日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:小西行長

島津義弘の賭け (中公文庫) [ 山本博文 ]

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(2018/10/31 12:47時点)
感想(4件)



日本の近代化の始まりとなった明治維新・・・その大改革の位置役を担ったのが、西郷隆盛などを擁した薩摩藩です。
しかし彼らの活躍は、あの出来事がなければなかったかもしれません。
1600年9月15日、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍併せて8万の大軍が激突した関ケ原の戦いです。
子の天下分け目の合戦で、西軍の敗戦が決しようとしたとき、よう軍の主力部隊に突き進む隊がありました。
薩摩の島津義久率いる島津軍!!これが、後世に名を残す島津の退き口です。

島津義弘は、室町時代後期の1535年に九州の名門・島津家の次男として生まれました。
義弘は、長男・義久に代わって島津軍を率いて多くの戦に出陣。
島津の旧習制覇に向けて、八面六臂の大活躍!!
猛将としてその名を全国に轟かせていました。

秀吉の九州征討によって、薩摩国・大隅国・日向国(一部)の62万石になってしまっていたのですが・・・
当時は兄の義久が、拠点である薩摩国を、弟・義弘が大隅国を治めていました。
秀吉の命で、義久が大隅を、義弘が薩摩を治めることになったのですが・・・
それは、義弘の活躍ぶりを秀吉が気に入り、島津の代表として秀吉が扱ったのだといいます。
弟・義弘が正統の当主となったわけではないのですが・・・この微妙な関係で、義弘に大きな試練が・・・!!

1600年、豊臣秀吉亡き後、虎視眈々と天下を狙う五大老筆頭の徳川家康と、秀吉の跡継ぎの石田三成との争いが激しくなります。
一触即発の中、天下分け目の決戦に向けた激動の日々が始まりました。
先に動いたのが、大坂城にいた家康でした。
家康は五大老のひとりである上杉景勝に謀反の疑いがあるとし、諸大名に出陣を要請!!
自ら会津の上杉討伐に向け、京都の伏見城に入りました。
しかし、会津に遠征することは、政の中心であった髪型を留守にすることになり、家康にとっては危険なことでした。
家康によって佐和山城に隠居させられていた石田三成が、家康が神永を留守にするのに乗じて挙兵するかも知れなかったからです。
そこで、上方の重要拠点である伏見城を奪われないように万全を喫します。
家康の重臣・鳥居元忠を城に残し、城の守りを依頼したのは島津義弘でした。
家康が義弘に依頼したのは、猛将としての腕を見込んでのことでした。
秀吉が行った朝鮮出兵での活躍は、聞きしに勝るものがありました。
当時日本は苦戦していましたが、義弘は、秀吉亡き後の泗川城の戦いで、5000の兵で数万の明と朝鮮の連合軍を打ち破ります。
これによって、日本軍の撤退が容易になったのです。

こうして家康から伏見城の守りを依頼をされた義弘ですが、これを受けると豊臣の世を守ろうとする三成を敵に回すことに・・・。
義弘の返答に島津の運命がかかっていました。

「家康殿の命とあらばお受けいたしたいが、家中の者と相談して正式にお答えしたい。」

と、即答を避けたものの、義弘には家康の頼みを断れない大きな借りがありました。
それは、前年の事件・・・
義弘の子・忠恒が、島津家の重臣で都城8万石の領主となっていた伊集院忠棟を茶席で手打ちにしてしまったのです。
それは、主君である島津をないがしろにした忠棟の行いに業を煮やしてのことでしたが、秀吉のお気に入りを殺してしまったことで三成が激怒!!
島津と伊集院との確執は収まらず、殺された忠棟の子が、都城で反乱を起こすという事態に発展してしまいました。
それによって、島津家は苦境に陥りましたが、その際、和睦を図ってくれたのが家康だったのです。
熟慮の末、家康のために、伏見城を守ることにした義弘。
家康は、1600年6月に会津に出陣!!
家康の出陣を待っていたかのように、石田三成が動きます。
7月半ば、家康のいなくなった大坂城に戻ると大軍を集め、打倒家康を掲げて蹶起しました。
そうして西軍が大坂で挙兵したころ、義弘は200の軍勢と共に京都にいました。
遅かれ早かれ西軍が伏見城に攻め込んでくるのは明白でした。
そこで義弘は、家康との約束を守るために、伏見城に入城を申し入れます。
ところが、鳥居元忠は、あろうことか義弘の入城を拒絶したのです。
鳥居はどうして義弘の入城を拒んだのでしょうか?

これは、家康と義弘とのあくまでも口約束であって、文章が存在していませんでした。
しかも、外様大名の義弘が裏切ることを恐れたからです。
聞いていなかった鳥居元忠によっては当然のことでした。
そして、この事態が義弘に危機的状況をもたらします。
周囲は伏見城を攻撃しようとする西軍で埋め尽くされていたのです。
戦おうにも兵は僅か200!!
そこで、義弘は生き残るために苦渋の決断をします。
一転して、西軍に組することでこの危機を脱しようとしたのです。
そして義弘は、戦うからには200の兵では島津の名が廃ると、国元に至急兵を送るように申し入れます。
ところが、薩摩からの援軍はなかなか到着しません。
家康を恐れた兄・義久が兵を出すことを拒んだのです。
兄から見放されてしまった義弘・・・そんな時に駆け付けてくれたのが、義久の甥・島津豊久でした。
こうして義弘を慕うものが次々と集まり、軍勢は1500ほどに・・・。
それでも兵は足りません。
天下分け目の関ケ原の戦いは、1か月後に迫っていました。

1600年8月11日、石田三成は東軍の進軍に備えるべく、6000の兵を美濃の大垣まで進めます。
1500の兵の島津義弘も三成に従い布陣しました。
そして、8月22日、三成の命を受けた島津軍は、最前線の墨俣につきます。
すると翌日、状況が一変!!
東海道を登ってきた東軍の先鋒隊が、岐阜城を急襲!!
たった1日で落城させてしまいました。
また、東軍の黒田長政、藤堂高虎の軍勢が長良川西岸に押し寄せ、西軍の先鋒隊を打ち破り進撃!!
大垣から進軍していた三成本体にも危機が迫ります。

そこで三成は、墨俣から少し離れた佐渡で軍議を開きます。
その内容は、義弘にとって思いもよらないものでした。
それは、大垣への撤退・・・しかも、義弘に・・・
「義弘殿が一緒だと心強い、ご同行願おう!!」by三成
逃げたら、最前線の墨俣にいる島津軍は置き去りとなり、東軍が攻撃してきたらひとたまりもありません。
納得のできない義弘は、三成を突っぱねます。
すると三成は、そのまま大垣へと戻ってしまいました。
義弘は、墨俣に布陣する島津軍を救い出すべく出陣!!
無事島津の兵を撤退させたのです。
その後三成は義弘に詫びますが、このことで確執が生じたともいわれています。
それから20日後の9月14日、家康をはじめとする東軍は関ケ原に進軍!!
一方三成は笹尾山に布陣!!
島津軍はその近くに軍を構えます。
両軍が布陣を終えたのは、15日早朝!!
いよいよ決戦の火ぶたが切られようとしていました。

1600年9月15日朝・・・深い霧が立ち込める中、美濃国関ケ原で東軍7万VS西軍8万の大軍が対峙しました。

島津義弘率いる島津軍も、石田三成の陣の近くに布陣します。
そして、午前8時・・・東軍・井伊直政軍が西軍・宇喜多秀家軍に向かって発砲!!
一気に戦闘が始まりました。
しかし、義弘の島津軍は動こうとしません。
まるで東軍と西軍との戦いを傍観しているかのようでした。
その後、松尾山に陣取った小早川軍が東軍に寝返り、大谷吉継軍を背後から急襲します。
この小早川の寝返りで西軍は劣勢となっていきますが、義弘の軍は動きません。
島津軍の出撃をを今か今かと待っていた三成は、義弘の元へ伝令を送ります。
しかし・・・義弘は出撃の命を出しません。
そのうちに小西行長軍、宇喜多秀家軍の敗走が始まりました。
逃げ惑う兵たちが右往左往、大混乱が・・・!!
にもかかわらず、島津軍は動きません。
そのうち、しびれを切らした三成自らやってきて、出撃を促します。
しかし、義弘に代わって甥の豊久は答えます。
「人のことなど構う暇はござらん!!」

どうして義弘は島津軍を出撃させなかったのでしょうか?
島津軍は数が少なく、二番備え・・・先陣の次に攻め入る軍勢だったので、戦機を見極めようとしていた義久・・・。
そして、戦機が訪れなかったというのが本音でしょう。
数の少ない島津軍は、むやみに出撃すれば命を落とすことは確実でした。
そこで、少しでも勝てる機会を待っていたのですが、とうとう来なかったのです。

義弘は後に語っています。

もし、島津軍に5000の兵があればあの戦、勝っていたものを・・・!!

東軍の優勢が明らかになると、出撃しなかった島津軍にも容赦なく攻撃が・・・!!
島津軍の前方には、見渡す限り東軍の兵!!
背後には伊吹山が立ちはだかっていました。
島津軍は絶体絶命の危機に陥ってしまいました。
義弘は家臣たちに告げます。

「老武者のわしには、伊吹山の泰山は越え難し。
 たとえ討たれると言えど、敵に向かって死すべし!!」by義弘

数々の危機を乗り越えてきた義弘も、この時は死を覚悟しました。
そんな義弘を甥の豊久は諫めます。
豊久の想いは、島津軍全員の思いでもありました。
なんとしても義弘を生きて薩摩に・・・!!

石田三成が配送を始めました。
東軍は、ここぞとばかりに西軍に襲い掛かり、島津軍も四方八方を囲まれ絶体絶命の危機に・・・!!
すると義弘は、
「皆の者、退却する・・・!!」
義弘は、関ケ原を抜け出し、国元・薩摩に戻ることを家臣たちに告げます。
しかし、退却すると言っても1500の島津軍が、東軍だらけの関ケ原でどうやって逃げるのか・・・??
伊吹山を背にした島津軍の退却ルートは4つ。
東海道を幾ルートは、薩摩とは反対方向なので却下。
中山道を西に進む?北国街道を北に進む?
伊勢街道を南に向かう??
義弘の退却路は、伊勢路から・・・!!
しかし、伊勢街道は、家康直臣の軍勢がいる最も難しいルートでした。

義弘はどうして伊勢街道を選んだのでしょうか?
中山道は小早川軍1万5000。北国街道は黒田・細川軍など2万。。。伊勢街道ルートは1万にも満たず、敵兵が少なかったと思われます。
合理的で冷静な判断でした。
しかし、精鋭ぞろいの家康の部隊を突破することは容易い事ではありません。
ここから、島津の退き口という歴史に残る壮絶な退却戦が始まるのです。
少数の島津軍はどんな戦法を使ったのでしょうか?

穿ち抜け・・・とは、島津軍が得意とする戦法で、錐で穴をあけるように敵の一点を集中攻撃をして突破する、至近攻撃です。
まず、島津軍に立ちはだかったのは猛将の福島軍!!
これを突破します。
”孫子”には、死に物狂いの兵には近寄るなとあります。
これが当時の常識だったので、福島軍が道をあける形になってしまったようです。
さらに、東軍を突き進んでいく島津軍。
その激闘を東軍の兵のひとりが書状に残しています。

まず少ない島津軍は、東軍に飲み込まれながらこれを突破!!

まさに必死の戦いで敵陣を進んだ島津軍は、進路を南にとります。
伊勢街道を目指します!!
すると、そこに敗走する三成を追う家康本隊と遭遇してしまいました。
しかし家康軍は、島津軍をやり過ごし、先頭は起きませんでした。
一説では、この時義弘は、家臣を家康に差し向けこんな口上を述べさせたといいます。

「島津兵庫入道義弘、こたび はからずも御敵となり、戦い利あらずして ただ今、御陣頭を過ぎて本国薩摩へと帰り申す。
 わが心事については、後日改めて言上つかまつるべし。」と。

本意ではない戦いではあった・・・と。

生き延びて、このまま薩摩に帰ったとしても、西軍として戦った島津家に未来はありません。
ひとまず家康に礼を尽くしておく・・・義弘のしたたかな作戦だったのかもしれません。
関ケ原の戦いで、西軍の敗色が濃厚になる中、薩摩に変えるために敵中突破し伊勢街道を突き進む島津軍!!
東軍も島津軍を逃してなるものか!!
と、徳川四天王・井伊直政、闘将・本多忠勝による追撃が始まりました。
その際、島津軍の繰り出した作戦は・・・??捨て扞でした。
殿の兵が残って、討ち死に覚悟で戦って他の兵を逃がすという決死の戦法です。
島津軍は、兵の命を犠牲にしながら、穿ち抜けを何度もしたと思われます。

「明良洪範」によると・・・東軍にも思わぬ被害が・・・
井伊直政が右肩に被弾し落馬、重傷を負いました。
島津軍も、甥・豊久が命を落とします。まだ31歳の若さでした。
島津軍は、多くの命を失いながら、かろうじて伊勢街道を逃げ延びます。
島津軍が関ケ原から20キロほどの駒野坂に達したのは、午後7時ごろのことでした。
この時、島津軍の兵の数は、100にも持たなかったといいます。
しかし、薩摩はまだはるか先・・・
鈴鹿峠を抜けるとき、東軍の追撃だけでなく落武者狩りにも遭ってしまいます。
さらに、困難を極めたのが、食料の調達でした。
足りなくなった時は、軍馬で飢えをしのいだといいます。
島津軍がなんとか大坂に到着したのは、5日後の9月20日。
兵の数はさらに減り、70人余りだったと言われています。
そして、大坂から薩摩へ・・・!!

東軍の勝利に終わった関ケ原・・・西軍として参戦した島津家の事情を聴くために、島津義弘の兄で実権を握る義久に出頭を命じます。
しかし、義久はこれを拒んで防御を固めます。
対決姿勢を崩さない島津家に家康は、9月30日、九州の諸大名に島津討伐軍の結成を命じます。
ところが、家康はいつまでたっても攻撃の命を出しませんでした。
実際、島津家と戦うことによって混乱し、反徳川が蹶起する可能性があったからです。
結局家康は、島津討伐を断念することに・・・。

驚くことに、島津家の本領安堵が決定!!
62万石のままになります。
同じく西軍として戦った毛利家は、121万石から37万石に、四国の長宗我部家に至っては、領地没収という憂き目に・・・。

家康は、島津家に対して異例にも寛大でした。
この時、重要な役割を担っていたのは、島津の退き口で負傷した井伊直政です。
関ケ原から半年、直政は島津家に書状を送り、和睦を成立させるために自分が働くことを伝えます。

井伊直政は、島津軍の強さを身に染みて知っていました。
なので、戦いたくはなかったのです。
おまけに、南九州まで行くということは、大変で、上杉や毛利とも和睦できていない今、何が起こるかわからなかったので、島津との和睦を進めました。
関ケ原の戦い前と変わらず本領安堵を認められた島津家・・・
さらに、義弘の助命を勝ち取っています。
これ以上ない和睦でした。
これによって、島津家は生き残り、雄藩として江戸時代を生きていく基礎となりました。

無謀と思われた島津の退き口は、結果として薩摩藩を本領安堵へと導きました。
しかし、家康にとって島津家を処分できなかったことは、大きな心残りだったともいわれています。
そして、その家康の心残りが後に災いをもたらします。
それは、関ケ原の戦いから267年後のこと・・・家康が築いた江戸幕府は、その家康が許した島津家の薩摩藩
ら討幕派によって終わりを迎えることになるのです。

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ユネスコは「朝鮮通信使に関する記録」を世界記憶遺産として登録しました。
朝鮮通信使とは、江戸時代に朝鮮国王が徳川将軍家に派遣していた外交使節団のことです。
この使節団は、日本と朝鮮が互いに対等で審議を交わす象徴となっていました。
そんな友好の歴史がスポットを浴びたのです。
この「朝鮮通信使」誕生の裏には、江戸時代のはじめ、ある男のギリギリの選択があったことは知られていません。
その男とは・・・九州北部対馬島主・宗義智です。
義智が治める対馬は、日本本土と朝鮮半島の間にある島です。
朝鮮との貿易を生活の糧とし、対馬は日本本土とは違う独自の生活をしていました。
しかし、豊臣秀吉によって天下統一がなされると、対馬も本土の体制に組み込まれていきます。
義智は天下人・秀吉からとんでもない命令を受けます。
「朝鮮王朝は秀吉に服属するよう義智は説得せよ。」
というものでした。
朝鮮王朝が従う筈もない命令・・・。
そして・・・後に徳川家康からは国交回復を・・・!!

九州本土から130キロ離れた長崎県・対馬・・・
古代律令制のもとでは、対馬国として島で一つの国を形成していました。
日本本土から離れた地で、中央の影響を受けにくく、島は地元の豪族たちによって支配されていました。
しかし、その多くが山に覆われて・・・耕作に適した地はなく、人々が目をつけたのは貿易でした。
その相手は、対馬から50キロほどの朝鮮半島でした。
対馬にある韓国展望所からは、うっすらと島と建物が・・・釜山を見ることができます。
夜になると明かりも確認でき、朝鮮半島の人々は目に見える存在でした。
朝鮮側も、古くから対馬は無視できない存在でした。
朝鮮王朝が対馬の豪族を家臣に任命した「告身」も残っています。
どうして朝鮮王朝が、日本の対馬の豪族を家臣に任命したのでしょうか?
その裏には、当時朝鮮半島近海を荒らしていた倭寇の存在がありました。
朝鮮王朝は、成立から倭寇に悩まされていました。
根拠地の一つとして対馬が対馬と想定されていました。
なので、朝鮮王朝は、倭寇の狩猟に対して朝鮮の官職を与えて懐柔するという政策をとるのです。
これによって、彼らは、定期的に挑戦に渡って貿易をする権利を手に入れました。
身近であるがゆえに勝川rざるを得なかったのです。
微妙な関係の上に成り立っていました。
そんな対馬の豪族の中で台頭してきたのは宗氏でした。
宗氏は、倭寇を取り締まることを条件に、朝鮮王朝から特別な権利を手に入れます。
朝鮮への渡航証明書を発行する権利を独占的に担ったのです。
これによって対馬から朝鮮に渡る船は、宗氏によって管理されることとなります。
島内の豪族たちが、これまでのように自由に船を出すことができなくなったのです。

戦国時代末期、島主となったのが、宗義智でした。
義智も、朝鮮王朝との関係をうまく生かしながら、対馬の支配を確固たるものにしようとしていました。
しかし、日本の中央では・・・義智の将来を左右する政権が誕生していました。
戦国の世を一つにまとめた豊臣秀吉です。
天下人として全国の大名を従えた秀吉は、義智にも書状を送ります。

「対馬一国はこれまで通り、安堵いたす。」

義智の対馬支配は認められます。
しかし・・・条件が・・・
「次に高麗(朝鮮)の事だが、国王が日本に参れば、これまで通り朝鮮の支配を認めるが、遅れるようであれば、即時に海を渡って誅罰を加える。」by秀吉

秀吉に服属する為に使節を朝鮮に送らせるように義智に仲介を命じたのです。
これは、朝鮮王朝の立場を考えればあり得ないことでした。
当時、朝鮮国王は、明の皇帝に従うことで、国王と認められていました。
柵封体制です。
その朝鮮国王が、秀吉に従うということは、明との関係を断ち切るということでした。
それは、当時の東アジアの常識ではありえないことでした。
どうする??
義智は驚くべき作戦を立てます。
自らが使者となって朝鮮へ渡った義智は、朝鮮国王に対して日本への公式使節派遣を願い出ます。
しかし、使節の名目は、”秀吉に服従せよ”というものではありませんでした。
秀吉が、新しく天下の支配者になったことを祝福する祝賀使節を送ってくれとしたのです。
他に言いようがありませんでした。
秀吉の意図を隠し、あくまで秀吉の国土統一を祝う使節派遣を求めたのです。

宗氏はこのような大胆な外交手腕を使って、日本と朝鮮の間を渡り歩いていました。
その異色の外交を物語るものが、宗氏が偽造した朝鮮国王の印”為政以徳”です。
日本に残されていた印を、科学的検証を試みると・・・国書に押された印の朱肉の成分が宗氏の偽造印に残る朱肉の成分と一致したのです。
残されていた国書は、宗氏が偽造したものだったのです。
このような危うい行為をしながら、両者の間を渡り歩いていたのです。

1590年朝鮮使節団来日。
11月7日、聚楽第で秀吉と会見に及びます。
ところが・・・目の前の使節が自らへの服属と考えていた秀吉は、使節団に対し、とんでもない命令を下しました。
「明国全体を我が国の習俗に変えてしまおうと思う。
 わが軍が明に攻め入る際には、朝鮮もはせ参じるように。」
なんと、秀吉は朝鮮の宗主国・明を征服すると宣言!!
朝鮮に手伝うように命じたのです。
秀吉を祝いに来た使節団は寝耳に水で、受け入れられるものではありませんでした。
ここに至って交渉は決裂!!
秀吉は朝鮮出兵・・・文禄の役です。
秀吉、朝鮮王朝、双方の意図を誤魔化して、強引に会見を成立させた義智の戦略は大失敗に終わったのです。

1592年4月13日、秀吉は朝鮮半島へ軍勢を進めます。
日本軍の第一陣を率いたのは、義智の妻の父・小西行長でした。
そしてその日本軍の先導役を任されたのが宗義智でした。
この時25歳、皮肉にも、朝鮮の事情に詳しいことが災いしました。
釜山に上陸して破竹の勢いで進撃を開始。
およそ半月後には、朝鮮の首都・漢城を攻略します。
さらに、平壌まで進撃します。
しかし、進撃はここまででした。
朝鮮の宗主国・明が4万で援軍にやってきました。
明と朝鮮の連合軍は、義智ら1万5000がこもる平壌に攻め寄せてきました。
敵の大軍勢を前に、成す術のない日本軍・・・。
義智たちは、命からがら平壌を脱出し、仲間のいる漢城へ・・・!!
何とか漢城にたどり着いたのは7000の兵・・・半分以下になっていました。
最早日本軍に勝ちがないと判断した義智たちは、明との講和に向けて動き出します。
講和に当たり、明が日本に要求したのは、秀吉による降伏文書でした。
秀吉が明に降伏するならば、戦を止めても良いと言ってきたのです。
秀吉が受け入れるはずもない要求・・・。
どうすればいいのか・・・??
小西行長は、秀吉名義の国書を明に送ります。
”明国皇帝陛下の御威光のもとでは、日本など小さな存在でございます。
 是非とも日本国の王として、任命していただきたく存じます。”
秀吉が自らの過ちを認め、明に服属することを求めた・・・??
これは、偽造国書だったのです。
この作成に、宗義智が参加していたのではないか??といわれています。

義智が公式文書の偽造に関わっていたかどうかは疑問です。
しかし、この偽造国書のおかげで、休戦協定が無事成立しました。
1596年9月、明の使節が秀吉に謁見・・・
自らの降伏文書のことなど知る由もない秀吉・・・明の使節は、敵の降伏の使者と信じていました。
しかし・・・
”ここに特に なんじを封じて 日本国王となす”
秀吉を日本国王に任命する・・・つまり、柵封体制に入ることを意味していました。
秀吉は怒り心頭!!
再び朝鮮出兵を命じるのでした。

朝鮮での戦を終わらせるために企てた秀吉の降伏文書の偽造・・・
またもや、義智たちの外交戦略は失敗に終わりました。

1597年7月・・・慶長の役が始まります。
この時も、義智は先鋒を強いられます・・・!!
日本の武将たちに対して、秀吉の命令は苛烈を極めました。
”老若男女 僧侶 なで切り”

大分県にある安養寺には、朝鮮での惨状を記したものが残されています。
当時の安養寺の住職・慶念が朝鮮出兵の折に書いた日記です。
この日記には、日本軍によって多くの朝鮮人が連れ去られている様子が書かれています。
”男女老若 縄で首をくくられ 歩くのを止めた者に対しては 杖でおい立て打つ有様は さながら 地獄の鬼が罪人を 責め立てているようである”

この時、日本に連れ去られた人々は、数万人といわれています。
日本で農村の労働力に使われる場合、奴隷として売買される場合があります。
東南アジアの各地に奴隷として転売される朝鮮の人たちも沢山いたと言われています。

一方、日本軍も明・朝鮮軍の攻撃によって兵站を遮られ、寒さと飢えから次々と兵が倒れていきます。
そんな中・・・日本への撤退命令が出されます。
1598年8月18日、豊臣秀吉が死去したのです。
義智はふるさと対馬に戻ります。
文禄・慶長の役から6年の月日がたっていました。
久し振りの故郷は・・・荒れ果てた島の現実でした。

”朝鮮での戦いが終わった後、村には人がいなくなっていた
 戦で多くの人が死んだり逃げたりしたからである”

文禄の役で、宗氏は5,000人の軍勢の派遣を求められました。
当時の対馬の人口は、1万にも満たなかったのです。
当時は漁業中心・・・漁師たちも船の漕ぎ手として動員されていました。
人がいなくなって・・・田畑は荒れ放題、漁業も荒れ放題だったのです。
天下人秀吉に命じられた朝鮮出兵・・・。
その結果、義智は朝鮮との貿易だけでなく、島を支えていた家臣や領民をも失ってしまったのです。

秀吉の死で戦いが終わった2年後、秀吉亡き後の天下を決める戦いが・・・
1600年関ケ原の戦いです。
この時、宗義智は三成に味方をしました。
舅の小西行長の頼みに応じたものといわれています。
しかし、戦いは徳川家康の大勝利に終わり、義智は次の天下人に弓を引いた形となってしまいました。
家康からの厳しい処分は避けられない・・・??
ところが、下されたのは所領安堵・・・家康は対馬を治めることを許したのです。
その裏には、家康の意図がありました。
外国との通商貿易には義智の力が必要だと思ったのです。
家康は通商国家を考えていました。
しかし、朝鮮国と貿易を再開するにあたっては、まず戦後処理が必要だと思っていました。
戦後処理とは、外交関係の復活であり、それをやらなければ通商貿易は出来ないと考えていたのです。
家康としては、朝鮮問題の解決について、宗氏の力が絶対に必要だという判断があったのです。

対馬を安堵されたことで、家康に大きな借りができてしまった義智。
国交回復は絶対に成し遂げなければならない課題となったのです。
義智は朝鮮王朝に使者を送り続けながら、公式使節派遣の要請を繰り返します。
一方朝鮮王朝は、義智の要請に対して完全拒否を貫いていました。
しかし、遂に松雲大師と呼ばれる僧侶の派遣を決めます。
この時の松雲大師の派遣には、朝鮮の日本に対する不信が関係しています。
新しく政権をとった家康が、再び朝鮮に責めて来るのではないか?
家康政権がどのような挑戦認識か確かめる必要があったのです。

1605年義智は松雲大師を伴い、家康に謁見。
この時、家康が大師に語った内容が朝鮮側の記録に残っています。

「我は朝鮮出兵の時、関東におり、戦いに関わっていない。
 朝鮮との間に恨みはなく、ただ和を通じることを望むのみである。」by家康

朝鮮出兵は毛頭ないと語ったのです。
この時、家康は日本に連れ去られた朝鮮の人々の返還要求についても誠意を尽くすとしています。
会談を成立させた義智としても、これで朝鮮王朝の態度も軟化し、公式使節派遣も近いと安堵しました。
会談から1年余り後、義智の元に硬式使節派遣の条件が届きました。
しかし、その内容は厳しいものでした。
使節派遣の条件は、”家康が日本国王として先の戦について謝罪する国書をだすこと”だったのです。
すなわち、家康が明に服属し”日本と朝鮮が対等である”と示したうえで、国書を出して謝罪せよと言ってきたのです。
この要求を家康に取り次がなければならない・・・。
家康に謝罪国書を頼む??
家康の謝罪国書を偽造する・・・??
どちらの道を選ぶのか・・・??

朝鮮王朝が宗義智に突き付けた「日本国王としての家康の謝罪国書の要求」から数か月・・・
義智は家康の国書を携えた使者を朝鮮に送りました。
国書は残っていない・・・しかし、朝鮮王朝の記録にはその内容が記されていました。

”我々が、前の代の非を改めることは、去年松雲大師に話した通りである”

家康が謝罪する国書は朝鮮に届いたようです。
ところが、朝鮮側の記録には・・・これは偽書であると判断したと書かれています。
それは、数か月後に来たこと・・・。
対馬から江戸までの往復の期間、幕府側がどういうような判断をするか、形式上の手続きも必要でした。
つまり、そんなに早く家康国書が届くはずがないという判断があったのです。

そう・・・義智は、自ら家康の謝罪国書を偽造して送っていたのです。
朝鮮側に見破られてしまった以上・・・使節派遣の道は絶たれてしまったかに見えました・・・
が、朝鮮国王は公式使節派遣を決定します。
朝鮮側としては、自分たちが出した錠kwんが満たされた・・・
蒸し返して偽物だとなると和平が遠のいてしまう・・・。
一番の課題であったひ被虜の人々の送還が遅れる・・・これは許されない・・・。
もう一つは、北方の女真族・・・後に清国となる大きな勢力が鴨緑江を渡って侵入してきていました。
南方、北方、二つの大きな外交課題を抱えていました。
軍事情勢を少しでも安定化させるために、日本との和平を急いだのです。

偽物とわかっていても受け取る・・・。

1607年1月12日、朝鮮使節団、漢城を出発!!
そして、2月29日、使節一行は対馬に到着しました。
この時、対馬側と朝鮮側で奇妙なやり取りがあったことが残されています。

「先年の国書は、果たして家康のものか?」
「もちろんである
 なぜ、そのようなことを問うのか?」
「あの国書に押された国王印はどういったものなのか?」
「あれは、明の使節が文永の役の講和で来日した際に、秀吉を日本国王として任命する為に渡したものである。」
「あの時、日本はそれを拒否したではないか。
 にもかかわらず、その時の国王印を使ったというのか。
 日本とはよくわからない国だ。」
対馬側は、苦笑して何も答えませんでした。
以後、朝鮮側は、国書について何も触れることはありませんでした。
対馬を出発した一行は、瀬戸内海を通って大坂に上陸、陸路で江戸へ・・・!!
1607年5月6日、江戸城にて将軍に謁見。
遂に日朝国交回復が成し遂げられた瞬間でした。 
以後、朝鮮通信使は、江戸時代11回にわたって日本を訪れ、この使節は、まさに日本と朝鮮の友好関係を示す象徴となったのです。
危ういながらも役目を遂げた宗義智・・・国交回復から2年後には、朝鮮国王から貿易再開の許可も得ます。
これによって、朝鮮に攻め込んで以来、荒れ果てていた対馬は、息を吹き返していきます。
6年後、対馬の復興と日朝友好を見届けた宗義智は・・・1615年48歳でその生涯を終えたのでした。

一筋縄ではいかない国際外交の中、宗義智が繰り出した禁断の一手・国書偽造・・・。
日朝友好の象徴・・・朝鮮通信使誕生の裏には、こんな秘話が隠されていたのでした。

江戸時代、日朝友好の象徴となった朝鮮通信使・・・
その足跡が時代を超えて400年経った今、平和を語る大事な記録として新たな輝きを発している。

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今から380年前、長崎県島原半島で、江戸時代最大の内乱がありました。
1637~38年、島原の乱です。
3万7000の住民が武装蜂起!!
12万の幕府軍と戦いました。
一揆の原因は、切支丹弾圧の反発とされていますが・・・??

日本におけるキリスト教伝来は戦国時代の1549年。
カトリックの修道会が熱心に布教を行った結果、キリシタン大名も出てきました。
とりわけ九州に多く、肥前日野江城主・有馬晴信、肥後宇土城主・小西行長などがいました。
江戸幕府開府以後も、莫大な貿易での利益を得るために、家康はキリスト教の布教を許していました。
ポルトガルとの貿易が中心でしたが、1609年オランダ、1613年イギリスが参入しました。
しかし、1613年幕府は禁教令を発布。
教会を破壊し、宣教師たちをマカオなどに国外追放しました。

どうしてキリスト教は禁止されたのでしょうか??
原因の一つは、プロテスタントの国・オランダから届いた国書にありました。

「カトリック宣教師は日本人を改宗させて、他の宗教を排斥しようと考えている
 そして、宗教の争いを起こさせ、内乱に導こうとしているのだ。」

宗教勢の一揆を恐れる幕府・・・キリスト教の教えにも危機感を抱くようになります。
キリスト教自体が、「何人も神の許に平等」としています。
封建社会を目指す幕府にとっては、都合が悪かったのです。

2代将軍徳川秀忠は、将軍を頂点とする幕藩体制を揺るがすとして、キリスト教への弾圧を強化!!
信仰を捨てない者は、厳しく罰するように大名達にも圧力をかけます。
そんな中、キリシタン大名の有馬信治の代わりに島原藩主となったのが、松倉重昌でした。
重政は、幕府の命に従い、キリシタンを厳しく弾圧!!
凄惨な処刑を断行し、人々への見せしめとします。
こうした過酷な弾圧は、息子・勝家の代まで20年も続きました。
苦しみから逃れるために、人々は信仰を捨てるしかありませんでした。

ついに我慢の限界が・・・きっかけは・・・
1637年10月25日、事件は島原有馬村で起こりました。
信仰を捨てずにいたキリシタンたちが隠れて礼拝をおこなっていたところ、藩の役人に見つかってしまいました。
捕まれば厳しい拷問は必至!!
とっさに抵抗し、役人を殺してしまいました。

役人を殺したのだから死罪・・・ならば、戦うしかない!!

と、有馬村のキリシタンたちが蜂起、近隣の村にも飛び火し、10月26日島原で一揆が勃発!!
一揆勢は、島原藩士たちを殺害し、寺社を焼いていきます。
10月28日、唐津藩天草でもキリシタンが蜂起。
この地を治めていたキリシタン大名・小西行長は、関ケ原の戦いで西軍につき斬首、やってきた唐津藩主・寺沢堅高による厳しいキリシタン弾圧に耐えかねてのことでした。
この天草の一揆勢を率いていたのは天草四郎でした。
天草四郎・・・出身は上天草とも宇土ともいわれ・・・本名は、益田四郎時貞。
父はキリシタン大名・小西行長の元家臣で、関ケ原の戦いで主君を亡くしたので牢人に・・・
母は、マルタという洗礼名を持つキリシタンでした。
四郎もカトリックの洗礼を受けており、洗礼名はフランシスコあるいはジェロニモでした。
幼少から勉学に励み、長崎に遊学し、天草にある上天草市に落ち着きます。
一揆が始まった時、四郎は15歳だったともいわれています。
やがて四郎たちは、唐津藩の兵が籠る富岡城を包囲し、落城寸前まで追い込みます。
その後、島原の一揆勢と合流し、四郎は3万7000を率い、島原藩の蔵を襲って鉄砲530挺と、年貢米5000石を略奪!!
廃城となっていた島原の原城に立て籠ります。

近年の発掘から、一揆勢は石垣に沿って穴を掘り、家族単位で籠城生活を送っていたようです。
12月1日、90日に及ぶ籠城戦が始まりました。
原城本丸の礼拝堂で祈りを捧げる四郎・・・。
四郎の持つカリスマ性に惹かれ、団結する一揆勢!!

一方、幕府は事件の知らせを受けたのは数日後・・・
3代将軍家光は、すぐさま京都の治安維持を担う京都所司代・板倉重昌を指揮官に任命。
京都所司代を動かすのは異例のことでした。
そして、江戸にいた藩主には国元に帰るように指示しています。
幕府にとって一番恐ろしかったのは、原城のような状況が全国で起こることでした。
そして、江戸にいた九州の諸大名に、帰国して一揆鎮圧に加勢するように命じます。

12月10日
籠城する一揆勢3万7000に対し、諸大名の大軍勢が・・・!!
しかし、一揆勢の反撃を受け、思わぬ苦戦を強いられます。
幕府軍、まさかの苦戦の理由は・・・?
原城は三方が海に囲まれ、一方は崖という要害の地にありました。
有明海の潮の流れはあまりにも早く、船をつけるのは非常に困難でした。
そのため、幕府軍が城を攻めることができるのは、一日2回の潮どまりの時だけでした。
陸側は・・・あたり一面湿地帯で、ぬかるみで城にたどり着くのもままなりません。
しかも、一揆勢は崖の上に板塀を張り巡らし、準備をしていました。
板塀の裏に隠れ、幕府軍を狙い撃ち!!
地の利を生かし、大軍を相手に激しく抵抗する一揆勢!!
海の事情をよく知る彼らは、夜の間にこっそり船をだし、籠城のための武器や食料の調達をすることもできました。
幕府軍は3度の総攻撃をするも完敗・・・
指揮官の板倉重昌が戦死・・・3,800人の死傷者を出してしまいました。

1638年1月4日、板倉重昌に代わり、家光の側近、知恵伊豆こと老中松平信綱がやってきました。
兵糧攻めに戦略を変更!!
立て籠もっている人々に投降を呼びかけます。
矢文でやり取りをします。
そこに書かれていたのはもちろんキリシタンへの弾圧と・・・藩主松倉氏の悪政でした。
平地のない・・・凶作な大飢饉にもかかわらず、重税が課されていました。
重税の理由の一つは、島原城の建設・・・
外様大名だった松倉氏は、国内外に威厳を見せつけるべく、四層五階の分不相応の城を築城し、重い税をかけていました。
その取り立ては、息子・勝家の代になるとさらにひどくなり・・・
いろり銭、窓銭、戸口銭・・・と、税をかけ、子供が産まれると頭銭、亡くなると穴銭・・・何かと税を取り立てていきます。
納められない者には、恐ろしい罰を与えるのでした。
領民たちは、木の根や草を食べて凌ぐものの餓死者は増える一方・・・。
もう、我慢の限界でした。
キリシタン弾圧だけでなく、重税も一揆の原因だったのです。

どうして15歳の四郎が一揆の指導者となったのでしょうか?
一揆の数か月前の噂に・・・
ポルトガル宣教師の預言でもうすぐ神童が天草に現れて、キリスト教を再興するというものでした。
その時こそが決起の時!!
その神童こそが天草四郎・・・予言通りに現れた少年を、救世主とし、神の子と崇めたのです。
四郎は長崎に遊学していた際に、医学を学んでいました。
チョットした病気を治すこともできました。それが奇跡のように見えたのかもしれません。
四郎を神格化していく人々・・・。

四郎の陰で一揆を先導していた真の首謀者とは・・・??
小西行長の家臣・益田甚兵衛・・・四郎の父でした。
有馬晴信の家臣・有家堅物・・・
指導していた人たちは、関ケ原の戦いの後、武士から農民に身を落としていた庄屋となっていた人たちだったのです。
徳川への恨みを晴らすべく、その機会を虎視眈々と狙っていたのです。
原城の沖合6キロに浮かぶ湯島・・・別名談合島・・・庄屋たちはこの島の山頂に隠れ家を設け、一揆の機会をうかがっていました。
槍や刀などを密造しながら、作戦を立てていたのです。
しかし、問題が・・・
蜂起するにはキリシタンだけでは人数が足りなかったのです。
「キリシタンにならなければ討ち果たす!!」と、農民たちを脅し、無理やり引き込みました。
彼らは”無理なりキリシタン”と呼ばれました。

一揆勢はキリシタンだけではない・・・それを知った信綱は、一計を案じます。
知恵伊豆の起死回生の一手とは・・・??

2月1日、兵糧攻めを続ける中、一揆勢にキリシタンでない者がいると知った信綱は、これを利用します。
内部の結束を崩しにかかったのです。

手紙・・・
熊本藩に捕らえられていた四郎の甥・小平に手紙を持たせ・・・一揆勢に手紙を届けさせます。
 家光公はキリシタンを処刑する一方、無理やりキリシタンにされているものに至っては助命する!!
 キリシタンの中に後悔し、改宗する者がいれば助命する!!
しかし、一揆勢の指導者たちは、この交渉に応じず・・・。

籠城戦で勝つためには、援軍が肝要です。
一揆勢はどこからの援軍を待っていたのでしょうか??
発掘から、彼らはイエズス会の影響下にありました。
幕府は、一揆の後ろにポルトガルがいることをかなり警戒していました。
当時ポルトガルは、スペインと共に強大な権力を持っていました。
しかも世界進出を目論んでおり、アジアにも植民地を拡大・・・その触手の及ぶことを、幕府は恐れていたのです。
そこで、ポルトガルと戦っていたオランダと手を組んだのです。
そして、長崎平戸のオランダ商館に、海と陸から原城を砲撃するように依頼します。
しかし、幕府内部で強固な反対に・・・
熊本藩主・細川忠利は、外国船の力を借りるのはいかがなものか・・・恥辱である!!と反対!!

オランダ船から砲撃!!
おまけに待てど暮らせどポルトガル船は来ず・・・。
ポルトガルは本当に来ることになっていたのでしょうか?
日本全土となり、勝ち目があれば来る、勝ち目がなければ来なかった??

当時のポルトガルの拠点はマカオでした。
マカオから日本までは帆船・・・季節風は北風を受けて、この季節は日本へ針路をとることができません。
ポルトガルが指示しても、中尾から援軍を送ることは無理だったのです。

2月10日・・・籠城を始めてから2か月・・・一揆勢の兵糧と弾薬は底をつき、飢えによって動けない人々も・・・
そんな中、碁を打っていた天草四郎の左袖を鍋島軍の弾丸が撃ちぬいたのです。
神に守られて不死身と思ってた四郎が撃たれた・・・
神の子ではなかった・・・一揆勢は不吉と動揺し、四郎の求心力は瞬く間に低下・・・
原城を抜け出す者も出てきました。

一揆勢の投降者は1万人に・・・!!
窮地に陥った一揆勢・・・幕府軍から兵糧と弾薬を奪い取ろうと闇討ちをかけるも失敗・・・
多くの死傷者を出してしまいました。
信綱は生け捕りにしたものを尋問すると・・・城内の米が尽きていることが判明。

一揆勢が弱っている・・・!!と、信綱は総攻撃をかけることに・・・!!
2月28日、12万の幕府軍による一斉攻撃が始まりました。
数百本の火矢が放たれ、本丸は炎上!!
息もできないほどの黒鉛の中・・・一揆勢は小石から鍋、釜をも投げつけて抵抗!!
壮絶な決戦となりました。
幕府軍の記録には、老人、女性、子供までも皆殺しにしたとあります。
この時信綱は、四郎を生け捕りにするように命じていましたが・・・討ち取られてしまいました。
武装蜂起からおよそ4か月・・・江戸時代最大の内乱は、壮絶な結末に終わりました。

その2か月後、幕府は島原、天草の領主に対しても厳しい沙汰を・・・。
天草を治めていた唐津藩主・多羅沢堅高は領地を没収され自刃、お家断絶。
島原藩主・松倉勝家は流罪となり処刑。
領民たちが蜂起するほどの悪政に対する沙汰でした。

島原の乱における幕府の死傷者は、全国の武士の1%に当たるおよそ1万2000人。
さらにかかった費用も莫大で、悪性の代償はあまりにも大きなもの(40万両=400億円)でした。

蘭の終結後、幕府は原城を徹底的に壊し、石垣の外に一揆勢の遺体を埋めました。
平成になって発掘調査が行われるまで封印されていた原城からは、たくさんの遺骨が見つかっています。
幕府の処罰は厳しく、島原、天草のキリシタンをほぼ根絶やしにし、禁教令を強化。
ポルトガルとの国交を断絶し、鎖国体制に入っていきます。

学んだことは・・・武断政治の限界で、文治政治への変換の必要でした。
一揆勢の尊い命は、江戸時代の日本をながい泰平の世へ導いてくれたのです。



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徳川家康打倒に立ち上がった石田三成。
徳川屋敷襲撃を画策するが、未遂に終わる。

三成を敵視する大名は、日に日に増えていた。


さあ・・・いよいよ挙兵です!!

伏見にある石田屋敷では・・・三成が謹慎していましたが・・・

maru












自分が居なければ、政が滞る・・・と、
日本人らしく家でもお仕事中!!
「この文書はどうされたのですか?」by信繁

「騒ぎの隙に、伏見城から運ばせた。
 時があるうちに小田原攻めや朝鮮出陣の記録をまとめておこうと思ってな。」by三成


2月29日、前田利家が伏見にある徳川屋敷を尋ね、三成の処遇について話します。
家康襲撃事件で、現在、謹慎中ですからね。。。

maru2













この時点ではかなり体調が悪いはず・・・
きっと命を懸けての会見だったと思うの。
みんな、みんな、殿下の豊臣を守ろうとしての行動なんですけどね・・・。
あ・・・家康は違うか・・・!!

石田治部は豊臣になくてはならない男・・・と、本気で思っているのか?
利家を立ててこれているのか??
はたまた、利家に恩を売ろうとしているのか・・・??

maru3













水に流すと言ってくれた家康です。

おかげで、三成は謹慎が解かれ、政務に復帰しました。

しかし、福島正則や加藤清正は怒りが収まらず、利家に不満タラタラ・・・!!

「よう聞け。
 ここだけの話、わしはもう長くはない。

 わしが死んだ後も、治部と力を合わせて豊臣の家を守り抜け。
 それがお主らの役目だ。。。 よいな・・・!!」by利家


仕事に復帰し、寧に騒ぎについて改めて謝る三成。

「佐吉・・・誤解せんといて・・・
 わたくしは、仲ようしてほしいだけ・・・
 こんな子供の頃から知っとるで・・・」by寧

「では・・・」by三成

と、謝るだけ報告していってしまった三成。
こんな心のないパフォーマンスだからこそ、好かれないんでしょうね・・・。
熱演です。

「左衛門佐・・・いいですか・・・
 
 つまらぬ騒ぎに巻き込まれるのはもうたくさん・・・
 秀頼殿の婚儀が整ったら、出家するつもりだわ。。。

 今から少しづつ、身の回りの片づけをしていることろ・・・
 それで、きりにも暇を出すことにしました。

 本人のたっての願いで、細川殿のお屋敷に奉公させることになりました。」by寧

??さらっと言いましたが、秀頼の婚儀って・・・

maru4












家康の孫・千姫との婚儀でしょうか??
って・・・これは、家康が伊達や加藤などと親戚になろうとやっていた・・・そうそう、殿下が禁止していた大名同士での婚姻となるのでは・・・??
と思いがちですが、この婚儀は、殿下がお亡くなりに決めていたものです。
それって、やっぱり徳川に一目を置いていたってことで・・・
既に、徳川の強さを認めていて、別格だったって示してしまってるんじゃないの??秀吉!?


で、きりは・・・おお・・・いい感じにガラシャのところに入りましたね。きり!!
これでガラシャの死を傍でレポートできますよ!!
細川ガラシャ・・・ガラシャは天下分け目の関ケ原の勝敗を決めてしまった女・・・というイメージがあるので、その歴史の目撃者としてガラシャのもとへ行くんでしょうが、本当はどうなんでしょうね。
多分、この時点でガラシャは、三日天下の父と、忠興の異常なまでの愛情で、軟禁状態だったので、だれなと会えないはずです。
あ・・・でも、寧のつてなら潜入できる・・・??

徳川屋敷襲撃事件について、申し開きをしようとする三成ですが・・・
茶々は何も知らない・・・と、巻き込まれないように頑張って・・・大蔵卿局に話すことさえさえぎられてしまいました。

maru8












3月3日・・・前田利家が亡くなってしまいました。
maru9












反三成派の武将たちの抑えが・・・効かなくなってしまいます。
その中には、細川忠興も・・・!!

maru6












ガラシャから情報を仕入れたきりは、信繁に報告・・・!!
メンバーは、加藤、福島、細川、黒田、藤堂、蜂須賀、浅野!!
そう、秀吉子飼いの子達ばかりだったのです。

避難する三成!!
そしてそこには・・・

maru5













襲撃したら・・・なんと、信幸&信繁で将棋!!

石田治部少輔を出せといわれ・・・

「加藤殿、石田治部少輔との諍いは、身内のもめ事で済ませても、我が真田と一戦交えるならばもはや国同士の戦でござる。
 それをお覚悟の上か・・・??
 お覚悟の上とならば、お受け申すが・・・!!」by信幸

おっと、信幸、貫禄出てきましたね、とってもかっこいいです。
よっ!!男前!!

清正たちは三成を血眼になって探しているようですが、見つかりません。
今は宇喜多邸にいるものの・・・治部少輔丸に立て籠もろうと言い出す三成。

寧に会いに行き断られ・・・茶々に会いに行き大蔵卿局に断られ・・・
いろいろ手を尽くす信繁ですが・・・

「 秀頼殿が言えば、治部は助かるのですか?
 それは、秀頼殿のためになりますか?
 
 徳川内府と治部は犬猿の仲・・
 秀頼殿が板挟みにはなりませんか?
 秀頼殿のためになりますか?
 おかえりなさい。」by茶々

ごもっとも、茶々!!

遂には吉継の案で、家康に救いを求めに行く信繁!!

「いまだ治部様の引き渡しを迫っている加藤様たちをお諫めいただきとうございます。
 内府様がお出ましくだされば、必ずや矛を収めましょう。」by信繁

「じゃがなあ・・・今は合議で全てを決することになっておる・・・
 わしひとりがしゃしゃり出るわけにはいかんのじゃ。。。」by家康

おお!!ああいえばこういう!!
合議、合議と言っていたのは三成・・・
なんだかんだと一筋縄ではいかない家康・・・まさに古狸!!
利家が亡くなってしまったことで、ほとんどが子供世代に移って行っている中で、一人で頑張っているんですが・・・
やっぱり”小童”には負けられないでしょう。

でも・・・立ち回りの上手い家康の事・・・
この事件を丸く収め、七将たちを説き伏せてくれましたが・・・その代わり、三成は蟄居・・・政から手を引くこととなりました。

「なぜだ・・・
 殿下にすべてを捧げ、殿下亡き後は豊臣家にのために、すべてをなげうってここまでやってきた。
 何故私が伏見を追われなければならぬ・・・!!」by三成
佐和山へ引っ込むことになってしまいました。

最後に・・・「虎之助に会いたい」と、信繁に頼む三成。

maru7













はて・・・清正・・・虎之助に何をつぶやいたんでしょうね・・・??

三成が伏見を去った3日後・・・伏見城に入ったのは家康・・・高らかな勝利宣言でした。


三成が蟄居して・・・家康が信繁を引き抜こうとしている・・・!!
断る信繁ですが・・・
ま、最期を知って人間は思いますよね??
ああ!!勿体ない!!どうしてこの時、家康に鞍替えしなかったのか???って。
でも、それはその後を知ってる私たちの考えで・・・この頃は何もわかっていなかったはず・・・!!
ただ・・・この時家康についていれば、後世にわたって愛されキャラの真田幸村は登場しなかっただろうし、真田十勇士も作られなかったかもしれません。。。
なので、やっぱりここは、断って正解です。
???断る男だからこそ、大坂の陣に豊臣方として馳せ参じるのでしょう!!
でもって、愛されキャラになるのだ・・・!!

ただ・・・「お断りいたします!!」ってそっけない言い方・・・多分、信繁はそんなご身分ではないのだ。
雇われ人の方なんだから。
ただ・・・ドラマ的にはかっこいいですよね。
自由にならない一目置く男だから欲しいんですよ、家康も!!

お役御免となって信幸と真田のために尽くしたいという信繁がそこにはいました。

1600年5月・・・

ほぼ天下を手中に収めている大坂城に入っている家康・・・。
発端は、謀反の疑いが出てきた上杉景勝!!

maru10












兼次は”直江状”を送り付けてきました。

”われらが戦道具を集めているとのことなれど、髪型の武士が茶器などをお集めになるように、われら田舎節は鉄砲や弓矢を集めるだけ。
 maru11












そのようなことにこだわるのは、天下を預かるお方らしからぬご了見!!
 われらに逆臣はないと申し上げたはず。
 にも拘わらず、「逆心なければ上洛できるはずだ」とは、赤子の理屈で、全く話にもなり申さぬ。
 家康様に分別がついたころには上洛できると存ずる。
 どこぞの誰かのように太閤殿下のご遺言に背き、起請文も破り、秀頼公をないがしろにしたりは致しませぬ。
 さようなことをして天下をとっても、悪人と呼ばれるは必定!!
 末代までの恥と相成りますゆえ・・・!!”by兼次(直江状)

もう一つの関ケ原 ~直江兼次の誤算~はこちら

兼次の声がまたいいのよね~~~!!
怒り狂う家康!!

その上杉から密書が届いたのは昌幸!!
味方になってほしいという。。。

「わしはそれに乗ろうと思う。
 合戦が始まったら横合いからいきなり徳川本陣を攻める・・・!!
 徳川はひとたまりもあるまい。

 
 世は再び乱れる・・・
 その機に乗じて、甲斐・信濃・駿河・・・信玄公が治めていた領地をこの手で奪い返す!!
 小田原の陣で、死を覚悟した北条氏政にわしは言った。
 「死にたければ死ね。されど生きておれば、また楽しいものが見られますぞ。」と・・・
 
 これはわしにとって、今度こそ最後の機会じゃ。
 わしの我儘、聞いてくれんか?
 どうか頼む・・・!!」by昌幸

そう、信繁が言ってますが、徳川を倒した後はどうするのか??
オールドタイプにはそんなこんながわからないようです。
昌幸のやんちゃなキャラは、とっても魅力的なんですが。
1477年の応仁の乱以降・・・100年以上も戦い続けている人たちには、きっと”平和”がわからないのでしょう。
なので、父・昌幸の考えが間違っているのではないのだけど・・・
それこそ北条氏政が死んだ時点で、その時代は終わっていたような気がします。
そう・・・戦いは終息に向かっているのです。


「徳川家康はもはや太閤殿下のご遺言を踏みにじる大悪党となり果てました。
 許しておいてはなりません。」と、父に賛同する信繁。

「・・・私は真田安房守の嫡男・・・
 父上に従うに決まっておるではありませぬか・・・!!」by信幸

父と舅の間に挟まれて、しんどそうな信幸がいます・・・が、父が戦がなければ生きていけないことをこの兄弟はわかっているのです。

そして・・・時流は・・・?? 

上杉征伐を「上杉VS徳川」にしたい片桐且元ですが・・・「上杉VS豊臣」にしたい家康。
??これって、前回の三成・・・家康を討つために、千成瓢箪が欲しい!!と言ったのと同じ構図です。
みんな錦の御旗(豊臣の権威)を最大限に利用し・・・そのNo,2となりたいようです。

って思うと、本当に日本はNo,2な国だと思います。
って・・・天皇のNo,2、天皇あっての征夷大将軍ですからね・・・。
この構図はいつからんだろう??天皇ですんごい頑張った人って奈良時代とか、後白河天皇とか、後醍醐天皇とか知らないもの・・・。
ってことは、奈良時代に、天智天皇が血なまぐさい大化の改新を起こしてドタバタし、桓武天皇が平安京へ都を移して以降はほとんどNo,2の時代だったのね・・・。

今回は秀頼のNo,2として戦いたい家康なのです。
三成は上手くいきませんでしたが家康は・・・??
老獪・・・おまけに老衆筆頭ですからね・・・。

ああ・・・片桐且元では器が・・・
頑張っているんですけどね。。。

「片桐には悪いが・・・ここは是が非でも豊臣と上杉の戦にしておきたい・・・
 戦の重みが違う・・・!!」by家康


と、茶々に願い出ます。

「陣中お見舞いなどを賜われば、士気も上がりましょう。
 軍用金二万両、兵糧の米2万石では・・・??

 それとですなあ・・・此度は秀頼公よりそれがしは豊臣の軍勢をお借りして上杉を懲らしめんとする戦・・・
ついでに豊臣の旗・幟もお許しいただければ、更に士気は高まりましょう」by家康

「好きにせよ」by茶々

控えながら、ほくそ笑む家康がいました。

6月16日、家康は豊臣の軍旗を高らかに揚げ、会津への進軍を開始!!
そして大坂では、徳川内府を弾劾すべく・・・

maru12













立ち上がる男たちがいました。
もう・・・あとには退けない・・・!!

日本史上未曽有の大戦が始まろうとしていました。

ということで、大詰めな回となりました。
前回も書きましたが、今回の真田丸の三成ですが・・・
こんな三成な気がしてきました。

勝たせてあげたい三成なんて、はじめてです。



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1590年豊臣秀吉が天下を統一。
しかし、加藤清正と石田三成の亀裂が関ケ原の戦いを生むこととなりました。
その真実とは・・・??

1574年長浜城・・・織田信長の家臣・豊臣秀吉がこの地で初めて一国一城の主となりました。
有能な少年が付きました。
その中に・・・加藤清正と石田三成がいました。

三成は15歳で、秀吉の身の回りの世話をする近習番という役で、抜群の計算能力を持つ勉強家でした。
二つ下の清正は、剣術の才能に・・・武芸に秀でていました。
切磋琢磨して大きくなったふたり・・・
最初に名を挙げたのは清正でした。

1583年賤ヶ岳の戦い・・・秀吉と柴田勝家が戦った戦で、七本槍として功名をあげます。
その後も武断派の中心として、秀吉の領土拡大に貢献します。
遂には功績が認められ、肥後国北半分・・・25万石の大名となりました。

三成は、胃腸が弱く、戦いでは腹を壊して戦えません。
その代わりに、豊臣の家臣随一の頭を生かし、兵員・武器・兵糧・・・兵站を担当し、裏方として活躍しました。
二人は秀吉の天下取りに貢献していきます。

1590年、秀吉は小田原討伐をし、天下取りを実現させました。
それは、清正と三成の夢が達成された時でした。


平和な世の中になったことで、戦が減ってしまい・・・武断派と入れ替わるように台頭してきたのは奉行派・・・。
その中心は三成・・・。
法治国家としての刀狩、太閤検地を実施し、豊臣政権になくてはならない存在となっていきます。
そんな三成に反発するようになっていく清正。。。

秀吉もこの関係は解っていたようで・・・
奉行派の三成には19万4千石、武断派の清正には19万5千石・・・と、武断派に優越感を持たせ、対立が大きくならないように苦心していたようです。
しかし・・・最悪の事態へ・・・!!

佐賀県唐津市には、名護屋城がありました。
1591年その築城を任されたのは、城づくりのスペシャリスト・加藤清正をはじめとする九州の大名たちでした。
清正は5か月で巨大な天主、たくさんの櫓・・・大坂城に勝るとも劣らない城を造ります。
さらに周囲3キロ圏内に120もの陣屋が築かれ、今までにない大戦の始まりを告げていました。

朝鮮出兵、明の征服です。
この秀吉の海外侵攻に燃え上がったのが・・・九州の清正でした。
小西行長と共に先陣を任されます。
奉行派に主導権を握られていた清正にとってチャンス!!

「武勲を立て、朝鮮で20か国を拝領したい!!」by清正

清正にとっては、自らの領地を拡大させる大きな夢の始まりでした。

三成は・・・大きな疑問を感じていました。

「今大切なのは・・・豊臣の世を不動のものにするための国づくり。
 新たな戦は、百害あって一利なし。」by三成

秀吉に異を唱えたものの・・・聞き入れてもらえませんでした。

1592年、日本軍・15万9千が朝鮮へと渡りました。
この大軍のうち、1万を任された清正は・・・陣頭指揮に立ち、釜山に上陸北上し、朝鮮の首都・漢城を陥落させました。
そして、朝鮮国の2王子を捕らえ、明との国境まで攻め上り、破竹の勢いでした。
武断派の面目躍如!!
朝鮮の兵士からは鬼上官、幽霊将軍と呼ばれ、恐れられました。
が・・・時間がたつにつれて戦況は様変わり・・・
民衆が立ち上がったのです。
朝鮮水軍が活躍しだすと、日本の補給路が断たれ、苦境に立たされてしまいました。
さらに、朝鮮の援軍として明の大軍が参加!!
戦況は膠着状態に入りました。
膠着状態・・・多くの兵がいるために、食料や武器がたくさんいることとなります。
この危機的状況を打開するために、秀吉に変わって朝鮮に渡ることとなった三成。

「早期終戦に向けた講和しかない!!」by三成

これが、異国で戦う武将・・・清正たちの反感を買うようになるのです。

三成は戦における消耗を最小限に抑えるために、親しかった小西行長と共に講和に向かいます。
その講和交渉の切り札が、清正が捕らえた朝鮮国王子の引き渡しだったのです。
これに猛反発した清正!!

「我々は何のために、この過酷な戦いをやってきたのか・・・!!」by清正

最前線で戦ってきた清正にとって明との講和は耐え難いものでした。

そこへ・・・秀吉からの帰国命令が・・・!!
最も活躍し、武功をあげた清正に、帰国命令とは・・・!?
そのまま謹慎処分となってしまいました。
清正の謹慎は、三成の謀略だったのでしょうか??
清正は、告げ口と思ったかもしれませんが、三成としては見てきたそのままを秀吉に報告したというのが正しいのかもしれません。
それが三成のいいところでもあり、悪い所でもあったのです。
三成は裏方、清正は表・・・と、住む場所の違った二人、もともとは憎みあったわけではありません。
誤解にせよ、三成のせいで謹慎となったと思った清正は、益々三成を忌み嫌うようになっていきます。

1585年秀吉が関白に就任、諸大名が直接謁見したり献上品を手渡すことが出来なくなります。
その窓口となったのが側近の三成でした。
秀吉に好かれるかどうかは三成次第・・・。
古参の武将たちも、かつての近習番・三成にひれ伏せざるを得ませんでした。
三成には諸大名からのわいろが殺到!!
ところが三成は私腹を肥やすことなくはねつけます。
よく言えば清廉潔白、悪く言えば融通が利かない・・・。
主君秀吉のために働けば働くほど敵が多くなっていく三成。

しかし三成は秀吉のせいで悪者になろうとも傍を離れませんでした。
秀吉から大名を打診されたときも・・・断っています。
自分が九州に行くと豊臣政権を支える人間がいなくなってしまう・・・!!と。

秀吉の忠誠心なら加藤清正も負けていません。
朝鮮出兵時の虎退治の逸話は・・・秀吉への忠誠心と思われます。
世継ぎが出来なかったため・・・当時朝鮮に生息していた虎の肉を秀吉に献上しようとしたのです。
清正の虎退治は、清正の勇敢さを示すとともに、秀吉への忠誠心からだったのです。

朝鮮出兵の処罰で、弁明の余地も与えられず、伏見の屋敷に謹慎となった清正・・・
ひたすら法華経を唱える日々・・・。
そこへ・・・1596年慶長伏見地震が・・・!!
秀吉のいる伏見城に、甲冑をつけて一番に駆け付けたのが清正でした。
地震に乗じた反乱を防ぐために、戦支度を整えて参上したのです。
清正の忠誠心に感激した秀吉は、その場で謹慎を解きました。

三成、行長がしようとしていた講和が破談となり、朝鮮への再出兵を命じることとなった秀吉。
秀吉の命を受けた清正は、再び一万の兵を引き連れて朝鮮へと渡ります。
1597年慶長の役です。
その戦いは、前回にもまして過酷なものでした。
明・朝鮮軍の猛攻撃を受ける清正。
食料が尽きた日本軍は、苦しい戦いを続けます。
この危機的状況に三成は、援軍、食料、武器を送ろうと試みますが、朝鮮軍に海を抑えられてしまい、十分な輸送が出来ませんでした。
しかし、最前線の清正にはそんなことは解りません。
三成に対する不満が募る一方!!
1597年12月・・・明・朝鮮軍が日本軍の蔚山城を奇襲!!
劣勢に立たされたこの戦いで500人が討ち死に・・・!!
その後、包囲されてしまいます。
城内の日本軍は4500、対する明・朝鮮軍は5万7000!!
この時、10キロ離れた西生浦城にいた清正は、周囲の制止を振り切り救出に向かいます。
僅か500の兵で敵陣を突破!!
その日のうちに入城!!
しかし、ここからが地獄でした。
大量の死者を出した日本軍は、壊滅寸前。。。籠城するにも食料や武器は2,3日分・・・
しかも骨まで凍ってしまいそうな寒さで・・・凍死者が続出!!
それでも清正は弱音を吐かず励まします。
食料の尽きた城内では、紙をむさぼり、壁土を食べ・・・もはやこれまでか・・・!!
死を覚悟した清正でしたが、援軍が到着。敵を撃退してくれました。
この10日余りの籠城戦は、清正の戦いの中で最も過酷なものとなりました。
九死に一生を得た清正ですが、そこには援助をしてくれなかった清正への激しい怒りが残りました。
三成と清正の関係は、修復不可能となっていました。

天下人亡きあと、豊臣政権の後を継いだのは秀吉の忘れ形見・秀頼でした。
反目していても三成と清正の思いは同じ!!
幼い秀頼を盛り立てて豊臣政権を守り抜くことでした。
そんな二人の前に立ちはだかったのが・・・五大老筆頭の徳川家康でした。

朝鮮出兵に参加していなかったことで兵力を温存していた家康は、虎視眈々と天下を狙っていました。
1599年3月、前田利家死去・・・まさにその日に事件が勃発!!
武断派の七将(黒田長政、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、池田照正、細川忠興、浅野長政)が三成の首をとるために挙兵・・・石田三成襲撃事件です。
直前に襲撃の知らせを受けた三成は、間一髪で難を逃れ・・・この時、仲をとりもったのが家康でした。
三成は奉行職を解かれ佐和山城に蟄居を余儀なくされました。

どうして清正たちは三成を襲撃したのでしょうか?
家康の謀略に引っかかった・・・??
秀頼を大切に思っていた清正、正則たちは、三成に丸抱えにされるよりも、家康に後押ししてもらうことを、描いていたようです。
家康にしてやられた清正!!
本当の家康をわかっていた三成と、わかっていなかった清正。。。

やがて天下分け目の関ケ原へ・・・
1600年6月、兵を東へ動かす家康・・・会津征伐へ・・・!!
三成は家康が上方を離れたのを知ると挙兵を決意します。
豊臣家を守るために、打倒家康を決意した三成・・・その心のうちを無二の親友・大谷吉継に打ち明けます。
しかし・・・
「諸大名に恨みを買っている三成殿が、決して総大将になってはならない・・・!!」と、忠告されます。
三成には人望がない・・・。
そこで三成は家安と並ぶ五大老の毛利輝元を総大将とし、西軍の陣を整えていきます。
そんな中、加藤清正にも西軍に入るように要請がありましたが・・・九州を動こうとしません。
どうして豊臣寄りの政権につかなかったのでしょうか??
三成への反発心から、九州において東軍に賛同する清正。

それがやがて豊臣家を滅亡へと向かわせます。
1600年9月15日、関ケ原の戦い!!
東軍7万4000VS西軍8万4000!!
軍勢では西軍有利も、徳川の裏工作によっての寝返り・・・結局は東軍の圧勝!!
三成は敗軍の将となりました。
密かに陣を抜け出し佐和山城を目指した三成・・・東軍の追手に捕まり京で引き回しの上、斬首となりました。
東軍についていた加藤清正は、西軍の小西行長の弟が守る宇土城に攻め入り、九州で東軍の勝利に貢献します。
1611年・・・清正は徳川の元、豊臣家を存続させるために二条城にいました。
徳川家康と豊臣秀頼の面会を実現させます。
これで秀頼さまも安泰・・・ほどなくして倒れ、50年の波乱の人生を終えることとなります。
天下をわがものにした家康は、大坂の陣で豊臣家を滅亡させてしまいました。
清正が死んで4年後の事でした。

関ケ原の戦いの3日前・・・三成が西軍の武将に送った書状には・・・

「人の心計りがたし・・・」とありました。

三成と清正・・・二人の心が通じ合い、力を合わせていれば・・・豊臣家の滅亡も、徳河の繁栄もなかったのかもしれません。




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