日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:山本五十六

8月15日は日本人にとっとて忘れてはならない終戦の日です。
アメリカをはじめとする連合軍と4年近くにもわたって日本が戦いを繰り広げた太平洋戦争・・・
軍部が中心となり、国全体が無謀な戦いを挑んだ結果、およそ310万人もの人々が命を落とし、日本は焦土と化しました。
しかし、軍部の中には、日本の敗戦を予測していた人物もいました。

「もし、戦争が始まったとしたら、東京は三度も四度も丸焼けになる」

その人物こそ、大日本帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六でした。
日本海軍史上、最高の名提督ともいわれています。
現役軍人が、日本の敗戦を予測していたことも驚きですが、山本は、直前までアメリカと戦うべきではないと・・・日米開戦を回避しようと尽力していました。
それにもかかわらず、山本は自ら指揮を執り、太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃へと突き進むことになります。

山本五十六は、1884年、元長岡藩士の高野貞吉の六男として生まれました。
五十六の名の由来は、父が56歳の時の子だったからで、この時の姓は高野でした。
性格は、根っからの負けず嫌いで、友人の母に・・・

「なんでもよく食べるけど、さすがに鉛筆は無理ね」

といわれると、手に持っていた鉛筆をバリバリと食べてしまうほどでした。

海軍を目指すことになったきっかけは、10歳の時に勃発した日清戦争(1894年)でした。
この時、叔父の野村貞が、軍艦「高千穂」の艦長として活躍・・・そのことが、五十六少年の心を大きく動かしたのです。
こうして1901年、17歳の時、広島県江田島にある海軍兵学校に入学します。
卒業した翌年、五十六は早くも実戦を体験します。
1905年、21歳の時に、日露戦争の日本海海戦に参戦します。
少尉候補生としてロシアのバルチック艦隊と激戦を繰り広げました。
しかし、この時・・・重傷を負い、左手の指2本を失っていまいました。
現実の戦争の厳しさを我が身に刻んだ五十六・・・
それでも持ち前の負けん気で、海軍大学校へ進学。
在学中に、縁あって、旧長岡藩の筆頭家老だった山本家の名跡を継ぐことになりました。
その後、2度のアメリカ駐在や、ロンドン海軍軍縮会議に参加するなど、海外での経験を積みながら、航空母艦「赤城」の艦長や、第一航空戦隊司令官や航空本部長などを歴任。
そして、山本は、52歳の時に海軍省のNo,2である海軍次官に上り詰めます。



山本五十六には、数々の名言があります。

苦しいこともあるだろう
云い度いこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣き度いこともあるだろう
これらをじっとこらえていくのが
男の修行である

賭け事をするときの必勝法は・・・??
一、私利私欲を捨てること
一、科学的、数学的根拠の基づく判断をすること
一、勝機が来るのを待つ忍耐

でした。

1936年二・二六事件・・・陸軍の青年将校によるクーデター未遂事件・・・
大蔵大臣の高橋是清と内大臣の斎藤実が暗殺され、総理の岡田啓介まで襲撃されたこの事件以降、陸軍は政治に介入するようになっていきます。
クーデターの再発をちらつかせることで、政治家たちを脅し、組閣人事に口を挟んだり、軍備拡大を強引に行い、陸軍の力を拡大していきました。

その頃、海軍省のNo,2の海軍次官だった山本五十六は、そんな状況に危機感を抱いていました。
そこで、当時、海軍連合艦隊司令長官の米内光政を海軍大臣に推挙することで、陸軍に対抗しようとしていました。
当時の軍部(海軍・陸軍)大臣は、現役の大将と中将の中から軍部の推薦によって任用される軍部大臣現役武官制でした。
米内光政は、山本の海軍の3期上の先輩で、砲術学校教官時代の同僚でした。
まさに、旧知の仲でした。
信頼できる米内が、海軍大臣に就任すれば、陸軍に対抗できると考えたのです。

1937年7月7日、満州国の領土拡大を目論み、南下した日本軍と蒋介石率いる国民革命軍が、盧溝橋で激突し、やがて日中戦争へと発展・・・戦況は泥沼化の様相を呈していきました。
そんな中、ヒトラー率いるナチス・ドイツが日本に対し、ファシストのムッソリーニ率いるイタリアとの軍事同盟・・・日独伊三国同盟の締結を提案します。
三国同盟締結を推し進めたい陸軍大臣・板垣征四郎は、平沼騏一郎内閣に強く働きかけます。
平沼総理は、板垣と海軍大臣の米内らを呼び会議を開きますが、同意を求める板垣に対し、米内は断固としてそれを拒否・・・
実に8か月にもわたり、平行線が続いたのです。

どうして、海軍は日独伊三国同盟に反対したのでしょうか??
陸軍が、三国同盟の締結を強く求めたのは、膠着状態にある日中戦争の局面打開のためでした。
領土拡大をたくらみ、いつ南下してくるかわからないソ連軍を、ドイツにヨーロッパ側からけん制してもらうと同時に、ドイツと手を組むことで、蒋介石の国民革命軍を支援していたアメリカに脅威を与えるためです。
しかし、海軍の米内と山本らは、ヨーロッパ情勢が不安定な中で、特定の国と軍事同盟を組むことは、危険だと感じていました。
この時、ナチスドイツは、オーストリア、チェコスロバキアに侵攻し、さらにはポーランドへの侵攻も狙い、明らかにヨーロッパ制覇を目論んでたのです。
それを何とか食い止めようとしていたのが、イギリスでした。
そして、イギリスを敵に回すことは、その同胞であるアメリカをも敵に回すことを意味していたのです。
山本は、そのアメリカと敵対関係になることを最も恐れていたといいます。

山本は、アメリカに2回、計5年間駐在しています。
いろんなアメリカの姿を見て・・・特にテキサスの油田に注目し、産出量の多さに驚きました。
丁度、軍艦の燃料が石炭から重油に変わっていった時代でした。
その燃料である重油を多く持っている国が海戦を制覇すると言われた時代でした。
デトロイトの自動車工場も回り、アメリカの工業力の高さを評価していました。
アメリカの工業力と資源の豊富さを考えると、日本は勝てないと考えたのです。

日中戦争のさ中・・・1937年パナイ号事件
海軍の航空隊が、誤って揚子江に停泊していたアメリカの砲艦を撃沈させてしまいました。
報告を受けた山本は、すぐにアメリカに対しひたすら頭を下げて陳謝しました。
アメリカと戦うことを避けたい山本は、アメリカの敵ではないと印象付けるように素早く対応したのです。
海軍は、ドイツと軍事同盟を組むと、アメリカと戦争になる危険性があると日独伊三国同盟締結に反対していたのです。

ドイツとイタリアとの軍事同盟・・・日独伊三国同盟を推し進めたい陸軍に対し、海軍次官の山本五十六は反対を表明!!
すると・・・陸軍などの三国同盟締結派が、「弱虫海軍」「腰抜け山本次官」と、揶揄し、あの手この手で海軍に圧力をかけてきました。
やがて、立場上表立って発言できない大臣・米内に代わって、海軍の意見を表明してきた山本が祖の標的に・・・!!
毎日のように、海軍省に見知らぬ男たちが山本に面会を求めやってきて、三国同盟に賛成しろと恫喝したといいます。

1939年7月・・・
東京でダイナマイトを所持していた男が逮捕され、山本をはじめとする三国同盟締結に反対する要人を暗殺する計画まで明らかになりました。
当時日本では、浜口雄幸、犬養毅・・・と、歴代の首相が暗殺される、襲撃される時代でした。
親しい友人には・・・
「自分が殺されても、そのことで国民が少しでも考え直してくれればいい」と言っていたとか・・・。

山本は、次官室に掛け軸をかけていました。

”百戦百勝  不如一忍”

百回戦って百回勝つよりも、じっと耐えて戦わない方が最善の道だという意味です。
敢えて戦うのではなく、戦わない道を選べというのです。

1939年8月・・・思いもよらないニュースが日本に・・・。
ドイツとソ連が不可侵条約を締結したのです。
陸軍の幹部は、大きな衝撃を受けます。
日独伊三国同盟を締結すれば、ドイツがヨーロッパ側からソ連をけん制してくれると散々主張してきた陸軍の面目が丸つぶれとなったからです。
山本五十六は、これでしばらく陸軍はおとなしくなるだろうと胸をなでおろしました。
実は、この時、安堵していた人物がもう一人いました。
昭和天皇です。

「海軍のおかげで国が救われたと思う
 今度のことが契機で、陸軍が目覚めることとなれば、かえって仕合せと言うべきであろう」by昭和天皇

天皇もまた、日独伊三国同盟締結を案じ、陸軍の暴走を危惧していたのです。
しかし、陸軍は、そう簡単には諦めませんでした。
独ソ不可侵条約締結を受け、平沼内閣が総辞職・・・米内も海軍大臣を辞職。
その際、米内は山本に、
「お前は海軍次官をやめ、連合艦隊司令長官になれ」
それには、米内の思いがありました。
米内は、日独伊三国同盟締結に反対し、命を狙われていた山本を救うために、連合艦隊司令長官を命じたのです。

久々の海上勤務を命じられた山本でしたが、一説には、そのまま次官の席に留まることを望んでいたともいわれています。
丁度その頃、ポーランドへ侵攻したドイツに対し、イギリスとフランスが宣戦布告!!
第2次世界大戦がはじまりました。
そして、日本も大混乱に陥っていきます。
日中戦争で、不当に中華民国に侵略していると諸外国から批判され、国際社会から孤立・・・アメリカからは、日米通商航海条約破棄を通告されていました。
当時、日本は原油や重油の82%、鉄鋼の49%をアメリカからの輸入に頼っていました。
それを、大幅に制限されたことで、一気に国内の物価が上昇・・・生活物資が不足し、国民の不安や不満が募るばかり・・・
そん中、日独伊三国同盟締結の機運がフラフラ亡霊のように浮かび上がってきました。
ナチス・ドイツが、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻し、遂にはフランスまでも降伏させ、勢いづいていました。
そして、1940年7月、第2次近衛文麿内閣が発足すると、陸軍大臣・東條英機が就任。
一方、海軍大臣には三国同盟反対派の吉田善吾が就いたのですが・・・海軍内部の三国同盟締結派から突き上げを食らい、辞任に追い込まれてしまいます。

すると、近衛総理が・・・

「後任には、陸軍と協調できる人物を頼みますよ」

海軍は、その要望を受け入れ、新たな海軍大臣に、及川古志郎を推薦・・・
もはや、海軍には三国同盟締結を推し進める陸軍に対抗できる勢力は残っていませんでした。

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大臣就任後、及川は、日独伊三国同盟締結案を可決すべく、海軍首脳会議を開き、連合艦隊司令長官だった山本五十六も招集されます。
次官をやめおよそ1年・・・山本の意見は、変わっていませんでした。
多くの幹部は賛成を口にする中、山本はこう発言します。

「昨年8月までの物資動員計画によれば、その8割までが英米勢力圏の資材で賄われることになっていたが、今回、三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失うはず。
 その不足をどう補うつもりなのか?
 お考えをお聞かせいただきたい」by山本五十六

しかし、及川は、山本の質問に答えることなく、日独伊三国同盟締結の賛成を可決したのです。

こうして海軍首脳会議が開かれた12日後、1940年9月27日日独伊三国同盟調印。
即ち、アメリカをはじめとする国々と戦う道を選びます。
この頃、近衛総理は、山本を自宅に呼び寄せ、

「日米開戦となった場合、海軍に見通しは如何なものか?」by近衛文麿
「初めの半年や一年は、随分暴れて御覧に入れます
 しかし、二年、三年となっては、全く確信持てません
 かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力願いたいと思います」by山本五十六

しかし、山本五十六は、日米開戦を避けたいと思いながら、同時に開戦の準備を進めなければなりませんでした。
山本五十六が考えていたアメリカとの戦い方とは・・・??
この頃の日本の海軍の中では、艦隊で攻めてきた敵には艦隊で戦うことが主流でした。
しかし、長らく航空関連の現場を経験してきた山本五十六は、飛行機が秘めている可能性に注目していたのです。
この頃、日米開戦を想定し、頻繁に行っていたのが雷撃という訓練でした。
飛行機に魚雷を搭載し、それを軍艦を狙って投下するというものでした。
山本は、この飛行機を主力とする攻撃方法で、アメリカ軍の軍艦を撃沈させようと考えていたのです。
雷撃に手ごたえを感じていた山本は、こうつぶやいたといいます。

「飛行機でハワイを叩けないものか」

このころ、アメリカ軍の太平洋艦隊の本拠地が、カリフォルニアのサンディエゴからハワイの真珠湾へと移されるというニュースが日本に届いていました。
山本は、その真珠湾を奇襲する作戦で勝機を見出そうとしたのです。
この作戦を、海軍大臣・及川古志郎に提案した上で、山本は、
・海軍が保有するすべての飛行機と航空母艦を投入すると
・作戦は宣戦布告した開戦初日に実行する
べきであると強く主張しました。
宣戦布告後、すぐに真珠湾を攻撃しなければ、アメリカ太平洋艦隊が日本に押し寄せる危険がありました。
艦隊同士の戦いに持ち込むと、長期戦になり、燃料に限りのある日本は不利な状況に追い込まれると考えたのです。
そこで、飛行機を使って、アメリカの太平洋艦隊に大打撃を与えて、短期決戦に持ち込むそこに、活路を見出そうと考えていました。

しかし、作戦を決定する軍令部は、山本の提案を一蹴・・・
失敗すれば、全ての航空母艦や飛行機を失い、ほぼ日本の敗戦が決定してしまう危険があったからです。
この時、軍令部は、燃料の確保を最優先し、フランス領インドシナ南部・・・現在のベトナム周辺への侵攻を第一に考えていました。
この軍令部の案に、山本は猛反対します。

「南方へ進駐している間に、日本本土がアメリカの空襲を受けたらどうするつもりだ
 資源が手に入れば、東京や大阪が焦土となってもよいというのか」

山本は、日本の本土が攻撃を受け、国民が犠牲になることを危惧していました。
南方より、真珠湾攻撃を先にすべきだと主張したのです。

1941年7月・・・日本がフランス領インドシナ南部へと進駐すると、アメリカが猛抗議し、即時撤退を要求しました。
対して日本は、アメリカとの外交交渉を行うも、失敗に終わります。
近衛文麿首相が辞意を表明。
すると、陸軍大臣の東條英機が総理大臣を兼任する軍人内閣が誕生しました。
日米開戦は、いよいよ秒読み段階に入りました。
山本五十六は、真珠湾攻撃を認めない海軍軍令部を説得するため、部下で主席参謀の黒島亀人を派遣。
真珠湾攻撃に反対し続ける軍令部の幹部を前に、黒島は迫ります。

「山本長官は、もしこの案が、どうしても採用できないというのでしたら、連合艦隊司令長官の職をご辞退すると申しておられます」

これを聞いた軍令部の幹部は、それほど自信があるなら・・・と、山本が立案した真珠湾攻撃をようやく正式な作戦計画として採用・・・
日米開戦のおよそ2か月前のことでした。

山本は、大打撃を与えられ、士気を失ったアメリカから講和を持ち掛けさせようと考えていました。
そうなれば、短期間で戦争が終わり、本土が攻撃を受ける心配もなくなるのです。
真珠湾攻撃は、山本が、早期に戦争を終わらせるための策だったのです。

1941年12月2日・・・
大日本帝国海軍の連合艦隊・真珠湾攻撃の機動部隊は、北海道の択捉島を出発し、アメリカ太平洋艦隊の本拠地・ハワイを目指し、北回りで航行していました。
この時、連合艦隊司令長官の山本五十六は、まだ東京で日米開戦を何とか避けようと元総理の岡田啓介らのもとを訪ね、ギリギリまで奔走。
しかし、努力の甲斐なく、ついに開戦日が決定してしまいました。
そして、この日の午後5時30分・・・
機動部隊に向けて暗号電報が発信されました。

「ニイタカヤマノボレ
 ヒトフタマルハチ(1208)」

開戦日は12月8日・・・

決戦当日、山本は、瀬戸内海に浮かぶ戦艦「長門」の作戦室にいました。
山本の作戦の運命は、ハワイにいる機動部隊の責任者南雲忠一に託されたのです。
ハワイの現地時間・・・12月7日6時30分・・・
ハワイ沖を航行中の航空母艦から次々と戦闘機が発進、第一攻撃隊183機が朝焼けに染まる空へと飛び立ち、遂に作戦が決行されたのです。
午前7時30分・・・オアフ島北端に達した第一攻撃隊は西側を迂回し、真珠湾に侵入。
午前7時49分、全軍に攻撃命令が下ると、ほいらー航空基地とヒッカム航空基地に爆弾を投下。
駐機中のアメリカ軍の飛行機が次々に吹き飛びました。
一方真珠湾では、停泊するアメリカ軍の軍艦めがけて雷撃機が急降下し、次々に魚雷を投下!!
たちまち真珠湾は火の海となりました。

日本にいた「長門」の作戦室にも、ハワイからの電報が届きます。

「トラトラトラ
 我 奇襲に成功せり」

その直後には、

「真珠湾奇襲さる
 演習にあらず」

という慌てふためいたアメリカ軍の電報も受信・・・日本軍は、わずか2時間足らずで
戦艦など7隻沈没・座礁 10隻損傷
航空機は231機破壊
周囲が小躍りする中、山本五十六はただ黙って聞いていたといいます。

現場責任者だった南雲は、攻撃を終え戻ってきた航空隊総隊長と話しました。

「追撃する必要はあると思うか?」
「修理工場や燃料タンクなどはまだ手つかずです
 追撃を出す必要があると思います」

しかし、南雲は撤退を命じました。

軍令部から、日本の空母を1隻もアメリカに撃沈されないよう言明されていました。
南雲は、追撃せずに撤退を選んだのです。

真珠湾を攻撃した際、そこにいるはずだったアメリカ軍の4隻の空母が1隻も見当たりませんでした。
一説には、南雲は、追撃を行うとどこから戻ってきたアメリカの空母から反撃され、日本側に被害が出るのではないかと畏れ、撤退したともいわれています。
日本にいた海軍の幹部たちも、南雲に追撃を命じるように山本に進言しましたが・・・

「ここは現場に任せよう
 まあ・・・南雲はまっすぐ帰るだろうが」

山本は、南雲の判断に任せたのです。
しかし、その後、アメリカ軍は、修理工場と燃料タンクに被害がなかったことで、復旧作業を急ピッチで進め、更に、4か月後・・・このとき襲撃を免れた航空母艦から飛び立った爆撃機が東京を空襲。
山本の懸念が現実のものとなってしまいました。

もう一つ、山本が懸念していたのが、国際ルールにのっとり、アメリカに宣戦布告した上で攻撃を開始する予定でしたが・・・
その胸を、軍部に外務省と申し合わせておくように厳命していましたが・・・ふたを開けてみると、中米日本大使館の不手際で、アメリカへの宣戦布告が大幅に遅れ、真珠湾攻撃の1時間後にアメリカに宣戦布告していたことが判明しました。
アメリカ国民と政府は、宣戦布告を行わずして開戦したと激怒し、
「リメンバー・パールハーバー」と、復讐を強く誓うこととなったのです。
アメリカへの宣戦布告する前に攻撃したため、”だまし討ち”の形になってしまいました。
おまけに、航空母艦を一隻も撃沈することが出来なかった・・・
アメリカに講和を持ち出させるほどの大打撃を与えることはできなかったのです。

山本にとっては、成功とはいいがたいものでした。
その後、日本海軍は、各地でアメリカ軍の反撃にあい大敗・・・
次第に日本の敗戦が濃厚になってゆく中・・・
1943年、南方戦線にいた山本は、最前線で戦う兵士たちを激励しようと飛行機に乗って向かう途中・・・ブーゲンビル島(現在のパプアニューギニア)上空でアメリカ軍に撃墜され死去・・・帰らぬ人となってしまいました。

まだ・・・59歳・・・日本敗戦の2年前のことでした。

連合艦隊司令長官という立場にいながら、戦争を避けようと最後の最後まで尽力した山本五十六・・・その生きざまは、今の日本人に呼びかけてきます。
誰が、何のために戦争へと導くのか・・・戦争をしたとき、誰がその犠牲者となるのか・・・と。

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感想(1件)

昭和の選択です~~!!

明治38年日本海軍連合艦隊が世界を驚愕させました。
当時世界最強と謳われたロシア・バルチック艦隊を完膚なきまでに撃破したのです。
日露戦争の体勢を決したのです。
この時、連合艦隊の巡洋艦・日進に乗り込んでいたのが、海軍兵学校を卒業したばかりの山本五十六です。
未来の連合艦隊司令長官は21歳の若さでした。
完璧な勝利をおさめた日本海海戦でしたが、山本は戦闘中の事故で大けがを負います。
山本は左手の指2本を失っていました。
明治・大正・激動の昭和を軍人として生きた山本は、戦争回避を信念とするに至ります。
しかし、連合艦隊司令長官となった山本は、作戦立案を迫られます。
親友に宛てた手紙には、対米戦争の悲痛な思いが綴られていました。
山本をアメリカとの戦争に向かわせたものは何だったのでしょうか??
その葛藤と選択は・・・??

日本海海戦からおよそ15年後、35歳の山本五十六はアメリカ駐在を命じられます。
そののちは大使館付武官として合計3年を過ごします。
山本が目の当たりにしたのは、アメリカの豊かな石油資源と大量生産システムによる工業先進国の姿でした。
中でも山本の興味を引いたのは、航空機の発達でした。
第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機は、その後も研究されていました。
第一次世界大戦後、各国は平和を求め戦艦など主力艦などの保有量のを制限する軍縮会議を開きました。
山本の兵学校時代からの親友・堀悌吉は、この会議に随行していました。
日本はイギリス5:アメリカ5:日本3.5の保有を主張しましたが、日本3(6割)に抑えられます。
日米の国力差を知る全権・加藤友三郎海軍大臣は、堀悌吉にこう言って条約に調印しました。

「平たく言えば金がなければ戦争は出来ぬということなり
 結論として日米戦争は不可能ということ」

加藤や堀の考え・・・国力でいったら、過大な比率をもらっていると考えたのです。
しかし、日本3を単純に数字が低いというところに引っかかる人も多かったのです。

ワシントン会議集結8年後のロンドン海軍軍縮会議で、巡洋艦、駆逐艦などの補助艦が制約を受けることとなります。
度重なる軍縮は、海軍内に大きな軋轢を生んでいきます。
国際的な軍縮条約を順守しようとする条約派と、反対する艦隊派とに分かれます。
艦隊派は巨大戦艦で大砲を撃ち合う大艦巨砲主義を中心に置きます。
艦隊派を支持していたのは、軍令部のTOP伏見宮博恭王・・・艦隊派は、伏見宮の力を背景に、条約派の軍人を次々に引退させていました。
堀悌吉は、条約派の中心にいました。
堀の処遇に危機感を抱いた山本は、伏見宮と直談判に及びます。
山本はこの時の発言を書き残しています。

「堀たちは、事実とすこぶる異なる悪評を立てられております
 人事が汚れなく、神聖公明に行われることが、海軍結束の唯一の道であります」

しかし3か月後、堀も予備役に編入され、現役を去ります。
その翌年、山本は海軍航空本部長となり、国産航空機の開発に尽力します。
これがのちにアメリカを震撼させる零戦の誕生へと繋がっていきます。
アメリカでの経験から、山本は今後、航空機が戦争の主力となることを見通していたのです。

昭和11年、山本は海軍次官として海軍省への出所を命じられます。
海軍次官は、海軍大臣を補佐しながら軍を政治面から動かす重要な役職でした。
翌年、山本と旧知の間柄の米内光正が海軍大臣として就任。
米内とのコンビで、山本は国政に参画していくこととなります。

山本が海軍次官を務めていた昭和12年7月・・・北京郊外盧溝橋での衝突がきっかけで、日中両国は全面戦争に突入しました。
この戦争で、山本が育てた海軍航空部隊は都市部への爆撃を展開します。

日中戦争がはじまった翌年、日本はドイツ・イタリアと軍事同盟を結ぶという動きに出ました。
日本陸軍は、ドイツ、イタリアの力を頼りに、中国を支援するイギリス・アメリカをけん制しようと考えたのです。
しかし、海軍はこの同盟締結に断固反対でした。
三国同盟を結ぶと、即座にアメリカが日本を敵視とする・・・
アメリカと大変な衝突関係になってしまう・・・!!
戦力物資の輸出が止まってしまうどころか、戦争になる可能性があると思う海軍の軍人はたくさんいました。
日本の石油の殆どは輸入に依存し、そのほとんど・・・8割がアメリカからでした。
米内海軍大臣や、古賀軍令部次長ら海軍上層部は、一丸となって反対しました。
アメリカの国力を知る海軍次官・山本は、反対の急先鋒でした。
強硬に反対する山本には、同盟推進派による暗殺まで計画されました。
身辺に危険を感じた山本は、この時覚悟のような遺書を残しています。

”勇戦奮闘
 戦場の華と散らむは易し
 誰かし至減一貫 俗欲を排し斃れて後 巳むの難きを知らむ
 此身滅すへし 此志奮ふ可からず”

昭和14年8月・・・
三国同盟締結に山本らが反対を貫いていた時、ドイツは突然ソ連と”独ソ不可侵条約”を結びます。
ドイツと共にソ連を挟み撃ちにしようと考えていた同盟推進派の目論見は外れ、三国同盟は立ち消えとなります。
ヨーロッパ情勢を見誤った内閣は退陣・・・山本も海軍省から転出することになりました。
新たなポストは、海軍の花形・・・連合艦隊の司令長官という重職でした。
山本の就任直後、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。
軍政を離れ艦隊に復帰した山本は、この後、激動する世界情勢の中で苦悩することとなります。

瀬戸内海の小島・柱島・・・
標高およそ280mの山頂にレンガ積みの建物が残されています。
海軍が建設した海軍見張り所の跡です。
ここで何をしていたのか・・・??
柱島は、呉の海軍工廠に近く、大艦隊が停泊するには十分な位置にありました。
山本が指揮する連合艦隊は、この柱島の南2キロに停泊することを常としていました。
山本が司令長官に就任した直後に始まった第二次世界大戦・・・
ドイツは破竹の勢いで勝ち進みます。
わずか1年足らずの間に、オランダ、フランスなどがドイツの軍門に下ります。
日本ではドイツの勢いを受け、再び日独伊三国同盟締結への機運が高まります。
アジアのオランダ領、フランス領の資源を確保しようという動きでした。
アメリカはこれに反発し、航空機用ガソリンや、鉄くずの対日輸出を禁止するという強硬な態度に出ました。
抜き差しならない状況で、山本は海軍首脳部が集められた席上で、三国同盟締結への賛同を求められました。
伏見宮王らがリードして、海軍も同盟を承認する動きに出ていたのです。
アメリカとの戦争に反対の山本は、連合艦隊司令長官として不満を表しました。

”重油は何処よりとるや
 鉄は何処より入るや”

核心を突いた問いかけでしたが、黙殺され、海軍は同盟締結に賛成しました。

昭和15年9月27日、日独伊三国同盟締結。
いよいよ対米戦争が現実味を帯びてきました。
山本は、首相・近衛文麿に呼ばれ、対米戦の展望を問われました。

「ぜひやれと言われれば、初めの半年か一年は、随分暴れて御覧に入れる
 しかしながら、2年3年となれば、全く確信は持てません
 三国同盟ができたのは致し方ないが、こうなったうえは日米戦を回避するよう、極力ご努力願いたい」

アメリカとの戦争を回避したい山本・・・
しかし、司令長官として連合艦隊を率いなければいけない職責が重くのしかかります。

もはや、アメリカとの戦いは避けられないのか・・・??
しかし、国力の差を考えると、勝てる見込みはない・・・
発展目覚ましいアメリカには、豊かな石油資源まであるのだ。
例え戦争になったとしても、なんとか早期に講和へと持ち込まなくてはならない・・・!!
戦いが長引けば、苦しい戦況に陥ることは間違いない・・・

今まで育ててきた航空兵力を用いて奇襲攻撃を立案するしかないか・・・??
緒戦で大きな打撃を与えれば、アメリカの戦意を喪失させることができるかもしれない。
そのためには、奇襲作戦しかない・・・??
いや・・・アメリカと戦争をしてはいけない・・・!!
国が兵を養っているのは、戦うためではなく平和を守るためなのだ・・・!!
かつて三国同盟締結を阻止したように、軍と国政を動かすことができないだろうか・・・??
戦争回避を願うものは、海軍内にもたくさんいる。
既に退役されている米内大将に復帰していただき、伏見宮殿下に代わって軍令部総長についてもらって海軍の方針を変える・・・??
大軍大臣も務めた米内大将なら、海軍内の意見をまとめて戦争を回避することができる・・・??

海軍が動かねば、アメリカとの戦争は不可能なのだ・・・!!
対米戦争回避への道は残されているのか・・・??

昭和16年1月7日付の山本直筆の文書には・・・
厳秘と書かれた文書は、前年11月に海軍大臣に提示した山本の考えの覚書です。
従来の作戦で、机上の演習を繰り返しても、日本海軍はアメリカの勝つことは出来ず、このまま戦ってはじり貧に陥ってしまいます。
そこでまず遂行すべきなのは、開戦後真っ先に敵の主力艦隊を猛烈に攻撃してアメリカ海軍と国民の士気を失わせることです。
そのため、敵主力艦隊がハワイ真珠湾に停泊している場合、航空部隊で徹底的に撃破いたします。
月明かりの夜か、夜明けを狙い、全航空兵力を使って全滅覚悟で強襲・奇襲をかけるのです。

山本は、アメリカ太平洋艦隊の基地・ハワイ真珠湾を全力で攻撃する奇襲作戦を立案しました。
しかし、この文章の末尾にはこう書かれています。
”堂々の大作戦を指揮すべき大連合艦隊司令長官は、他にその人ありと確信する次第なり
 大臣にはその名前を告げ、伏見宮総長にも申し上げた”
山本は第二艦隊司令長官となっていた古賀峯一にその名を明かしています。

「此上は一日も早く 米内氏を使用の外なし」と。

さらにアメリカとの戦争回避のため、米内の軍令部総長への起用も進言していました。
山本は、奇襲作戦を立てながらも、戦争回避の人事工作を画策していたのでした。
この相反する考えは・・・??
軍人として「やったら負ける」とは言えない・・・
常識的に考えて出来ない作戦を要求して、出来ないといわれたら
「それじゃあ今はできません」と言いたかったのか・・・??

山本が望んだ人事が実現されることもなく、最後の望みを天皇の決断にゆだねるほかはありませんでした。
その苦しい進駐を堀に送っています。

「最後の聖断のみ残されておるも、個人としての意見と正確に正反対の意見を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、真にへんなものなり。
 之も命というものか・・・。」

昭和16年11月、山本はまだ戦争回避の望みを捨てていませんでした。
ハワイ攻撃を準備する艦隊首脳陣に、日米交渉が今も続けられていると告げました。
交渉妥結の場合は、12月7日午前1時までに引き上げを命じると付け加えました。
山本のギリギリにして苦渋の選択でした。

しかし・・・山本はその時を柱島沖の連合艦隊旗艦長門で迎えました。
昭和16年12月8日未明・・・山本が放った奇襲部隊は作戦を成功させました。
真珠湾に停泊中の戦艦4隻を撃沈し、航空機200機以上を破壊するという戦果を上げたのです。
国内はこれに湧きます。
ところが・・・アメリカ太平洋艦隊の空母3隻は真珠湾にはおらず、決定的な打撃は与えていませんでした。
アメリカとの航空兵力の差を知る山本は、不安を募らせていました。

”現在の航空にては 今春伊吾 心細き限り”

山本の想像通り、アメリカは迅速に巻き返しを図ります。
これ以後日米海軍は、太平洋上で熾烈な戦いを繰り広げます。
昭和18年4月18日、山本はラバウルから最前線の視察のために飛び立ちました。
之を事前に察知したアメリカ軍は、パプアニューギニア・ブーゲンビル島の上空で待ち伏せし、山本の搭乗機を撃墜しました。
わずか4分ほどの交戦だったといいます。
翌日、墜落機の座席で山本の遺骸が発見されます。
かつて日本海海戦で二本の指を失った左手に軍刀を握り右手を添えていたといいます。

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今回は、「英雄たちの選択」ではなくって「昭和の選択」第1回です。
でも、メンバーも音楽も一緒。

終戦70年・・・開かれた太平洋戦争への扉。。。

syukuga1940年9月末・・・東京の華族会館で日独伊三国同盟婦人祝賀会が開かれました。
当時陸軍大臣だった東条英機の妻・かつ子が主催したものです。


一部の人々が恐れていたことが現実となります。
日独伊三国同盟・・・イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーとの同盟に、アメリカは激しく反発します。

その1年後、日本は太平洋戦争へと踏み出しました。
しかし三国同盟締結したものの、日本は望んでいない対米戦でした。
締結直前まで、海軍は同盟反対を訴えていたのです。
突如賛成へと変わった海軍・・・その理由とは・・・??

スイス・ジュネーブ・・・かつて国際連合の本部が置かれていたこの地で、1933年日本は大きな決断をします。
1931年の満州事変をきっかけに1932年に満州国が成立・・・
これが日本の傀儡国家であるという非難を受け、国際連盟から脱退します。
yousuke日本全権を任されたのは松岡洋右・・・。
奇しくも同じ時期に国際連盟を脱退したのは、ヒトラー率いるドイツ。
領土拡大を目論見、軍備拡大を深めていたからです。
孤立する二国は急接近していきます。
1936年日本はドイツとの間に日独防共協定を結びます。

共産主義国家・ソ連を仮想敵国として結ばれたこの協定・・・翌年には、ムッソリーニ率いるイタリアが参加し三国へとなっていきます。

1938年・・・日本はドイツから提案を持ち掛けられます。
ソ連だけではなく、イギリスとフランスを仮想敵国とすることを・・・!!
軍事同盟を結びたい!!
この頃、ヨーロッパに拡大していくドイツは、オーストリアを併合。
領土拡大はイギリス・フランスとの対立となっていました。
そこでヒトラーが注目したのは、極東にある日本の存在でした。
ドイツからの持ちかけに賛成したのは陸軍大臣・板垣征四郎。
1937年から中国で日中戦争が起こっており、短期間で中国を制圧できると思っていたものの・・・
日本に権益を独占されることを危惧するイギリス(ビルマ)とフランス(仏領インドシナ)が国民政府・蒋介石に軍需物資を搬入、さらにアメリカも資金援助をし、戦いは泥沼化していました。
陸軍は・・・中国を支援する国々を、三国同盟で牽制できると思っていたのです。

主要閣僚が集まった会議で・・・板垣征四郎は、三国同盟を締結するべきだと陸軍を主張します。
これに反対するのは海軍大臣・米内光政。
米内は、アメリカやイギリスと戦争になった時に事を考え、「勝てる見込みはない」と、判断します。
反対する理由・・・そこには軍需物資の問題がありました。
海軍にとって必要不可欠な軍需物資輸入額に占めるアメリカの割合は・・・
石油:76%、鉄類:69%でした。
その大部分をアメリカに依存していたのです。
「英米が、日本に攻撃を仕掛けることはないだろうが、経済的な圧力をかけてきたらとても憂慮に耐えることができない!!」と。

もう一つ海軍が反対する理由が、ドイツからの協定案の一文でした。
「締約国の一が締約国以外の第三国より攻撃を受けたる場合、ほかの締約国は之に対し、武力援助を行ふ義務あるものとす」
参戦義務を意味する条文で、日本がヨーロッパでの戦いに巻き込まれる恐れがあったからです。
米内とともに同盟に反対していたのは、海軍次官の山本五十六。
反対する手紙も残っています。

「勇戦奮闘 戦場の華と散らむは易し
 誰か至誠一貫俗論を排し
 斃れて後已むの難きを知らむ
 ・・・・
 此身滅すへし此志奪ふ可からす」

事実この頃、同盟反対をつらぬく海軍首脳には、暗殺の噂が絶えませんでした。

それでも志を曲げることはない・・・と、山本は覚悟を決めていたのです。
陸海とも一歩も譲らす・・・平沼騏一郎内閣では、70回以上の会議を重ねました。

そんな中・・・ヨーロッパから衝撃的なニュースが・・・!!
ドイツが・・・日本と仮想敵国としていたソ連との・・・1939年8月23日・独ソ不可侵条約締結です。
この時、ポーランド侵攻を画策していたドイツは、西の英仏、東のソ連の挟み撃ちを避けるために、ソ連との条約締結に踏み切ったのです。
日本には、事前に何も連絡はありませんでした。
平沼内閣は、もはや国際情勢に対応できない・・・??と思われ総辞職!!
”欧州の天地は複雑怪奇!!”
三国同盟の締結は・・・一旦立ち消えとなってしまいました。

1939年9月第二次世界大戦勃発!!
快進撃を続けるドイツ軍・・・翌年にはフランスを制し、西ヨーロッパを手中に収めようとしていました。
日本はイギリスさえもドイツの手に落ちると考え・・・
世論の後押しもあり、日独伊三国同盟の機運が高まります。
しかし政府は、反対派の米内光政内閣!!
そこで同盟に賛成する陸軍は・・・海軍大臣・畑俊六に辞表を出させ、代わりの大臣を出さない・・・と、策謀する
陸軍大臣不在・・・異例の事態に米内内閣はわずか半年で総辞職となります。

humimaro近衛文麿は・・・内閣発足3日前に、邸宅に閣僚候補者を集めて、今後の話し合いを持ちました。
その中に近衛自ら外務大臣に指名したのは、国際連盟脱退の時の松岡洋右でした。
松岡は、日独伊の三国にソ連を加え、日本の立場を強化してアメリカと話し合う・・・渡り合う・・・と考えていたようです。

日ソ独伊の締盟は、事変(日中戦争)解決に最後の決定力を持つ!!

四国連合交渉に・・・!!
ソ連との国境不可侵協定を結ぶべし!!
アメリカには無用の衝突を避け・・・アメリカと戦うつもりは毛頭ない!!
それが、近衛内閣の方針となりました。

同じころドイツでは・・・イギリス本土への戦いが本格化???

松岡どうする??
①同盟に賛成する??
日中戦争を終わらせるためには・・・!!
これには陸軍も大賛成ですが・・・

②同盟に反対する??
海軍は相変わらずこちらを支持!!
参戦義務の問題はどうする??
望まざる戦争に巻き込まれるかもしれない・・・!!


国民はどう思っていたのでしょうか??

対米外交は強硬に出るべきか??
強硬に出る・・・・・・・・・・・・・・62%
強硬に出るのはよくない・・・37%

1940年9月7日、ドイツから外務大臣特使ハインリヒ・スターマーがやってきました。
迎えたのは外務大臣・松岡洋右。
海軍の許可もなく・・・独自に交渉を始めました。
ヒトラーも、日本との同盟に前向きでした。
6月10日演説をしました。これまでヨーロッパでの戦争を傍観していたアメリカ・・・
アメリカ大統領・ルーズベルトが、イギリスの支援を表明したからです。

松岡とスターマー・・・
ドイツが日本に求めるのは、あらゆる手段でアメリカをけん制し、アメリカの参戦を阻止することでした。
日ソ神前につき、ドイツは正直な仲買人たるの用意あり・・・。
ドイツも四国連合に興味を持っていたのです。

一方海軍は、黙ってみていたわけではなく・・・
9月13日海軍次官が松岡のもとを訪れ、賛成はできないと迫り・・・参戦義務を外す!!と、松岡に言わせます。
海軍大臣・及川古志郎は、参戦義務がなくなった今、この選択を迫られることとなりました。

会議の場で・・・松岡ははっきりとした態度に出ないといけない!!と詰め寄り・・・
及川は、「それ以外・・・道なし!!」海軍大臣として初めて同盟に賛成の意を表しました。
15日には、海軍首脳会議が・・・
ここまで来たら仕方ない・・・賛成・・・
及川の考えが、海軍の総意となった瞬間でした。

1940年9月27日・・・ベルリンで、調印式が行われ・・・日独伊三国同盟が成立!!
大きく分けて三条からなるこの条約・・・第三条は、一方が攻撃された場合・・・三国は軍事を含むあらゆる手段で援助をするという内容でした。
参戦義務をうたっているかに見えるこの条項・・・
松岡とドイツの間では、攻撃されたかどうかは三国で協議するとなっていました。
つまり。。。参戦義務の回避をしたのです。

isorokuこの時山本五十六は・・・
「実に言語道断だ!!
 東京あたりは三度ぐらい丸焼けにされて、非常にみじめな目に遭うだろう」
と言っています。

しかし、賛成に回ったことで海軍にはメリットも・・・
物資不足で全く行き詰っていた海軍の戦備は、幸か不幸かこれを機に進んだのです。
海軍は多大な予算を獲得!!

松岡の次なる構想は・・・
志を同じくする国と提携し、全世界の国家と人民に永久の平和を調約することでした。
全国各地で祝賀が行われます。


日中戦争の解決のために結んだ日独伊三国同盟・・・
しかし、海軍の恐れていた事態が・・・
アメリカがくず鉄の対日輸出を禁止!!
厳しい経済制裁を打ち出してきます。
軍需物資を求めて・・・アジア南方への進出の必要性が・・・!!

アメリカが牙をむき始めた今・・・!!
松岡洋右はモスクワにいました。
四国連合の重要性が増してきていたのです。
1941年4月13日日ソ中立条約締結!!
しかし、松岡の思惑通りに進んだのはここまででした。
2か月後の6月22日、独ソ戦勃発!!
四国連合構想が藻屑となった瞬間でした。
内閣の信用を失った松岡は、外務大臣の職を辞することとなります。
7月28日・・・資源を求めて仏領インドシナに進駐を開始する日本・・・
4日後にはアメリカの石油全面禁輸という制裁が待っていました!!

日本の石油の備蓄はわずか2年分。
軍事行動によって打開しようという考えが・・・!!
ついに日本は・・・決断・・・1941年12月8日日米開戦!!
真珠湾攻撃を指揮したのは、最後まで三国同盟に疑問を抱いていた山本五十六でした。

開戦の方を受けた松岡洋右は・・・泣きながら・・・
「三国同盟の締結は、ぼく一生の不覚だったことを今更ながら痛感する。」

三国同盟締結からわずか1年余りでなだれ込んだ太平洋戦争・・・
日本は国際情勢を読み違えた末に、悲惨な戦争へと踏み出したのです。

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人生のあらゆることを勝負とし、日本の運命を賭けた勝負をした男・・・
勝負師~山本五十六~です。

isoroku2


























海軍航空の父と言われ、ゼロ戦パイロットに繋がる航空部隊を育成しました。

勝つために何をすべきか???

昭和16年12月8日未明・・・。
日本軍の機動部隊がハワイに奇襲攻撃をかけました。
真珠湾攻撃・・・太平洋戦争の幕開けでした。

この作戦を指揮したのは、時の連合艦隊司令長官・山本五十六。。。
それはアメリカ艦隊に大打撃を与え、海戦を変える作戦でした。
しかし、五十六はここに来るまでもいろいろな勝負をしてきました。
ギャンブル好きだったと言われる山本五十六・・・
カード・花札・チェッカー・麻雀・ルーレット・・・確立をひたすら経験していました。

isoroku













勝負必勝の三カ条とは???


新潟県長岡・・・明治17年4月4日高野家に6男が誕生・・・五十六でした。
高野家は、長岡藩の武士の家系・・・
父は、戊辰戦争にも参加していました。
長岡藩は、賊軍の汚名を着せられていました。
五十六が常に思っていたのは・・・
「常在戦場」
戦場での緊張感を日常の生活でも持ち続け常に備えよ・・・
という長岡藩の信条でした。

五十六は、2階の小さな部屋で、勉強熱心な父に育てられましたが、明治政府の中、賊軍にはつく仕事はありませんでした。
賊軍の汚名を晴らすためには、軍人・医者・教育者しかありませんでした。
13歳の時・・・長男の長男を・・・跡取りを軍人にしようと思っていた父・・・
しかし、24歳の時に突然の病で亡くなってしまいました。

葬儀に駆け付けた五十六の恩師に・・・
「よりによって跡取りを召されたのでつい愚痴が出まる。
 これが代わってくれれば何のことはなかったのにのう。」
と、五十六を見ました。
必至に涙をこらえながら・・・
「自分がきっと海軍に入って2人分のご奉公をします。
 安心してください。」
と言ったとか。。。

どんなに勉強ができても体が丈夫でないと駄目だ!!
と、必勝肉体改造計画!!
走る。鉄棒。走る。勉強。走る。自主トレ。。。
中学を卒業するころには、誰もスポーツで勝てなくなっていました。
お勉強は主席から十数番に落ちたけれど。。。

明治34年3月五十六中学卒業。
超エリートの難関校・海軍兵学校を目指します。
入学試験までは3か月!!
合格を目指して必勝受験作戦!!
姉夫婦の家を勉強部屋とし、予定表を作ります。

「きちんと計画を立ててやりぬきさえすれば、やれないことはこの世にはありません。
 やれないのは、初めの計画が間違っているか、計画通り実行しないかのどちらかです。」

努力の甲斐あって、海軍兵学校を200名中2番の成績で合格します。
これには父も大喜び!!

明治37年日露戦争勃発。
五十六は、日本海海戦に参加。。。
21歳、生まれて初めての実戦でした。
この時、日本海軍連合艦隊は、ロシアに奇跡的に勝利!!
しかし五十六は・・・この戦いで大怪我をします。

戦闘中の爆発で足を傷め・・・左手の人差し指・中指を失いました。
そればかりか・・・バイ菌が入り・・・左腕を切断しなければ命に係わると言われてしまうのです。
腕を失えば、もう海軍軍人ではいられない・・・
志半ばで断念するのか???
命を賭けた勝負に五十六は、切らずに生きる・・・わずかな望みに賭けたのでした。

「死も生も天命であり、あれこれというべきものではない。
 つつしんで日本の為に身を捧げ、天子の御恩に報いることを心がけようと思う。」

五十六は賭け事を通して、勝負必勝の三カ条を見つけます。

大正8年5月、五十六は、海軍のエリート登竜門であるアメリカ駐在武官として渡米。
目的はアメリカの国情研究でした。
当時は仮想敵国になりつつあったアメリカと日本。
重要な視察の意味があったのです。

そこで五十六は・・・アメリカを目の当たりにします。
自動車の保有台数・・・日本・7500台・・・アメリカ・750万台。
石油産出量・・・日本・30万トン・・・アメリカ・5200万トン。
アメリカは日本など足元にも及ばない産業大国でした。
五十六は衝撃を受けます。
今の日本の国力ではアメリカとの戦争はやりぬけるものではない。。。
アメリカとの戦争がいかに無謀だということを、身をもって知るのです。

そして・・・航空機の発達。。。
戦艦よりも安く、速い!!今後画期的な戦力となる!!
これが、真珠湾攻撃に繋がっていきます。

ギャンブルの腕前は強く・・・
「モナコで2年ほど遊ばせてくれれば、戦艦1隻分の建造費を稼いでみせる」
というほどでした。

一、私利私欲を捨てること
一、科学的・数学的根拠にもとづく判断をすること
一、勝機が来るのを待つ忍耐

これが、勝負必勝の奥義でした。

五十六にとってギャンブルとは・・・
勝っても負けても冷静に物事を判断する修練、
そして、機を狙って、勇往邁進、相手を撃破する修練ができるものでした。

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昭和9年・・・
海軍少将・山本五十六に重要な任務が。。。
当時は条約によって戦艦の保有率が決められていて・・・
日本の主力艦保有比率は対英米の6割でした。
その条約が期限切れとなるので、新たな交渉の代表に任命されたのです。
日本は、この不平等条約を破棄しようと考えていました。
アメリカはまた、この条約を破棄させようと強硬な姿勢をとっていました。
条約が破棄されれば、好きなだけ戦艦をつくることができる!!

しかし五十六はラジオで。。。

「ロンドンにおきましては”和敬協力”。
 全力をあげて働いておるのでございます。」

つまり、各国に協調を求めたのです。

五十六は是が非でもこの条約を存続させようと思っていました。
条約が破棄された場合、アメリカは主力艦を大量に建造するから・・・。
日本との主力艦保有量の格差は広がるばかりだからです。

五十六は、アメリカとあらゆる説得を試みます。
日本にも・・・多少不平等でも、条約を維持させてほしいと打診していました。

ところが・・・2か月後。。。日本政府から電報が・・・
「交渉打ち切り」の指示でした。
根負けさせるはずの勝負が打ち切りとなってしまったのです。 

アメリカとの戦いを避けたかった五十六・・・どうして真珠湾攻撃を考えたのでしょうか???
昭和16年、日米関係は悪化の一途をたどっていました。
日本が資源を求めて東南アジアに進出するに当たり、アメリカは経済制裁を始めました。
戦争回避のため、外交交渉が行われます。
五十六は、連合艦隊司令長官という立場にありながら、アメリカと長期戦になれば負ける!!と、主張していました。
しかし、日米交渉が決裂すれば、戦争を指揮しなければならない・・・。
司令長官の職を辞するか?
軍人として職を全うするか?

友人あての手紙には・・・
「個人としての意見と正反対の意見を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、誠に変なもの也。
 之も、命(天命)というべきか。」

アメリカと戦うことを想定して真珠湾攻撃を考えていた五十六。。。
その作戦内容は・・・
ハワイは、アメリカにとって太平洋の軍事拠点・・・そこへ、密かに空母を中心とした艦隊で攻撃する!!
というものでした。
この作戦の最大の目的は・・・
「日米戦争でまず最初に行うべきことは、敵の主力艦隊を猛撃し、アメリカ海軍とアメリカ国民の士気を喪失させることである」

長期戦では勝てないと踏んでいた五十六は、大打撃を与えて早期講和に持ち込もうとしたのです。

海軍は、旧来の作戦・・・長期持久戦を考えていましたが、五十六は短期決戦を考えていたのです。
そんな作戦を海軍は一か八かの作戦で、正気の沙汰とは思えないと反対します。

理由は・・・
・天候のリスク・・・悪天候の確立が8割
・発見されるリスク・・・長距離の航海で他国に見つかれば敵に通報される
・前例のないリスク・・・これまでの海軍の戦いは、軍艦対軍艦の艦隊決戦・航空機は偵察用
全ては賭けでしたが、五十六はこれ以上の手はないと思っていたのです。
これが出来ないなら戦うべきではない!!
国家の命運をかけた作戦は、立案から10か月後の10月9日に海軍上層部が認可したのでした。

11月30日日米交渉決裂!!
12月1日御前会議にて開戦が正式に決定!!
既に択捉を出発していた艦隊が、ハワイに向かっていました。
日本から6000キロ、10日以上の航海でした。

心配されていたリスクは・・・
幸運にも海は穏やか、6000キロの航海中出会ったのは商船1隻だけ。
12月7日ハワイ沖およそ300キロの地点に到着します。
奇跡の航海でした。
日本時間8日午前1時30分、ハワイ時間の7日午前6時・・・
6隻の空母から、183機の攻撃隊が発艦を開始、1時間50分後真珠湾上空に到達します。
ハワイ時間午前7時55分、真珠湾攻撃開始。

攻撃隊は、停泊する艦隊や飛行場に魚雷や爆弾で襲いかかります。
真珠湾への攻撃は、軍艦18隻・航空機200機以上の大打撃を・・・神がかった成果を挙げたのでした。

sinnjyuwan

















アメリカ国民たちは戦意喪失した???
当初、攻撃前に届くはずだった日本からの宣戦布告が攻撃後となってしまったので、アメリカはだまし討ちだと非難し始めました。

F・ローズベルト大統領の演説で・・・
「リメンバー・パールハーバー!!」となり・・・

日本はこの真珠湾攻撃の戦果に大喜び!!
開戦前の不安は一気に吹っ飛んで、アメリカに勝てる!!となってしまったのでした。

講和には向かわない・・・
五十六は、この戦果にこれほど国民が高揚するとは思っていなかったでしょう。
あまりにも勝ちすぎたのです。

戦争を考える以上は、終わり方を考えなければならない・・・

五十六を英雄として祀りだした人々・・・
しかし五十六は・・・長期戦になれば日本は必ず負ける!!とし、早期講和の道を模索していました。
そんな中、ハワイ占領という案を考えます。
ハワイにいる40万人のアメリカ人を捕虜とするというのです。
これによって優位な停戦交渉を!!!

その為の作戦は、ミッドウェー島の攻略でした。
連戦連勝を重ねていた日本海軍は、ミッドウェー海戦も必ず成功すると考えていました。
しかも・・・五十六立案の作戦。。。
しかし、真珠湾作戦は立案から決行まで10か月、ミッドウェー作戦は立案から決行までわずか2か月。
最悪のケースは考えられていませんでした。
それに対しアメリカ軍は、太平洋艦隊暗号解読班に150人を投入し、解読に成功するのです。

昭和17年6月5日ミッドウェー海戦!!

middowe-

















暗号を解読された日本軍は、投入していた空母4隻を喪失!!
惨敗を喫するのです。
五十六は、早期講和の道さえも失ってしまったのです。
この後・・・戦局はアメリカに傾いていくのでした。

司令官長として後方にいた五十六は、この頃から前線に赴くようになります。
それと共に、黒革の手帳を見つめることが多くなって。。。
そこにはこれまで戦死・殉職した部下の名が書かれていました。

アメリカとの長期戦では日本は必ず負ける!!その言葉通り、長期戦に入った日本には勝ち目はありませんでした。

昭和18年4月18日・・・
五十六は最前線の視察に向かいましたが・・・
アメリカ軍に暗号解読され、待ち伏せにあってしまいます。

長官機ニューギニア前線上空で撃墜。

山本五十六 戦死 享年59。

戦死から2か月後の6月5日・・・山本五十六の葬儀が行われました。
賊軍と呼ばれた土地に生まれた五十六・・・
その最後は、多くの国民に見送られる国葬として営まれました。

勝負に勝つためには時が来るのをひたすら待つ・・・
「苦しいこともあるだろう
 言いたいこともあるだろう
 不満なこともあるだろう
 腹の立つこともあるだろう
 泣きたいこともあるだろう
 これ化をじっとこらえていくのが男の修業である。」



 2014年03月01日 10:02に大石五雄さんからご指摘をいただきました。

「上記の伝記には山本が新橋芸者の河合千代子と恋仲の関係にあり、彼がミッドウェー出撃の日付まで彼女に教えた軍紀違反の事実などがありません。加えてください。」

どうもありがとうございました。 



第3回なぜ太平洋戦争は引き起こされたのか?はこちら
第5話太平洋戦争への道~近衛文麿と東條英機はこちら
ミッドウェー海戦 敗北が語る日本の弱点はこちら
真珠湾攻撃への7日間・外交官たちの苦悩と誤算はこちら

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ミッドウェー海戦「運命の5分」の真実

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2012年6月に行われた式典・・・それは、ミッドウェー海戦の60周年というものでした。
アメリカ・ミッドウェー島・・・小さな島をめぐっての激しい戦いでした。

1942年6月4日日本軍は、島にあったアメリカ軍基地への攻撃を開始します。
真珠湾攻撃の成功によって、勢いに乗っていた日本軍・・・
ミッドウェー海戦では、4隻の主力空母を投入、勝利を確信していました。

負けるなんて疑ってもいませんでした。
アメリカの攻撃の前に、空母は次々と炎上・・・
わずか1日で、空母4隻沈没、戦死者3000人以上も出してしまいました。
大敗北を喫したのです。

なぜ、負けるはずのなかった戦いに敗れたのでしょうか?
そこには、日本が想定していなかったアメリカ軍の奇襲作戦がありました。

アメリカは徹底した情報戦略で、空母で待ち伏せしていました。
近年公開された文書で、作戦の全貌が暴かれていたことがわかりました。

日本軍の情報は???
日本は、敵の戦力を過小評価していました。

一体どんな戦いだったのでしょうか?
それは、日本の組織の悪いところが全部出てしまった戦いでした。

アメリカが、日本の敗戦を分析したところによると・・・
①国力判断の誤り
②情報軽視
③兵站軽視
④組織の不統一
をあげています。

この④が、アメリカから見ても明らかだったそうです。

日本軍は、作戦重視、情報軽視で突き進んでいきます。
作戦ありきで後付していく・・・
そんな情報でした。

1941年12月8日ハワイ真珠湾攻撃をもって、日米の火ぶたあが切って落とされました。
この戦いで、アメリカ太平洋艦隊の主力戦艦を多数撃沈し・・・
大戦果を挙げることになります。

以来、半年にわたり、海軍はラバウル・オーストラリア・セイロン島を強襲・・・快進撃を続けました。

その推進役が・・・
連合艦隊司令長官・山本五十六でした。
山本は当時、航空母艦をあえて主力にして戦いを決行。
空母は、飛行機の発着を目的とした飛行甲板を持つ大型戦艦、画期的な兵器でした。

一見、日本の大勝利に見えた真珠湾攻撃・・・
しかし、山本はこの時、敵の3隻の主力空母を取り逃がしていました。
いずれ日本の脅威になる・・・
そう思った山本が立案したのが、ミッドウェー島攻略でした。


広島県呉市、かつて帝国海軍の拠点となりました。
ミッドウェー海戦の1か月前、1942年5月1日、戦艦大和で、ミッドウェー作戦図上演習が行われました。およそ100人が集まりました。
それを統括したのが、山本五十六と参謀長・宇垣纏です。

山本五十六は、アメリカに留学経験があり、日米の圧倒的な国力の差を知っていました。
だからこそ、長期戦に勝ち目はないと、考えていました、
早期決戦を考えていたのです。

作戦実施日は、1942年6月上旬とさだめました。

作戦計画では・・・
日本の空母は、赤城・加賀・蒼龍・飛龍。
①空母の飛行部隊がミッドウェー基地を空襲
②攻略部隊が上陸・占領
③ハワイからアメリカ空母を誘い出し撃滅させる
というものでした。

図上演習では・・・
サイコロを振って演習を行うのですが・・・

その出た目は。。。
アメリカ空母が逆襲・・・
空母は2隻沈没・1隻大破というさんさんたるものでした・・・。

参謀長の宇垣は・・・
「今のアメリカの命中弾は、1/3の3発とする。
 加賀沈没、赤城小破とせよ」
と、変更させました。

しかし・・・異議を唱える者はいません。
図上演習は、そのまま進み・・・日本の勝利で終わりました。
作戦を見直す時間のない中で、日本の勝利は変更できなかったそうです。

この作戦で勝つ・・・とならなければ、海戦後に上陸する輸送部隊、上陸部隊の演習が全部ストップしてしまう・・・。

実際に、敵空母が現れたらどう戦うのか???
本来、問題点を考えるための図上演習であるのに、作戦の練り直しは行われませんでした。
これがのちに、致命的な問題となることは、誰も知る由はありませんでした。

このミッドウェー作戦は、これから続くハワイ攻略の前哨戦・・・
止めてしまうことは出来なかったのです。

真珠湾の時も、この図上演習は行われています。
空母4隻で壊滅させられたので、2回目の図上演習を空母6隻で行っています。
時間があれば、作戦の見直しが出来たであろうに・・・

幕僚は延長した方が良いのでは???
でも、山本が首を縦にふらなかったのです。
アメリカが対日戦の前面に出てくる前に・・・
短期決戦をしたかったのでしょう。
山本は、戦果を見せつけないと、国民の心は離れてしまう・・・そう、思っていたようです。
国民の士気に対する平板な思い、固い考えがあったのです。

快進撃の絶頂期にあったミッドウェー海戦。そんな中、戦いの質が変わってきました。
軍艦による戦いと、空母による戦いの違いです。
軍艦はお互いが見えますが、空母は全く見えません。
つまり、情報戦へと変化していったのです。

日本が戦いに急ぐ中、アメリカ軍はどう動いていたのでしょう?
上官は、日本海軍の作戦内容について詳しく知っていました。
日本艦隊は162隻、4つの異なる進撃ルート・・・
司令官山本率いる戦艦大和の部隊、加賀・赤城・蒼龍・飛龍4隻の空母による奇襲攻撃だと・・・

どうして、筒抜けになっていたのでしょう??

ミッドウェー海戦の半年前、ハワイ真珠湾で日本に屈辱の敗北を喫したアメリカ・・・
責任を問われた太平洋艦隊司令長官・ハズバンド・キンメルは・・・更迭され、信任はチェスター・ミニッツでした。

真珠湾の過ちを繰り返さない・・・
ミニッツが最も大事にしたのが情報でした。
日本軍の暗号の解読に成功します。
太平洋艦隊司令部・暗号解読反では150人近い要員が、真珠湾攻撃の雪辱を晴らそうと・・・
24時間体制で解読に当たっていました。

日本側の動向を監視するミニッツ。
アメリカ国立公文書館には・・・決定的な文書が残っていました。

1942年5月13日、航空機運搬艦 五州丸の暗号解読電文です。
「基地設備と兵員を乗せAFに進出せよ」
とあります。
日本の攻撃目標をAFと特定したのです。
地点符号AF・・・それは、ミッドウェー島かさらに南のジョンストン島・・・と割り出します。
そこで・・・アメリカ軍はミッドウェーからハワイに平電文を出します。

「ミッドウェー島は真水が不足している」と。

偽の情報を傍受した日本軍は、本国に打電します。

「AFは真水が不足している」

日本軍の攻撃先が、ミッドウェーとバレた瞬間でした。


さらにミニッツは、日本軍の攻撃日を6月4日と断定。
戦いの準備を始めました。
ミッドウェーに爆撃機、戦闘機を増援、防衛も強化しました。
南太平洋にいた主力空母3隻をハワイに呼び戻します。
空母ヨークタウンは、90日の修理を不眠不休の72時間で突貫工事します。

そして、日本軍のミッドウェーに至る進撃ルートも解析します。
日本の侵攻作戦に対し、奇襲作戦に打って出ます。
空母3隻で待ち伏せします。
暗号解読班の予測通りに日本軍がやってきました。

アメリカ軍は、情報を武器にしたのです。

日本の情報を完全に把握していたアメリカ・・・
それは、ミッドウェーで初めて解読されたわけではなく・・・
1942年5月にあった南太平洋「珊瑚海」で行われた日本対連合国の海戦で、日本の動きは察知していました。
しかし、日本軍は、それにさえ気付いていなかったようです。

日本軍の防諜については、やっているものの・・・
アメリカほど諜報を重んじていなかったのです。

アメリカに情報が漏れているかもしれない・・・
というのは、誰かが秘密を漏らしている、と、考えたようです。

例えば、代表的なのがゾルゲ事件。

日本海軍は、諜報活動は泥棒行為である・・・とすら思っていたようです。
正々堂々、作戦で打ち破る!!それが日本海軍の考え方でした。
そして、日本語の暗号が読まれるわけはないという根拠のない自信がありました。


アメリカの暗号と日本の暗号、難易度は???
日本海軍の暗号は、難易度は高かったようですが、アメリカが人海戦術を持って解読に成功したのです。
このアメリカと日本の情報に対する重きの違い・・・
それは、日本が情報を軽視しすぎる傾向があるのです。


1942年5月27日赤城・加賀・蒼龍・飛龍の機動部隊が出撃します。
空母機動部隊司令長官は南雲忠一でした。
そこに、山本率いる戦艦大和も続きます。

暗号が解読されているとも知らずに・・・

現地時間6月4日午前4時30分、空母部隊が到着すると・・・索敵を開始しました。
通常2回行われる索敵・・・ミッドウェー海戦時は1回のみでした。
その網も荒いものでした。おまけに、雲の上を飛ぶ者さえありました。
その雲の下に、敵艦隊が忍び寄っていたのです。3隻の敵戦艦があったのに・・・

午前6時30分ミッドウェー島空襲開始。
108機が空襲を開始します。
しかし・・・待ち受けていたのは、アメリカ軍の激しい反撃でした。
30分後、南雲司令部に報告が入ります。

「第2次攻撃の要あり」

この時、空母上には、攻撃機の約半数が待機、敵空母との戦いに備えていました。
魚雷・艦船用爆弾も装備しています。
しかし・・・第2次攻撃に見交わせるためには、対空母用の魚雷を陸上用爆弾へと変えなければなりませんでした。
作業に90分はかかるのです。

敵の空母に備えるのか?
ミッドウェー島の陸上攻撃を優先させるのか???

判断は・・・
「第2次攻撃隊の兵装を陸上用爆弾とせよ!!」
でした。

敵空母はいないだろうという判断でした。
急な作戦変更・・・
そこに危機が・・・

ミッドウェー島から攻撃隊が・・・次々と到達してきました。
迎撃したのは、当時世界最強と詠われた零戦でした。
攻撃は最大の防御とばりに攻撃をはね返します。

午前8時20分・・・
「敵は後方に母艦を伴う」との情報が入ってきました。
アメリカの航空母艦を発見したのです。


敵を探索すること・・・当時、空母にも偵察機すら乗せていませんでした。
偵察を軽んじていたこともうかがえます。
攻撃重視の日本海軍・・・

東条英機は、そもそもイギリスと戦争しようと思っていました。
アメリカが来るとは思っていなかったので・・・
アメリカと日本の関係は、抽象的だったとも言えるでしょう。

敵戦艦に驚愕する南雲中将。。。

急きょ空母との戦いを強いられます。
①陸上用爆撃機のまま直ちに出撃する
陸上用爆弾には、空母破壊の威力はありません。
でも、飛行甲板を破壊することで、航空機の発着を不能に出来ます。

②万全の態勢で攻撃に臨む。
時間をかけて、魚雷に付け替える・・・
これなら敵空母に致命傷を負わせることが出来ます。

南雲の決断は・・・
「雷装に転換せよ」
でした。

艦内は再び大混乱・・・
再び兵装転換作業に入ります。

零戦は、敵戦闘機と戦っており、空母上はがら空き状態・・・
そこに、新たな敵が・・・急降下爆撃機・ドーントレスです。

その時、甲板には、満タンに燃料を積んだ爆撃機と、魚雷、爆弾が所狭しと置かれていました。
あっという間の出来事でした。
わずか10分の間に、赤城・加賀・蒼龍の3隻が被弾、炎上しました。
最後に残った飛龍は、反撃を開始します。
必死の攻防の末、ヨークタウン大破。
しかし、反撃もそこまで・・・飛龍も敵の攻撃を受け炎上。
6月5日午前2時55分、全軍退去命令が出ました。

地獄のような有様でした。

日本は、1日で4隻の主力空母、約300機の航空機、3000人以上の将兵を失うことになりました。
日本海軍必勝の戦いだったミッドウェー海戦は、一方的な大敗北に終わったのです。


どうして、ずぶの素人の南雲中将が指揮したのか???
それは、年次と学校の成績です。
おまけに、空母戦は、1か月前が初めてという世界で初めての戦い方だったのです。
ドイツやイギリスなどではありえない戦い方です。

そこを考えると、南雲だけを責めるのは酷・・・
全ての人が、未知の戦いだったのです。
空母同士の戦いの勝敗は、10か0・・・五分五分のない戦いなのです。


兵装転換の理由は???
陸上用爆弾が空母に有効かどうかがわからない・・・
零戦の護衛なしでの行くのは危険・・・
この葛藤から、兵装転換を行ったようです。


「陸」の組織での情報収集は・・・
南満州鉄道による「陸」の情報収集があり、約40万人の社員を動員して満州国や中国の情報を・・・官と民の情報を上手く使っていました。

しかし、「海」の作戦での情報収集は、全く違うものでした。

敗北から3日後の1942年6月10日海軍情報部のラジオ放送では・・・
それは、ミッドウェー海戦の華々しい戦果でした。

「6月5日 
 敵アメリカの前進根拠地であるミッドウェーを急襲し、
 敵の航空母艦群を誘き出し、これと猛烈な格闘戦を演じ、
 ホーネット型航空母艦一隻を大破し、
 エンタープライズ型航空母艦1隻を撃沈いたしたのであります。」

あたかも日本が勝利したかのような報道でした。
軍令部により、国民には徹底的に隠ぺいされました。

それは、天皇にも・・・
1942年7月14日に、天皇に上奏された海軍の艦隊編成表には・・・
沈没したはずの赤城・飛龍が載っています。

ミッドウェーで戦った将兵たちもあおりを受けます。
外出禁止、内地に帰ってきても、一般の人びと、家族との接触すら禁じられました。

では、ミッドウェー海戦の責任者たちの処遇は???
沈没する空母から一命を取り留めた南雲忠一中将は・・・
後方にいた戦艦大和の山本五十六に敗戦の報告をします。
「大失策を演じ、おめおめ生きて帰れる身ではなかったのですが
 ただ復讐の一念に駆られ生還してきました。
 どうか、復讐できるよう取り計らって頂きたい」

「承知した」

この二人の責任が追及されることはありませんでした。


日本の海軍は、責任者を出しません。
どうして???
日本海軍の指揮官は、ほぼ全員海軍兵学校の卒業生です。
きわめて人数が少なく仲がいい。
日本海軍伝統の責任に対する処置と言えるでしょう。

その後南雲は、第3艦隊の司令長官など歴任し、1944年7月サイパンで戦死。

日本海軍の不敗神話が崩れ、大敗北を喫したミッドウェー・・・
以後、アメリカとの戦いで、日本が優位に立つことはありませんでした。
この敗北を知られると、勝てない戦争の意味が解らなくなってしまう。。。

ミッドウェー海戦について、陸軍は的確な評価をしています。
戦争の規模について再考しなければならない時期であると・・・。
でも、それは、“致し方ない”
ということで、国民の精神によって乗り切ろう・・・となったのです。

日本は、総括をしない国・・・総括すれば、責任が明確になってしまいます。

この体質は・・・今も変わらない???

このミッドウェーから何を学べるのでしょう???
それは、議会、政治家の役割、あり方です。
1937年以降、特別会計予算の7割だった空母予算。
日本人らしい自己満足的な作戦・・・
隠さないで総括すること、それが必要です。

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