日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:実朝

神奈川県箱根神社・・・鎌倉幕府が厚く敬った神社です。
ここに、一振りの太刀が残されています。
源頼朝の命を狙ったとされる太刀・薄緑丸。
曽我兄弟の敵討ちで知られる曽我五郎時致が手にしたとされています。
その夜、兄弟は親の仇・工藤祐経の宿に忍び込み、見事に本懐をとげます。
敵討ち成功は、広く語り継がれ、曽我物語として読み継がれるようになります。



しかし、事件は敵討ちだけにとどまりませんでした。
兄弟は、工藤祐経を討ったその足で、源頼朝が泊まる宿に討ち入ろうとしたのです。
征夷大将軍となり、武家の棟梁として絶頂にあった頼朝・・・
どうして、曽我兄弟は頼朝を狙ったのでしょうか??

1192年7月26日、鎌倉に、都から勅使がやってきました。
源頼朝を征夷大将軍に任命する辞令を届けに来たのです。
この時、頼朝46歳。
一介の流人が挙兵して12年、朝廷から征夷大将軍に任命されることで、名実ともに武家の棟梁に上りつめました。
鎌倉殿・頼朝・・・まさに、得意の絶頂でした。
その頼朝が次に考えたこと・・・それは、自分の後継者として嫡男・頼家を鎌倉殿にすることでした。
しかし、それは簡単ではありませんでした。
御家人たちにとって、鎌倉殿継承は大きな意味がありました。
ただ家の跡を継ぐというのとは別次元の・・・政治的、軍事的、重要な意味合いが生じてきます。
御家人たちにとっては、そちらの方が大問題でした。
頼朝家の血筋ではなく、それ以外にも源氏の人たちがいる・・・その可能性も捨てきれない!!

「そちらにいい人物がいれば!!
 器の大きい人がいれば・・・!!」

ということを、御家人たちが考えても不思議ではありませんでした。

頼家以外の源氏としては、
弟・源範頼・・・平家追討の現場指揮官
甲斐源氏・安田義定・・・頼朝に匹敵する血筋をもつ
そうした源氏一族よりも、頼家が鎌倉殿に相応しいことを示さなければなりません。
そこで頼朝は、ある方法を思いつきます。

頼朝が駿河国で一カ月にわたり行った富士野の巻狩・・・
頼家が、鎌倉殿の跡継ぎに相応しいことを示すために、頼朝の打った策です。
この巻狩で、頼家の弓の腕前を披露し、武人としての能力を広く御家人に示そうとしたのです。
この重要な行事の仕切り役に、頼朝は妻・政子の父・北条時政を指名しました。
挙兵以前から頼朝を支えてきた大恩人です。

吾妻鏡によれば、時政は、頼朝が鎌倉を出発する6日前に現地に入っています。
そこで、配下の者たちを指揮して、獲物の状況を調べ、さらに頼朝が泊まる館の設営など入念に準備を進めていきました。

1193年5月8日、北条義時をはじめ、挙兵以来の重臣や側近、その外大勢の御家人を引き連れて、駿河国富士野に向かいました。
富士野の巻狩は、空前の規模で催されました。
頼家が、鎌倉殿の正統な後継者であることを示す晴れ舞台です。
5月16日、頼家は、御家人たちが見守る中、生れてはじめての狩りで見事に鹿を射止めました。
そしてそのあと、山神・矢口祭という儀礼が行われました。
それは、頼家が頼朝の正統な後継者であることを神に認めてもらう重要な儀礼でした。
狩祭は、三色の餅を用意し、御家人たちが何人が出てきてそれぞれの流儀にのっとって「矢叫びの声」をあげます。
この裏声は、髪を呼び寄せる発生方法です。
御家人たちが矢口の餅を備え、矢叫びの声によって、富士の山の神を呼び寄せる・・・
そこから狩祭が行われました。
この狩祭で、頼家の頼朝の後継者としての位置づけが認められるのです。



ところが、巻狩が終わろうとしていた5月28日の晩・・・事件が起きました。
皆が寝静まった深夜、曽我十郎祐成と弟・五郎時致という二人の若者が、御家人たちが泊まる富士野の館に忍び込みます。
そこで、頼朝側近の有力御家人・工藤祐経を殺害したのです。
曽我兄弟の敵討ち・・・曽我事件です。

ことの発端は、頼朝の挙兵以前に遡ります。
工藤祐経は、伊豆の領地を巡って、有力豪族・伊東祐親と争っていました。
争いの中で、祐経は伊東祐親の嫡男・河津三郎を殺害してしまいます。
河津三郎には二人の子供がいました。
残された兄弟は、相模の貧しい武士曽我氏に引き取られます。
そして、父親を殺した工藤祐経を恨んで成長していきます。
一方、祐経は、頼朝に重用され、鎌倉幕府の有力御家人に出世していきます。
元服した二人は、そんな祐経を狙っていました。
そして、富士野の巻狩の夜・・・遂に本懐を遂げたのです。
しかし、事件は敵討ちだけでは終わりませんでした。
兄弟の標的はもう1人いたのです。

兄弟は、工藤祐経を討った後、別の館に向かって走り出しました。
兄・十郎祐成は、集まってきた御家人10人を相手に斬り合いに・・・
9人までは倒したものの、10人目で遂に討たれてしまいました。
一方、弟・五郎時致は、目指す館の入り口まで迫っていました。
この館の奥で迎え撃とうとする人物・・・それは源頼朝でした。
兄弟の狙いは、頼朝の首でした。

翌日の頼朝の尋問に対して時致は、「恨みがなかったわけではない」と答えています。
この時、頼朝は五郎の勇猛ぶりを讃え、勇士として許そうとしますが、殺された工藤祐経の幼い息子に涙ながらに求められて引き渡します。
五郎は晒し首とされました。
頼朝暗殺未遂とも考えられる曽我事件・・・しかし、後の世には、殺された父を思う兄弟の敵討ちの側面にのみ脚光を当てられ続けることとなります。

富士野の巻狩の前年、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年は、鎌倉幕府にとって曲がり角ともいえる年でした。
戦が終わり、平和な時代となっていく中で、頼朝は新たな政治体制づくりを始めていました。
その中心となったのが、将軍家政所でした。
そこで頼朝は、御家人たちに渡す公文書に大きく変更を加えます。

頼朝が署名の代わりに記した花押・・・
頼朝は、こうした文書を御家人たちに渡しています。
しかし、征夷大将軍になってからは、将軍家政所の役人の名前と、花押のみの将軍家政所下文を渡すようになります。
こうした変更に、御家人たちの中から不満の声が上がります。
声を上げたのは、挙兵以来の有力御家人・千葉常胤です。
吾妻鏡によれば、将軍家政所下文を受け取った常胤は、とても不機嫌になりました。
自分達の棟梁である頼朝自身の花押がない文書は信用が置けないというのです。
今までは、頼朝個人と御家人たちが強い主従関係で結ばれていました。
頼朝が偉くなって政所を開設していくようになると、個人対個人の関係ではなくて、組織として御家人たちに接するようになっていきます。
頼朝が、事務官たちに囲まれて、御家人たちとの間に距離が出来てしまったことが想像できます。

頼朝にはもうひとつ、御家人たちとの関係にかかわる課題がありました。
頼朝は、挙兵以降戦に勝って没収していた敵の領地を、新恩地として御家人に与え、それを朝廷に認めさせる新恩給与という政策を実行してきました。
領地をもらったお礼に、御家人たちは頼朝に奉公するということで、主従関係を成り立たせてきたのです。
ところが、戦が終わり、御家人に与えるべき新しい領地が手に入らなくなると、御家人たちの不満が次第に高まっていきます。


1193年正月頃になると、坂東各地の武士団の中で諍いが頻発します。
相模の三浦氏では、一族の長である惣領・三浦義澄の命令に従わない者たちが現れました。
頼朝自ら義澄に従うように通達したと言います。
三浦氏は、相模国三浦半島を中心に大きな勢力を持つ大武士団でしたが、惣領の座を巡って内紛の火種を抱えていました。
それがここにきて噴出したのです。
さらに2月、武蔵国の丹党と児玉党という武士団の間に確執が生じました。
一触即発までに緊張が高まりました。
頼朝が、有力御家人同士の関係に気を遣わなければならなくなってきていました。

頼朝に次男・千蟠(三代将軍・実朝)が誕生しました。
その後見人である乳母夫に、頼朝は妻・政子の父・北条時政を選びました。
この先、北条家が千幡を支えていくことになります。
一方、嫡男・頼家の乳母夫に比企能員を選んでいました。
比企と北条に、対立することなく息子たちを支えさせるには・・・??

千幡を北条に預けるのと時を同じくして比企の娘を北条義時に嫁がせたのです。
如何にして戦時から平時に鎌倉幕府のありようを変えていくか・・・??
頼朝は、苦慮しながらも舵取りを行っていました。
そんな中で起きたのが、富士野の巻狩での事件でした。

事件では、吾妻鏡にも御家人死者1名、負傷者9名を出したと書かれています。
さらに、「五郎は御前を差して走り参ず」とあります。
こうした兄弟の行動や言動が、ある種のカタルシス・爽快感をもって語られるということが注目されるべきです。
頼朝がもたらした新しい大きな社会に対する違和感、不信感が、この時代にはあったのです。
そういった時代の思いが、兄弟の起こした事件を盛大に語っているのです。

曽我事件の直後から、頼朝は恐るべき粛清を始めました。
巻狩に参加していた常陸国久慈の武士たちを、曽我兄弟の夜討ちを恐れ逃亡したとして所領没収、常陸国の大武士団の長・多気義幹からも所領を没収・・・理由は、曽我事件直後富士野に駆けつけなかったからでした。
さらに、相模の有力御家人・大庭景義と岡崎義実を突如出家させました。
実質的な追放です。
粛清の刃は、源氏一族にも向けられました。
頼朝の弟・源範頼が処分されたのです。
”保暦間記”によれば、曽我兄弟の敵討ち事件の直後、頼朝が討たれたという誤報が鎌倉に伝わります。
嘆く妻。・政子に範頼が、「私が居るから大丈夫だ」と発言。
頼朝はそれを「謀反あり」と断じ、範頼を幽閉、殺害したのだといいます。
さらに、頼朝による粛清の嵐は続きます。
11月には頼朝に匹敵する血筋を誇ってきた甲斐源氏の有力者・安田義資が首を刎ねられます。
理由は、新たに建立した寺院の供養の最中に女官に恋文を渡したからでした。
そして翌年8月、義資の父・安田義定を反逆の企てありと晒し首にしてしまいます。
曽我事件を機に不安を持つ御家人と頼家のライバルになり得る者たちを、頼朝は一挙に葬り去ったのです。



そんな頼朝には、もう1人気になる人物がいました。
次男・実朝の後ろ盾として乳母夫に選んだ北条時政です。
時政は、曽我事件にかかわっていた可能性があったのです。
暗殺未遂事件が起きた巻狩では、時政は仕切り役としてすべての準備に関わっていました。
しかも、曽我兄弟の弟・五郎が元服した際の烏帽子親が時政でした。
その折、時政は、”時”の一文字を与え、”五郎時致”としています。
時政と曽我兄弟とは、きわめて近しい関係にあったのです。
そんな時まさに、頼朝が不審を抱いても不思議ではありません。
しかし、時政を処分することは、今後の幕府運営を考えた際に得策なのか??
一体どう扱えばいいのか・・・??

北条時政を排除する??それとも取り立てる??

1193年12月・・・事件から半年後。
事件直後に所領を没収された常陸国の多気義幹の弟・下妻弘幹が頼朝の命によって首を刎ねられました。
吾妻鏡は、その理由を北条時政に恨みを抱いていたからとしています。
さらに頼朝は、時政に新たな力を持たせます。
粛清した安田義定が勤めていた遠江国の守護に時政を任命したのです。
頼朝は、時政を取り立てることを選んだのです。
時政は、伊豆・駿河・遠江・・・三カ国の守護として幕府で大きな力を持つ存在となっていきました。



曽我事件から6年後の1199年1月13日、頼朝死去・・・享年53歳。
後を継いだのは、頼朝の嫡男・頼家・・・18歳でした。
しかし、4年後、頼家が病に倒れると、時政は頼家の後ろ盾だった比企能員を殺害。
さらに、比企一族を滅ぼし、頼家の将軍職を剥奪しました。
そして、自ら乳夫を務める実朝を12歳で3代将軍に据えます。
勢いに乗った時政は、実朝に変えて娘婿を将軍職につけようと画策。
娘・政子と、息子・義時によって追放されることになります。

頼朝の死から20年・・・
3代将軍実朝は、頼家の子・公暁に鶴岡八幡宮の境内で暗殺されます。
頼朝が力をつくした源氏将軍は、わずか3代で断絶することになりました。
その後、100年。
鎌倉幕府は北条氏が取り仕切っていくことになります。

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2019年平成という一つの時代が終わり新たな時代が始まる・・・
天皇陛下は退位され上皇となる・・・
上皇が復活するのは実に201年ぶりのこと。。。
日本の歴史の中で、かつて上皇は権力の中心にありました。
中でも一人の上皇の選択が、この国のかたちに今も影響を与えています。
後鳥羽上皇です。

上皇の名は、新古今和歌集の選者としてあまりにも有名であり、自らも優れた和歌を数多く残しました。
その才能は、和歌の世界に留まらず・・・文武両道において君臨せんとしていました。
後鳥羽上皇の名は、ある歴史的事件の主人公としても記憶されています。

承久3年、上皇は東国の鎌倉幕府に戦いを挑みました。
承久の乱です。
きっかけは、鎌倉で起こった鎌倉幕府三代将軍実朝の暗殺です。
以来、幕府執権・北条義時と後鳥羽上皇の間で、虚々実々の駆け引きが繰り広げられました。

上皇は何を目指し、承久の乱を起こしたのか・・・??

優美で高い品格を備えた細身の太刀・・・「菊御作」・・・。
刀身には12弁の菊の花びらが刻まれています。
後鳥羽上皇が鍛えさせたと言われています。
御番鍛冶・・・備前国から7人、備中から3人、山城国から2人の名人を集めて、1月から12月まで月番製で刀を作らせたという伝説があります。
「菊御作」は、たおやかな13世紀初頭の京刀の特徴が良く表れています。
後鳥羽上皇はどうして刀を必要としたのでしょうか?

後鳥羽天皇即位の2年後に勃発した壇ノ浦の戦い(1185年)・・・
圧倒的な源氏の攻勢の前に、平家は滅びました。
この時・・・ある重要なものが失われています。
草薙剣・・・平家が安徳天皇と共に持ち去っていた三種の神器の一つです。
天皇の権威の象徴を失った事・・・これが後鳥羽上皇の菊御作伝説の背景にあると言われています。
威信財は、儀式や祭祀に使われ、支配者の権威や権力を表すものです。
地位のある人がもっているからこそ意味があるもの・・・王朝や王統の正当性が揺らいだ時に、物と人との主客が転倒し、格式のある物、歴史のあるものを持っているからこそ権威があると入れ替わってしまう・・・後鳥羽上皇の時代はそんな時代でした。
天皇自ら刀を作らざるを得ない・・・それほど追い込まれていたのです。
天皇家の正当性を回復させるためには、あらゆる分野で卓越した才能を示すことが必要でした。
1198年後鳥羽天皇は19歳で譲位・・・上皇となります。
管弦、蹴鞠、笠懸・・・諸芸の習得に力を注ぎます。
中でも重視したのが和歌で・・・上皇はそこに芸能に留まらない意味を見出していました。
後鳥羽上皇自ら編纂に当たった新古今和歌集・・・
序文にはこう書かれています。
”和歌は世を治め、民をやはらぐる道である”
古今和歌集は、醍醐天皇が政治を行った延喜聖代という理想的だった時代に作られたもので、それを新しくした新古今という自分の時代にあったものを・・・。
王の権威、権力を再び輝かせるという考えがあったのです。
上皇の念頭にあったのは、東国の政治情勢でした。
源頼朝が鎌倉幕府を創設・・・従来、荘園の下級役人に過ぎなかった武士が、守護や地頭として勢力を拡大し、荘園経営に口出しし始めたことは、院や公家にとって大きな経済的打撃となっていました。
いかにして武士の力を押さえるべきか・・・??
好機は向こうから訪れました。
1204年、幕府で重要な決定がなされました。
執権・北条義時が鎌倉幕府将軍実朝の正室を、京の公家から迎えたいと願い出たのです。

後鳥羽上皇はこの申し出を最大限に利用しました。
吾妻鏡には・・・”坊門信清卿の息女が将軍家の御台所として下向した”と書かれています。
この娘は上皇にとっていとこにあたります。
自分と血縁県警にある女性を送ることで実朝を取り込もうとしたのです。
効果は絶大!!
婚姻の4か月後・・・実朝が十二種の和歌を詠んだことが記されています。
上皇の思惑通り、京文化に傾倒していく実朝の姿が浮かびます。
1213年実朝自ら編纂した「金槐和歌集」を京へ送ります。
そこには注目すべき一首が・・・

山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも
  君にふた心 わがあらめやも

いかなる事態が起きようとも、上皇に背くことはないと誓約しています。

背景にはこの年、鎌倉で起きた北条義時と有力御家人和田氏との抗争・・・和田合戦がありました。
敗れた和田氏の残党が、京に乱入しかねないとの噂が流布される中、実朝は上皇への絶対の服従を表明したのです。

和歌を通じ、実朝と濃密な関係を築いた上皇・・・政治工作は最終段階に入ります。
実朝の官位昇進・・・1219年3月左大将、10月内大臣、12月右大臣・・・と、武家初の右大臣へとしています。
異例の昇進の裏側には、二人の計画があったとされます。
「愚管抄」には・・・
親王を将軍とする・・・とあります。
親王とは、上皇の実子・頼仁親王を指します。
この親王を下向させ、将軍とし、右大臣として実朝が補佐をする・・・これこそ、上皇の計画だったのです。
公家政権とは別の武家政権の幕府をも、自分の子を通じて、実朝を通じて統治下に置こうとしたのです。
天皇の権威の元、この国を再びまとめ上げるという上皇の思いは、実現するところまで来ていました。

1219年1月27日、予期せぬ事件が・・・鎌倉・鶴岡八幡宮・・・右大臣昇進の祝賀のために参拝をしていた実朝が、二代将軍頼家の子・公暁によって暗殺されたのです。
自ら将軍になろうとしての犯行だったと言われています。
不測の事態に鎌倉幕府執権・北条義時は動きます。
京へ使者を派遣・・・かねての計画通り、親王を鎌倉へ下向するように要請したのです。
義時に約束の履行を求められた上皇は、選択を迫られます。

親王将軍の下向か・・・??幕府の要請を拒絶するか・・・??

実朝の死に衝撃を受ける上皇・・・!!
実朝の身の安全を祈祷していた陰陽師が上皇のお沙汰で全て罷免・・・

義時の本心の調べるために、上皇は鎌倉に使者を送って厳しい要求をします。
摂津国、長江、倉橋の荘の地頭を罷免すべし・・・
この荘園の地頭は、ほかならぬ義時でした。
上皇は義時がどこまで従う気があるのかを試したのです。
ところが、1219年3月、義時は一千騎を京へ派遣、要求を拒絶しました。
武力を背景に上皇の要求を突っぱねたのです。
義時との間で、親王将軍計画を進めるか否か・・・??
どうする??後鳥羽上皇・・・??

1219年7月・・・関東に下向する行列が・・・その中に一人の幼子の姿が・・・摂政九条道家の子・三寅です。
後鳥羽上皇は、親王ではなく、摂政の子を将軍とする第三の道を選んだのです。
幕府の要求は拒否したいが、全てを拒否すれば完全な敵対関係となる・・・
苦渋の選択でした。

ところが、その裏では予期せぬ事態が進行していました。
源頼茂の将軍就任を目論む陰謀が発覚します。畿内に領地を持ち、代理守護を務めていた頼茂は、実朝の後継者には自分の方がふさわしいと将軍を望んだと言います。
おひざ元での陰謀を知った上皇は、頼茂討伐に踏み切ります。
その混乱のさ中、大内裏が焼失してしまったのです。
王権の象徴たる大内裏の消失は、上皇にとって我慢できないことでした。
陣頭に立って再建を勧めましたが、公家、寺社は年貢の増大に反発、幕府の反対で内裏再建が頓挫してしまいました。
幕府の消極的な姿に、上皇は怒り心頭!!
幕府の将軍の地位をめぐる権力闘争が根本原因であるのに・・・しかも、その幕府は北条義時が中心なのに・・・義時に対する不満がふつふつと湧いてきていました。
1221年4月28日、後鳥羽上皇、流鏑馬ぞろいを名目に、京に一千余騎の軍勢を招集。
承久の乱勃発!!
西国の守護である御家人に上皇が挙兵を呼び掛けた命が残されています。

”北条義時は幼い将軍を差し置いて、政権をほしいままにしている
 今後、義時の政治を停止すべし”

義時を幕府から排除することが高らかに掲げられていました。

挙兵を呼び掛けた中には、東国の御家人もh汲まれていました。
その一人が、相模の御家人・三浦義村でした。
京で上皇側についた弟から幕府に背くことは確実と伝えられていました。
計画は・・・手始めに東国に豊穣と拮抗する勢力を持つ三浦が鎌倉でクーデターを起こし・・・
もし仕損じても、西国の御家人が挙兵して北条義時を討つ!!
二段構えの戦略でした。

ところが・・・事態は後鳥羽上皇の思惑を超えて動いていきます。
挙兵からわずか半月・・・義時は上皇の動きを察知していました。
頼みの綱の義村が、上皇の書状を義時に提出したのです。
これまで北条と結ぶことで大きくなってきた義村は、弟の叛逆にはくみせず、幕府に味方すると誓約したのです。
更に決め手は・・・御家人たちに向かって行われた北条政子の演説です。

”みな、心して聞きなさい
 源頼朝殿が朝敵平家一門を滅ぼし、ここ関東に幕府を作って以来、みなの官位は上がり収入も増えた
 その恩は山よりも深く、海よりも深い
 しかし今、朝廷より理不尽な幕府討伐命令がだされた
 名を惜しむ者は朝廷側についた者共を早々に討ち取り 三代にわたる源氏将軍の恩に報いなさい”

義時追討だけが目的だった内容を、朝廷が幕府を倒そうとしていると読み替えて情報操作したのです。
僅か18騎で出陣した幕府軍はたちまち膨張し、1万を超えるまでに膨れ上がりました。
岐阜県各務原市・・・1221年6月5日、この地で木曽川を挟んで対峙した幕府軍と上皇軍が激突!!
10倍以上の幕府軍を前に、兵を分散していた上皇軍は大敗・・・京に撤退します。
勢いに乗った幕府軍は、一気に都になだれ込みます。
事態の急変に上皇は義時追討の院宣を取り消します。
史上初の朝廷と武士の武力衝突は、あっけなく幕を閉じたのでした。

後鳥羽上皇の敗北は、その後の日本を大きく変えることとなります。
上皇方として戦った西国守護はことごとく処分され、その後には東国の御家人が赴任しました。
上皇の思惑通りとは反対の方向で、日本は一つとなったのです。
幕府によってそれまでの天皇は廃され、新しく上皇の兄の子である後堀河天皇が即位します。
皇位継承に幕府が口出しをするという前代未聞の事態でした。
上皇への処分も過酷を極め、島根県隠岐の島に上皇流罪流されます。
島の高台には、上皇が今も暮らした行在所が残っています。

人も通わぬというこの場所で、上皇は僅かな側近と共に仏への信仰と和歌に慰めを見出す暮らしを送ったと言われています。
しかし、後鳥羽上皇は失意の中でも都への想いを忘れてはいませんでした。
島には上皇と接した一族・村上家が今も残っています。
村上家は帰還を願う後鳥羽上皇の便りを京に運び、上皇はその返事を求めて頻繁にこの家を訪れたと言われています。
しかし・・・都に還る・・・その願いが叶うことはありませんでした。

承久の乱から18年経った1239年2月22日、後鳥羽上皇は病に倒れ崩御・・・享年60歳でした。

京、大阪の境に、後鳥羽上皇を祀る水無瀬神宮があります。
上皇の側近水無瀬家の末裔が宮司を務めるこの神社に、一通の文書が伝わっています。
死の13日前、上皇が記した置文「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」です。
自ら赤々と手形を押し、日ごろの奉公に報いるため水無瀬の地を与えるので菩提を弔ってほしいと書かれています。
この置文の下書きには次の文章が書かれていました。

”私がもし百千にひとつでも、この世の妄念に執着して魔縁となるようなことがあったら、この世に祟りをなすこともあるであろう
 千万にひとつでも我が子孫が皇位につくようなことがあれば、全て我が力と思うが良い”

その後、後鳥羽上皇の遺骨の一部は、京の都から20キロ離れた大原の地に葬られました。
死してなお、都の地を踏むことは許されなかったのです。

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昨日の続きです。黒ハート

北条一族最大の危機は・・・
北条VS朝廷の”承久の乱”です。

これは、3代将軍・実朝を巡る朝廷との微妙な関係が始まりでした。

実朝は、和歌などに明るく、朝廷と友好関係を結ぼうとしたのです。
この時、権勢をふるっていたのが、後鳥羽上皇でした。
武闘派で知られる上皇で、朝廷の権威を高めようと思っており、公武に君臨する絶対の存在として、武家を調教しようと考えていました。

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後鳥羽上皇は、実朝を手なづけようとして、右大臣の地位を与えます。
しかし、その実朝が、1219年に暗殺されてしまいました。

実朝を暗殺したのは、2代将軍の息子・公暁。
その公暁も、何者かによって暗殺されてしまいます。
この事件で、源氏将軍家が断絶してしまいました。
幕府の大問題となってしまいます。

幕府と朝廷、どちらにも混乱を招いたこの事件・・・
将軍を失った幕府・北条義時は、朝廷に使者を送ります。

「後鳥羽上皇の子供(親王)を将軍に迎えたい」

しかし、後鳥羽上皇からは条件が・・・

守護・地頭の廃止。
この守護・地頭、はじめは平氏の残党処理のために、臨時に置かれていました。
しかし、領主の地位を脅かし、年貢にまで口出しするようになっていました。
その結果、朝廷に入る年貢が激減していたのです。

後鳥羽上皇は、朝廷領の地頭罷免の院宣を発します。

これを飲めば・・・どんどんエスカレートして、幕府存続の危機になるかもしれません。
・・・やんわりと拒否をします。
「頼朝公が、平氏騒乱の恩賞として任命された地頭には、何の罪もごさいません。
 解任せよとの命令に、従うことは私にはできません。」

絶対命令の院宣に刃向った義時。
後鳥羽上皇の怒りは、絶頂に!!

1221年5月15日、義時追討の院宣発令。
「義時は、思うままに政務を執り、権勢をふるい、まるで天皇の権威を忘れたかのようである。
 これはもはや、謀反というべき暴挙だ。」

後白河は、一枚岩ではない幕府の内部分裂を狙います。
     ⇓
承久の乱勃発!!!

この承久の乱、日本史上稀に見る事件です。
朝廷に弓を引くのは、後にも先にもこれだけなのです。

武闘派の後鳥羽上皇でなければ、承久の乱は起こっていなかったかもしれません。
文武両道の後鳥羽上皇は、幕府の解体を狙っていたのです。
だって、将軍が居なければ、幕府なんて存在そのものがないのだから・・・


こんな場合、普通なら幕府は滅びてしまいます。
もちろんNoと言った義時は、恐れ多いと思っていて・・・
でも、東国で生まれ育ったせいか、王権が解っておらず、西よりはありがたみが薄かったのも事実です。

この武士と朝廷との関係は、平清盛が政権を取ろうとしてから始まった物語です。

元々武士は、開拓農民でした。
なのに、所有権が認められない!!
なぜ、自分の土地なのに権利が認められないのか???

頼朝は、所領の安堵・土地の権利を認めていました。
ここに、一所懸命・本当の御家人の本質があるのです。
「原始状態はまっぴらだ!!」

しかし、朝廷・神社仏閣にしてみれば、「武士は朝廷の番犬だ!」「牛車がわり」文句を言うことに納得できなかったのです。

当時、鎌倉幕府は全国を制覇しているわけではなく、その支配地は1/5ほどでした。
守護・地頭を増やして武士の権益を広げたいと思っていました。

そして朝廷は取り上げたいと・・・。

義時は、たくさんの御家人の手前、Noと言わざるをえなかったのかもしれません。
背水の陣に見えた義時・・・

朝廷に反旗を翻し、日本史上始まって以来の内乱。。。
大逆転できたのには、政子の演説があったのかもしれません。

吾妻鏡には・・・

「みな、心を一つにして承るべし。
 これ最後の言葉なり。
 なき頼朝公が鎌倉を作りあげてこの方、与えられた冠位や俸禄など、
 頼朝公の御恩は山よりも高く、海よりも深い。
 しかし今、偽りの讒言により、朝廷は非義の綸旨を下された。
 名を惜しむものは、院の逆臣を討つべきである!」

と。。。言い放ちました。

本当は、朝廷は義時だけを追放したかったのですが、政子は「義時追討ではなく鎌倉追討」にすり替えたのでした。
朝廷に対し、頼朝の名を出すことで、御家人たちを奮い立たせました。

朝廷は、神話の時代から続く絶対的なもの・・・。
幕府は武士を守ろうとしている!!
”義時を守ることは、自分たちを守ること”と、変化していきました。

自分達が守るべきものは何か?自覚できた御家人たち。
義時、わずか18機で鎌倉を出発。
そこに東国武士団が次々に合流し・・・ついには19万の大軍となりました。
この19万は、マユツバものかもしれません。
でも、政子の起死回生の大演説が、御家人を一つにしたのは間違いありません。

また、朝廷の中にも反後鳥羽派がいました。
西園寺公経は、幕府派として活躍しています。

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義時にとって、朝廷を相手に戦うという恐怖・・・
しかし、圧倒的な勢力に勝る幕府軍は、6月15日、京都に侵攻します。
わずか1か月で幕を閉じました。

戦いに敗れた後鳥羽上皇は、京をはるか離れ、壱岐に配流となりました。
北条は、戦いで犠牲になった人を弔うため鎮魂の寺院を建立します。

この承久の乱は、虐げられてきた武士が、朝廷に刃向った類を見ない戦いでした。
たとえ神聖な権威であっても立ち向かっていった北条一族が、後の戦国・江戸の武士の礎となったのです。

退くということは滅亡するということ・・・
究極の選択でしたが、この後、武士の時代が始まるのです。

この承久の乱の位置づけは・・・
日本の特殊な成り立ちを作った戦いとも言えます。

王権と地方の軍事政権が統治機関となること・・・。
流刑地(東国)のそばに都が出来る・・・
これは、世界に類を見ない状態です。

ここにきて初めて東と西が互角に戦う時代が始まったのです。


承久の乱で地位を確固たるものとした北条一族。
御成敗式目を制定します。
これは、御家人の土地所有権を規定し、紛争解決のルールを示したもので、日本初の武家の法典です。

第7条には・・・
「源氏3代将軍と、北条政子が与えた御家人の所領の権利を保障する」とあり、これは江戸時代まで受け継がれることになります。

しかし、そんな北条一族にも繁栄の歴史に終焉が・・・
きっかけは、2度の蒙古襲来。

日本の膳武力を以て戦わなければ!!!
第8代執権・北条時宗が、強固な中央集権をひきます。
武士・神社仏閣も一丸となって戦います。
日本国としての戦いでした。

蒙古を撃退!!


しかし、外国との戦いのために、恩賞となる土地を与えることが出来ません。
そして、北条一族の中央集権体制だけが残ってしまいました。

御家人たちの反感が募り・・・そのことが北条一族を滅亡へと向かわせます。

1333年5月22日、北条高時700人あまりの家臣とともに切腹。
後醍醐天皇の命を受けた新田義貞の軍が鎌倉に攻め込んだのです。

No,2だった北条一族・・・
No,1となり、策を考えなくなってしまった時・・・
実質的に権力を持ってしまった時に、孤立が始まりました。

No,2がNo,1になってはいけないのかもしれません。
そう、日本には、No,2は絶対必要です。

北条一族は政治家としても優秀な一族で、根回しや、根回しや、根回しや、謀・・・
困難極まりない時代の政治家でした。


それから700年。
鎌倉では、北条高時の命日には、法要が行われています。
北条氏の生き様は、鎌倉で受け継がれています。

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