昭和の選択です~~!!
昭和7年5月15日、海軍青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。
世にいう五・一五事件です。
殺害されたのは、首相・犬養毅。
憲政の神様と称された政治家の死によって、戦前の政党政治は終わりをつげ、日本は軍国主義を突き進んでいきます。
どうして犬養は、軍によって殺害されなければならなかったのか・・・??
「侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことであるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい」by犬養毅
満州事変を起こし、大陸侵略を謀る軍を真っ向から批判した犬養・・・
軍の暴走に歯止めをかけること・・・それは、政治家犬養の生涯の課題でした。
大正元年には憲政擁護運動を掲げ、政党勢力を結集して立ち向かいます。
軍の目論見を打ち砕いたその秘策とは・・・??
そして、首相として直面した満州事変。
犬養は密かに中国に使者を送り、和平交渉を行わせて事態を打開しようとしました。
和平まであと一歩だったと言われる密使外交・・・その真相とは・・・??
東京・・・慶應義塾大学・・・政治家・犬養毅の原点ともいうべき場所が残されています。
日本初の演説会堂・三田演説館です。
郷里・岡山から上京した犬養は、明治9年慶応義塾に入学しました。
ここで、明治の言論界のリーダー・福沢諭吉と出会い、生涯をかける目標を見出しました。
言論で国を動かす政治家への道・・・!!
福沢は、日本にも西洋流の議会政治が必要だと考え、明治13年慶応義塾で模擬国会を開いています。
26歳の犬養も、弁士としてその演壇に立ちました。
反対論者の発言をことごとく論破していく犬養の姿を同級生は・・・
”颯爽たる風貌は満場を圧し、警句は口をついて出る有様で、既に将来の大宰相となる貫禄があった”
当時、日本はまさに言論の時代へと舵を切ろうとしていました。
自由民権運動の勃興です。
明治14年には板垣退助が自由党を、翌年には、大隈重信が立憲改進党を結成。
議会政治を求める機運が高まっていました。
明治22年・大日本帝国憲法が発布、明治23年・帝国議会開設されました。
選挙権を持つ者は、全人口の1%強と限られていましたが、立憲政治はようやくその端緒につきました。
この頃、犬養は福沢のつてで大隈重信の立憲改進党に参加、政治家として歩み始めていました。
議会開設に先立つ第1かい衆議院議員選挙で犬養は36歳で初当選を果たします。
待ちに待った議会政治の始まり・・・しかし、その前に立ちはだかったのが藩閥政治でした。
当時の政府は、明治維新を主導した長州藩や薩摩藩出身のものが要職を占め、議会の意向に左右されない独断的な政治を行っていました。
政党側が、政費節減・地租軽減を主張する民間政党を政府が弾圧!!
暴力や買収、選挙妨害が横行します。
こうした圧力に、自由党・改進党の二大政党の中にも次第に藩閥政府との接近を図る勢力が表れます。
それに、政党間の対立も加わり、議会政治は混迷を深めるばかりでした。
このままでは理想の政治は実現できない・・・やがて、犬養と藩閥との対立は、ある問題で決定的となります。
発端は、明治37年の日露戦争勃発です。
ロシアに勝利した日本は、満州南部に鉄道敷設などの権益を獲得しました。
当時、陸軍を掌握していた長州閥の山県有朋・・・。
山県は、ロシアとの再戦を見据え、戦時兵力を従来の2倍以上に増強することや、大陸利権の更なる拡大を主張しました。
犬養は、これを真っ向から批判しました。
”日露戦争後の戦後経営は大失敗だ
原因は、国力に見合わぬ国防計画と、軍事計画にある”
犬養は、国家は経済を主として、軍備は従にしなければならないと思っていました。
日露戦争後、ロシアを敵とすべきではないと考えていました。
満州はマーケット・・・経済的に結合して、外交で平和的にやっていこうと考えていたのです。
しかし、その主張は、長州閥の認めるところではありませんでした。
大正元年、陸軍は政府に2個師団増設を要求。
時の首相は、西園寺公望・・・立憲政友会の総裁でした。
政友会は、明治33年に伊藤博文によって創設されました。
それを引き継いだ西園寺は、藩閥勢力となれ合い、長州閥の桂太郎と交互に政権を担当してきました。
しかし、財政難の中、軍への更なる支出はあまりにも負担が大きかったのです。
西園寺が要求を拒むと、犬養は陸軍大臣を辞職させ・・・
大正元年、西園寺内閣総辞職に追い込むという策に出ました。
後任の首相には、桂太郎が就任。
軍の要求は実現するかに見えました。
この時、犬養は58歳・・・立憲主義を掲げ、自らの政党立憲国民党を旗揚げしていました。
藩閥の横暴に対し、犬養は決然と立ち上がります。
”この度の一戦は、小生の最後の一戦になるかもしれない
万一敗れれば、全く政界を去る覚悟だ”
大正元年12月19日、歌舞伎座・・・犬養は、演壇に立ちました。
大正政変の幕開けです。
”今、政党人に一点の私心がなければ藩閥打破などたやすいことである!”
犬養には秘策がありました。
これまで藩閥との妥協を繰り返してきた政友会を倒閣運動に引き入れることです。
政友会もこれに応じ、党の論客・尾崎幸雄は犬養と共に憲政擁護運動を推進しました。
新聞には、連日2人の主張が掲載され、日露戦争後の重税に苦しむ民衆に藩閥の横暴をアピールしました。
そして迎えた大正2年2月5日・・・熱狂した民衆が議会を取り囲む中、犬養たちは桂内閣不信任案を提出!!
ところが、桂も反撃!!
宮中に働きかけ、政友会総裁・西園寺への勅語を引き出したのです。
「朕の意を体して争いは無事に収めよ!」
天皇の言葉を前に妥協に転じようとした西園寺・・・
しかし、犬養は、あくまで徹底抗戦を主張・・・政友会幹部にこう進言しました。
「西園寺公は、大命を奉ぜられるとともに、総裁を辞職なさるが良い
政友会としては、最後まで憲政のために戦うべきが本筋である」by犬養毅
再開した議会で政友会は、不信任案を撤回せずと宣言、その断固たる態度と民衆の怒号を前に桂はついに内閣総辞職に追い込まれました。
藩閥の政治介入から、立憲政治を守り抜いた犬養は、尾崎と共に憲政の神様とたたえられました。
しかし、藩閥や軍との戦いは、まだ始まったばかりでした。
大正3年、ヨーロッパを主な舞台に第1次世界大戦勃発。
直接戦場とならなかった日本では、軍需物資などの輸出が大幅に伸び、空前の好景気となりました。
資本家や財閥が潤う一方で、民衆は物価の高騰により厳しい生活を強いられました。
大正7年、富山を起点に米騒動が始まると、炭坑や都市の労働者の間でも社会的不満が爆発します。
各地で相次いで暴動が起こりました。
この状況を打開するために、犬養は政治をもっと民衆に開かれたものにすることが急務だと考えました。
”政治は、一部階級の独占たる迷夢より覚醒し、選挙権拡張を以て国民全体に国家維持の責任を負わすべし”
特権階級が政治をすると、それ以外の人の意見は反映されません。
社会的不満、社会的格差・・・第1次大戦後は、危機の時代でした。
国民みんながいろんな階層も協力して新たな日本を作っていかなければならない・・・!!
大正8年、選挙権拡大案を提出。
有権者の納税額と年齢を引き下げ、来るべき普通選挙への布石を打ったのです。
ところが、この案は時の首相だった政友会の原敬によって棚上げにされてしまいます。
政友会の支持基盤は、既に選挙権を持つ地方の財産家が多く、普通選挙の実現には後ろ向きだったのです。
その原が、大正10年、政治腐敗に憤る一青年にちょって暗殺されました。
その死は普通選挙ばかりか政党政治の流れをも停滞させてしまいます。
続く政権の座には・・・
大正11年加藤友三郎(海軍大将)、大正12年山本権兵衛(退役海軍大将)、大正13年清浦奎吾(枢密院議長)・・・軍人や、藩閥政治の息のかかった官僚の政治家が就き、やがて政党人はすべて閣僚から排除されるようになったのです。
犬養自身も逆境にありました。
大正11年、立憲国民党を内部分裂で解党し、革新俱楽部を結成。
そんな中、犬養は驚くべき一手を打ちます。
普通選挙をめぐって対立していた政友会・・・国民党から離脱した幹部の要る憲政会と敢えて手を結んだのです。
護憲三派の結成でした。
迎えた大正13年の総選挙・・・犬養たちは普通選挙を争点に戦い、民衆の支持を得ました。
284議席獲得という大勝の結果、憲政会の加藤高明を首班とする護憲三派内閣成立。
そして、大正14年、犬養悲願の普通選挙法成立。
納税額の制限は撤廃され、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられることになりました。
法案の成立を見届けた犬養は、政界からの引退を宣言します。
残された革新倶楽部の党員は、政友会に合流させました。
犬養も71歳となっていました。
長野県富士見町・・・白林荘・・・政界を退くにあたり、犬養が終の棲家として建てた別荘です。
犬養は、夜な夜な青年たちと囲炉裏を囲んで酒を酌み交わし、彼等に普通選挙の意義を説いたといいます。
モンペに身を包み、気さくに村の人々と接した犬養・・・
その思い出は今もこの地に語り継がれています。
激しい政治闘争から離れ、犬養はこれまでにない穏やかな日々を送っていました。
昭和3年6月、中国東北部の満州で、一大事件が起きました。
現地の部隊・関東軍が独断で、満州の実力者・張作霖が乗った電車を爆破、殺害したのです。
大陸における軍の暴走は、日本の政局を大きく揺るがしました。
昭和4年7月、政友会・田中義一内閣が事件の処理を巡って天皇の不興を買い総辞職に追い込まれました。
当時の議会は、政友会・民政党の二大政党制が交互に政権を担いました。
失政によって内閣が倒れた場合、野党第一党の当主に組閣命令が下るのが慣例でした。
7月・・・民政党内閣成立・・・
そこに、アメリカに端を発する世界恐慌の嵐が襲い掛かります。
民政党内閣の緊縮財政が民衆の暮らしを直撃・・・米や繭の暴落を引き起こしてしまいます。
農村の生活は窮乏を極めました。
一方、野党の政友会が新たな総裁として迎えたのは、既に政界を引退していた犬養でした。
この時、75歳・・・少数政党出身で、党内基盤は弱い・・・しかも、政友会には軍に同調して大陸権益の拡張を図り勢力も多かったのです。
しかし・・・昭和4年、犬養、75歳で政界に復帰。
”惨烈深刻の不景気に対する救済に、余命を捧げたい”
犬養が直面したのは、止まらない軍の暴走でした。
昭和6年9月、満州事変が勃発・・・政府の不拡大方針にも関わらず、現地・関東軍は矢継ぎ早に戦線を拡大します。
これに呼応して、10月・・・国内で陸軍のクーデター計画が発覚(十月事件)・・・首相を暗殺し、軍事政権を樹立するという目論見は未遂に終わりました。
この危機に、犬養はいち早く反応しました。
事件発覚直後、当時天皇の重臣・元老となっていた西園寺公望に使者を送ってこう告げます。
”陸軍の根本組織から変えてかからなければならないが、そうなると政友会一手ではできない
どうしても、連立していかなければ駄目だ”
議会で多数を占める民政党の若槻内閣と連立を組み、軍を押さえる・・・協力内閣案です。
しかし、経済政策をはじめ、両者の隔たりはあまりにも大きかったのです。
11月に入ると犬養は、協力内閣案を撤回。
一方、与党・民政党でも、独自に協力内閣案が議論されていました。
しかし、推進派と慎重派の間で内紛が勃発・・・閣内不一致の末に、総辞職してしまいました。
慣例に従えば、次の首相は野党第一党政友会の犬養でした。
12月12日、首相指名の権限を持つ元老の西園寺から呼び出しが・・・
西園寺はこう切り出します。
”先ほど次の首相は犬養しかないと陛下にお伝えした
陛下は軍が国政や外交に立ち入ることを深く憂いておられ、強力な内閣を作ってほしいと切望しておられる”
しかし、ここで西園寺は犬養に選択を突き付けます。
”協力内閣の事が話題となっているようだが、どうお考えか?”
すでに、与野党ともに手を引いた協力内閣案が、再度蒸し返されたのです。
単独内閣か?それとも協力内閣か??
犬養毅・・・第29代内閣総理大臣に就任。
選んだのは政友会単独内閣でした。
その頃、大陸では関東軍は更なる戦線拡大を目指し、各地で中国軍との衝突を繰り返していました。
難局のさ中、首相の大役を引き受けた犬養・・・しかし、そこには確かな成算がありました。
犬養の別荘に一本の白松が・・・中国の革命家・孫文から贈られたものです。
かつて犬養は、孫文の革命運動を援助したことがありました。
当時の中国国民政府のTOPは、その息子・孫科でした。
この人脈で、事変を収拾し様としたのです。
組閣の3日後、犬養は共に孫文を支援した萱野長知を呼び出しこう告げます。
”君ひとつご苦労だが現在の中国内情を探り、深刻な状態にある時局打開の方途を見出してくれないだろうか?”
現地に親日的、日本と交渉できるような政権を仕立てる・・・あくまでも、中国という枠組みを崩さない形で解決するのが犬養の意図でした。
同じような考え方で中国側も最低gんギリギリ譲歩できるラインとして持っていたのです。
犬養との間で、うまく日中関係を持っていきたい・・・
12月下旬、中国に渡った萱野は、早速交渉を開始・・・
事態の進展を電報で伝えます。
”中国政府は、満州問題解決のため、東北政務委員会を組織
日本と直接交渉に入り、撤兵について話し合う準備がある”
ところが、犬養からの返答は一向に届きませんでした。
ある人物が萱野からの電報を握りつぶしていたのです。
内閣書記官長の森恪・・・軍と同様、満州の直接支配を考えていた森が動いていたのです。
昭和7年1月28日、上海事変勃発
海軍陸戦隊と中国軍が交戦状態に入ると、中国側の態度が一気に硬化・・・交渉による解決の道は、閉ざされました。
しかし、78歳の老宰相は不屈でした。
5月1日、犬養はNHKのマイクの前に立ち、国民に語り掛けます。
”侵略主義というようなことはよほど今では遅ればせの事であるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい
政友会の内閣である以上は、決して外国に向かってことを起こして侵略しようというような考えは、毛頭持っていないのである”
軍の侵略主義を、断固として否定した犬養・・・
それから2週間後、事件は起きました。
昭和7年5月15日午後5時・・・海軍の青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。
”まてまて、騒がぬでも話をすればわかる”
”撃て撃て、問答はいらぬ!!”
即死は免れましたが、弾丸は脳にまで届いていました。その日の午後11時26分・・・犬養毅死去。
犬養の死は、時代の大きな転換点となりました。
政友会は、後継内閣の樹立に動きましたが、組閣の大命は海軍の長老・斎藤実に下りました。
以後、政党内閣は生まれることなく、日本は軍主導のもと、戦争への道を突き進んでいきます。
青年将校の放った銃弾は、犬養の命を奪っただけでなく、戦前の政党政治の命脈をも断ち切ったのです。
近年、亡くなった直後の犬養の顔をかたどったデスマスクが公開されました。
まるで眠っているかのような静謐な表情・・・
犬養ならその後の日本が歩んだ道をどのように思い、どんな言葉を投げかけただろうか??
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昭和7年5月15日、海軍青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。
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殺害されたのは、首相・犬養毅。
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どうして犬養は、軍によって殺害されなければならなかったのか・・・??
「侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことであるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい」by犬養毅
満州事変を起こし、大陸侵略を謀る軍を真っ向から批判した犬養・・・
軍の暴走に歯止めをかけること・・・それは、政治家犬養の生涯の課題でした。
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日本初の演説会堂・三田演説館です。
郷里・岡山から上京した犬養は、明治9年慶応義塾に入学しました。
ここで、明治の言論界のリーダー・福沢諭吉と出会い、生涯をかける目標を見出しました。
言論で国を動かす政治家への道・・・!!
福沢は、日本にも西洋流の議会政治が必要だと考え、明治13年慶応義塾で模擬国会を開いています。
26歳の犬養も、弁士としてその演壇に立ちました。
反対論者の発言をことごとく論破していく犬養の姿を同級生は・・・
”颯爽たる風貌は満場を圧し、警句は口をついて出る有様で、既に将来の大宰相となる貫禄があった”
当時、日本はまさに言論の時代へと舵を切ろうとしていました。
自由民権運動の勃興です。
明治14年には板垣退助が自由党を、翌年には、大隈重信が立憲改進党を結成。
議会政治を求める機運が高まっていました。
明治22年・大日本帝国憲法が発布、明治23年・帝国議会開設されました。
選挙権を持つ者は、全人口の1%強と限られていましたが、立憲政治はようやくその端緒につきました。
この頃、犬養は福沢のつてで大隈重信の立憲改進党に参加、政治家として歩み始めていました。
議会開設に先立つ第1かい衆議院議員選挙で犬養は36歳で初当選を果たします。
待ちに待った議会政治の始まり・・・しかし、その前に立ちはだかったのが藩閥政治でした。
当時の政府は、明治維新を主導した長州藩や薩摩藩出身のものが要職を占め、議会の意向に左右されない独断的な政治を行っていました。
政党側が、政費節減・地租軽減を主張する民間政党を政府が弾圧!!
暴力や買収、選挙妨害が横行します。
こうした圧力に、自由党・改進党の二大政党の中にも次第に藩閥政府との接近を図る勢力が表れます。
それに、政党間の対立も加わり、議会政治は混迷を深めるばかりでした。
このままでは理想の政治は実現できない・・・やがて、犬養と藩閥との対立は、ある問題で決定的となります。
発端は、明治37年の日露戦争勃発です。
ロシアに勝利した日本は、満州南部に鉄道敷設などの権益を獲得しました。
当時、陸軍を掌握していた長州閥の山県有朋・・・。
山県は、ロシアとの再戦を見据え、戦時兵力を従来の2倍以上に増強することや、大陸利権の更なる拡大を主張しました。
犬養は、これを真っ向から批判しました。
”日露戦争後の戦後経営は大失敗だ
原因は、国力に見合わぬ国防計画と、軍事計画にある”
犬養は、国家は経済を主として、軍備は従にしなければならないと思っていました。
日露戦争後、ロシアを敵とすべきではないと考えていました。
満州はマーケット・・・経済的に結合して、外交で平和的にやっていこうと考えていたのです。
しかし、その主張は、長州閥の認めるところではありませんでした。
大正元年、陸軍は政府に2個師団増設を要求。
時の首相は、西園寺公望・・・立憲政友会の総裁でした。
政友会は、明治33年に伊藤博文によって創設されました。
それを引き継いだ西園寺は、藩閥勢力となれ合い、長州閥の桂太郎と交互に政権を担当してきました。
しかし、財政難の中、軍への更なる支出はあまりにも負担が大きかったのです。
西園寺が要求を拒むと、犬養は陸軍大臣を辞職させ・・・
大正元年、西園寺内閣総辞職に追い込むという策に出ました。
後任の首相には、桂太郎が就任。
軍の要求は実現するかに見えました。
この時、犬養は58歳・・・立憲主義を掲げ、自らの政党立憲国民党を旗揚げしていました。
藩閥の横暴に対し、犬養は決然と立ち上がります。
”この度の一戦は、小生の最後の一戦になるかもしれない
万一敗れれば、全く政界を去る覚悟だ”
大正元年12月19日、歌舞伎座・・・犬養は、演壇に立ちました。
大正政変の幕開けです。
”今、政党人に一点の私心がなければ藩閥打破などたやすいことである!”
犬養には秘策がありました。
これまで藩閥との妥協を繰り返してきた政友会を倒閣運動に引き入れることです。
政友会もこれに応じ、党の論客・尾崎幸雄は犬養と共に憲政擁護運動を推進しました。
新聞には、連日2人の主張が掲載され、日露戦争後の重税に苦しむ民衆に藩閥の横暴をアピールしました。
そして迎えた大正2年2月5日・・・熱狂した民衆が議会を取り囲む中、犬養たちは桂内閣不信任案を提出!!
ところが、桂も反撃!!
宮中に働きかけ、政友会総裁・西園寺への勅語を引き出したのです。
「朕の意を体して争いは無事に収めよ!」
天皇の言葉を前に妥協に転じようとした西園寺・・・
しかし、犬養は、あくまで徹底抗戦を主張・・・政友会幹部にこう進言しました。
「西園寺公は、大命を奉ぜられるとともに、総裁を辞職なさるが良い
政友会としては、最後まで憲政のために戦うべきが本筋である」by犬養毅
再開した議会で政友会は、不信任案を撤回せずと宣言、その断固たる態度と民衆の怒号を前に桂はついに内閣総辞職に追い込まれました。
藩閥の政治介入から、立憲政治を守り抜いた犬養は、尾崎と共に憲政の神様とたたえられました。
しかし、藩閥や軍との戦いは、まだ始まったばかりでした。
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直接戦場とならなかった日本では、軍需物資などの輸出が大幅に伸び、空前の好景気となりました。
資本家や財閥が潤う一方で、民衆は物価の高騰により厳しい生活を強いられました。
大正7年、富山を起点に米騒動が始まると、炭坑や都市の労働者の間でも社会的不満が爆発します。
各地で相次いで暴動が起こりました。
この状況を打開するために、犬養は政治をもっと民衆に開かれたものにすることが急務だと考えました。
”政治は、一部階級の独占たる迷夢より覚醒し、選挙権拡張を以て国民全体に国家維持の責任を負わすべし”
特権階級が政治をすると、それ以外の人の意見は反映されません。
社会的不満、社会的格差・・・第1次大戦後は、危機の時代でした。
国民みんながいろんな階層も協力して新たな日本を作っていかなければならない・・・!!
大正8年、選挙権拡大案を提出。
有権者の納税額と年齢を引き下げ、来るべき普通選挙への布石を打ったのです。
ところが、この案は時の首相だった政友会の原敬によって棚上げにされてしまいます。
政友会の支持基盤は、既に選挙権を持つ地方の財産家が多く、普通選挙の実現には後ろ向きだったのです。
その原が、大正10年、政治腐敗に憤る一青年にちょって暗殺されました。
その死は普通選挙ばかりか政党政治の流れをも停滞させてしまいます。
続く政権の座には・・・
大正11年加藤友三郎(海軍大将)、大正12年山本権兵衛(退役海軍大将)、大正13年清浦奎吾(枢密院議長)・・・軍人や、藩閥政治の息のかかった官僚の政治家が就き、やがて政党人はすべて閣僚から排除されるようになったのです。
犬養自身も逆境にありました。
大正11年、立憲国民党を内部分裂で解党し、革新俱楽部を結成。
そんな中、犬養は驚くべき一手を打ちます。
普通選挙をめぐって対立していた政友会・・・国民党から離脱した幹部の要る憲政会と敢えて手を結んだのです。
護憲三派の結成でした。
迎えた大正13年の総選挙・・・犬養たちは普通選挙を争点に戦い、民衆の支持を得ました。
284議席獲得という大勝の結果、憲政会の加藤高明を首班とする護憲三派内閣成立。
そして、大正14年、犬養悲願の普通選挙法成立。
納税額の制限は撤廃され、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられることになりました。
法案の成立を見届けた犬養は、政界からの引退を宣言します。
残された革新倶楽部の党員は、政友会に合流させました。
犬養も71歳となっていました。
長野県富士見町・・・白林荘・・・政界を退くにあたり、犬養が終の棲家として建てた別荘です。
犬養は、夜な夜な青年たちと囲炉裏を囲んで酒を酌み交わし、彼等に普通選挙の意義を説いたといいます。
モンペに身を包み、気さくに村の人々と接した犬養・・・
その思い出は今もこの地に語り継がれています。
激しい政治闘争から離れ、犬養はこれまでにない穏やかな日々を送っていました。
昭和3年6月、中国東北部の満州で、一大事件が起きました。
現地の部隊・関東軍が独断で、満州の実力者・張作霖が乗った電車を爆破、殺害したのです。
大陸における軍の暴走は、日本の政局を大きく揺るがしました。
昭和4年7月、政友会・田中義一内閣が事件の処理を巡って天皇の不興を買い総辞職に追い込まれました。
当時の議会は、政友会・民政党の二大政党制が交互に政権を担いました。
失政によって内閣が倒れた場合、野党第一党の当主に組閣命令が下るのが慣例でした。
7月・・・民政党内閣成立・・・
そこに、アメリカに端を発する世界恐慌の嵐が襲い掛かります。
民政党内閣の緊縮財政が民衆の暮らしを直撃・・・米や繭の暴落を引き起こしてしまいます。
農村の生活は窮乏を極めました。
一方、野党の政友会が新たな総裁として迎えたのは、既に政界を引退していた犬養でした。
この時、75歳・・・少数政党出身で、党内基盤は弱い・・・しかも、政友会には軍に同調して大陸権益の拡張を図り勢力も多かったのです。
しかし・・・昭和4年、犬養、75歳で政界に復帰。
”惨烈深刻の不景気に対する救済に、余命を捧げたい”
犬養が直面したのは、止まらない軍の暴走でした。
昭和6年9月、満州事変が勃発・・・政府の不拡大方針にも関わらず、現地・関東軍は矢継ぎ早に戦線を拡大します。
これに呼応して、10月・・・国内で陸軍のクーデター計画が発覚(十月事件)・・・首相を暗殺し、軍事政権を樹立するという目論見は未遂に終わりました。
この危機に、犬養はいち早く反応しました。
事件発覚直後、当時天皇の重臣・元老となっていた西園寺公望に使者を送ってこう告げます。
”陸軍の根本組織から変えてかからなければならないが、そうなると政友会一手ではできない
どうしても、連立していかなければ駄目だ”
議会で多数を占める民政党の若槻内閣と連立を組み、軍を押さえる・・・協力内閣案です。
しかし、経済政策をはじめ、両者の隔たりはあまりにも大きかったのです。
11月に入ると犬養は、協力内閣案を撤回。
一方、与党・民政党でも、独自に協力内閣案が議論されていました。
しかし、推進派と慎重派の間で内紛が勃発・・・閣内不一致の末に、総辞職してしまいました。
慣例に従えば、次の首相は野党第一党政友会の犬養でした。
12月12日、首相指名の権限を持つ元老の西園寺から呼び出しが・・・
西園寺はこう切り出します。
”先ほど次の首相は犬養しかないと陛下にお伝えした
陛下は軍が国政や外交に立ち入ることを深く憂いておられ、強力な内閣を作ってほしいと切望しておられる”
しかし、ここで西園寺は犬養に選択を突き付けます。
”協力内閣の事が話題となっているようだが、どうお考えか?”
すでに、与野党ともに手を引いた協力内閣案が、再度蒸し返されたのです。
単独内閣か?それとも協力内閣か??
犬養毅・・・第29代内閣総理大臣に就任。
選んだのは政友会単独内閣でした。
その頃、大陸では関東軍は更なる戦線拡大を目指し、各地で中国軍との衝突を繰り返していました。
難局のさ中、首相の大役を引き受けた犬養・・・しかし、そこには確かな成算がありました。
犬養の別荘に一本の白松が・・・中国の革命家・孫文から贈られたものです。
かつて犬養は、孫文の革命運動を援助したことがありました。
当時の中国国民政府のTOPは、その息子・孫科でした。
この人脈で、事変を収拾し様としたのです。
組閣の3日後、犬養は共に孫文を支援した萱野長知を呼び出しこう告げます。
”君ひとつご苦労だが現在の中国内情を探り、深刻な状態にある時局打開の方途を見出してくれないだろうか?”
現地に親日的、日本と交渉できるような政権を仕立てる・・・あくまでも、中国という枠組みを崩さない形で解決するのが犬養の意図でした。
同じような考え方で中国側も最低gんギリギリ譲歩できるラインとして持っていたのです。
犬養との間で、うまく日中関係を持っていきたい・・・
12月下旬、中国に渡った萱野は、早速交渉を開始・・・
事態の進展を電報で伝えます。
”中国政府は、満州問題解決のため、東北政務委員会を組織
日本と直接交渉に入り、撤兵について話し合う準備がある”
ところが、犬養からの返答は一向に届きませんでした。
ある人物が萱野からの電報を握りつぶしていたのです。
内閣書記官長の森恪・・・軍と同様、満州の直接支配を考えていた森が動いていたのです。
昭和7年1月28日、上海事変勃発
海軍陸戦隊と中国軍が交戦状態に入ると、中国側の態度が一気に硬化・・・交渉による解決の道は、閉ざされました。
しかし、78歳の老宰相は不屈でした。
5月1日、犬養はNHKのマイクの前に立ち、国民に語り掛けます。
”侵略主義というようなことはよほど今では遅ればせの事であるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい
政友会の内閣である以上は、決して外国に向かってことを起こして侵略しようというような考えは、毛頭持っていないのである”
軍の侵略主義を、断固として否定した犬養・・・
それから2週間後、事件は起きました。
昭和7年5月15日午後5時・・・海軍の青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。
”まてまて、騒がぬでも話をすればわかる”
”撃て撃て、問答はいらぬ!!”
即死は免れましたが、弾丸は脳にまで届いていました。その日の午後11時26分・・・犬養毅死去。
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犬養の死は、時代の大きな転換点となりました。
政友会は、後継内閣の樹立に動きましたが、組閣の大命は海軍の長老・斎藤実に下りました。
以後、政党内閣は生まれることなく、日本は軍主導のもと、戦争への道を突き進んでいきます。
青年将校の放った銃弾は、犬養の命を奪っただけでなく、戦前の政党政治の命脈をも断ち切ったのです。
近年、亡くなった直後の犬養の顔をかたどったデスマスクが公開されました。
まるで眠っているかのような静謐な表情・・・
犬養ならその後の日本が歩んだ道をどのように思い、どんな言葉を投げかけただろうか??
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