神奈川県箱根神社・・・鎌倉幕府が厚く敬った神社です。
ここに、一振りの太刀が残されています。
源頼朝の命を狙ったとされる太刀・薄緑丸。
曽我兄弟の敵討ちで知られる曽我五郎時致が手にしたとされています。
その夜、兄弟は親の仇・工藤祐経の宿に忍び込み、見事に本懐をとげます。
敵討ち成功は、広く語り継がれ、曽我物語として読み継がれるようになります。
しかし、事件は敵討ちだけにとどまりませんでした。
兄弟は、工藤祐経を討ったその足で、源頼朝が泊まる宿に討ち入ろうとしたのです。
征夷大将軍となり、武家の棟梁として絶頂にあった頼朝・・・
どうして、曽我兄弟は頼朝を狙ったのでしょうか??
1192年7月26日、鎌倉に、都から勅使がやってきました。
源頼朝を征夷大将軍に任命する辞令を届けに来たのです。
この時、頼朝46歳。
一介の流人が挙兵して12年、朝廷から征夷大将軍に任命されることで、名実ともに武家の棟梁に上りつめました。
鎌倉殿・頼朝・・・まさに、得意の絶頂でした。
その頼朝が次に考えたこと・・・それは、自分の後継者として嫡男・頼家を鎌倉殿にすることでした。
しかし、それは簡単ではありませんでした。
御家人たちにとって、鎌倉殿継承は大きな意味がありました。
ただ家の跡を継ぐというのとは別次元の・・・政治的、軍事的、重要な意味合いが生じてきます。
御家人たちにとっては、そちらの方が大問題でした。
頼朝家の血筋ではなく、それ以外にも源氏の人たちがいる・・・その可能性も捨てきれない!!
「そちらにいい人物がいれば!!
器の大きい人がいれば・・・!!」
ということを、御家人たちが考えても不思議ではありませんでした。
頼家以外の源氏としては、
弟・源範頼・・・平家追討の現場指揮官
甲斐源氏・安田義定・・・頼朝に匹敵する血筋をもつ
そうした源氏一族よりも、頼家が鎌倉殿に相応しいことを示さなければなりません。
そこで頼朝は、ある方法を思いつきます。
頼朝が駿河国で一カ月にわたり行った富士野の巻狩・・・
頼家が、鎌倉殿の跡継ぎに相応しいことを示すために、頼朝の打った策です。
この巻狩で、頼家の弓の腕前を披露し、武人としての能力を広く御家人に示そうとしたのです。
この重要な行事の仕切り役に、頼朝は妻・政子の父・北条時政を指名しました。
挙兵以前から頼朝を支えてきた大恩人です。
吾妻鏡によれば、時政は、頼朝が鎌倉を出発する6日前に現地に入っています。
そこで、配下の者たちを指揮して、獲物の状況を調べ、さらに頼朝が泊まる館の設営など入念に準備を進めていきました。
1193年5月8日、北条義時をはじめ、挙兵以来の重臣や側近、その外大勢の御家人を引き連れて、駿河国富士野に向かいました。
富士野の巻狩は、空前の規模で催されました。
頼家が、鎌倉殿の正統な後継者であることを示す晴れ舞台です。
5月16日、頼家は、御家人たちが見守る中、生れてはじめての狩りで見事に鹿を射止めました。
そしてそのあと、山神・矢口祭という儀礼が行われました。
それは、頼家が頼朝の正統な後継者であることを神に認めてもらう重要な儀礼でした。
狩祭は、三色の餅を用意し、御家人たちが何人が出てきてそれぞれの流儀にのっとって「矢叫びの声」をあげます。
この裏声は、髪を呼び寄せる発生方法です。
御家人たちが矢口の餅を備え、矢叫びの声によって、富士の山の神を呼び寄せる・・・
そこから狩祭が行われました。
この狩祭で、頼家の頼朝の後継者としての位置づけが認められるのです。
ところが、巻狩が終わろうとしていた5月28日の晩・・・事件が起きました。
皆が寝静まった深夜、曽我十郎祐成と弟・五郎時致という二人の若者が、御家人たちが泊まる富士野の館に忍び込みます。
そこで、頼朝側近の有力御家人・工藤祐経を殺害したのです。
曽我兄弟の敵討ち・・・曽我事件です。
ことの発端は、頼朝の挙兵以前に遡ります。
工藤祐経は、伊豆の領地を巡って、有力豪族・伊東祐親と争っていました。
争いの中で、祐経は伊東祐親の嫡男・河津三郎を殺害してしまいます。
河津三郎には二人の子供がいました。
残された兄弟は、相模の貧しい武士曽我氏に引き取られます。
そして、父親を殺した工藤祐経を恨んで成長していきます。
一方、祐経は、頼朝に重用され、鎌倉幕府の有力御家人に出世していきます。
元服した二人は、そんな祐経を狙っていました。
そして、富士野の巻狩の夜・・・遂に本懐を遂げたのです。
しかし、事件は敵討ちだけでは終わりませんでした。
兄弟の標的はもう1人いたのです。
兄弟は、工藤祐経を討った後、別の館に向かって走り出しました。
兄・十郎祐成は、集まってきた御家人10人を相手に斬り合いに・・・
9人までは倒したものの、10人目で遂に討たれてしまいました。
一方、弟・五郎時致は、目指す館の入り口まで迫っていました。
この館の奥で迎え撃とうとする人物・・・それは源頼朝でした。
兄弟の狙いは、頼朝の首でした。
翌日の頼朝の尋問に対して時致は、「恨みがなかったわけではない」と答えています。
この時、頼朝は五郎の勇猛ぶりを讃え、勇士として許そうとしますが、殺された工藤祐経の幼い息子に涙ながらに求められて引き渡します。
五郎は晒し首とされました。
頼朝暗殺未遂とも考えられる曽我事件・・・しかし、後の世には、殺された父を思う兄弟の敵討ちの側面にのみ脚光を当てられ続けることとなります。
富士野の巻狩の前年、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年は、鎌倉幕府にとって曲がり角ともいえる年でした。
戦が終わり、平和な時代となっていく中で、頼朝は新たな政治体制づくりを始めていました。
その中心となったのが、将軍家政所でした。
そこで頼朝は、御家人たちに渡す公文書に大きく変更を加えます。
頼朝が署名の代わりに記した花押・・・
頼朝は、こうした文書を御家人たちに渡しています。
しかし、征夷大将軍になってからは、将軍家政所の役人の名前と、花押のみの将軍家政所下文を渡すようになります。
こうした変更に、御家人たちの中から不満の声が上がります。
声を上げたのは、挙兵以来の有力御家人・千葉常胤です。
吾妻鏡によれば、将軍家政所下文を受け取った常胤は、とても不機嫌になりました。
自分達の棟梁である頼朝自身の花押がない文書は信用が置けないというのです。
今までは、頼朝個人と御家人たちが強い主従関係で結ばれていました。
頼朝が偉くなって政所を開設していくようになると、個人対個人の関係ではなくて、組織として御家人たちに接するようになっていきます。
頼朝が、事務官たちに囲まれて、御家人たちとの間に距離が出来てしまったことが想像できます。
頼朝にはもうひとつ、御家人たちとの関係にかかわる課題がありました。
頼朝は、挙兵以降戦に勝って没収していた敵の領地を、新恩地として御家人に与え、それを朝廷に認めさせる新恩給与という政策を実行してきました。
領地をもらったお礼に、御家人たちは頼朝に奉公するということで、主従関係を成り立たせてきたのです。
ところが、戦が終わり、御家人に与えるべき新しい領地が手に入らなくなると、御家人たちの不満が次第に高まっていきます。
1193年正月頃になると、坂東各地の武士団の中で諍いが頻発します。
相模の三浦氏では、一族の長である惣領・三浦義澄の命令に従わない者たちが現れました。
頼朝自ら義澄に従うように通達したと言います。
三浦氏は、相模国三浦半島を中心に大きな勢力を持つ大武士団でしたが、惣領の座を巡って内紛の火種を抱えていました。
それがここにきて噴出したのです。
さらに2月、武蔵国の丹党と児玉党という武士団の間に確執が生じました。
一触即発までに緊張が高まりました。
頼朝が、有力御家人同士の関係に気を遣わなければならなくなってきていました。
頼朝に次男・千蟠(三代将軍・実朝)が誕生しました。
その後見人である乳母夫に、頼朝は妻・政子の父・北条時政を選びました。
この先、北条家が千幡を支えていくことになります。
一方、嫡男・頼家の乳母夫に比企能員を選んでいました。
比企と北条に、対立することなく息子たちを支えさせるには・・・??
千幡を北条に預けるのと時を同じくして比企の娘を北条義時に嫁がせたのです。
如何にして戦時から平時に鎌倉幕府のありようを変えていくか・・・??
頼朝は、苦慮しながらも舵取りを行っていました。
そんな中で起きたのが、富士野の巻狩での事件でした。
事件では、吾妻鏡にも御家人死者1名、負傷者9名を出したと書かれています。
さらに、「五郎は御前を差して走り参ず」とあります。
こうした兄弟の行動や言動が、ある種のカタルシス・爽快感をもって語られるということが注目されるべきです。
頼朝がもたらした新しい大きな社会に対する違和感、不信感が、この時代にはあったのです。
そういった時代の思いが、兄弟の起こした事件を盛大に語っているのです。
曽我事件の直後から、頼朝は恐るべき粛清を始めました。
巻狩に参加していた常陸国久慈の武士たちを、曽我兄弟の夜討ちを恐れ逃亡したとして所領没収、常陸国の大武士団の長・多気義幹からも所領を没収・・・理由は、曽我事件直後富士野に駆けつけなかったからでした。
さらに、相模の有力御家人・大庭景義と岡崎義実を突如出家させました。
実質的な追放です。
粛清の刃は、源氏一族にも向けられました。
頼朝の弟・源範頼が処分されたのです。
”保暦間記”によれば、曽我兄弟の敵討ち事件の直後、頼朝が討たれたという誤報が鎌倉に伝わります。
嘆く妻。・政子に範頼が、「私が居るから大丈夫だ」と発言。
頼朝はそれを「謀反あり」と断じ、範頼を幽閉、殺害したのだといいます。
さらに、頼朝による粛清の嵐は続きます。
11月には頼朝に匹敵する血筋を誇ってきた甲斐源氏の有力者・安田義資が首を刎ねられます。
理由は、新たに建立した寺院の供養の最中に女官に恋文を渡したからでした。
そして翌年8月、義資の父・安田義定を反逆の企てありと晒し首にしてしまいます。
曽我事件を機に不安を持つ御家人と頼家のライバルになり得る者たちを、頼朝は一挙に葬り去ったのです。
そんな頼朝には、もう1人気になる人物がいました。
次男・実朝の後ろ盾として乳母夫に選んだ北条時政です。
時政は、曽我事件にかかわっていた可能性があったのです。
暗殺未遂事件が起きた巻狩では、時政は仕切り役としてすべての準備に関わっていました。
しかも、曽我兄弟の弟・五郎が元服した際の烏帽子親が時政でした。
その折、時政は、”時”の一文字を与え、”五郎時致”としています。
時政と曽我兄弟とは、きわめて近しい関係にあったのです。
そんな時まさに、頼朝が不審を抱いても不思議ではありません。
しかし、時政を処分することは、今後の幕府運営を考えた際に得策なのか??
一体どう扱えばいいのか・・・??
北条時政を排除する??それとも取り立てる??
1193年12月・・・事件から半年後。
事件直後に所領を没収された常陸国の多気義幹の弟・下妻弘幹が頼朝の命によって首を刎ねられました。
吾妻鏡は、その理由を北条時政に恨みを抱いていたからとしています。
さらに頼朝は、時政に新たな力を持たせます。
粛清した安田義定が勤めていた遠江国の守護に時政を任命したのです。
頼朝は、時政を取り立てることを選んだのです。
時政は、伊豆・駿河・遠江・・・三カ国の守護として幕府で大きな力を持つ存在となっていきました。
曽我事件から6年後の1199年1月13日、頼朝死去・・・享年53歳。
後を継いだのは、頼朝の嫡男・頼家・・・18歳でした。
しかし、4年後、頼家が病に倒れると、時政は頼家の後ろ盾だった比企能員を殺害。
さらに、比企一族を滅ぼし、頼家の将軍職を剥奪しました。
そして、自ら乳夫を務める実朝を12歳で3代将軍に据えます。
勢いに乗った時政は、実朝に変えて娘婿を将軍職につけようと画策。
娘・政子と、息子・義時によって追放されることになります。
頼朝の死から20年・・・
3代将軍実朝は、頼家の子・公暁に鶴岡八幡宮の境内で暗殺されます。
頼朝が力をつくした源氏将軍は、わずか3代で断絶することになりました。
その後、100年。
鎌倉幕府は北条氏が取り仕切っていくことになります。
にほんブログ村
ここに、一振りの太刀が残されています。
源頼朝の命を狙ったとされる太刀・薄緑丸。
曽我兄弟の敵討ちで知られる曽我五郎時致が手にしたとされています。
その夜、兄弟は親の仇・工藤祐経の宿に忍び込み、見事に本懐をとげます。
敵討ち成功は、広く語り継がれ、曽我物語として読み継がれるようになります。
しかし、事件は敵討ちだけにとどまりませんでした。
兄弟は、工藤祐経を討ったその足で、源頼朝が泊まる宿に討ち入ろうとしたのです。
征夷大将軍となり、武家の棟梁として絶頂にあった頼朝・・・
どうして、曽我兄弟は頼朝を狙ったのでしょうか??
1192年7月26日、鎌倉に、都から勅使がやってきました。
源頼朝を征夷大将軍に任命する辞令を届けに来たのです。
この時、頼朝46歳。
一介の流人が挙兵して12年、朝廷から征夷大将軍に任命されることで、名実ともに武家の棟梁に上りつめました。
鎌倉殿・頼朝・・・まさに、得意の絶頂でした。
その頼朝が次に考えたこと・・・それは、自分の後継者として嫡男・頼家を鎌倉殿にすることでした。
しかし、それは簡単ではありませんでした。
御家人たちにとって、鎌倉殿継承は大きな意味がありました。
ただ家の跡を継ぐというのとは別次元の・・・政治的、軍事的、重要な意味合いが生じてきます。
御家人たちにとっては、そちらの方が大問題でした。
頼朝家の血筋ではなく、それ以外にも源氏の人たちがいる・・・その可能性も捨てきれない!!
「そちらにいい人物がいれば!!
器の大きい人がいれば・・・!!」
ということを、御家人たちが考えても不思議ではありませんでした。
頼家以外の源氏としては、
弟・源範頼・・・平家追討の現場指揮官
甲斐源氏・安田義定・・・頼朝に匹敵する血筋をもつ
そうした源氏一族よりも、頼家が鎌倉殿に相応しいことを示さなければなりません。
そこで頼朝は、ある方法を思いつきます。
頼朝が駿河国で一カ月にわたり行った富士野の巻狩・・・
頼家が、鎌倉殿の跡継ぎに相応しいことを示すために、頼朝の打った策です。
この巻狩で、頼家の弓の腕前を披露し、武人としての能力を広く御家人に示そうとしたのです。
この重要な行事の仕切り役に、頼朝は妻・政子の父・北条時政を指名しました。
挙兵以前から頼朝を支えてきた大恩人です。
吾妻鏡によれば、時政は、頼朝が鎌倉を出発する6日前に現地に入っています。
そこで、配下の者たちを指揮して、獲物の状況を調べ、さらに頼朝が泊まる館の設営など入念に準備を進めていきました。
1193年5月8日、北条義時をはじめ、挙兵以来の重臣や側近、その外大勢の御家人を引き連れて、駿河国富士野に向かいました。
富士野の巻狩は、空前の規模で催されました。
頼家が、鎌倉殿の正統な後継者であることを示す晴れ舞台です。
5月16日、頼家は、御家人たちが見守る中、生れてはじめての狩りで見事に鹿を射止めました。
そしてそのあと、山神・矢口祭という儀礼が行われました。
それは、頼家が頼朝の正統な後継者であることを神に認めてもらう重要な儀礼でした。
狩祭は、三色の餅を用意し、御家人たちが何人が出てきてそれぞれの流儀にのっとって「矢叫びの声」をあげます。
この裏声は、髪を呼び寄せる発生方法です。
御家人たちが矢口の餅を備え、矢叫びの声によって、富士の山の神を呼び寄せる・・・
そこから狩祭が行われました。
この狩祭で、頼家の頼朝の後継者としての位置づけが認められるのです。
ところが、巻狩が終わろうとしていた5月28日の晩・・・事件が起きました。
皆が寝静まった深夜、曽我十郎祐成と弟・五郎時致という二人の若者が、御家人たちが泊まる富士野の館に忍び込みます。
そこで、頼朝側近の有力御家人・工藤祐経を殺害したのです。
曽我兄弟の敵討ち・・・曽我事件です。
ことの発端は、頼朝の挙兵以前に遡ります。
工藤祐経は、伊豆の領地を巡って、有力豪族・伊東祐親と争っていました。
争いの中で、祐経は伊東祐親の嫡男・河津三郎を殺害してしまいます。
河津三郎には二人の子供がいました。
残された兄弟は、相模の貧しい武士曽我氏に引き取られます。
そして、父親を殺した工藤祐経を恨んで成長していきます。
一方、祐経は、頼朝に重用され、鎌倉幕府の有力御家人に出世していきます。
元服した二人は、そんな祐経を狙っていました。
そして、富士野の巻狩の夜・・・遂に本懐を遂げたのです。
しかし、事件は敵討ちだけでは終わりませんでした。
兄弟の標的はもう1人いたのです。
兄弟は、工藤祐経を討った後、別の館に向かって走り出しました。
兄・十郎祐成は、集まってきた御家人10人を相手に斬り合いに・・・
9人までは倒したものの、10人目で遂に討たれてしまいました。
一方、弟・五郎時致は、目指す館の入り口まで迫っていました。
この館の奥で迎え撃とうとする人物・・・それは源頼朝でした。
兄弟の狙いは、頼朝の首でした。
翌日の頼朝の尋問に対して時致は、「恨みがなかったわけではない」と答えています。
この時、頼朝は五郎の勇猛ぶりを讃え、勇士として許そうとしますが、殺された工藤祐経の幼い息子に涙ながらに求められて引き渡します。
五郎は晒し首とされました。
頼朝暗殺未遂とも考えられる曽我事件・・・しかし、後の世には、殺された父を思う兄弟の敵討ちの側面にのみ脚光を当てられ続けることとなります。
富士野の巻狩の前年、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年は、鎌倉幕府にとって曲がり角ともいえる年でした。
戦が終わり、平和な時代となっていく中で、頼朝は新たな政治体制づくりを始めていました。
その中心となったのが、将軍家政所でした。
そこで頼朝は、御家人たちに渡す公文書に大きく変更を加えます。
頼朝が署名の代わりに記した花押・・・
頼朝は、こうした文書を御家人たちに渡しています。
しかし、征夷大将軍になってからは、将軍家政所の役人の名前と、花押のみの将軍家政所下文を渡すようになります。
こうした変更に、御家人たちの中から不満の声が上がります。
声を上げたのは、挙兵以来の有力御家人・千葉常胤です。
吾妻鏡によれば、将軍家政所下文を受け取った常胤は、とても不機嫌になりました。
自分達の棟梁である頼朝自身の花押がない文書は信用が置けないというのです。
今までは、頼朝個人と御家人たちが強い主従関係で結ばれていました。
頼朝が偉くなって政所を開設していくようになると、個人対個人の関係ではなくて、組織として御家人たちに接するようになっていきます。
頼朝が、事務官たちに囲まれて、御家人たちとの間に距離が出来てしまったことが想像できます。
頼朝にはもうひとつ、御家人たちとの関係にかかわる課題がありました。
頼朝は、挙兵以降戦に勝って没収していた敵の領地を、新恩地として御家人に与え、それを朝廷に認めさせる新恩給与という政策を実行してきました。
領地をもらったお礼に、御家人たちは頼朝に奉公するということで、主従関係を成り立たせてきたのです。
ところが、戦が終わり、御家人に与えるべき新しい領地が手に入らなくなると、御家人たちの不満が次第に高まっていきます。
相模の三浦氏では、一族の長である惣領・三浦義澄の命令に従わない者たちが現れました。
頼朝自ら義澄に従うように通達したと言います。
三浦氏は、相模国三浦半島を中心に大きな勢力を持つ大武士団でしたが、惣領の座を巡って内紛の火種を抱えていました。
それがここにきて噴出したのです。
さらに2月、武蔵国の丹党と児玉党という武士団の間に確執が生じました。
一触即発までに緊張が高まりました。
頼朝が、有力御家人同士の関係に気を遣わなければならなくなってきていました。
頼朝に次男・千蟠(三代将軍・実朝)が誕生しました。
その後見人である乳母夫に、頼朝は妻・政子の父・北条時政を選びました。
この先、北条家が千幡を支えていくことになります。
一方、嫡男・頼家の乳母夫に比企能員を選んでいました。
比企と北条に、対立することなく息子たちを支えさせるには・・・??
千幡を北条に預けるのと時を同じくして比企の娘を北条義時に嫁がせたのです。
如何にして戦時から平時に鎌倉幕府のありようを変えていくか・・・??
頼朝は、苦慮しながらも舵取りを行っていました。
そんな中で起きたのが、富士野の巻狩での事件でした。
事件では、吾妻鏡にも御家人死者1名、負傷者9名を出したと書かれています。
さらに、「五郎は御前を差して走り参ず」とあります。
こうした兄弟の行動や言動が、ある種のカタルシス・爽快感をもって語られるということが注目されるべきです。
頼朝がもたらした新しい大きな社会に対する違和感、不信感が、この時代にはあったのです。
そういった時代の思いが、兄弟の起こした事件を盛大に語っているのです。
曽我事件の直後から、頼朝は恐るべき粛清を始めました。
巻狩に参加していた常陸国久慈の武士たちを、曽我兄弟の夜討ちを恐れ逃亡したとして所領没収、常陸国の大武士団の長・多気義幹からも所領を没収・・・理由は、曽我事件直後富士野に駆けつけなかったからでした。
さらに、相模の有力御家人・大庭景義と岡崎義実を突如出家させました。
実質的な追放です。
粛清の刃は、源氏一族にも向けられました。
頼朝の弟・源範頼が処分されたのです。
”保暦間記”によれば、曽我兄弟の敵討ち事件の直後、頼朝が討たれたという誤報が鎌倉に伝わります。
嘆く妻。・政子に範頼が、「私が居るから大丈夫だ」と発言。
頼朝はそれを「謀反あり」と断じ、範頼を幽閉、殺害したのだといいます。
さらに、頼朝による粛清の嵐は続きます。
11月には頼朝に匹敵する血筋を誇ってきた甲斐源氏の有力者・安田義資が首を刎ねられます。
理由は、新たに建立した寺院の供養の最中に女官に恋文を渡したからでした。
そして翌年8月、義資の父・安田義定を反逆の企てありと晒し首にしてしまいます。
曽我事件を機に不安を持つ御家人と頼家のライバルになり得る者たちを、頼朝は一挙に葬り去ったのです。
そんな頼朝には、もう1人気になる人物がいました。
次男・実朝の後ろ盾として乳母夫に選んだ北条時政です。
時政は、曽我事件にかかわっていた可能性があったのです。
暗殺未遂事件が起きた巻狩では、時政は仕切り役としてすべての準備に関わっていました。
しかも、曽我兄弟の弟・五郎が元服した際の烏帽子親が時政でした。
その折、時政は、”時”の一文字を与え、”五郎時致”としています。
時政と曽我兄弟とは、きわめて近しい関係にあったのです。
そんな時まさに、頼朝が不審を抱いても不思議ではありません。
しかし、時政を処分することは、今後の幕府運営を考えた際に得策なのか??
一体どう扱えばいいのか・・・??
北条時政を排除する??それとも取り立てる??
1193年12月・・・事件から半年後。
事件直後に所領を没収された常陸国の多気義幹の弟・下妻弘幹が頼朝の命によって首を刎ねられました。
吾妻鏡は、その理由を北条時政に恨みを抱いていたからとしています。
さらに頼朝は、時政に新たな力を持たせます。
粛清した安田義定が勤めていた遠江国の守護に時政を任命したのです。
頼朝は、時政を取り立てることを選んだのです。
時政は、伊豆・駿河・遠江・・・三カ国の守護として幕府で大きな力を持つ存在となっていきました。
曽我事件から6年後の1199年1月13日、頼朝死去・・・享年53歳。
後を継いだのは、頼朝の嫡男・頼家・・・18歳でした。
しかし、4年後、頼家が病に倒れると、時政は頼家の後ろ盾だった比企能員を殺害。
さらに、比企一族を滅ぼし、頼家の将軍職を剥奪しました。
そして、自ら乳夫を務める実朝を12歳で3代将軍に据えます。
勢いに乗った時政は、実朝に変えて娘婿を将軍職につけようと画策。
娘・政子と、息子・義時によって追放されることになります。
頼朝の死から20年・・・
3代将軍実朝は、頼家の子・公暁に鶴岡八幡宮の境内で暗殺されます。
頼朝が力をつくした源氏将軍は、わずか3代で断絶することになりました。
その後、100年。
鎌倉幕府は北条氏が取り仕切っていくことになります。
にほんブログ村