>ー幕末バトル・ロワイヤルー井伊直弼の首(新潮新書)【電子書籍】[ 野口武彦 ]

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江戸時代末期・・・1860年3月3日、季節外れの雪が舞う江戸城桜田門の前で、前代未聞の事件が起こりました。
桜田門外の変です。
暗殺されたのは、幕閣・大老・井伊直弼!!
戦国の世を生き抜いた井伊直虎、徳川四天王の井伊直政の末裔です。

事件を起こしたのは、水戸浪士ら18人!!
対して直弼は60人もの大行列を従えていました。
僅か3分・・・どうして直弼はあっけなく殺されてしまったのでしょうか??

井伊直弼が大老に任ぜられたのは1858年のこと・・・44歳の時でした。
直弼は、幕府が直面していた2つの問題を直ちに解決しなければなえいませんでした。
一つは跡継ぎが居なかった13代将軍・家定の後継者を誰れにするかと言う事・・・
この時、一橋派(一橋慶喜を推す)と南紀派(徳川慶福)に対立していました。
南紀派だった井伊直弼は、一橋派だった徳川斉昭を押さえ、慶福を第14代将軍徳川家茂としました。

もう一つはアメリカとの通商条約・・・
1853年の黒船来航以来、アメリカは日本に条約締結を強く求めていました。
直弼は、アヘン戦争以降、清が西洋列強に侵食されていることに鑑み・・・日本が植民地化されないためには、条約調印も止む負えないと考えていました。

しかし・・・開国を望んでいなかった朝廷は、条約調印を許可する勅許を出そうとしません。
そこで、直弼は、1858年6月・・・朝廷の勅許なしに、日米修好通商条約調印を断行!!
これに怒ったのが、将軍継承問題で対立していた前水戸藩主・徳川斉昭でした。
攘夷派の大名たちを引き連れて、江戸城に押しかけてきました。

「直弼を切腹させるまでは、城から出ぬ!!」

しかし、大名がさだめられた日以外に登城するのはご法度・・・
直弼は、禁を破った斉昭に、水戸城内の一室に永蟄居を申し付けたのです。
この厳しい沙汰に水戸藩は黙っていません。
井伊直弼打倒のために、朝廷に働きかけます。
すると、朝廷は幕府の勝手な調印を非難するとともに、戊午の密勅を下しました。
幕府の家臣である水戸藩に、直接勅書が下されることは、前代未聞の事でした。
幕藩体制が崩れてしまう・・・
直弼は、国家の争乱を防ぐために、弾圧を開始しました。
勅書を手配した水戸浪士、攘夷派、反幕思想を持つ者、公家などを、次々と牢へ・・・安政の大獄です。
処罰されたのは75人・・・8人が切腹や死罪となりました。
人々は直弼の政治を恐怖政治と恐れました。

すべては幕府の威信を守るため・・・これが、周囲から大きな恨みを買う原因となっていきます。
1859年12月、直弼は水戸に下した勅を返納せよという新しい勅書を朝廷に出させます。
流石の水戸も、朝廷の決定なら・・・と、勅書の返納を決めましたが・・・しかし、水戸藩の過激派が大反発!!
「朝廷をないがしろにし、外国に媚び諂う幕府のあやまちを我々が正す!!」
と、脱藩し、幕府に鉄槌を下すべく、江戸へと向かいました。

1860年3月1日・・・事件発生2日前・・・
江戸に潜入した水戸浪士たちは、日本橋の待合茶屋で計画を練ります。
襲撃部隊は、総指揮者の関鉄之助、見届け役は岡部三十郎・薩摩浪人有村次左衛門など総勢18名。
狙うは大老・井伊直弼の首一つ!!

3月3日は井伊直弼は確実に登城する!!
彦根藩邸から60人を引き連れて、500m離れた桜田門へ・・・
その日は朝から、季節外れの雪が降っていました。

1860年3月3日午前7時ごろ・・・
水戸浪士ら18名は、愛宕神社に集結!!
雪が降りしきる中、江戸城・桜田門へ向かいます。
桜田門付近は、登城の大名行列を見物しに来た人々で賑わっていました。
見物客に交じって井伊直弼を待つ水戸浪士たち・・・。

午前9時ごろ・・・
直弼の行列がやってきました。
桜田門まであとわずか・・・
一発の銃声を合図に、襲撃犯たちは一斉に斬りかかりました。

井伊直弼死亡・・・46歳・・・大老になって2年後の事でした。
犯行時間はたったの3分でした。

どうしていとも簡単に暗殺されてしまったのでしょうか??

①プライドと信念
事件の3日前・・・直弼は水戸藩と親しい間柄の吉井藩主・松平信和から、忠告を受けていました。
「水戸浪士が不穏な動きをしております。
 身の危険がある故、早急に警護を増やしてはいかがか・・・??」by信和
「諸侯の警護の数は、幕府が定めるところ。
 大老自らそれを破っては、他の者に示しがつかぬ。。。」by直弼

直弼には、幕府の秩序を守り抜くという信念がありました。

事件当日早朝にも・・・
「水戸浪士が襲撃を計画しています故、十分注意されよ」と文が・・・

直弼はこれも無視、誰にも相談することなく登城したのです。
過去に、大名行列が襲撃され、藩主が殺される例などありませんでした。

②天気
お供の者たちは、雨合羽を着て、柄袋で刀を覆っていました。
柄袋をほどいて、かじかんだ手で刀を抜くのは難しく、反撃が遅れ斬られてしまった・・・。

この事件で襲撃側の死者は1人でしたが、彦根藩側は8人の死者、深手は多数出したのです。
知らせを受けて来た彦根藩士たちは、死傷者を運び、主君の遺体を駕籠に乗せると、急いで藩邸に戻っていきました。
藩邸ですぐに、直弼を検死・・・
「太ももから腰にかけて銃弾が貫通している・・・!!」
右太ももから腰に・・・銃弾が貫通していました。

天寧寺にある供養塔には、直弼の遺品が埋められています。
しかし、一つだけ埋められなかったもの・・・
それは、桜田門外の変の時に駕籠に敷いていた座布団でした。
その座布団の血の跡から、斬られたのではなく、銃によるものでは・・・??
事件の時に聞こえた銃声は一発・・・。
これまで総指揮者である関鉄之助が襲撃の合図のために撃ったとされてきましたが・・・
しかし、その一発が直弼の致命傷になったのか・・・??


関の位置からでは、普通に撃てば上から下に貫通するはず・・・
もう一人拳銃を持っているものがいました。
襲撃者の記録には、鉄砲所持・関鉄之助、森五六郎とあります。
森五六郎は、書状をもって、一番に乗り込んだ男です。
駕籠の前でひれ伏している五六郎なら、右太ももから腰に貫通するのもわかります。
検死報告と同じ角度になるのです。
しかし、事件後、五六郎を一時預かっていた臼杵藩の家臣の記録によると、森自身は発砲を否定しているのです。
誰が直弼を撃ったのか・・・??
近年、森が持っていた拳銃が発見されました。
森五六郎は、書状を出した瞬間、刀で切りかかったのではなく、直弼に向かって発砲したという証言もあります。

明治まで生き延びた海後磋磯之介の記録によると・・・
直弼の駕籠の近くにいる森五六郎は、「直訴状差し上げ、駕籠に訴えると見せかけて短銃発砲」と書かれてあります。
森は、銃を発砲する役割も担っていたのです。
より確実に、直弼暗殺を成功させるため、至近距離から駕籠を襲撃したのです。
周到に計画を練っていたことが伺えます。
襲撃者の多くは逃亡を断念し、直弼を撃った森五六郎は取り調べの際・・・この拳銃は行方不明となっていました。

井伊直弼を撃った短銃のグリップは、高級木材・紫檀でできていて、全体的に桜の文様が・・・
贅を尽くしたこの拳銃・・・似たようなものがあります。
アメリカコルト社の51ネイビー(コルトM1851)です。
51ネイビーは、ペリーが来航した際に持ってきた拳銃で、日米和親条約が結ばれた際に、幕府高官に送られました。
その拳銃が桜田門外の変で使用された・・・??
拳銃は複製されたようで・・・水戸藩・斉昭の指示によるものでした。
斉昭は、開国に当たって直弼と対立しているときに、水戸藩内に武器の製造工場である「神勢館」を設立していました。
当時の日本では、水戸藩の製造技術は特に優れたものでした。

事件後幕府は、厳しい尋問を行いました。
その時、執拗に問いただしたのが、徳川斉昭の関与です。
ことごとく直弼と対立していた斉昭・・・その結果、永蟄居の憂き目にあった斉昭・・・。
直弼を恨んでの仕業ではないか??と疑われたようです。

しかし、斉昭は、攘夷を目指していたものの、過激に推し進めようとする浪士は認めていませんでした。
なので、斉昭が黒幕だったとは思いにくいのです。
水戸藩では武器の製造が盛んにおこなわれていたので、水戸藩士なら入手しやすかったようです。

江戸城桜田門の前で暗殺された井伊直弼・・・
その亡骸は、彦根藩士たちによって藩邸に運ばれましたが、胴体だけでした。
討ち取られた首はどこへ・・・??
浪士たちは品川から船で京へ運ぶ予定でした。
しかし、首を取った薩摩浪士・有村次左衛門は傷を負っていたので、ある大名屋敷の前で力尽きてしまいました。
この首を預かってほしい・・・そう言うと、自害!!
まもなく噂を聞きつけた井伊家家臣が引き取りにやってきました。

証文と引き換えに首を持って行ったのですが・・・
そこには「井伊家家臣 加田九郎太の首」と書かれていました。

井伊家の菩提寺・豪徳寺に直弼は葬られました。
墓石によると亡くなった日は、閏3月28日とあり、暗殺された3月3日ではありません。
事件のあった年は、暦のずれを直すために、3月が2回ありました。
閏3月28日は・・・事件から2か月ほどたった時の事です。
どうして実際の死亡日と2か月も違うのでしょうか?

それは、直弼が世継ぎを決めずに亡くなっていたからです。
世嗣を決めずに藩主が死んだ場合、お家断絶になるのが決まりでした。
藩主が襲われて命を落としたというのはもっと悪い事・・・
彦根藩の失態による藩の取り潰しから免れるために隠蔽工作をしていたのです。

さらに・・・死んだはずの直弼からの手紙を幕府に提出しています。
3月3日の登城欠席届を・・・
「暴漢に襲われ応戦したが、負傷したため登城できず帰宅した」
直弼が生きていたかのように取り繕ったのです。
直弼が負傷したとしてしまったために、屋敷には見舞いの者が・・・
家臣たちは、直弼の首と胴体を縫い合わせ、布団に寝かせ、ケガで臥せっているかのように見せかけます。
しかし、直接寝所に見舞わせることなく、玄関で終わらせます。
江戸城外で、多くの者が見ている中でのこの事件・・・
幕府は知らなかったのでしょうか??

彦根藩の隠蔽工作には、幕府も関与していたようです。
江戸城近くで、大老がいとも簡単に殺された。。。
それは、幕府の権威失墜につながります。
幕府は権威が揺らぐのを恐れて、隠蔽に加担したのです。
もし、彦根藩をとり潰せば、その原因を作った水戸藩に対しても何か処分をしなければならなくなる・・・
出来るだけ穏便に治めたかったようです。
襲われたけれど、後にその傷が元で亡くなったと・・・。

隠蔽工作で時間を稼いだ彦根藩は、直弼の子・直憲で相続願を提出。
幕府がこれを認めたことで、なんとか彦根藩はお家断絶を免れることができました。

直弼は、勅許なしで条約を締結、それに反対する者を弾圧・・・
多くの敵を作ってしまいましたが、そこにはいつも強い信念がありました。
「幕府の権威を取り戻し守る!!」
暗殺される5年前、家臣に宛てた手紙には・・・
「恐ろしさのあまり、薄氷を踏む思いである」
その手紙と共に極秘の手紙が・・・
そこには自身の戒名を書いた一片の句が・・・
すべて覚悟の上の事だったのです。

井伊直弼が暗殺された事件は、広く知られることとなり、幕府の権威は失墜・・・長く続いた太平の世は終わりをつげ、動乱の時代の幕開けとなったのです。 



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