日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:小早川隆景

1582年6月2日、この日、時代を揺るがす大事件が勃発!!
明智光秀が謀反を起こし、主君・織田信長を討ち取った本能寺の変です。
この時、羽柴秀吉・・・豊臣秀吉が奇跡を起こします。
備中高松城から姫路城まで100キロを、わずか2日で駆け抜けた・・・??
秀吉軍、2万5000の高速代移動・・・中国大返しです。
この奇跡の行軍により、秀吉は京郊外・山崎で光秀を討つことに成功!!
その後、天下人への道を切り開いたのです。
秀吉は、どのような方法で長距離移動を可能にしたのでしょうか?
戦国の軌跡・中国大返し・・・秀吉は天下への道程をいかにして切り開いたのか・・・??

1582年5月26日、本能寺の変5日前・・・近江の居城・坂本を出発した光秀は、丹波・亀山城に入城しました。
その3日後、安土城を出発した信長も、光秀同様、上洛を果たしています。
信長と光秀・・・両者の行く先は、実は同じ場所にありました。
史料には・・・”中国への御出陣”とあります。
中国方面軍・羽柴秀吉の援軍のため、2人は西へ移動したのです。
この時秀吉は、備中高松城を水攻めで包囲、中国地方の覇者・毛利軍と対峙していました。
ところが・・・6月2日、前代未聞の大事件・本能寺の変が勃発します。
光秀が謀反を起こし、信長を殺害!!
これにより、秀吉の戦況は一変します。

6月3日、秀吉に事件の一報が届きます。
6月4日、毛利と講和を締結・・・停戦協定を結びます。
信長亡き今、秀吉はすぐさま敵の勢力圏から離脱し、100キロ先の姫路城まで撤退・・・不測の事態に備えなければなりません。
秀吉はいつ撤退したのでしょうか??
史料によると、6月5日・・・秀吉が撤退したのは、本能寺の変から3日後のことでした。
いよいよ中国大返しの始まりです。

撤退は、実際どのように行われたのでしょうか?
そのほとんどが平装でした。
移動には、武者押しと平押しがあって、武者押しはのぼり旗を押し立てて全員が武装して美々しく軍事行動をします。
それに対して、現場に向かう時には平押し・・・平常の衣服のまま、甲冑などはすべて荷駄として後方から運ぶというものです。
そして敵地に近づいてきて警戒しなければとなると、武装するのです。
兵や馬の消耗を防ぐため、甲冑は戦場に近づいたときに着用するのが戦国の世の習わしでした。

では、当時の道路事情は・・・??
道幅6~8m、綺麗に平らにして人工的な道を作っていました。
これは、記録に残る軍道と呼ばれるもので、このような道を作っておくことで即座に軍勢が大勢を維持しながら進むことが出来る・・・退却することが出来るのです。

信長は、早くから道路政策に力を注いでいました。
信長はこう命じています。

「険しい道を平らげ岩を砕き、道を広げよ 道幅は三間半とする」

三間半とは、およそ6.3mのことです。
当時としては道幅の広い道路でした。
道路を整備することで、補給路を確保、日本各地での戦闘を展開した織田軍・・・
迅速な行軍こそ、織田軍をして常勝軍たらしめたのです。
秀吉の中国大返しでも、こうした軍道が利用されたと推測されます。

6月5日、沼城まで撤退。
しかし、秀吉の行く手を待ち受けるのは、居城・姫路城までのおよそ78キロの道程・・・
秀吉はどのような方法で、中国大返しを実行したのでしょうか?

謎多き中国大返し・・・
その手掛かりが、中国大返しのルートで新たに発見されました。
兵庫県神戸市・兵庫城跡・・・近年の発掘調査で、兵庫城は信長時代の特徴を持つ城郭であったことが明らかになりました。
兵庫城の石垣は、石垣の下に木材を敷き、朕かを防ぐ胴木組と呼ばれる築城技術・・・当時の最新技術が取り入れられていました。
当時、畿内の先進的な技術を握った信長と家臣たちは、こういう石垣を築いていました。
さらに、城の中心部本丸に入るための出入り口が2カ所もあります。
城の守りを固める入り口がたくさんあるのはそれだけ守りが弱くなります。
通常ではこのようなことはしません。
しかし、わざわざ正面に2つの入り口を作った兵庫城は、城の使い方が大きく変わるきっかけがありました。

洛中洛外図屏風の格式高い大名の屋敷には、正門と脇門があります。
高貴な人とそれ以外の人を分ける出入り口です。
兵庫城がこのような形に改修されたのは、本能寺の変の2年前のことでした。
同じ頃、秀吉の書状にある言葉が頻繁に出てきます。

”御座所”・・・織田家の武将にとっての高貴な存在・・・信長のことです。
兵庫城の改修は、信長の”御座所”にするために、2つの入り口を持っている城としたのです。
中国大返しのルート上にある兵庫城の御座所跡・・・食料などを備蓄していたと考えられています。
秀吉の中国大返しでは、御座所を利用することで高速の長距離移動が実現できたのでは・・・??

御座所の痕跡は、兵庫県加西市にある小谷城にもあります。
室町時代に築かれたとされる山城です。
小谷城は、東西南北すべてに通じたまさに交通の要衝に築かれた城で、信長時代に改修されたところがたくさん発見されています。
秀吉が、この地の領主に宛てた書状では、小谷城の改修が見受けられます。
書かれたのは、本能寺の変の数年前とされていて、信長の御座所、信長の西国政策・毛利攻めを前提とした城を造っていたのではないか?
信長が中国の毛利と決戦する時に、ここへ入っていただく城としても造っていたのです。

歴史上、これとは全く違う戦場においても、信長のための御座所が築かれた実例があります。
本能寺の変の2か月前、織田家滅亡後・・・甲府市にある右左口宿・・・武田攻めを担った徳川家康が、この地に信長の宿所を築いたとされています。

驚くべきは、信長が甲府に入る時、すでに息子・信忠が躑躅ヶ崎に立派な御殿を造っていました。
さらに、駿河を通って帰る際に、家康が立派な御座所を造って・・・それは、かなり金銀をちりばめた豪華なものでした。
信長の移動には、織田・徳川両氏はかなり気を遣っていました。
信長が中国に来る際にも、上様の御座所を要所要所に整備しておくのは必要不可欠のことでした。
信長のために整備した街道を走り、信長のために造った御座所を活用する・・・それこそが、秀吉が中国大返しを成功させた秘策だったのでは・・・??

秀吉軍は、整備された道を行軍し、途中食料を備蓄した御座所を休憩所し、1日78キロを移動したとみられます。
そして・・・次に秀吉の前に立ちはだかるのが明智光秀。
秀吉対光秀・・・決戦の時が近づいていました。

1582年6月6日・・・本能寺の変から4日後、秀吉は信長のために用意した街道を駆け抜け、沼城から居城・姫路城までおよそ78キロの道程をわずか1日で走破することに成功!!
次に秀吉の前に立ちはだかるのは明智光秀!!
さらに、この時大阪近海の淡路島で異変が起こっていました。
瀬戸内の海賊・菅達長が本能寺の変をきっかけに洲本城を奪取、光秀に組したのです。
こうした不穏な情勢の中、いかに光秀と戦うべきか・・・!?

即時決戦を挑む??
当時、織田家の武将たちは全国各地で戦っていました。
本能寺の変の情報伝達には時差がありました。
北陸の柴田勝家には6月6日、関東の滝川一益には6月9日・・・この時点で、どの織田軍武将よりも一歩先んじていました。
光秀は信長様の三男・信孝さまを討とうと大坂へ向かったと聞く・・・
我が軍も大坂に向かい、この弔い合戦に勝利すれば、織田家中での発言力が増すことは必定・・・
信長様の後継者となるのももはや夢ではない!!
信孝はこの時、四国に攻め入るべく、軍を率い大阪に配陣していました。
ところが・・・信孝を切腹させたという風聞が・・・!!

もはや亡き者に・・・??情報を冷静に見極めるべきか??

当時秀吉は、本領・長浜をほぼ明智に押さえられてしまっていました。

1582年6月9日、秀吉は居城・姫路城を出陣!!
明石に到達しました。
およそ35キロの道程です。
秀吉は、光秀を討つべく即時決戦を挑みました。
秀吉の書状には・・・
”反旗を翻した菅達長には海と陸から軍勢を派遣し、攻め崩し、悉く討ち果たした”
とあります。
秀吉は、僅かの日にちで大坂への道を切り開いたのです。
さらに秀吉は、明石を出立、尼崎まで進出しました。
およそ45キロの行軍・・・大坂まで残すところあと10キロの距離です。

一方光秀は、この頃京に対陣。
光秀が大坂を包囲したというのは噂話に過ぎなかったのです。
しかし、秀吉の素早い進軍は、予想以上の結果をもたらすことになります。
秀吉が急速に兵を進めたことで、大坂の信孝、摂津の武将たちはもちろん、光秀の配下に属していた細川藤孝、筒井順慶、高山右近、中川清秀・・・秀吉に味方したのです。

6月13日、京の郊外で山崎の戦い・・・両軍が激突します。
軍勢の勝る秀吉は、わずか半日の戦いで光秀軍に勝利しました。
備中高松城を発した秀吉の中国大返し・・・光秀との決戦の地・山崎まで総距離230キロ・・・この長距離移動が勝敗を決したのです。

光秀との決戦に勝利した秀吉は、天下人への道を切り開いていきます。
山崎の戦いから4か月後、天下への野心を表した秀吉の書状にこうあります。
27里を一昼夜で姫路城まで帰陣することができた。
27里とはおよそ108キロのことです。
備中高松城から姫路城まで2日がかりで走破した中国大返し、それがわずか1日のことに改ざんされています。
秀吉が書き換えた中国大返し・・・
秀吉自身の手により、戦国の軌跡と称えられる伝説がここに誕生したのです。

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本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

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1582年・・・6月2日早朝・・・
京都で戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こります。
天下取りを目前にしていた織田信長が、明智光秀の謀反に会い自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存じ、豊臣秀吉です。

織田信長の死を一番最初に知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの準備中だった信長の三男・信孝と丹羽長秀でした。
信孝と丹羽長秀が信長の死を知ったのは、本能寺の変の当日6月2日でした。
どうして京都に向かえなかったのか??
彼等はかん口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こし、逃げ出してしまったので、仇討どころか守りを固めることで精いっぱいだったのです。

柴田勝家は京都から300キロのところにある越後で上杉攻めをしていました。
勝家が信長の死を知ったのは、数日たった6月5日~7日の間のことでした。
勝家はすぐに越前の北ノ庄城に戻り、明智光秀等夏の準備をしますが、出かけられません・・・
京都に戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったからです。
明智光秀は、上杉景勝に、本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころでなくなる・・・と、追撃態勢を整えていたので、勝家は動くに動けなくなっていたのです。

滝川一益は、北条の治めていた関東をほぼ制圧しつつありましたが・・・変を知ったのは、6月7日~9日の間と言われています。
しかし、時を同じくして北条氏政も、信長死亡を知り、反撃してきたのです。
そのため、一益は、京都に行くことができませんでした。

羽柴秀吉の場合・・・
中国地方を制圧する為に、備中高松城を攻めていた秀吉は・・・。
信長の死を知ったのは、変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロ離れた土地で、どうしてそんなに早く知ることができたのでしょうか?
明智光秀は、この時、「信長を討ったので、和平交渉に応じるな」と、毛利に密書を送っていました。
その使いが、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
この時、秀吉は、毛利方清水宗治の居城・備中松山城を水攻めにし、落城寸前まで追い込んでいました。
城の周りを全長3キロ、高さ7メートルの堤で囲んで、近くの川を引き入れ、水滅させようとしていました。
警備も厳重・・・そこへ、光秀の密使が捕まってしまったのです。
城攻めの奇策のおかげで、信長の死をいち早く知ることができた秀吉ですが、草履取りから自分を取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、泣き崩れるばかり・・・。

そんな秀吉の目を覚まさせたのは・・・軍師・黒田官兵衛の・・・

「これは天のご加護 天下取りの好機でございます。」

の一言でした。

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵を討ち、天下とるという野望をたぎらせるのです。
そして、かん口令を敷きました。
当然、」毛利方にも、漏れないように、密使を斬ったうえで備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉が始まっていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩めます。
備中・美作・伯耆を割譲するように求めていたのを、美作だけで備中・伯耆は折半にします。
さらに、備中高松城主が切腹すれば、城に残っている5000人の兵士たちの命は保証するとしたのです。

こうして、毛利とのスピード講和が実現します。
秀吉が信長の死を知ってから数時間のことでした。
その日のうちに、清水宗治は備中高松城に浮かぶ船の上で自刃・・・
その見事な最期に「武士の鑑」と言ってほめたたえました。
その直後・・・毛利が信長の死を知ってしまいました。
毛利の追撃は・・・??
この時、毛利方の吉川元春と小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に駆け付けていました。
どうなる??

吉川は・・・「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ。」
小早川は・・・「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ。」

結局、小早川の主張が通り、毛利方が追撃することはありませんでした。
そして・・・和睦の1か月前・・・毛利輝元が家臣に宛てた手紙には・・・??

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」

武器弾薬を使い果たしていたのなら、追撃どころではありません。
しかし、これもまた秀吉の策によるもので・・・瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していたので、毛利伸樹の補給路をあらかじめ絶っていたのです。
もともと村上水軍は、因島村上家・村上吉充、来島村上家・来島通総、能島村上家・能島武吉・・・毛利方の水軍でした。
そのうちの来島村上家は毛利を裏切り信長についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略し手中に治めていました。

6月5日、吉川と小早川の軍勢は撤退を開始・・・  
それを見届けた秀吉は、翌日・・・京都への怒涛の行軍を始めるのでした。
秀吉は2万の軍勢を率い、備中高松城から京都を目指し、200キロの大移動を開始しました。
神業ともいわれる秀吉の中国大返しが始まりました。

6月6日(1日目)午後2時
備中高松城を後にした秀吉軍は、西国街道を通り、22キロ離れた備前・沼城へ・・・。
西国街道は、援軍として信長が来ることになっていたので、秀吉によって整備されていました。
向う沼上は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城でした。
待ち受ける宇喜多もぬかりありません。
秀吉たちが夜でも動きやすいようにとたいまつを焚き、城についたときに食事が出来るようにしていました。
順調なスタートを切りましたが・・・

6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発し、70キロ先に姫路城を目指します。
その途中には、西国街道最大の難関・船坂峠がありました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万の軍勢が重装備で多くの武器弾薬を運びながら進むのは困難を極めます。
姫路城までの行軍では、暴風雨にも見舞われていました。
道筋の河川が増水し・・・農民を雇って、人間の柵を作らせ、その方にすがって川を渡らせたといいます。

当時の甲冑などの装備は30kg~50kg・・・。
秀吉は大軍を率いてどうやって早く移動したのでしょうか?
秀吉は兵士の負担を減らすために・・・
海路を利用したのではないか?という説があります。
騎馬隊や足軽隊は走ったでしょうが、物資を運ぶ輜重部隊は海路を行ったと言われています。
言い伝えによると、牛窓から佐古志、片上津から赤穂岬・・・と言われています。
兵士たちを身軽にし、大軍勢の移動のスピードをあげた秀吉・・・

もう一つの説は・・・??
秀吉の書いた一通の手紙に秘密がありました。
本能寺の変を知った中川清秀の手紙に対する秀吉の返書です。
その文面の日付と内容・・・
6月5日に「今、野殿まできている」と書いています。
野殿は備中高松城から7キロのところです。
この書状が正しければ、出発日の定説が覆ることに・・・??
6日出発という説は小瀬甫庵の「太閤記」によるものです。
太閤記は、秀吉の活躍を書いたものなので、誇張表現なのではないのか?とも言われています。
中川清秀宛ての書状の6月5日に野殿にいるが注目され、6月5日の時点で備中高松城から野殿に向かって・・・という策が注目されています。
5日と言えば、毛利が撤退した日です。
この日に追撃の余裕がないと知って・・・しかし、追撃の可能性がゼロということではなく・・・この秀吉の判断はあっぱれでした。
この6月5日出発説・・・本体は微衷高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのではないか??
今後さらに検討が加えられることでしょう。

1582年6月2日本能寺の変・・・主君・織田信長の敵を討つために、備中高松城から京都まで200キロの道程を8日間で走破した羽柴秀吉の中国大返し、その成功のうらには秀吉の知略が・・・。

人心掌握術・・・
備中高松城を出発し姫路城まで2日で92キロを走ってきましたが、まだ道半ば・・・
京都まで100キロ以上残っていました。
疲弊している・・・逃げ出す者も出て来るのでは・・・??
そこで、姫路城につくと皆に信長の死を教えます。
この行軍は、信長の仇・明智光秀を討ち取るためであると皆の士気を上げます。
城にあった兵糧米・8万5000石と金・800枚、銀750貫文・・・現在の価値にして66億円相当を兵士たちに分け与えたのです。
そして、仲間・小者たちにも5斗・・・半年分の米を与えたのです。
翌日からの行軍に備え、一日ゆっくり休ませます。
そこへ一人の僧侶がやってきて・・・
「明日は、二度と帰ることができない悪日にございます。
 それゆえ、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」
それを聞いた秀吉は、
「二度と帰ることができないには、むしろ吉日じゃ!!」
そう言って取り合わなかったといいます。
秀吉は、光秀を見事討ち取ることができれば、その先には天下人の道がある・・・
そうすれば、姫路城に戻ってくる必要はない!!
城などどこにでも作れる!!
だから、帰って来れないのはむしろ吉日!!
自分が勝って天下をっとるということだ!!と。

中国大返し成功のため、他にも策を講じていました。
姫路を出た秀吉軍は、100キロ先の富田を目指します。
しかし、その途中には摂津国が・・・!!
そこに居るのは茨木城主・中川清秀と高槻城主・高山右近でした。
かつて・・・織田信長に謀反した荒木村重の重臣たちでした。
秀吉は、「奴らが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」と、書状を送っています。

「上様は難を逃れ・・・」

信長派生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしたのです。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、首を晒すことができていれば・・・でも、出来なかったので、その嘘を信じてしまったのです。
情報を操作することで、裏切りの目を摘んだ秀吉は、安心して行軍することができたのです。
秀吉は家臣たちにも恵まれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時、後方支援を担当!!
食糧や武器、人出の手配・・・迅速かつ的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・!!
黒田官兵衛は、軍師としての才能を発揮!!
隊列の先頭に毛利家の旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせます。
この旗は、備中高松城で和議が成立し、秀吉軍が撤退する際に、小早川隆景の元を訪ね、毛利軍の旗を20本ほど借りています。
隆景はある程度察しがついていて・・・秀吉に協力しておいた方が、毛利家のためになると考えたのです。
旗を見て、毛利が味方に付いたと勘違いした武将たちが次々と秀吉軍に加わります。

6月11日、秀吉軍は尼崎に到着!!
秀吉は大坂城にいた織田信孝と丹羽長秀に尼崎まで来たことを伝えますが・・・信孝を光秀討伐の総大将とすることはありませんでした。
本来ならば信孝でしょうか・・・信孝にすれば、自分は駒になってしまう・・・おまけに信孝には当時、兵が4000人しかおらず、父・兄を殺されてしまっていました。
の舞台兄は、光秀を討つ気迫がなかったので、秀吉の上には立てなかったのです。
6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと共に、軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

その頃光秀は・・・
6月2日から4日までの間に坂本城に戻り、近江を平定。
6月5日には安土城と秀吉の長浜城を占拠、丹羽長秀の佐和山城も押さえていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城主細川忠興や、大和郡山城の筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
その一方で、朝廷工作を行って・・・
朝廷から京都の経営を任せると言われ、信長の後継者は自分であると思っていたようですが・・・??
8日、大返しの知らせを受けました。
しかし・・・光秀は、京都に献金するなどの朝廷工作に勤しんでいました。

秀吉軍は4万のふくらみ・・・しかし、明智光秀は、織田信長の謀反に成功するも、味方に付けようとしてた武将たちが味方に付かないという誤算に・・・。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく正室に迎えていた娘・ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉してしまいました。
筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5000!!秀吉の半分にも及びません。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎でした。

6月13日・・・
劣勢で迎え撃つことになった光秀には策がありました。
天王山の地の利を生かします。
当時、川が迫る天王山には、馬がやっとすれ違えるだけの細い道しかなく、そこで秀吉の大軍をおびき寄せ、天王山に配置した兵に吸収させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、もし秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」by光秀

しかし、秀吉もそこのところはよくわかっていて・・・
そこで、地の利に明るい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は、敵に気付かれぬよう、松明なしに前日夜に天王山に分け入り、光秀軍より先に天王山を占拠したのです。
これで光秀軍は、勝機を失います。
そして遂に両軍が激突!!
僅か数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は命からがら逃げだすも、落武者狩りの竹やりで重傷を負い・・・6月13日、明智光秀自害!!

三日天下と揶揄されることとなった光秀、一方、主君の敵討ちを見事に成し遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
中国大返し・・・その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして、大胆な行動力と決断力・・・そのスピードの速さでした。

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<織田信長と本能寺の変>本能寺の変勃発! 織田家臣団が下した決断 (歴史群像デジタルアーカイブス)

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武将たちがしのぎを削った戦国時代、およそ100年続いた下剋上に終止符を打ったのは関ケ原の戦いでした。
石田三成の西軍8万4000の軍勢と、徳川家康の東軍7万4000の軍勢があい見えた天下分け目の合戦です。
勝ったのは東軍!!
その勝因は、西軍の4人の武将たちによる裏切りがありました。

その中で誰が一番痛手を与えて得をしたのでしょうか?

①小早川秀秋 
②島津義弘
③毛利輝元
④吉川広家

明治時代、日本政府の招聘により来日していたドイツ人将校に関ケ原の布陣を見せたところ・・・
「勝ったのは西軍であろう。」と言いました。
西軍は、石田三成が笹尾山に、他の武将たちはその周りに・・・鶴翼の陣で、重要な山をすべて押さえていました。
迫りくる東軍を山の上からけん制し、平地に追い込んで一網打尽にしようと考えていました。
一方東軍は、家康以外はほとんどが平地に布陣。。。
両軍の配置は・・・西軍の方が圧倒的に世おりな状態で始まったのです。
圧倒的に不利な東軍・・・しかし、それがひっくり返るのですが・・・
松尾山に布陣したのは小早川秀秋1万5000。
三成の傍にいたのは闘将・島津義弘。
家康のすぐそばにいたのは、吉川広家。
さらにその後ろにいたのは毛利軍でしたが・・・ここに、西軍の大将である毛利輝元はいませんでした。
この時、輝元は大坂城にいたのです。

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①小早川秀秋
1600年9月15日午前6時・・・
雨もやみ、深い霧が立ち込める中・・・15万の軍勢が睨み合っていました。
そして午前8時・・・天下分け目の戦いの火ぶたが切って落とされます。
一進一退の攻防が続くこと2時間・・・早く膠着状態を打開したい石田三成は、松尾山に布陣している小早川秀秋に攻撃を仕掛けるように合図します。
しかし・・・小早川は動きません。
再三の出撃命令にも攻撃しない小早川にいら立ちが募る三成・・・。
この時、小早川に苛立っていたのは・・・東軍の大将・徳川家康でした。
小早川は、戦の前から家康と内通し、東軍に寝返るように説得されていたのです。
開戦から4時間後の正午・・・業を煮やした家康は、小早川軍に向かって鉄砲を打ち込ませます。
世に言う家康の問鉄砲です。
小早川はこれにひるみ、寝返りを決断、味方である西軍に襲い掛かったと言われていますが・・・
関ケ原の平地から松尾山までは1.5キロ・・・火縄銃の有効射程はたかだか100m。
弾は届きそうにありませんが・・・小早川は銃声に怯んだのでしょうか??
戦の時は、怒号や銃声が飛び交っています。
大筒の音さえも聞こえにくかったようですが・・・
家康の問鉄砲が後世の創作だったとすると、どうして寝返るまでに4時間もかかったのでしょうか??

三成からは、勝った暁には関白の地位と、上方に2ヵ国を加増すると褒賞を約束されていました。
悩む小早川は、戦局をうかがっていたので4時間もの間動かなかったのです。

そもそも小早川はどうして家康と内通したのでしょうか?
豊臣秀吉の正室ねねの甥である小早川秀秋・・・
3歳の時に跡継ぎのいなかった秀吉の養子となり、ねねの手で大切に育てられましたが・・・
秀吉の側室淀の方が秀頼を産むと、状況は一変!!
13歳で有力大名・小早川隆景のもとに養子に出されてしまいます。
さらに秀吉から・・・もう一人の養子であった秀次と、謀反を企てた嫌疑をかけられます。
秀秋も、丹波亀山10万石を没収されてしまうのです。
謀反は秀吉のでっち上げ・・・??
自分を疎んじた秀吉を恨んでいたのかもしれません。

丹波亀山を没収された秀秋ですが、その後、養父・小早川隆景から領地の一部の筑前などを受け継ぎます。
そして、15歳で秀吉の命で朝鮮出兵!!
ところが帰国すると、いきなり筑前30万石から越前北ノ庄15万石への減俸・転封を命じられたのです。
一説には石田三成が、朝鮮における秀秋の失敗を大げさに報告したと言われています。
秀吉と三成を恨んでいた・・・??

小早川が寝返ると、近くにいた脇坂・朽木・小川・赤座も寝返ります。
大混乱の西軍・・・2時間後、東軍の勝利が確定します。
家康は、この機を逃さず総攻撃!!
これに焦った石田三成は、なぜか、開戦から傍観している薩摩・島津義弘に出陣を命じます。
ところが、島津も動かなかったのです。

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②島津義弘
朝鮮出兵では、7000の兵で20万の明と朝鮮の兵を破った島津軍・・・
しかし、関ケ原の戦いに参加したのは、僅か1500の兵でした。
それは、この時義弘が、兄・義久と対立し、島津家が二分していたからです。
義久は、中央勢力とは距離を置いた方がいいと考えていました。
なので、義弘に対して、国元の軍勢を送ることはなかったのです。
鬼の島津こと、島津義弘66歳・・・。
百戦錬磨の武将ですが・・・1500の兵で戦っても勝ち目はないと動かなかったのです。

そして三成との確執・・・
合戦前日の出来事です。
西軍は大垣城に・・・東軍は美濃赤坂宿付近に陣取り、杭瀬川を挟んで前哨戦が行われました。
結果は西軍の大将・・・兵たちの士気は大いに上がります。
そこで島津義弘は三成に進言します。
「勢いをそのままに、夜襲をかけてはどうか?」
これに対し三成は・・・
「夜襲はかけぬ!!」でした。
この時三成は、家康の軍は大坂城へ向かうのでは??という情報を掴んでいました。
それを阻止する為に、先回りをしたかった・・・関ケ原で東軍を待ち構えることになったのです。
1500の兵の島津軍を頼りにできないと考えていました。
前回、墨俣の戦いでも置き去りにされてしまった義弘・・・軽んじられた義弘・・・。
三成に対して不信感を持っていたのです。

午後二時・・・西軍は総崩れ・・・
主力が次々と敗走し、多くの武将たちが討死・・・。
これを見た島津義弘は、
「さて・・・われらも如何にここから脱出するか・・・」
その大脱出劇が島津の退き口です。

関ケ原は6つの街道が交わる交通の要所です。
西への逃走ルートは三つ・・・
❶北国街道へ向かう北西ルート
この道は、敗走していく西軍と、追いかける黒田長政の軍、細川忠興の軍で溢れていました。
❷中山道の南西ルート
東軍に寝返った小早川秀秋の軍が占拠。
❸伊勢街道の南東ルート
ここには前線まで来ていた徳川本隊が待ち構えていました。
井伊直政、本多忠勝・・・猛者たち相手に1500の兵では討死しに行くようなもの・・・
しかし、鬼の島津は・・・敵中突破!!
島津軍は笹尾山あたりから南東方向へ進み、徳川本隊の脇を通って伊勢街道へと出ます。
穿ち抜けという戦法で、敵の一点を集中攻撃し、対象の義弘を通した後で捨てがまり戦法へ・・・!!
部隊が残って敵と戦い、その間に本隊は先へ・・・これを何度も繰り返して、距離を稼ぎます。
島津義弘は、こうして井伊直政、本多忠勝らを振り切って、関ケ原を脱出します。
関ケ原から脱出した際には、100人も残っていなかったといいます。

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③毛利輝元
中国地方の半分120万石を治めていた毛利輝元は、九州征伐で大きな成果をあげるなど、秀吉の天下統一に貢献。
秀吉亡き後の政権で、家康と共に五大老を務めるなどしていました。
関ケ原の戦いで、西軍の大将に就任したのは・・・
反家康の三成の要請を受けたからでした。
7月半ば・・・輝元は大坂城に入ります。
三成はこの時、まだ8歳だった秀頼の補佐を輝元に任せ、合戦の際は供に出陣させようとしていました。
関ケ原の合戦は、秀吉の家臣同士の戦いでした。
恩顧の意識が強いうちに、秀頼が出てくることで、こちらの方に大義名分があるということを示したかったのです。
合戦間近、三成は輝元に出陣を要請。
しかし、大坂城に留まる輝元。
代わりにやってきたのは、養子・秀元と1万5000のの軍勢でした。
輝元はどうして関ケ原に来なかったのでしょうか??
色々あります。
淀の方が、幼い我が子の参戦を好まなかったので、補佐役の輝元も出陣できなかった。とか、
大阪城内に、家康と内通していると噂の増田長盛の軍勢がおり、その動向をうかがっていたから。とか・・・

輝元は、秀頼を守るために、大坂城に留まった??

しかし、実のところ、家康を気にして戦う気などなかった??
輝元から家康への手紙には・・・
「三成殿の謀と当方とは関係ない」とあります。
今回の戦いには自分は関係ないと言っているのです。
その真意は・・・どちらが勝ったとしても、毛利家が生き残れるように・・・という思惑はあったようです。
東軍西軍を両てんびんにかけていたのでは・・・??

毛利輝元は、当時、自国の領土拡大に動いていました。
関ケ原に出陣していた蜂須賀家など四国の大名たちに攻め入っていたのです。
東西の面目を保ちながら、自らの野望も叶える・・・そんな戦略家だったのです。

桃配山・・・東軍の大将・徳川家康が最初に陣を置いた場所です。
家康はその周辺に3万の軍勢を配置しました。
その背後にそびえるのは・・・南宮山。
西軍の多くの武将がここに陣を置いていました。
長曾我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家、毛利秀元・・・
兵の数を合わせるとおよそ3万・・・西軍の主力ともいえる軍勢です。
その中で、先陣を任されたのが、毛利家家臣・吉川広家でした。
家康に最も近い場所に布陣していました。

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④吉川広家
毛利秀元をはじめ、安国寺、長束、長曾我部の軍勢は、開戦と共に南宮山を下って家康軍に襲い掛かろうとしていました。
ところが・・・肝心の吉川広家の軍が動きません。
後ろにいた武将が問いただすと・・・
「霧が立ち込めて、敵の姿がみえぬ・・・」
確かに、周囲は深い霧に包まれていました。
しかし・・・数時間後の霧が晴れた後も、吉川は相変らず陣にとどまったままでした。
これに激怒したのが、長曾我部盛親です。
苛立つのも当然・・・吉川が動かないのは大問題でした。
一番槍は、決められていました。
そして、それに従うのが、当時の習わしだったのです。
つまり、吉川が動かなければ、皆、動くことができなかったのです。
吉川に代わって長宗我部に応えたのが毛利秀元でした。
「今、丁度兵に、弁当を食べさせようとしているところじゃ・・・!!」と。
宰相殿の空弁当と言われるエピソードです。

吉川広家は、毛利輝元と同じ毛利元就の孫でした。
二人はいとこ同士だったのです。
吉川家は、父・元春の頃から献身的に毛利家を支えてきていました。
その一方で、吉川は黒田長政とも通じており・・・
早々に東軍有利と見た広家は、輝元に東軍に着くべきだと進言ようとした矢先、輝元は三成らによって、西軍の大将に担ぎ上げられてしまったのです。
仕方なく西軍に着いた吉川でしたが・・・黒田長政の父・官兵衛から書状が届きます。
「上方の大名もみな、家康公に味方します。
 あなたの判断が第一。」
東軍の勝利を確信した吉川は、寝返ることを決断し、家康に約束します。
この密約が、既に戦の前になされていたことは、家康の陣の位置からもわかります。
吉川が陣取っていたのは南宮山の頂上・・・家康の桃配山とは峯続きなので、三万の軍で攻めればひとたまりもなく・・・そんな無謀な布陣ができたのも、吉川が後ろで留めてくれると安心していたからでしょう。

吉川の寝返りの真意は・・・??
家康との間に、毛利輝元の寛大な処遇を内々で求めていました。
毛利本家のことを思っていたのです。
輝元に、大坂城に残ることを強く進言したのもまた、広家なのです。
さらに吉川の裏切りは・・・小早川秀秋にも関係しています。
小早川は吉川が足止めしている情報を手に入れていたので、寝返ることにしたのです。

毛利輝元を大坂城に留まらせ、
西軍3万の軍勢を足止めし、小早川秀秋に寝返りの決断をさせた・・・
もっとも西軍にダメージを与えたのは、吉川広家でした。
真の裏切り者は・・・吉川広家だったのです。
こうして関ケ原の戦いは、僅か半日で東軍の勝利に終わりました。

西軍を裏切った武将のその後は・・・??
関ケ原の戦いを制し、大坂城に入った徳川家康が、東軍の武将たちに褒賞を与えるとともに、西軍方の処遇を決定します。
筑前30万石の小早川秀秋は岡山55万石に加増・・・
しかし、その2年後、小早川は21歳の若さでこの世を去ります。
戦場で切腹した西軍武将の呪いと言われました。

戦は傍観していたものの家康軍に突っ込んだ島津義弘に対しては討伐を考えます。
しかし、周囲の取りなしによって中止。
義弘の隠居を持って領土を安堵します。

西軍の大将・毛利輝元は、吉川広家の根回しもありお咎めなしと思われましたが、身分所領をすべて没収する改易でした。
家康はその領地の一部を吉川広家に与えようとしていました。
これを聞いた吉川は・・・家康に毛利家の存続を直談判し、自分の報奨を辞退します。
その甲斐あって、毛利家は120万石から30万石に減俸されましたが、改易は免れたのです。
毛利家のために尽力した吉川には、毛利家から岩国3万石が与えられました。

数の上でも、陣形でも、最初は勝っていた西軍でしたが、多くの裏切りによって負けてしまいます。
天下分け目の戦いでどちらにつくのか・・・??
それは、大名たちにとって裁量が試される時でした。
日本の歴史を大きく変える関ケ原の戦い・・・
一人一人の心のうちを覗くと、それもまた面白いものです。

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新選組記念館青木繁男調べ・知り・聞いた秘話を語る【真田幸村 時代のおもしろばなし 百話】



上洛する上杉景勝に従い、信繁は大坂を訪れる。
巨大な大坂城に圧倒される信繁。
やがて目の前に、関白秀吉が姿を現す。

ということで、副題通りの「秀吉」な回となりました。
私たち大河Fanとしては・・・秀吉はもちろんこの人ですが・・・どうなったのでしょう??

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この真田丸の殿下はこの人です!!

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信繁が控えている間にやってきました。人懐っこくって、人好きしそうな秀吉です。


なんと・・・上杉との面会を逃げ出して遊びに出かけてしまいました。

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せっかく三成がセッティングしたのに、すべてが水の泡です。

そして・・・秀吉が会いに来たのはこの人

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吉野太夫です!!

秀吉・・・目が💛💛!!
天下人の口説きも、軽くあしらってしまう吉野太夫です。
あ~あ・・・でも、秀吉らしい。

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お供は信繁と・・・福島正則です。
で・・・いきなり真顔で、
お前の親父は上洛もせずに喧嘩売ってんのか??!!ああ??と、言い出したかと思いきや・・・
三成に場所を見つけられて、「よくここが分かったな!!」と、嬉しそうに・・・
そして、信繁が来たかったからここに来たと、バレバレな言い訳をするのでした。

せっかく三成がセッティングした上杉との面談・・・
翌日に持ち越されました。

そして信濃では・・・秀吉の上洛命令に、頭を悩ませている昌幸・信幸親子!!
上洛するべきか否か・・・??

兄・信幸は、上洛すべきだと勧めますが・・・
昌幸は未だ上洛する気はない??悩んでいます。
信長のように門下に下った瞬間に・・・あんなふうにはなりたくはない。。。
信繁頼みの父・昌幸です。
自分は何をすればいいのか??微妙な立場の信幸です。
そして、佐助もまた出浦昌相に弟子入りしたという・・・私は何をすればいい??信幸!!

昌幸の耳掃除中の薫・・・
本当にこの二人は仲がいいですね。
信繁を褒める昌幸に・・・
「殿・・・息子は一人だけではありませぬよ。。。」
と、信幸をフォローします。
が、昌幸もそれはわかっていたようで・・・
「源三郎(信幸)が真田の力となるのはもう少し先じゃ。
 今は乱世。
 だが、いずれ世の中も落ち着く・・・
 その時こそ、源三郎の出番じゃ。
 
 荒れ果てた土地を再び耕し、国を立て直す。
 その時にこそ、アヤツが役に立つのだ。
 あの生真面目さがな。。。」by昌幸

「そんな世が・・・早く来るといいですね。」by薫

ということで、親の心子知らず・・・二人の子供たちをよく理解している父母なのでした。

夜に景勝&兼次に会った信繁・・・なんだかバツが悪そうです・・・。
そりゃあそうだ・・・信繁を連れて来てくれた景勝が、秀吉に会っていないというのに、自分が先に会ってしまったんだから・・・
おまけに「秀吉に会ったら、お主のことも話してやろう・・・」と、責任感強そうに、真面目な・・・とどめの一言を言う景勝。。。


三成の屋敷できりと過ごしていると・・・三成がやってきました。
「殿下の出しにされてしまったな」と、大谷吉継に引き合わせてくれました。

官僚な三成も、なんだか吉継はいいお友達のようで、信頼して吉継の堺代官の話を勧めます。

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そうそう・・・三成にもこんないいお友達がいるんですよ。

そこへ、加藤清正がやってきた・・・と、席を外す三成。。。

吉継と二人となる信繁・・・
「不思議な方ですね・・・なんと申しますか・・・
 これまで私に対しては至極そっけなかったのに、今宵は変わって随分と親しげなのです。」by信繁

「曲がったことが嫌いな男だ。
 だから私は好きなのだが、理が立ち過ぎるところがあって、人を立場で図ってしまう・・・」by吉継

殿下が信繁を気に入った時点で、三成にとっても大事な人になったという・・・。
まあ・・・三成には人望がない・・・と言われがちですが、こんな人だったんでしょうね。
でも、一貫して・・・豊臣のために・・・すべては豊臣のために・・・だったのです。
そして・・・そんな三成を唯一理解しているのは吉継!!
そうそう、みんなの見たい構図が完成してきましたよ!!

6月14日、上杉景勝は関白秀吉に拝謁しました。

「会いたかったぞ!!景勝!!
 かの軍神・上杉謙信の嫡男が、わしの目の前におると思うと感無量!!  
 こうして参ってくれた以上は、最高の令をもってもてなさねばのう・・・
 
 越後の本領は安堵、今後は東の要として関東を押さえてもらいたい!!
 おぬしの父は関東管領!!お主ほど相応しいものはあるまい」by秀吉

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と、従四位下左近衛権少将を授かりました。

もちろん、朝廷から頂く官位なんですが・・・
いい人秀吉がくれたように見えますが・・・そこには「お前はわし(関白)より下なんだよ!!」っていうメッセージがあるのは明白!!
人好きな感じを醸し出しながら、さすが百姓から成り上がって天下を取った男なのです。

しかし・・・さすが天下人!!

「それからもう一つ・・・
 これよりのち、真田への肩入れは無用とせよ。
 真田安房守はな、お主とは違って、いくらわしが上洛せよと申しても、一向に返事をよこさぬ不届き物じゃ!!
 ここは懲らしめてやらねばならぬ!!
 
 徳川家康が、間もなく真田征伐に乗り出す!!
 家康にとっては勝たねばならぬ戦じゃ!!
 ありていに言うがな・・・
 わしは家康に恩を言っておきたいのだ。
 あいつは面倒くさい男でな、ここらへんで手なずけておきたいのよ!!」by秀吉。

流石・・・!!
感服です!!
この・・・あけすけに策を話してしまうあたり、流石としか言いようがありません。
でも・・・あけすけどころか、何考えてんのか全くわからない・・・あの笑顔の奥が怖いわ~~~!!

「源次郎にどの面下げて会えばよいのだ・・・」by景勝

そんな景勝&信繁を、利休の茶に誘う秀吉でした。

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ここで前日に秀吉に会ったことをばらされてしまう信繁。
ビミョーな関係にされてしまいました。
二人の間に割って入ろうというのかしら・・・??

そしてこの茶会・・・小さな茶室での緊迫した感じがひしひしと伝わってきます。
信繁も、拳に力を入れてドキンチョー!!
この圧は、利休??それとも呑気な顔の秀吉・・・??

結局・・・茶を振る舞われたのは景勝のみ・・・。
そこには秀吉の・・・どんなたくらみがあるのでしょうか??
利休に、景勝という男を量らせたのでしょうか??
そして・・・茶をもらえなかった信繁には・・・”そんなこと”は期待していないのでしょう。

珍しそうに大坂城を見学しているきりが出会ったのは秀次!!

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鷹狩りの帰りに叔母上に枇杷を捥いできたのだという。。。
叔母上に・・・??それは、寧のことでした。

何を急いでいるの??秀次!!

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会議の場に遅れてきました、秀次!!
そこにはなぜか、秀吉のお気に入りの信繁も!!

「検地とは一言で申せばなんだ??秀次!!
 検地とは何ぞや・・・もういい!!三成!!」by秀吉

「????」秀次

「諸国の田畑を調べ、その値打ちを定めることでございます。」by三成

「では、それを調べることで何が分かるか?ハイ(秀次)」by秀吉

「・・・いろんなことが分かります。」by秀次

「もうよい!!三成!!」by秀吉

「検知をすることで、その所領がどれだけの石高なのかが分かります。
 それによって、そこから何人の兵を出せるかが割り出せます。」by三成

「しかし、これまで検地はどうももう一つ上手くいっておらぬ・・・
 なんでかわしは考えた。
 わけもない””
 米を量る升が各地でばらばらだからだ!!
 こんなますで量っている国もあれば、こんな升の場所もある。
 これじゃ何にもわかりゃしねえ・・・ではどうすればよい?源次郎!!」by秀吉

「・・・升の大きさを統一する・・・??」by信繁

「さすが、これからは升の大きさを統一する!!
 大きさを決めて、それで全国の石高を明らかかにするのだ。by秀吉

大仕事だが・・・それでもやらねばならぬ!!と、三成に話を進めるように命じるのでした。

このやり取りでも秀吉がどれだけ三成を信頼しているのかが分かりますね。
銅にもせっかちな秀吉&それに的確に答えなければならないことだけ答える三成です。

そして信繁を連れて茶々とかるたで神経衰弱です!!
初めてする神経衰弱も、持ち前の要領の良さで当てる信繁・・・
感がいいのか悪いのか・・・茶々と隣室に控えている美青年・立花権三の目くばせに気付いてしまいました。
そして・・・それに気づいてしまった秀吉!!
秀吉が茶々に執着している・・・その殺気に気付いてしまった信繁!!

そんなころ、秀吉の子飼いたちは・・・寧に可愛がられていました。

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羽柴秀長・福島正則・加藤清正・そして・・・秀次・小早川秀秋・・・
そこへ案内される信繁。
この頃にしては珍しく、恋愛結婚だった秀吉と寧。。。

恐ろしいほどに血縁には恵まれず・・・
おまけにもともと武士でもないので譜代の家臣もおらず・・・
そこが唯一のウィークポイントかな・・・??

この日、信繁が目撃した光景は、ひょっとすると秀吉とその家族たちのごく短い幸せな時だったのかもしれない。
やがてこの中の一人は、別の一人によって切腹に追い込まれ、この少年は自分のしたことの罪の重さに苛まれ21歳の若さで謎の死を遂げる・・・

と、丁寧にナレしてくれてます。
ばれるじゃないか・・・??と思う人もいるかもしれませんが、ま、この人間関係は、大河ではおなじみのところだったので、ばらしてもNoProblem・・・
というか、「夢のまた夢」な感じ・・・雰囲気がたっぷりで良かったですね。

この真田丸の秀吉・・・家康も未だかつてない家康ですが、秀吉もまた未だかつてない秀吉ですね。
今まで秀吉は竹中直人さんでないとダメだったのに、それを打ち崩すほどの小日向秀吉。
とっても黒くっていいですね。
もちろん人好きのする秀吉なんでしょうが、黒く・・・というか、人を出し抜くようなところがないと百姓から天下人にはなれないでしょう??

おまけに、このドラマの中ではすでに天下人。。。
真田昌幸は弱小なので、黒くってもそこには必死に領地を守っているみたいな大義名分も使えそうですが、すでに天下人なのに・・・容赦ないですね。。。秀吉!!
そこがまたgood!!
大坂編も、個性豊かなメンバーで、面白くなりそうですね。


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前回・・・官兵衛は如水となって引退し、関白・秀次の相談役になっていました。

しかし・・・三成に逆心・謀反の疑いをかけられる秀次・・・!!

鹿狩りと称して同心の者と山中で落ち合い、謀反のたくらみをしていると・・・!!

秀吉は、お拾いの行く手を阻むものをすべて・・・排除しようとしていました。

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三成に対抗するため武装する秀次・・・それは自ら逆心・・・謀反と言っているようなものでした。

「太閤殿下と秀次公は、叔父・甥の御仲、ここで争っては天下は乱世に後戻り。
 天下のために伏見へ行かれませ。
 それが天下を治める関白殿下のお役目にございます。」by官兵衛。

「天下のため・・・関白の役目と申すか・・・。」by秀次

しかし・・・高野山にて蟄居を申し渡されてしまう秀次。。。
申し開きの場も与えてもらえません。

「ただ・・・拾の先行きをお考えください。」by茶々

蟄居で済まそうと思っていた秀吉・・・自分の感じた老いと茶々のこの一言で・・・
切腹が申し渡されたのはそれから7日の後でした。
高野山・青巌寺にて・・・

「無念じゃ・・・」by秀次。

秀次公の一族は、ことごとく成敗・・・
わずか6歳の嫡男仙千代を始め、拾君の許婚であった姫君、側室・・・39名が一族郎党が容赦なく・・・
三条河原は血に染まったのでした。

正気の沙汰とは思えません。。。
秀次には正室・側室併せて20人を超える妻妾を持っていました。
そこには四男・二女も・・・。


とりあえず、なんもしなくってビクビクして終わってしまった秀次ですが・・・
殺生関白なんて言われ、悪名を着せられましたが、その真の姿は学問や芸術に深い関心を抱いた、文人関白。

小田原攻めにおける後北条家の滅亡によって、庇護者を失った関東一の大学である足利学校の蔵書を京都に移して保護したりもしています。
大将としても活躍し、近江八幡を商人の町として活発化させたのは秀次以外の誰でもありません。
 
後半の豊臣政権は太閤秀吉と関白秀次の二元体制であったことに間違いありませんが、最終的には太閤殿下が決めていたことには変わりないでしょう。
この秀次事件で、天下人としてかなりおかしい秀吉が強調されポイントなんですが・・・
ああ・・・軽~く善助の報告で三条河原が終わりました。
ま、あまりにも悲惨な光景なので、これはこれで良かったのかも???

歳は隠せません・・・
おねしょをしてしまう殿下・・・
誰にも言わないと・・・淡々と処理する茶々・・・
これはこれで、どちらが上位に立っているか、立ち位置が変わったことを意味するのには良かったかも。。。
そう、もう、茶々の天下は始まっている・・・??

秀吉に呼び出される官兵衛・・・

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拾に災いをなすものは全て排除しようとする秀吉。
不安を抑えきれない秀吉に・・・
官兵衛も、秀吉の老いを感じずにはいられませんでした。
秀次側が次々と処分される中・・・再び軍師として仕えてくれれば許す。。。と言われ・・・復帰する官兵衛。

「お主には、長政とは別に禄を与える。」

自分が治めていた播磨を・・・しかもたかが1970石で・・・
安堵する秀吉・・・しかし、蹴落とそうとしていた三成は苦々しく思うのでした。

そして・・・たかが2000石足らずで仕える官兵衛に、周りのめは冷ややかでした。

殿下の天命が迫っている・・・
誰も殿下をお止めすることができないのなら・・・最後まで見届ける。
それが、殿下を太閤にまで押し上げた自分の責任だと。。。
ま、若い三成には出来ないことでしょうね・・・これは。。。

明の国書が遂にもたらされました。
しかし、秀吉の和睦条件とは全くかけ離れたのでした。
またもや兵を出そうと言い出す秀吉・・・狂ってます。。。
あ・・・それは秀次事件で立証済みか・・・。

「何としても朝鮮を手に入れるのじゃ・・・!!」by秀吉。

秀吉の面目のための戦いなので、士気は低い・・・
という弱気な長政に、戦うことを薦める強気ないと。。。??
これって二人の亀裂の伏線なんだろうか・・・??


軍師として朝鮮に出向くという官兵衛に、子供のように喜ぶ秀吉。
今回の秀吉は、まさに落ちゆく巨星。。。
老いていく秀吉・・・竹中直人さんお見事です。。。

1596年12月お拾改め秀頼誕生!!
秀頼・・・この人も・・・生まれながらにしての関白ですね。

これで豊臣家は安泰??
いえいえ、秀次を処刑した時点で豊臣家を支える人は皆無。。。
なので、屋台骨はボロボロです。。。
そう、このあと3年で秀吉はなくなってしまうので、きっと自分の寿命も解っていたのでしょう。

徳川家康はこの時55歳。
まだまだ生きるわけですが、彼もまた、この若くて聡明な秀頼への嫉妬心、恐怖、自分の老いとの戦いで大坂の陣を引き起こすのですから、ま、みなさん天下人はこんなふうなんでしょう。


黒田家は、朝鮮へと出陣する時期が来ました。
熊之助、元服して朝鮮に渡りたいらしいです。。。

kan5















yuuki

この熊之助、泣かせたら子役一番の今井悠貴くんです。
大きくなりましたね。
個人的にはこちらの悠貴くんがぴか一です。


そんな子供たちの複雑な気持ちのなか・・・
黒田軍を始め、14万の軍勢で出兵していきました。
第二次朝鮮出兵です。





みんなそれぞれの最期を迎えようとしていました。

ここにも・・・

kan4












小早川隆景です。

後を継ぐのは・・・あの有名な、小早川秀秋。

kan1












この父に?なことをしでかす彼です。
って言っても、血は豊臣。
そう、この人も、秀頼誕生によって運命が変わってしまった人です。

秀頼が誕生するまでは、可愛がられていました。。。
秀次に次ぐ豊臣家の後継者と思われていたにもかかわらず・・・
秀頼の誕生で、秀吉と官兵衛によって、小早川家に養子に入りました。
まあ・・・小早川家に実子のなかったことが、隆景にとっても不幸中の幸いだったのかもしれません。
やっぱり誰でも血統で継がせたいものね・・・。

そして・・・隆景もまた、秀秋のことを官兵衛に託すのでした。

空気の読めない官兵衛に、ひとこと忠告をして・・・
中国大返しを思い出しながら・・・
「あのころが・・・あのころは・・・楽しゅうございましたな。。。」by官兵衛。
あ~~~、それはそうだろうな。。。
一番脂の乗り切った、楽しい時だったでしょう。

毛利を支えてきた小早川隆景も、その生涯を閉じたのでした。

そして・・・熊之助は、吉太夫と共に・・・朝鮮の船にもぐりこんでいました。

熊之助の事は、資料がないのでよくわかりませんが、朝鮮に渡ったのは本当のようです。。。

そう・・・嵐が待っている次回なのです。
振り回される相手が変わりそうですよ!!

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