日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:山県有朋

奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新 (落合秘史)

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赤禰武人・・・長州の奇兵隊第三代総督をつとめた男・・・
「不忠不義の至り」と断罪されて刑死しました。
冤罪だという声もあるにはありましたが・・・長く捨て置かれてきました。

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こちらが本人です。

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花燃ゆでは、阿部亮平さんが演じてくれています。

こんなに笑っていますが、実は、いわゆる奇兵隊の闇を一人で背負ってくれています。




柱島の島医師・松崎三宅の次男に生まれたといわれています。
15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に学び、月性の紹介で浦靱負の郷校である克己堂で学びます。

1856年、15歳の時に短期間でしたが松下村塾で学びました。
その後、長州藩重臣浦家の家老・赤禰雅平の養子となり、陪審ながら武士の身分を手に入れ・・・梅田雲浜の望南塾に入塾します。

安政の大獄で捕縛されるものの、釈放され帰郷。
その後、吉田松陰らに相談し江戸において雲浜の救出を試みるが失敗、藩から謹慎処分を受けています。
1862年4月に謹慎が解かれると、松下村塾メンバーと共に尊王攘夷活動に・・・。
英国公使館焼き討ち、下関戦争に参加、その後、第三代奇兵隊総督となります。

1864年の第一次長州征伐のあと、藩内の幕府に俗論党(椋梨藤太・恭順派)VS正義派(奇兵隊などの主戦論派)の融和を図ろうとしますが、それが二重スパイの疑いをかけられることとなり、いろいろあって高杉らと対立するのでした。
ようやく奇兵隊を残すこととなったのに、高杉晋作またもやの暴走!!

武人は、同志から俗論派のスパイ、裏切り者と疑われ・・・そのせいで脱藩して大坂に逃走!!
その後も、一人で長州藩を何とかしようと頑張りますが、長州藩士に捕縛されて・・・
山口に送られるも、一度も詮議されることなく・・・
「奇兵隊総督当時に、馬関戦争に於いて敵前逃亡した罪」によって斬首され、首級は、出合河原に晒され・・・むごい最期を遂げるのです。

武人の獄衣の背には・・・

「真は誠に偽りに似 偽りは以って真に似たり」

と書かれてありました。

その死に山縣狂介(有朋)が関わっていたという説もあるのですが・・・この花燃ゆではどう描かれるのでしょうか??
もしかして描かれない???

奇兵隊は、上下の関係のないフラットな集団みたいな感じがします。
が・・・本当はそんなことは全くなく・・・
変な言い方になりますが、武士という”くくり”のない集団。。。
粛清に粛清を重ねた新選組の方が、当時の荒くれ者を管理するのには当たり前な感じがします。

もしかすると、闇の部分はこの赤禰武人が全部持って行ったのかもしれません。。。


奇兵隊150年 奔走する幕末最強集団はこちら

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1877年、東京・上野公園で・・・日本の近代化を象徴する大イベントは行われました。
「第一回内国勧業博覧会」です。
1万4千点が出品され、入場者数は45万人・・・明治日本の殖産興業を内外に示しました。
この博覧会を成功に導いたのは、維新の三傑・大久保利通でした。

1868年1月鳥羽伏見の戦いで幕府軍を倒した薩長・・・その薩摩藩士だったのが大久保でした。
大久保が抱いていたのは、万国対峙。。。迫りくる西欧列強に対し、日本を新たな国にしなければ・・・!!
そして、明治新政府を樹立しましたが、国造りは混乱します。

そして・・・盟友・木戸孝允との確執、各地で起こった農民一揆、薩摩との内乱・・・
そんな大久保の一大転機は・・・欧米視察でした。
日本の進むべき道は、殖産興業による富国策を考えます。
明治維新の大義とは一体なんだったのでしょうか?


1868年3月・・・討幕を果たし、新政府を誕生させた大久保たちは、新しい国造りの理念を宣言します。
「五箇条の誓文」です。
天皇を頂点とし・・・
”広く会議を興し、万機公論に決すべし!
議論を重視した国家を目指しています。

しかし、高い理想を掲げたものの・・・実際に新政府を支えていたのは藩や藩主、旧勢力が残っていました。
総裁は有栖川宮熾仁親王、議定は・・・藩主・島津忠義(薩摩)、山内豊信(土佐)、浅野長勲(安芸)、松平慶永(越前)、徳川慶勝(尾張)・・・と、参与として藩士・大久保利通、西郷隆盛、後藤象二郎・・・だったのです。


財源と軍事力をどうする??
財源は・・・全国の総石高は3000万石で、そのうち新政府の財源は徳川家の直轄地だった800万石でした。
軍事力は・・・薩摩、長州などの雄藩からの軍隊のみ。
統一した軍事行動などできませんでした。
どうやって西欧列強に立ち向かう・・・??

木戸孝允が抜本的な改革案を打ち出します。大名から土地と人民を天皇に帰し中央集権化をはかる”版籍奉還”です。

1869年6月版籍奉還を布告。
ところが・・・藩主は知藩事として藩の統治を認められ、版籍奉還は骨抜きに・・・
そこには・・・大久保の逡巡がありました。

「領土領民は”奉還”することが”至当”
 しかし、”時勢”がまだ熟していないので、”一部返上”にとどめるべき」by利通

いきなり既得権益を奪ったら、反乱になるかも知れなかったからです。
薩摩のことを危惧していたのかもしれません。

政府を維持していくためには、藩主たちの協力が必要だったのです。
改革は少しずつ進めなければ・・・
しかし、財政はひっ迫・・・1869年7月直轄地で農民一揆が起こります。
版籍奉還が骨抜きになったので、直轄地に重税をかけたせいでした。

さらに大凶作・・・一揆は全国各地に拡大します。その数11件!!

「民衆の多くが、新政府に不審を抱き、うらみの声をあげている」by利通

状況を打開しなければ・・・!!
助けを求めたのは、島津久光でした。
説得するために、1870年大久保利通鹿児島に帰郷。
ところが・・・結果は燦々たるものでした。
藩の解体に関わることをしていると大久保を痛烈に批判します。

説得にも耳を貸さず・・・皇居の護衛をしていた薩摩兵1000名を撤退させると対決姿勢を鮮明にします。
一触即発でした。
薩摩藩のクーデター・・・??内乱の危機・・・??
1871年7月・・・秘密裏に解決策が・・・??
山県有朋と野村靖が作成した方策は・・・藩そのものを解体するほか道はないのでは・・・??
大久保も同意せざるを得なく・・・廃藩クーデターを画策します。

西郷と山県は、新兵の協力を取り付け、藩への抑止力とします。
そして・・・この命令を出来る唯一の人は・・・明治天皇でした。

「篤と熟考 今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ、大英断に出て瓦解いたしたらん」by利通

1871年7月14日天皇が廃藩置県を命じます。
各藩からの抵抗は思ったほどではなく・・・戊辰戦争の戦費拠出、藩財政が破たんしていたのです。
大久保たちが藩主に出した提案は・・・借金について、政府がそれを保証するというものでした。
士族に家禄(給料)を給付することにしたのです。
こうして、旧藩主・知藩事たちは、東京に集められます。
全国に261藩ありましたが、3府72藩と再編され、各地へ府知事・県令が派遣されたのです。
新政府の支配は地方にまでおよび、中央集権化が成されます。
地租改正・国民皆兵制とつながります。

1871年11月岩倉使節団として派遣されます。
不平等条約の改正と近代化の調査を目的としたものでした。

産業革命で経済発展をし、超大国となって繁栄していたイギリス。。。
4か月で10都市を訪問し、産業の仕組みを視察します。
徹底的な機械化に・・・鉄鋼・紡績に・・・鉄道網に・・・世界の工場として発展していたイギリス。。。
西欧列強に勝つためには、殖産興業で国力を高めなければ・・・!!と思うようになります。

国家主導で産業を保護育成しようとします。
1873年5月26日帰国・・・しかし、新政府が内部分裂・・・。
事の発端は、西郷隆盛ら留守政府が進めていた征韓論でした。
大久保たちが不在の間、朝鮮との国交樹立を要求していたのです。
受け入れられなければ戦争も辞さない・・・!!

そんな西郷に、大久保は異を唱えます。
経済発展をすすめる・・・内地優先だ!!と、
閣議決定されたのは、西郷の挑戦派遣が閣議決定??
しかし、岩倉具視と画策し、水面下で説得します。
1873年10月24日、明治天皇の裁断によって西郷の朝鮮派遣が延期となります。
破れた西郷は辞職し・・・下野しました。
板垣退助、江藤新平も新政府を去っていきました。

1873年11月大久保は巨大組織・内務省を作ります。
大久保利通は、初代内務卿に就任し、権力を手にしました。
大蔵卿には大隈重信、工部卿には伊藤博文。。。
大久保に賛同する面々・・・大久保専制体制を樹立させます。
それは、強烈は批判の的となっていきます。
1874年1月17日板垣退助らが意見書を提出しました。
厳しい批判にさらされる大久保。。。

絶対的な内務省の力で殖産興業する??
国民の意識も変えなければ・・・!!

”産業力とは、人民の工業を政治が育成し、怠惰な者は一人も生まず、
 国家の富強に邁進させることである。 
 列強と肩を並べることは可能なのだ”


板垣や江藤は、議会創設を求めます。
「今、政府の実態は”天皇”にも”人民”にもない
 ただ”有司”すなわち官僚の手中にあるのみだ
 言論は抑圧され、国家はまさに崩壊必至のただ中にある
 これを救うには、民撰議員”議会”を創設し、天下の公議を広く起こし、官僚の手から政治を奪い返すほかない」

木戸孝允も、明治維新の理念「万機公論」を唱え、議論と議会による国政を!!と、大久保に対抗してきました。
その声に応えるべきなのだろうか・・・??

殖産興業か・・・?議会創設か・・・??
大久保利通は、日本の未来の大きな分岐点に立たされていました。
新政府の分裂の危機にどう対峙するのでしょうか??

内務省による殖産興業に舵を切った大久保は、国際競争力のある生糸に・・・
内務省の管轄となった富岡製糸工場を拠点とし、イギリスのような貿易立国を目指します。
貿易のために海運業を発達させます。
国家予算の6%を、岩崎弥太郎の三菱汽船会社に投資、岩崎は外国の汽船会社を一蹴しました。
貿易商・三井物産の開業を支援、生糸の製造、運搬、販売・・・と、ルートを作っていきます。
その結果、1909年には、生糸の輸出量が世界一となります。

しかし・・・大久保の内務省による殖産興業には、問題もありました。
民が育ってきたなら払い下げる・・・つまり、政と民の癒着問題です。
さらに大久保は、銀行の設立!!
しかし、銀行設立には莫大な資本が・・・!!
そこで目を付けたのは、士族や華族の給料・家禄でした。
当時、家禄は政府歳出の26%を占めていました。

そこで、大久保と当時の大蔵卿・大隈重信は、現金での家禄の支払いをやめ、金禄公債による5年据え置き30年償還の債権での支払いとし、その資本が銀行設立の資本となったのです。
明治11年には、銀行は153行を数えるまでになりました。

しかし、この公債での支払いは、華士族の家計を直撃します。
元本がいつ支払われるかはわからない・・・
大部分の士族が困窮していったのです。
たとえ維新の功績のあった士族であったとしても・・・!!

1876年3月廃刀令施行。。。
財産も誇りも失った士族たちの不満はピークに達していました。
1876年10月、神風連の乱を皮切りに、秋月の乱、萩の乱・・・
そして・・・1877年2月・・・大事件・・・西南戦争勃発です。
共に幕末に命を懸けた盟友・西郷隆盛率いる薩摩士族たちの一斉武装蜂起・・・。
戊辰戦争にも匹敵する内乱となってしまいました。

しかし、その最中でも、殖産興業の手は緩めませんでした。
8月第一回内国勧業博覧会開催。
会場となった上野には、6つのパビリオンが・・・
その成果が発表されました。

ここで発表された臥雲辰致が発明した”紡績機・ガラ棒”は、この展示をきっかけに各地に普及することになります。
博覧会には、各地の産業を競わせるという意味もありました。
出品された作品は、1万4000点、入場者数45万人・・・。
大成功を博したのです。

9月24日・・・西郷の自刃によって西南戦争終結。。。
それは、この博覧会の会期中の事でした。

そして・・・突然の悲劇が・・・!!
1878年5月14日紀尾井町の清水谷で大久保利通は不平士族に襲われ暗殺・・・志半ばの死でした。
翌年・・・満20歳以上の男子に選挙権を与える地方会議が・・・。
これは、大久保の死の2か月前に提出された上申書に基づいていました。
殖産興業のためにも、民の自治を考えていた大久保。。。
地域の代表者が政治に参加できるように・・・。

明治維新の理念「万機公論」・・・大久保は、地方から実現させようとしていたのかもしれません。

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大久保利通の肖像―その生と死をめぐって

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大宰相・原敬

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東京駅丸の内駅舎・・・現在、戦災で失われたドームが復活し、大正3年創建当時が蘇えっています。
この駅舎の一角で、かつて歴史を大きく動かす事件が起きました。
大正10年11月4日、一人の政治家がここで暗殺されました。

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”平民宰相”原敬です。
第19代総理大臣原敬・・・原は、どういう業績を残したのでしょうか?
原が首相を務めたのが、大正7年~10年の3年間・・・
この時代は、大陸にどう向き合うのか??世界にどう対応していくのか??そんな時代でした。

岩手県盛岡市、安政3年に南部藩で家老を務めた武士の家に生まれ、12歳で経験した戊辰戦争は、原の人生に大きく影響しました。
幕府側について敗れた南部藩・・・朝敵の烙印を押され、多額の賠償金を支払います。
原家の収入も10分の1となり、原が東京での学費は土地や家屋を手放してまで捻出しました。

賊軍出身というハンデを背負った原・・・世に出るためには2人の人物との出会いが重要でした。

一人はフランス帰りの啓蒙思想家・中江兆民です。
23歳の頃、兆民のもとで半年に渡ってフランス語と啓蒙思想について学びました。
そこで原は人生のカギとなる概念「公の利益」を学びます。
村単位、藩単位の利益ではなく、日本全体の利益です。
卓越した語学力と事務処理能力で、明治18年にはフランス・パリの公使館勤務となりました。
貪欲に知識を吸収し・・・力を入れたのが国際法でした。

そしてもう一人・・・
明治23年・・・後に外務大臣となる陸奥宗光の秘書官となりました。
原は日本の悲願である不平等条約の改正をはじめ、外交の最前線で経験を積んでいきます。
そして・・・明治28年陸奥宰相のもと、外務次官となりました。
ところが・・・陸奥が病死し・・・原は外務省を辞め政治の世界へ。。。

明治33年伊藤博文が結成した立憲政友会に参加。
内務大臣に任命され・・・しかし52歳で・・・誰もが驚く世界一周旅行に出発するのでした。
太平洋を横断しアメリカ・・・大西洋を渡ってヨーロッパ・・・ロシア・・・原は世界が変わる予兆を感じていました。

20世紀初頭のアメリカ・・・
”将来この国が世界に対し、いかなるものとなるか常に注目しておく必要がある”
工場や製鉄所、大学などを片っ端から見学し、将来のアメリカの躍進を確信したのです。

大正3年第1次世界大戦勃発!!
イギリス・フランスなどの連合国と、ドイツ・オーストリアなどの同盟国が欧州全土で戦火を交えました。
世界秩序をリードしていたヨーロッパの衰退がここから始まりました。

大正7年・・・5年にわたって続いていた第1次世界大戦終結。。。
戦闘員、民間人含めて1000万人の死者を出したと言われる未曽有の戦乱は、世界の潮流を変えていきます。戦後処理のために行われたパリ講和会議では・・・主役を務めたのは、第28代アメリカ大統領だったウィルソンでした。
武力を背景にした帝国主義から国際協調の道へ・・・!!
日本も新しい国際秩序に対する対応が求められていました。
大正7年第19代内閣総理大臣に就任、初の政党内閣の誕生でした。
原は、国際協調を外交の軸に据えました。
しかし・・・そこには乗り越えねばならない壁がありました。
シベリア出兵問題です。
発端は・・・大戦終結1年前の大正6年。。。
ロシアで革命が勃発し、世界初の社会主義政権が誕生しました。
革命がヨーロッパ全土に波及することを恐れたイギリス・アメリカは、治安維持を名目に軍隊の派遣を実行します。
日本も要請に伴って派兵します。
当初はウラジオストクに限る各国共同での限定の派兵でした。
アメリカ9000・フランス1200・イギリス800・カナダ5000・イタリア1400・日本14000・・・
しかし、日本国内には、戦線を拡大しようとする勢力・・・陸軍参謀本部が・・・。

その頃、西シベリアのオムスクを拠点に反革命政府が樹立・・・
軍の目的は、これを後押しし、合わせてシベリアの資源を手に入れようとのことでした。
裏にいたのは元老・山県有朋。。。
当初山県は、出兵には慎重でしたが・・・しかし、出兵が始まると、軍の拡大計画を黙認。
政府もその意向にそって次々と派兵。。。
大正7年の原内閣発足当時で日本軍は7万人以上となっていました。
バイカル湖に至るシベリア東部地域一帯を支配するようになっていました。
列強がこの派兵に不審を抱く中、原はこの問題に着手します。
半年で全兵力の半分を削減します。

ところが・・・大正8年8月・・・
日本の支援する反革命勢力が大敗北を喫します。
レーニン率いる革命軍の怒濤の進撃にどう対処すればいい??
外交調査会では2つの意見が対立します。

陸軍大臣田中義一は・・・増兵を要望し、派兵の継続
兵力削減を推し進めてきたのに・・・??
増兵に転じては、アメリカとの協調はもう無理だ。。。

野党・犬養毅は・・・全面撤兵に踏み切る!!
軍事費が歳出の50%を占めているのにこれ以上は無理だ!!
財政が破たんする!!
シベリアで利用できる資源が少なかったのも一因です。

派兵か撤兵か??
いつ、どのようにするのか??

”余はとにかく今日までは日米の提携を主として来たり”

何よりも国際協調を重視した原は・・・大正8年12月撤兵方針を固め、アメリカの意向を打診します。
しかし、大正9年1月に・・・現地アメリカ軍は日本政府に無断で撤兵を通告してきました。
一方的な撤兵通告に原はこれを利用しようとします。

”この機会をとらえて綺麗に撤兵し、浦塩と中国に保持している鉄道守備にとどめる”

政治主導の撤兵を始めます。

大正9年9月13日・・・山県の別邸古希庵にて・・・
内容は陸相田中義一の処遇からでした。
田中が辞任するならば総辞職すると申し出た原。
引き留めにかかる山県に・・・

「軍事に空いても政府が政治上全責任を負う方針に改めるべきです。
 参謀本部が天皇に直隷するといって、政府の外にでもあるように統率権を振り回そうとするのは思慮の足りないものです。
 このままでは皇室に悪影響を及ぼしかねません。」

明治憲法下、軍は天皇の直属でした。
軍を内閣でコントロールしようとした原。。。
山県に同意を求めたのです。
アメリカとの協調を重視して撤兵に向けて舵を取る原。
選挙で選ばれた人の政権が初めて兵を移動させた瞬間でした。

大正10年9月3日・・・6か月の外遊を経て帰国した皇太子(昭和天皇)・・・これからの君主は、広く世界を知らなければならない・・・原が周囲の反対を押し切ってさせた外遊でした。

ヨーロッパ各地を歴訪した昭和天皇は・・・
「世界平和の切要なるを感じた」と言ったといいます。
若き皇太子の心にも、原の想いは届いたのです。
内政改革も断行します。
鉄道を拡大し、国内産業の再編、国民経済は飛躍的に発展します。

暗殺当日・・・原は中国の新聞記者のインタビューを受けます。
そこで、中国と新たな関係を築きたいとしていました。

”われわれが中国から得ようとしているのは、実に商業的性質のものです。
 中国は各国が均等な立場で競争できる地域であり、日本には中国との通商を独占しようとする意図は全くありません。”

それは・・・中国を市場とし、戦後の日本に繋がる平和的貿易国家の道でしたが・・・
原の構想は幻に終わります。

その日・・・大正10年10月4日午後7時20分東京駅・・・
遊説のために改札に向おうとした原首相を・・・短刀を手にした一人の男が・・・!!
心臓までを貫いた短刀・・・原敬死去・・・享年65歳でした。
悲報はすぐさま世界に打電され・・・各国はその死を悼む記事で埋め尽くされました。

”原の外交政策は常に融和的だった”
”彼を失ったことは日本国民にとって大きな痛手である”

原の死後・・・その遺志を受け継ぎ国際協調をとっていきます。
しかし・・・その10年後・・・
昭和6年満州事変勃発!!
政府は軍の暴走になすすべもなく・・・日本は孤立化の道を歩むのです。
強力な政治力で軍を抑え、産業立国を目指した原。
もし、生きていれば・・・日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。


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原敬の180日間世界一周 (もりおか文庫)

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大正デモクラシー体制の崩壊―内政と外交

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小村寿太郎 若き日の肖像

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 日露戦争・・・大国ロシアを相手に国家の存亡をかけて戦った戦争でした。
諸外国からも無謀と思われていましたし、日本も絶体絶命の危機に陥っていました。
背景には、国家予算の7倍もの戦費がありました。
政府の借金・・・12億9300万円・・・財政は破綻状態でした。

もはや戦争を継続できなかった日本は、辛くもロシアとの講和に持ち込むことができました。
”ポーツマス講和会議”です。
komura

日本の全権を担って交渉したのが外務大臣・小村寿太郎。
この時、小村がこだわったのが賠償金でした。
断固拒否するロシア皇帝・・・これ以上戦いを続けられない日本は、賠償金を断念するのもやむおえない状況でした。

一方国民は、実情も知らずに賠償金をとらずには!!と、不満が爆発!!

賠償金獲得こそが国益!!と、会議に臨んだ小村。
小村は秘策を練っていました。
それは、一旦会議を決裂させるというものでした。


小村の執念が引き出したロシアの妥協案とは???

1905年に行われたポーツマス講和会議・・・全権代表は小村寿太郎。

日露戦争直前から戦中の電報のほとんどは・・・各国公使や領事と小村寿太郎が交わした記録でした。
戦費を調達するのは容易なことではなかったようです。

1904年2月10日・・・
ロシアに宣戦布告し、ロシア戦争勃発!!
当時の中国の混乱に応じ、ロシアは、満州へ17万の軍隊を派兵、影響力を強めていました。
朝鮮王朝にもロシア寄りの政権を樹立させようとしていました。

この動きに、安全保障上の危機を感じた日本は、ロシアを撤退させようと宣戦布告したのです。
しかし、経済力、人口共に、ロシアは日本の3倍・・・。
政府は、1年の限定戦争と位置付けていました。
それでも、国家予算の2倍、4億5000万円を予定していました。

その不足は外債・・・その指揮を執ったのが外務大臣・小村寿太郎でした。
小村は日銀副総裁の高橋是清を世界の経済の中心ロンドンに派遣。
しかし、資金調達は困難を極めました。
開戦目前になると・・・交際価格は暴落・・・新規に公債を発行しようにも買い手がつかなくなっていました。

当時交際にかかる利率・償還期間は・・・
イギリスで2.5%、50年でしたが、日本に突き付けられたのは・・・6.0%で10年でした。
この劣悪な条件でなければ発行できない・・・!!

おまけに予想を超えて膨れ上がる戦費・・・。
最終的には国家予算のおよそ7倍の約18億円・・・。
現在に直すと400兆円です。

「私債でもいいので、早急に資金調達せよ!!」by小村寿太郎

その大きな要因は・・・開戦半年後に開通したシベリア鉄道にありました。
鉄道によって大量の兵士を送り込むことができるようになったロシア。。。
それに対抗し、日本も兵士を増強しなければならず・・・最終的には94万人を送ることになりました。
大規模な戦争へ・・・!!
近代兵器の大量導入!!
戦費を押し上げますが・・・
日本軍はロシアを鴨緑江から撤退させます。

日本軍優勢の風は、高橋是清に追い風となり、資金調達に成功!!
しかし、戦費が膨れ上がるにつけ、外債も増大し、8億円!!

また、1年以上の激戦で、日本は8万人を超える戦死者・・・もはや戦いは続けられない・・・!!

そんな状況に、陸軍参謀総長・山県有朋が桂首相・小村に意見書を出します。
「我はすでに有らん限りの兵力を使い尽くしており、敵に致命傷を与えておらず、ロシアが未だにわかに和を求めるに至っていない。」

ロシアと講和に持ち込みたかった日本・・・しかし、決定的な打撃は与えておらず、講和には持ち込めずにいました。
それから2か月、絶好の機会が・・・!!
1905年5月27日、日本海海戦。
バルチック艦隊を撃破、21隻を喪失させることに成功します。
講和へ・・・!!

日本ともロシアとも同盟を結ばない中立の国・アメリカに入ってもらおうとします。
セオドア・ルーズベルト大統領が、日本に好意的だと掴んでいた小村は、仲裁を依頼します。
会議は8月にアメリカで行われることになりました。

閣議決定されたのは・・・??
絶対的必要条件として「韓国の支配権」「ロシア軍の満州からの撤退」「遼東半島の租借権」「鉄道の一部譲渡」がありました。
比較的必要条件として、「軍備の賠償」があったのです。
あまりにも疲弊しきっていたので、早く戦争を終わらせることが最優先。。。
そして、植民地経営をして長期的にプラスになるのではないか?と、思っていたようです。

しかし、それを知らされていない日本国民は、勝利に酔っていました。
新聞も、賠償金30億円・・・と、国民を煽ります。

1905年7月8日、小村寿太郎は、全権代表としてポーツマス講和会議へ・・・!!
政府の目的と、国民の期待を胸に・・・!!

日本とロシアの講和交渉が始まりました。
小村寿太郎に対峙したのは、ロシアの全権代表セルゲイ・ウィッテ。
政府要職を歴任している強者でした。

日本の絶対条件を提示します。

①韓国支配権の容認
②日露両軍の満州からの撤退
③満州の清国への返還
④満州の門戸開放の保障
⑤東清鉄道南部支線に関わる権利の譲渡
⑥満州横断鉄道の利用を商用に限定
⑦旅順・大連租借権の譲渡

会議から7日後・・・おおよそは合意となりました。

これによって日本の戦争目的であった安全保障は確保されました。
その後の交渉では・・・

・日本への賠償金支払い
・日本への樺太割譲

となりました。

小村は・・・
賠償金の獲得が大切・・・財政の問題、植民地経営の問題からも賠償金をとっておきたかったのです。
しかし・・・賠償金と領土割譲の要求は拒否されます。

「ここに戦勝国などない。
 したがって敗戦国もないのだ。」byウィッテ。

このままでは交渉が進まない・・・!!
妥協案として・・・占領した樺太の北半分を諦める代わりに12億円の支払いを要求します。
皇帝ニコライ2世は・・・
「1寸の土地も1ルーブルの金も譲ってはならない」という厳しいものでした。

ロシア本国では・・・皇帝の力が揺らいでいました。
サンクトペテルブルクで行われた労働者の請願でもにたいする発砲事件・血の日曜日事件によって、政情不安定となっていたのです。

しかし、ロシアは強気で、戦争継続も辞さない勢いでした。

満州・ハルピンには、たくさんのロシア兵士が・・・戦闘態勢を整えていました。
おまけに、小村には批判が!!
”日本の強情と強欲が戦争を継続させようとしている”と、アメリカの新聞が書きたてたのです。

日本に好意的だったアメリカ世論が・・・ウィッテが新聞を誘導し、アメリカ世論をロシア寄りにしていたのです。
追い込まれていく小村寿太郎。。。

講和成立を優先??

満州軍総参謀長・児玉源太郎は、賠償金の要求に対し・・・
「桂の馬鹿が、償金を取る気になっている。
 朝鮮にのしをつけて、露に進上するようになるかもしれぬぞ。」
下手をすると、朝鮮半島での権益も失いかけない・・・。
児玉たち軍部は講和を望んでいました。

しかし、このまま妥協して、賠償金をもらわなければ、財政は破綻してしまう・・・!!

すでに、開戦前よりも税金は2倍に膨らんでいました。
これ以上の負担は・・・!!


決裂も辞さず??

賠償金は譲れない・・・!!
頼みになるのはルーズベルト大統領!!
小村は交渉を決裂させたと見せかけて、ニューヨークへ引き返し、大統領を説き、再度仲介に入ってもらおうと考えていました。

世論はロシア・・・ルーズベルトは引き受けてくれるのか??


ルーズベルトは、日本側にも妥協を求め始めていました。

「このまま賠償金を要求し続ければ、他の国々はロシアへの同情を傾け、ロシアに金銭の援助にまわるであろう。」

そうなれば戦争は継続され、多大な血が流れることとなる・・・!!
頼みのルーズベルトからの圧力!!

どうする??

膠着状態のポーツマス会議・・・
1905年8月26日、妥協しないウィッテに対し、小村は政府に打電します。
”談判を断絶するほか道はない!!”と、会議決裂を覚悟までして賠償金にこだわったのでした。

しかし、政府は・・・
”賠償金と領土の要求を放棄し、講和成立を目指せ。”と、戦争の終結を望みました。

8月29日交渉最終日・・・
思わぬ情報を日本政府から受け取ります。
ロシアは南樺太を割譲しそうだ・・・!!

ロシア皇帝は、賠償金の支払いは認めないものの、捕虜経費の支払いには応じる。
サハリンの南半分は日本の領土に・・・というものでした。
ロシアの敗北を認めたのは、小村の粘りに譲歩したからでした。

9月5日に調印・・・1年半にも及ぶ日露戦争は終結しました。

そこには、日本の譲れない絶対的必要条件、南樺太の割譲、そして7万人にも及ぶ捕虜引き渡しの経費の支払いが記されていました。

この捕虜経費は、486万440ポンド、2年後の1907年11月23日に日本側に支払われました。
およそ5000万円でした。
結局、賠償金の獲得は果たせなかったのです。

9月1日、新聞は一斉に講和条約の非難を。。。!!
国民は怒りを爆発させ、日比谷焼打ち事件が・・・!!
戦争を継続できないことを知らない民衆は、契約破棄、戦争継続を望んで暴徒と化します。
警察署、交番は焼き討ちにあい、負傷者1000人以上、死者17人を出す大惨事となりました。

小村は絶対条件を果たしたにもかかわらず、戦犯扱いされたのです。
賠償金を得られなかったことで、日本は財政難となります。
政府が内外に実施した借金は・・・12億9300万円・・・。

政府は毎年、一般会計の歳出の30%を国債費に充てなければならなくなっていました。
自転車操業で・・・多重債務者となってしまいました。
講和会議で手に入れた満州の鉄道・・・。
政府はアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンの資本を導入し共同経営を画策していましたが、小村はこれを反対し、南満州鉄道の経営を独占を推し進めます。
しかし、大陸政策は軌道に乗ることはありませんでした。

30年後の資料によると・・・あれだけの損失を出しておいて、経済的には全くお話にならない損をしている、国家にもっと利益をもたらすべきだと苦言を呈しています。

小村が心血を注いだ講和条約・・・その後の大陸経営には、禍根を残す結果となりました。

陸奥宗光・・・第2次伊藤博文内閣に於いて外務大臣を務め、日英通商航海条約を結び、条約改正に成功し、日清戦争と三国干渉の処理に当たった男。。。
恩氏である陸奥宗光を越えたい!!
という気持ちが、それが恩返しであると考えていたのかもしれません。

失敗した??
しかし、小村は一等国としての確固たる日本の地位をきっちりと手に入れました。

賠償金なしの講和条約が日本に与えた影響は??
一等国としてのレールを敷いた小村。

外交の本質、多面性、複雑性、現実的な妥協点・・・
私たちはその外交の複雑さを理解しているのでしょうか??
もっと理解する必要が、安全に繋がるのです。

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1863年、長州の高杉晋作は、「戦は武士がするもの」という常識を覆し、町人でも農民でも、身分を問わずに参加できる実力主義の軍隊「奇兵隊」を創設しました。
kihei















幕末・維新の戦いで、幕府の大軍相手に活躍し、維新の立役者となりましたが、その後どうなったのでしょう?

新政府は、奇兵隊に冷たかったようです。
1869年長州藩は、奇兵隊をはじめとする長州の諸隊を解散し、常備軍に再編成すると発表しました。
が・・・常備軍となるのは、5000人のうち2000人ほどだけで、残りの兵士たちは放り出されることになりました。

平等だった奇兵隊・・・
いつの間にか戦功や家柄によって階級の差が生まれていました。
伊藤博文や山縣有朋のように政府の官僚となる者もいれば、常備軍に入る幹部・・・
しかし、一般の兵士たちは何の補償もなしに失業者になってしまいました。

その為・・・諸隊は新政府に対して反乱。。。農民一揆と結びついて行きます。

かつての同志、参議の木戸孝允は現地に駆け付け鎮圧軍の指揮をとり翌70年2月に反乱は終結。
133名が処刑され、逃亡した反乱兵はその後10年指名手配されてしまったのです。

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