日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:尼子

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広島県にある世界遺産、厳島神社。
満潮時にはまるで海に浮かんでいるかのような社殿。。。
年間400万人が訪れる日本屈指の観光スポットです。

この厳島神社があるのが宮島。。。
神の島とも言われるこの島が、歴史のターニングポイントなりました。
時は血で血を洗う戦国。
一族の存亡をかけて、この地で厳島合戦を行ったのは、毛利元就。
この宮島での勝利から毛利家は大躍進、遂には天下屈指の大大名となりました。
信長・秀吉と真っ向から対立し、関ケ原では家康を最後まで苦しめた毛利家。。。

そして、明治維新の原動力となった長州を率いたのも毛利家でした。
元就以降日本を左右する存在となった毛利家。

安芸と備後しか持っていなかった毛利家が、大内家の最高実力者・陶晴賢に戦いを挑んだのが厳島の合戦でした。

”小よく大を制す”

元就は奇襲を仕掛けます。
それを支えたのは、三本の矢で知られる3人の息子・隆元・元春・隆景でした。

1497年元就は、毛利家の次男として安芸高田市に生まれます。
元就が生まれたころは、毛利家は広島県北部を支配するだけの小さな家でした。
当時中国地方は、大内氏と尼子氏が覇権争いをしていました。
大国のはざまで、毛利家は明日をもしれない状況でした。
家族運にも恵まれなかった元就は、5歳の時には母が、10歳の時には父が死去。
おまけに父が残してくれた土地を家臣に奪われてしまいました。
20歳の時には兄・興元、兄の子・・・毛利家の家督を継いだものが次々と亡くなります。
そして・・・生き残るために大内氏に頼るのでした。
元就は、長男・隆元を人質に出します。
隆元は5年にわたり、大内義隆に仕え、関係を深めていきます。

隆元の妻は、大内の養女を迎えることができました。
隆元を通じて大内家と縁続きとなった元就・・・
しかし、この行為は尼子の反発を招きます。
1540年尼子が毛利の郡山城を3万の兵で攻めるのです。
毛利軍わずか3000。。。
どうする??

普通、これだけ数が違えば籠城戦ですが・・・
城の外へ・・・!!
攻める尼子軍!!
そこに左右から毛利の別働隊が攻めます。
人数の多さに奢った尼子軍の隙をついたのです。

元就は、その後も互角に!!
大内にも援軍を依頼します。
そして3か月後・・・援軍がやって来ます。
やってきたのは、陶晴賢。
陶は、後のライバルとなる元就の戦い方を目の当たりにします。
陶の協力で尼子を退けた毛利・・・
ここから強い毛利作りが始まります。

養子作戦を展開します。
元春は、山陰の有力者、武門で有名なであった吉川に。。。
隆景は瀬戸内海の有力者小早川家へ・・・毛利家にはない水軍を持っていました。
山陰の勢力、瀬戸内海の勢力・・・強固な関係が作られていきます。
弱小だった毛利家・・・戦国の荒波を越えて行く用意が出来てきました。

息子たちと一緒に勢力を拡大していった元就・・・
頼みの綱の大内に陰りが見え始めます。
大内義隆が、京都との交流ばかりをし、政治を顧みなくなったのです。
山口は西の京都と言われるほど華やいでいました。
文化ばかりに力を入れ、領民を顧みない義隆・・・。
家中には不安が高まっていきます。
その中心に陶晴賢がいました。

このままでは大内が立ちいかなくなる。。。
1551年陶晴賢が主君・大内義隆に謀反を起こし、切腹させます。
クーデターを成功させた陶・・・自分の息のかかった大内義長を主人とします。
元就は、この時、陶に味方をしています。
大内がしっかりしてくれないと、毛利も巻き込まれてしまうことが解っていたのです。
毛利家のためにも、大内にしっかりしてもらわなければならなかったのです。

味方をしたことで、新たに領地をもらった元就。。。
その矢先に・・・
元就は・・・厳島神社の神官・棚守房顕から・・・陶の本心を聞きます。
陶の態度には裏があり、毛利を滅亡させたい・・・というものでした。
30年間大内に仕え、やっとのことでの勢力拡大・・・
しかし、存在感を増してきた毛利に対して陶が刃を向けてきたのです。


陶に対して不信感を持つ中・・・陶が行動を起こしました。
吉見氏を攻めだしたのです。
吉見氏は、毛利と同じく大内に従ってきていた者でした。
元就のもとには、陶から吉見攻めに参加するように命令が来ます。
その命令には陶からの申し出がつけられていました。
もし来てくれたなら、人質を4人だそう・・・と。

どうして人質を出すのか???
そんな態度に出るべきか???

①妥協案・・・戦力差のある陶に従う
三男の小早川家は、吉見攻めに参加しています。

②強硬策
当時の毛利家の当主は隆元でした。
反対する隆元の意見に対して元就も尊重しなければならない側面があったのです。
しかし、陶と戦うということは、後ろから尼子が隙をついて攻めてくるということ。。。

③大胆策・・・大内の当主を味方につける
義長を味方につければ、唯一陶を黙らせることができる。。。
しかし、陶が擁立した主君を味方につけられる???

陶に従うか?立ち上がるか??

一向に腰をあげない元就に、陶が動きます。
陶は、元就配下の亜紀の武将たちに吉見攻めに参加するように檄文を飛ばします。
このままでは毛利は孤立してしまう!!

1554年5月12日、元就は陶方の4つの城をわずか一日で攻め落としました。
陶が吉見攻めをしていた隙をついたとはいえ・・・どうしてこんなにうまくいったのでしょう?

陶に知られない様に細心の注意を払っていました。
仲間にさえ、前夜にしか教えなかったのです。
宮島も占領します。
驚いた陶は、宮島に兵を送ります。
そう、宮島は・・・陶にとっても手に入れなければならない場所だったのです。
宮島は、瀬戸内海の交通を考えるうえで、極めて重要な場所でした。
経済的な重要性と、厳島神社・・・
安芸国の一の宮がある政治的な重要性を考えると、軍事的にも政治的にも経済的にも、安芸国で覇権を確立する勢力は宮島に注目するのは当然のことでした。
そして・・・戦国時代の勢力図を塗り替えることになる厳島合戦が行われるのです。

1万の陶に対して数百の毛利・・・。
でも、城が落ちることはありませんでした。
元就は陶との戦いに備え、いろいろ策を練っていたのです。
陶方きっての武将・弘中隆兼の手紙によると・・・
毛利が船で城に援軍を入れて・・・陶は船がないのでそれを防ぐことができない。
どうしようもない!!
陶にとって水軍の不足は致命的でした。

元就は、陶に味方していた水軍に寝返りを薦めた可能性があります。
水軍の寝返った見返りの手紙に、元就は了承しています。

そして決定打は・・・
深夜、元就は、城攻めに夢中になっている陶をついて、自ら別働隊を島の裏側に上陸させます。
博打尾と呼ばれる険しい尾根を越えて、陶を奇襲したのです。

しかし、原生林を知っていた???
これを提案したのは、宮島のことを熟知している厳島神社の棚守房顕と思われます。
棚守房顕の覚書には・・・厳島合戦の数十年前に、博打尾から宮島を襲った瀬戸内の水軍のことが書かれているのです。
つまり、博打尾の情報を手に入れていた節がありのです。
遂に、陶本陣を眼下に・・・!!

1555年10月1日、元就は、陶の陣を奇襲します。
一緒に攻撃したのは、毛利軍・吉川軍、海からは小早川軍。。。
一斉攻撃です。
挟み撃ちにあった陶は大混乱!!
おまけに、水軍もないので逃げることもできません。
遂に陶は切腹して果てるのです。

その後、強大となった毛利は日本の転換期に重要な役割を果たしていくことになるのです。

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“三本の矢”で有名な毛利元就、その長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景・・・この逸話は有名な三本の矢の教え。

しかし、三本の矢の教えは作り話・・・
長男の隆元は、元就より先に死んでいるので、元就の死の床に三人の息子が・・・というくだりはありえないのです。
もともと三本の矢とは。。。シルクロードから来たお話のようで。

それが毛利家に当てはめられたのは・・・三人に一致団結せよ!!と、元就が言っていたからです。
毛利家を守るために、養子に出された隆景・・・
養子と言っても、戦国時代。相手の家をのっとって、毛利の為に!!!

その話に出てくる小早川隆景とは???
3人兄弟の中でも非凡な才能をもって生まれてきたようです。
小早川家の菩提寺米山寺は、広島県三原市にあります。
小早川隆景の命日には、法要が行われています。
毎年奉納されているのは“やっさ踊り”。
小早川隆景の築城時のお祝いに踊り出し、400年にわたって続いています。

隆景は、子供のころに元春と雪合戦をした際・・・
一回戦・・・勇猛な兄に家来と立ち向かいますが、全くかないません。
二回戦・・・半分で元春にかかります。今度も歯が立たず、追いかけてきた兄・元春を、待ち伏せていた残りの半分に左右から挟まれ・・・隆景の勝利となりました。

勇猛で正面から戦った兄・元春、幼いながらも兵法で勝利した弟・隆景、その戦いぶりを見た父は、後にこの二人の性格を見据えた戦略を立てることとなります。
この時、長男・隆元は、周防の国に人質にされていました。
当時、中国の2大勢力は、大内氏と尼子氏。元就は、二つの勢力に挟まれた安芸・郡山城・4000石の小さな土豪で、尼子氏の庇護を受けていました。

ところが・・・大内氏への寝返りを・・・その証が、毛利隆元の人質でした。
それに怒った尼子氏は、3万の兵を率いて郡山城に押し寄せました。
守る毛利軍は3000・・・元就の戦法は、かつて雪合戦で隆景が行ったもの・・・敵をおびき寄せての殲滅でした。

この作戦は見事にはまり、尼子軍を苦しめます。
そして、陶隆房率いる大内軍1万が援軍に来ると、尼子軍を安芸から追い出すことに成功します。
元就の勝利が広まると・・・瀬戸内に面した木村城・小早川氏から元就の次男・元春を養子に欲しいという話が持ち込まれます。
元就にとって、戦うことなく瀬戸内に出ることが出来る!!こんなおいしい話はありませんが・・・熟慮の末、元春ではなく隆景を養子にしました。
その理由は・・・海賊行為をする者が多い手練れをまとめられるのは、まっすぐな元春よりも、策をめぐらす隆景の方が良いと思ったからです。
そして元就は、尼子氏と国境を接する小倉山城の吉川に元春を養子に出すことにしました。

隆景と元春・・・どちらも養子に行くとき、元就が念を押したのは、三本の矢の教えを忘れてはならぬというものでした。
これが後に毛利の両川と呼ばれることになります。

そして、さらに息子たちを使って勢力を広めていきます。
1551年毛利元就安芸国統一。
翌年・・・陶隆房が謀反を起こし、主君・大内義隆を自害させてしまいました。
陶につくか、大内につくか・・・

陶軍2万人、毛利3000人・・・

悪人・陶隆房を討つ!!

そして元就は、広島湾に浮かぶ宮島・・・厳島神社があります。。。そこを占領させ、要害山に城を築き守らせました。
対岸に陣を構えた元就は・・・3人の息子と作戦会議を始めました。
そこで・・・元就の作戦を非難し始めた隆景!!

「父上の作戦、全く理解できません。
 負けが決まったようなこの戦に、小早川の兵士を参加させることは出来ません!!
落とされるような城を築くとは・・・!!
毛利家だけのことを考えることは出来ん!!」

ところが評定のもようは、内通者によって陶側にもたらされます。
そして、厳島に上陸した陶軍2万は、後方の山間に陣を構えて攻撃をかけようとします。

しかしそれは、元就と隆景の芝居でした。
兵力の劣る毛利軍が勝つためには、小さいところに固めて動きを取りにくくすること・・・そこに勝機を懸ける以外になかったのです。
そして、隆景もう一つの仕事は・・・村上水軍を味方につけること。
当時300隻の船をもち、瀬戸内海の制海権をもっていたのですが、陶隆房も味方につけようとしていました。
普通ならば勝つ見込みのある陶軍につくのですが・・・
隆景は使者に・・・
「軍船300隻、1日だけお貸しいただきたい。
 それも、厳島へ着いたらすぐにお返しする。」
村上武吉
「1日だけとはどういうことだ!!」
「島につけば、勝てば島に残るし、負ければ討ち死にする覚悟、帰りの船はいらん!!」

この言葉を意気に感じ、村上水軍は毛利側に。
1555年10月1日厳島の戦い
東側からは、毛利元就、毛利輝元、吉川元春、西側からは、小早川隆景が上陸、挟み込むように陶軍に奇襲をかけて壊滅させました。

厳島の戦いに勝利し、大内氏の所領と瀬戸内海の制海権を得た元就は、吉川元春を主力に、尼子に対峙します。
そのさなか、毛利に不幸が・・・
1563年8月4日毛利隆元が亡くなります。享年41歳の若さでした。

あとは、隆元の息子・輝元が継ぎます。
隆景と元春を後見人・・・No,2としたのでした。
そして、初陣は・・・月山戸田城への総攻撃でした。
尼子氏をその軍門に下し、新しい当主・輝元の名を世に知らしめました。
この時、中国地方10か国を治める大大名となったのです。

病床に伏した元就・・・枕元に元春らを呼び・・・自分が死んだあとはこの中国10か国を守り、天下を争う戦いに参加してはならない・・・と言ったのです。
1571年6月14日没・享年75歳でした。

元就の遺言を守ろうとしていたのに・・・それを許さなかったのは、織田信長でした。
信長は、足利義昭を奉じて上洛すると、天下統一に向けて動き始めます。
姉川の戦いで浅井・朝倉を破り、長篠の合戦で武田勝頼に勝利、その勢力は中国地方へ・・・

司令官としてやってきたのは豊臣秀吉。
別所長春の守る三木城をおとし、播磨国を平定すると、備前・岡山城・宇喜多を籠絡、備中・高松城に侵攻を開始します。

高松城を落とされれば、織田に寝返る大名が続出し、中国地方においての覇権を失ってしまう!!そう思った隆景は、輝元・元春と共に、備中・高松城の救援に・・・
それは、父・元就の遺言を破ることになる・・・その最初の一歩でした。

秀吉の侵攻に対して、毛利は7つの城を造りました。

mo-ri.png

その最大が備中高松城・城主は清水宗治。
高松城は、沼地に囲まれ・・・城への入り口は一つ・・・守るにたやすく攻めるに難しい城として知られていました。

宗治は最後まで毛利に殉じる・・・と、3000の兵と立て籠もります。
秀吉の兵は3万。味方の兵を失わないために・・・秀吉は、近くを流れる川を使って城ごと水没させることにしました。水攻めです。
高さ7mの3kmに及ぶ堤をわずか12日間で完成させます。
雨が降り・・・堤の中に水が溜まり・・・湖が出来上がりました。
沼地であったために・・・

mo-ri2.png

2万の軍勢で応援にやってきた隆景は、この光景を前になすすべがありませんでした。
元春も・・・戦うことをせず、溺死させようとする秀吉を卑怯者と罵りますが・・・後のまつり・・・

さらに悪い知らせが・・・信長が、毛利と雌雄を決するために安土城を出発!!京都へ向かったというものでした。

三本の矢が集まって、軍議が開かれます。
隆景は・・・
「もはや・・・領地の半分を差し出して、宗治と兵を助けましょう」
しかし、輝元と宗治は反対しますが・・・説得され、和睦を申し入れますが・・・
秀吉は、ほとんど手中に入れているので、和睦の必要もなく・・・興味を示さなかったのですが・・・

しかし、突然秀吉は、清水宗治の切腹を条件に、和睦を申し入れてきました。
隆景は違和感を覚えながらも条件を飲み、宗治も自分の命と引き換えに兵が助かるならばと承服します。
小舟を浮かべ、毛利軍と秀吉軍の見守る中・・・
1582年6月4日清水宗治自刃。

隆景たちがその死を悼む中・・・織田信長が明智光秀に殺されたことに驚きます。
秀吉に騙されたことを知った元春は激怒、明智光秀と戦うために引き返す秀吉軍に追っ手をかけると言い出します。
この時、元春をいさめたのは隆景。

秀吉に、幟だけを届けます。
秀吉は、隆景の意図を理解します。
隆景は自分の勝利にかけている!!と。

父の遺言を破った瞬間でした。
その後、山崎の合戦で光秀を討った秀吉は天下人へと上り詰めていきます。
そして、後々まで隆景に感謝をし、毛利家の安泰を認めたのでした。

秀吉に認められた隆景は、朝鮮の役でも大きな手柄を立て、帰国後は、毛利輝元と共に五大老のひとりになりました。
そして、1597年6月12日65歳で亡くなります。
隆景の死から3年後、関ヶ原の戦いがおきます。

隆景の養子・小早川秀秋は、西軍から東軍へ寝返り徳川家康が勝利に貢献したとして、岡山藩55万石をもらいましたが・・・その2年後に病死。

秀秋は、秀吉の甥・・・養子先を探していた秀吉は毛利に目をつけます。しかし、それは困る・・・と思い、我が家に・・・と小早川家に招いていたのです。
そして・・・天下の戦に関わった小早川家は滅んだのでした。


三本の矢のもう一つ、吉川家・・・元春は病死、その息子・広家は、毛利輝元が西軍の総大将となることに反対します。
そして関ヶ原の際に、東軍につきます。その為家臣からは裏切り者と呼ばれます。
しかし、広家は裏切ったのではなく、家康が勝った時に毛利家が潰されないように着いたのです。
その証拠に、戦後の交渉で、家康が毛利家の改易を考えていると知ると、自分に与えられることになっていた周防・長門の2か国37万石を毛利家に譲り、自らは岩国3万石の領主となりました。

三本の矢の教えは、息子にも伝わっていたのでした。


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