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大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:山本勘助

決戦!川中島

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長野県北部に位置する盆地・善光寺平・・・
今から450年ほど前、戦国最強と謳われた二人が刃を交えました。
甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信です。

12年間、5回にわたり激突した川中島の戦いです。
どうしてこの場所で5回も戦わなければならなかったのでしょうか?

武田信玄は、1521年武田守護・武田信虎の嫡男として生まれました。
21歳の時に、悪政をしいていた父を追放し権力を握ると・・・隣国信濃に割拠していた国衆を攻略し、信濃のほぼ全域を手中に納めました。

信玄から遅れること9年・・・春日山城で・・・
1530年越後守護代・長尾為景の末子として生まれます。
19歳で家督を相続すると、混乱していた越後を瞬く間に混乱していた越後を瞬く間に統一。
そんな中、信玄と謙信の運命を変える川中島の戦いが・・・!!

きっかけは・・・
1553年4月春日山城に、北信濃の国衆・村上義清がやってきて・・・
「信玄に我が居城を落とされたので、援軍をお願いしたい。」と言ってきたのです。
当時の信玄・謙信の唯一の緩衝地帯・北信濃は、勢力の小さい国衆・・・村上家・島津家・高梨家・・・が治めていました。
代々上杉との結びつきが強く、反武田としていました。
信玄の侵攻に、上杉を頼ってきたのでした。
義の男・謙信はこれに応じます。
しかし、この時、謙信にも信玄の侵攻を食い止める必要がありました。
越後、春日山を守るために!!
春日山城から川中島までは、直線距離で僅か50km。
北信濃を信玄に取られてしまうと、春日山城も危機に・・・!!
もう一つ互いが争う原因は、善光寺にありました。
善光寺は、川中島の戦いの場となった盆地の中にあって、この寺を支配することが戦のもう一つの目的でした。
善光寺は無宗派なので、一生に一度は善光寺参りと言われるように、全国から人々がやってくる経済の一大拠点だったのです。
善光寺を支配するということは、庶民に対して大きなアピールとなり、また、経済的にも大いに潤うという事なのです。
1553年8月、上杉謙信出陣!!
迎撃するために信玄も出陣!!そこが犀川と千曲川の間にある川中島だったのです。
12年間、5度にわたる戦いが幕を開けました。
この時信玄33歳、信玄24歳でした。

第1次川中島の戦い
両軍は、川中島で小競り合いを演じますが、上杉軍が優勢となると信玄は、塩田城に撤退し、籠城してしまいます。
川中島一帯を支配下におさめた謙信は、ひと月ほどで兵を引き上げていきました。
最初の戦いは、謙信の勝ちのような形となりました。

第1次の戦いで、川中島一帯の支配権を取られてしまった信玄は、侵攻を諦めたわけではありませんでした。
1554年駿河・今川義元、相模・北条氏康と三国同盟を結び、南の安全を万全に確保すると、北に!!
危機を感じた北信濃の国衆・高梨政頼、村上義清が謙信に助けを求めます。

1555年7月、謙信と信玄は、犀川を挟んで対峙することに・・・!!
第2次川中島の戦いです。
しかし、この2度目の戦いも小規模でした。
半年間にらみ合いを続け・・・この朝廷に乗り出したのが、今川義元でした。
義元は、境界を犀川と定め、武田がすでに攻略していた土地を返還するという信玄にとっては不利な条件で和睦させます。
武田軍の補給がこれ以上続かず、戦をすることが出来なくなっていたのです。

1557年、第3次川中島の戦い
信玄がこの講和を破ります。
信玄の動きを知った謙信は、北信濃に出てきます。
川中島で戦いますが・・・この時も、信玄は積極的ではありません。
謙信にけしかけられるも応じず。。。しびれを切らした謙信は、4か月後越後に帰っていきました。

どうして3度対峙するも小規模だったのでしょうか??
それは、戦の発端です。
謙信は、あくまでも助けを求めてきた国衆たちのために出陣!!
「義」の武将と言われるように、領土的野心はありませんでした。
謙信は、越後防衛のため・・・それ以上は戦う必要がなかったのです。

信玄が守りに徹したのは・・・
謙信の兵力があまりにも強い事を知っていたので、出来るだけ損害を出さずに個別に戦っていました。
つまり、謙信の方が、決着を付けたがっていたのです。
信玄はその意図を見抜いていました。
なので、専守防衛、籠城・・・な作戦をとっていました。
つまり、第3時までの戦いが小規模だったのは、武田信玄が積極的に攻めなかったからなのです。

さらに、戦のもう一つの理由だった、善光寺・・・
第3時の戦いの間に、それぞれが、「越後善光寺如来堂」「甲斐善光寺」と移したとし、ある程度の経済的安定を達していました。
激しい戦を繰り広げる必要性がなかったのです。
周辺の村々で受けた人々の被害は甚大で、農地は荒れ果て、農民の1/3が巻き込まれ亡くなったり離散したと言います。

第4次の戦いの直前、川中島西部の6つの村は、戦で家や農地が荒らされては困ると、武田上杉両軍に、村を戦場にしないように願い出ます。
すると村にあった杉に幕が張られ、これが停戦ラインとなり村は守られました。
そして、この幕の向こうで行われたのが、激戦!!第4次川中島の戦いです。
ついに両雄が激突!!


長野県長野市八幡原史跡公園は、最も激戦となった4度目の戦いの舞台となった場所です。
1560年、信玄が上杉軍に備えるために、軍師・山本勘助に命じて川中島の近くに海津城を築城したことでした。
1561年8月14日、北信濃から1万8千の兵が・・・北信濃から武田を追い出すべく春日山城を出陣!!
善光寺に5千の後詰を残し、川中島の妻女山に1万3千の兵が!!
狼煙によってこれを知った信玄は、8月18日に1万7千の兵を出し、甲府を出発!!
29日には3千の兵が籠る海津城へ!!
これまでの戦いに比べ、両軍ともに圧倒的な数です!!
雌雄を決する時が・・・!!

どうして第4次川中島の戦いは大規模なものとなったのでしょうか??
お互いに、相手を戦い潰そうと覚悟を決めての戦いでした。
それは、第3次の戦いの後、お互いの立場が大きく変わったことが関係しています。
武田信玄は、1558年に第13代将軍・足利義輝に信濃守に補任されています。
名実ともに、信濃の支配者となり、信濃の平定は、信玄にとっての大義名分となったのです。
謙信は、1561年に関東管領・上杉家を継いでいます。
この関東管領は、鎌倉公方の補佐役ということで、関東支配を任されたという正当性があり、関東の北条を攻めるためには、北条の同盟国であった武田が邪魔だったのです。

両者に大義名分が出来たので、決着をつける必要があったのです。

1561年第4次川中島の戦い
先手を打つ信玄!!
1561年9月9日深夜・・・
海津城から別動隊1万2千が出発します。
謙信の布陣する妻女山の裏手に回るためです。
信玄自らは、本体8千を率いて八幡原へ!!
夜明けとともに別動隊が、裏から奇襲をかけ、攻めて謙信たちを妻女山から追い落とし、待ち伏せしていた本体と挟み撃ちにしようと考えていました。
啄木鳥戦法で、軍師・山本勘助が授けたと言われています。

しかし、これは謙信に見破られました。
海津城からの夕飯の支度の煙がいつもより多いことに気付いた謙信は、武田軍がその夜に動くことを察知!!
別動隊が来る前に、ひそかに妻女山を降りると、武田本体が向かっていた八幡原に先に布陣!!
作戦が見破られてしまった武田軍は、序盤で劣勢になってしまいました。

もう一つの理由が・・・気象。
9月10日早朝、武田・上杉両軍は、八幡原の至近距離に布陣していました。
戦いがあったこの日、今の暦に直すと10月中旬。
この時期は、盆地である川中島は、特に寒暖差が激しく、さらにこの場所は川が多く流れていて・・・
川中島では秋から冬にかけて、先が10mも見えない濃い霧(蒸気霧)が発生するのです。

決戦前日の放射冷却、9月10日は冷え込みました。
濃い放射霧が起こり、武田軍本体と上杉軍本体は、お互いの距離感がつかめないまま布陣することとなりました。
そして夜が明け霧が晴れると・・・目の前に敵が・・・!!
啄木鳥戦法を見破っていた上杉軍は、敵が近くにいることを想定していましたが、武田軍は、よもや目の前にいるとは思わず、劣勢となります。
上杉軍は、「車がかり」の陣形で襲い掛かります。
その激戦の中・・・信玄の弟・信繁が討ち死にします。
信繁は武田家のNo,2で、軍略・見識共に優れていた、戦国屈指の武将でした。
真田信繁の名は、父・昌幸が、武田信繁のような名将になってほしいと付けたと言われています。
この戦で啄木鳥戦法を提案した山本勘助も、責任を感じ、敵陣に突っ込んで壮絶な最期を遂げます。

戦の中盤・・・有名な信玄と謙信の一騎打ちが・・・!!
謙信は、武田軍の陣中深く白馬を走らせ、信玄の本陣に突撃!!
信玄に真っ向から斬りつけました。
信玄は手にした軍配でこれを受け止めます。
三度振り下ろされた刀によって、信玄の軍配はズタズタになったと言われていますが・・・
信玄の部下の助太刀で、謙信はその場を去り、決着はつかなかった。。。
これは本当にあったのでしょうか・・・??

しかし・・・これが語られたのは江戸時代の事。
「甲陽軍鑑」で書かれています。
伝承はあったようです。が、断定はできていません。
謙信が刀を抜いて戦ったということは間違いありません。
が、相手が信玄だったということはわからないのです。

啄木鳥戦法を見破られているとも知らず、上杉軍の背後に回ろうとしていた別動隊は・・・??
1万2千が妻女山につくも、もぬけの殻・・・
作戦失敗に気付くも、時すでに遅し!!
本体の危機に山を駆け下ります。
そして、別動隊によって挟み撃ちにされてしまった上杉軍。。。
形勢逆転!!
謙信は、即座に撤退し、命からがら引き揚げて行ったのでした。
激闘の4時間!!

武田軍  死者4,600余人   負傷者13,000余人
上杉軍  死者3,400余人   負傷者  6,000余人

こうして日本の合戦史上最大の激戦は、終わりを告げたのでした。

3年後・・・最後の戦い・・・第5次川中島の戦いとなりますが・・・激戦とはなりませんでした。
にらみ合いが60日間続き、撤退します。

川中島の戦いは、12年間で5回にわたって繰り広げられた理由は・・・
謙信が北信濃の国衆を助けるためだったことと、信州善光寺がもたらす利権をめぐってのことでした。
もう一つ目的があったと言われています。
それは・・・戦が行われた季節の秋・・・!!
どうして5回の川中島の戦いは秋に行われたのでしょうか?

信濃国は、武田信玄と上杉謙信の取り合いの場となっていました。
信玄は信濃の土地を自らの領地とし勢力を拡大していきましたが・・・
謙信は領土的野心はありませんでした。もちろん信濃も奪っていません。
領土の取り合いでなければ、二人の目的は・・・??

ルイス・フロイスは、日本の戦についてこう書いています。
「われわれヨーロッパでは、土地や都市や村およびその富を奪い合うために戦う。
 日本では、戦争はほとんどいつも、小麦や大麦、米を奪うために行われる。」と。

日本の戦争は、領土を奪うためではなく食料を奪うためでした。
謙信も例外ではなく、今でこそ米所の新潟は、当時の米は寒い所では育ちにくく、よそから奪う必要がありました。
謙信は生涯を通じて10回以上関東に出兵していますが、食料確保のためだったと言われています。
1566年謙信が小田城を攻め落とした時は・・・謙信の指図で捕虜たちの人身売買が行われていました。
しかし、これは当時の戦国大名が皆やっていたことです。
東日本は激しいもので、武田信玄もやっていたことです。

川中島の戦いが、秋にやっていた・・・収穫期にやっていたのは、収穫期に合わせて農作物を略奪するためだったのです。

5回の戦いの勝者は・・・??
川中島一帯は武田の領土となり、謙信は高梨、島津、村上を本領に返すことはできませんでした。
武田の優位となったのです。
が・・・謙信は、この時、自分を頼ってきた国衆を家臣として組み込むことが出来るようになり・・・謙信も大いに利得があったようです。
川中島の戦いで、お互いをライバルと認め合うようになった信玄と謙信。
しかし、お互いの戦いに時間を費やしている間に、周りはすっかり変わっていました。
信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ・・・
これを契機に、信長が一気に躍進し、天下取りに進んでいきます。

川中島があったために、謙信と信玄は西に向かうことが出来ません。
早期に決着がついていたら、お互いがもっと西に進出していた可能性があります。
12年にわたる川中島の戦いが、信長の勢力拡大につながってしまったのです。

戦国の龍虎と称えられた信玄と謙信。
川中島の戦いが、こんなに長く続かなければ・・・戦国の勢力図が変わっていたかもしれません。




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それは、現代例えれば国境紛争・・・そして、屈指のライバル対決・・・川中島の戦いです。

甲斐の虎・武田信玄VS越後の龍・上杉謙信
武田軍の啄木鳥戦法、信玄と謙信の一騎打ち・・・後世語り継がれる名場面を生んできました。
戦いの舞台・川中島は、長野県北部にある長野盆地にあります。
そしてそこは、両者の国境でした。
川中島の戦いは、12年、5回にわたって行われました。
しかし、資料が少なく、戦国史上最も謎に満ちた戦いと言われています。

その謎を紐解くのは・・・大地に刻まれた山城でした。
ここは、日本有数の城郭密集地帯で、城取り合戦だったのです。

膠着する戦況・・・その打開のために、信玄には二つの選択肢がりました。
そしてそれは、大坂の陣にも大きな影響が・・・!!

武田信玄と上杉謙信謙・・・二人の決戦の舞台となったのが、川中島。
戦国最強と謳われた二人が繰り広げた死闘!!
それは、互いに譲れない戦いでした。

甲斐源氏の嫡流で、武田家の嫡男として生まれた信玄は、21歳の時に周りから疎まれていた父を追放!!
実力で当主の座をえました。
以降。。。甲斐を中心にして領土を広げていきます。
一方、19歳で越後守護代の家督を継いだ長尾景虎・・・のちの上杉謙信は、内乱の続く越後を3年で治め、初陣以来負けなしの戦巧者としてしられていました。
二人の領国の間にある川中島は、村上氏の勢力下にありました。
信玄と謙信が対立するきっかけとなったのは、1553年の4月・・・武田信玄が北信濃村上氏を破り、川中島に破竹の勢いで進攻したことに始まります。

どうして信玄は北信濃に進攻したのか・・・??
領土の拡大と・・・戦国時代は飢饉など風水害が多く、米がとれないこともあり、甲斐全体が食糧難になり・・・穀倉地帯の信濃へ侵攻したのではないか??と言われています。

当時、甲斐を天変地異が襲いました。
台風が家屋をなぎ倒し、疫病が蔓延・・・
大地震によって多くの人が命を落としました。
川中島は、信濃随一の穀倉地帯・・・信玄にとっては、領国経営を安定させるためにも北信濃を・・・!!
それは、信玄の生き残る道でもありました。
一方、敗れた北信濃の豪族は、謙信を頼って越後に逃亡!!
謙信は、北信濃の窮状を救うべく、義のために立ち上がったのです。

1553年9月、第一次川中島の戦い
この戦いは局地戦に・・・20日間で終了!!

次なる戦いを見据えて信玄が動きます。
駿河の今川、相模の北条と婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟締結!!
同盟を結ぶことで、東と南の憂いを払い、北の謙信との対決に供えます。
川中島を制するために、信玄が利用したのが山城です。
信玄は、山城を行く先々に築きながら、川中島への進攻を続けます。
川中島周辺には、武田・上杉両軍の山城が分かっているだけでも50以上残っています。
川中島の戦いは、最前線に作った城を採るか、守り切るかの城取り合戦だったのです。

1555年4月、第二次川中島の戦い。
犀川をはさみ両軍が布陣します。
この時、戦いの争点となった山城が・・・上杉川の旭山城です。
信玄は戦いの直前、旭山城を調略し、武田側に寝返らせていました。
信玄はこの城に援軍3000、弓800張、鉄砲300挺投入しています。
謙信にとっては、この城が存在するだけで・・・思い切って武田に戦いを挑めません。
膠着する戦い・・・200日という長期間になってしまいました。
戦が長期間になると、武田軍が不利になります。
川中島から上杉の居城・春日山まで80㎞、武田側は甲府まで160㎞も離れていて食料運搬は困難となってきます。
さらに・・・雪に閉ざされてしまう・・・!!
武田信玄にとって我慢の限界が・・・今川義元に仲介を頼みます。
上杉の提示した条件は、北信濃の旧領復帰と旭山城の破却でした。
信玄はこれを受け入れ、和議が成立!!
決着をつけることができなかった信玄・・・。

一進一退の戦い・・・終わりの見えない戦いに終止符を打つために、武田信玄はどう動く??

1557年、両者は第三次の戦いに・・・
決着はつかないまま兵を引き・・・最初の衝突から7年が経ってしまいました。
甲斐では飢饉が深刻の一途をたどっていました。
当時の信玄の状況では、同盟を結ぶ北条や今川には進出できない・・・
一方、西は山岳地帯・・・やはり北の川中島に向かうほかありませんでした。
何としても、北を手に入れなければ、飢饉に苦しむ領民たちのためにも・・・!!
どうする??信玄!!

①拠点を築く
これまでにない城を川中島に築いて拠点にする。
川中島を実効支配できるうえに、兵糧の供給にも悩まされることはない!!
しかし、上杉の居城から川中島までわずか2日、我が居城からは早くて6日はかかる・・・。
万が一、築城途中で攻撃されたら援軍は間に合わない・・・!!
狼煙・・・川中島に異変があった場合にすぐさま狼煙を上げると・・・
リレーすると甲府まで160㎞をわずか2時間で知らせることができます。


②上杉と講和
我が武田、上杉もまた最強に相応しい・・・講和をすれば、天下を手中に収めることも夢ではない!!
信玄は、敵である謙信を高く評価していました。
信玄が亡くなった場合・・・
「勝頼は謙信と和議を結ぶように。
 謙信に敬意を表して頼りにするがよい。
 謙信はそのように評してよい人物である。」
と、信玄が遺言していたと甲陽軍鑑にあります。

しかし、上杉と結べば、今川、北条と手切れとなるかもしれない・・・
もし、その両国から攻められたらどうする・・・??

上杉と北条は完投を巡って争いが絶えませんでした。
信玄が上杉と講和すれば、三国同盟が機能しなくなってしまう・・・!!
そんな時、信玄に大きな影響与えた・・・激震!!
1569年5月”桶狭間の戦い”!!
織田信長が、三国同盟の一角・今川義元を討ったのです。
当主が亡くなったことで、今川が弱体化していくのは明らか・・・これを機に豊かな南へ進出・・・??

関東管領就任の一大式典を挙行するために鎌倉にあった謙信。
チャンス到来!!川中島に一大拠点を置くことにした信玄!!
それは海津城でした。
海津城には450騎、2000もの軍勢が集められました。
わずか80日で作られたといわれています。

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海津城には当時の最先端技術が使われていました。それが丸馬出しです。
半円形の陣地となる丸馬出しは、敵が攻撃してきた場合、城を守る防御の拠点となります。
また、攻めに転じるときには敵を攻撃しながら二方向から出撃できるというほかの城にはない機能を持っています。

前面の防御は自然の要害・千曲川、後方には山城が守備!!
城の出入り口は丸馬出しを装備した海津城は、当時としては鉄壁の要塞でした。

1561年8月上杉軍出陣!!
関東から越後に戻った謙信は、川中島に向かって1万8000の大軍勢を動かします。
信玄の目論見通り、一大決戦の幕が上がったのです。
謙信現る・・・!!
狼煙はその日のうちに信玄のもとへ・・・!!
信玄の援軍が川中島に到着するまで海津城は持ちこたえることができるのか・・・??
ところが謙信は、海津城を横目に2㎞の妻女山に布陣します。
謙信も、信玄の到着を待っていた??
武田軍がやってきたのは遅れること10日後・・・警戒しつつ海津城へ・・・!!
軍議を行って決戦を行う方針を・・・それは山本勘助の啄木鳥戦法でした。
しかし、察知した上杉軍は、信玄の別動隊がやってくる前に信玄本陣を急襲!!
武田軍が崩れる中・・・一騎打ちが・・・??

しかし、この一騎打ち、上杉方の資料では、荒川伊豆守が信玄に斬りつけたとなっています。
こちらのほうが真相かもしれません。
その戦いの実像は・・・??
霧の発生しやすいこの土地で・・・
1560年9月10日、第四次川中島の戦い。
当初戦いは上杉軍有利でしたが、数に勝る武田軍は優位に立っていきます。
攻防戦は、決着のつかない結末に・・・
わずか1日の戦いで両軍合わせて8000人討死したともいわれています。
これは、戦国史上最大の数ともいわれています。
この時、信玄は実弟・信繁を含め有能な人材を失っています。

1564年第五次川中島の戦いは、大規模な合戦もなく、両軍とも兵を引きました。
謙信と信玄・・・これを最後に直接対決はありませんでした。
以降、信玄は信濃を手中に収めるものの、越後の国境周辺は依然として謙信の支配下にありました。
川中島で戦いを繰り広げている間に、西では織田信長が台頭!!
天下は信長を軸に動き始めていました。
信玄が信長を討つために西へ向かおうとしたのは第五次川中島の戦いから8年後・・・
1573年12月、三方ヶ原の戦いで圧倒的な勝利をおさめ・・・しかし、信玄は信長と戦う前に病没・・・享年53歳でした。
信玄が亡くなったという知らせに謙信は・・・
「我、好敵手を失へり・・・世にまたこれほどの英雄男子あらんや・・・」と、号泣したといいます。
信玄の死から5年後・・・謙信もまた脳溢血で亡くなります。享年49歳でした。

信玄の死から40年余り・・・信玄が残した武田流築城術を駆使した出城が戦国時代最後の大合戦に出没します。
1614年大坂冬の陣における大阪城・・・真田丸です。
かつて信玄の配下にあった真田家の次男・真田幸村が総構えの外側に築いた出城は、大阪城に突き出た巨大な馬しだったのです。
真田丸にこもる兵は5000。。。対する幕府軍は総勢20万の大軍で大阪城を包囲!!
しかし、真田丸に殺到した兵は、幸村の秘策と真田丸の鉄壁の防御の前に敗れ去ったのです。
真田丸の攻防戦は・・・大坂方唯一の勝利となりました。

真田家は、徳川に着いた長男・信幸によって継承され、海津城は松代城と改められました。
信玄が築いた海津城をもとに作られた城です。
真田家は、この川中島の地で生き続け、江戸時代・・・明治維新まで続くこととなります。

真田丸・・・堀の外側に作られていたと思われていましたが・・・新しい発見により最近は、人口の堀ではなく、大阪城の幅200mの対岸に築かれており、独立した城として機能していたともいわれています。
真田幸村が築いた真田丸は、海津城の丸馬出しを基本とし、さらに独立した城の役割や、新しい機能も加えた幸村の独創的な出城でした。



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「八重の桜」・・・
山本八重子の尊敬する”兄”、山本覚馬です。

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私の中で、急上昇の西島秀俊さんが、演じてくれます。

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なで肩なので、着物がすっきり、良く似合いますね。

で・・・
私の好きな「白虎隊」では、竜雷太さんです。

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いつみても、どんな時も、私の中では「ゴリさん」です。黒ハート

で・・・
白虎隊でも、気の強い八重子を叱り飛ばしていましたが。。。
西島さんはどんなふうに演じてくれるのでしょうか???

では、山本覚馬さんって、どんな人???

会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男として鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれました。
山本・・・山本・・・遠祖は甲州武田の軍学者・山本勘助です。
そうなのです黒ハート
やはり、江戸時代は家業を継ぐのが当たり前の世。。。それは、武士でも変わりませんでした。だから、軍学者です。るんるん

洋式砲術の研究のため、22歳で江戸に出て兵学者・佐久間象山の塾に学んだ後、会津で蘭学所を開設します。

1862 年、京都守護職に就任した藩主・松平容保に従い上洛、洋学所を開設し、会津藩士だけでなく諸藩士や新選組にも洋式砲術を教授しました。

長州と戦った「禁門の変」では砲兵隊を率いて勲功を挙げるが、眼病を患い失明同然の状態となります。
この失明は、白内障とも砲弾の破片のせいとも言われています。

鳥羽・伏見の戦で薩摩軍に捕えられてしまいます。

幽閉中に新国家の青写真を描いた「管見」を新政府に建白、岩倉具視、西郷隆盛たちから高く評価されることになります。

軍学者、砲術指南役ということで、体育会系みたいな感じもしますが・・・
なかなか、教育や信仰にも篤い人です。


榎本武揚が、明治維新にとって必要な人物だったように、この山本覚馬も才能に満ち溢れた人のようです。
どんなふうに演じてくれるのか、楽しみにしています。黒ハート

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武田信繁って誰?
最近忙しいのか、テレビを座ってみることが出来なかったので、ビデオ、いっぱいたまっています。

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今回は、やっと見ることが出来ました。THE ナンバー2.

自ら二番手を選んだ男~武田信繁です。

ほんと、誰?ですが、武田信玄の弟です。

信玄のNO,2は、「山本勘助」といわれていますが、それは、ほとんどが作り話です。山本勘助は、軍学書「甲陽軍艦」に登場する軍師で、武田には山本菅助という人間は存在するのだけれど、軍師としての山本勘助は存在しないのです。

武田家の本当のNO,2は、信玄の四才下の弟「信繁」らしいのです。

信玄の父・信虎は、ひょうきんで臆病者の信玄よりも、文武両道の信繁に家督を譲ろうとしていたらしいのです。えっつ!!、私の戦国時代最強の信玄が、臆病者だったなんて!!!。です。

「かっこいいよな、風林火山」って、思っていたのですが・・・。

そして、それを知った信玄は、家臣に担ぎ上げられ父・信虎を追放、この時、弟は父につかずに兄・信玄についたのです。


信繁が信玄についた理由
①父が戦争ばかりをして、民に嫌われていたから
②武田家は、家臣も含めた合議制で、別に武田家としての勢力が強いわけではなかったから


そして、家臣が起こしたクーデターにより政権をとったものの、家臣をどうやってまとめるか。その為に、信繁が分国法(甲州法度之次第)を作成しました。


この法律では、第55条に自分自身もこの法律の捌きを受けるとしています。これは、当時、自分が法律!!みたいな君主が多かったので、珍しいのです。

農民には、信玄堤などダムや堤防を作って人気を取り、この法律で家臣共々まとまり、やっと武田の当主としての地位を確立したのです。

信繁は、左馬助の位置にあり、軍馬の調達、兵器の購入、後方支援を行っていました。ちなみに、武田軍は甲州騎馬隊として有名ですが、もうこの時代合戦では足軽が出現していて斬馬刀で馬の足を狙われるので、騎馬隊が活躍することはなく、騎馬隊は機動力の活用にあったとされ、そのスピード勝負が武田軍の真骨頂だったようです。

この信繁の家訓は、信玄の偉大な足跡に多大な影響を与えたといわれており、父の反面教師なのか家臣を大切に慈悲の心を持って接することが謳われ信玄はその家訓の最大の理解者であり、実践者であったそうです。


信玄はこの頃海に出たかったが、南は北条、今川の三国同盟があるので北に上がるしかなくここで上杉謙信との有名な戦い・川中島の戦いが勃発します。

信玄はいかにして戦わずして勝つか、ということを考えており、今でいうイメージ戦略として・・・

①風林火山の旗を必勝の旗とした
②真っ赤な赤備(甲冑)は信玄最強のしるしで、これは後に織田信長が取り入れています。

第四回目の川中島の戦いで謙信に奇襲をかけられ絶体絶命のピンチの時、信繁が最前線で戦い、壮絶な死を遂げています。この、信玄と謙信が刀を交えた銅像がありますが、一説によると謙信と刀を交えたのは信繁かも?って、いわれています。つまり、信玄の身代わりになって戦ったといわれているのです。

その土地は信玄のものとなりましたが、大損をしたのは信繁を失った信玄だったのです。その後、信繁がいなくなったことにより武田家は、内部分裂をおこしていきます。

この信繁の家訓は、江戸時代になっても武士の心得として読みつがれていました。

何事にも退屈すべきでないこと。
「孟子」にいう一心に努力する者こそ偉大な人物である

その後、信繁という人物が現れます。その信繁とは、真田幸村のことです。幸村の父が、信繁を偲んでつけた名前で、真田幸村は大阪城に入った時、真っ赤な鎧を着ていたそうです。


ホント、THEなんばー2は面白いです。歴史も知っているようでなかなか知りません。私が、戦国最強と思っていた信玄が、ダメダメだったなんて・・・。でも、やっぱり私の中ではカッコいいですよ。

でも、いつの時代にもドラマがあって、ロマンがあるんだなってことでしょうか。まだまだ埋もれている賢人を知りたいなと思う今日この頃でした。




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