日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:小栗上野介

1905年、日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破しました。
その時の司令長官・東郷平八郎は、戦後、「仁義礼智信」の文字をある幕臣の子孫に送りました。
あて先は、小栗・・・書を送るにあたり、東郷はこう述べました。

「小栗上野介殿による横須賀製鉄所建造が、日本海海戦の完全な勝利にどれほど役立ったかしれません。」

横須賀製鉄所は1865年、徳川幕府によって建造が始まった日本初の近代的造船所です。
横須賀アメリカ海軍基地に、その一部が残っています。
1号ドライドック・・・日本海海戦の勝利には、ここで建造、整備された艦艇が大きな役割を果たしました。
その建設を手掛けたのが、小栗上野介です。

群馬県高崎市にある東善寺・・・
小栗を象徴する品が残されています。
何の変哲もない一本のネジ・・・
アメリカのワシントン海軍造船所を見学した時に、ひと箱もらってきたものです。
蒸気機関を用いて、大量に作っている工業ネジ、みんな規格が同じ・・・。
アメリカの近代工学、文明のシンボルです。
日本もこういうものを作りたい・・・!!

日本の近代化をネジに託して持ち帰った小栗・・・
その先見性はどのようにして生まれたのでしょうか?
1827年、小栗上野介は旗本の嫡男として生まれます。
幼い小栗は、エリート教育を受けます。
小栗は僅か7歳で、漢学者・安積艮斎の塾に入門しています。
艮斎は、非常に開明的な人で、著書「洋外紀略」には次のような一節があります。

「国を守るには大船や大砲を数多く作るしかない
 諸外国は、その費用を交易で賄っている」と。

まさに時代は変革期にありました。
1853年黒船来航。
圧倒的な武力を前に、日本は、1854年日米和親条約の締結に踏み切ります。
艮斎から学んだことが、小栗の目の前に・・・!!

1859年、33歳を向かえた小栗は歴史の表舞台に・・・!!
日米修好通商条約批准の使節に抜擢されたのです。
役職は、使節一行を監督する目付・・・。
その才能を認めた井伊直弼直々の抜擢だったといいます。
使節を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号は、太平洋を横断し、サンフランシスコを経由して東海岸へ・・・およそ2か月の航海の後、首都ワシントンへ・・・!!
大統領に国書を奉呈します。
現地の新聞はその様子を大々的に報じています。
しかし、果たすべき仕事はまだあります。
小栗は出発前に、井伊大老から使命を帯びていました。

「我が国にとって海軍創設は急務。
 海軍工廠を見学したい。」と。

条約批准の8日後・・・1860年4月5日、ワシントン海軍造船所を見学。
最新の造船技術は、小栗の目にどのように映ったのでしょうか?

”銅や鉄製の部品が、すべて蒸気機関を用いて作られている”

とりわけ小栗たちを驚かせたのが、巨大なスチームハンマーでした。
そこではおよそ3トンものハンマーが、蒸気の力で持ち上がり、巨大な鉄の棒をひと打ちで切断していました。
1860年5月13日、ニューヨークを出港。
日本への帰路につきました。
日本を外国から守るため、近代的な造船所を建設する・・・小栗の中に、確かな目標ができました。

しかし、帰国した小栗を待ち受けていたのは、驚くべき報せでした。
1860年3月3日に起きていました。
大老井伊直弼が、尊皇攘夷を掲げる薩摩や水戸の浪士たちによって暗殺されたのです。
桜田門外の変です。
自らをアメリカへ派遣した大老の死・・・夢を描いて帰国した小栗・・・その行く手は突如暗転しました。

アメリカから帰国して一月・・・外国奉行に抜擢されます。
処が翌年事件が起きます。
1861年2月、ロシア軍艦対馬を占拠。
小栗はすぐに現場に急行します。
しかし、ロシア船の船長は、幕府を交渉相手と認めず、対馬藩を交渉相手と直接交渉を主張します。
交渉は行き詰まり、江戸に戻る小栗・・・
一説には、この時小栗は、対馬を幕府領としてロシアと交渉することを考えていたといいます。
しかし、幕閣はこの案を却下。
東アジアに大きな勢力を持っていたイギリスに、対馬に軍艦を派遣してもらい、ロシア軍艦を退去させたのです。
この外交の裏側には、外国通として知られた勝海舟がいたと言われています。

「日本が正面から単独で、ロシアと談判したものなら、なかなかうんとは承知しなかっただろう」by勝海舟

1861年7月、小栗は責任をとって外国奉行を辞任
軍事力無くして国家は成り立たないことを痛感することとなりました。
しかし、幕閣はその才能を放ってはおきませんでした。
1862年、勘定奉行に就任。
これを機に造船所建設を推し進めようとした小栗・・・
しかし、その道は平たんではありませんでした。
当時、幕府内では莫大な金のかかる造船所建設に疑問の声が上がっていました。

「船は外国から買えば良い」

というのです。

「海軍を運用する人材育成に、イギリスは300年かかっている
 日本では500年かかる
 造船所建設よりそちらを優先すべきである」by勝海舟

「我が国はすでに、外国から購入した船を何隻も保有している
 破損すれば修理する場所が必要ではないか?」by小栗

短期的な目で見れば、外国から船を買った方が早い・・・
しかし、メンテナンスせず、ずっと動くかと言ったらそうではない。
外洋を走る船には貝殻が付き、船体が腐らないように塗装をするのです。
そのためには、船を造るだけではなく、実際に毎日修理できる場所が必要なのです。

1864年、幕府は造船所建設に動きます。
しかし、大きな課題が残っていました。
高度な技術と莫大な資金です。
当時の日本に単独での建設は不可能でした。
幕府には、当初アメリカに援助を求める計画がありました。
ところが・・・1861年南北戦争勃発!!
小栗は新たなパートナーを探す必要が出てきました。
虎視眈々と日本を狙う列強・・・!!
もし選択を誤れば、植民地化につながる恐れがあります。

イギリスにする・・・??
海軍に置いてイギリスは世界に冠たる国で、一早く蒸気機関を実用化し、最先端の造船技術は他国の追随を許さない・・・。
しかし、イギリスのアジア進出は、極めて暴力的!!
立ち寄った香港では道の真ん中はイギリス人が歩き、清国人は端に追いやられていた・・・。
造船所建設には多額の費用が要る・・・もし、支払いが滞れば、イギリスに国の富を根こそぎ奪われる事態になりかねない・・・。
そして、イギリスは最近薩摩と接近している・・・!!
この頃薩摩藩は、幕府政治の改革に動き出していました。
政治工作でそれを実現しようとしたが果たせず、方針を転換・・・
イギリスから最新式の武器を購入し、軍隊の近代化を進めていました。
イギリスがその後押しをしているとすれば・・・幕府の要請にこたえてくれるだろうか・・・??

オランダは・・・??
古くから付き合いがあり、海軍建設(長崎海軍伝習所)にあたり頼っていた国だ。
教官はオランダから派遣された士官が勤めていました。
オランダに、技術者肥田浜五郎を派遣してもいます。
目的は、造船の機会の注文と造船所建造方法伝習です。
幕府の一部では、オランダでの造船所建設が具体的に上がっていました。
しかし、近年その国力は衰えていると聞く・・・。
造船所建設という大プロジェクトの全面的援助が可能だろうか・・・??

フランスは・・・??
あまり付き合いのないフランス・
その頃、日本とフランスの関係は転機を迎えていました。
新たな公使レオン・ロッシュが来日、イギリスの植民地政策を非難、幕閣の好意を得ていました。
フランスは正義の国だと宣伝していました。
ロッシュには、日本で手に入れたいものがありました。
それは・・・蚕。
当時、絹織物は、フランスの輸出産業の主力で、伝染病の大流行で蚕が絶滅に瀕していました。
ロッシュは幕府の許しを得て、種紙を購入し本国に送っています。

「日本政府は我が国に皇位を持っています。
 毎日私は、フランスが日本政府に与えた幸福な影響を確認しています。」byロッシュ

友好的な関係を築きつつあるフランスとなら植民地の危険性はないかもしれない・・・。
それにフランスは、イギリスに負けじと造船技術の近代化に努めていると聞く・・・
そこにかけてみる価値はあるのでは・・・??
イギリスか?オランダか?フランスか・・・??

小栗が選んだのはフランスでした。
何が決め手となったのでしょうか?

”小栗上野介がフランス公使ロッシュに要請した造船所建設担当者について回答があった
 ヴェルニーという者が適任だという”

ヴェルニーは、清国で造船所建設の経験もある、フランス海軍きっての技術者です。
そのヴェルニーを日本に派遣し、工事の指揮を執らせると、ロッシュが確約したのです。
ヴェルニーは、契約を待たずに来日し、測量しました。
大型船でも侵入可能な横須賀に白羽の矢を立て設計に取り掛かりました。

ドックから備品の工場まで・・・小栗がアメリカで目の当たりにした造船所が日本で実現しようとしていました。

小栗が勘定奉行として直面していたのが、建設費年間100万ドルです。
ひっ迫する幕府財政の中、何を財源とすべきか・・・??
目をつけたのは生糸でした。
フランスとの契約との何か月も前から、根回しに動く小栗・・・そこで、生糸に気付きます。
生糸の安定供給・・・輸出によって外貨を得、造船所のための機材を買うことができる・・・!!
そしてその、生糸を現物で納めさせ、幕府が海外で売れば、大きな利益が得られるのです。
幕府は動き始めます。

”幕府の改印のない生糸や種紙の売買は一切許さない”

小栗は、幕府による生糸独占に舵を切ったのです。
さらにこの年、幕閣に組合商法の設立を提案しています。
計画は・・・??
幕府が改印制度を使って日本中の生糸を独占します。
さらに、日本とフランスで大商人に組合を作らせ、独占して生糸貿易を行います。
日本とフランスで生糸貿易を独占し、その費用を造船所建設に使おうと考えたのです。
造船所の建設は順調に・・・
しかし、国内情勢は悪化の一途をたどり始めました。

1866年第二次長州征伐
薩摩の仲介でイギリスから最新兵器を購入した長州を相手に、幕府軍は大敗北を喫します。
幕府の威信は充足に低下していきます。
この時、長州との講和講習に臨む勝海舟に対して小栗は・・・
「幕府の下に郡県制度を立てようと思う」
すべての藩を廃止し、将軍が任命した知事が地方を治める中央集権制です。
小栗は、徳川中心の近代国家を構想していました。
明治維新の2年前でした。

1868年鳥羽・伏見の戦い
薩摩長州の新政府軍と旧幕府軍との間に戦いが勃発!!
旧幕府軍は敗北を喫します。
登城した小栗上野介は慶喜に、徹底抗戦を訴えます。
慶喜の袖をとってまで秘策を・・・!!
”東海道を上ってくる新政府軍を幕府陸軍で迎撃
 孤立した敵を、幕府の誇る最新鋭の軍艦で海から砲撃する”

新政府軍の参謀・大村益次郎は・・・
「あの策を用いられれば我が軍は全滅していたかもしれない」と言っています。
しかし、すでに恭順を決めていた慶喜は、小栗の策を却下し、勘定奉行から罷免します。
そして恭順派の勝が・・・江戸城無血開城をするのです。
徳川中心の近代化の夢はついえたのです。

1868年3月1日、小栗は、知行地・権田村に退去
移住から間もなく、この地に屋敷の普請を始めます。
敷地の一角には・・・お茶の苗木を江戸から運んで植えています。
当時お茶は、生糸と並んで重要な輸出品目でした。
この地でも、国をとませる方法を考えていたのです。

国の基本は国民、国民が豊かになって落ち着いた暮らしができるということが大事なのです。
しかし、4月22日、新政府軍から付近の諸藩に一通の命令書が届きます。
小栗上野介は権田村に陣屋を厳重に構え、砲台を築いている・・・反逆の謀略は明らか・・・
手に余るようであれば、誅滅すべし!!

4月5日、小栗は逮捕され、翌日付近の河原で斬首されます。
享年41歳でした。

小栗が手掛けた造船所建設は新政府に受け継がれ、1871年横須賀製鉄所完成!!
製鉄所とは当時の用語で造船所を含む海軍工廠を指します。
後の日本海海戦でバルチック艦隊を沈めた駆逐艦や、魚雷艇の多くがこのドックで建造補習されたといいます。
小栗が造船所建設にあたって同僚に語った言葉が残されています。

「この造船所ができれば たとえ幕府を売り出すとしても、 土蔵付き売り家の栄誉が残る」by小栗上野介

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1868年4月4日、江戸城無血開城・・・
およそ260年続いた江戸幕府が終わりをつげ、江戸城が新政府軍に明け渡されました。
この時、江戸城の金蔵を開けた新政府軍は驚愕!!
金蔵にあるはずの幕府の御用金360万両が無くなっていたのです。
その金を盗み埋めたのでは?と疑われたのが、小栗上野介忠順でした。
本当に隠したのでしょうか?そして、その目的とは・・・??

東京神田駿河台・・・小栗上野介は、1827年に生まれます。
小栗家は、代々徳川家に仕える旗本で、譜代の中でも高い2500石。
小栗は生まれたときから出世の道が約束されたエリートでした。
9歳で、名門と言われた私塾「見山楼」に入門します。
TOPの成績を修めるなど、才覚を発揮!!
武術にも長けて、将軍のまえで弓を披露したときにはすべて大的に的中させ、褒美を賜わったといいます。
文武両道で勤勉だった小栗は、17歳で江戸城に初登城。
21歳で御書院番、27歳で進物番出役、13代将軍徳川家定に仕えます。
スピード出世を遂げていく上野介。。。

ペリー来航によって開国した日本は、
1858年6月日米修好通商条約締結。
その条約批准のために、遣米使節団が結成されます。
小栗は、大老井伊直弼からこの使節団の目付け役を任されました。
そして、1560年、小栗はアメリカ軍官ポーハタン号で出航。
この時、護衛艦として随行したのが咸臨丸です。
その館長を務めていたのは、勝海舟でした。
出航からおよそ2か月後、アメリカに到着!!
この時小栗は、条約の批准の他に、金と銀の交換比率の見直しという重責を担っていました。
小栗はその手腕を発揮!!
日米修好通商条約で定められた交換比率は、アメリカに有利なものでした。
当時はアメリカ国内では金1枚に対し銀15枚!!
日本に銀15枚を持って行くと金3枚と交換できるようになっていたのです。
少ない銀で金が手に入ると、海外に日本の金が流出し、経済の混乱が生じていました。
その状況を打開する為に・・・
小栗はアメリカに日米の銀貨などの分析を要求します。
が・・・時間を要するので、と拒否されます。
それでも説得する小栗!!
小栗の粘りの結果、分析することを約束してくれました。
そんな小栗は、明らかにシャープな男として、アメリカの新聞で取り上げられました。
さらに小栗は、アメリカで様々な場所を視察し、見識を深めていきます。
ワシントンで海軍の造船所、そして鉄製の螺子を持ち帰りました。

日本近代化実現のために奔走することとなります。
帰国後、小栗は200石加増され、2700石となり、外国奉行に就任します。
幕府の軍事力強化のために、小栗はフランスから銀600万ドルと軍艦の借り受けを検討!!
そして、同士と信じていた男・・・勝海舟に相談します。
しかし、その話を聞いた勝は・・・
「小栗は、日本の国土を担保にフランスから借金をしようとしている。
 国を売るようなこの計画、許し難し。」
と、幕閣たちに報告し、小栗を批判します。

小栗が国を担保にしようとしたというのは事実無根。
反対する為の勝のハッタリでした。
アメリカに渡航以来、勝は小栗に強いライバル心を燃やしていました。
というのも、小栗が任務を終えた後、4か月かけて日本人初の世界一周をして、見聞をひろめていたのに対し、勝はアメリカ西海岸までの護衛を果たすとその周辺を視察しただけで帰国を命じられていたのです。
小栗との待遇の差に憤っていました。

家柄のせい??

二人の間では、日本の近代化に対する考え方も違っていました。
小栗は幕府を評価して近代化を進める。
勝は諸藩にも近代化の強力を要請したい。
ことごとく対立する二人・・・。
後に小栗について勝は、
「勢力がひとに優れて計略に冨み、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の徳川武士」と言っています。
内心、高く評価していたのです。
小栗は、幕府の要職を歴任・・・中でも勘定奉行は4回も・・・!!
そして1863年、37歳になった小栗は、アメリカで抱いた夢の実現に向かいます。
それは日本の近代化でした。

①造船所建設
当時幕府は軍事力強化のために、大金を出して諸外国から軍艦を購入していました。
しかし、その軍艦が故障すれば・・・外国まで持って行って修理しなければなりません。
そこで、勘定奉行だった小栗は、横須賀に造船所を作りたいと幕府に提案!!
しかし、幕閣から猛反対にあいます。

「今のままでは時間も経費も掛かります。
 どうしても、国内に製造修理の場所が必要です。
 資金は勘定奉行の私の責任で何とか工面します。」

その甲斐あって、翌年造船所建設が幕府に承認されます。
敷地面積・・・24万6000㎡、建設費総額・・・240万ドル(120億円)
世界を見てきた小栗は、これまでの慣例にとらわれることなく近代化を推し進めていきます。

②日本初の「株式会社」設立
1867年日本初の株式会社「兵庫商社」を設立。
資本の少ない日本の商人たちが、海外貿易で非利益を被っている解決策として作った商社でした。
他にも日本初のホテル「築地ホテル館」・・・郵便、電信、ガス、鉄道・・・の設立を、提唱していきました。

小栗は、幕府の近代化の最先端を走る人でした。
小栗は、幕府を中心とした日本の近代化を邁進していました。
しかし、その矢先、大政奉還・・・幕府の終焉と共に、小栗の運命も大きく変わっていきます。

1968年4月・・・新政府軍と旧幕府軍との間で合意されていた江戸城引き渡しがあり、新政府軍が江戸城に入りました。
江戸城無血開城です。
この時、新政府軍には、江戸城引き渡し以外にもう一つ目的がありました。
それは、江戸幕府の御用金でした。
まだ新しい政府ができたばかりで資金不足・・・そこで、江戸幕府の莫大な御用金を軍資金に・・・と考えていたのです。
ところが・・・向かった金蔵の中は・・・もぬけの殻でした。

「おそらく、旧幕府軍の何者かが、白を出る時密かに運び出したのだろう。」

この時、幕府が全国に保有していた御用金は総額360万両・・・。
今の3600億円と言われていました。
その大金を盗み、隠したと思われたのが小栗上野介だったのです。
小栗は何度も勘定奉行となっていたので、御用金に一番近い存在で、その状況を把握していたのでうたぐぁれたのです。

しかし、この時、小栗はもう、幕府の役人ではありませんでした。
江戸城無血開城が決まる前に、江戸を離れていたのです。
どうして・・・??
1968年1月・・・鳥羽・伏見の戦いで・・・。
新政府軍に敗れた徳川慶喜は、多くの家臣を残して江戸に逃げ帰ってしまいました。
朝敵となってしまった旧幕府側は、新政府軍と戦いを続けるのか、恭順するのか?江戸城で話し合います。
恭順するという慶喜に対し、小栗は徹底抗戦を主張・・・
奥へ下ろうとする慶喜に取りすがってしまいました。
「無礼者!!」
それから二日後の事・・・小栗は慶喜に勘定奉行などを罷免されてしまいました。

幕府要職を歴任してきた小栗・・・将軍から絶大な信頼を寄せられていたであろうに・・・罷免??
徹底抗戦を主張するのは、幕臣として当然だったでしょう。
あくまで意見を言っただけなのに・・・??
慶喜は、そもそも朝敵になりたくはありませんでした。
徹底抗戦を主張している小栗をそばに置いておくのは危険だ・・・と考えたのでしょう。

罷免されて2か月ほどたった3月・・・小栗は、江戸を引き払い、家族と数人の家臣たちと共に領地である上州権田村に移ります。
この時、大量の荷物を運ぶのを村人たちに見られています。
村にこんなうわさが・・・
「小栗さまが幕府の金を持ち出し隠したそうだ。」
「そういや、権田村にやってくるとき、千両箱や長持ちを山ほど運んで来たって聞いたぞ。」
「そりゃあほんとか?
 そんじゃあ、小栗さまのとこに小判がザックザックってことか?」
こうした噂は、権田村だけではなく近隣の村々に・・・
小栗がもっているという噂の金を狙い、村人たちが襲ってきたのです。

小栗は・・・日記「小栗日記」に記しています。
「暴徒は三方からおよそ二千人も押し寄せ、ついに宿場に放火。
 その上、発砲も始めたので、直ちに歩兵ども進めの号令を発して、暴徒を追討したところ、逃げ始めたので追い討って、ついに三人を討ち、一人は槍で村内の者が突きとめた。
 その他、歩兵たち十人も方々で打ち倒したので、とうとう暴徒は散々に逃げ始めた。」

撃退した小栗ですが、幕府の埋蔵金はあったのか??
いまだに発見されていませんが、お金を埋めたと言われる場所は、全国に数十カ所あると言われています。

徳川埋蔵金の真相とは??

①銚子沖沈没船説

徳川埋蔵金と言われる御用金は360万両・・・千両箱にして3600箱あったことになります。
幕末の混乱期・・・陸路ではなく水路で運んだのでは?というのがこの説です。
そもそも銚子は、江戸幕府ができた頃、徳川家とゆかりのある紀州の漁師が移住して作ったと言われる港でした。
銚子へは、江戸城から隅田川を経て利根川を経由するルートがあったことから、船で運んだのでは?と考えられました。
しかし、波の荒い銚子沖・・・船が沈没してしまったのでは?というものです。
未だ見つかっていません。

②群馬県赤城山説

御用金が埋められたとされる有力な説が、群馬県にある赤城山です。
その山の所有者である水野家が、代々埋蔵金の発掘調査を行ってきました。
初めて赤城山での発掘調査をしたのは明治19年1886年ですが、きっかけは江戸時代にさかのぼります。
小栗が江戸から権田村に移ることとなった小栗・・・

「実はな、公儀在職中、徳川家の再興を図るために、甲府の御用蔵より24万両を運び出し、赤城山の山中に埋めたのだ。
 徳川再興のない今となっては、山中に埋もれたままでは何とも無念。
 埋蔵金の発掘をお前に託したい・・・。」

この話が元となって、水野家はいまも発掘を行っています。

赤城山に御用金を全額隠したのではなく、全国各地に少額ずつ隠したという説もあります。

どうして小栗が・・・??
幕府には、御用金を隠そうという計画があったと言われています。

江戸時代末期・・・幕府は度重なる財政危機に陥り、破たん寸前でした。
おまけに日米修好通商条約締結後、通商が盛んになると、国内の金が安いレートで海外に流出・・・。
日本経済は混乱していました。
これに危機感を覚えたのが、大老・井伊直弼でした。

幕府再興の資金として、また、金が海外に流出するのを防ぐ手立てとして、蓄えていた御用金360万両を隠そうと画策・・・
しかし、1860年桜田門外の変で井伊直弼は暗殺・・・。
これで計画は流れた・・・??
しかし、その前に、信頼を置いている小栗に埋蔵金計画を託していた・・・。
すべて幕府の為だった・・・??

この時、御用金は360万両もなかったのでは??
生麦事件でのイギリスへの賠償金などで、幕府は財政難でした。
どのくらい残っていたのか??は詳しくはわからないのです。
その真相は、藪の中・・・。

当時、大金を持ってきたと思われていた小栗・・・。
暴徒を出した近隣の村から謝罪を受けるとこれを許し、村を良くすることに尽力していきます。

①人材育成
これからは、誰もが教育を受けられるように・・・と、私学校の構想を練ります。
「この村から、太政大臣を出す!!」と言って、自分の元で、新しい時代に対応できる若者を・・・人材育成を考えていました。
小栗についてきた優秀な若者がいたのです。

観音山で屋敷の建設を開始・・・
その家は、襖を外せば60畳の教室となり多くの人を呼べるようになっていました。
小栗は、毎日のように建設現場に・・・私学校を心待ちにしていました。

②用水路建設
観音山付近の村々は、常に水不足に悩んでいました。
雨が降らないと田植えができず、僅かな作物しか作れませんでした。
そこで小栗は、東の稲瀬沢から用水路を作ろうと測量を開始。
その用水路は、今も小高用水として大切に使われています。
しかし、小栗自身は、屋敷も用水路も完成を見ずにこの世を去ることに・・・。

幕府の重臣だった小栗が権田村にやってきて2か月たった頃・・・
小栗は村の改革を行いながら、平穏な日々を送っていました。
しかし・・・突如”小栗上野介追討令”が出されました。

「小栗上野介
 近日その領地権田村に陣屋敷など厳重に総構え しかのみならず砲台を築き
 容易ならざる企てこれあるの趣・・・
 上は天朝に対し奉り 下は主人慶喜教順の意にも相もとり候に付き・・・」

戦を企てている逆賊だと言われたのです。

4月29日、地方の治安を守るために新政府軍が任命した東山道総督府が小栗討伐に向かいます。
その舞台は、軍官の豊永貫一郎や、原保太郎らが率いる高崎藩、安中藩、吉井藩の三藩。。。
使者は小栗の元にやってきて追討令を差し出すと、

「嫌疑を正すことはできるが・・・」

すると小栗は、

「陣屋とありますが、全く尼つゆを凌ぐだけの屋敷を作るつもりです。
 決して要害になるほどの普請工事をしているわけではなく、よくご覧いただければ事情はすぐにお分かりいただけるでしょう。
 砲台を築いているという件も、その大砲皆様にお預けいたしますからそれを根拠として下され。」

そして、小栗は使者たちを建設現場に連れて行って調べさせ、大砲と小銃5丁を引き渡しました。
この時、養子・又一が人質として連れて行かれてしまいました。

この大砲は、駿河台の小栗邸にあった飾り物で・・・
新政府軍は調査の結果、小栗を「お咎めなし」と報告していました。
しかし、この報告に総督府の原らは激怒!!

「天地の間に容るべかららざる罪人でもある 
 早々に捕らえよ」

しかも、刃向かえばそのまま斬首しても良いと言い出しました。
「無実ゆえ・・・」と、小栗の助命を嘆願しますが・・・
逆らえばとり潰すと言われ、言葉を飲みます。
一方、成り行きが思わしくないと情報を得た小栗は、家臣たちの勧めもあって家族と共に村から避難します。
そこへ権田村の名主・佐藤藤七が来て涙ながらに懇願します。

「どうか殿にはお戻りいただきたい。
 もし、殿を逃がしたとなれば、権田の村民が処罰されてしまいますゆえ・・・
 お戻りになって、官軍に申し開きなされますようお願い申し上げます。」

「そうか・・・すまなかった。
 村人に迷惑をかけるつもりはない。
 覚悟はできている。」

小栗は村にに引き返しました。

閏4月5日・・・小栗は寺の本堂にいたところを捕らえられ・・・
なんの取り調べもなく刑が確定します。

慶応4年閏4月6日午前11時・・・小栗上野介・・・斬首刑。 
処刑場となった権田村の烏川の河原では、多くの村人がかたずをのんで見守っていました。
そんな中、共に処刑されることとなった家臣がたまらずこう叫びます。

「一言の取り調べもなく、殿がこんなところで最期を遂げるとは残念です。」

「この期に及んで未練がましい事を申すでない。
 おのおの未練なきように・・・。」

そうたしなめると、小栗は一粒の涙を流したといいます。
何か言い残すことはないかと問われると・・・

「何事もない・・・ただすでに母と妻は避難させたので、どうか婦女子は寛大な処分を望む。」by上野介

権田村に移り住んでからわずか2か月・・・この時42歳でした。

小栗はどうして処刑されなければならなかったのでしょうか?
慶喜に一番近い存在であったにもかかわらず、徹底抗戦を主張した後すぐに罷免され、権田村に隠居したので、怪しいと疑われたのです。
当時、関東は治安が悪く、小栗が自分の身の安全や領地を守るために武器を持ってくるのは当然のことでしたが・・・。
新政府軍にとって小栗は、切れ者であり、野放しにしておくのは危険だと思ったのです。  

無実の小栗に続いて、三人の家臣と養子で跡継ぎの又一も、悉く斬首・・・。

小栗上野介を処刑した新政府軍は、家臣たちの家財道具をすべて没収し、高崎から呼び寄せた商人に売却し、その資金を新政府軍の軍資金としました。
そして、小栗上野介は歴史の闇に葬られてしまうのです。
唯一の救いは、面識のあった会津藩士を頼って会津に逃げた母や妻がお咎めを受けなかったことでした。
この時、妻・道子は身重でした。
道子は会津で無事に娘を出産・・・クニ子と名付けました。
その後、クニ子は養子をもらい、小栗家は続いていくこととなります。

優秀過ぎたため、あらぬ噂、あらぬ嫌疑をかけられたまま罪なく処刑され、歴史の闇に葬られた小栗上野介・・・
小栗は一言にして国を亡ぼす言葉あると言っていました。

それは「なんとかなるだろう・・・」
精一杯の努力をしない生き方を嫌った小栗・・・。
日本の近代化に勤め、最後まで幕府のために力を尽くした男でした。

1915年9月・・・
小栗が建設し、海軍の工場となっていた横須賀造船所で創立50周年の祝典が行われました。
そこで総理大臣大隈重信の言葉が伝えられます。

「この造船所は、幕末に小栗上野介の尽力によってフランスが創設の業を援助することに決した」

そして、その7年後・・・1922年、小栗の胸像の除幕式が行われました。

小栗上野介の偉業が再び日の目を見たのです。



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名前は聞いたことありますが、この人も幕臣・・・。明治という時代に消されてしまった一人なのでしょうね。どんな人なのでしょうか?

司馬遼太郎が「彼こそが明治国家の父である」と呼んだと言われています。
勝海舟・西郷隆盛・・・幕末の英雄と比べると、知名度の低い彼を、なぜ明治国家の父と呼んだのでしょうか?

その答えは、横須賀にあります。
小栗上野介が人生を捧げて完成させた横須賀造船所です。
ここで小栗は、軍事や産業の近代化に貢献し、日露戦争・日本海海戦では連合艦隊の補修場となりました。
東郷平八郎は小栗の家族を招き、
「小栗さんが横須賀造船所を作っておいてくれたことが、どれ程役立ったかしれません。」(By 渡哲也)と、感謝の言葉を述べ、謝辞を贈っています。

しかし、小栗の貢献はこれだけではなく・・・。
1860年遣米使節として初めてアメリカへ渡り、帰国してからは、日本初の近代的ホテルを建設、外国語学校を創設・・・と、数々の近代化事業を成し遂げました。

日本の近代化は、幕末・小栗によって始められていました。徳川家の忠実な家臣として悲劇的な最期を遂げた小栗上野介。近代化の礎となり新たな時代を切り開きながら、古き徳川幕府に殉じた最後の武士・小栗上野介の真実とは?


この小栗上野介、お役御免となるまでは、徳川慶喜のNo,2、幕府における最高の人物でした。
当時の幕府は、徳川直属の旗本の数は・・・旗本8万騎と言われていましたが、実際はこれを大きく下回るものでした。おまけに幕末には全く働かなかったのです。

1827年2,500石の旗本の家に生まれます。この小栗の先祖には、家康の時代・姉川の合戦などの一番やり小栗又一がいました。
徳川譜代の旗本の家に育った小栗。忠義心を心に厚く育ちました。
と同時に、外国との貿易を重要性を唱えた漢学者・安積良斎に弟子入りするなどして学びました。

1853年将軍・家定の近習として取り立てられたものの、運命は一変します。
黒船が来航したのです。

1860年幕府は、前年に結ばれた日米修好通商条約の批准書交換の為に、アメリカに使節団を派遣することになりました。

大老井伊直弼は、2人の外国奉行以外に小栗上野介を抜擢します。
「アメリカはどういう国なのか?見て来よう!!」
米国軍艦ポウハタン号に乗ってアメリカへ出向します。
この時、勝の咸臨丸も護衛船として付きましたが、サンフランシスコで折り返し日本に帰国したので、勝は批准書の交換に立ち会っていません。

5月14日ワシントンに到着。
代表の3人は、ホワイトハウスでジェームズ・ブキャナン大統領に謁見、批准書を交換しました。
この時の小栗たちを見て・・・
NY TIMES 紙は、「日本人は非常に礼節を重んじ、厳粛にしていた」
LONDON TIMES 紙は、「日本人には落ち着きと知性がある」
と、表現しています。

次に行ったフィラデルフィア造幣局では、アメリカとの貿易でのお金の交換比率を改めさせるため、日本の小判の正確性を説き、正確な交換比率にしてもらえるように申し出ます。
なぜなら、条約は不平等条約だったため、2年間で10年分ぐらいの金が流出していました。
これを改めさせようとしたのが小栗でしたが、日本人の中にも「批准書の交換に来たのに余計なことはするな!!」と、反対する人もいました。が・・・

「どんなに時間がかかろうとも、全量分析してもらわなければ困ります!!」

小栗は、アメリカでNOと言った初めての日本人と言われています。

おまけに、そろばんで簡単に計算をし、日本の早くて正確な分析結果に、アメリカはびっくりしました。
小栗は日本人としての誇りを持っていたので、毅然とした態度をとれたのです。
日本は、欧米列強に負けていたわけではない。伝統、歴史、良いものはたくさんある。
ただ、産業革命に乗り遅れただけ・・・。

アメリカ人は、いうべきことはきちんというものの、小栗の日本人としてのフェアな態度に感心したそうです。

6月18日 ニューヨーク・ブロードウェーで、歓迎パレードが催され、50万人のアメリカ人が珍しい日本人を見に来ました。今日受け継がれている日本人のイメージは、ここで植え付けられたと言っても過言ではありません。

しかし、日本では、桜田門外の変で井伊直弼が攘夷派に暗殺されてしまっていました。

帰国して、日本の近代化に着手します。そんな中、井伊の後に老中となった安藤信正によって
1860年外国奉行に就任
1862年勘定奉行に就任。
幕府の財政改革に取り組みます。
自力で軍艦を作る造船所の建設を訴えたのです。
この背景には、アメリカで見学したワシントン海軍造船所が影響していました。
そこは船の本体だけではなく、あらゆる部品、ねじくぎひとつまですべてを作る総合工場だったのです。
日本でも、こんな工場を作れたら、軍事のみならず産業となるのでは?!

1864年軍艦奉行に就任し、造船所建設へと動き出しますが、幕府内でもお金がかかる。とか、船は外国から買えばいい。とか、反対意見が相次ぎます。その急先鋒は、勝海舟でした。

しかし、外国から船を買っても、修理が出来ない・・・。修理をするためには、やはり造船所が必要だ。。。

この時小栗は・・・
「徳川幕府が家屋敷を売り渡すことになっても、土蔵付きの売り家の名誉が残せる」と言いました。
つまり、日本の国は今行き詰っている。いずれ新しい家主になろうとも。。。
日本の将来の為に、造船所建設の覚悟を決めていました。

1865年1月横須賀に造船所を作ることが認可され、建設が開始されました。
ここには、工場だけではなく、官舎や学校までありました。

造船所、まずは製鉄所としてスタートします。
3tスチームハンマーを購入。このハンマーは、これ以後130年使われることになります。
そしてこの製鉄所が日本の近代化の礎となります。
海軍専用施設となり、日露・日本海海戦に重要な役割を持つことになるのです。

この施設、軍事、工業以外でも、近代化の先駆けとなりました。
西欧式、近代型の労務管理制・マネジメント制を導入。また、会社経営の理念を導入します。
・就業規則を設定
・年功給制度の採用
・1865年には、横浜仏語伝習所開設・・・幕府陸軍の兵士たちに学ばせました。
・製鉄所内では、部長・課長などの役職が出来ました。
現在ドックは、アメリカ海軍横須賀基地内の施設として現役で活動。まさに、日本の大切な土蔵となったのです。
横須賀製鉄所は1865年に起工され、1871年に横須賀造船所と改称。

1867年、慶喜に、日本の貿易力を上げるため、株式会社の設立を提案、認可されました。
株式会社の制度を使って、
・築地ホテル建設(水洗トイレあり)
ちなみに、坂本龍馬の亀山社中は、厳密には株式会社ではなく、下請けのようなもの。
初めては、1867年小栗の建議にて設立された兵庫商社です。

・全国諸藩を解体し、郡県制の構想を提案。
郡県制とは、全国をいくつかの郡に分け、さらに県に分け、中央で統治する中央集権的な行政制度のことです。
この郡県制により、全国から税をとることが可能となり、それを国家予算に当てようとしました。
つまり、明治維新をも先駆けていたのです。


徳川幕府を再生させようとしていたのです。

時代は15代将軍慶喜・・・歴史が大きな転換期を迎えます。
1867年 京都二条城にて大政奉還。しかし、王政復古の大号令によって、徳川による新政権樹立は不可能となり、朝廷・薩長による新政府が誕生してしまいます。

小栗はこれを不当として、徹底抗戦を始めます。
しかし、慶喜との間に亀裂が・・・。

慶喜はもともと水戸学。
水戸学とは、朱子学を中心に、天皇制の思想的源流と、その正当性を表す学問のことです。当時の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたことは言わずもがなですが。。。

「国賊になりたくない!!」という気持ちが大きくありました。

西・政府軍VS東・幕府軍の膠着状態の中、西郷の挑発が始まります。

薩摩藩士が江戸城下で放火、騒動を起こします。
小栗は激怒し、薩摩藩邸を砲撃・・・西郷の思うつぼでした。
1868年戊辰戦争に突入。小栗にとっては、倒れかけた徳川幕府を守る最後の戦いでした。

戦いの渦中、錦の御旗に動揺した慶喜は、大坂城を出て江戸に帰還・・・。
1868年1月12日~江戸城にて評定が開かれます。
恭順派の勝、徹底抗戦派の小栗。共に近代化を推進していましたが、2人の想いは違っていました。

「新政府軍を箱根で迎え撃ち、足止めして、榎本武揚率いる幕府艦隊が駿河湾から艦砲射撃で一掃しましょう!!」

小栗は訴えましたが、尊王思想の強い水戸に育った慶喜は新政府軍に恭順することを選びました。
「もしこれが実行されていたら・・・我々の首はなかった」とは、大村益次郎の談。

その後、小栗は上州・権田村・東善寺に移り住みます。
殿さまのしない戦争には、参加しない。「大義名分」はないのだ。

しかし、小栗を怖れた新政府によって・・・
4月6日企てありと捕縛され、取り調べもなく水沼河原で斬首されてしまいました。
享年41歳でした。

まだまだやりたいことはたくさんあった、無念だったことでしょう。

造船所は新政府に引き継がれ完成。
アメリカ海軍横須賀基地司令部には、アメリカ軍歴代の司令官と共に写真が飾られています。

志半ばであったにしても、小栗の思った通り、幕府の為にしたことが、日本の為となった。
徳川幕府のしたことが、後の為になればよいではないか?

懸命を尽くし、日本の国を良くすること、その覚悟を持っていた真の侍だったと言えます。

なんだか新政府によって功績を消されたひとりだということは、間違いないですね。
こんなふうに見てくると、どちら側にも同じような考え方があって、何が正しくて、何が間違っていたかなんて、本当に「勝てば官軍」なんだなあ。。。と、思ってしまいます。

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