志士 吉田松陰アンソロジー/池波正太郎/古川薫/童門冬二 【後払いOK】【2500円以上送料無料】

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1882年イギリスにて・・・ひとりの日本人の伝記が発表されました。
タイトルは”吉田寅次郎”・・・幕末の志士・吉田松陰。。。
作者は、”ジギル博士とハイド氏”のロバート・スティーブンソンです。

「ほかの人間なら意気消沈してしまいそうなどんなことがおこっても、
 吉田はかえって自分の使命を果たす意欲をかきたてた。」

syouin松陰は、どんな困難が起こっても、常に自分の信じる方向へ向かっていきました。
あの時代・・・押し寄せる西欧列強!!開国を迫ってきました。
対等に見てくれない西欧列強に対して、断固と立ち向かう松陰!!
日本の独立を守るためにはどうすればいいのか??

松陰は、長州藩・下級武士杉家の次男として生まれます。
苦しい家計を支えるために、家族で畑を耕す毎日でした。
5歳の時・・・親戚の吉田家に仮養子として迎え入れられます。


吉田家は、長州藩で山鹿流兵法師範を務める家柄でした。
山鹿流兵学は、江戸時代に生まれた兵学で、戦術だけでなく、武士道・精神論を重視した兵学です。

松陰を指導したのは、叔父の玉木文之進。
その教育はまさにスパルタでした。
そこで教えられたのは「公」と「私」。
自分の人生は長州藩のためにある!!と、松陰は作り上げられていきます。
そして・・・わずか11歳で藩主・毛利敬親に兵学講義を行えるまでになりました。
長州藩は、松陰に一目置かれるようになり・・・明倫館で兵学講義を行うようになります。

その頃・・・アジアを震撼させたのはアヘン戦争!!
1840年イギリスが清でアヘンを密輸出したことが原因で起こった戦争です。
そして・・・あの清がイギリスに敗れた!!と、周辺諸国を恐怖に陥れます。
三方を海に囲まれた長州藩!!危機感を募らせていきます。

そして・・・松陰の関心は世界へ・・・!!
その中でも、もっとも関心があったのは、アメリカ合衆国のようです。

「不羈独立を目指す!!」ようになるのです。

長崎で・・・自分の浅はかさに気付き、アヘン戦争の実態を調べます。
”イギリスは百発百中だったのに対し、清の大砲は、十発のうち九発は当たらなかった”という現実に・・・西欧とアジアの力の違いは歴然としていました。

山鹿流兵学・伝統兵学・和流砲術で十分ヨーロッパと戦えると思っていた松陰・・・
アヘン戦争の厳しさ、中国の軍備が通用しない現実を知ることとなるのです。

自分が学んできたこれまでの兵学、軍備は役に立たない・・・!!
長州を守るためにどうすればいい??

1851年、松陰は自分の知識を高めるために、江戸へ遊学します。
そして・・・さらに東北への旅を計画します。
当時、津軽海峡にはロシア船の恐怖に晒されていたからです。
しかし・・・出発の期日までに藩の正式な許可証が発行されませんでした。
なので、脱藩して友人と東北の旅に出ます。
つまり、”私”よりも”公”を大切にするということです。
個人的に、脱藩の罪に処せられてもそれは個人の問題で、公の長州藩の名誉を守ったのです。

脱藩を冒してまで旅に出た松陰は・・・水戸でその後の人生を左右する人物に出会います。
会沢正志斎です。
当時・・・日本人は、自分たちの国は藩だと思っていました。
その中でも会沢は・・・”国とは天皇を中心とした日本全体”という考え方をしていたのです。
そう、どこまで守ればいいの?という答えは、水戸にあったのです。
そして、”日本”を意識するようになります。

旅から帰ってきた翌年の1853年・・・ペリー艦隊が浦賀に来航!!
幕府に開国を迫ります。
「これらの船は、艦隊のごく一部にすぎない!!今度は、全艦連れて帰ってくる!!」byペリー

不羈独立への道を進むために攘夷を・・・!?

翌年ペリーが来航した時にどういう対応をすべきか??
主君に進言し、長州藩を通して幕府に訴えようとします。
ペリーに対して攘夷を決行することを薦めます。
しかし、単なる追い払いではなく・・・大砲・小銃は西洋のモノに・・・海軍も西洋に習うべしとしています。
そのためには、国を開くこともありうると・・・!!

しかし・・・幕府も長州藩も・・・勝ち目のない戦には賛同してくれません。
当時の長州藩としては、幕府を重視していました。幕府を批判して軍備をやるというのは、長州藩の方針ではなかったのです。
松陰の危機感をよそに時間は過ぎていきました。

1854年1月ペリーが再び来航。
しかも、4隻ではなく・・・7隻で・・・!!

3月3日・・・遂に日本は日米和親条約を結びます。
武力を背景としたペリーに屈したのです。
アメリカとの国交ができたということは、松陰の攘夷も無くなり・・・しかし、大国に屈しないためにどうすればいいか?考えます。

条約調印後、ペリーは下田に移っていました。
ペリーの後を追って松陰は、3月18日弟子の金子重之助と一緒に下田に入ります。
厳戒体制の下田で・・・匿われながらあの計画を練っていました。
海外密航の・・・!!
優れた文明を学ぶために!!

当時、海外留学は幕府によって固く禁じられていました。
発覚すれば死罪かも・・・??
日本の独立をかけてそんな計画を練っていた松陰。
3月27日金子と共に港の中の小島に身を隠します。
寝静まるのを待って深夜2時・・・遂に決行します。
荒波の中、漁船でペリー艦隊へと向かいます。

「世界を見たい・・・!!」

懸命に、海外への思いを訴える松陰・・・しかし、それがペリーに届くことはありませんでした。
結局・・・送り返されることとなった松陰と金子。。。
人生をかけた松陰の計画は失敗と終ったのです。

この事件は死の危険を冒すことも厭わなかった二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして非常に興味深かった。
この日本人を見れば、この興味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか。
失敗に終わった松陰の海外密航・・・それは、ペリーに日本人の力強さを見せつけたのでした。

ペリーの助言もあって、命を助けられた松陰は、萩にある実家の杉家で謹慎生活を送ります。
そこに集まってきたのは将来の日本を憂う若者たちでした。
松下村塾を開き、語り合うようになります。
久坂玄瑞・高杉晋作・・・明治維新の原動力となった人々に、大きな刺激を与えるのです。

松陰は罪人だから、松下村塾に行くのは立身出世にはマイナスです。
あえて行こうと思ったのは、松陰の人間性にだったのです。
集まった門下生にあった教育を施す松陰・・・
しかし・・・それも長くは続きませんでした。

幕府の実権を握っていたのは大老・井伊直弼。。。幕府の強化を進めるために、安政の大獄を行います。
松陰はこの取締りの対象となります。
江戸で幕府の取り調べを受ける松陰・・・。
取り締まりの結果・・・死罪・・・。

1859年10月27日吉田松陰・斬首。。。

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故郷の萩・・・生誕地のすぐそばに、松陰の墓があります。
この墓が建てられたのは、松陰の死からわずか4か月・・・。
罪人だった松陰の墓を造ることははばかられていました。
にもかかわらず・・・それを実行したのは、高杉晋作をはじめとする門下生たちでした。
松陰の意志を受け継ぎたいと、自らの名も彫り込んでいます。

松陰の死後8年・・・門下生たちは、徳川幕府を倒し、新しい時代を築いていきます。
新政府のメンバーとなった木戸孝允・伊藤博文は、明治4年に新政府主要メンバーと共に欧米視察に出ます。
松陰の意志を受け継いだのは他にも・・・
鉄道建設に尽力した飯田俊徳・東京工業大学初代校長の正木退蔵・近代造船の発展に尽力した渡辺蒿蔵・・・彼ら門下生も、海外留学し、日本をリードしていきます。

西欧に負けない国を目指す!!
不羈独立・・・門下生たちは、独立した確固たる日本を作るために走り続けたのです。


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