【送料無料】 開国への布石 評伝・老中首座阿部正弘 / 土居良三 【単行本】

価格:3,675円
(2014/3/8 08:07時点)
感想(0件)


幕末・・・日本は未曽有の国難に直面していました。
ペリーの黒船来航です。

開国せよ!!

この時老中は阿部正弘。

開国か攘夷か???不屈の外交戦略に迫ります。

今でも外圧の代名詞のようにされている黒船来航。
この危機の対処を任されたのが阿部正弘でした。

でもあまり知られていません。。。
それは、30過ぎで亡くなってしまったことと、後の明治政府が薩長の人たちの時代だったからです。

広島県福山市、徳川譜代の名門・阿部氏10万石。。。
1836年わずか18歳で福山藩主となった阿部正弘。
聡明だったようです。

全国で30万人の死者を出した天保の大飢饉で・・・
阿部は貯えていた米を放出し、領内にただ一人の死者も出さなかったといいます。
若き名君として・・・中枢の政治に参加。
1843年には25歳にして老中となりました。

しかし・・・その船出は順風満帆ではありませんでした。
海外危機の高まり・・・
産業革命に成功したイギリスは、圧倒的な武力をもとに、アジアの植民地化を進めていました。
1842年には、アヘン戦争で清国に香港を割譲させ・・・その脅威は日本の近くまで来ていました。
同じころ、アメリカも勢力を拡大し・・・1848年西海岸をメキシコから割譲させ・・・
目は太平洋へ向いていきます。
両大国のはざまにあって・・・200年間続いてきた鎖国は・・・風前の灯でした。

阿部のもとに恐るべき知らせが・・・
アメリカが日本に向けて使節を派遣する。。。オランダからの情報でした。
その目的は・・・開国・・・!!
指揮官ペリーの艦隊には、上陸部隊もあるという。。。

鎖国の存続が危ぶまれる一大事です。

この時の阿部は・・・。
最初は鎖国を守ることを考えます。
日本の国威・名誉を守りたい!!
ということで、海防・軍事力の強化に努めようとします。
しかし、当時の幕府の台所は火の車。。。
資金はありません。
手をこまねいて待つよりほかに手はありませんでした。

翌年、遂に、ペリー率いる艦隊が浦賀沖にやってきました。
黒船には強力な兵器も・・・!!

最新式の大砲・ペキサンス砲です。
弾を水平に発射できる命中率も高く破壊力も高い・・・
ただの鉄の玉を上に向かって撃つ日本の大砲とは全く違っていました。

日本中がパニックに陥ります。
攘夷の声が、日本全土に広がっていきました。

ペリーはアメリカ大統領からの国書を受け取らせようとさらに江戸湾内へ・・・!!
目的は・・・??ペリーは江戸湾を測量し、どこまで艦隊が進めるのか???本国に送っていました。
示威行動を起こしたのです。
阿部は久里浜で国書を受け取ります。
アメリカからの要求は、一方的なものでした。
船舶の補給基地として港を開くこと。
交易の開始。。。強引な開国要求でした。

国書を受け取ってしまった。。。
準備をせずに手をこまねいて見ていた・・・
しかし、無能ではなくて無力でした。
いかんせん・・・お金がなかったのです。

この国書を受け取ってしまったことで袋小路に追い込まれてしまった阿部・・・。
ペリーの去った後、海岸防備に着手します。

江戸湾には砲台、11の台場の建造を指示し、江戸への侵入を防ごうとしますが・・・
日本は海岸線ばかりです。
黒船の脅威は防ぎきれない・・・!!

そこで前代未聞の方法に・・・!!
それまで幕府政治に参加できなかった御三家や外様大名、旗本にまで国書を開示し、意見を求めたのでした。
それは、挙国一致で国難に当たるという画期的な方針でした。
藩や幕府のみに対してしか帰属意識がなかった日本人に、日本人の意識を持たせた事件でした。
集まった意見書は800近く・・・!!
庶民も意見書を出し。。。
有力大名の半数が、鎖国を守るためには戦争も仕方ない!!と、主張しました。

開国か攘夷か・・・!!

攘夷は水戸斉昭。

黒船と戦争になった場合、舞台は江戸。。。
湾からの攻撃は、日本橋・浜松町は射程距離・・・
砲撃によって下町は完全に火の海になる恐れがありました。
上様までが避難しなければならなくなる。。。
将軍の権威は失墜してしまう。。。

通商を積極的に行おうと意見したのは無役の旗本だった勝海舟。
意見書には・・・
外寇への備えは、交易の利潤を持って充てる
利益を収めることが国防へと繋がる・・・と説いたのです。

攘夷・開国・・・どちらも平坦な道ではありませんでした。
島津の言うように解答延引する・・・???
準備をしてから打ち払うべき???

どうする??

阿部が選択に当たって重要視したこと・・・
斉昭に・・・
「アメリカはバ万国に優れた強国。。。
 打ち払って敗れればご国体を汚し、取り返しのつかないことになる」と言っています。
つまり、阿部が最も重要視したことは、”戦争の回避”だったのです。

しかし、国内の争乱にかかわる通商は認めるわけにはいけない・・・。
5年でも10年でものばす回答延引策をとることにしました。

1853年6月には将軍・家慶が死去。
阿部はそのことを口実に、オランダを通じてペリーに交渉の先延ばしを提案しました。
しかし・・・ペリーはこれを目さず・・・
「将軍の死は、公務を遅らせる理由にはならない」としたのです。
1854年1月・・・国書への返答を迫るべく、7席の艦隊を率いてペリーが江戸湾にやってきました。
奥深くまでやってきて・・・威圧し、横浜での交渉開始を幕府に認めさせました。

ペリーから阿部に送られたものに・・・
”米墨戦争図”があります。
1848年アメリカがメキシコに領土の1/3を分割させた版画です。
メキシコの首都に入城し、アメリカ国旗を揚げる姿が生々しく書かれています。
場合によっては日本も・・・。

という脅しでした。

引き伸ばしはもはや通用しない・・・
実際の供応役は林大学頭は”通商まで譲歩”と主張。
しかし、阿部は慎重に・・・開港を容認する代わりに通称は拒絶するというものでした。
日本全体の世論を考えた結果でした。
人々は鎖国にしておきたかったのです。

ペリーは妥協し・・・
「通商についての要求は取り下げよう。」

交渉開始から1か月の3月3日。
日米和親条約締結。
西洋列強と初めて結んだ条約で・・・
開港するのは首都から離れた下田と箱館で、そこでは航海に必要な物資の調達だけを認めました。
通商も通信、国交も結んではいなかったのです。
ミニマムの条約でした。
ペリーにとっては大失態だったのです。

その裏にあったのは・・・
軍学者・江木鰐水は・・・
阿部の密命を受け黒船に乗り込んで、その武装についても細かく報告し、ペリーの人柄についても調査していました。
相手のことを周到に調べたうえでの交渉。
押し切られて結んだイメージのあった和親条約ですが・・・そうではなかったのです。

条約締結によって時を稼いだ阿部は、新しい時代への準備を始めます。
列強から国を守るために・・・海軍を創設!!
西洋の技術に追いつくために人材の育成を!!
条約締結の翌年、長崎に海軍伝習所を創設。
航海術を始め、医学など・・・諸藩の若者たちにも学ばせました。
勝海舟も3年以上も研鑽をつみました。

鎖国政策も大転換し・・・
「交易互市の利益をもって富国強兵の基本とする」
幕府の役人たちに向けて富国強兵を説くのでした。
しかし阿部は・・・日本の未来を見ることなく・・・

1857年 条約締結から3年後・・・享年39歳の生涯でした。
阿部の後を継いだのは、大老・井伊直弼。。。
その政治手法は、阿部とは全く異なり・・・
1858年日米修好通商条約を結び、完全に開国に踏み切りました。
しかし、その調印は多数の反対を押し切り、勅許を得ずにの調印だったのです。

さらに井伊は・・・安政の大獄で多くの人を弾圧し・・・
阿部の試みた挙国一致は顧みられることはありませんでした。
1860年3月3日・・・井伊は桜田門外で水戸藩士たちによって暗殺されるのでした。
これ以後・・・動乱の時代が始まるのです。

もし阿部が死んでいなかったら・・・
幕府が存続しているうえで、薩長と水戸・・・幕府との対立もなく・・・明治維新もなかったかもしれません。
幕府が中心となって、緩やかな近代化が推し進められたかもしれません。

公武合体の可能性があり・・・
日本のナショナリズムの質も変わっていたかもしれません。


”幕末。日本外交は弱腰にあらず。”はこちら
井伊直弼~死によって歴史を変えた大老~はこちら
開国に命を懸けた老中首座~堀田正睦~はこちら


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

幕末・明治時代(日本史) ブログランキングへ

国難を背負って 幕末宰相-阿部正弘・堀田正睦・井伊直弼の軌跡 (単行本・ムック) / 脇坂昌宏/著

価格:2,100円
(2014/3/8 08:08時点)
感想(0件)