日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:安政の大獄

面白き
  こともなき世に
          面白く

幕末、長州藩を率いて幕府と戦った高杉晋作の歌です。
理想に燃え、仲間の死に涙し、そして無鉄砲とも思える勇気で時代を動かした男です。
明治維新の先駆けとして活躍した長州の風雲児・高杉晋作。
晋作の代名詞と言えば奇兵隊・・・
身分の枠を超えて兵を募集した画期的な部隊です。
最新兵器で武装し、変幻自在に戦いを仕掛ける奇兵隊・・・晋作は戦の天才と言われました。
しかし、戦場から戻れば和歌を嗜み、三味線にも興じました。
誰もが晋作に憧れたといいます。
一見、誰にも縛られない粋な風流人・・・
ところが、事実は全く逆でした。
武士の家に育った晋作には、常に家名を汚すなというプレッシャーが襲いました。
人生を教えてくれた恩師との早過ぎる別れ。
夢を抱いて習った西洋航海術も、モノになりません・・・!!
教師に意見が通らず、酒に溺れ、頭を丸めることも・・・。

しかし、時代は晋作を求めていました。
長州藩取り潰しを狙う幕府に対し、仲間に決起を訴えかけます。
最初はたった80人でした。
晋作がつけた小さな炎は、やがて長州藩全体を燃え上がらせ、大きなうねりとなって日本中に広まっていきます。
しかし、そのさ中・・・晋作を待ち受けていたのは不治の病でした。

1862年、江戸時代の末、限られた人しか外国に行けなかった時代・・・
高杉晋作は、船の上から上海の街並みを見ていました。
幕府が作ったおよそ40人の視察団に、長州代表として参加したのです。
晋作は、かねてから外国に行くことを望んでいました。
どうして海外を目指したのでしょうか?

日本海を望む山口県萩・・・
1839年、この城下町に高杉晋作は生まれました。
高杉家は戦国時代から藩主毛利家に仕える名家です。
晋作の父・小忠太も、藩主の傍で要職を務めていました。
晋作は、高杉家の跡取りになるために厳しく育てられました。
特に、父の言うことには絶対に逆らえませんでした。
しかし、外では負けん気の強い性格が抑えられず・・・

15歳の時、晋作は、父と共に江戸に向かいました。
そこで目にしたのは、巨大な黒船・・・!!
1854年、15歳の時ペリーが来航。
ペリーは軍事力を背景に、日本に開国を迫ります。
大混乱の江戸の町・・・晋作は、激動の時代の始まりを肌で感じていました。
西洋列強が日本に迫ってきているのが、黒船を見ることによってリアルに感じられました。
これからの日本という国の形が変わっていく・・・彼の中で大きなテーマとなります。
この時、高杉晋作と同じ長州藩の中に、黒船に密航しようとした者がいました。
吉田松陰です。
晋作より9歳年上の兵学者で、若い頃から藩主にその才能を称えられていました。

1857年、18歳の時に萩に帰って吉田松陰の松下村塾に通い始めます。
松下村塾には、幼馴染の久坂玄瑞、後の総理大臣の伊藤博文も参加していました。
塾には自由な空気が流れ、時間の制約もなく、身分の制約もない・・・
熱い議論を交わしたといいます。
世界の情勢についても学びます。
そんな中、松陰の唱えたのは攘夷論でした。
松陰は、日本は西洋列強に学び力をつけ、その力で西洋を打ち払う攘夷を行うべきだと主張しました。
しかし、松陰の訴えと過激な行動は、一般の人たちには危険な行為としか思えませんでした。
そのため、晋作の家族は松下村塾に行くことを禁じます。
しかし、晋作は深夜にこっそりと松下村塾に通ったといいます。
国防論についても尊王論についても現実的で、そんな話が晋作は心底好きだったのでしょう。
日本の国を何とかしなければ・・・という積極的な燃えている炎があったので、松陰に引き付けられたのでしょう。

1858年、19歳の時に江戸に再遊学
この頃、藩の上層部に海外留学の希望をかなえてほしいと強く願い出ています。

”お願いしておりました私の洋学修行の件、どうなりましたでしょうか
 一刻も早く取りかからないと、手遅れになります”

ところが、この海外渡航の夢にも暗雲が立ち込めます。
晋作が江戸に来た年、幕府による危険分子の弾圧・・・安政の大獄が始まりました。
そして、晋作の師、吉田松陰も江戸の牢に投獄されてしまいます。

晋作は、牢に入った松陰のため、文具や書物を工面するなど奔走します。
この頃、晋作が感銘を受けた松陰の言葉があります。

”死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし”

そして松陰は・・・過激な思想の持ち主として処刑されました。

”松陰先生の仇は必ず取る
 しかし、主君も父もいて、わが身はわが身のようでわが身ではない”

それからおよそ5か月・・・20歳になった晋作に、海外渡航のチャンスが巡ってきました。
幕府の軍艦教練所で航海術を学び、様式軍艦の訓練をせよと命が下ったのです。

”男子としてこの宇宙に生れたのだ
 筆や硯の家来などになっていられない”

しかし、毎日書き続けていた日記がある日から書かれていません。
航海術の勉強を放棄したのです。
理系の航海術が得意ではなかったようです。
航海術は挫折したものの、藩主の跡継ぎの側近となります。
そして今度こそ、海外へ行くチャンスが・・・
1862年、22歳で海外視察団の一員となります。
行先は、清国の上海・・・晋作22歳、遂に海外に飛び出す時が来ました。
病に倒れる4年前のことです。

幕末・・・身分制度に縛られた世の中に、新風を吹き込んだ人がいました。
武士から商人、浪人に至るまで身分を問わず志ある者で編成された革新的な集団・・・その名も奇兵隊です。
創設者は、高杉晋作です。
晋作はどうして奇兵隊を作ったのでしょうか?

1860年、20歳・・・上海に渡航する2年前・・・晋作は結婚しました。
相手は城下一の美人と言われた4歳下のマサでした。
晋作はマサと仲睦まじく、上海から手紙を送っています。

”無事にお暮らしとのことめでたく思っています
 長崎でめずらしい高価な反物を買って送りました
 しかし、どうかこの反物で作った着物や帯で人の多いところ、お祭りなどへ出かけないでください
 あなたが武家の立派な妻の手本となれば、私も安心です
 稽古事や和歌の勉強をしながら、家のことをお願いします”

1862年5月、上海に到着
しかし、目の当たりにしたのは、かつての大国・清の惨状でした。
イギリスにアヘン戦争で敗れた清は、外国人が所有する居留地を各地に置かれ、貿易の主導権を握られていました。

”清の人たちは、イギリス人が街を歩けばみな避けて道をゆずっている
 その上、ことごとく外国人にこきつかわれている
 実に上海の地は清に属してはいても、イギリス、フランスの属地といえるくらいのありさまだ”

更に晋作が驚いたのは、イギリス軍の設置した砲弾・・・最新鋭の兵器・アームストロング砲です。
日本にある大砲とはけた違いの威力・・・西洋列強に武力で対抗するには軍備が欠かせない・・・!!
帰国した晋作は、長崎のオランダ商館へ。
最新鋭の武器を買うためです。
現在の価値で10億円の軍艦の契約を、藩に無断で契約!!
しかし、藩の了承を得ることができず、軍艦が買えませんでした。

”国の情勢が切迫している・・・!!”

もはや一刻の猶予もならない・・・!!
晋作は、自らの手で外国人を攻撃し、攘夷を決行しようと考えます。
向かったのは江戸・・・!!
1862年12月、23歳の時・・・
久坂玄瑞や伊藤博文ら松下村塾の仲間たちと共に、品川のイギリス公使館を焼き打ちしました。
極秘に進められたこの計画は、犯人が晋作たちだと判明するのは、明治時代になってからです。

晋作は、長州藩に攘夷のための軍備を主張し続けましたが、なかなか理解が得られません。
自暴自棄になる晋作・・・。
23歳の時、藩の要職を辞して休職・・・さらに、晋作は武士の命である髷を落とし、頭を丸めてしまいました。
酒を飲んではどんちゃん騒ぎの毎日・・・その胸には、むなしさと焦りが渦巻いていました。

”空しく月日を送り 愚か狂か 智か節義か
 なんだか訳も分からぬ人物にあいなり”

そんな中、ある事件から晋作の主張が認められるようになります。
1863年、23歳の時・・・下関事件です。
長州藩は下関を通る外国船を砲撃しました。
長州藩としては、外国船を打ち払い、攘夷を実行したのですが・・・
しかし、すぐに外国船から砲撃を受け、蹴散らされてしまいます。
初めて列強の武力に直面した長州藩・・・軍備の重要性を思い知った上層部が、晋作に意見を求めてきました。
この時、晋作は新しい部隊の新設を進言します。

”有志の士を募り、一隊を創立 名付けて奇兵隊と云わん”

奇襲をかけるなど敵の不意を打つための部隊という意味です。
武士だけで戦うには限界がある・・・戦いに長けたものを広く集め、武士ともども戦闘部隊にしようという考えでした。
志があればだれでも入隊ができる・・・
中での扱いも身分の上下はない、実力で決めていく・・・!!
後に庶民も入ってきて、それを軍事力として利用していきます。
封建社会を壊す一つのステップになりました。

1864年、25歳の時に四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊が下関に来襲。
前年に行った長州藩の攻撃に対し、更なる報復に出てきたのです。
この時、晋作の奇兵隊も初陣を飾ります。
しかし、圧倒的な戦力の四国連合艦隊にあえなく惨敗・・・
そればかりか、沿岸の砲台まで占拠されてしまいました。

追いつめられた長州藩は、戦いを諦め停戦交渉を行うことに・・・。
圧倒的に不利な仲での和平交渉に誰もがしり込みします。
結局、頼りにしたのが晋作でした。
藩の全権を任された晋作は、船に乗り込みます。
その姿は、家紋が入った直垂、黒の烏帽子・・・家老の正装でした。
居並ぶ提督たちに格で負けないように家老の息子だと偽っての交渉でした。
列強の代表は、安全な航行のための砲台撤去や、補給のための下関港への立ち寄りなどを求めます。
その上、300万ドルという巨額の賠償金を求めてきました。
これは、長州藩の年間予算の10倍でした。

こんな大金を払えば、藩の財政は壊滅・・・強硬な姿勢を崩さない外国人を前に晋作は言い放ちます。

”長州には、主君の為に命を捨てることなどなんとも思わないものが大勢いる
 もし、戦争を続けるというのならば、最後の一人になるまで戦うつもりだ”

この晋作の気迫の前に、賠償金は一銭も払われませんでした。
藩の存亡をかけた停戦交渉に成功した晋作、この時25歳。
病に倒れる1年前のことでした。

1864年12月、長州藩が幕府の圧力に屈しようとしている中、晋作は反乱を起こします。
晋作の呼びかけに応じたのは、最初はわずか80人ほど・・・長州藩は2000もの兵を動かし反乱を押さえようとするものの、戦いが進むにつれて晋作に共感するものが増え・・・800人にまで膨れ上がりました。

1864年7月、長州藩は、兵を率いて京に上りました。
御所で天皇に嘆願し、長州の地位回復を狙ったのです。
そこで、御所を警備する有力藩と激突・・・禁門の変です。
この戦闘で、長州藩は敗北し、晋作の仲間も命を落とします。
その中には松下村塾で共に学んだ久坂玄瑞もいました。

”後れても後れてもまた
 君たちに誓いし言を
 吾忘れめや”

この事件をきっかけに、幕府は長州征討を決定!!
15万を超える兵を動員します。
この動きに対し、長州藩は真っ二つに割れます。
幕府に抵抗し戦いも辞さない抗戦派と、幕府に謝罪して従うべきという恭順派です。
晋作は、抗戦派を支持していました。
しかし、藩の存続を優先するべきという恭順派が主導権を握ることとなります。

長州藩は幕府に従う証として禁門の変に関わった家老3人を切腹させ重臣たちを処刑しました。

”処刑の知らせを聞き 胸中やけるがごとく
 藩が受けた辱めをそそぎたい”

もはや武力決起しかない・・・!!
晋作は、奇兵隊の元へ・・・!!
晋作は隊士たちに恭順派の打倒を訴え決起を促します。
しかし、それに応える者はいませんでした。
この時奇兵隊は、自分たちの地位を保証してもらう代わりに藩の方針に従うという約束を交わしていました。

”この腰抜けどもが!!
 ぼくは毛利家300年の家臣だ
 たとえこの身が打倒されようと忠義を尽くす”

晋作が次に向かったのは、松下村塾の同志・伊藤博文の元でした。
この時伊藤は、下関で力士隊を率いていました。
伊藤は晋作の訴えに共鳴します。
他の部隊からも続々と集まってきました。
晋作は、約80人あまりの同志と共に決起します。

自分が死んでも自分の志を誰かが引き継いでくれるだろう・・・!!

”下関の鬼となり討ち死にする覚悟
 これより長州男児の肝っ玉をお見せする”

晋作は下関の役所を狙い、占拠することに成功。
この騒ぎを聞きつけた商人が資金援助を申し出ます。
次に晋作は、長州藩の海軍局へ・・・そこで軍艦三隻を手にします。
一方奇兵隊にも変化が・・・藩に反旗を翻します。
やがて奇兵隊は、晋作の隊に合流・・・
晋作がつけた決起の炎は、800人にまで燃え広がりました。
1月7日、ついに奇兵隊と藩兵が激突!!
最新式の銃を使いこなす奇兵隊は圧倒的勝利をおさめます。
すると藩の上層部に変化が・・・。
晋作の主張を受け入れなければ内乱はおさまらないと判断し、恭順派が更迭され始めます。

そして決起から40日後・・・藩主は徹底恭順の方針を撤回。
幕府へは恭順の意を示すもののもし攻撃を受ければ最後の一兵まで戦い抜くという武備恭順の方針を固めます。
この決起をきっかけに、晋作は長州藩の指導者の一人になるのです。

晋作が25歳の時に、マサとの間に待望の長男が誕生します。
名は梅之進・・・自分の好きな花の名で、溺愛しました。
しかし、晋作には家族と共に過ごす時間は残されていませんでした。
1865年9月、長州藩が敵対的な態度に変わったことを察知した幕府は、再び長州征討に乗り出します。
長州藩は徹底抗戦の構え・・・幕府との戦いの大義名分を文章にして民衆に示し、士気を高めていきます。
長州藩全体が沸き立つ中、25歳の晋作は、原因不明の病にかかっていました。

”腹痛がひどかったが、少し良くなった
 征長軍との戦いまでは命を保ちたいと鬼神に祈っている”

1866年6月7日、幕府軍は長州藩を取り囲み、四方向から攻めてきました。
長州藩の存亡をかけた戦い・・・幕府軍の兵数は、長州軍のおよそ50倍だったともいわれています。
しかし、晋作は怯むことなく最前線で指揮を執り、敵艦に奇襲をかけています。
小型の船を使った奇襲は大成果を納め、200隻余りを焼き払いました。
これをつぶさに見ていたのが土佐の坂本龍馬です。
龍馬は長州藩に味方し、軍艦を率いて参戦していました。

”晋作は兵士たちを鼓舞し、敵を打ち破り敵陣の陣幕屋旗などを奪っていった”

6月22日・・・激戦のさ中、晋作は突然倒れてしまいます。
不治の病と言われた肺結核でした。
それでも晋作は、病床で作戦会議を行います。
敵を蹴散らし進めと長州男児たちを鼓舞し続けます。
しかし、病は悪化・・・
喀血を繰り返すようになり、8月には戦線離脱、下関にある友人の家で療養することに・・・

晋作が最前線で戦う仲間に送った手紙は・・・

”進撃や勝利に大変喜んでいます
 体調は日々よくなっていますが、戦場に赴くほどではありません
 ご笑殺ください”

この頃、晋作を看病したのは愛人のうのでした。
元々下関の芸者だったうの・・・晋作が口説き落として一緒に暮らすようになったともいわれています。
うのは優しい性格で、正妻のマサといがみ合うこともなく、明治になっても二人の交流は続いたといいます。
そんなうのの看病の会もなく・・・晋作の病状は悪化の一途をたどります。
余命いくばくかの晋作の元へ、萩からマサと梅之進がやってきました。
医者が最後の別れに呼んだのです。
この時晋作はこう言います。

”しっかりやってくれろ・・・しっかりやってくれろ・・・”

そんな晋作の心の支えになったのはアルバムです。
そこには松下村塾からの盟友伊藤博文をはじめ晋作と深くかかわった人たちの写真が・・・
それだけではなく、アメリカ合衆国16代大統領のリンカーン、イギリスのビクトリア女王の写真まであります。

翼あらば
 千里の外も飛めぐり
よろづの国を
   見んとぞおもふ

1867年4月13日、晋作の命の炎が静かに消えました。
27歳でした。
最晩年に詠んだ歌が残っています。

面白き
   こともなき世に
          面白く

晋作がこの世を去ってから半年後・・・日本は明治維新を迎えます。

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一期一会を始めて書物に記したのは、徳川幕府の大老・井伊直弼。
幕末の混乱期に、多くの人間を死に追いやった男です。

大老という地位に上り詰め、安政の大獄で多くの命を奪った男・・・
そこには、冷酷な独裁者なイメージが付きまといます。
しかし、日本を救った人物??
もし、直弼が開国を決断しなければ、西欧列強に占領されていたかもしれない・・・??

冷酷な独裁者か?先見の明のある英傑か??

彦根城のすぐそばに、邸があり、そこで井伊直弼は青年時代を過ごしました。
その屋敷は「埋木舎」とよばれ、自らを埋もれ木と表し、世に出ることなく朽ち果てるという意味を込めたものです。
どうして直弼は自らを埋もれ木に例えたのでしょうか?
井伊直弼は、1815年彦根藩第11代藩主・直中の子として生まれます。
井伊家・・・彦根藩の初代は直政で、直虎の養子とされています。
直政は、徳川四天王として活躍し、その功績として彦根藩を任されました。
そして、幕府において代々重要な役職を担うこととなります。
そんな名門でも、直弼は14男。
将来、彦根藩主の見込みはありませんでした。
それでも、城内にある御殿で何不自由なく暮らします。
1831年、17歳の時に父が亡くなります。
すると境遇が一転・・・末っ子の弟とふたり場外の屋敷に移されて質素な生活に・・・。
井伊家では、世継ぎ以外は他家の養子になるとされ、僅かなあてがい扶持しかもらえなかったのです。
そんな直弼に・・・1834年、20歳の時に養子縁組の話が舞い込みます。
しかし、待っていたのは厳しい現実で・・・養子になったのは弟でした。
直弼は、ただ一人「埋木舎」に取り残されることとなりました。
7万石の世継ぎとなった弟・・・直弼は300俵のあてがい扶持で生活し続けるしかありませんでした。
そんな直弼が、自らの決意を語ったものがあります。

”世を厭うにもあらず
  望み願ふこともあらず
    ただうもれ木の籠り居て
       なすべき業をなさまし”

なすべき業・・・それは、幅広い分野に・・・
武芸では居合の新派を創立。
焼き物を手掛け、能や狂言においても自ら作品を作ります。
そして、最も力を入れたのが茶の湯でした。
技や姿かたちを重視する風潮が強い中、禅に通じた直弼は内なる心を重視・・・一期一会の言葉を残します。
埋もれ木のような生活を送りながら、柳の木に安らぎを求めます。
和歌の題材にしたり、自分の雅号を”柳王舎”と名乗りました。
大元の幹さえしっかりしていれば、柳葉は時流に流されても原点さえ失わなければ・・・

直弼のもとに一人の女性が現れます。
村上たか・・・直弼より6歳年上で、京都・祗園の芸子でした。
直弼がたかに送ったラブレターも発見されています。

 名もたかき
   今宵の月は 
      みちながら

 君しをらねば
   事かけて見ゆ

孤独の時代の直弼にとっては、本当に大事な花だったのです。
17歳で始まった埋木舎での生活は、その後15年続きました。
井伊直弼32歳の時大きな転機が・・・
藩主・直亮の後継者となっていた11男が病気で亡くなりました。
すでに、他の者たちは養子に出されていたので、一人残った直弼が彦根藩の世継ぎとなったのです。
あてがい扶持300俵から彦根藩30万石の世継ぎとなったのです。
大出世でした。
ついに苦労が報われた直弼・・・
「此度の昇進は尋常なことではない。
 実に不思議なことだ。」
世継ぎとなった直弼は彦根藩を代表し、江戸で暮らすことに・・・
ところが、相変らずの貧乏暮らし・・・
藩主である兄・直亮に良く思われていなかったのです。
徳川家第11代将軍家斉の法事の際には、着る者がなく仮病で欠席!!
それでも直弼は、物事の筋を通す人間として、幕府内で評価をあげていきます。

この頃、後の直弼の決断に大きな影響を与える出来事が・・・
外国艦船が増加したことを受けて、彦根藩は、三浦半島の沿岸警備を担当!!
しかし、その実態に直弼は衝撃を受けます。
天下泰平が250年間続く中、武士たちの士気は下がり、警備体制はお粗末なものとなっていました。
しかし、世継ぎという立場の直弼にはどうすることもできませんでした。
世継ぎとなって4年・・・36歳の時に兄が亡くなります。
直弼は、13代藩主に!!
その直弼を支えたのは、家臣の儒学者・中川禄郎でした。
中川の教えを元に、家臣や人々の声に耳を傾けていきます。
”いのちの限り、家中・領内の者どもを大切にする
 私は士民を頼り、士民は私を頼る
 上と下が水と魚のように一体となり、歴代藩主の栄名を汚さないようにしたい”

直弼はいくつかの前例に基づいて前藩主の残したお金を人々に分け与えます。
その金額、15万両!!それは、彦根藩の1年間の収入に当たりました。
自ら領内をくまなく視察。
生活困窮者には食べ物を与え、病気の者には同行の医者の診察を受けさせました。
この直弼に感動したのが・・・後に直弼の命で処刑されることとなる吉田松陰です。

彦根藩主となって3年・・・39歳の時、井伊直弼は思いもよらない出来事・・・黒船来航!!
日本に開国を求めるアメリカ!!
この時、直弼は開国止む無し!!という方針を打ち出します。
どうして・・・??
黒船が現れたのは、彦根藩が警備を担当していた三浦半島でした。
その軍事力のすさまじさは、直弼にも伝えられます。
開国を迫るアメリカにどう対処するのか・・・??
家臣たちに意見を求めます。
その多くが開国に反対する中・・・開国に賛成したのは、儒学者でもあった中川禄郎でした。
儒学者として蘭学者と交流のあった中川は、世界情勢にも精通していました。
沿岸警備のお粗末さを痛感していた直弼は、中川の話を聞いて今戦っても勝ち目はないと心を決めました。

「しばらくは戦争を避け、貿易を行うべきである。
 勇威を海外に振るうことができるようになれば、内外共に充実し、かえって皇国安泰になるはずである。」

現状では軍事力、国力共に圧倒的に負けている・・・
一旦開国し、海外から知識・技術を取り入れ、富国強兵する必要がある
海外と対等な関係になること・・・それから海外へ雄飛する!!

いったん開国するしかないという顔助の考え・・・しかし、他の大名の賛成を取り付けるのは困難で・・・
特に強硬反対していたのは前水戸藩主・徳川斉昭、幕府の海防参与を務めていました。

「外国と戦うことを決意の上 
 武士はもちろん、農民・町人にも覚悟を求め、日本の心力を一つにすべきである!!」by斉昭

水戸藩といえば徳川御三家の一つで、大きな影響力を持つ斉昭は敵に回すと恐ろしい存在でした。

「考えていたよりも難しい事態となり、この先どうなるか心配である。
 水戸殿に睨まれているので、どんな災難が待ち受けているかわかったものではない。」by直弼

結論だ出ないまま・・・1856年、直弼42歳の時にアメリカ総領事、タウンゼント・ハリスが開国を迫ってやってきました。
そこには、欧米列強の植民地争いがありました。
イギリス・フランスが清との戦争に勝利したことによって、アジアでの拠点確保をしたいアメリカが焦りを感じていたのです。
開国止む無しと考える大名が増えてくる中、徳川斉昭らは反対!!
井伊直弼は、開国を説得する為に孝明天皇の勅許を求めます。
勅許は得られると思われましたが、天皇からの返事は・・・

「御三家以下 諸大名で再度衆議した上で、改めて言上するように。」by孝明天皇

戦えともいわない、協約調印をしろともいわない朝廷・・・。
事態が緊迫する中、大老に就任する直弼。

「国家の危機につき、粉骨砕身の覚悟で忠勤に励めとのこと ありがたく思う。」

大老になったとはいえ、独断で物事を進めようとはせず、反対派を説得します。
しかし、斉昭は・・・
「万一、外国の圧力に押され、鎖国を辞めるというのであっては、朝廷・徳川家に対して忠義を尽くしたとは言い難く、国の行く末に関わる重大ごとである。」by斉昭

そんな中、ハリスがこれ以上待てないと忠告してきました。
苦渋の決断をする直弼!!
「なるべく引き延ばし・・・その節は致し方なし!!」by直弼
結局、勅許も得られないまま、反対派も説得できないまま・・・1858年、44歳の時に日米修好通商条約成立!!

「もし外国と戦って敗北し、侵略されることになれば、これ以上の国辱はない。
 しかしながら、勅許を待たずして条約を結ぶという重罪は、甘んじて自分一人で受ける決意である。」by直弼

ところが近年、この言葉が改ざんされていたことがわかりました。
今までの「公用方秘録」は、明治になってから根本的に改ざんされたもので、井伊家にとって都合の悪いことが書いてある唯一残された資料です。
条約締結の夜に側近としたやり取りには直弼が本音を漏らしていました。
「諸大名の意見をまとめずに調印したとなると、天皇の逆鱗にふれることになります」by側近
「いかにもそこには考えが及ばなかった・・・無念の至り・・・。
 このうえは、大老を辞職するより致し方なし。」by直弼

日本画鎖国している間に、世界では産業革命→蒸気船→軍事力の強大化
イギリスは強大なインドを軍事力と科学力で植民地にしてしまいました。
インドで栽培したアヘンを中国に売りつけ、アヘン戦争!!抗議してきた中国を戦力で叩き潰します。
戦争の結果、香港がイギリスに割譲。
その尻馬に乗ったのがフランスで、アロー戦争!!
その頃日本では、北方にロシアが・・・
そしてアメリカは・・・アメリカにとっては、太平洋を渡ってアジアの入り口となる日本に開国し、貿易の基地にしたかったのです。

日米修好通商条約締結から3か月・・・
井伊直弼は安政の大獄に乗り出します。
この大弾圧は、後に自らの死を招きます。
どうして安政の大獄を行ったのでしょうか?
開国問題で揺れている頃・・・徳川斉昭と別の問題でも対立していました。
将軍継嗣問題です。
時の将軍第13代徳川家定には子供がいませんでした。
そこで後継者として直弼が推したのが家定と近い紀州藩・徳川慶福でした。
一方斉昭は、自分の息子で一橋の養子となっていた一橋慶喜を。。。次の将軍に据えようと画策していたのです。
この争いに勝つために・・・一橋派の役人を徹底的に左遷!!
優秀な開国の交渉担当者すら左遷!!
結局、この争いは、直弼が大老に就任したことで決着!!
将軍継嗣は紀州藩の徳川慶福でした。
今や、直弼の政治は盤石になったと思われましたが・・・
その基盤を揺るがす一通の書状が・・・”戊午の密勅”です。
記したのは天皇・・・直弼が独断でアメリカと条約を結んだことを非難するものでした。

「幕府の独断で条約調印を行ったことは、軽率な取り計らいである。
 これからは、御三家を始め、諸大名で衆議して事態に当たるように。」by孝明天皇

直弼が衝撃を受けたのは・・・内容もさることながら、これが対立する水戸藩に先に送られたことでした。
幕藩体制の下では、朝廷の意向は幕府が受け止め各藩に伝発する決まりでした。
それが破られるのは、前代未聞のことでした。
このままでは幕府の権威が・・・!!と恐れる直弼。

「天皇の威光をかさに着て、水戸が権威をつけようと企てるのを許せば、国家の争乱を招くことになる。」by直弼

1858年9月3日、直弼は、戊午の密勅を出すように天皇に働きかけた人物を徹底的に弾圧することに・・・!!
憎むべき悪人たちを厳重に取り調べし、悪だくみを明らかにした暁には、天皇を思うままに操る役人を取り除けるはずである。
安政の大獄が始まりました。
関係者を探し出すにあたり、京都で暗躍した女性が・・・かつての恋人・村山たかでした。
直弼が藩主になってから別れていたものの、影で直弼を支えていました。
その後、安政の大獄における弾圧の対象は、密勅の関係者以外にも拡大。
かつて、直弼を称賛した吉田松陰も犠牲に・・・
この弾圧によって直弼は、赤鬼と呼ばれるようになりました。

こうした直弼の行動に水戸藩の武士たちは激怒!!
その時、徳川斉昭が思わぬ行動に・・・怒る藩士たちを抑え込みます。
水戸藩士たちは、藩外でも活動を始めていて、斉昭も止める方法が無くなってきていました。
これ以上、過激な行動を起こすな!!
この意見に不満を抱いた者たちは、水戸藩を脱藩!!
江戸へと向かいます。
例年なら桜の咲き始める頃・・・江戸では季節外れの雪に覆われていました。
そして・・・桜田門外の変!!
桜田門から江戸城に入ろうとしていた直弼は、水戸脱藩浪士たちに襲われます。
1860年3月3日・・・井伊直弼死去・・・享年46歳でした。

この日、直弼の元には、命の危険を知らせる手紙が投げ込まれていました。
しかし、それを誰にも告げず、警備を増やすこともありませんでした。

「従士の数は、幕府の定めるところであって、大老自らこれを破っては他の大名に示しがつかない。
 人にはそれぞれ天命があり、刺客が余を倒そうとすれば、たとえいかほど用心しても隙は生まれるだろう。」by直弼

季節外れの雪の中・・・桜田門外で46年の生涯を閉じた井伊直弼。
死の前日に詠んだ歌は・・・

咲きかけし
  たけき心の 花ふさは
ちりてぞいとど 香の匂ひぬる

道半ばではあるが、国のための必死な思いは、いつの日か人々につたわるであろう 

桜田門外の変によって、幕府の権威は大きく失墜しました。
薩摩、長州を中心とした討幕が加速します。
将軍・徳川慶喜は、大政奉還によって政治の実権を朝廷に返還。
260年にわたって井伊家が支え続けてきた徳川幕府の時代は終わりました。
そして、井伊直弼は明治新政府から悪人のレッテルをはられることとなります。
しかし、明治時代の終わりには、直弼を再評価する動きも・・・
直弼の決断によって開港した横浜。
その開港50年を記念して直弼の銅像が建てられました。
日本の行く末を案じ続けた直弼・・・その後の日本の歩みをどう見ているのでしょうか?


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赤禰武人・・・長州の奇兵隊第三代総督をつとめた男・・・
「不忠不義の至り」と断罪されて刑死しました。
冤罪だという声もあるにはありましたが・・・長く捨て置かれてきました。

kane
こちらが本人です。

akane


花燃ゆでは、阿部亮平さんが演じてくれています。

こんなに笑っていますが、実は、いわゆる奇兵隊の闇を一人で背負ってくれています。




柱島の島医師・松崎三宅の次男に生まれたといわれています。
15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に学び、月性の紹介で浦靱負の郷校である克己堂で学びます。

1856年、15歳の時に短期間でしたが松下村塾で学びました。
その後、長州藩重臣浦家の家老・赤禰雅平の養子となり、陪審ながら武士の身分を手に入れ・・・梅田雲浜の望南塾に入塾します。

安政の大獄で捕縛されるものの、釈放され帰郷。
その後、吉田松陰らに相談し江戸において雲浜の救出を試みるが失敗、藩から謹慎処分を受けています。
1862年4月に謹慎が解かれると、松下村塾メンバーと共に尊王攘夷活動に・・・。
英国公使館焼き討ち、下関戦争に参加、その後、第三代奇兵隊総督となります。

1864年の第一次長州征伐のあと、藩内の幕府に俗論党(椋梨藤太・恭順派)VS正義派(奇兵隊などの主戦論派)の融和を図ろうとしますが、それが二重スパイの疑いをかけられることとなり、いろいろあって高杉らと対立するのでした。
ようやく奇兵隊を残すこととなったのに、高杉晋作またもやの暴走!!

武人は、同志から俗論派のスパイ、裏切り者と疑われ・・・そのせいで脱藩して大坂に逃走!!
その後も、一人で長州藩を何とかしようと頑張りますが、長州藩士に捕縛されて・・・
山口に送られるも、一度も詮議されることなく・・・
「奇兵隊総督当時に、馬関戦争に於いて敵前逃亡した罪」によって斬首され、首級は、出合河原に晒され・・・むごい最期を遂げるのです。

武人の獄衣の背には・・・

「真は誠に偽りに似 偽りは以って真に似たり」

と書かれてありました。

その死に山縣狂介(有朋)が関わっていたという説もあるのですが・・・この花燃ゆではどう描かれるのでしょうか??
もしかして描かれない???

奇兵隊は、上下の関係のないフラットな集団みたいな感じがします。
が・・・本当はそんなことは全くなく・・・
変な言い方になりますが、武士という”くくり”のない集団。。。
粛清に粛清を重ねた新選組の方が、当時の荒くれ者を管理するのには当たり前な感じがします。

もしかすると、闇の部分はこの赤禰武人が全部持って行ったのかもしれません。。。


奇兵隊150年 奔走する幕末最強集団はこちら

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黒船来航・・・200年以上に及ぶ鎖国状態にあった日本に、列強が開国を迫った。。。
江戸幕府大老に就任した井伊直弼は、通商条約締結は避けられぬものと、開国へと舵を切る。
一方、開国に反対する勢力は、天皇を中心として京に集結。
外国を打ち払うことを主張した・・・。

開国か攘夷か??
途方もない嵐が、この国に吹き荒れようとしていた。。。

ということで・・・前回・・・新婚早々の玄瑞も、萩を飛び出して江戸へと向かうのでした。


江戸へとせっせと手紙を認める文。。。
松下村塾にも、いろんな塾生が増えてきました。

江戸の玄瑞に手紙を書くために・・・店先で紙を探していた文は。。。
一人の少女・キクに出会います。

少女が母親とはぐれてしまって・・・
その少女の母親は・・・松下村塾生・小野為八の医者である父親・山根文季のもとにいました。
コロリを発症して・・・!!
長崎に停泊中のミシシッピ号から発生し・・・東に広がってきていました。

hana4












街中がコロリになる前にどうにかしなければ・・・!!

その頃、寅次郎は・・・
コロリで揺らぐこの国が怖いという・・・
薬すら手に入らないこの国で、外国の脅威に晒される・・・。

春庵先生の看病も虚しく・・・次々と死んでいく患者たち。
その中には、キクの母親もいました。

病に打ち勝つ西洋の智識が必要なのに、外国に慄く人々・・・。
しかし、天子様の許可なく条約を結ぶことはできない・・・!!

が、井伊は、勅許を待たずに日米修好通商条約を結んでしまいました。

hana2













今こそ敵をビビらせるために・・・!!

長崎で兵学を学んできた小野為八は、新しい武器を・・・地雷を作ろうと考えます。

その頃江戸では・・・
玄瑞が京へ行きたいと懇願していました。
井伊様が天子様を彦根に移すのでは・・・??と、噂が立っていたのです。
医術を学ぶために来たはずの玄瑞・・・藩命に背くことは重罪でした。

志のために萩を出た玄瑞・・・どうする??
あ~、師匠よろしく、許可も得ずに京都に向かってしまうのでした。

自分に今できること・・・。
天涯孤独の身となったキクに字を教えようと思った文。。。

hana













そう、一人でも生きていけるように。。。

この頃、幕府に危機感を抱いた寅次郎は、一つの建白書を書き上げます。
そこには・・・”公方様を討て”と書かれてありました。

そんな過激な文がご公儀に知れたら・・・??
我が藩に謀反の疑いがかかると焦る周布政之助と長井雅樂。

寅次郎の憂慮が真か偽か・・・??

様子を見に松下村塾にやって来た伊之助・・・。
そこで、試行錯誤していた爆弾が破裂・・・!!
新しい武器を作ろうとしていることを見てしまったのです。

もう止められないのか・・・寅次郎を・・・!!

その頃京では・・・玄瑞が梅田雲浜に会っていました。
朝廷や他藩の動きを探るため・・・攘夷のために・・・!!
そこへやってきたのは高杉晋作。
「せめて・・・お文さんに手紙を書け・・・」
??そんなこと言いに来たんかい・・・??
と、思っちゃいます。。。

ちなみに・・・高杉晋作が京都に来たのは・・・
父の小忠太が松下村塾から引き離す為に願い出た&寅次郎も世間を見せてやりたかった
という、父と師匠の違う思惑から・・・でも結果は同じというおかしなことから京都に行ったと思われています。

ま、今風に見ると、一夫一婦で当たり前の時代ですが・・・
当時の志士たちは、故郷に妻を残して、京都に女性を囲うなんて当たり前。
ひとりの女性を想う気持ちがここまであるのかなあ・・・??なんて気もしますが・・・
そう思うと、文さんの周りにはたくさんの良い男がいたのに、不器用な朴念仁を選んだのね・・・。

キクは引き取られていきました。


遂に地雷火を完成させた小野。。。
明け方、河原で実験をしたいと寅次郎に申し出ました。

「この国のお役にたてるかどうか・・・みなさんに見極めていただきたいのです。」

私達の新しい第一歩のために・・・!!
すぐに準備を始めるという塾生たち・・・

しかし・・・

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小野の父・山根文季はコレラにおかされていました。
異国に負けないために・・・!!

医術に命を懸けて落とした山根文季の命・・・

医術も捨て、兵法に打ち込んできた小野・・・。
これを新しい世を造るために・・・!!

コレラも異国のせいなのか??
そう問う文に、寅次郎は・・・

「戦いとはただ戦のことを言うんではない。
 戦いとはふっしない心をもつことを言うんじゃ。。。」と答える寅次郎。


爆弾の爆破実験をみたいという・・・
旦那様が進む道なら・・・その道を見て見たいという文。


そして・・・父のつもりで見て欲しいと寅次郎に懇願する小野。。。
謹慎中の寅次郎を背負って・・・

hana3















しかし・・・いつの間にか松陰は走りだしていました。

「この一歩は・・・いずれ・・・!!」by寅次郎

文は・・・
遠くに立ち上る黒い煙を見ていました。

「旦那様・・・あれは如何なる火になるんでしょう。。。」

久しぶりにあった玄瑞からの便り・・・

「昨夜・・・ふとお前の顔を思い出そうと思うて、しばらくじっと考えとった。
 いつの間にかそのまま眠ってしもうた。
 夢の中のお前は、それはそれは楽しそうで幸せそうで・・・。
 いつまでもその顔を見ていたいと思うた。。。」

これから・・・どんな荒波にのみ込まれていくのか・・・
安政の大獄が近づいてきていました。


松陰を慕って・・・門下生が増えていく中・・・
遂に安政の大獄が近づいてきていました。
もちろん、
女性目線で書いているこの大河・・・大河と思わなければとっても楽しい作品だと思うようになりました。
ちなみに幕末嫌いのパパ、どうして嫌いかというと・・・”殺伐としているから”。
でも、この大河は殺伐としていないので、結構楽しんでみています。

なので、私もちょっと目線を変えてみようかな?と、思い始めています。

が・・・この、安政の大獄が近づくにつれて。。。
門下生が止めても止まらない松陰先生が始まるのです。
そうなると・・・思想的に変わっていき様をもっとやって欲しいかな??なんて思っちゃうんですよね。

でも・・・楽しみなのは楽しみになってきました。
それは・・・時代が面白いから??

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186033日・・・


銃声を合図に・・・前代未聞・・・白昼江戸城の前で最高権力者が殺されました。

雪景色は見る見るうちに赤く染まりました。

殺されたのは井伊直弼・・・桜田門外の変です。ii











幕末維新の政治家たちは・・・

「その責任を全く一人に帰化し隻手狂瀾を挽回せんとす」勝海舟

「国難に臨んで 天 英雄を生じ これ英断を為した」大隈重信

と褒めています。

その一方で、井伊の赤鬼と呼ばれていました。

はたして、近代化を導いた改革者?独断専行の鬼?どちらだったのでしょうか?


江戸幕府最後の大物政治家・井伊直弼、そのキャリアはわずか10年でした。
混乱・激変していた時代・・・

185011月彦根藩主に就任。

藩祖は、徳川四天王の井伊直政。赤備えの甲冑で有名です。

以来、譜代大名筆頭としてありました。

200年の徳川幕藩体制を根底から覆す事件が起こります。

185363日黒船来航。

老中首座の阿部正弘は政治改革の必要性を痛感します。

もともとは、御座の間・御用部屋・溜間(彦根・会津・高松藩)で行われていましたが・・・

門閥制度では、優秀な人間は育ちません。

家柄によらず、有能な人物を登用します。

開国・通商についても・・・今まで聞くことのなかった大名にも意見書を出させます。

それは外様でもです。

海岸防備には、薩摩や長州の協力も必要でした。

直接政治に意見する立場ではなかった御三家や家門にも伺いを立てます。



直弼たちの前に立ちはだかったのが、水戸藩・徳川斉昭でした。

「外国を断固打ち払うべきである!!」と、主張します。

他の大名たちも、攘夷・鎖国を主張する中、直弼は・・・開明的な意見を出します。

外国との戦争を避け、富国強兵を図り、日本を守る!!と。

翌年、ペリーがやってきて、通商条約の調印を迫ります。

緊急会議では、斉昭と直弼が真向から対立します。

他の奉行や老中は直弼に賛同し・・・斉昭を徹底的に退けます。

185433日日米和親条約調印。

ペリーの通商条約はかろうじて食い止めます。

が・・・上層部は、もはや開国は避けられないと、思っていました。


 

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