を退職・・・68歳でした。
その年・・・1941年12月8日太平洋戦争開戦!!
真珠湾への飛行ルートは、軍部が中央気象台に分析を依頼したといいます。
同じ開戦の日、気象台に指令が届きます。
それは、天気予報などを外部などに発表することを禁止する気象報道管制の実施を命じるものでした。
その日を境に、全ての気象情報は極秘となり、観測は続けられたものの外に出すことは固く禁じられました。

国民に伝えられない天気予報が、悲劇につながります。
1942年8月27日周防灘台風では、死者行方不明者、1000名を超える甚大な被害となりました。
被害にあった人の殆どは、台風が来ることも知りませんでした。

そして・・・日本は戦争に負けました。
1週間後、焼け野原となった東京に嬉しい知らせが・・・
それは、禁じられていたラジオ天気予報の復活でした。
天気予報の声が、人々に平和が戻ったことを実感させました。
予報の早期復活には理由がありました。
中央気象台は文部省から運輸省に移管されたものの、最後まで軍部の傘下には入っていなかったのです。
気象台では戦時中も武松の教えが語られていました。

”自然は単純でありながら、複雑でもある
 ゆえにかえって正確なものだ
 熱心に観測していれば、自然の法則がいかに高く険しいものであり、人間がいかに浅はかであるかを知ることになるだろう”

気象台を退職したのち、故郷の安孫子に戻った武松・・・しかし、気象学への情熱が衰えることはありませんでした。
自ら設立に尽力した養成所で教壇に立ち続けます。
気象学の基礎となる物理学から観測機器の扱い方、気象人の心得まで、多岐にわたりました。
養成所は、気象大学校と名を変え、今も気象学を志す若者が集います。
大学校は原則全寮制で、共同生活を送りながら専門知識を学びます。

寮の名は「智明寮」・・・名付け親は武松です。

「青年に最も禁物は自己陶酔である
 老子の言葉に
 ”他人を知るものは智なり
 自分を知るものは明なり”とある
 この”智”と”明”が大切だ
 これさえ心得ておれば、自己陶酔に陥ることもあるまい」 

確かな目を持った人材を育てることが、気象事業の未来につながる・・・そう武松は語っています。

国民の暮らしと共にある気象事業・・・その発展と普及に力を尽くした岡田武松は、1936年9月2日、83年の生涯を閉じたのでした。

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各地の大会を勝ち抜いた球児たちが一堂に会する真夏の甲子園球場。
全国高等学校野球選手権大会は、今年で100回目を迎えました。
長い歴史の中で、数多くのヒーローと感動のドラマを生んできた甲子園・・・
今から85年前、このマウンドの現れた伝説の投手・沢村栄治。
剛速球は、見るものを驚嘆させました。
記録に残された凄まじい投球・・・
しかし、沢村が活躍した時代、日本は戦争への道を突き進んでいました。
プロに転じた沢村は三度も徴集され、戦地と球場を行き来しました。
その野球への情熱は、時代とどう格闘したのでしょうか?

日本プロ野球の草分けとなり、戦火の中で27年の短い生涯を閉じた沢村栄治。
時代に翻弄された名投手の悲劇とは・・・??

三重県南東部の伊勢市・・・
大正6年、沢村栄治はここで八百屋を営む家に7人兄弟の長男として生まれました。
幼いころから体が弱かったものの、負けず嫌いは終生治りませんでした。
小学4年生で野球を始め、市の大会で優勝するまでになりました。

昭和5年、創立間もない京都商業学校(現・京都学園高等学校)に入学します。
野球部のエースとしてチームを初めて春の甲子園・全国選抜中等学校野球大会へと導きました。
惜しくも準々決勝で敗れるも、その剛速球、そして懸河のドロップと言われた落差の大きいカーブは、全国の野球ファンの注目を浴びます。

沢村の噂を聞いた慶応義塾大学の監督は、京都まで足を運び、この投球を一目見てほれ込みました。
そして、将来を見据えて熱心に指導します。
沢村も監督の熱意に打たれ、慶応への進学を決めたといいます。
当時、日本の野球界で最高峰とされていたのは、神宮球場で開催される東京六大学リーグで、中でも早慶戦はラジオで中継され、全国的な人気を誇っていました。
早慶戦は、球児たちの憧れの舞台でした。
慶応の投手として、神宮のマウンドに立つことを約束された沢村・・・その野球人生は順風満帆に見えました。

昭和9年秋、日本中を熱狂させるイベントが・・・
ベーブ・ルースをはじめとするアメリカ選抜がやってきました。
招へいしたのは読売新聞社でした。
大リーグ選抜チームと全日本を日本各地で試合させ、新聞の販売部数増加を目論んでいました。
しかし、この興行には大きな壁が・・・。
前日本軍の主力とされた学生は、学業が本分であって、プロ選手との試合は慎むべきと批判の声が・・・!!
これに応えて文部省は、六大学を始め学生野球の選手は、プロ選手と対戦することを禁じます。
NO,1の評価をされていた沢村・・・
この剛腕を全日本参加させるために読売は、思い切った行動に出ます。
沢村に京都商業を中退させ、学生の身分を捨てるように誘ったのです。
全日本の名に相応しいものに・・・!!
沢村獲得のために、京都商業を説得する読売・・・多額の報酬を準備しました。
それは、大学の初任給をはるかに上回るものでした。
思ってもみなかった誘いに、17歳の沢村の心は揺れます。
大リーグ選抜と戦いたい・・・!!
自分のピッチングがどこまで通用するのか・・・??
7人兄弟の家計の足しにするためにも・・・??
大リーグ選抜と戦う・・・??

しかし、憧れの六大学野球ができなくなる・・・!!
学校を中退するわけにはいかない・・・??
今まで必死に練習してきたのは、神宮のマウンドに立つためではなかったか・・・??

悩んだ末に、全日本入りを選びます。
11月、日米戦が始まると、ベーブ・ルースたちは本領を発揮!!
東京、箱館、富山・・・各地の人々は本場のベースボールに熱中します。
全日本軍は全力で立ち向かうものの・・・相手は現役の大リーガー・・・連戦連敗でした。
そして迎えた第10戦・・・先発した沢村は、本領を発揮!!
速球とドロップがさえわたり、ベーブ・ルースを含む四者連続三振など9奪三振でした。
失点は、ゲーリックのソロホームラン1点のみでした。

敗れたとはいえ、大リーグを追いつめた沢村は、一躍ヒーローに・・・!!
2年後の昭和11年、沢村たちを中心に職業野球球団が結成されました。
後の東京巨人軍です。
大阪タイガース、名古屋金鯱軍、名古屋軍、東京セネタース、大東京軍、阪急軍の7チームによる職業野球リーグが発足しました。
沢村は、1年目から大活躍!!
職業野球の公式戦初となるノーヒットノーランを達成!!
19歳にして野球界をけん引する投手となりました。
そして、シリーズは、沢村の三連戦三連投の活躍で、巨人軍が職業野球の初代王者となりました。
翌年にも沢村はノーヒットノーランを達成!!
最優秀選手賞にも輝きます。

昭和12年7月7日盧溝橋事件!!
日中両軍が衝突し、日本は中国との戦争に突入しました。
兵力増強のために20歳以上の健康な男子は、大学生などの特例を残し、次々と徴兵されていきました。
頑健な体を持つ職業野球の選手は、即戦力となりました。
8月には徴兵された選手から初めての戦死者が出ます。
各球団は、選手たちを兵隊にとられないように抜け道を使います。
それは、彼らを名目だけ大学に籍を置き、徴兵を延期させるというものでした。
しかし、全日本軍に入るために中学校を中退していた沢村に、大学に入る資格はりませんでした。
17歳での選択が、沢村にとって大きな障壁となってしまったのです。
20歳になった沢村は徴兵検査を受け、昭和13年、故郷三重県の歩兵連隊に入営します。
スター沢村の様子は、顔写真入りで報道されました。
「手りゅう弾が投げてみたい」
大陸に送られた後も、手りゅう弾投げ競争で活躍する沢村が報道されました。
それはまるで、戦意高揚の広告塔のようでした。

最前線に送られた沢村は、熾烈な戦いで仲間を失います。
「戦友の屍を焼くときに 青い焔の昇るのを見て 俺は涙がボロボロ流れて仕方がなかった
 悲しいなんて気持ちじゃない しかし、涙がどうしても止まらない」
沢村自身も、左腕を銃弾が貫通するという大けがを負います。
生死を彷徨いながら、一心に自分を見つめます。
「戦争の跡ほど静かなものはない
 人間の死ではない
 宇宙の死というものが ひしひしと襲いよせたのかと感ぜられる
 こんな静寂という者が、人間の世界にあろうか?
 俺は生きている・・・
 嗚呼生きてる・・・」
中国各地を転戦し、沢村は昭和15年4月に復員します。
2年以上に及ぶ軍隊生活でした。
巨人軍に戻った沢村は、気力体力共に復調します。
4試合目の登板では、徴兵前の球速は戻らないまでも、カーブを使って3度目のノーヒットノーランを達成します。
一方、戦争の長期化に備えて、国内では様々な規制が・・・総力戦体制です。
暮らしの隅々まで徹底されていきます。
国民的娯楽となった職業野球にもその手が・・・!!
陸軍は、職業野球連盟に対し、戦意高揚への協力を要請します。
日中戦争の開戦以降・・・アメリカとの関係が悪化する中で、野球が敵国のスポーツとみられかねませんでした。
軍に逆らえば、職業野球の存続もままならない・・・
英語が多い球団名や、野球用語を日本語に置き換えることを決断します。

昭和16年12月、太平洋戦争勃発!!
遂にアメリカとの戦争が・・・!!
沢村は、開戦直前に二度目の徴兵され、フィリピンに渡り、南方の島々を転戦します。
マニラでは民間人が惨殺されているのを目撃し、ショックを受けます。
過酷な戦場での生活は、沢村から野球選手の才能を奪っていきます。
昭和18年1月・・・激戦を潜り抜けて2度目の復員を果たします。
巨人軍に主将として復帰するも、もはや剛速球の面影はありませんでした。
筋肉の柔軟性も、下半身のバネも失いながら、投球ホームを変えながら投げ続けます。

「白いボールを握った時の嬉しさ・・・
 この嬉しさは、死線を乗り越えてきた者だけにしか味わえない」

しかし、沢村が本来の投球を取り戻せないままシーズンが終わります。
昭和18年7月6日、阪神戦のマウンドに上がった沢村は、初回から四連続フォアボールを与えます。
その後も立ち直れず、3回5失点で降板・・・敗戦投手となりました。
この年の成績は、0勝3敗・・・防御率10.64という惨憺たるものでした。
球界を代表する沢村の選手生命は危機を迎えていました。

昭和18年秋・・・戦局が悪化する中、ついに大学生たちも戦場に送られることになりました。
学徒出陣です。
抜け道がなくなった野球連盟は、次の手を打ちます。
勤労報国隊を結成し、選手たちを工場で徴用工として働かせる策でした。
招集を免れさせるために産業戦士に仕立てたのです。
沢村も地元関西に、ライバルらと飛行機工場などで汗を流して来シーズンの再起を喫していました。
ところが年が明けても巨人軍のキャンプ・インの連絡が来ません。
業を煮やした沢村は、東京の球団事務所に・・・!!
そこで待っていたのは、戦力外通告でした。
突然の解雇に憤る沢村!!
この時、沢村には複数の球団から誘いがあったといいます。
しかし、職業野球からの愛着から決断できずにいました。
そんな中・・・3年前に結婚していた妻との間に子供が生まれました。
女の子は美緒と名付けられました。
しかし、幸せはつかの間・・・
美緒の誕生からわずか3か月後、3回目の召集令状が・・・!!
沢村は普段通り、「おい、行ってくるわ」と家を出たと言います。
昭和19年11月・・・沢村の入営を同じくして、職業野球は活動の休止を声明しました。
それからまもなっく、沢村は激戦続くフィリピン・レイテ島の輸送船に乗り込みました。

12月2日未明・・・その船が屋久島西およそ150キロに差し掛かった時、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃で撃沈されました。
生存者はいませんでした。
甲子園のヒーローにして、職業野球の幕開けを図った沢村栄治は27年の生涯を閉じたのでした。

巨人軍は、沢村を解雇したもののこの14番を日本球界初の永久欠番として今に伝えています。

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75年前の12月8日、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まりました。
そして、実に多くの尊い命が亡くなりました。
当時、開戦に強く反対した元陸軍幹部がいます。
しかし、その幹部こそ、日本が泥沼の戦争に向かうきっかけとなった満州事変を起こした人物です。

1931年南満州鉄道の線路を関東軍が爆破。
これを中国軍の仕業として、軍事行動を開始したのが満州事変です。
この満州事変の首謀者は石原莞爾。
石原は、政府・陸軍上層部の指示を無視し、独断でことを進めます。
その結果、日本は国際社会から孤立し、日中戦争・太平洋戦争へと突き進んでいきます。

石原は、周囲から”陸軍の異端児”と呼ばれていました。
頭脳明晰ながら、組織に馴染めない変わり者・・・
そんな石原は、満州事変を起こした後、孤立していきます。
満州事変を起こしたのに、日中戦争、太平洋戦争に反対だったのです。
勝てないと踏んだからです。
しかし、そんな石原の思いとは裏腹に、部下や現地軍が暴走していきます。
現場から外され・・・敗戦へと進む日本をただ見ているしかなかった石原莞爾。
その策謀と誤算は・・・??

1889年石原莞爾は山形県鶴岡市で生まれます。
小さい頃から気性が荒く、手に負えない腕白坊主でした。
1902年、13歳の時に、仙台陸軍地方幼年学校に入学。
そして・・・陸軍の異端児となっていくのですが・・・。

どうして、陸軍の異端児と呼ばれるようになったのでしょうか?
陸軍の学校で、ロクに勉強しなかった石原。
しかし、3年間常に成績トップでした。

1907年、18歳で歩兵部隊に配属。
軍隊ではありえない・・・事あるごとに上官に楯突きます。
大人に対する遠慮、上司に対する遠慮、先生に対する遠慮はなく、物事をストレートに・・・
正しいと思ったことは突き進む性格でした。

1915年、26歳で超エリートの陸軍大学校に入学。
その受験の時・・・
「機関銃の最も有効な使用法は?」と聞かれ、
「飛行機に装備し、タタタタと銃射を浴びせることです。」と答えました。
当時の日本の飛行機は、偵察するのがやっとで機銃掃射など想像もしない時代でした。
しかし、石原は、戦闘における飛行機の可能性にいち早く気付いていたのです。

この頃、ヨーロッパでは、第一次世界大戦勃発!!
一方アジアでは、欧米列強による植民地支配が・・・
そして、日本も植民地獲得に躍起になっていました。

陸軍大学校を優秀な成績で卒業した石原は、1923年、34歳でドイツに留学。
今後、日本が直面する戦争に備え、第一次世界大戦の分析をするためです。
精力的に関係者を訪ね歩きます。
そして・・・第一次世界大戦は、軍と軍との戦いにとどまらず、資源、生産力・・・その国の国力が問われる総力戦だったということに気づきます。

総力戦の時代を迎え・・・世界はどう動いていくのか・・・??
石原は独自のシナリオ「世界最終戦論」を築き上げます。
まず、第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパの代わりに、西洋の中心はアメリカとなると予測。
一方、東洋では、日本がアジアの国々を植民地支配から解放し、東洋の中心となると。。。
そして、半世紀ほど後、アメリカと日本の間に最終戦争が勃発!!
戦闘機の発達により、互いの国を直接攻撃できるようになり、最終兵器が登場すると見込んでいました。
この最終戦争の結果、東西文明は統一され、絶対平和がもたらされると考えたのです。

石原は、日蓮宗系の「国柱会」に所属していました。
世界最終戦論は、”この世を揺るがす前代未聞の大闘争が起きる”という日蓮の預言にも合致する!!
このシナリオに、絶対の自信を持っていた石原。

しかし、その最終戦争は、多くの人が犠牲になることを前提としていました。
「最後の大決勝戦で、世界の人口は半分になるかもしれない。
 戦争は最も悲惨なる最も悲しむべき、最も憎むべきもの。
 だが戦争は、文明を破壊しつつも、しかも新文明の母たりしものなり。」

1931年満州事変・・・石原は、世界最終戦争に向けた第一歩を踏み出します。
しかし、政府や陸軍上層部は、戦争不拡大の方針を打ち出し、食い止めようとします。
その中で・・・どうして石原は自分の思惑を実現できたのでしょうか??

1928年39歳の時に、自らの希望で満州・関東軍の作戦参謀になります。
関東軍とは、日露戦争で獲得した遼東半島と南満州鉄道の沿線を守る日本軍のことです。
石原は、世界最終戦争のためには国力の増強が必要だと考えていました。
そのためには、鉄鉱石や石炭、農作物が必要となります。
しかし、日本の国土だけでは・・・
「わが日本の国力は、遺憾ながら頗る貧弱なり。」
そこで石原は、資源や農作物が豊富な満州や内蒙古・・・満蒙を日本の支配下に置こうとしたのです。
しかし、国際情勢は逆の方向に進んでいました。
第一次世界大戦の反省から軍縮・国際協調へ・・・!!

ところが、石原に思わぬチャンスが・・・!!
1929年世界恐慌です。
日本も失業者があふれ、大不況!!
疲弊した農村では、娘の身売りが後を絶ちませんでした。
この深刻な不況に・・・国民の不満が高まっていました。
石原は、この機を捕らえます。
「現下の不況を打開し、東洋の選手権を獲得するためには、満蒙問題の解決は刻下第一の急務と言わざるべからず。」
満蒙を手に入れることが不況対策に・・・!!
石原の指導の下、関東軍は満蒙制圧の具体的な計画を練り上げていきます。
最大の問題は、戦いを始める大義名分でした。
そこで・・・謀略をめぐらせます。
満鉄を自ら爆破し、それを中国軍のせいにし、攻め込む口実を作ろうとしたのです。
計画の決行は、1931年9月末を予定。
しかし、情報が洩れ・・・石原の暴走を止めるために、上層部が満州へ!!
この動きを知った石原は、すぐに計画の実行に踏み切ります。
9月18日夜10時半ごろ・・・満州・柳条湖付近・・・関東軍は、自作自演で満鉄を爆破。
これを中国軍のせいにして攻撃を開始します。
翌日には、満鉄沿線の都市をほぼ占領!!
しかし、石原にとってはここからが正念場!!
当時の中国軍は27万人、これに対し、関東軍は1万人。
満州全体を占領するには、兵力の増強が欠かせません。
そこで石原は、朝鮮半島に駐留する日本軍の協力を得ようとします。
が・・・そこには問題が・・・
当時は朝鮮半島は日本。
中国に来てもらうということは、国外派兵ということになってしまうのです。
国外派兵を行うには、天皇の許可が必要だったのです。
しかし、政府は戦争不拡大の方針で、天皇の許可が下りる見込みはありませんでした。
そこで・・・一計を案じます。
北の吉林に攻め入ることで、わざと南を手薄にし、朝鮮からの出兵を促そうというのです。
吉林への攻撃が始まりました。
すると・・・朝鮮半島の駐留軍が独断で満州へと出兵!!
石原の狙い通りとなりました。

そして、陸軍での実務メンバーも、石原に協力。
関東軍だけでなく、陸軍の多くのセクションを巻き込んでいくことで、規模を大きくし、既成事実を膨らませることでもう後戻りができなくする・・・!!
この機を逸さずに、満州を日本の勢力下におくことが、世界最終戦に繋がる決定的なもので、非常に強い信念をもって、計画通りに迷いなくやったのです。

時の総理大臣・若槻礼次郎は、この動きを問題視し・・・しかし、陸軍の幹部は、この越境は、事態に敵か気宇に対処したものと、強硬に主張しました。
これに対し若槻は。。。
「すでに出動せる以上、致し方なきにあらずや」
石原たちの行為を、政府が追認したのです。

石原の思いのままに進んでいく・・・これは、現場がやって政府が追認するという下剋上を植え付けてしまいました。
1932年、43歳の時に「満州国」建国!!
満州国建国から3年・・・1935年、46歳で参謀本部の作戦課長に・・・!!
極秘書類を見て驚愕します。
満州事変のあと、ソビエトが極東の軍備を強化していたのです。
兵力は日本の3倍、戦車や航空機の数は5倍・・・

「満州事変後2,3年にして、驚くべき国防上の欠陥を作ってしまった。」

これに対抗するために、石原は国力の増強に努めます。
そして打ち出したのが・・・ソビエトを参考にした1937年「重要産業五か年計画」です。
5年間で鉄などの生産を2~3倍、さらに航空機の生産を10倍にするというものでした。
この5か年計画を達成するまでは・・・5年間は戦争をしないと打ち出します。

しかし・・・現地の軍は、日中戦争を開始し、戦線は拡大!!

どうして石原は、これを止められなかったのでしょうか?
関東軍は、石原が日本に帰ったのち、ある計画を進めていました。
内蒙古を中国から独立させ第二の満州国を作ろうとしていたのです。
石原はこの計画をやめさせようとします。
ソ連の脅威が迫る中、中国とのもめ事は得策ではないと判断したのです。

しかし、石原の前に一人の男が立ちはだかります。
関東軍第二課長・武藤章です。
「私はあなたが満州事変で大活躍されました時分、大いに感心したものです。
 あなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で実行しているものです。」

言葉を失った石原・・・
満州国建国の際、自ら作り出した下剋上の風潮が、自分自身につき返された瞬間でした。
さらに・・・
1937年盧溝橋事件勃発!!そしてこれによって日中戦争勃発!!
数発の発砲を機に、武力衝突に発展したのです。
石原が5年間戦争をしないと言っていから、僅か2か月後のことでした。

この時、作戦部門の実質的最高責任者となっていた石原は、戦線不拡大の方針を打ち出します。
かつて対立した武藤が、真っ向から対立!!
石原は、近年中国で反日感情が高まっていることから中国との戦争は長期となり、国力が持たないのでは??と、主張します。
これに対し、無糖は対支一撃論を主張!!
一撃与えれば、中国はすぐに屈服すると思っていました。
この・・・中国はすぐに屈服するという考えは、当時の軍部に広がっていました。
その根拠は、満州事変の際に、1万の関東軍が27万の中国軍を制圧できたことにありました。
そして石原は、重大な決断を迫られることになります。

武藤ら戦線拡大派は、中国への派兵を要求します。
石原は、この派兵に断固反対!!
そこに思わぬ情報が・・・!!
南方にいた中国の精鋭部隊6万が、北京へ進軍しているというのです。
このまま放置すれば、北京にいる日本軍と在留日本人が危機・・・皆殺しにされてしまう・・・!!
石原は、やむなく派兵案に同意!!

「結局、第一線でごたごたがあり、しかも派兵するには数週間かかる・・・
 不拡大を希望しても、形勢逼迫すれば、万一の準備として動員を必要とすることになるわけであります。」

しかし、石原が得た情報は誤りでした。
この中国の精鋭部隊はわずかだったのです。
派兵を認めてしまっている・・・北京で日本軍が攻撃を開始。
もはや打てる手はなかったのです。
その後、上海に戦争が拡大。
苦戦が続く中・・・石原は、さらなる派兵を認めることに・・・
戦争を食い止めることができなかった石原・・・日中戦争勃発の2か月後、自らの意志で参謀本部を去ったのでした。
その後も戦線を広げる日本は、南京に進軍!!
当時、急速に発達したラジオや新聞がこれを報じます。
その活躍が日本中に伝えられていきます。
国民は、日本軍の勝利に熱狂!!
戦勝ムードに沸き返ります。
しかし、中国軍の抵抗は続き、日中戦争は泥沼化。
武藤らが主張した対支一撃論は、夢物語に終わります。
やがて日本は、太平洋戦争に突き進んでいきます。

参謀本部をやめた後、1937年48歳で関東軍の参謀副長となり再び満州へ。
そこで上官となったのが東條英機でした。
石原が参謀本部で中国との戦争を食い止めようとしていた時、東條は戦線拡大を主張していました。
そんな二人は真っ向から対立!!

1940年東條が陸軍大臣に・・・!!
国の招来を託せる人物ではないと激しく糾弾する石原。
業を煮やした東條によって、1941年52歳で予備役に編入されます。
実質的に、陸軍から追い出されてしまったのです。
1941年石原は、郷里に・・・山形県鶴岡市に戻ります。

この年、アメリカは日本への制裁措置として石油の輸出を停止、軍部の中で、”アメリカとの戦争止む無し”の声が出始めました。

「石油が欲しいからと言って、戦争する馬鹿があるか。」

しかし、日本は・・・
1941年12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争を始めてしまいます。
そして翌年には、ミッドウェー海戦で敗北!!
追い込まれていきます。
年の暮れ・・・上京した石原が会ったのは東條でした。

「今後の戦局についてどう考えているんだ?」by東條
「戦争の指導など、君にはできないくらいなことは、最初からわかっている事だ。
 このままで行ったら、日本を滅ぼしてしまう。
 だから、君は一日も早く総理大臣をやめるべきだ。」by石原

1945年8月15日敗戦。

敗戦後、石原は、全国を遊説・・・
将来を悲観する人々に、こう演説しました。

「みなさん、敗戦は神意なり。
 負けて良かった!
 勝った国は今後、益々軍備増強の躍進をするであろうが、日本は国防費が不要になるからこれを内政に振り向ける。
 敗れた日本が、世界史の先頭に立ち腑がくるのですよ。」by石原

会場ではすすり泣く声が・・・

その後、東條は、極東国際軍事裁判で裁かれ、絞首刑となりました。
一方石原は、証人として喚問されるも、罪を問われることはありませんでした。

敗戦から4年・・・マッカーサーに宛てて、「新日本の進路」を書き送ります。

「最終戦争が、東亜と欧米との両国家群の間に行われるであろうという予想した見解は、はなはだしいうぬぼれであり、明らかに誤りであったことを認める。」

一月後・・・
1949年8月15日、石原莞爾死去。
敗戦の日からちょうど4年後の8月15日でした。


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