およそ460年前、大きく歴史が動きました。
1560年5月19日、尾張のおおうつけと呼ばれていた織田信長と、海道一の弓取りと称された大大名・今川義元が激突。
織田軍3000に対し今川軍2万5000・・・
しかし、信長はこれを覆して勝利し、一躍乱世の主役となりました。
1560年5月12日・・・桶狭間の戦いの7日前・・・
駿河・遠江・駿河の三国を支配下に置く今川義元は、貴族のように白塗りをして輿に乗り、2万5000ともいわれる大軍を率いて駿府から出陣!!
信長のいる尾張へと兵を進めていました。
義元がどうして尾張へ侵攻したのか・・・??
上洛のため・・・??
足利将軍家に代わって、政権を掌握しようとした義元が、上洛の途中に邪魔となる尾張の織田信長を退けようというのです。
義元が9代当主を務める今川氏は、室町幕府を開いた足利一門・吉良氏の諸流・・・
”御所が絶えれば吉良が継ぎ 吉良が絶えれば 今川が継ぐ”
と言われるほどの高い地位にありました。
当時は足利将軍家が弱体化・・・吉良氏も没落していました。
義元が天下の立て直しを目論んでいたと考えても何ら不思議はありません。
しかし、この上洛説は、現在では否定されつつあります。
江戸時代の資料には、よく上洛という文字が書かれていますが、今川氏の資料には、上洛を思わせる資料がありません。
仮に信長を退けたとしても、その後ろには美濃の再投資、南近江の六角氏、北近江の浅井・・・
一気に上洛するのは不可能でした。
よって、尾張への侵攻というのは上洛とは考えにくいのです。
その為、現在では
①織田は他の付城排除説
②尾張の今川領回復説
③三河の安定化説
があります。
その中に、尾張奪取説もあります。
もともと織田信秀の時代から、尾張に目をつけていて、国境付近で争奪戦を繰り広げていました。
信長の勢力が拡大する前に、尾張を制圧してしまおうと考えていたのでは??
上洛のためと書かれているのは「日本戦史 桶狭間役」です。
そこには他にも今川義元がくぼ地で休息していた
信長が戦場を迂回して義元の背後から奇襲を仕掛けた
などと記されていて、”桶狭間の戦い=信長の奇跡の逆転劇”というイメージを世間に定着させました。
というのも、”軍事の権威である陸軍参謀本部が編纂した史料に間違いがあるはずがない”からです。
明治から大正昭和にかけて、多くの研究者が支持したためでした。
現在、信長研究の基本資料と言われているのが信長家臣・太田牛一が記した「信長公記」です。
ここに記されている桶狭間の戦いの内容と、「日本戦史 桶狭間役」の内容が大きく異なるのです。
「日本戦史」は、江戸時代職の仮名草子「信長記」をもとに書かれたものです。
「信長記」は、「信長公記」をベースに書かれていますが、脚色や誇張が多いので現在では史料的な価値は極めて低いとされています。
本当は、どのような戦いだったのでしょうか??
桶狭間の戦いの前日の5月18日、今川義元率いる2万5000の大軍が、尾張との国境を越え、支配下に置く沓掛城に入ります。
この頃、義元の勢力は、尾張東部にまで及んでいてもともとは織田家の城だった沓掛城・鳴海城・大高城などを手に入れていました。
これに対し信長は、鳴海城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦・・・大高城の周囲には鷲津砦・丸根砦を築いて今川軍をけん制していました。
その為、沓掛城に入った義元は、すぐに家臣たちを集めて軍議に入ります。
大高城への兵糧入れと、鷲津砦と丸根砦の攻略を命じます。
しかも、
「領と出野攻略の際は、信長が助けに来られぬよう、潮の満ちる時に合わせ出陣せよ」
信長が、居城である清洲城から大高城に近い砦に加勢に来るならば、浜辺の道をとおるのが最短ルートですが、満潮時には浸水してしまうため迂回しなければならないので到着が遅くなります。
そこで義元は、満潮時を狙って出陣せよと命令したのです。
軟弱武将というイメージが強い義元ですが、愚将ではありませんでした。
この時、大高城に兵糧を入れたのが当時義元の人質となっていた19歳の松平元康・・・後の徳川家康でした。
元康は兵糧を届けると、そのまま城に残りました。
一方その頃、清洲城にいた信長は、家臣の諜報によって今川軍が鷲津砦と丸根砦を落とそうとしていることを知ります。
大軍を擁する今川軍の襲撃は目前・・・「日本戦史 桶狭間役」には・・・
その夜、信長が軍議を開いたと書かれています。
「すぐに出陣する!!」
「今川の大軍と対峙するのは余りにも無謀
ここは、この清洲城で籠城すべきかと存じます」
敵は2万5000!!
しかし、出陣する信長・・・!!
というのが通説でした。
しかし、「信長公記」によれば、軍議は開かなかったといいます。
雑談をしただけで家臣たちに帰る様に命じました。
「運が傾くと知恵の鏡も曇ることとはこのことじゃ
うつけもうつけ、お館様は大うつけよ
織田家もこれで終わりかのう・・・」by家臣
信長が軍議を開かなかった理由とは・・・??
信長は、清洲城の中に内通者が入り込んでいることを警戒していました。
敢えて何も考えていないように振る舞ったのです。
戦で一番重要なのは情報・・・そう考えていたのです。
5月19日・・・桶狭間の戦い当日。
遂に、今川軍が鷲津砦、丸根砦への攻撃を開始。
丸根砦攻略の大将は松平元康!!
兵の数はおよそ1000!!
鷲津砦には、今川軍の重臣が2000の兵で攻め入りました。
清洲城にいた信長のもとに、襲撃開始の知らせが届いたのはそれから間もなくのこと・・・
信長は飛び起きて・・・幸若舞の演目「敦盛」を舞ったと言われています。
舞い終えた信長は、「出陣のほら貝を吹け!!具足をもって来い!!」そう命じて、具足をつけさせながら湯漬けをかき込むと、馬にまたがり清須城をかけ出したといいます。
この時、信長と一緒に駆け出した家臣はわずか5人・・・信長が目をかけていた小姓たちでした。
ところが。。。向かった先は・・・??
午前7時ごろ・・・向かったのは尾張領内にある熱田神宮でした。
そして、熱田神宮に入った信長は、鷲津砦と丸根砦がある辺りを見つめていました。
そこには、恐るべき戦略が隠されていました。
丸根砦、鷲津砦の援軍に向かわす、熱田神宮に入った戦略は・・・
この二つの砦と兵を捨て駒と考えていたようです。
信長は、砦の攻防戦に勝利するつもりはなく、二つの砦を犠牲にして、今川軍本陣の兵力を減らそうと考えていたのです。
今川軍の兵力を分散させなければ、勝ち目が薄いと考えていたのです。
信長は、砦の辺りから煙が上がったのを確認し、両砦が陥落したことを悟ると、熱田神宮で戦の勝利を祈願すると、後を追ってきた雑兵と共に、再び出陣しました。
午前10時ごろ・・・
熱田神宮を後にした織田信長は、鳴海城を包囲する砦の一つ善照寺砦に入りました。
そして、ここに負傷兵たちを集結させました。
兵の数は3000ほどだったと言われています。
対する今川軍は、およそ2万5000と兵力の差は歴然・・・しかも、信長がいまだ尾張一国すらまとめ切れていない駆け出しの武将だったのに対し、義元は東海三国を支配下におさめる大大名・・・兵力、国力共に、義元が大きく上回っていたため、信長の勝利は奇跡と言われてきました。
国力の差・・・国力で考えると、必ずとも3倍ではありません。
義元と信長の国力の差は、それほど大きくありませんでした。
当時の石高は明らかになってはいませんが、1598年に豊臣秀吉が行った太閤検地によると・・・
駿河・・・15万石、遠江・・・25万5160石、三河・・・29万715石=70万石
尾張は、濃尾平野が広がる肥沃な穀倉地代であったため57万1737石、よって両者の石高の差は、それほど大きなものではありませんでした。
兵力の差・・・数字だけで見れば、織田軍・3000、今川軍2万5000。
8倍以上ありますが、大事なのはその質・・・兵の質が全く違っていました。
戦場で千人の死者があれば、武士はそのうち100人~150人程度・・・
つまり、戦場で刃を交えていた兵の多くは武士ではなかったのです。
戦を本業とする武士の割合はわずか1割程度で、9割は農民でした。
戦が始まった時だけ兵として招集していたため、当然武術の訓練などは受けていませんでした。
今川軍もその例にもれず、2万5000の兵のうち本当の戦力と言える武士は、2500ほどだったのです。
同様に計算すれば、織田軍にはわずか300ほどの武士しかいなかったことになりますが、戦国の革命児・信長にこの常識は当てはまりません。
信長には親衛隊と呼ばれる戦の専門集団がいました。
親衛隊は、家を継ぐことのできない武士や農民の次男や三男などでした。
日々軍事訓練を行っていた精鋭部隊だったのです。
桶狭間の戦いの頃には、700人から800人ほどいたと言われ、大きな戦力となっていました。
彼等は武器の扱いにも長けて、組織力も高く、織田軍は戦う気概も強かったのです。
つまり、奇跡が起きなければ覆せないほどの大きなものではなかったのです。
信長は、様々な下工作も行っていました。
その一つが、必勝祈願をした熱田神宮から善照寺砦に向かう際に、熱田の住民に白い木綿の布を竿に吊るして立てるよう命じていました。
それは、今川軍に織田軍の旗と見間違わさせ、多くの兵がいるかのように見せかけるための偽装工作でした。
10時ごろ、およそ3000の兵を率いて善照寺砦に入った信長でしたが、ここで思わぬ事件が起こります。
信長の家臣である佐々政次・千秋季忠が本体から離脱し、300ほどの兵を率いて今川軍の前衛部隊に突撃したのです。
しかも、あっけなく撃退されてしまい佐々・千秋ともに討ち死に!!
どうして二人は無謀ともいわれる先駆けをしたのでしょうか?
その理由について「日本戦史」にも、「信長公記」にも書かれていません。
一説には戦功に逸って抜け駆け??とも言われていますが・・・??
しかし、信長は厳しいので抜け駆けは思えません。
信長の命令による行動のように思えるのです。
「信長公記」には、この二人の動きを見て信長がすぐ中島砦に移ったとあります。
2人の先駆けは、信長本陣の移動をスムーズに行わせるための陽動作戦・・・囮だったように思えます。
勝つためには非情な作戦も厭わない信長・・・
また、「信長公記」には、信長と共に中島砦に異動した兵は2000足らずとあります。
残りの1000は、善照寺砦に残し置いたと思われますが、これも信長の策略でした。
後方からの敵襲に備えるため・・・そこに、織田軍の本陣が残っているように思わせるためでした。
桶狭間の戦いもいよいよ大詰め・・・
決戦当日の5月19日、前日に終わりに入っていた今川義元は、この日の朝、輿に乗って沓掛城を出陣・・・記録がなく、どこに向かっていたのかは分かっていませんが、おそらく大高城だと思われます。
そして、信長がおよそ2000の兵で中島砦へ移った正午ごろ、義元がどこにいたのかというと・・・??
「日本戦史」にはこうあります。
”織田家家臣の梁田出羽守が「今川義元が田楽狭間で休息中」という情報を信長にもたらした”
梁田出羽守は、諜報を担当していたといわれる信長の家臣です。
そして、田楽狭間とは中島砦から3キロ離れたところにあるくぼ地で田楽坪と呼ばれ、義元はここで休息していたというのです。
ところが、「信長公記」には、梁田が信長に情報をもたらしたという記述はありません。
義元が休息していた場所についても、”おけはざま山に人馬の息を休め”とあるのです。
現在は、おけはざま山にいたというのが通説です。
ただし、おけはざま山という名称の山がどこにもないのです。
おそらく、今の名古屋市緑区と豊明市にまたがる丘陵地帯(標高64.7m)の辺りだと思われます。
義元の本陣が、その丘陵のどこなのか??西側中腹にあったのでは??と言われています。
また、おけはざま山は、義元が出陣した沓掛城から大高城までの中間地点にあり、湧き水も豊富だったといわれるため、兵や馬を休ませるには絶好の場所だったと思われます。
休憩中の義元は、丸根砦と鷲津砦を落としたことで上機嫌・・・
謡を歌うなど、戦勝気分に浸っていたといいます。
信長は、その隙をつくのです。
「日本戦史」にはこう書かれています。
梁田出羽守の諜報によって義元の居場所を知った信長は、戦場を大きく迂回して義元のいる今川本陣の背後に回り込み、突然降り始めた豪雨に紛れて突撃!!
今川軍が大混乱となる中、義元の首を討ち取りました。
迂回奇襲説です。
この説が、通説でしたが・・・??
これもまた、現在は否定されつつあるのです。
というのも、「信長公記」には、信長が戦場を迂回して義元に奇襲を仕掛けたという記述はなく、さらに近年の調査により、迂回ルートを使っても今川軍に気付かれずに接近することは困難なことがわかりました。
現在有力視されているのが正面攻撃説です。
「信長公記」の記述をもとに、1982年に提唱された説で・・・
決戦当日の正午過ぎ、中島砦を発った信長は、義元のいるおけはざま山に向かって正面から進軍、途中、今川軍の前衛部隊と激突するも、これを退けて山際まで兵を進めます。
そして、義元いる本陣に、一揆に攻め入ったというのです。
しかし、「信長公記」にも、戦いの全貌が事細かに記されているわけではないので、検証の余地はあります。
なので、その他にも側面強襲説、時間差二段攻撃説、別動隊説・・・があり議論されています。
義元の前衛部隊は、織田軍の攻撃を本陣に知らせようとしました。
しかし、信長がそれを阻止したのではないか・・・??
信長は、今川軍の連絡網を遮断していたと思われます。
その役割を担っていたのが、梁田出羽守だったのでは・・・??
情報を重視する信長が、敵の動きを把握せずに攻撃を仕掛けたとは考えにくいのです。
当時、諜報を担当する者は、敵の諜報を阻止する役目も担っていました。
梁田が今川軍の連絡係を捕殺することで、織田軍襲撃の知らせが今川本陣に届かなかったのでは・・・??
織田軍が攻めてくることを知らなかった今川軍にとっては、正面からでも奇襲だったのです。
「信長公記」には、
”激しいにわか雨が石化氷を練下撃つように降り出した
二抱えも三抱えもあるクスノキが雨で東へ倒された”
とあります。
ゲリラ豪雨・・・風が西から東へ吹いていた・・・
織田軍にとっては追い風で、今川軍にとっては向かい風・・・
気配を隠すのに一役買っていたようです。
どうして格上の今川義元に勝つことが出来たのでしょうか??
勝因①巧みな戦術
勝因②突然の豪雨
勝因③地の利
決戦の地となったおけはざま山は、あくまでも尾張領・・・
鷹狩りなどで領内に赴くことの多かった信長には、なじみの場所・・・地理や地形も把握していました。
勝因④論功行賞
信長は中島砦からおけはざま山へと出陣する際、家臣たちにこんなことを継げています。
「敵の首や武器をとってはならぬ
死骸は放置せよ
合戦に勝ちさえすれば、この場にいた者は家の名誉であり、末代までの功名であるぞ
ひたすら励め」
武士にとって一番の武功は、敵方の首を取ることでした。
戦ののちに与えられる恩賞は、討ち取った首の数や価値で決まりました。
しかし、信長はこの戦に限ってはこれを禁じ、戦に勝ちさえすれば全員の名誉・・・全員に恩賞を与えると約束したのです。
そうすれば、味方同士の武功争いも起きません。
一丸となって打倒今川に邁進します。
そうしたワンチームの織田軍に対し、兵力を分散した今川・・・義元のいる本陣には5000ほどの兵しかいなかったのです。
そこへ、2000の織田軍が一斉に突撃!!
今川軍が慌てふためき、退却する中、義元の乗っていた輿が打ち捨てられているのを見かけます。
「義元が近くにいる・・・かかれ!!」
勝因⑤義元の誤算
そもそも、どうして義元は目立つ輿に乗って出陣したのでしょうか?
当時の武将で大名クラスで輿に乗ることが出来たのは、将軍家から許しを得た者だけでした。
高貴な身分であることを知らせるための演出だったのです。
しかし、これが裏目に出て、自分の居場所をしらせる格好の目印となってしまいました。
そして、義元を見つけた織田軍の兵たちは、周りを取り囲み一番槍をつけたのは、服部小平太!!
義元に深手を負わせましたが、最後の意地を見せる義元に膝を斬られてしまいます。
すると、毛利良勝が背後から義元に飛びついて組臥せ、遂に首を落としました。
こうして義元を討ち取った信長は、全軍を集めて勝鬨をあげ、意気揚々と引き上げていったのです。
桶狭間の戦い自体は1日で終わりました。
しかし、信長はその戦いのため、事前にこんな手まで打っていたのです。
それは、桶狭間の戦いの3年前の1557年頃・・・
信長は、織田方から今川方に寝返った戸部城主・戸部政直の筆跡を家臣に覚えさせ、戸部が信長に宛てたように見える偽の書状を書かせます。
そして、その書状を商人に扮した家臣が義元まで届けます。
書状を読んだ義元は、戸部がまだ信長と通じていると信じ、激怒!!
戸部に切腹を命じるのです。
こうして信長は、義元の貴重な戦力を削いていたのです。
信長の桶狭間の戦いは、実に3年も前から始まっていました。
信長の勝利は、たまたまではなく、用意周到に準備をしていた当然の結果だったのではないでしょうか?
そして信長は、この桶狭間の戦いの勝利をきっかけに天下人へと駆け上がっていくことになります。
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織田軍3000に対し今川軍2万5000・・・
しかし、信長はこれを覆して勝利し、一躍乱世の主役となりました。
1560年5月12日・・・桶狭間の戦いの7日前・・・
駿河・遠江・駿河の三国を支配下に置く今川義元は、貴族のように白塗りをして輿に乗り、2万5000ともいわれる大軍を率いて駿府から出陣!!
信長のいる尾張へと兵を進めていました。
義元がどうして尾張へ侵攻したのか・・・??
上洛のため・・・??
足利将軍家に代わって、政権を掌握しようとした義元が、上洛の途中に邪魔となる尾張の織田信長を退けようというのです。
義元が9代当主を務める今川氏は、室町幕府を開いた足利一門・吉良氏の諸流・・・
”御所が絶えれば吉良が継ぎ 吉良が絶えれば 今川が継ぐ”
と言われるほどの高い地位にありました。
当時は足利将軍家が弱体化・・・吉良氏も没落していました。
義元が天下の立て直しを目論んでいたと考えても何ら不思議はありません。
しかし、この上洛説は、現在では否定されつつあります。
江戸時代の資料には、よく上洛という文字が書かれていますが、今川氏の資料には、上洛を思わせる資料がありません。
仮に信長を退けたとしても、その後ろには美濃の再投資、南近江の六角氏、北近江の浅井・・・
一気に上洛するのは不可能でした。
よって、尾張への侵攻というのは上洛とは考えにくいのです。
その為、現在では
①織田は他の付城排除説
②尾張の今川領回復説
③三河の安定化説
があります。
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その中に、尾張奪取説もあります。
もともと織田信秀の時代から、尾張に目をつけていて、国境付近で争奪戦を繰り広げていました。
信長の勢力が拡大する前に、尾張を制圧してしまおうと考えていたのでは??
上洛のためと書かれているのは「日本戦史 桶狭間役」です。
そこには他にも今川義元がくぼ地で休息していた
信長が戦場を迂回して義元の背後から奇襲を仕掛けた
などと記されていて、”桶狭間の戦い=信長の奇跡の逆転劇”というイメージを世間に定着させました。
というのも、”軍事の権威である陸軍参謀本部が編纂した史料に間違いがあるはずがない”からです。
明治から大正昭和にかけて、多くの研究者が支持したためでした。
現在、信長研究の基本資料と言われているのが信長家臣・太田牛一が記した「信長公記」です。
ここに記されている桶狭間の戦いの内容と、「日本戦史 桶狭間役」の内容が大きく異なるのです。
「日本戦史」は、江戸時代職の仮名草子「信長記」をもとに書かれたものです。
「信長記」は、「信長公記」をベースに書かれていますが、脚色や誇張が多いので現在では史料的な価値は極めて低いとされています。
本当は、どのような戦いだったのでしょうか??
桶狭間の戦いの前日の5月18日、今川義元率いる2万5000の大軍が、尾張との国境を越え、支配下に置く沓掛城に入ります。
この頃、義元の勢力は、尾張東部にまで及んでいてもともとは織田家の城だった沓掛城・鳴海城・大高城などを手に入れていました。
これに対し信長は、鳴海城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦・・・大高城の周囲には鷲津砦・丸根砦を築いて今川軍をけん制していました。
その為、沓掛城に入った義元は、すぐに家臣たちを集めて軍議に入ります。
大高城への兵糧入れと、鷲津砦と丸根砦の攻略を命じます。
しかも、
「領と出野攻略の際は、信長が助けに来られぬよう、潮の満ちる時に合わせ出陣せよ」
信長が、居城である清洲城から大高城に近い砦に加勢に来るならば、浜辺の道をとおるのが最短ルートですが、満潮時には浸水してしまうため迂回しなければならないので到着が遅くなります。
そこで義元は、満潮時を狙って出陣せよと命令したのです。
軟弱武将というイメージが強い義元ですが、愚将ではありませんでした。
この時、大高城に兵糧を入れたのが当時義元の人質となっていた19歳の松平元康・・・後の徳川家康でした。
元康は兵糧を届けると、そのまま城に残りました。
一方その頃、清洲城にいた信長は、家臣の諜報によって今川軍が鷲津砦と丸根砦を落とそうとしていることを知ります。
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大軍を擁する今川軍の襲撃は目前・・・「日本戦史 桶狭間役」には・・・
その夜、信長が軍議を開いたと書かれています。
「すぐに出陣する!!」
「今川の大軍と対峙するのは余りにも無謀
ここは、この清洲城で籠城すべきかと存じます」
敵は2万5000!!
しかし、出陣する信長・・・!!
というのが通説でした。
しかし、「信長公記」によれば、軍議は開かなかったといいます。
雑談をしただけで家臣たちに帰る様に命じました。
「運が傾くと知恵の鏡も曇ることとはこのことじゃ
うつけもうつけ、お館様は大うつけよ
織田家もこれで終わりかのう・・・」by家臣
信長が軍議を開かなかった理由とは・・・??
信長は、清洲城の中に内通者が入り込んでいることを警戒していました。
敢えて何も考えていないように振る舞ったのです。
戦で一番重要なのは情報・・・そう考えていたのです。
5月19日・・・桶狭間の戦い当日。
遂に、今川軍が鷲津砦、丸根砦への攻撃を開始。
丸根砦攻略の大将は松平元康!!
兵の数はおよそ1000!!
鷲津砦には、今川軍の重臣が2000の兵で攻め入りました。
清洲城にいた信長のもとに、襲撃開始の知らせが届いたのはそれから間もなくのこと・・・
信長は飛び起きて・・・幸若舞の演目「敦盛」を舞ったと言われています。
舞い終えた信長は、「出陣のほら貝を吹け!!具足をもって来い!!」そう命じて、具足をつけさせながら湯漬けをかき込むと、馬にまたがり清須城をかけ出したといいます。
この時、信長と一緒に駆け出した家臣はわずか5人・・・信長が目をかけていた小姓たちでした。
ところが。。。向かった先は・・・??
午前7時ごろ・・・向かったのは尾張領内にある熱田神宮でした。
そして、熱田神宮に入った信長は、鷲津砦と丸根砦がある辺りを見つめていました。
そこには、恐るべき戦略が隠されていました。
丸根砦、鷲津砦の援軍に向かわす、熱田神宮に入った戦略は・・・
この二つの砦と兵を捨て駒と考えていたようです。
信長は、砦の攻防戦に勝利するつもりはなく、二つの砦を犠牲にして、今川軍本陣の兵力を減らそうと考えていたのです。
今川軍の兵力を分散させなければ、勝ち目が薄いと考えていたのです。
信長は、砦の辺りから煙が上がったのを確認し、両砦が陥落したことを悟ると、熱田神宮で戦の勝利を祈願すると、後を追ってきた雑兵と共に、再び出陣しました。
午前10時ごろ・・・
熱田神宮を後にした織田信長は、鳴海城を包囲する砦の一つ善照寺砦に入りました。
そして、ここに負傷兵たちを集結させました。
兵の数は3000ほどだったと言われています。
対する今川軍は、およそ2万5000と兵力の差は歴然・・・しかも、信長がいまだ尾張一国すらまとめ切れていない駆け出しの武将だったのに対し、義元は東海三国を支配下におさめる大大名・・・兵力、国力共に、義元が大きく上回っていたため、信長の勝利は奇跡と言われてきました。
国力の差・・・国力で考えると、必ずとも3倍ではありません。
義元と信長の国力の差は、それほど大きくありませんでした。
当時の石高は明らかになってはいませんが、1598年に豊臣秀吉が行った太閤検地によると・・・
駿河・・・15万石、遠江・・・25万5160石、三河・・・29万715石=70万石
尾張は、濃尾平野が広がる肥沃な穀倉地代であったため57万1737石、よって両者の石高の差は、それほど大きなものではありませんでした。
兵力の差・・・数字だけで見れば、織田軍・3000、今川軍2万5000。
8倍以上ありますが、大事なのはその質・・・兵の質が全く違っていました。
戦場で千人の死者があれば、武士はそのうち100人~150人程度・・・
つまり、戦場で刃を交えていた兵の多くは武士ではなかったのです。
戦を本業とする武士の割合はわずか1割程度で、9割は農民でした。
戦が始まった時だけ兵として招集していたため、当然武術の訓練などは受けていませんでした。
今川軍もその例にもれず、2万5000の兵のうち本当の戦力と言える武士は、2500ほどだったのです。
同様に計算すれば、織田軍にはわずか300ほどの武士しかいなかったことになりますが、戦国の革命児・信長にこの常識は当てはまりません。
信長には親衛隊と呼ばれる戦の専門集団がいました。
親衛隊は、家を継ぐことのできない武士や農民の次男や三男などでした。
日々軍事訓練を行っていた精鋭部隊だったのです。
桶狭間の戦いの頃には、700人から800人ほどいたと言われ、大きな戦力となっていました。
彼等は武器の扱いにも長けて、組織力も高く、織田軍は戦う気概も強かったのです。
つまり、奇跡が起きなければ覆せないほどの大きなものではなかったのです。
信長は、様々な下工作も行っていました。
その一つが、必勝祈願をした熱田神宮から善照寺砦に向かう際に、熱田の住民に白い木綿の布を竿に吊るして立てるよう命じていました。
それは、今川軍に織田軍の旗と見間違わさせ、多くの兵がいるかのように見せかけるための偽装工作でした。
10時ごろ、およそ3000の兵を率いて善照寺砦に入った信長でしたが、ここで思わぬ事件が起こります。
信長の家臣である佐々政次・千秋季忠が本体から離脱し、300ほどの兵を率いて今川軍の前衛部隊に突撃したのです。
しかも、あっけなく撃退されてしまい佐々・千秋ともに討ち死に!!
どうして二人は無謀ともいわれる先駆けをしたのでしょうか?
その理由について「日本戦史」にも、「信長公記」にも書かれていません。
一説には戦功に逸って抜け駆け??とも言われていますが・・・??
しかし、信長は厳しいので抜け駆けは思えません。
信長の命令による行動のように思えるのです。
「信長公記」には、この二人の動きを見て信長がすぐ中島砦に移ったとあります。
2人の先駆けは、信長本陣の移動をスムーズに行わせるための陽動作戦・・・囮だったように思えます。
勝つためには非情な作戦も厭わない信長・・・
また、「信長公記」には、信長と共に中島砦に異動した兵は2000足らずとあります。
残りの1000は、善照寺砦に残し置いたと思われますが、これも信長の策略でした。
後方からの敵襲に備えるため・・・そこに、織田軍の本陣が残っているように思わせるためでした。
桶狭間の戦いもいよいよ大詰め・・・
決戦当日の5月19日、前日に終わりに入っていた今川義元は、この日の朝、輿に乗って沓掛城を出陣・・・記録がなく、どこに向かっていたのかは分かっていませんが、おそらく大高城だと思われます。
そして、信長がおよそ2000の兵で中島砦へ移った正午ごろ、義元がどこにいたのかというと・・・??
「日本戦史」にはこうあります。
”織田家家臣の梁田出羽守が「今川義元が田楽狭間で休息中」という情報を信長にもたらした”
梁田出羽守は、諜報を担当していたといわれる信長の家臣です。
そして、田楽狭間とは中島砦から3キロ離れたところにあるくぼ地で田楽坪と呼ばれ、義元はここで休息していたというのです。
ところが、「信長公記」には、梁田が信長に情報をもたらしたという記述はありません。
義元が休息していた場所についても、”おけはざま山に人馬の息を休め”とあるのです。
現在は、おけはざま山にいたというのが通説です。
ただし、おけはざま山という名称の山がどこにもないのです。
おそらく、今の名古屋市緑区と豊明市にまたがる丘陵地帯(標高64.7m)の辺りだと思われます。
義元の本陣が、その丘陵のどこなのか??西側中腹にあったのでは??と言われています。
また、おけはざま山は、義元が出陣した沓掛城から大高城までの中間地点にあり、湧き水も豊富だったといわれるため、兵や馬を休ませるには絶好の場所だったと思われます。
休憩中の義元は、丸根砦と鷲津砦を落としたことで上機嫌・・・
謡を歌うなど、戦勝気分に浸っていたといいます。
信長は、その隙をつくのです。
「日本戦史」にはこう書かれています。
梁田出羽守の諜報によって義元の居場所を知った信長は、戦場を大きく迂回して義元のいる今川本陣の背後に回り込み、突然降り始めた豪雨に紛れて突撃!!
今川軍が大混乱となる中、義元の首を討ち取りました。
迂回奇襲説です。
この説が、通説でしたが・・・??
これもまた、現在は否定されつつあるのです。
というのも、「信長公記」には、信長が戦場を迂回して義元に奇襲を仕掛けたという記述はなく、さらに近年の調査により、迂回ルートを使っても今川軍に気付かれずに接近することは困難なことがわかりました。
現在有力視されているのが正面攻撃説です。
「信長公記」の記述をもとに、1982年に提唱された説で・・・
決戦当日の正午過ぎ、中島砦を発った信長は、義元のいるおけはざま山に向かって正面から進軍、途中、今川軍の前衛部隊と激突するも、これを退けて山際まで兵を進めます。
そして、義元いる本陣に、一揆に攻め入ったというのです。
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しかし、「信長公記」にも、戦いの全貌が事細かに記されているわけではないので、検証の余地はあります。
なので、その他にも側面強襲説、時間差二段攻撃説、別動隊説・・・があり議論されています。
義元の前衛部隊は、織田軍の攻撃を本陣に知らせようとしました。
しかし、信長がそれを阻止したのではないか・・・??
信長は、今川軍の連絡網を遮断していたと思われます。
その役割を担っていたのが、梁田出羽守だったのでは・・・??
情報を重視する信長が、敵の動きを把握せずに攻撃を仕掛けたとは考えにくいのです。
当時、諜報を担当する者は、敵の諜報を阻止する役目も担っていました。
梁田が今川軍の連絡係を捕殺することで、織田軍襲撃の知らせが今川本陣に届かなかったのでは・・・??
織田軍が攻めてくることを知らなかった今川軍にとっては、正面からでも奇襲だったのです。
「信長公記」には、
”激しいにわか雨が石化氷を練下撃つように降り出した
二抱えも三抱えもあるクスノキが雨で東へ倒された”
とあります。
ゲリラ豪雨・・・風が西から東へ吹いていた・・・
織田軍にとっては追い風で、今川軍にとっては向かい風・・・
気配を隠すのに一役買っていたようです。
どうして格上の今川義元に勝つことが出来たのでしょうか??
勝因①巧みな戦術
勝因②突然の豪雨
勝因③地の利
決戦の地となったおけはざま山は、あくまでも尾張領・・・
鷹狩りなどで領内に赴くことの多かった信長には、なじみの場所・・・地理や地形も把握していました。
勝因④論功行賞
信長は中島砦からおけはざま山へと出陣する際、家臣たちにこんなことを継げています。
「敵の首や武器をとってはならぬ
死骸は放置せよ
合戦に勝ちさえすれば、この場にいた者は家の名誉であり、末代までの功名であるぞ
ひたすら励め」
武士にとって一番の武功は、敵方の首を取ることでした。
戦ののちに与えられる恩賞は、討ち取った首の数や価値で決まりました。
しかし、信長はこの戦に限ってはこれを禁じ、戦に勝ちさえすれば全員の名誉・・・全員に恩賞を与えると約束したのです。
そうすれば、味方同士の武功争いも起きません。
一丸となって打倒今川に邁進します。
そうしたワンチームの織田軍に対し、兵力を分散した今川・・・義元のいる本陣には5000ほどの兵しかいなかったのです。
そこへ、2000の織田軍が一斉に突撃!!
今川軍が慌てふためき、退却する中、義元の乗っていた輿が打ち捨てられているのを見かけます。
「義元が近くにいる・・・かかれ!!」
勝因⑤義元の誤算
そもそも、どうして義元は目立つ輿に乗って出陣したのでしょうか?
当時の武将で大名クラスで輿に乗ることが出来たのは、将軍家から許しを得た者だけでした。
高貴な身分であることを知らせるための演出だったのです。
しかし、これが裏目に出て、自分の居場所をしらせる格好の目印となってしまいました。
そして、義元を見つけた織田軍の兵たちは、周りを取り囲み一番槍をつけたのは、服部小平太!!
義元に深手を負わせましたが、最後の意地を見せる義元に膝を斬られてしまいます。
すると、毛利良勝が背後から義元に飛びついて組臥せ、遂に首を落としました。
こうして義元を討ち取った信長は、全軍を集めて勝鬨をあげ、意気揚々と引き上げていったのです。
桶狭間の戦い自体は1日で終わりました。
しかし、信長はその戦いのため、事前にこんな手まで打っていたのです。
それは、桶狭間の戦いの3年前の1557年頃・・・
信長は、織田方から今川方に寝返った戸部城主・戸部政直の筆跡を家臣に覚えさせ、戸部が信長に宛てたように見える偽の書状を書かせます。
そして、その書状を商人に扮した家臣が義元まで届けます。
書状を読んだ義元は、戸部がまだ信長と通じていると信じ、激怒!!
戸部に切腹を命じるのです。
こうして信長は、義元の貴重な戦力を削いていたのです。
信長の桶狭間の戦いは、実に3年も前から始まっていました。
信長の勝利は、たまたまではなく、用意周到に準備をしていた当然の結果だったのではないでしょうか?
そして信長は、この桶狭間の戦いの勝利をきっかけに天下人へと駆け上がっていくことになります。
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