「音もなく
匂いもなく
知名なく
勇名もなし
その功、天地造化の如し。」

姿も見せず、名も残さず、しかし、天地を造るかのように偉業を成し遂げる・・・。
その者達を、忍者と呼びました。

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映画や漫画に数多く存在し、孤高の強さを誇る忍者・・・
その忍者の履歴書が発見されました。

歴史の影に忍びあり!!

戦国から江戸にかけての300年余り、歴史の表舞台には決して現れず、常に裏の任務を遂行してきました。その実像とは???



もっぱら超人的なイメージのある忍者。
しかし、その忍者のイメージを覆す意外な忍術がありました。
“情報戦術”です。

屋敷へ進入せよ!!
その時は、“女の艶状”(ラブレター)もしくは“起請文”を持っていくこと。
見つかっても怪しまれない秘策です。


密書を配達せよ!!
魚屋に変身?!
人に紛れて日中移動します。
その際、密書は懐ではなく、魚のはらわたの代わりに中に。。。


情報を収集せよ!!
呑気に将棋、囲碁、和歌や俳句を勉強し、その土地々々に知り合いを作り、有力者に接近します。つまり、芸事を身に着け情報収集するのです。


芸人に弟子入りするのも一つの策。
各地を転々とし、能楽師となり場内に潜入することもありました。

そして、三大秘伝書の一つ「正忍記」には・・・
もっとも重要な極秘伝として・・・
「人不破習」がありました。
相手を論破したり、打ち負かしたりすると、それで関係は終わりになってしまう。
相手を時には持ち上げ、時には抑え、うまく利用するのが一番である。
としています。


相手と仲良くなる、関係を築くこと、人と人との関係をどう作り上げていくか?それは、現代にも通じるものがあります。

煙に巻かれてドロンは、ないのです。


表舞台に出ない忍びの役割とは???
しかし、痕跡を残さないのが最高の仕事とされています。
スパイであると同時に、超人的な能力も持っていました。
その一つが、城を乗り越える力。。。
城に乗り込んで謀略をする・・・
それは、人並みではできません。


伊賀出身で岡山藩に仕えた忍者の家の履歴書・萩野家「奉公書」には。。。
生きた忍者の姿が書かれていました。

その中に、リアルな忍びの姿がありました。

書き出したのは、萩野市右衛門。
戦国の世に伊賀で生まれた自分の祖先、守田三之丞の活躍に始まります。

一介の忍者だった三之丞は、信長の大軍と一戦を交えていました。
頭分で走り回り、信長の人数を多く討ち取った。とあります。
信長と互角?!
これが、伊賀者の名を世に知らしめる二度にわたる天正伊賀の乱です。

三之丞の故郷、伊賀には豪族たちが群雄割拠していました。そして、そこには特定の主を持たない戦闘集団があったのです。

その中で力を持った地侍が、忍びの始まりといわれています。
その忍びたちに大きく立ちはだかったのが、織田信長でした。
近畿地方のほとんどを手にしていた信長・・・
独立した伊賀は、目障りな存在でした。

まず、1579年、第一次伊賀の乱。信雄が1万の兵で平定に向かいます。
対する伊賀勢は、ゲリラ戦法で不意打ちを行います。
侍の常識が一切通じない、摩訶不思議な戦法に、信雄は、3000の兵を失い、撤退を余儀なくされました。

怒り狂った信長は、
「伊賀は化け物の国
 かの地に行ける者
 たとえ女・子どもと言えども
 いや狐・狸とて許すべからず・・・」と。

徹底的な合理主義者には、得体のしれないものと思っていたのでしょう。
2年後の1581年第二次伊賀の乱、信長が率いる4万5千の大軍が攻め入りました。

その時、部下を従え守田三之丞が迎え撃ちます。
その活躍は・・・

「西村の城は落ち
 近所平野と申すところの城へ
 敗軍の侍集まり
 五十騎ばかり立て籠り
 1日1夜持ち固めた」


数では劣る三之丞たちでしたが、奮戦・・・・
敗れては場所を写し、また敗れては場所を写し・・・
拠点を写し、しぶとく抵抗します。
なぜ、これほどまでに果敢に戦うことができたのでしょう?


その強さの秘密は山城にありました。 
丸山城は、実際に伊賀の乱で使われました。
石垣や天守閣はなく、山を削って本丸を築いた簡素な城でした。

でも、あちらこちらにゲリラ戦に有利な土塁、狭い道、急な坂道・・・
仕掛けがたくさんありました。
平地での戦いにはない、変幻自在の戦術こそが、強さの源でした。
そんな山城が伊賀には600以上ありました。


しかし、圧倒的な信長の勢力は、農民、女子供までも討ち殺し、村を焼き払います。
およそ2週間ののち、伊賀は全面降伏、村は焦土と化しました。
何とか生き残った伊賀者は、全国に散らばります。


この伊賀の戦いの生み出したもの・・・
それは、各戦国大名からのオファーでした。
つまり、忍者を全国へ広げたのが、伊賀の乱だったのです。


近畿の山間の次侍に過ぎなかった伊賀の忍が全国に名を轟かせます。
伊賀者たちは、有力大名のもと、“特殊部隊”として活躍していくのです。

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そもそも忍とは???
伊賀者・甲賀者は、忍者のブランドです。
日本各地には、地元の忍術流派がたくさんあります。
箱根には風魔・紀伊には根来衆・雑賀衆・・・

では、なぜ忍が生まれたのでしょう?
忍の地は山間が多く、土地がありません。
稲作で食べていけるはずもなく、山林で木を切って・・・重労働の中、生活していました。
木登りが超人能力の基礎だったのです。

おまけに、どこの秩序にもはまらない、伊賀者・甲賀者はアウトサイダー・・・
そんな化け物を、信長は恐れていたのでしょう。


三之丞はその後・・・
大坂冬の陣に登場します。
天下統一をめざし大阪城を攻める群衆の中に、三之丞がありました。
伊賀の乱ののち、全国を渡り歩きながら次々に主君を変える三之丞。。。

このとき、徳川方の岡山藩藩主・池田利隆に仕えていました。
そして、徳川方の忍びとして参加していました。
どうして、伊賀者が家康に仕えることになったのでしょう?
それは・・・

1582年京都
信長が、明智光秀に討たれた本能寺の変・・・
窮地に陥っていた家康。
家康は、信長最大の同盟者であり、その時大坂・堺にいました。
手勢わずか30名・・・
三河に帰郷しようとするも、光秀の押さえた京を通るのは不可能に近く・・・
甲賀・伊賀を越える山越ルートを選択します。
これをサポートしたのが、伊賀者でした。
伊賀者たちは甲賀と連携し、山賊たちから家康を守ります。
この時、警護に当たった伊賀者は190人、のちに家康最大の危機だったと言われる“神君伊賀越え”です。

これによって伊賀者は家康に能力を認められ、大坂冬の陣に参戦することになりました。
徳川軍19万4000に対し、豊臣軍9万6000。
圧倒的戦力でしたが、豊臣方の大阪城での徹底した籠城作戦に苦戦を強いられます。

三之丞が仕える池田利隆軍8000は大阪城裏手に・・・
三之丞が任された任務は瀬踏・・・
三方を堀で囲まれた大阪城を攻略するには、出来るだけ早く安全に川を渡ることが絶対条件でした。

瀬踏みとは、川を渡る際にどの部分が一番浅いか、最も効率よくわたる方法を割り出す最重要任務でした。
そして、いざ部隊が渡るときに、事前に調べた浅瀬を通り、対岸にたどり着かせるのです。
しかし、それは、命を落としかねないハイリスクな仕事でした。

三之丞は、夜陰に紛れて人知れず敵陣に忍び込み最適ルートを探索、命の保証はありません・・・

夜中に瀬踏をし
向かいに渡印をし
陣所へ帰った

任務をして帰ってきました。
そこには、強靭な肉体だけではない別の一面がありました。
川の近くの村人を利用して、浅瀬を教えてもらう・・・
瀬踏は、地元の人と同じ目線で話のできる忍たちが使われるのだそうです。


その後、冬の陣は和議が成立。
その時、忍びの特殊能力は、徳川家に欠かせないものになっていました。

その点でも、徳川は諜報大国でした。
どうしても情報収集に忍びが必要だったのです。


忍びはもともと、“素っ波・透っ波”と呼ばれ、戦国時代に武家に仕えました。かつては盗人・詐欺師を意味しています。
狂言なんかに出てきます。

身分が低く、卑しく、正規の“侍の技”とはみなされませんでした。
あくまで陰で、スパイが背負う宿命を生きていたのです。


守田三之丞の後を継いだのが、孫の萩野市右衛門。
携わった事件は・・・
1701年元禄赤穂事件勃発。

元禄14年3月14日、江戸城内松の廊下にて・・・
赤穂藩主浅野匠守が吉良上野介に斬りかかりました。
匠守は、その日のうちに切腹・城と領地が没収されました。
赤穂藩家老・大石内蔵助・・・
幕府の命令を聞き入れるのか城に立て籠もるのか・・・

その時、忍びたちが暗躍していました。

それは、隣の岡山藩。。。
赤穂藩が城に立て籠もれば、真っ先にとばっちりを食うのが岡山藩でした。
そこで、赤穂城下へ忍びを派遣し、徹底した情報収集をしていました。
どの情報が・・・手紙・書きつけが残っています。
その数、44通。岡山藩が、事件を気にかけていたかがわかります。

忍び・今中喜六が報告した書状によると・・・
「赤穂城下では
 百姓や町人が
 札場に集まり騒がしい」

札場とは、藩が発行している藩札を金や銀に替える場所のことで、そこが農民などでごった返しているというのです。
つまり、赤穂藩が取り潰しになるという情報は、広く知られていたのです。
庶民たちは、藩内でしか使えない藩札を銀に替え、次の藩主が入ってくる準備をしていました。

さらに忍びたちは、城の中の極秘情報も調べていました。
4月4日、忍び・瀬野弥一兵衛からの報告によると・・・
4月2日より、場内の台所道具・鑓・鉄砲・浅野家に伝わる宝物をどうするのか話し合われたことが残っています。
藩士たちは、身のまわりのものを現金に換え、“浪人生活”に備えていました。
強まる“城明け渡し”の流れ・・・
この騒動に対して、どのように対応すべきか・・・
方針を決めるために、忍びを派遣して情報収集をしました。


事態は収束に向かうと思われましたが・・・
4月12日の書状には・・・
「大石内蔵助ら同志の藩士が
 一時幕府の上使に恨みを申し立てた上で
 切腹する覚悟を決めた」
大石たちが切腹を考えていたというのです。
忍びたちは、その模様を正確に伝えていました。

そして、刃傷事件から1か月後・・・
大石たちは切腹をふみとどまり、赤穂城明け渡しを決断しました。
元禄赤穂事件の陰で、その情報能力を生かし、人知れず重要任務を果たした忍びたち。。。


その後天下泰平時代、忍びたちの生活もかなり変わってきていました。
神君伊賀越えの功労によって土地を与えられた伊賀者たちは、門番などをしていました。
この任務の依頼主こそ、服部半蔵正成です。
この服部半蔵は、忍びのまとめ役でした。
その名に由来する半蔵門は、甲州街道に面しています。
もし江戸城に火急のことがあった場合に、家康にお供して脱出させるという任務を負っていました。


では、地方の大名に仕えた忍びはどうだったのでしょう?
萩野市右衛門は1661年から岡山藩に勤め始めました。
伊賀衆が住んでいたのは、足軽たちの住んでいた場所・・・
高い地位ではなかったのです。

勤務内容は・・・
「元禄3年3月15日
 大坂へ囚人を遣わすので
 召し連れていき
 同28日に帰りました。」

「城下町付近見回り」
「火まわり」

日々の職務は町の見回りや火の用心・参勤交代のお供・・・警備員に変わっていました。 
給料制のお抱え忍者となっていたのです。
給料明細の忍びのページには、15人載っています。
市右衛門は、20石9斗5人扶持でした。
役人の中で、高いほうではありませんでした。
給料は全員一律、決して恵まれたものではありませんでした。


江戸時代中期に書かれた「甲賀忍之傳未来記」には・・・
木村奥之助のボヤキが残っています。
「現在70歳前後の者は、乱世を経験し
 実際に見聞して伝えていくことが出来るが
 それより若い者はそのように出来ない・・・
 忍びの未来が心配だ。。。」と。

技というものが伝えられない・・・
しかし、実際の生活の中でも“忍び”という意識がなくなってきていました。
薄れていく“忍びの心”。

市右衛門は、73歳で老いのため引退します。
最後の仕事は不寝番でした。

岡山藩は、その後も忍びを抱え続けます。

明治2年、家老の前に集められた忍びたちは“忍び役廃止”、お役御免となりました。
戦国から太平の世へ、そして明治・・・歴史の中に埋もれていった忍びたちがそこにはありました。


忍者の魅力は・・・
特定の主を持たないで、個別の契約で任務を遂行するということ。
忍者は傭兵、独立の自営業です。
その自由さが魅力なのです。

武士の形式美と忍者の秘する美。。。
奥深い日本がそこにはあるのかもしれません。

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