北陸越中に栄えた富山の城下町・・・北アルプス立山連峰がそびえ、富山湾に面した薬の都。


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北前船によって、全国の富が集まってきた富山の城下町です。

富山城・・・昭和29年に建てられた新しい天守閣です。

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江戸時代の富山城には天守閣がありませんでした。
どうして建てられなかったの?
富山藩は、1639年、加賀藩前田家の分家として成立しました。
初代・前田利次は、加賀藩三代目藩主利常の次男です。

江戸時代初期・加賀藩前田家の石高は120万石。
大大名であり、最大の石高を持つ外様大名でした。
なので、幕府にとっては脅威!!
幕府は加賀藩を警戒していました。
不審な動きをしようものならお取り潰しにしかねない状況でした。

幕府にあらぬ嫌疑をかけられたくない加賀藩。1602年に金沢城天守が焼失した時も・・・天守の債権を断念していました。
なので、富山藩も天守建設は出来ない???
幕府から建ててもいいと言われていたそうですが、財政難で建てられませんでした。

その理由は”親バカ”???
加賀藩三代藩主前田利常は、「鼻毛の殿様」。幕府への謀反を起こさない器ではないと示すために、自ら鼻毛を伸ばしてバカ殿をしていました。
相することで加賀藩を守り抜いたのです。

しかし、彼の欠点は親バカ。。。
家督を継げない次男・利次の為に、富山藩を与えたのです。
これは、加賀の石高を減らすことで幕府からの厳しい目をそらす為・・・とも言われていますが。。。
次男も殿さまにしたかったのか、分家でも10万石を分与しています。

前田利次が初代からもらった鯰兜・・・
全長140㎝あるこの家宝の兜と蔵ひとつ分の財宝をも与えたのでした。
さらに・・・1300人以上の大家臣団さえも、富山藩に与えてしまいました。
良かれと思って与えたこの家臣団が、天守を建設できなかった最大の要因ではないか?と言われています。
10万石で1300人の家臣団・・・9割が家臣の給料でした。
つまり、石高の一割で藩の財政を賄わなければならず・・・
だから・・・幕府から認可を得たにもかかわらず、天守を建てられなかったのです。

しかし、財政難だったからこそ・・・売薬が栄えたのです。

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”富山の薬売り”、富山で有名なのは”反魂丹”です。

反魂丹の文化史 越中富山の薬売り

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もともと備前発祥の胃腸薬で、江戸時代には万能薬として重宝されていました。

大量生産するほど需要があり・・・富山の薬売りは、江戸時代には2000人以上。
全国を売り歩き、藩の財政を担っていました。

富山藩二代目・前田正甫。
幼いころから病弱で、漢方薬を服用し、自らも調合する薬オタクでした。
この反魂丹も、正甫の指示によって作られたと言われています。
そして薬で、困窮する藩の財政を立て直そうとします。

そして・・・1690年江戸城にて・・・
松の廊下で奥州三春藩主・秋田輝季が腹痛を起こしました。
慌てる諸大名・・・

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そこへやって来た前田正甫は、反魂丹を処方します。
すると・・・腹痛が嘘のように消えたのです。

「すごい薬だ!!」

こうして反魂丹は、日本中に広まったのです。
そして・・・富山は他藩商売勝手とし、藩から勝手に出て商売をしても良いという御触れを出していました。
富山の薬売りはこれによって全国に広まり・・・
”先用後利”を提案し、置き薬システムとなったのです。

富山はお薬で有名ですが、薬同じように水飴も発展してきました。
麦芽水飴・・・水飴は、薬に苦さを抑え、つなぎとしても必要だったのです。
最盛期には、9割の人が薬に携わっていたと言われています。
薬のパッケージ、おまけからの印刷業・・・
薬売りは、富山に大きな影響を与えました。

北前船・・・
江戸時代、日本海の港を回り売買をしていた北前船。。。
儲けが倍倍なので、富山ではバイ船と呼ばれていました。
莫大な利益をもたらしました。

日本中で一番コンブを消費しているのは、富山です。
江戸時代、北前船がもたらした食費の分かです。
今でも消費量は全国一位!!
そのコンブの活用方法は???
とろろ昆布おにぎり・昆布巻蒲鉾・昆布餅・昆布パン・・・

薬売りにとっても昆布とかかわりが深く・・・
江戸中期より盛んになった富山の薬産業。
日本全国で行商を行って、顧客を獲得していきましたが。。。
最難関は薩摩藩。
江戸時代薩摩藩は、秘密の国と言われるほどで、他藩の出入りがとても難しかったのです。
しかし、富山の薬売りだけは自由に入ることができました。
どうして入れたのか???
上質の昆布が富山にあったからです。

江戸時代、長崎を除いては鎖国でした。
薩摩藩の密貿易に・・・その内容の大半は昆布だったのです。
この貿易によって、薩摩は巨万の富を得ていたのです。
それは中国でも、昆布は薬として高く売れたからです。
薬売り達は、昆布を使って薩摩に入国していました。
そして・・・薩摩と取引し、中国産の生薬を安く仕入れていました。
昆布が無かったら、薩摩は最強になっていなかったかも???

苦しい財政があったからこそ生まれた薬売り・・・それは、藩の経済を支えるとともに、全国の人々の健康も支えていたのです。
富山は薬売りの精神と、人々の温かさが溢れた城下町でした。


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