日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:山田方谷

時代は幕末から明治へ・・・
戊辰戦争、破竹の勢いで進軍する新政府軍に立ちはだかった男がいました。
越後長岡藩士・河合継之助です。
最新兵器ガトリング砲や近代兵器を使って徹底抗戦し、新政府を苦しめました。
郷土を荒廃してまで戦った河合継之助・・・どうしてなのか・・・??
越後の蒼龍と恐れられた男、河合は新政府軍との戦いの先に、何を見ていたのでしょうか?

江戸時代、越後長岡藩7万4000石の城下町として栄えた新潟県長岡市。
1827年、河合継之助は代々藩の勘定方を務めた中級藩士の家に生れました。
河合は若くして勉学に精進します。
藩校での音読中心の勉学では飽き足らず、感銘を受けた書物は一文字一文字写して体得することを心掛けました。
中でも心酔したのは王陽明の陽明学でした。
その思想は、学問を実際の行動に生かす知行合一です。
当時、陽明学の実践者として世に知られたのは、幕臣の大塩平八郎・・・貧民救済のための反乱を起こしたのは、河合が11歳の時でした。
17歳になった河合は誓いを立てます。
”十七 天に誓いて 輔国に擬す”
国のために力を尽くして働く・・・と。
陽明学が、長岡藩のためになると思っていたようです。

17歳の河合が誓いを立てた年、長岡藩を揺るがす大事件が・・・
藩が管理し、日本海海運の要として栄えていた新潟湊・・・各地からの物資に紛れ、中国からの密貿易が発覚!!
そのため長岡藩は、政府に新潟湊を没収されてしまったのです。
湊での商取引から税をとってた長岡藩は、収入減を失います。
河合の誓いは、何の行く末に対する強い危機感からでした。
案の定長岡藩は、6年後には23万両の赤字をだし、財政危機に陥ってしまいます。
藩の再建を一途に考え続けた河合・・・この後、時代の大きなうねりが彼を表舞台へと押し出していきます。

1853年6月、ペリーが黒船を率いて浦賀に現れ日本に開国を求めます。
この時、長岡藩主牧野忠雅は、譜代大名として老中を務めていました。
牧野は未曽有の国難に対する対応策を若手藩士たちに求めます。
河合も意見書を提出・・・これが藩主の目に留まり、初めて藩で役職をもらうこととなります。
藩の重役会議に列席し、意見を述べる機会を与えられた河合・・・。
ところが、席上・・・面と向かって重役たちを批判し激怒させてしまいます。
さらに、藩主の跡継ぎ勉強を教える役に任じられると・・・教えるために学問を学んでいたのではないと断ってしまいました。

1858年、旧態依然とした長岡藩を離れ、遊学の旅に出ることを決心します。
西国にどうしても会いたい人物がいたのです。
天空の城・松山城で知られる備中松山藩・・・石高は5万石でしたが、実高は2万石の小さな藩でした。
慢性的な財政年に陥り、一時は10万両もの借金に苦しみました。
これを立て直したのが、松山藩参与陽明学者の山田方谷でした。
河合は方谷から、藩政改革の極意を学びたいと願いました。
河合の旅日記「塵壺」・・・方谷に面会した日、書留がありました。

封建の世、人に使われること出来ざるは ツマラヌ物

能力があっても藩に使われなくては意味がない・・・
方谷は、藩士としての心得を伝えます。
方谷が藩政改革で力を注いだのは”備中鍬””松山きざみ”など、特産品の生産を領民たちに奨励することでした。
これを藩が買い上げ、領民たちが潤います。
松山藩では、この特産品を江戸に運び、商人を介さず、藩士が自ら販売して大きな利益を上げていました。
方谷は生産性をあげ、武士が自ら経済活動を担うことで、藩全体が豊かになるシステムを作りました。
そして藩の再建を成し遂げたのです。

民は国の本
吏は民の雇い

民衆は国の基礎であり、役人である武士はその雇われ人に過ぎない

江戸時代の身分意識にとらわれない画期的な考え方でした。
方谷から、財政立て直しの秘訣を学んだ河合・・・
長岡に戻り、いよいよ藩政改革に腕を振るうこととなります。

1860年3月、河合が方谷のもとで研鑚を積んでいた頃、幕末の政局を動乱に巻き込む大事件が起こりました。
桜田門外の変です。
開国に反対する攘夷派を弾圧した大老・井伊直弼が暗殺されたのです。
これによって幕府の権威は失墜・・・以後各地でテロ事件が頻発します。
京都では朝廷と結びついて政治の実権を握ろうとする薩摩藩や長州藩が暗躍し、時代は大きく動こうとしていました。
河合は藩主にその行動力を認められ、郡奉行に抜擢されます。
いよいよ藩政改革の重責を担うこととなります。
目をつけたのが、領内を流れる信濃川・・・流域で水害が頻発し、耕作地に甚大な被害がでていました。
河合は治水工事を完工し、米の増産に成功します。
さらに、藩内の流通にも大胆な手を打ちます。
重要な財源だった信濃川の通行税を廃止します。
人や物の往来を促進し、商業が発展するという考え方です。
独占していた商売を開放し、藩への届け出だけで新規参入できるようにしました。
生産性をあげ、流通を促進し、経済を活性化する・・・方谷に学んだ河合の改革によって、わずか2年で10万両を蓄えるようになります。
河合の藩政改革が実り始めていた頃、中央は激動の時代となっていました。

1867年10月14日、大政奉還
     12月9日、王政復古の大号令

新政府は天皇を中心とする新政府樹立を宣言します。
新政府と幕府の対立は強まり、一触即発の状態に・・・!!

内乱の危機を察した河合は京都に向かいます。
長岡藩として朝廷に意見書を提出するためでした。
河合直筆の草稿が残されています。
そこには、内乱を防ぎたいという強い想いが認められていました。
譜代藩の立場から、河合は徳川の政権復帰を提案します。
しかし、朝廷はこれを黙殺・・・
そして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦い勃発
近代兵器を豊富にそろえた新政府軍を前に、旧幕府軍は歯が立ちませんでした。
江戸に戻った河合は、長岡藩邸に会った美術品や茶器を売り払い、その金で横浜の外国商人から近代兵器を購入します。
なかでもアメリカ製のガトリング砲は、1台で歩兵100人分に匹敵するという割れた機関銃でした。
河合はこれを2台購入し、戦乱に備えます。

鳥羽・伏見で圧勝した新政府軍は、三手に分かれ、錦の御旗で諸藩を恭順させながら東へ進軍・・・
江戸の旧幕府勢力を一掃し、会津、東北諸藩と戦端を開こうとしていました。
その途中、北陸道を進む新政府軍は、長岡藩に恭順を求めます。
新政府軍に参加するか、軍資金3万両を供出せよというものでした。
長岡藩の重役たちの意見は割れます。
恭順か抗戦か・・・議会は紛糾し、返答は先延ばしに・・・。
業を煮やした新政府軍は、長岡に向けて侵攻開始・・・
4月27日、長岡藩に隣接する小千谷に進駐・・・長岡城までわずか17キロ・・・!!

この日、河合は家老上席・軍事総督に任命され、名実ともに長岡藩の全権を預かりました。
そして藩士たちに、交戦でも恭順でもない新たな考えを伝えました。

「勤王佐幕の論外に立ち 封土を鎮撫し 十万の民を治め以て 上は朝廷および徳川氏に対し忠実を尽くし 下諸侯たる責めを全うする外なし」

それは、新政府にも旧幕府にもつかず、武装したまま中立を保つという宣言でした。

1868年5月2日、新政府軍と直接交渉する為に、小千谷の慈眼寺を訪れた河合・・・
その時に使われた部屋が残っています。
新政府軍幹部と対峙した河合・・・
自分が必ず東北諸藩を説得すると時間の猶予を乞い、新政府首脳部に向けた嘆願書を差し出しました。
そこには、河合の目指す理想の国家像が書かれていました。

10万もの領民が安心して仕事に励み、藩全体が豊かになるよう努めることが、私の天職です。
長岡のような小さな藩でも、倹約に努め、産業を起こせば海軍を持てるようになるでしょう。
それなのに、戦争によって領民を苦しめ、農業を妨げ、国を疲弊させるのは、かなしむべきことです。
今こそ、日本国中で協力し、世界へ恥じない強国を作るべきです。

河合が訴えようとしたことは、長岡藩の中立だけではなく、全ての藩が富国強兵に努め、国全体を豊かにするというものでした。
しかし、新政府側は、軍備を整えるための時間稼ぎだと決めつけ、わずか30分で立ち去りました。
河合の信念を込めた嘆願書は、受け取ることさえ拒否されたのです。
窮地に立たされた河合・・・

新政府に恭順し、会津討伐に加われば、長岡が戦場になることはない・・・
それとも・・・強引な新政府軍に徹底抗戦する・・・??
ガトリング砲を始め、最新兵器をもってすれば、数か月は持ちこたえることができるはず・・・
雪の季節まで持ちこたえることができれば、勝機も見えてくる・・・??
諸藩も味方に付くかも・・・??
それまでに長岡が戦場となれば、多くの領民が犠牲になってしまう・・・。
中立する・・・??
徳川譜代の長岡藩が、核版図の調停役を買って出れば、新政府にとっても悪いことではないはず!!
どうにかして嘆願書を新政府首脳部に・・・!!

交渉が決裂した翌日の5月3日・・・河合は新政府軍本陣をたずね、再交渉を願い出ました。
中立を貫くことを選んだのです。
しかし、河合の懇願が取り次がれることはありませんでした。
諦めきれない河合は、他藩に仲介を頼みましたが、結果は同じでした。
河合は心を決めます。

此上は君国の為に一藩を挙げて奸賊を防ぐの外途なし

最早、新政府軍と戦うしかない・・・!!
しかし、長岡藩邸1300人に対し、新政府軍はおよそ3倍の4000人!!
兵力の差は歴然でした。
河合は新政府軍と対立する東北諸藩と軍事同盟を結びます。
5月10日、両軍が衝突・・・北越戦争が始まりました。
新政府軍は信濃川の対岸から大砲を撃ちかけ、長岡城下に突入!!
長岡城に陣取った河合は、自らガトリング砲を操りこれに応戦!!
しかし翌日、河合の奮戦虚しく、新政府軍によって長岡城は落城します。
最新兵器をもってしても、新政府軍の物量攻撃には抗いきれませんでした。
しかし、河合は諦めず、地の利を生かしたゲリラ戦を展開!!
領内各地で新政府軍を苦しめます。

7月24日、深夜・・・河合は長岡城奪還の奇襲作戦を試みます。
城の裏手に広がる沼地を胸にまでつかりながら6時間行軍し、早朝・・・
攻撃を開始します。
不意を突かれた新政府軍は大混乱に陥り敗走!!
この時、城を守っていた新政府軍の兵2500に対し、河合の兵はわずか700でした。
河合は兵力差をものともせずに、長岡城の奪還に成功したのです。

しかし、この戦いには大きな犠牲が伴っていました。
河合が左足に銃撃を受けたのです。
河合重傷の報せに長岡藩兵の士気は一気に低下・・・
かたや新政府軍は時を置かず猛反撃!!
新政府軍は、各地からの援軍を加えて3万に膨れ上がっていました。
4日後・・・城は再び新政府軍の手に落ちました。
3か月に及んだ北越戦争で、長岡の町は焼け野原となってしまいました。

河合は長岡藩兵の残兵と会津を目指します。
自力で歩けないために、担架で運ばれながら、80里越えという国境の険しい峠を超えました。
道中、日に日に傷が悪化した河合は、会津の塩沢村に身を寄せます。
今もこの地に河合が最期を迎えた座敷が大切に残されています。

1868年8月16日、この部屋で河合は42年の生涯を閉じました。
塩沢村の人々は、河合の死を悼み、墓を立て弔います。
しかし、墓石に河合の名はありません。
追撃してくる新政府軍に墓を暴かれないためでした。
賊軍の罪人・・・河合は日本の未来を見据えた構想を抱きながら、賊軍の将として世を去りました。
敗走ちゅうの峠で句を詠んだといます。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

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備中松山城・・・日本で最も高い標高430メートルに天守閣を構える山城です。
大河ドラマ真田丸のタイトルバックにもなった美しい城として知られています。
この城には秘められた物語がありました。
時は動乱の幕末・・・物語の中心となったのは、備中松山藩重臣・山田方谷です。

備中松山城をいただく岡山県高梁市・・・。
山城の麓には、かつての松山藩の城下町が広がります。
藩校・有終館の校長を務めた儒学者・山田方谷。
隠居を考え始めた45歳の時、方谷の人生を一変させる出来事が・・・。
藩の重職・元締役(財務大臣)兼吟味役(事務次官)に抜擢されたのです。
財政の全権を任されたことを意味していました。

方谷とはどんな人物なのでしょうか?
1805年、山田方谷は農民の息子として生まれます。
幼いころから神童の誉れ高くありました。
農業と菜種油の製造販売の傍ら勉学に励み・・・元来武士ではありませんでした。
彼にとって、松山藩5万石の元締役はあまりに重責でした。
方谷は頑なに辞退しますが・・・方谷から政の手ほどきを受けた藩主・板倉勝静は聞きません。
切望し・・・ついに決意する方谷。。。
方谷が就任した時、松山藩は困窮のどん底にありました。
参勤交代の駕籠かきからも貧乏板倉と敬遠されるほどでした。
詳細な財政調査の結果・・・松山藩の5万石は表向きにすぎず、実際は僅か2万石足らずでした。
藩は、その事実を隠蔽して、大阪の両替商から借金を続けていました。
その結果、負債は10万両を超えていました。
財政破たんしていたにもかかわらず粉飾に粉飾を重ねていたのです。

危機に直面した方谷・・・就任早々厳しい選択を迫られます。
一刻の猶予もない!!
恥を忍んで両替商たちに説明して理解を得る??
代々地位を世襲してきた重臣たちは反対するだろうが・・・

「大信を守らんと欲せば 小信を守る遑なし」

武士の体面ばかり守ろうとしていたら、領民の暮らしや藩の存続さえ危ういのだ。

方谷は、藩内の反対を押し切って大坂へ・・・
金を借りている両替商たちを集め、返済延期を申し入れます。
その上で、思い切った財政再建計画を提示しました。
それは、米を現金化する為に設けられていた大坂の蔵屋敷廃止という大胆なものでした。
松山藩の米は商人に代わり、藩が相場を見て売りさばく・・・方谷は、全く斬新な方法を打ち出しました。
苦しい藩の財政を包み隠さず示した方谷に動かされて、商人たちは再建案を飲みます。
方谷が経済に明るかったこと、地域の実情を知った上での地域振興、流通革命・・・具体的で、実行可能な再建計画を見せたのが、納得の要因でした。

そして、地元の物を使って特産品を開発します。
ベンガラの特産地として知られる高梁市。
ここに江戸時代に開発された銅山が残されています。
この一帯は、豊かな鉱脈がある地として戦国時代から知られていました。
方谷が目をつけたのがその鉱物資源でした。
銅山経営、砂鉄からの備中鍬などの鉄製品の制作、農民たちには換金植物の生産(柚餅子、刻みタバコ)を。
流通も・・・撫育方を作り、藩内の産物を最大市場の江戸に直送・・・
率先して商いに加わったのは、松山藩の藩士たちでした。
これは、士農工商を揺るがしかねないものでした。
撫育方の藩士たちは、特産品を売りさばき、大きな利益を得るのでした。

2018年に方谷の直筆が新しく発見されました。
そこには、特産品の販売を担う部下に向けた心得が書かれていました。

撫育を進めるにあたり・・・武士としての義をわきまえ、私利に走らぬよう・・・藩士たちを戒めています。
高梁川・・・1852年9月5日、一世一代のパフォーマンスを行います。
領民たちが見守る前で、河原に積み上げた藩札を火にくべたのです。
松山藩は、財政難をしのぐために、藩札を濫造したので、その信用は失墜していました。
藩札を燃やす炎は、朝8時から夕方4時まで続いたと言われています。

そして、蓄財に見合った藩札「永銭」を発行します。
財政の健全化を目に見える形で示した「永銭」は、よその藩でも通用するほどの信用を得ました。
領民の家計がよくなれば、藩の財政も好転することを知りぬいていた方谷・・・市民撫育の思想を貫いて、実質的に7年で莫大な借金の大半を返済したといいます。
しかし・・・時代は大きな曲がり角を迎えていました。
方谷が藩札を燃やした翌年1853年6月・・・黒船来航によって、時代の大きなうねりに飲み込まれていきます。

方谷の手腕で財政を立て直した松山藩・・・
その実績を背景に、藩主・板倉勝静は、1862年に老中に就任。
勝静は、寛政の改革を成した老中・松平定信の孫にあたります。
混迷の時代・・・進んで幕政の中心を担う覚悟でした。
一方、松山藩では、方谷が軍制改革に取り組んでいました。
時代の先を読み、方谷自ら他藩に出向いて西洋式の兵法を学んでいました。
その実用化に向け、最新式の銃や大砲の研究を薦め、試作にも取り組んでいました。
しかし、藩士たちはこれに難色を示します。
学者上がりの方谷に、足軽のように扱われることへの反発でした。
方谷はこの反発を逆手にとって、農民たちを砲術部隊に!!
農民たちに銃を持たせ、最新式の西洋式軍隊に鍛え上げたのです。
凄まじい教練を見た久坂玄瑞は、長州の住人は叶わないと漏らしたといいます。
長州で奇兵隊が組織される6年前の事でした。
久坂が方谷の調練を見た年、幕府はアメリカと日米通商条約締結。
これを契機に弱体を露呈した幕府は、安政の大獄と呼ばれる弾圧政策や、孝明天皇の和宮降嫁による公武合体など威信回復に躍起になります。
しかし、これ以前に方谷は幕府に未来はないと断言していました。

「幕府を衣に例えるならば、家康公が材料を整え、秀忠公が織り上げ、家光公が初めて着用した。
 以後、歴代将軍が着用してきた。
 吉宗公が一度洗濯し、楽爺公(松平定信)が二度目の洗濯をした。
 しかし、もう汚れとほころびがひどく、新調しないとように耐えない状態になっている。」

方谷は、度々藩主・勝静に老中辞任を求めます。
先行きが不安な幕府よりも松山藩に目を向けてほしいという思いからでした。
しかし、勝静の意志は固く・・・1865年風雲急を告げる情勢の中・・・

「衰退する幕府を支えるには、微力であることは承知している。
 しかし、幕臣としてこれを座視するわけにはいかない・・・
 むしろ、徳川と共に倒れる道を選ぶのみである。」by勝静

悲壮な決意を語った3年後・・・京都郊外鳥羽伏見で戊辰戦争が勃発・・・ついに幕末動乱の火ぶたが切って落とされました。
この戦いによって、方谷は命を懸けた選択をすることとなります。

鳥羽伏見の敗戦後、徳川慶喜は夜の闇に紛れて大坂城から遁走!!
一路海上を江戸へと向かいます。
方谷の主君・板倉勝静も、老中としてこれに同行。
敗走から時を置かず、1868年1月11日、新政府から岡山藩に松山藩討伐の朝命が下ります。
朝敵となった松山藩・・・天空の城は、緊張に包まれます。
松山藩の藩主たちの資料が残されています。
これによると、旧幕府軍敗戦の知らせを受けて、松山藩はすぐさま戦闘態勢に入ります。
市中から老人や子供、女性を非難させ臨戦態勢に・・・!!
藩主不在の松山藩では、重臣たちによって、新政府への対応が協議されます。
徹底抗戦か教順か・・・議論は沸騰し、そして膠着します。

その間にも、1月14日新政府軍は松山城南12キロに迫ってきました。
遂に方谷は選択を迫られます。

農兵隊の武力を持って戦に出るのか??
藩主も徳川側についているから覚悟の一戦にするのが忠義ではないか??
朝敵の汚名を着せられたまま降伏では、大義が立たない!!
しかし・・・尽きない議論に方谷が終止符を打ちます。

藩士や領民を慈しみ育てる撫育こそ、我が天命である・・・
民あっての国であることを忘れる勿れ!!
方谷は領民の生活を思い、抗戦を訴える藩士たちを説き伏せます。
早速松山藩重臣が、新政府軍の陣へ派遣され、用意されていた謝罪書の文案を受け取ります。
方谷はその文面の四文字・・・「大逆無道」に激しく憤ります。
板倉勝静は、尊王を貫いていました。
それを大逆無道と言われることに対して許せなかったのです。
方谷は、遺書を認め、命を懸けた抗議に出ました。

「甘んじて死に就き 喜んで節を全う候のみに御座候」

方谷の決意を受け、松山藩重臣も死を覚悟して交渉に臨みます。
その結果・・・「大逆無道」の4文字は、「軽挙暴動」に書き換えられました。
その知らせを受けた方谷は、万感に胸を詰まらせました。
1868年1月18日、方谷の究極の選択によって、天空の城・・・備中松山城は戦火を逃れ無血開城されたのでした。

侍であれば死んだかもしれないけれど、農民であったからこそ生きてこその大切さ・・・。
侍として死ぬことよりも、生きるという選択は方谷にとって自然なことでした。
1868年8月、新政府軍が会津若松に侵攻・・・ここに至って朝敵とされた板倉勝静の行方は知れず・・・
方谷は躍起になって探します。
勝静は、戊辰戦争最後の激戦地・箱館に渡っていました。
家臣たちの必死の捜索でわかると、勝静の身柄確保に動きます。
1869年5月、付き合いのあったプロシア商船の船長に大金を掴ませ、新政府軍が迫る箱館勝静を脱出させます。
藩士たちは勝静に、朝廷への謝罪を説得します。
それは、備中松山藩復興のための絶対条件でした。
説得を受け入れ、謝罪し、自ら謹慎する勝静。
その4か月後・・・方谷たちの努力が報われ、松山藩の復興が許されます。
この頃、方谷の手腕を知る新政府の重鎮・岩倉具視や木戸孝允は、方谷に政府への出資を執拗に求めます。
しかし、方谷がその申し出を受け入れることはありませんでした。
方谷は、松山城無血開城後、生まれ故郷に近い長瀬で塾を開いていました。
若者のためにその建物は六棟にまで増築されていました。
松山城下からおよそ15キロ・・・そこは昭和3年に全通した伯備線の駅となり、全国でも珍しい人名の駅として、方谷の名をとどめています。

方谷駅から北へ20キロ・・・新政府からの出仕要請を嫌ったのか、方谷は山里・小阪部に塾を移しました。
そこは、母の故郷でした。
方谷が母方の祖父母を祀るために建てた庵が残っています。
68歳になった方谷は、祖先を弔いながら、瞑想にふけっていたといいます。
奇跡の藩政改革を実行し、波乱の幕末を生きた方谷は、明治10年1877年6月26日、小阪部で静かに息を引き取りました。
73年に及ぶ選択に洗濯の人生でした。
亡骸は、故郷の山田家の墓地に・・・多くの人に見守られながら埋葬されました。
その墓石に刻まれた方谷山田先生の文字は、旧備中松山藩藩主・板倉勝静が筆を執りました。

幕末維新の動乱の中、山田方谷が命を懸けて守り抜いた山間のささやかな暮らし・・・
かつて方谷が学び教鞭をとった藩校の跡地は幼稚園として活用されています。
未来を託す若者へ、健やかなれと祈りを込めて方谷が自ら植えた松の木が、今も子供たちを見守っています。


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1868年、戊辰戦争勃発!!

旧幕府軍VS新政府軍・・・政権の座を争い激戦を繰り広げました。
佐幕か討幕か・・・
どちらにつくか、全国の藩が迫られました。

そんな中、あえて中立という路線を築こうとした藩が・・・
石高7万4000石の越後長岡藩です。

この中立を、藩主に進言した男が、河井継之助。
負債総額14万両・・・荒廃寸前だった藩の財政を立て直し、約10万両の剰余金を持つまでにした継之助の藩政改革。

幕末の英雄はたくさんいますが、武装中立をを目指したのは長岡藩家老ただ一人です。

「兵馬の精強なくして
   一藩の正義なく
       独立なく
        自尊なし」

討幕でも佐幕でもない、中立を選んだ男、越後長岡の河井継之助。日本人の発想の常識を超えた男の生き様です。

継之助が一般的に知られていないのは、それが日本が勝者の歴史だから・・・
賊軍の扱いは低いのが現状です。

彼が注目されたのは、司馬遼太郎の「峠」です。

峠|司馬遼太郎|新潮社|送料無料
峠|司馬遼太郎|新潮社|送料無料本来ならば、大河ドラマの主役になってもおかしくない人です。
それは、当時、長岡のように武装中立をしようとした藩がなかったからです。
そもそも、武装中立という発想がなかったと言えます。

そして、武装中立の為に、南北戦争で使ったガトリング砲・・・当時、日本に3門しかないのに2門も持っていたのです。

その日本人離れした継之助、幼いころは、親や先生の言うことを聞かない腕白な少年でした。
そして、王陽明の陽明学にはまっていました。
この陽明学は、「知行合一」をモットーとし、知識と行動は一つになるべきだと説いたものです。
これが、その後の性格の基盤となりました。

1852年26歳で江戸に遊学。3人の人物を師と仰ぎます。
古賀謹一郎
斉藤拙堂
佐久間象山
特に、古賀謹一郎の門を叩いたのが一番重要でした。

そこで「李忠定公集」と出会います。
「経済とは、経世済民の略。
 すなわち、乱れた世を整え、困窮している民を救うことこそ経済の本質」
この本にとりつかれます。

それには、長岡が直面している困難がありました。
負債総額が14万両と多額の借金がありました。
信濃川の氾濫
火事による損害
藩士による浪費生活・・・
これらが財政を圧迫していました。

「藩の為に、藩の民の為に・・・
  藩政改革を行いたい!!!!!」


10代藩主牧野忠雅に送った意見書が彼の目に止まり、御目付格評定方随役に任命されます。
藩の首脳部が会議に参加し、藩政の方針を決める際に意見を言う役目です。

これは、異例の抜擢です。江戸から長岡に帰ることになります。
しかし、世の中は甘くはなく、武士では中流の継之助、自分たちは良い生活をしたい上流階級・・・
何もできずに2か月で辞任します。

それは・・・
陽明学・・・これは、中国・王陽明が唱えた従学説です。朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説くものです。日本では、幕末に隆盛を誇りました。

しかし、陽明学は異端・・・普通家臣は朱子学を学びます。
というのも、知行合一するためには、反乱も辞さないという考えに行きつくからです。
戦国時代は・・・
「君 君たらざれば 臣 臣たらず」
でしたが、家康が平和な時代にするために
「君 君たらざるとも 臣 臣たらざるべからず」
と変えたのです。これは、林羅山の朱子学を取り入れたものです。

つまり、普通の家臣は朱子学を学んでいるので、仕組みと意識の壁が立ちはだかったのです。
政策として示すときに、具体的にどう実現すればいいのか・・・
若くて経験もなく、仲間作りも出来ていませんでした。

そして、これを機に西国へ遊学します。
ここで、運命を変える出来事が・・・

備中松山藩家老・山田方谷に会います。
山田方谷の藩政改革は・・・

特産物の考案
藩の商社化(貿易)
武士の俸禄削減
軍の近代化
身分秩序の見直し・・・

この改革を成し遂げるためには、封建制の今の世の中15年はかかるだろう・・・
「やさしいことから一つずつ成し遂げていけ」
何よりも大切なことは、藩民の信頼を得ること・・・
説明責任を果たすことが大切だと気付きます。
ここ松山で、6か月過ごし、方法論を見つけようとしました。

もう一つ影響を与えたのが・・・
長崎で見た「異国文化の脅威」でした。
東の方とは違い、西国は開国をしており、富国強兵・殖産興業が進んでいました。

「天下の情勢は、大変動の時期に来ている。
 力を養う他に藩の生きる道はない・・・。」

このことが、長岡藩を大きく動かします。
260年の科学知識の遅れを身に染みて感じたのです。

1860年桜田門外の変・・・
井伊の死後、混迷を深める幕府・・・

そんな中、第11代藩主牧野忠恭が、京都所司代に・・・!!
慌てる継之助。。。
富国強兵を推し進めている西国に、幕府が勝てるわけがない・・・。
藩主に、「京都所司代の辞任」をするように説得し、「藩政改革」に取り組むべきだと訴えます。

しかし、京都所司代からもっと重要な老中になってしまいました。
長岡藩の生きる道は、中立の道・・・辞任するように頼みます。

あらゆる政治の流れから無縁になり、我が藩や民が豊かになる政治をする資金が必要なので、産業を起こすべきだ。
そして、西洋から大砲や銃を買って、軍の強化にあたるべきだ!!

藩政改革をしたい!!と、殿に申し出ます。

この訴えが通り、殿は老中を辞任。
藩政改革を決意します。

1865年すべてを任され、忠恭のNo,2となりました。
賄賂の禁止
遊郭の廃止
賭博の禁止
禄高の改正   をしました。
その改革は、ぜいたくを禁止したものの、下の者には篤く行いました。
2000石⇒500石
700石⇒300石
95石⇒100石。。。平均して100石に近づけました。
しかし、みんなからの反論もなく・・・というのも、継之助自身出世前と同じ120石のままでした。

「民衆こそ国の主役、役人は民衆によって雇われたものにすぎない」

藩政を改革すること3年・・・
身分秩序が薄くなり、町が活気づきます。
借金を返済しただけでなく、剰余金約10万両の藩となりました。

しかし・・・時代の大きな渦に飲み込まれていくのです・・・。

1867年10月、大政奉還が徳川慶喜により断行されます。
12月王政復古の大号令・・・
ここから旧幕府軍VS新政府軍の政権争いが始まりました。

1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発。
全国を巻き込んだ戊辰戦争となります。

早くから強兵を育ててきていた新政府軍は、各地で勝利しながら勢力を伸ばし・・・
長岡へ!!
長岡のピンチに、江戸にいた継之助は、江戸藩邸を処分し、その家財を売却、そこで得た資金で外国商人からガトリング砲を購入します。日本に3門しかなかったガトリング砲を2門買いました。その威力は、1分間に200発の弾が撃てるというものでした。他にも最新式の小銃を手に入れます。

江戸で中立の準備をし、おまけに暴落していた米も購入、さらに銅銭を買い入れます。
しかし、陸路を使って長岡に運び入れることは出来なくなっていました。

海路で運搬します。外国人から船をチャーター、米不足の北海道で米を売り、新潟で相場の上がっていた銅銭を売り、帰る時にも軍資金を増やしました。

江戸を出発してから1週間、軍資金を携えて、越後に帰りました。

そんな中、新政府軍から恭順命令が!!
これを継之助は黙殺します。

お金と軍備で戦争を中止できるかも!?

1868年5月2日早朝、信濃川を南西に・・・そこにあるのは、小千谷市慈眼寺。新政府軍の本陣がありました。

そこに待ち受けていたのは、軍監の岩村精一郎。
戊辰戦争の中止の・・・長岡藩の中立をかけた一世一代の交渉が行われました。
小千谷談判です。
しかし、交渉決裂。

藩に戻って、全軍に出陣を支持します。

後に新政府軍・奥羽鎮撫総督参謀・品川弥二郎は・・・
「なぜあの時、岩村のような小僧を出したのか・・・
 もし、河井の話をまともに聞ける人間が対応していれば、北越戦争は止められた」
といったとか。

長岡藩は、光福寺に本陣を置き、奥羽列藩同盟に加盟VS新政府軍の戦いです。

3か月に及ぶ北越戦争が、開戦しました。
長岡藩は、ガトリングで激しく抵抗します。
しかし、信濃川からの奇襲攻撃に、城は陥落・・・。
民の為にも歴代藩主の為にも城を取り返す!!

強い忠誠心を持って、落城から2か月後、八丁沖から襲撃し、城を奪い返します。
しかし、4日後にまたもや城は陥落・・・。

この時の戦いで、左足を負傷した継之助は、会津に向かいます。
南会津についたとき、その傷がもとで亡くなります。

そこで、部下たちに最後の指示をしました。

「いずれ奥州連合は敗れる。。。
 その時、殿の世継ぎをフランスに逃がすのだ!!
 その為の船は、外国商人に頼んである。
 そして、私の棺を作ってくれ。
 火を焚いてくれ。。。
 私を焚く火を。。。
 この首は、だれにも渡さん!!」

1868年8月16日享年42歳の生涯でした。

本当は戦いたくなかった継之助。
武装中立の武装は完ぺきでしたが、新政府軍はパスしてくれませんでした。
中立を武装によって守ることが出来なかったのです。

この北越戦争・・・
戊辰戦争の際、越後長岡とその周辺で戦われた戦。その戦死者は、両軍合わせて2200人を越えました。

越後長岡藩の敗北理由は・・・。
武装中立という考えが、長岡藩にも浸透していなかったのでは?
理念は前に走るも、家臣はついて行けなかったのかもしれません。

しかし、その忠誠心は、今も人々の心に受け継がれています。
遺骨は部下の手によって、妻の元へ。。。
長岡市栄涼寺、そこで、継之助は歴代藩主の墓を見守っています。


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