いつでもどこでもお湯さえあれば食べられるインスタントラーメン・・・
一人当たり年間45食、食べられています。
1958年、プロ野球の長嶋茂雄がデビューした年、インスタントラーメンが世に出ました。
開発の裏には、安藤百福の七転び八起きの起業家人生と食に対するすさまじい体験がありました。
世界の食を変えた壮大な夢追い人安藤百福。
その人生とは・・・??

48歳でインスタントラーメンを開発した安藤百福は、それ以前に繊維、エンジン、塩を手掛け、学校経営など10以上の事業を手掛けています。
若い頃からやり手の企業化でした。
百福はどうして次々と事業を起こしたのでしょうか?

1910年安藤百福は、日本統治下の台湾で生まれました。
両親は幼い頃で他界したので、呉服店を営む祖父の家で育ちました。
店には大勢の商売人が出入りし、活気にあふれていました。
百福はそんな雰囲気が大好きでした。
幼いころから店のそろばんで遊んでいたので、足し算や引き算はもちろん、掛け算まで覚えていました。
1930年、20歳の頃、百福は図書館の司書に。
しかし、物足りずに2年で辞めてしまいました。

「誰もやっていない新しいことをやりたい
 何か事業を起こしたい」

百福は、父親の遺産を元に・・・1932年、22歳の時にメリヤス商社を設立。
メリヤスは、服に使われる伸縮性のある生地で、日本では肌着として普及していました。
しかし、台湾ではほとんど立していなかったので・・・そこに目をつけて日本からメリヤスを仕入れて販売しました。
百福の読み通り、メリヤスは大当たり!!
台湾でも洋服は流行り、新しい肌着が求められていたのです。
企業からわずか1年で、1933年、23歳で大阪に進出。
会社はますます繁盛し、大阪でも一目置かれる事業家に!!

しかし・・・
1941年、31歳の時、太平洋戦争勃発!!

メリヤスの生産は国の管理下に置かれ、商売ができなくなってしまいました。
しかし百福はめげません。

「片時も、じっとしてはおれない性分だった
 ”何か人の役に立つことはないか”
 そう思って見渡すと、事業のヒントはいくらでも見つかった」 

百福が目をつけたのは、軍需工場。
工員が徴兵され、残ったのは家庭の主や老人たち・・・機械など扱ったことのない素人でした。
そこで百福は幻灯機を製造します。
幻灯機は、壁や幕に写真を投影できる機会です。
工場の壁にマニュアルを映し出して説明したのです。

何とか事業を続ける百福に、不幸が・・・
百福が経営する軍需工場から物資が大量に無くなりました。
百福に資材横流しの疑いが・・・百福は留置所に入れられます。
そこで生涯忘れられない経験をします。
出された食事は、麦飯と漬物・・・お椀は汚れ、悪臭が漂っていました。
まさに臭い飯・・・あまりに臭く、食べることができませんでした。
しかし、絶食してしばらくすると、空腹に耐えられなくなってきました。
そして・・・

「しょせん人間は動物ではないか 飢えれば豚になる」

疑いがはれて釈放されるまでの一月あまりの間・・・百福は食べ物がどれだけ大切なものか思い知らされました。

京都のホテルでフロント係をしている仁子と知り合います。
一目惚れでした。
すぐさまプロポーズ・・・仁子のもとへ通い続け、こう約束します。

「食べるものには苦労させない」

1945年、35歳で結婚。
二人は息子と娘を授かりました。
その年の8月、終戦。

焼け跡には飢えた子供やうつろな目をした大人が溢れていました。
彼等が心の底から求めるモノは食べ物でした。

「衣食住というが、食がなければ衣も住も芸術も文化もあったものではない」

百福は海水と鉄板を使って塩づくりをはじめました。

1951年、41歳の時・・・
信用組合の理事長に就任・・・
持ち前のチャレンジ精神が災いし・・・ポンポンお金を貸してしまいます。 
債権が焦げ付き、経営が悪化・・・わずか5年・・・1956年に信用組合破綻。

全財産を失った百福・・・それでも前を向いていました。

「失ったのは財産だけではないか
 その分だけ経験が血や肉となって身についた」

安藤百福、47歳・・・本当の挑戦はここから始まる!!

1956年、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれ、日本は目覚ましい発展をはじめていました。
しかし、百福はこの上昇気流に乗れずにいました。
というのも、信用組合の破綻で全財産を失っていたからです。

これからの時代に人びとは何を求めるのか・・・??
頭に浮かんだのは、戦後の闇市。
温かいラーメンを食べるために多くの人が寒さに震えながら並ぶ姿でした。

家で手軽に食べることのできるラーメンは売れる!!
47歳!!この商品にかけました。
自宅に立てた庭で研究をします。

「重要なのはひらめき、発想である
 それらは体験から生まれ、蓄積される」

百福の頭の中には初めから理想のラーメンの姿が浮かんでいました。

お湯がかけられるだけで出来上がるラーメン・・・

・美味しくて飽きが来ない味
スープを研究!!
誰もが美味しいと思うものを・・・!!
味のヒントは息子・・・息子は鶏肉が食べられませんでした。
小学生の時、母が飼っていたトリをしめて食料にしようとしました。
ところがトリが暴れ、それがトラウマになってしまったのです。
しかし、鶏ガラスープのラーメンは美味しそうに食べる・・・
こうしてラーメンの味はチキンベースに決まりました。

・調理に手間のかからない簡便性
百福はお湯をかけるだけで麺とスープが出来上がることにこだわりました。
そのため、麺とスープが別々ではなく・・・スープの味がしみ込んだ麺を・・・!!

ラーメン作りは全くの素人の百福。
小麦粉の中にスープを練り込んでみる→麺がボソボソに切れてしまう・・・
麺を蒸してスープにつけてみる→粘ついた
この頃の百福は、朝5時に起きて小屋に籠り、夜中の1時、2時まで没頭し、睡眠時間は4時間ほど。

麺にスープの味をしみ込ませる・・・そのヒントはじょうろにありました。
じょうろで麺にスープを振りかけると、麺に均一に表面にしみ込ませることができました。
お湯を注ぐだけで麺とスープの両方が出来上がる・・・
一歩前進でした。
当時、百福は朝から晩まで研究に没頭・・・安藤家の家計は苦しいものでした。
それでも家族は百福を信じていました。

妻・仁子は友人に聞かれます。
「ご主人は、今何をされていますか?」と。
「ラーメンの製造ですよ」
「そんなことをなさらなくても、他に良い仕事がございますでしょうに」
当時ラーメンは、失業者が仕方なく始める屋台のイメージが根強かったのです。
「主人は将来、必ずビール会社のように大きくなると言っています」と。

・台所に常備されるような保存性
冷蔵庫が普及していなかった当時、常温で日持ちのする食べ物を求める人が大勢いると百福は考えました。
長く保存するためには、乾燥させることが必要でした。
開発をはじめて1年がたったある日・・・
台所で妻の仁子が天ぷらを揚げていました。
鍋をよく見ると・・・小麦粉の衣が油の中で泡をたてています。

「これだ!!
 天ぷらの原理を応用すればいいんだ!!」
百福は麺を油の中に入れてみました。
麺の中の水分が蒸発していきます。
その面に熱湯を注げばお湯が吸収され、麺が復元されます。
揚げたことで完全に乾燥され、日持ちが良くなりました。
そればかりか、衛生面でも有効であることがわかりました。

・値段の安さ
百福は、値段を35円に設定しました。
1958年8月25日、48歳の時、遂に百福のインスタントラーメンが販売されました。
喫茶店のコーヒーが1杯50円の時代に、35円のインスタントラーメンは人気を博します。
魔法のラーメンと言われ大ヒット!!

高度経済成長で、単身赴任者がたくさん出てきていました。
温かくして食べられる保存性が高い食べ物は殆どありませんでした。
そこへ、お湯を注いだらすぐ食べられる・・・
大変重宝な食べ物と、当時の独身男性には思われました。

現在、世界80か国で食べられているカップラーメン・・・
百福がこれを発明したのは61歳の時でした。

百福が51歳の時、会社は急成長を収めていました。
この年、インスタントラーメンの製造は、5億5000万食!!
翌年には10億食、その翌年には20億食超!!



あっという間に日本に広まったインスタントラーメン・・・売り上げは頭打ちになってしまいました。
そこで百福は、欧米視察に出かけます。
56歳でした。

アメリカで商談に望んだ時・・・地元のバイヤーにインスタントラーメンの試食を頼みます。
すると・・・彼女は麺を二つに割って紙コップに入れ、そこにお湯を注いだのです。
フォークで食べ始めました。

欧米の人は、箸と丼は使わない・・・という当たり前のことに初めて気づかされました。
他にも・・・ハンバーガーやドリンクを食べ歩きしている人が大勢いました。
越えるべきもの・・・それは食文化の壁でした。

「もし、彼らが麺類を常食するようになるとしたら、それこそ食文化の革命を意味する
 挑戦してみる価値のあるテーマだった」

1969年、59歳の時、開発をはじめます。
コンセプトは片手でカップを持ち、どこでも立ったまま食べられるラーメン・・・
この開発で一番の難題は、カップの中間に面を固定することでした。
輸送中に麺が壊れることを防ぐためでしたが、当時の技術では中間にうまく収めることができません。
悩み続けたものの・・・
ある晩、百福が布団におさまっていると・・・めまいのような症状が・・・
天井がひっくり返ったような感じが・・・その時!!
カップに麺を入れるのではなく、麺にカップをかぶせてひっくり返せばいい!!
これで、カップの中間に納めることに成功します。
百福はこの新商品に具材を入れることに・・・
こだわったのはエビ!!
世界中から様々なエビを取り寄せて具材に取り入れます。
このアイデアは、試作品を食べた女性から・・・。
「エビがなければ50円。
 エビがあれば100円の価値がありますよ」
1971年、カップラーメン開発発表会
しかし、記者の反応は今一つ・・・
100円は高い?良風美俗に反する??
しかし、百福には自信がありました。

「いい商品は、必ず世の中が気付く
 それまでの辛抱だ
 ラーメンを売るな、食文化を売れ」

発売から2か月後、宣伝を兼ねた販売を行います。
店を出したのは東京の銀座・歩行者天国の路上でした。
そこには長髪にジーンス、ミニスカート。。。最先端の文化の若者が行き交っていました。
最初は戸惑っていた若者・・・一人・・・また一人・・・そのうち人だかりが・・・!!
多い日で1日2万食が売り切れました。

1972年2月・・・意外な出来事からカップラーメンの知名度は全国区に!!
あさま山荘事件です。
長野県にある山荘に連合赤軍の5人が人質を取り立て籠ったこの事件・・・
テレビで生中継され、日本中が固唾をのんで見守っていました。
極寒の2月・・・機動隊の隊員が食べていたのがカップラーメンでした。
仕出し弁当も凍る中、お湯を注ぐだけで食べられるカップラーメンが隊員たちを温めます。
これはテレビ中継に何度も流されたといいます。
この時から人気に火がつきます。
生産が追い付かなくなるほど・・・
1973年、63歳の時、カップラーメンがアメリカで発売され人気に。
欧米の文化を越えるために開発したカップラーメン、日本の食文化を変えるほどの力を持っていました。

1987年、76歳の時、経済の「改革開放」が始まった中国を訪れます。
目的は麺はどこで生まれ、伝わってきたのか・・・??
麺ロードの旅でした。
麺の歴史を自分の目と口で・・・36日間調査します。
食べた面の数は300種類以上。
食に対する百福の情熱は絶えることはなく、生涯現役でした。

日本を代表する経営者となった百福・・・
1974年、64歳の時に食糧庁長官・三善信二がある相談を持ち掛けてきました。

「お湯をかけたらすぐ食べられる
 米の加工食品が開発できませんか」

戦後、日本人の食生活は急速に洋風化。
パンが普及・・・コメ離れが進んで余剰米が溢れていました。
そこでカップラーメンの技術を利用してコメの消費を促してほしいという・・・
頼まれれば嫌と言えない百福・・・快諾します。
1年間の研究の末・・・即席カップごはんが完成します。
試食会では大絶賛!!
新聞も、救世主かのように掻き立てます。
成功を確信した百福は、会社の年間利益と同じ30億円を投じて生産ラインを作ります。

「ラーメンは他のものに任せて、これからは米の市場に全力を傾けてもいい」

1975年即席カップごはんを世に出します。
期待通り、爆発的な売れ行きでした。
しかし・・・わずか1か月で小売店からの注文が止まりました。

「そんなはずあるまい」

自らスーパーマーケットに・・・
そこで目にしたのは、一度は商品を手にとっても棚に戻す消費者の姿でした。

「よく考えるとご飯は家でも炊けますから」

ラーメンとは需要が違う・・・
カップラーメンの成功で思い上がり、マーケットを読み違えたのです。
己の未熟さを突き付けられました。

「30億円は捨てても仕方がない・・・」

1975年、65歳でカップごはんの生産を中止。

その翌年・・・息子・宏基はカップうどん、カップ焼きそばと大ヒットを世に出し、新時代を築いていました。
さすがの百福も、息子の手腕を認めざるを得ませんでした。
1985年75歳で百福は社長の座を息子に譲り会長に。

ところが、会長となっても誰よりも早く出社し、新製品は試食しました。
商品の細かいところまで直接指示を出しました。

社長の宏基にしてみれば、扱いにくい会長でした。
経営方針をめぐり、親子は何度も激しく対立します。
そんな時、決まって百福は言いました。

「人間は突き詰めれば敬と愛しかない
 お前にはその敬愛の心がない」

この頃、百福は自分の仕事に対する姿勢を・・・
「食足世平」と言っています。
食足りて世の中が初めて平和になるという経営理念でした。
食は人の命を支える一番大切なもの・・・

1995年1月、阪神・淡路大震災が発生!!
百福はすぐに被災者支援に動きます。
即席めん100万食を緊急輸送。
寒さが一番厳しい時期・・・火が使えず電気にも不自由する避難所生活・・・
温かいラーメンは笑顔を運んできました。

2001年、91歳の百福は、21世紀のラーメンを思いつきます。
目指したのは宇宙・・・宇宙食ラーメンの開発という壮大なものでした。
90歳を超えてなお、指揮を執りました。
気圧が低い宇宙船内で・・・75度で戻る麺を開発。
無重力空間で飛び散らないようにスープにはとろみをつけました。
醤油味、みそ味、カレー味、とんこつ味のラーメンが完成!!

2005年、スペースシャトル・ディスカバリー号と共に百福のラーメンは宇宙へ。
初めて宇宙でラーメンを食べた野口聡一さんは・・・
「地上で食べる味が再現されていて大変美味しかった」
この時、95歳・・・成功を少年のように喜びました。

その1年後・・・百福は急性心筋梗塞で死去・・・食と共に生きた96歳の生涯でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

転んでもただでは起きるな! 定本・安藤百福 (中公文庫) [ 安藤百福発明記念館 ]

価格:637円
(2019/3/18 21:54時点)
感想(1件)

世界の食文化を変えた安藤百福 “インスタントラーメンの父”の逆転人生劇! (洋泉社MOOK)

価格:1,080円
(2019/3/18 21:54時点)
感想(1件)