オリンピックで日本人初のメダリストが誕生したのは、1928年8月2日、アムステルダムオリンピック女子800mでした。
世界はこの類まれな身体能力に驚き、東洋の明星と呼びました。
その名は人見絹枝。
64年後の1992年8月2日、バルセロナオリンピックで同郷・岡山県出身の有森裕子が銀メダルを獲得しました。
人見絹枝以来女子陸上競技二人目の快挙でした。

しかし、人見絹枝のオリンピックへの道程は、決して容易なものではありませんでした。
近年、生家から人見絹枝の17歳の日記が発見されました。
そこに綴られていた悲痛な思い・・・女が足を露にすることさえ憚られる時代、心無い言葉が投げつけられました。
日本人女性初のメダリスト・人見絹枝・・・メダル獲得までの苦悩の洗濯とは・・・??

人見絹枝の故郷は、岡山県岡山市・・・
1907年農家の次女として生まれた人見はここで伸び伸びと育ちました。
体格にも恵まれた人見・・・十代で身長は169cm、足のサイズは27cm。
日本女性の平均身長が150cmだった時代、人見は目を引く存在でした。
1920年、高等女学校に入学、スポーツの出発点は、袴でもできる庭球でした。
そんな人見に陸上競技会出場の話が舞い込みます。
大正末期、男子だけで行われていた陸上競技が女子にも普及し始めていました。
女子だけの陸上競技会も開催され、その広がりは全国的なものになってきていました。
岡山県大会に出場した人見は、走り幅跳びでいきなり日本新記録をたたき出します。
人見の能力を伸ばそうと女学校の校長は、東京の学校を薦めます。

1924年、日本女子体育大学の前身・・・二階堂体操塾に入学します。
高等女学校の体育教師を育成する創立間もない学校でした。
創設者は、二階堂トクヨ・・・私財を投げ打ち、荒れ地を開墾し、後に日本女子体育の母とされた人物です。
人見は二階堂の信念に心を打たれます。

「先生は教育家である一方に、又立派な事業家であります。
 あの五千坪ちかい運動場や体育館、それが全部、先生の手で成ったものなのです。」

人見絹枝は時代を切り開く、自立した女性の姿に憧れました。
そして袴を脱ぎ、体操着を着た人見絹枝は、二階堂体操塾でその才能を開花させていきます。
入学からわずか半年・・・17歳で三段跳びの世界新記録を樹立。
記録を出す喜びに目覚めた人見は、指導者ではなく競技者の道を選び、塾を巣立ちます。

時は大正デモクラシー・・・都会ではモダンガールが闊歩していました。
1926年、大阪の新聞社に入社。
当時、スポーツ記事で販路拡大を目指していた新聞社にスカウトされたのです。
新聞記者として記事を書きながら、競技も続ける・・・人見にとって自立の第一歩でした。
入社から4か月・・・転機が訪れます。
1926年8月、万国女子オリンピック・・・スェーデン・イエーテボリで行われる国際大会に出場することになったのです。
女子だけの陸上競技の世界大会です。
欧米を中心に10か国から92人の女子が集まりました。
人見絹枝は、東洋から参加したたった一人の選手でした。
初めての海外での大会・・・外国人と競う未知の世界・・・
この大舞台で、人見は驚くべき活躍を見せるのです。
100ヤード走3位、円盤投げ2位、立ち幅跳び・走り幅跳び金メダル、走り幅跳びは世界新記録でした。
東洋からやってきたヒロインに、ヨーロッパの観客は湧きました。
人見は総合優勝という活躍をし、オールラウンダー・・・万能選手として尊敬を集めました。
彼女の価値は、記録だけではありません。
1896年に始まった近代オリンピックは、あくまでも男性のものでした。
女性が参加できたのは、テニスやアーチェリーなど、男性が女性らしいと認めた競技のみでした。
男たちは、女性には陸上競技は過酷すぎると参加を認めなかったのです。

そこに異議を唱えたのは、女性の権利向上のために活動していたフランス人、アリス・ミリアでした。
ミリアは国際オリンピック委員会に、陸上競技に女性の参加を認めるように働きかけていました。
そんなミリアにとって、人見絹枝は女性でも立派に競技ができるという証でした。
この万国オリンピックを開いた理由・・・それは、女性たちが国際大会で競技する場がなかったからです。
スポーツは過激すぎると男性たちに言われる・・・
女性たちが、スポーツは自分達にも出来ると証明する駆け引きのツールでした。
IOCに見せて訴えたのです。

男たちもようやく重い腰をあげました。
第8回国際陸上競技連盟総会の議論の記録が残されています。
2年後のアムステルダムオリンピックでの女子陸上の採用は・・・??
欧米17か国の代表が意見を交わします。
強硬な反対派はフィンランド代表・・・
「女性が笑い者になる・・・男性の持久力は先祖から受け継いだものだが、女性はそうはいかない・・・」
これにノルウェー代表が反論します。
「男性にとって良いことは、人類の半分の女性にも良いことだ」
「一回だけでも試験的に女子種目を実施する??」
人見絹枝の活躍・・・それは、男性たちの懸念を払う見事なものでした。
この成果で、オリンピックに女子陸上が参加が決定的となります。
人見絹枝は、アムステルダムオリンピックへと歩み始めました。

1928年7月28日、オランダ・・・アムステルダムオリンピック!!
初めて女子陸上競技が開催される記念すべきオリンピックが開幕しました。
しかし、あくまで試験的・・・今後の継続は、このオリンピックでの女子の結果次第でした。
開会式に臨む日本選手団・・・人見絹枝は、たった一人の女子選手として行進していました。
当初、日本の女子はチームで参加する予定でした。
人見の活躍もあり、女子陸上は全国に広がり、世界レベルの記録を出す少女たちが現れました。
三段跳びと短距離走の天才少女・橋本静子。
100メートル走のスプリンター姉妹・・・双子の寺尾正・文。
彼女たちは人見絹枝にできた初めての仲間でした。
しかし・・・少女たちは好奇の目にさらされます。
寺尾姉妹をモデルにした恋愛小説が発表されました。
それは、陸上選手の美しい姉妹が一人の青年を奪い合うというものでした。
年端も行かない娘たちが見世物にされたとこを両親は激怒!!
姉妹を強引に引退させてしまいました。
橋本静子は記録が振るわず予選会で落選・・・オリンピック代表は、またしても人見絹枝ひとりになってしまいました。
オリンピックににひとりで出場・・・
「女だてらにオリンピックか!!」という批判もありました。
そんな中、今度のオリンピックで金メダルを取れるだろうとの期待感・・・
批判と期待の狭間に立った、その苦しみは大変でした。

人見が照準を定めたのは100m!!
人見は世界記録を出しており、メダルの期待が高まっていました。
準決勝2位までが決勝に進める・・・!!
結果は4位・・・まさかの準決勝敗退でした。

この時の気持ちを後に、
「もう目の前は真っ黒になって、奈落の底に落ちたような気持であった」と。

絶望の淵に突き落とされた人見絹枝・・・。

100m一本に絞ってやってきた・・・負けを受け止め帰国して再出発するのか??
このままでは帰れない・・・わずかな可能性・800mにかける・・・??
今まで1回も出たことがないのに・・・??
そうすれば女子スポーツの道が開かれる・・・??
しかし、800mは、陸上の格闘技と呼ばれていました。
集団内での駆け引き、足やひじのぶつかり合い、男性でも過酷な競技でした。
周りから見れば、勝てる可能性はゼロでした。

1928年8月2日・・・女子800m決勝!!
そのスタートラインに人見絹枝の姿がありました。
人見の挑戦が始まりました。

スタートダッシュ・・・100mで鍛えた体でトップに躍り出ます。
2位以下を引き離す・・・しかし、スタミナは続かない・・・。
200mを過ぎてから、一気に失速・・・。
追い抜かれ順位をさげます。
TOP集団を行くのは、800mの記録保持者ドイツのリナ・ラトケ。
差はどんどん開いていきます。
ラスト一周・・・人見が腕を多きく振り始めました。
ラトケとの差が縮まる・・・3位に上がった人見・・・遂に2位を捕らえました。
目の前にはラトケのみ・・!!
人見絹枝、2位でゴール!!
1位のラトケとの差はわずか2m、記録は2分17秒6!!
世界記録を上回るタイムでした。
しかし、ゴール直後、人見は意識を失っていました。
後続の選手も次々と倒れ、女子800mは、死のレースといわれました。
人見が我に返った時・・・ポールには日の丸がはためいていました。
人見絹枝が銀メダル獲得を実感した瞬間でした。

アムステルダムから帰国後、人見絹枝は全国の女学校を回り、自ら競技する姿を女学生たち見せ、訴えます。

”狭い国内ばかり見ないでください
 世界は広いのです
 海外に出なければ、物事の本当の姿は見えてきません”

自分が選手として行ってメダルを取っただけではなく、自分は何をしなければいけないのか・・・
ありとあらゆるスポーツのマネジメント、指導者、選手・・・すべてをこなしました。
オリンピックをへて、人見に芽生えた夢は、次の世界大会で日本女子選手団を率いて出場することでした。
人見は莫大な遠征費を調達する為に、執筆活動で得た印税を投入!!
年に200回に及ぶ講演会をこなし、陸上競技の魅力を伝えます。
さらに、全国の女学校を回って寄付金を募ります。
そして人見絹枝の元に、5人の才能あふれる少女が集まりました。
10代の女学生たちです。

1930年9月6日、第3回万国女子オリンピック大会プラハ大会開幕!!
人見絹枝を先頭に、6人の選手たちが堂々と更新していました。
しかし、初めての国際大会で記録のふるわない選手たち・・・
このままではいけない・・・人見絹枝は自分の記録より、日本チームとして結果を残すことにこだわります。
世界記録を持っていた200mを棄権し、チーム競技である400mリレーにかけたのです。
結果は見事4位入賞!!
人見絹枝の夢がかないました。

しかし・・・この時、身体は限界を迎えていました。
プラハ大会の翌年・・・過労により肺炎を併発した人見絹枝は・・・
1931年8月2日・・・静かに息を引き取りました。

人見絹枝の母校に、彼女の最期が残されています。
デスマスクです。
亡くなられた直後に作られたものです。
享年24歳・・・女子スポーツの行方に、一筋の光が差した矢先の、早すぎる死でした。
命日は8月2日・・・奇しくも3年前、アムステルダムオリンピックで銀メダリストに輝いた日でした。

同じく8月2日、有森裕子が銀メダルを獲得しました。
バルセロナオリンピックから帰国した有森は、人見の墓前に足を運びました。
人見の思いは64年の時を経て、再びつながれました。
人見絹枝が日本女子選手団として活躍したプラハ・・・
国の英雄たちが眠る国立墓地の一角に、人見絹枝の記念碑が残されています。
彼女の死を悼んだ現地の女子陸上委員会は、東洋の明星・人見絹枝を称えています。

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