「日本の伝統」の正体 [ 藤井青銅 ]

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古くからの「当たり前」に隠された意外な真実とは・・・??

私たちの暮らしに溶け込んでいる礼儀や作法、習慣・・・古くから日本に続く伝統・・・。
「初詣」は、日本ならではの伝統です。
関東なら明治神宮、関西なら伏見稲荷大社が例年のTOPを走り続けています。
毎年同じ神社にお参りします。
わざわざ混む正月に・・・??
初詣のルーツは「恵方詣り」です。
室町時代には行われていましたが・・・
恵方詣りとは、正月に縁起のいい恵方にあるお寺や神社を参拝することでした。
恵方には4つの方角があり、毎年異なっていました。
どの神社も、恵方に当たるのは4年に一度、それに合わせて参拝者も行く神社を変えていました。
しかし、明治30年頃・・・ある男の思惑がこの伝統を覆します。
男の名は、立川勇次郎です。
彼は、鉄道事業に参入しようとしました。

「庶民にとって、汽車に乗ることは憧れとなっている・・・彼らを取り込もう!!」

明治5年に初めて鉄道が開業。
人々の注目を集めていました。
「そうだ!!恵方詣りと汽車を結び付けよう!!」

明治32年、川崎駅~川崎大師間、2キロの路線を開通します。
明治37年には品川まで延長。
川崎大師に遠方からの客も増え、参拝客が激増します。
恵方詣りをする人が激増したのです。
ところが・・・
「恵方詣りでは、4年に一度しか集客できない!!」
そこで・・・
「そうだ!!
 いっそのこと、初詣を!!」
初詣なら、恵方に関係なく参拝できます。
新しいシステムでした。
これが大当たりして、川崎大師には毎年多くの人が参るようになりました。
同じように、他の電鉄会社も「初詣」を打ち出し、沿線の神社を宣伝します。
いつしか、恵方詣りという伝統は消え、電鉄会社による「初詣」が新しい伝統となったのです。

平安神宮に隠された京都の意地

明治の初め、突然都が東京になってしまった・・・。
天皇陛下も東京へ・・・。
宮中御用達の老舗が次々と東京に拠点を移し、人口は激減!!経済は停滞!!

「このままやったら、京都も奈良みたいになってしまう・・・」
「大きな神宮を作って、この京都がほんまの都やっちゅうのを見せつけたりまひょ。」

明治28年平安遷都千百年記念祭が行われます。
この時、そのシンボルとして平安神宮を造ることになりました。
しかし、莫大なお金が要る・・・
国を頼らず、建築費をすべて寄付で捻出します。
平安神宮には、京都人の意地と底力が隠されているのです。


正座に隠された恐ろしい仕掛け

古来正座は、神仏を拝むときなど神聖な儀式のときに作法として行われていました。
平安時代の装束は、下半身は大きくゆっくりと作られています。
これは、正座ではなく、あぐらを組むことを前提に作られています。
日常の礼儀としては、あぐらが正式だったのです。

江戸時代初期、参勤交代が制定されました。
江戸城内の作法として正座を強要されることとなります。
将軍と対面する時、彼らに正座させることで、将軍を神格化し、忠誠心を植え付けたのです。
これが、新しい礼儀として拡散し、庶民へと普及したのです。


万歳に隠された明治政府の思惑

本来日本では正式な儀式では無言で行います。
しかし明治22年、大日本帝国憲法発布に併せ、明治天皇が観兵式に臨むことに・・・。
すると、啓礼だけでは物足りない・・・
外国のように歓喜の声を上げては??ということで、
「万歳、万歳、万々歳!!」ということになりました。
万歳とは、古くから長寿や末永い繁栄を意味していました。
明治天皇に向かって、初めて万歳三唱を行うこととなりましたが・・・
その大きな声に馬が驚いて立ち止まってしまいました。
なので、2回目の万歳は小声、万々歳は言えずに終わってしまいました。
以後、「万々歳」は省略され、「万歳だけ三唱」となったのです。


あぶらとり紙に隠された意外なルーツ

古くから舞妓や芸子が活躍する京都・・・
彼女たちの必需品の一つがあぶらとり紙です。
京都の伝統のお土産物と思われがちですが・・・
しかし、そこには意外なルーツが・・・。

大正から昭和にかけて、映画全盛期で、数多くの映画撮影が行われてきました。
しかし、フィルムの感度が悪い当時は、役者が大量のライトを浴びていました。
顔に油が浮いてしまう・・・。
そこで、テカリを何とかする為に、化粧品卸業・國枝茂夫が考えます。
試行錯誤の末に・・・和紙・・・金箔の裏打ち紙に目をつけます。
この紙は、顔の油をとってくれる上に、化粧が落ちません。
撮影所や舞台で重宝されていきます。
そして・・・「手帳型にしたら使いやすくなるかも??」
大正10年頃、手帳型に加工し、販売します。
たちまち映画関係者、舞妓・芸妓の間でも評判になります。

伝統には、様々な人々の思惑が隠されているのです。


海外の伝統にも不思議なルーツが・・・。

世界最大の領土のあるロシア・・・古くから音楽やバレエが盛んで舞台芸術の国といわれています。
マトリョーシカ・・・伝統的な入れ子人形として世界に知れ渡っています。
その誕生のきっかけは、19世紀後半。
ロシアの鉄道王を夫に持つマモントフ夫人には、悩みがありました。

「一体何を出店したらいいのかしら・・・??」

数年後に開かれるパリ万国博覧会・・・出店するロシアならではの民芸品を決めかねていました。
当時、ロシアでは急速に産業が進歩、しかし、イギリスやフランスから遅れているために、ロシアの文化をアピールする必要がありました。
そんな中、日本との友好を図るために来日し、箱根へ・・・。
その時入った土産物店で見つけました。

「この人形を、ロシア風にアレンジして頂戴。」

帰国し、お抱えの木工職人に言いました。
依頼を受けた木工職人は、試行錯誤の末・・・マトリョーシカを作ったのです。

ロシアの民芸品として出展されたマトリョーシカは、評判を呼び、銅賞を獲得し、ロシアの名産品として世界中に知られるようになったのです。
そのモデルとなったのが・・・入れ子の七福神人形だったのです。


世界屈指のリゾート地ハワイで・・・。
1885年サトウキビ畑の開拓で、日本人が移住。
約15年の間に、22万人が移住しました。
しかし、「3年で400万円稼げる」と、移民募集をしましたが、そかし、実態は人身売買に近く、賃金ももらえず着る者にも困る始末でした。
それでも勤勉で節約家の日本人・・・。
移住者のひとりでシャツの仕立て職人・宮本長太郎は・・・着物として用をなさなくなったものをシャツに仕立て直しました。
アロハシャツは、宮本が考案したもので、派手なデザインはもともと着物の柄だったのです。
これが口コミで広まり、1904年アロハ専門の店をオープン。
彼は、アロハシャツとして和柄のシャツを仕立てたのです。
観光客はもちろん、現地のハワイアンも購入。
アロハシャツは、ハワイの正装として認知されていきます。
世界中から愛され続けているアロハシャツは、日本人がルーツだったのです。

海外の伝統にも知られざる歴史と思惑が隠されているのです。

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