週刊 絵で知る日本史 7号 姉川合戦図屏風

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桶狭間の戦い・・・この合戦で、織田信長は歴史の表舞台に躍り出ました。
弱小兵力の信長が、起死回生の奇襲作戦で、東海の雄・今川義元を討ち取る大金星を挙げたのです。
それから10年・・・信長は、運命を左右する一戦に・・・姉川の戦いです。

戦いの舞台は、現在の滋賀県東北部、姉川沿い・・・浅井・朝倉との戦いでした。
これまで伝えられてきたたのは、巧みな陽動作戦によって信長が大勝利を収めるというものですが・・・。
ところが、姉川の戦いで信長は窮地に追い詰められ、命を落としかねない状況であったことが解ってきました。
逆桶狭間の危機に陥っていたのです。
信長の首を狙ったのは、北近江の武将・浅井長政。
信長の同盟者であり、義理の弟・・・長政が裏切り、最大の敵として立ちはだかったのです。
戦いの直前、信長は大きな過ちを犯していました。
それが、長政に付け入る隙を与えたのです。

1560年、織田信長の名前を天下に轟かせた桶狭間の戦い・・・。
しかし、大大名・今川を討ったとはいえ、信長はまだ尾張の小大名にすぎませんでした。
同盟を・・・と、隣の徳川家康、北近江の浅井長政と結びます。
隣国でもない長政とどうして同盟を結んだのでしょうか?
この時の敵は、美濃・斎藤家でした。
斎藤氏は、南近江の六角氏と結んでいました。
敵の敵は味方・・・斎藤氏けん制のために、長政と同盟を組んだのです。
浅井氏の居城・小谷城・・・北近江支配の拠点であり、当時有数の巨大な山城でした。
山全体を覆うように作られた曲輪。。。
軍事力に優れた浅井氏の力のほどが伺えます。
城の中でも際立つのが、中腹に作られた大広間です。
大きな空間が山城の中にあり、小谷城は戦国時代屈指の巨大山城であったことを証明しています。
城跡から出土した中国製の白磁や青磁・・・天目茶碗・・・浅井氏の経済的裕福が伺えます。
さらに小谷城を拠点に、横山城、佐和山城・・・独自の防衛ラインを築き、琵琶湖の水上交通を支配していました。
信長にとって浅井長政は軍事的、経済的に頼みとする武将だったのです。
同盟締結に、信長は妹・お市の方を嫁がせています。
この同盟にかける期待の大きさが伺えます。
天下への野心をあからさまにしていく信長・・・
1568年9月、美濃平定した信長は、次期将軍候補・足利義昭を担いで上洛を果たします!!
その翌月、義昭・征夷大将軍に就任。
信長は新将軍から”武勇天下第一”と称えられただけではなく、御父ともよばれました。
信長にとって、最大級の賛辞です。
この将軍の権威を背景に、信長は畿内周辺の諸大名に上洛を命じる書状を出します。

”おのおの上洛ありて
 御礼を申し上げられ
 馳走肝要に候
 御延引あるべからず”

これをはねつけたのが、朝倉義景でした。
かつて足利義昭の後ろ盾となっていた越前の雄です。
信長の上洛勧告に、朝倉はこう答えます。

「これは上意に非ず
 信長の謀略である」と。

京を中心に畿内の覇権を図る信長にとって、朝倉はまさに目の上のコブでした。
1570年4月、朝倉討伐!!3万の軍勢を引き連れて、京を出陣します。
目指したのは、今の敦賀市・・・陸上交通と北国海運の要です。
朝倉氏にとっては畿内への玄関口でもありました。

1570年4月26日、金ヶ崎の戦い
ところが・・・落城させた直後に、信長に驚愕の知らせが・・・!!
浅井長政が裏切ったのです。
長政裏切りに際し、信長は・・・「虚説たるべき」・・・裏切りを嘘だとして報告を信じませんでした。

「浅井はれっきとした縁者であり、その上、北近江一体の支配を信長が許しているのだから不足などない・・・」と。
「浅井は近年、信長の家来となり、心の隔たりなく付き合ってきた。」と。
長政には、十分な所領、北近江半分を与えている・・・お市の方を嫁にしているではないか・・・!!
別格の待遇なのに・・・??

ところが長政としては、信長の家臣ではない・・・
家臣扱いされることに対する自尊心が・・・!!
朝倉攻めを優勢にしている信長・・・しかし、長政の裏切りが本当ならば、形勢は一気に逆転してしまう・・・!!
四方を囲まれて袋のネズミとなった信長・・・。
金ヶ崎城の麓にある神社・金崎宮には一風変わったお守りがあります。
袋の両端を結ぶことで、信長の窮地を暗示した小豆袋・・・浅井裏切りの一報を伝えたのはお市の方だという逸話も残されています。
小谷城から敦賀までおよそ35キロ・・・本当に長政が兵を動かしたとするならば、一刻の猶予も許されない・・・。
この時信長は即断即決し、家臣に後事を託すと、一目散に駆け出しました。
京までおよそ200キロの道程・・・金ヶ崎の退き口です。
信長を京まで逃がすために、困難な殿を務めたのは、木下藤吉郎・・・豊臣秀吉や、明智光秀、徳川家康です。
信長は長政の支配下の琵琶湖周辺をさけ、山越えを選択。
若狭街道を南下し、京へ着いたのは長政の裏切り発覚から3日後の事でした。
この時信長に付き従ったものは、僅か十数人と言われています。

当時の宣教師によると・・・
「信長は、自らに加えられた侮辱に対しては、懲罰せずにはおかなかった。」

その言葉通り、岐阜城に戻るや否や・・・
6月19日、岐阜城を出陣!!

3万の大軍勢で、小谷城に進軍!!
いよいよ、姉川の戦いの火ぶたが切って落とされようとしていました。

信長は、浅井長政討伐のため北近江に侵攻しました。
姉川の戦いの始まりです。
この時、戦いの舞台となったのが、浅井方の城・横山城です。南北8キロに連なる横山丘陵に築かれた山城です。
1570年6月24日、信長・横山城を3万の大軍勢で包囲!!
横山城は小谷城と佐和山城の中間にあり、落とせば城の連携が遮断され、浅井の防衛ラインを崩すことができる!!
しかし、横山城は南北8キロに及ぶ長ぼそい丘陵・・・。
包囲することは非常に難しい!!
織田軍は、長い丘陵地帯の横山城を包囲する為に、軍を分散配置せざるを得ない・・・!!
この法線を担ったのは、秀吉や柴田勝家ら精鋭部隊だったと考えられます。
同じころ、朝倉の援軍8000が到着!!小谷城近くの大依山に陣を構えました。
一方、信長本陣は横山城北端の龍ヶ鼻、徳川家康は岡山に陣を構えました。
姉川を挟んで睨み合う形となったのです。

6月27日、大依山の浅井・朝倉勢が動きます。
大依山の軍勢が動いたので、信長の目の前から浅井・朝倉勢が見えなくなったのです。
この時信長は、敵の動きをこう読んでいました。
小谷城への撤退行動だと・・・!!
浅井・朝倉勢が撤退したとすれば、横山城攻略に専念することができる!!

長政の考えは・・・??
合戦を短期に決めてしまうには、信長の首をとるのが一番早い・・・。
一か八かで狙ったのが姉川の戦いでした。
長政は、小谷城に撤退したと見せかけて、密かに信長の本陣を突こうとしたのです。
この時、信長の周囲にいたのは、家康と馬廻衆などで大きな軍勢ではない。。。

6月28日午前5時ごろ・・・浅井勢、姉川に到達。
信長の本陣に近づいていました。
そして・・・1579年6月28日、姉川の戦い開戦!!
信長の虚をつく、乾坤一擲の奇襲攻撃でした。
浅井軍の猛攻に推される織田軍!!
敵は姉川を越え、信長の御手前へ差し掛かり、推しつ返しつさんざんに入り乱れました。

この時、信長の本陣は、陣杭の柳にありました。
そこには、浅井家家臣・遠藤直経の墓がありました。
信長にせまり、あと一歩のところで討ち取られた武士と記録されています。
本陣から墓まで300m・・・長政の奇襲攻撃で、信長本陣が大混乱を起こします。
信長は、今川義元になりかねなかったのです。

長政の奇襲攻撃によって、劣勢になった信長・・・
撤退する??踏みとどまる??

1570年6月28日、姉川の戦い開戦。
この時信長は、長政の奇襲攻撃で、大苦戦を強いられていました。
しかし、信長は戦場を離脱することなく戦場に留まりました。
味方の援軍を待ったのです。

乾坤一擲の奇襲攻撃にかけた長政・・・しかし、信長の首がとれないとわかると、小谷城に撤退したと思われます。
横山城を包囲していた織田の武将たちは、信長本陣に・・・追撃を開始しました。
浅井・朝倉勢が退却したことで、孤立した横山城は、退却を余儀なくされました。
信長は、横山城を奪取することに成功したのです。

織田軍は、横山城を浅井攻めの足掛かりとして小谷城攻略を進めていきます。
結果的に、姉川の戦いの勝者は信長であることが有力となります。
ところが・・・戦いの僅か3か月後、浅井・朝倉勢が挙兵!!
比叡山を抑え、信長の京への上洛路を遮断したのです。
3か月にわって信長を苦しめたこの戦いを志賀の陣といいます。
それだけの余力があれば、姉川の戦いで余力があったのでは??と考えられます。

信長の危機を招いた姉川の戦いによって、信長は長政に対して更なる復讐の炎を燃え上がらせていくのです。

信長と長政・・・戦いは膠着したまま事態は悪化の一途をたどります。
畿内一円で反信長の火の手が拡大したのです。
姉川の戦いの後、石山本願寺や長島一向一揆など、宗教勢力の挙兵。
足利義昭の寝返り・・・戦国最強の武田信玄が反旗を翻す・・・。
信長包囲網が出来上がります。
こうした四面楚歌に追い込まれた信長は、強引な方法で難局に対していきます。

1571年9月、比叡山延暦寺焼き討ち。
これによって、信長の上洛路を脅かすものは無くなります。
畿内周辺の敵を各個撃破、長政の小谷城を孤立させていきます。

1573年8月、朝倉滅亡。返す刀で小谷城を包囲!!
信長軍の猛攻に、遂に長政切腹・・・享年29の若さでした。
小谷城落城の際、信長の妹・お市の方や、娘たちは救出されます。
しかし、長政の長男・万福丸は許されず、極刑に処せられます。

さらに翌年、信長に刃向かった長島一向一揆を殲滅。
降伏した者たちを皆殺しにしたばかりではなく2万もの農民が焼き殺されました。
信長の残虐極まる行いが記されています。
金泥を施した浅井長政、朝倉義弘のしゃれこうべを肴に、酒宴が催されたのです。
信長は、何もかもが思いのままになってまことにめでたく上機嫌でした。

浅井・朝倉滅亡の後、畿内周辺から信長に敵対する大勢力が途絶えました。
これを機に、天下布武の元、信長は領土を急激に拡大させていくのです。

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