吉田松陰――久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」 (朝日新書)

新品価格
¥778から
(2015/3/5 05:39時点)



吉田松陰が惚れ込んだ天下の英才、久坂玄瑞さんです!
「花燃ゆ」では東出昌大さんが演じてくれています。

kusaka

















幕末好きの私は知っていますが、メジャーでないかもしれませんね。
それはもしかしたら、松下村塾の塾生の中で、真っ先なレベルで死んじゃったからかもしれません。

本当の玄瑞は医者の規則で坊主頭。
外見は色白で端正な顔立ち、6尺(約180cm)にも及ぶ高身長で、うっとりするような美声の持ち主だったそうです。
志士たちからだけでなく、芸妓さんからもずいぶん人気でした。

吉田松陰曰く・・・高杉晋作と・・・「松下村塾の双璧」「年少第一流の人物」「天下の英傑」と大絶賛し、自分の妹・文を嫁がせたほど見込んだ人物でした。

藩医の家に生まれ、「明倫館」や「好生館」に通い、医学や蘭学を学んだ玄瑞ですが。。。
花燃ゆでも言っているように、次男です。
本当は、兄が継ぐはずだった医者家業を、母の死・兄と父の死を経て継ぐこととなりました。

1856年九州に遊学に・・・。
熊本では、玄瑞と同じ藩医を務める宮部鼎蔵と出会うのでした。
鼎蔵は医者・兵学者であると同時に“尊王攘夷”派の志士で。寅次郎と共に東北に旅に出かけています。これは、「八重の桜」で小栗松陰がやっていましたね。
後に「池田屋事件」で討ち死にする人物です。


玄瑞は鼎蔵に、吉田松陰の下で学ぶことを勧められます。
松陰に手紙を出し、萩へ戻ると「松下村塾」に入門。

松陰からずいぶんと才能を期待されていて、入門して間もなく、松陰の妹である文を妻に迎えています。
が・・・それからすぐに京都に行っちゃうのです。

玄瑞は幼なじみの高杉晋作も松下村塾に誘って入門させています。
この2人は「村塾の双璧」と称され、この後“尊王攘夷”の急先鋒として幕末をリードしていくのです。
が・・・ふたりとも短命でしたね。

京都と江戸を往復して、薩摩や土佐、水戸の同志と交流し、“尊王攘夷”運動を精力的に行う玄瑞。。。
しかし、自身の才能を誰よりも買ってくれていた尊敬する師・松陰が、「安政の大獄」で刑死してしまいました。
師匠の死を受けて、玄瑞は、後継者として“尊王攘夷”の実現を果たそうとさらに奔走し、他藩の志士たちとの交流をさらに深め、松陰から教わった「草莽崛起」の思想を広げていきます。

玄瑞の運動の成果としては・・・武市半平太の土佐勤王党結成、龍馬の脱藩などがあります。
しかし、“尊王攘夷”運動自体が上手くいきません。
おまけに長州藩の藩論が、”公武合体”となってしまいました。
過激な行動で“尊王攘夷”をリードしようとがんばる玄瑞。。。

色々やらかしますが、「「八月十八日の政変」で長州藩の勢力は京都から追い出され、世論は公武合体に移行!!
薩摩藩や会津藩が朝廷を味方に付け、長州藩は宮門警備を解任されて“悪”とされてしまったのでした。

長州藩の失地回復を目指した玄瑞・・・しかし事態はさらに悪化!
「池田屋事件」では、長州藩を中心とした志士たちの多くが新撰組に斬られてしまいました。
その中には、玄瑞と共に「松門四天王」と称された吉田稔麿や、玄瑞を松陰と引き合わせくれた宮部鼎蔵などが含まれていました。

長州藩は起死回生のために・・・無謀とも取れる最後の一手を!!
長州藩の名誉回復と仇討ちを志した藩士たちは玄瑞の下へ集まり、京都御所へ攻撃を開始します。
世に言う「禁門の変(蛤御門の変)」です。

薩摩藩や会津藩を中心とする勢力が約2万~3万に対して、長州藩の勢力は2000・・・。
圧倒的に差が・・・。
何とか御所の鷹司邸へ侵攻した玄瑞は、鷹司輔煕に朝廷への執り成しを要請しますが拒否されてしまいました。
そして、周囲を敵兵に囲まれ屋敷は炎上・・・!!
もはやこれまで・・・!!
最後まで側にいた「松下村塾」の同窓生である寺島忠三郎と自刃を果たすのです。
享年25歳でした。

過激な久坂玄瑞さんですが、東出君も結構過激にやってくれています。
ま、直情的=急先鋒となるのか?
医者坊主からの脱却=急先鋒となるのか?
楽しみな一人です。

でも・・・文が大正10年まで生きるので・・・たぶん大河の半分来たとこぐらいで死んじゃうんだろうな・・・。
ちょっと寂しい。。。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

小説 吉田松陰の妹・文子 久坂玄瑞の妻

新品価格
¥1,404から
(2015/3/5 05:39時点)

吉田稔麿 松陰の志を継いだ男 (角川選書)

新品価格
¥1,836から
(2015/3/5 05:40時点)