独特な文化をはぐくんできた沖縄・・・
かつてここに琉球王国という独立王朝が存在していました。
15世紀に成立し、およそ450年の間この地を治めていたのです。
琉球は、日本から見れば南の端・・・
しかし、地図を動かしてみると・・・周りには、中国・フィリピン・ベトナム・タイ・・・アジアの国々への道が開かれています。
琉球王国は、各国との貿易で繁栄した海洋国家でした。
首里城に飾られた鐘には、その栄華を誇る文字が刻まれています。
”万国津梁”・・・つまり、琉球は、世界の懸け橋となることを表明していたのです。

しかし・・・そんな琉球に時代の波が押し寄せます。
時は16世紀後半・・・日本勢力の圧力!!
従属を迫ってきました。
直接の圧力をかけてきたのが、薩摩の戦国大名・島津義久でした。
しかし、リュク急にはグスクと呼ばれる戦国日本を凌ぐ先進的な城砦がありました。
武力で迫る日本・・・そこに、立ち向かったのが琉球の国王・尚寧王でした。

沖縄各地にグスクと呼ばれる建造物が存在します。
その数は300以上・・・多くは琉球王国の成立以前、各地の有力者が争う戦乱の時代に築かれました。
中でも浦添城は、後に琉球国王となる中山王が居城とした場所です。
2017年、その隆盛を示す発見がありました。
発掘調査によって出土した城壁の一部・・・石積みの技術から、14世紀のものと推定されました。
縦目地が通るような城壁は、14世紀ごろの典型的な積み方です。
石積みは、大規模な城壁の一部と推定されています。
城は時代と共に軍事要塞としての機能を発達させていきました。

浦添城より後に築かれた中城城・・・
ここには、敵の侵入に備えた様々な工夫がみられます。
壁の上から攻撃できるつくりとなっています。
さらに、本土では戦国時代の終わりにしかない工夫が・・・!!
侵入する敵を180度逆の方向へ誘導し攻撃をする・・・同じ工夫は、本土では姫路城でみられます。
複雑な仕掛けで有名な姫路城・・・しかし、こうした姿に改修されるのは、17世紀のはじめ・・・
中城城の築城から200年以上も後の事です。
そして石垣の切り石・・・沖縄では、15世紀にはすでにありました。
隙間なく積まれた石垣は、築城技術の先進性を示していました。
さらに、アーチ状の門など、曲線を多用する石垣の技術も、本土の城郭にはほとんど見られない独自性があります。
なぜ琉球に先進的な築城技術があったのか??
それは、琉球がいくつにも分かれて戦う戦乱の時代があり、そこで築城技術が発展したのです。

1429年、その分断されていた勢力が、中山王によって琉球統一・・・
これによって、首里城を中心とした琉球王国が誕生しました。
琉球国王は、中国の皇帝から王として認められていました。
柵封です。
この柵封こそ、琉球王国の繁栄の秘密でした。
柵封を受けた琉球は、当時の中国の王朝・明に対して、定期的に貢物を贈ります。
すると明からは、その見返りに当時世界的にも価値の高い中国陶磁器などを大量に与えられたのです。
さらに、琉球の船は東南アジアへと漕ぎ出します。
各国との貿易ルートを開拓し、酒や香辛料など珍しい品々を買い付けていました。
これらを明に持ち込んで、新たに中国の品々を船に乗せてまた各国に売りさばく、中継貿易で国を潤していました。

首里城の跡からは、世界各国の珍しい品が出土しています。
明やベトナムで作られた陶磁器・・・
琉球には、各国の権力者でも入手困難なものが集まっていました。
白地に青い模様のベトナム製の染付は、世界で数点しか見つかっていないといいます。
当時の日本に比べて、大量に物が入ってきていました。

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中継貿易によって、空前の栄華を築いた琉球王国・・・
しかし、16世紀に入るとその活動は衰退していきます。
ヨーロッパ勢力の進出や、海賊行為を行う倭寇の活発化によって、東南アジアや明との通行が激減したのです。
そして、16世紀後半・・・更なる大問題が起きます。
日本で天下統一を目前にした豊臣秀吉が、琉球王国に従属を迫ってきたのです。
1588年、琉球国王に書状が届きました。
差出人は、島津義久・・・秀吉の配下となっていた薩摩の大名です。

秀吉に従わなければ武力征伐に出るという・・・
独立国である琉球から見れば、理不尽な要求でした。
その危機に対処しなければならなかったのが、時の国王・尚寧王です。
この時、即位したばかりでした。
当時26歳・・・苦難の時代が始まろうとしていました。

日本への従属を迫られた琉球王国・・・この時、尚寧王の言動を伝える書物は少ない・・・
尚寧王が生まれ育った浦添城・・・首里城からおよそ4キロの場所にあります。
王となった尚寧王は、民衆のために首里から浦添までの街道を整備します。
その道の跡が残っています。
首里までの道は急坂が多く、川も挟むので劇的に便利となりました。
尚寧王が作った石畳の道・・・その一部は、現在も人々の生活に使われています。

度重なる要求を受けた尚寧王は、1589年、秀吉に使者を派遣。
しかし、このことが、琉球の立場をより悪化させることとなります。
間もなく秀吉から1通の書状が届きました。

「我らは間もなく軍勢を渡海させ、明に威風を振るうであろう」

なんと、琉球と柵封関係にある明への侵攻・・・!!
さらに秀吉は、琉球との交渉窓口にしていた薩摩・島津氏に思いもよらない命令を下していました。

「琉球を島津の与力として軍役を負担させる」
 
与力とは、大名武士に協力する格下の存在・・・
秀吉は、尚寧王を、島津の下に位置付けて、明侵攻に協力させようとしていたのです。
琉球は島津から兵7000人の兵糧10か月分を要求されました。

この時の尚寧王の心境は・・・??
尚寧王にとっては全く心外な話で、戸惑っていたようでした。
島津氏が、朝鮮出兵に対して兵糧を供出せよという要求に対しては、引き延ばしの後に半分は出すということで妥協します。

秀吉に使者を送ったばかりに、日本に与することになった尚寧王・・・
しかし、その一方で、したたかな外交を展開していました。
なんと、秀吉の侵攻計画を明に密告していたのです!!

「日本を統一した倭王関白なる者が、明を支配しようと企てている
 兵力200万で明に侵攻し、北京へ帰るつもりだ」と。

この情報を流した者の名は、鄭迵・・・琉球王国の役人です。
対日強硬派だった鄭迵は、貿易の実務を担い、明と繋がっていたのです。

1592年、ついに秀吉が明征服に向け、朝鮮半島に出兵します。
しかし、序盤こそ勝利を重ねたが、反撃を受け次第に劣勢となっていきます。
そして1598年、豊臣秀吉の死と共に戦いは終わりました。

しかし、それで琉球の苦難が去ったわけではありませんでした。
新たな天下人・徳川家康が、日本と明との関係回服に動き出したのです。
琉球はその仲介役として目をつけられたのです。
尚寧王に、安息の時はありませんでした。

明との貿易を復活させるため、家康は琉球に接近する機会をうかがっていました。
1602年、東北に琉球船が漂着・・・
すると、家康は島津に命じて、漂着民を琉球へ丁寧に送還します。
恩を売ることで、琉球から返礼の使者を送らせようと仕向けたのです。
しかし、尚寧王が家康に使者を送ることはありませんでした。
豊臣政権時代のトラウマが影響しているのではないか??
秀吉に使者を派遣したことによって一方的に日本の従属国と位置付けられました。
そして、膨大な負担の兵糧を要求されたのです。
新政権に対しても、また同じようなことが起こるのではないか??という危惧が尚寧政権が返礼の使者を拒絶した理由ではないか??

この一連の出来事を快く思わない人物がいました。
島津義久です。
島津は秀吉から琉球を与力として認められており、その権益の独占を狙っていました。
当然、徳川政権の介入は望んでいません。
義久は、琉球への影響力を示すために、自らが尚寧王を動かし、家康に返礼の使者を派遣させようとします。
尚寧王に、脅迫じみた手紙を送りつけたのです。

「聘礼を今年も怠り、来年も怠れば、琉球の存在は危ういであろう」

さらに、島津家の新たな当主となった家久については・・・

”家久は、琉球へのうっぷんが止まず、若さに任せて浅はかな企てがあった
 それを私が助言して押しとどめたのだ!”

企てとは・・・武力侵攻です。
家久は、琉球に対する軍事行動まで考えていたというのです。
武力攻撃をちらつかせ、圧力を強める島津!!
琉球に危機が迫っていました。
島津の要求に従い家康に使者を派遣するべきか、苦悩する尚寧王・・・!!

この頃、琉球と明との関係を一層強くさせる行事にも成功!!
秀吉の朝鮮出兵など様々な理由から先送りになっていた柵封の儀式・・・
1606年、明から柵封を受けます。
尚寧王は、即位から17年目にして正式な琉球国王の称号を授かりました。
戦を回避するために家康に使者を送るか??明との関係を強化して独立路線を進むべきか・・・??

尚寧王が家康に使者を送ることはありませんでした。
しかし、その一方で、家康の望みをかなえる折衷案を見出していました。
1607年、尚寧王は明に対し、あることを嘆願しています。

「琉球は、明と柵封関係にあるが、貿易は通じず国は痩せて民は乏しくなっている  
 どうか特別に、民間商船との貿易を許可してほしい」

明は、一部の民間商船に特許状を与えていました。
尚寧王は、その制度に琉球を加えてもらい、日明貿易の中継地になろうと考えたのです。
琉球を中継地にすることで、家康の求めていた要求は達成されます。
そうなれば、島津氏が、琉球に攻め込む口実が無くなるということでもありました。
戦争を回避する唯一の手段でした。
琉球の主体性を失わずに、島津の侵攻も阻止する・・・それが、この尚寧の要求でした。
しかし、この要求はかないませんでした。
明が拒否したのです。

その返答にはこうあります。

「琉球への往来として、貴国は密かに日本と交易するのだろう
 断じて通商を開くわけにはいかない」

秀吉の侵攻以来、日本への警戒を強めていた明は、日本と関係を持つ琉球との関係を危険視していました。
明との交渉は進まず、いたずらに時間は過ぎていきました。
その間に、島津は幕府から出兵許可を得てしまっていました。

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1609年3月4日、島津軍およそ3000が出兵!!
島津軍は、奄美大島、徳之島を制圧!!わずか17日間で沖縄本島に上陸!!
瞬く間に今帰仁城を陥落させ、那覇へと進軍しました。
尚寧王は、和睦の使者を送るも、島津に拒否されてしまいました。
止む無く防衛軍およそ3000を那覇港へ!!
防衛軍は、那覇港の入り口に築かれた砦に配備されました。
そして4月1日、島津軍の船団がそこに突入しました。
島津軍を迎え撃ったと言われる三重城・・・現在も那覇港に面した場所に残っています。
ここから、島津軍に大打撃を与えたといいます。
高石垣に所々矢狭間を明け、大石火矢を構え置き、港口には鉄の網で警戒していました。
石火矢を放つと、船はことごとく破壊されました。

しかし、戦国乱世を生き抜いた島津が、これで引き下がるわけではありませんでした。
那覇港を目指す一方で、島津の主力部隊は陸路で首里城へ・・・!!
ことごとく戦火の被害を受けてしまいます。
しかも、島津の進軍には、皮肉にもあの尚寧王が築いた道が利用されたのです。
首里入口に100名ほど送りますが・・・
鉄砲を駆使する島津軍に突破されてしまいます。

4月3日、首里城は陥落し、尚寧王は降伏しました。
島津の船に乗せられ、尚寧王は日本へ連行されます。
尚寧王と重臣たちは、島津への忠誠を誓う起請文を提出させられます。
こののち、琉球は島津から様々な政治的介入を受けることとなります。
奄美大島、徳之島は島津の直轄領とされ、厳しい圧政を受けることとなります。
しかし、それでも琉球王国は独立を維持しました。
そしてその後、明治時代まで存続するのです。

即位から苦難の連続だった尚寧王・・・島津の侵攻から11年後、その生涯を終えました。
葛藤の中でも、人民のことを考えてくれた誇りのある王様でした。
波乱の人生を送った悲運の王・・・
今は、穏やかな場所に眠っています。

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