日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:山本権兵衛

昭和の選択です~~!!
昭和7年5月15日、海軍青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。
世にいう五・一五事件です。
殺害されたのは、首相・犬養毅。
憲政の神様と称された政治家の死によって、戦前の政党政治は終わりをつげ、日本は軍国主義を突き進んでいきます。
どうして犬養は、軍によって殺害されなければならなかったのか・・・??

「侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことであるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい」by犬養毅

満州事変を起こし、大陸侵略を謀る軍を真っ向から批判した犬養・・・
軍の暴走に歯止めをかけること・・・それは、政治家犬養の生涯の課題でした。
大正元年には憲政擁護運動を掲げ、政党勢力を結集して立ち向かいます。
軍の目論見を打ち砕いたその秘策とは・・・??

そして、首相として直面した満州事変。
犬養は密かに中国に使者を送り、和平交渉を行わせて事態を打開しようとしました。
和平まであと一歩だったと言われる密使外交・・・その真相とは・・・??

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東京・・・慶應義塾大学・・・政治家・犬養毅の原点ともいうべき場所が残されています。
日本初の演説会堂・三田演説館です。
郷里・岡山から上京した犬養は、明治9年慶応義塾に入学しました。
ここで、明治の言論界のリーダー・福沢諭吉と出会い、生涯をかける目標を見出しました。
言論で国を動かす政治家への道・・・!!
福沢は、日本にも西洋流の議会政治が必要だと考え、明治13年慶応義塾で模擬国会を開いています。
26歳の犬養も、弁士としてその演壇に立ちました。
反対論者の発言をことごとく論破していく犬養の姿を同級生は・・・

”颯爽たる風貌は満場を圧し、警句は口をついて出る有様で、既に将来の大宰相となる貫禄があった”

当時、日本はまさに言論の時代へと舵を切ろうとしていました。
自由民権運動の勃興です。
明治14年には板垣退助が自由党を、翌年には、大隈重信が立憲改進党を結成。
議会政治を求める機運が高まっていました。
明治22年・大日本帝国憲法が発布、明治23年・帝国議会開設されました。
選挙権を持つ者は、全人口の1%強と限られていましたが、立憲政治はようやくその端緒につきました。

この頃、犬養は福沢のつてで大隈重信の立憲改進党に参加、政治家として歩み始めていました。
議会開設に先立つ第1かい衆議院議員選挙で犬養は36歳で初当選を果たします。
待ちに待った議会政治の始まり・・・しかし、その前に立ちはだかったのが藩閥政治でした。

当時の政府は、明治維新を主導した長州藩や薩摩藩出身のものが要職を占め、議会の意向に左右されない独断的な政治を行っていました。
政党側が、政費節減・地租軽減を主張する民間政党を政府が弾圧!!
暴力や買収、選挙妨害が横行します。
こうした圧力に、自由党・改進党の二大政党の中にも次第に藩閥政府との接近を図る勢力が表れます。
それに、政党間の対立も加わり、議会政治は混迷を深めるばかりでした。
このままでは理想の政治は実現できない・・・やがて、犬養と藩閥との対立は、ある問題で決定的となります。

発端は、明治37年の日露戦争勃発です。
ロシアに勝利した日本は、満州南部に鉄道敷設などの権益を獲得しました。
当時、陸軍を掌握していた長州閥の山県有朋・・・。
山県は、ロシアとの再戦を見据え、戦時兵力を従来の2倍以上に増強することや、大陸利権の更なる拡大を主張しました。
犬養は、これを真っ向から批判しました。

”日露戦争後の戦後経営は大失敗だ
 原因は、国力に見合わぬ国防計画と、軍事計画にある”

犬養は、国家は経済を主として、軍備は従にしなければならないと思っていました。
日露戦争後、ロシアを敵とすべきではないと考えていました。
満州はマーケット・・・経済的に結合して、外交で平和的にやっていこうと考えていたのです。
しかし、その主張は、長州閥の認めるところではありませんでした。

大正元年、陸軍は政府に2個師団増設を要求。
時の首相は、西園寺公望・・・立憲政友会の総裁でした。
政友会は、明治33年に伊藤博文によって創設されました。
それを引き継いだ西園寺は、藩閥勢力となれ合い、長州閥の桂太郎と交互に政権を担当してきました。
しかし、財政難の中、軍への更なる支出はあまりにも負担が大きかったのです。
西園寺が要求を拒むと、犬養は陸軍大臣を辞職させ・・・
大正元年、西園寺内閣総辞職に追い込むという策に出ました。
後任の首相には、桂太郎が就任。
軍の要求は実現するかに見えました。
この時、犬養は58歳・・・立憲主義を掲げ、自らの政党立憲国民党を旗揚げしていました。
藩閥の横暴に対し、犬養は決然と立ち上がります。

”この度の一戦は、小生の最後の一戦になるかもしれない
 万一敗れれば、全く政界を去る覚悟だ”

大正元年12月19日、歌舞伎座・・・犬養は、演壇に立ちました。
大正政変の幕開けです。

”今、政党人に一点の私心がなければ藩閥打破などたやすいことである!”

犬養には秘策がありました。
これまで藩閥との妥協を繰り返してきた政友会を倒閣運動に引き入れることです。
政友会もこれに応じ、党の論客・尾崎幸雄は犬養と共に憲政擁護運動を推進しました。
新聞には、連日2人の主張が掲載され、日露戦争後の重税に苦しむ民衆に藩閥の横暴をアピールしました。
そして迎えた大正2年2月5日・・・熱狂した民衆が議会を取り囲む中、犬養たちは桂内閣不信任案を提出!!
ところが、桂も反撃!!
宮中に働きかけ、政友会総裁・西園寺への勅語を引き出したのです。

「朕の意を体して争いは無事に収めよ!」

天皇の言葉を前に妥協に転じようとした西園寺・・・
しかし、犬養は、あくまで徹底抗戦を主張・・・政友会幹部にこう進言しました。

「西園寺公は、大命を奉ぜられるとともに、総裁を辞職なさるが良い
 政友会としては、最後まで憲政のために戦うべきが本筋である」by犬養毅

再開した議会で政友会は、不信任案を撤回せずと宣言、その断固たる態度と民衆の怒号を前に桂はついに内閣総辞職に追い込まれました。
藩閥の政治介入から、立憲政治を守り抜いた犬養は、尾崎と共に憲政の神様とたたえられました。
しかし、藩閥や軍との戦いは、まだ始まったばかりでした。

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大正3年、ヨーロッパを主な舞台に第1次世界大戦勃発。
直接戦場とならなかった日本では、軍需物資などの輸出が大幅に伸び、空前の好景気となりました。
資本家や財閥が潤う一方で、民衆は物価の高騰により厳しい生活を強いられました。
大正7年、富山を起点に米騒動が始まると、炭坑や都市の労働者の間でも社会的不満が爆発します。
各地で相次いで暴動が起こりました。
この状況を打開するために、犬養は政治をもっと民衆に開かれたものにすることが急務だと考えました。

”政治は、一部階級の独占たる迷夢より覚醒し、選挙権拡張を以て国民全体に国家維持の責任を負わすべし”

特権階級が政治をすると、それ以外の人の意見は反映されません。
社会的不満、社会的格差・・・第1次大戦後は、危機の時代でした。
国民みんながいろんな階層も協力して新たな日本を作っていかなければならない・・・!!

大正8年、選挙権拡大案を提出。
有権者の納税額と年齢を引き下げ、来るべき普通選挙への布石を打ったのです。
ところが、この案は時の首相だった政友会の原敬によって棚上げにされてしまいます。
政友会の支持基盤は、既に選挙権を持つ地方の財産家が多く、普通選挙の実現には後ろ向きだったのです。
その原が、大正10年、政治腐敗に憤る一青年にちょって暗殺されました。
その死は普通選挙ばかりか政党政治の流れをも停滞させてしまいます。
続く政権の座には・・・
大正11年加藤友三郎(海軍大将)、大正12年山本権兵衛(退役海軍大将)、大正13年清浦奎吾(枢密院議長)・・・軍人や、藩閥政治の息のかかった官僚の政治家が就き、やがて政党人はすべて閣僚から排除されるようになったのです。

犬養自身も逆境にありました。
大正11年、立憲国民党を内部分裂で解党し、革新俱楽部を結成。
そんな中、犬養は驚くべき一手を打ちます。
普通選挙をめぐって対立していた政友会・・・国民党から離脱した幹部の要る憲政会と敢えて手を結んだのです。
護憲三派の結成でした。
迎えた大正13年の総選挙・・・犬養たちは普通選挙を争点に戦い、民衆の支持を得ました。
284議席獲得という大勝の結果、憲政会の加藤高明を首班とする護憲三派内閣成立。
そして、大正14年、犬養悲願の普通選挙法成立。
納税額の制限は撤廃され、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられることになりました。
法案の成立を見届けた犬養は、政界からの引退を宣言します。
残された革新倶楽部の党員は、政友会に合流させました。
犬養も71歳となっていました。

長野県富士見町・・・白林荘・・・政界を退くにあたり、犬養が終の棲家として建てた別荘です。
犬養は、夜な夜な青年たちと囲炉裏を囲んで酒を酌み交わし、彼等に普通選挙の意義を説いたといいます。
モンペに身を包み、気さくに村の人々と接した犬養・・・
その思い出は今もこの地に語り継がれています。
激しい政治闘争から離れ、犬養はこれまでにない穏やかな日々を送っていました。

昭和3年6月、中国東北部の満州で、一大事件が起きました。
現地の部隊・関東軍が独断で、満州の実力者・張作霖が乗った電車を爆破、殺害したのです。
大陸における軍の暴走は、日本の政局を大きく揺るがしました。
昭和4年7月、政友会・田中義一内閣が事件の処理を巡って天皇の不興を買い総辞職に追い込まれました。
当時の議会は、政友会・民政党の二大政党制が交互に政権を担いました。
失政によって内閣が倒れた場合、野党第一党の当主に組閣命令が下るのが慣例でした。
7月・・・民政党内閣成立・・・
そこに、アメリカに端を発する世界恐慌の嵐が襲い掛かります。
民政党内閣の緊縮財政が民衆の暮らしを直撃・・・米や繭の暴落を引き起こしてしまいます。
農村の生活は窮乏を極めました。
一方、野党の政友会が新たな総裁として迎えたのは、既に政界を引退していた犬養でした。
この時、75歳・・・少数政党出身で、党内基盤は弱い・・・しかも、政友会には軍に同調して大陸権益の拡張を図り勢力も多かったのです。
しかし・・・昭和4年、犬養、75歳で政界に復帰。

”惨烈深刻の不景気に対する救済に、余命を捧げたい”

犬養が直面したのは、止まらない軍の暴走でした。
昭和6年9月、満州事変が勃発・・・政府の不拡大方針にも関わらず、現地・関東軍は矢継ぎ早に戦線を拡大します。
これに呼応して、10月・・・国内で陸軍のクーデター計画が発覚(十月事件)・・・首相を暗殺し、軍事政権を樹立するという目論見は未遂に終わりました。
この危機に、犬養はいち早く反応しました。
事件発覚直後、当時天皇の重臣・元老となっていた西園寺公望に使者を送ってこう告げます。

”陸軍の根本組織から変えてかからなければならないが、そうなると政友会一手ではできない
 どうしても、連立していかなければ駄目だ”

議会で多数を占める民政党の若槻内閣と連立を組み、軍を押さえる・・・協力内閣案です。

しかし、経済政策をはじめ、両者の隔たりはあまりにも大きかったのです。
11月に入ると犬養は、協力内閣案を撤回。
一方、与党・民政党でも、独自に協力内閣案が議論されていました。
しかし、推進派と慎重派の間で内紛が勃発・・・閣内不一致の末に、総辞職してしまいました。
慣例に従えば、次の首相は野党第一党政友会の犬養でした。
12月12日、首相指名の権限を持つ元老の西園寺から呼び出しが・・・
西園寺はこう切り出します。

”先ほど次の首相は犬養しかないと陛下にお伝えした
 陛下は軍が国政や外交に立ち入ることを深く憂いておられ、強力な内閣を作ってほしいと切望しておられる”

しかし、ここで西園寺は犬養に選択を突き付けます。

”協力内閣の事が話題となっているようだが、どうお考えか?”

すでに、与野党ともに手を引いた協力内閣案が、再度蒸し返されたのです。

単独内閣か?それとも協力内閣か??

犬養毅・・・第29代内閣総理大臣に就任。
選んだのは政友会単独内閣でした。

その頃、大陸では関東軍は更なる戦線拡大を目指し、各地で中国軍との衝突を繰り返していました。
難局のさ中、首相の大役を引き受けた犬養・・・しかし、そこには確かな成算がありました。
犬養の別荘に一本の白松が・・・中国の革命家・孫文から贈られたものです。
かつて犬養は、孫文の革命運動を援助したことがありました。
当時の中国国民政府のTOPは、その息子・孫科でした。
この人脈で、事変を収拾し様としたのです。
組閣の3日後、犬養は共に孫文を支援した萱野長知を呼び出しこう告げます。

”君ひとつご苦労だが現在の中国内情を探り、深刻な状態にある時局打開の方途を見出してくれないだろうか?”

現地に親日的、日本と交渉できるような政権を仕立てる・・・あくまでも、中国という枠組みを崩さない形で解決するのが犬養の意図でした。
同じような考え方で中国側も最低gんギリギリ譲歩できるラインとして持っていたのです。
犬養との間で、うまく日中関係を持っていきたい・・・

12月下旬、中国に渡った萱野は、早速交渉を開始・・・
事態の進展を電報で伝えます。

”中国政府は、満州問題解決のため、東北政務委員会を組織
 日本と直接交渉に入り、撤兵について話し合う準備がある”

ところが、犬養からの返答は一向に届きませんでした。
ある人物が萱野からの電報を握りつぶしていたのです。
内閣書記官長の森恪・・・軍と同様、満州の直接支配を考えていた森が動いていたのです。

昭和7年1月28日、上海事変勃発
海軍陸戦隊と中国軍が交戦状態に入ると、中国側の態度が一気に硬化・・・交渉による解決の道は、閉ざされました。
しかし、78歳の老宰相は不屈でした。
5月1日、犬養はNHKのマイクの前に立ち、国民に語り掛けます。

”侵略主義というようなことはよほど今では遅ればせの事であるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい
 政友会の内閣である以上は、決して外国に向かってことを起こして侵略しようというような考えは、毛頭持っていないのである”

軍の侵略主義を、断固として否定した犬養・・・
それから2週間後、事件は起きました。
昭和7年5月15日午後5時・・・海軍の青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。

”まてまて、騒がぬでも話をすればわかる”

”撃て撃て、問答はいらぬ!!”

即死は免れましたが、弾丸は脳にまで届いていました。その日の午後11時26分・・・犬養毅死去。

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犬養の死は、時代の大きな転換点となりました。
政友会は、後継内閣の樹立に動きましたが、組閣の大命は海軍の長老・斎藤実に下りました。
以後、政党内閣は生まれることなく、日本は軍主導のもと、戦争への道を突き進んでいきます。
青年将校の放った銃弾は、犬養の命を奪っただけでなく、戦前の政党政治の命脈をも断ち切ったのです。

近年、亡くなった直後の犬養の顔をかたどったデスマスクが公開されました。
まるで眠っているかのような静謐な表情・・・
犬養ならその後の日本が歩んだ道をどのように思い、どんな言葉を投げかけただろうか??

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1923年9月1日午前11時58分、M7.9の大地震が東京を襲いました。
関東大震災です。
この未曽有の地震から復興させたのが、帝都復興院総裁・後藤新平です。
焦土と化した帝都・東京・・・
国家のピンチにどのように復興させたのでしょうか?
後藤の大胆なビジョンとは??

関東大震災から東京を蘇らそうとした後藤新平。。。
復興の理想と政治の現実・・・
その葛藤と決断とは??


関東大震災翌日に発足した山本権兵衛内閣・・・
そこで震災復興を任されたのが、内務大臣の後藤新平でした。
大正12年9月1日関東大震災が起き・・・大地震が関東一円を襲いました。
東京横浜では、火災が起こり、甚大な被害がありました。
死者行方不明者合わせて10万人・・・

首都東京では、下町を中心に43%が焼失・・・
江戸時代から変わらない木造住宅に被害が集中しました。
人々は狭い道に逃げ場所を失いました。

その5日後・・・「帝都復興ノ議」を提出する後藤新平。
経費は原則として国費で・・・
被災地域の土地は買収し、土地の整理を実行す。
この土地整理計画は、”焼土全部買い上げ案”といいました。
東京を防災都市へと作り上げるのです。

壮大な帝都復興のビジョン・・・それは、後藤の経験に裏打ちされたものでした。
後藤は、岩手県に生まれ・・・16歳で医学校に入学、2年後には医者としてデビュー・・・
公衆衛生の技師として内務省衛生局で頭角を現し、35歳の時に内務省衛生局長に就任。
その頃後藤が取り組んだのが・・・日清戦争の帰還兵の検疫事業でした。
広島県似島に検疫所を作り、蔓延を水際で食い止めるのです。
帰還兵23万人の検疫を行います。

功績を認められた後藤は・・・自らの理想を実現することになります。
日清戦争によって日本の植民地となった台湾。
41歳で、台湾総督府の民生局長となった後藤は、中心都市台北で、大規模なインフラ整備に取り掛かります。
当時、40m・・・これほどまでに大きな道路を作るのは、かなり未来を見越した計画だったように思えます。
マラリアやペストが流行っていたので、上下水道を整備し、水道の上に大きな道路を作ります。
碁盤目状に市街地を作っていきます。

台北には8haもの大きな公園を作ります。
公園は、市民の憩いの場だけでなく、いざという時の避難所としても欠かせませんでした。
どうしてこんなことが実現できたのでしょうか?

そこには後藤の意思を表現する、優秀な部下たちがいました。
人材の確保に内務省と喧嘩をすることもありました。
その後も大規模な都市の建設に取り掛かります。
49歳の時・・・南満州鉄道初代総裁に就任。
大連など拠点となる都市を作りかえていきます。

帰国後は・・・東京市長にもなっています。
東京でも大規模な都市改造を仕様としていたところに関東大震災でした。
この復興にこそ、後藤の経験が生かされる時でした。

道路は裂け、住宅は焼失・・・
壊滅的な被害を受けた東京・・・この非常事態に復興計画を立てるために政府は臨時期間”帝都復興院”を創設します。
後藤新平が総裁となり、官僚専門家たちが集められました。
後藤は彼らと共に、連日深夜までプランを立てていきます。

復興計画は・・・被災した地域はもとよりそれ以外の地域・・・東京都市全体の復興を考えたプランでした。
大幹線道路網の構築が基本とされ・・・
自動車時代の到来を予測するかのような道幅です。

さらに近代都市に欠かせない公園も作ります。
災害時には巨大な避難所となることを見越して・・・
後藤が目指したのは、人の命を多面的に守ることを備えた都市でした。

予算は・・・??
土地の買い上げも含め・・・当時の国家予算のおよそ半分・・・7億200万円・・・
その調整に取り掛かります。

帝都復興院で計画立案
     ↓
帝都復興審議会で審査(官僚と政財界実力者で構成)
     ↓
帝国議会で正式に決定!!

しかし、帝都復興審議会で思わぬ壁が立ちはだかります。
その急先鋒が、当時の二大政党・・・
政友会総裁・高橋是清と憲政会総裁・加藤高明・・・政界の実力者・伊藤巳代治でした。
「この計画は、人民の財産権を軽視している!!
所有権を奪い取るものだ!!」

国民の権利を優先するべきだ!!
大正デモクラシーによって新興の地主階級の権利意識が強まってきた時代・・・
その支持基盤だった政党政治家たちは、その権利を守ることを求められていたのです。

審議会のほとんどが賛成し・・・予算は5億7500万円へと縮小されてしまったのです。
100年後を見越すか・・・復興を早めるか・・・決断を迫られていました。

震災からひと月後・・・
後藤と旧知の仲だったニューヨーク市政調査会専務理事のチャールズ・ビアードが来日。
後藤にアドバイスをくれます。
後藤の復興計画に対して・・・
「親愛なる友よ。
 世界の目は今、後藤の上にある
 歴史家は、1666年のロンドンの大火からの復興を指揮したクリストファー・レンの名は書き残すが、彼の計画を妨害した偏狭な国会議員の名前など覚えてもいない
 理想の計画を立て、実行することができれば、国民は将来を見通したあなたの先見性と不屈の勇気を忘れることはないだろう。」
と言っています。

しかし、3か月がたち・・・被災地は冬を迎えようとしていました。
たくさんのバラックには、将来の不安を募らせた被災者たち・・・
復興計画を待ち望んでいる!!

結局、後藤は計画縮小を受け入れます。
復興局建設局長の佐野利器が主張したのが”区画整理”です。
地権者から土地の一部を国に無償で提供してもらい、この土地で道路を広げ区画を整備する事業です。
しかし、土地の無償提供は・・・国による財産の没収・・・
地主や住民の猛反発を受けるのは明らか。。。
それでも後藤は、それを決断します。
決められた予算内での復興の理想実現を試みたのです。

ところが、12月の帝国議会で激しい抵抗にあいます。
高橋是清を総裁とする政友会が、予算縮小を突き付けてきたのです。
地方に支持基盤を持つ政友会は、東京に多額の予算が下りるのを認めなかったのです。
議会で後藤はさらに予算を2割削られ、4億6800万・・・
帝都復興院は事実上廃止されてしまいました。
おまけに国は、区画整理から大幅に撤退。。。

絶体絶命の後藤。。。
この窮地を救ったのが、後藤の腹心・・・当時の東京市長の永田秀次郎でした。
区画整理の主体を東京市に移し、区画整理を始めました。
各家庭でパンフレットを配り、啓もう活動をし、理解を求めます。
配布されたパンフレットは2万冊以上・・・

”狭くて災害に弱い町並みを・・・将来の子孫のために一掃すべきだ!!”

永田も市民に区画整理を訴えます。
永田と後藤が先頭に立ち、地主に土地の1割を無償提供してもらえるように求めます。

”便利になれば、土地の値段も必ず上がる!!”という考えも始まりました。

既成市街地での区画整理は世界で初めて。。。
史上類をみない計画が始まりました。
後藤の理想の都市へと・・・!!

被災地を60に分け、区画整理していきます。
燃えた地域の9割、3119ha・・・街が整然とした姿に変わっていきました。

区画整理を中心におこなった帝都復興事業・・・
東京は、災害に強く機能的な街へと変わっていきました。
そして1930年(昭和5年)3月26日、復興事業の完了を記念して、帝都復興祭が催されました。
100万人が詰めかける中・・・そこに後藤新平の姿はありませんでした。

復興の完成を見ずに、前年にこの世を去っていたのです。
その15年後・・・またもや東京は焼け野原となってしまいます。
東京大空襲です。
帝都復興で整備された道路や公園も甚大な被害が・・・
しかし、後藤が行った復興の礎は、今も東京に脈々と受け継がれています。

数々の機能的な幹線道路・・・
日本初のリバーサイドパークとなった隅田公園。
市民の憩いの場で、災害時には広大な避難所となる。。。
鉄筋コンクリートの学校も次々と建設されます。
耐震性に強い教室・・・
そこにある地下室は、東京大空襲の際には多くの子供たちの命を守りました。
都市の機能性だけではなく、人の命を守ろうとした後藤の意志は残されました。

そしてこのモデルは・・・全国の都市100カ所で戦争復興にに役立つのです。
後藤新平の街づくりは、時代と場所を越え、今も遺産となって残っています。


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秘密の国・薩摩です。

鹿児島が生んだ英雄・西郷隆盛・・・
薩長同盟や江戸城無血開城・・・維新の功労者となった鹿児島最大のヒーローです。

幕末最大のヒーロー・西郷隆盛は、下級武士の長男として鹿児島城下・下加治屋町に生まれました。
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侍の身分としては、御小姓与。藩の政治にかかわるどころかお城に入れるギリギリでした。
西郷の石高は、わずか41石。年収200万だったと言われています。
しかし、家族は10人だったとか。
客間を除いて1LDK。畳もそろわない板の間の家に10人も住んでいたのです。
そして、この下加治屋町には、大久保利通・大山巌・東郷平八郎・山本権兵衛・・・日本を牽引するそうそうたるメンバーが住んでいました。

ここで行われていた教育は・・・郷中教育。
郷中とは、城下で暮らす武士の子を区分分けしグループ化した組織。
稚児・6~14歳、二才・15~24歳、長老・25歳以上とし、子弟たちは、朝から晩まで薩摩精神を語ります。
教え教えられ・・・英雄が英雄を生む・・・そんなシステムでした。

その教育の筆頭は・・・負けるな!!
その始まりは、関ヶ原での敗北にあるようです。
毎年10月には妙円寺参りが行われています。
関ヶ原の合戦の苦難を偲び、城下から20km離れた徳重神社への詣でをしています。

イギリスのボーイスカウト・・・その原型は郷中教育と言われています。
薩英同盟が結ばれ・・・明治維新に・・・薩摩とイギリスが仲良くなり・・・そんな中、薩摩の教育がイギリスへ渡ったものだというのです。
リーダーが後輩のメンバーを見る。。。それは、グローバルスタンダードとして世界で英雄をつくっています。


幕末の名君・島津斉彬。
薩摩藩という一国の領主でありながら、世界情勢に精通し、世界に負けない国へと導いた名君と言われています。
薩摩藩の近代化を進めます。日本初の近代工場・集成館事業に携わり、日本初の写真撮影、日本初の洋式軍艦製造、日の丸を船尾につけたのも斉彬。
日本の近代化をはじめ、富国強兵・殖産興業を推し進めました。
さらに。。。西郷を取り立てたのも斉彬。
斉彬こそ、新しい日本を造った負けない名君なのです。

この斉彬。自らが釣ったサバにあたって当日に亡くなったと言われています。
その5年後、薩摩藩に最大の危機が・・・
1863年イギリス艦隊7隻が襲来。
生麦事件をきっかけのことです。

この戦いは、スイカで始まり蜜柑で終わったと言われています。
その薩摩の仰天作戦は???
西瓜売り決死隊。
その任務は、西瓜売りに扮した薩摩藩士80名がイギリス艦隊に乗り込んでそのまま奪おうというものでした。
しかし・・・作戦は中止。
その2日後に薩英戦争が始まります。

鹿児島城下が火の海に・・・それを救ったのは、斉彬の富国強兵でした。
負けない国づくり・・・
大砲でイギリス艦隊を砲撃・・・撤退させることに成功します。
この和解交渉が行われ・・・イギリスに温州ミカンを送ったと言われています。
ちなみにこの温州ミカン、イギリスではSatsuma Mandarinと呼ばれ、今でも愛されています。
そして・・・負けない国づくりはイギリスをも味方にし、ついに悲願の打倒徳川、明治維新へ。。。

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鹿児島のシンボル桜島。
桜島は、鹿児島と呼ばれていたことがありました。
南方の人が、籠のような船に乗ってきたから籠島。ということです。
しかし、火山が噴火するさまが桜の花びらが散ることに似ているから桜島と呼ばれるようになったとか。

関ヶ原の合戦でやぶれた島津義弘が、徳川家康に恭順の意を示すために謹慎していたのが桜島。
荒れた火山島での生活・・・ではなく、天然温泉と海の幸、山の幸の悠々自適の謹慎生活だったようです。

この桜島は宝の島。
火山灰が島に恵をもたらします。桜島大根と桜島小蜜柑。
桜島小蜜柑は、17代当主島津義弘が戦国時代に朝鮮半島から持ち帰ったと言われています。

薩摩切子。
天璋院篤姫に嫁入り道具に持たせたのが薩摩切子。
西洋からガラスの技術が入って間もないころ、この嫁入り道具は、藩の技術力を誇示すためのものでもありました。

島津斉彬が集成館事業を始め・・・近代化を進める一方で、薩摩の特産品を造ることにも貢献します。
しかし、斉彬が急死し、薩英戦争となり・・・薩摩切子は消滅。
いつしか幻の切子細工と言われるようになりました。

資料にも乏しく、復元は難しいとされてきましたが・・・
復元に成功しました。
透明のガラスの上に色つきガラスをかぶせた二重構造に、繊細なカット技術を使ってグラデーションを出す・・・江戸切子などにはないぼかしを世界初・・・開発しました。
製造期間はわずか20数年・・・現存するのは百数十種点・・・だからこその幻の切子なのです。

そして、最も特徴的なのが、薩摩の紅ガラス。
当時は日本にはまだ赤を発色させる技術はなかったのです。
斉彬公の自慢の紅ガラスでした。

様々な苦難をばねに、薩摩の人たちの心に刻まれていった“負けない精神”。
今も愛する伝統や文化にもしっかりと受け継がれた城下町でした。


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