1933年・・・ソビエト連邦共和国から送り込まれたリヒャルト・ゾルゲ。
天才的な手腕で、日本を丸裸にしていきます。
ゾルゲのスパイ網は、日本に深く入り込んでいました。

政治家の趣味・趣向から、女性関係まで把握し、軍や政治の最高機密まで手を伸ばしました。
しかし、表の顔は夜な夜な銀座で大酒のみの外国人・・・。片言の日本語で女性を口説きまくります。
天才スパイとプレイボーイのゾルゲには誰にも言えない秘密がありました。
それは耐えられない孤独・・・
唯一心を開いたのは、日本人の恋人でした。
そして遂にゾルゲに捜査の手が伸びます。
その秘められた素顔とは・・・??

モスクワの中心にあるニジネキスロフスキー通り・・・かつてゾルゲはこの通りに面した場所で、恋人のカーチャと暮らしていました。
37歳の時、ゾルゲは自分の身分を明かさずにカーチャにプロポーズ・・・式も挙げない登録だけの結婚でした。
しかし、幸せは長くは続きませんでした。
ゾルゲには、数か月後に日本に行く指令が出ていたのです。

「一人の愛する女より、任務に身を捧げる時が来た」

どうしてソ連のスパイとなったのか・・・??

ゾルゲが生まれたのは、アゼルバイジャン共和国の首都バクー。
かつてはロシア帝国の一部でした。
19世紀中ごろに豊かな石油資源が見つかると世界から一獲千金を狙う人が集まってきました。
父アドルフはドイツから来た石油技師、母はロシア人のニーナ。

「私には二つの祖国がある」

ドイツとロシア、二つの祖国を持ったことがゾルゲに大きな影響を与えます。

3歳の時、一家はドイツベルリンに移り住みます。
厳格な父の影響で、愛国少年に・・・。
ゾルゲが18歳の時大きな転機が・・・第1次世界大戦です。
愛国心に燃えるドイツは家族、先生にも相談せずに陸軍に・・・!!
しかし、そこは、想像していたような勇ましい、華やかな場所ではありませんでした。

「私はこの幾度となく繰り返して行われている戦争は無意味なことだと知った
 私は友人の死や飢えて疲弊する国民を目の当たりにした
 私は3度も負傷し、強い憤りを持ち始めていた」 

そんなゾルゲに衝撃的なニュースが・・・ロシア革命です。
日露戦争など戦争で貧しい暮らしを強いられてきた国民は皇帝に反旗を翻し、史上初の社会主義国誕生へ!!
その原動力は共産主義運動でした。
戦争につくづく嫌気がさしていたゾルゲは、これこそ平和の道だと考えました。

「ロシア革命の勃発で、私はこの運動を理論的に支持するのではなく、みずから現実にその一部となることを0決心した」

1919年、24歳の時、ドイツの変革を目指してドイツ共産党に入党。
政府の激しい弾圧によって失敗したものの4年後・・・モスクワにあるソ連のコミンテルンにスカウトされ・・・
1924年、29歳の時にソ連共産党員になります。
コミンテルンは世界中で活躍する共産党の国際組織です。
ゾルゲの任務は、ヨーロッパにおける政治、経済情勢の調査でした。
指導部はゾルゲの能力を高く評価し、4年後諜報機関へ!!
ソ連のスパイ・ゾルゲの誕生・・・この時、33歳でした。

「私はこの任務を私の性格に向いているために引き受けた」

ゾルゲの任務地は極東!!
中国大陸に利権を持つヨーロッパや日本がどう動くのか??という情報が、ソ連には極めて乏しく・・・ゾルゲの洞察力や分析力に期待したのです。



「私は東洋におけるかつてない複雑な情勢に引き付けられた」

1933年、37歳で来日・・・潜入。
その頃日本は、外国のスパイに警戒するようにたくさんキャンペーンされていました。
スパイは捕まれば死刑・・・そんな中、ゾルゲの暗躍が始まります。
スパイ生活と私生活をどう成立させたのでしょうか?
ゾルゲの任務は、ドイツ軍と日本軍の動向を探ることでした。
ゾルゲは大手新聞社の特派員としてドイツの外国人記者として来日しました。
父親がドイツ人であるので、怪しまれることはありませんでした。
外国の通信社のあるビルを拠点に、日本で取材した記事をドイツに贈る傍ら、ソ連のスパイとして活動しました。
ゾルゲがまず目をつけたのが東京にあるドイツ大使館でした。

「ドイツ大使館の信用が得られたら、私は日本人に最も信用されるだろう
 そして大使館は私にかかるかもしれない様々な疑惑に対し、防波堤となるだろうと考えた」

ゾルゲのターゲットは、陸軍武官オット。
ドイツ本国の情報はもちろん、日本の機密も知る男でした。
ゾルゲは記者として接近するだけでなく、大嫌いなナチスに入党し、オットの信頼を得ます。
ゾルゲは自分からソ連や日本の情報を提供します。
これは彼の周到な計画の一つでした。

「私はドイツ側に(ソ連から得た)多少の情報を提供してよいという了解を得ていた」

オットはゾルゲからの情報の代わりに、ドイツや日本の情報を漏らしたのです。

スパイはただ情報をとるだけでは成り立ちません。
相手にも核心部分の手前ぐらいの情報は与えないと、次の情報は取れません。
どこまで漏らしていいのか?
常に彼は考えていました。

オットのゾルゲへの信頼はどんどん高まっていきます。

「あの男は、何でも知っている」byオット

オットはゾルゲを有能なジャーナリストとして大使館内に部屋を与え、重要書類の入った金庫の鍵さえ与えました。

「私はオットの協力者として、ドイツ大使館では一目置かれる存在だった
 大使や武官などから意見を求められたり、相談まで持ちかけられた
 少しも苦労せずに大使館の文書や資料を借り受け、写真にとることもできた」

ゾルゲは一方でスパイを組織化・・・組織の中心メンバーは4人・・・
フランスの写真記者ブランコ・ブケリッチ(ゾルゲの補佐)、ドイツの天才無線技士マックス・クラウゼン、アメリカから画家の宮城予徳・・・宮城は写生旅行と偽って、日本各地の軍部の動きを調べます。
そしてゾルゲが最も頼りにしたのが新聞記者・尾崎秀実・・・5年前に上海で出会い、その時から目をつけていました。

「尾崎は優れた政治的教育を受けており、非常に賢く、極めて役に立つ」

国際情勢に詳しい尾崎は、近衛文麿に重用されました。
情報は、尾崎からゾルゲに筒抜けだったのです。
更に連絡員を加え・・・総勢17人・・・互いに顔も知らないスパイ組織ラムゼイ諜報団を作りました。
ゾルゲは表向きは外国記者として生活していました。
住まいは東京麻布の質素な家・・・毎朝6時に起き、朝風呂に入り、新聞を読んでエキスパンダーで体を鍛えます。
読書やタイプライターで執筆し、昼からドイツ大使館や外国通信社のある銀座へ向かいます。
ゾルゲはモスクワにいる妻にしばしば手紙を送ります。

「ここでの生活はひどいけれど、すべてうまくいっています
 もちろんつらいですが、安らかな生活を送ってください
 そして私のことを忘れないでください」

しかし、実際の行動は、手紙とは裏腹で・・・
ゾルゲが足しげく通ったのは、大使館で毎週末に行われたサロンパーティー・・・。
ダンスが上手く、話し上手なゾルゲは女性たちの人気の的でした。
この女性と狙いを定めたら、人妻、独身を問わず一夜を共にしました。
ゾルゲを信用し、重用していたオットの妻・ヘルマとも不倫の関係になっていました。
ゾルゲはいつしかサロン荒らしという名でよばれました。
日本の女性も派手に口説きまわります。
単なる放蕩を繰り返している外国人に見せかけます。
派手なプレイボーイぶりは、隠れ蓑にする手段でしたが、日本人の気質や文化の理解にもつながると考えていました。
ゾルゲはスパイの心構えを後にこう語っています。

「利口なスパイは、軍や政治上の秘密や書類を手に入れるということにのみ務めるのではなく、少しでも関係のある問題について情報を拾い集め、深い理解を持つ必要がある
 日本の歴史に照らし合わせてみると、現代の政治外交問題も容易に理解することができるようになっていた」

日本という国を深く理解しようとしていたゾルゲ・・・
1936年2.26事件・・・陸軍青年将校千数百名を率いて起こしたクーデター未遂事件です。
彼等が占拠した地域の中には、ゾルゲの通うドイツ大使館がありました。
そのためゾルゲは事件の様子を克明にレポートしています。

「突如官庁街で一斉射撃音が響き渡った
 官庁街は恐ろしい顔でにらみつける兵士によって厳しく遮断されていることがまもなく判明した
 すべての責任のある官庁の機能はマヒし、政府は何一つ発表しなかった」

ゾルゲの手下たちは、外国人記者という立場を利用して、首謀者のインタビューにも成功しています。
2.26事件について、ゾルゲのレポートはこう結んでいます。

「この事件から日本では今後軍部の独走が始まり反ソ連的になっていくだろう」

このラムゼイ報告は、その後6年にわたり、モスクワに送られ続けたのです。

日本でスパイ活動をしている間・・・ゾルゲのもう一つの祖国、ドイツも大きく変わりました。
ヒトラー率いるナチスの台頭・・・ゾルゲはヒトラーの危険性を何度もモスクワに訴えたものの聞き入れられませんでした。

1937年42歳・・・来日して4年目・・・モスクワから直ちに帰国せよと命令が・・・
しかし、ゾルゲは帰りませんでした。
母国の変化に気付いていたからです。
ソ連ではスターリンが実権を握り、独裁を深めていました。
スターリンは世界平和を目指すという最初の目的、理想を捨て、領土と自分の地位を守ることを優先しました。
スターリンは、ゾルゲの父がドイツ人ということから二重スパイでないか?と疑っていました。
今帰れば殺されてしまうのではないか??
妻カーチャに手紙を送ります。

「私の大切なカーチャ・・・
 長い間、私は手紙を書くことができなかったのです
 私を待ち続けるのはやめた方が、あなたには幸せかもしれません
 でも愛する人よ ほかにどうしようもないのです
 あまりにも長く、あまりにもつらい時がたちました
 あついキスを送ります」

どうして命がけでスパイ活動を続けたのでしょうか?
モスクワの本部と妻からも離れ、半ば孤立してスパイ活動をしていたゾルゲ・・・
表向きは派手に遊んでいても、自分の正体は明かせず・・・
そんなゾルゲがただ一人心を開いたのは・・・石井花子でした。
日本に来て2年目・・・銀座でウェイトレスとして働く花子と出会いました。
16歳年下でした。
二人は恋に落ち・・・ゾルゲは花子を家にあげ、6年間も過ごしています。

1941年、45歳・・・来日して8年目・・・
ヒトラー率いるナチスドイツがソ連に侵攻・・・独ソ戦が始まりました。
1か月も前から再三ドイツの危険性を報告していたゾルゲにとって、モスクワの反応は歯がゆいものでした。
ドイツの信仰が始まった翌日・・・6月23日緊急指令!!

「独ソ戦に対する日本政府の方針を探って報告せよ」

ソ連はドイツ戦線に戦力を集中させたかったのです。
しかし、戦力が西側に偏れば、日本に対する防備が薄くなる・・・
日本軍がソ連に侵攻する可能性はあるのか・・・??
ゾルゲに探らせようとします。
スターリンへの違和感からモスクワから距離をとっていたゾルゲでしたが、祖国を守るために迷いはありませんでした。
スパイたるもの戦争を止めるのが本当の仕事・・・そう、信念を持っていました。
そして、モスクワの勝利は共産主義の勝利・・・!!

ゾルゲが全精力をあげて探ったのは、「日本軍はどう動くのか?」という情報でした。
ゾルゲに情報をもたらしたのは、諜報部の中枢人物の尾崎でした。

1941年7月2日天皇と中枢部との御前会議が開かれ、日本の取るべき二つの道が検討されました。
この機に乗じてソ連への北進か、東南アジアの石油資源の南進か・・・??
もし、日本が北進すれば、ソ連軍はドイツ軍と日本軍に挟み撃ちにされる・・・!!
独ソ戦の勃発から2か月後、諜報団の尾崎は政府の要人である西園寺公一と接触します。
尾崎はそれとなく話を伐り出します。

「対ソ戦をやるかやらないか、満州から軍幹部が着て相談しているそうだが、やらぬことになったのか?」
「それは、軍と政府の間でやらぬことに決まったよ」

この情報は、すぐにゾルゲに報告されました。
ゾルゲは日本軍の様子など裏付けをとると、暗号電報をモスクワに・・・!!

1941年10月4日、ラムゼイ報告
日本軍が北進を中止したことにより、前線部隊が日本への帰国を開始した
今年中の日本軍のソ連参戦はない

この報告を受け取ったソ連は、極東を守っていたシベリアの精鋭部隊を西へと移動!!
ゾルゲは、日本脱出の準備を・・・!!
しかし、モスクワへ打電した2週間後の1941年10月18日、ゾルゲの自宅を特高警察が取り囲み・・・20世紀最大と言われるスパイ事件の首謀者ゾルゲは逮捕されたのです。

ゾルゲは東京拘置所に入れられました。
他のメンバーは、すぐにスパイ活動を自白しましたが、ゾルゲだけは否認し続けていました。
しかし、逮捕から1週間・・・ついに、全面的に自白をはじめました。

「石井花子に絶対タッチしてくれるな!!」

当初、スパイ容疑さえ認めなかったゾルゲでしたが・・・証拠を突き付けられました。
それは、暗号電報の下書きでした。
ゾルゲが逮捕前夜に書いたものでした。

「任務達成につき 日本脱出の許可を願う」

いきなり立ち上がり、上着を脱いで投げつけて・・・
「いかにも俺はスパイだった、コミュニストだ、間違いない!!
 ソ連のためにやった
 俺は今までいっぺんも負けなかった
 日本の警察に初めて負けた!!」

ゾルゲの自白は変わっていました。
ドイツ語の文章の方がわかりやすいと、愛用のタイプライターで供述書を打っていきました。
ゾルゲは自らの生い立ち、スパイになった動機を書きました。
そしてどのようにスパイ団を作って、どのように情報を手に入れたのか・・・書いていきます。

1943年2月、極東方面からの精鋭部隊のおかげで、ソ連軍はスターリングラードをドイツから守ることができました。
このニュースに、ゾルゲは満面の笑みを浮かべたといいます。
日本政府はこのスパイ事件を極秘に処理しようと、ソ連にゾルゲと日本兵との交換を申し込みます。
しかし、答えは意外なものでした。

「リヒャルト・ゾルゲなる人物に、当方は心当たりがありません」

戦争の行方を左右する重要な情報をもらたしたゾルゲは、ソ連にとって英雄のはずでした。
しかし、スターリンはその存在すら認めませんでした。
取り調べ半年後・・・

「私の秘密の仕事の全責任は、私にあるのであります。」

スパイは国家への重罪・・・スパイでなくてもその関係者は厳しく取り調べられ・・・拷問で死ぬことも・・・。
ゾルゲは死を覚悟していましたが、どうしても巻き込みたくない人がいました。
自白の前に条件を出しました。

「私に関わった女性たちのことは触れないでくれ
 石井花子は諜報事件について関係ないのだから、取調べの対象から外してもらいたい」

ゾルゲは最後まで花子の正体を明かしませんでした。
知ってしまえば、事件の関係者になってしまうと考えたのかもしれません。
取調べ官も、察して暗黙の了解を・・・
ゾルゲは供述書にわざわざこんな文章を残しています。

「女というものは、政治的なあるいはいろいろな知識がないから、情報活動には全然だめで、女はスパイ活動には役に立たないと思っている」

自分と関係のあった女性たちを守ろうとしたのかもしれません。
石井花子は取調べを受けたものの基礎はされませんでした。

逮捕から2年後の1943年9月29日・・・
主文 被告人を死刑に処す

祖の翌年、1944年11月7日、スターリンは独ソ戦の勝利宣言をしました。
「偉大なる祖国万歳!!」
同じ日、東京拘置所でゾルゲの死刑が執行されました。
ゾルゲ・・・49歳の生涯でした。
遺骨は戦後、共同墓地から石井花子が探し出し、手厚く葬りました。
現在、モスクワ市内にある公園には、ゾルゲの銅像が置かれています。
作られたのはゾルゲの死から20年後・・・スターリンも世を去ってから・・・
理由は、祖国をナチスドイツから救った功績。
ゾルゲは今も市民に愛されています。


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