日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:岩倉使節団

鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生 (中公文庫)

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東京・日比谷公園・・・今から130年ほど前にこの向かいに瀟洒な洋館が建てられました。
迎賓館・・・その名も鹿鳴館。。。総工費は当時破格の5億6000万円!!

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鹿鳴館建設を取り仕切ったのは井上馨!!
どうして鹿鳴館建設を推し進めたのでしょうか?




1868年7月・・・
江戸へ乗り込んだ政府軍は、天皇の詔の元、江戸を東京と改名。
それから16年後の1883年・・・迎賓館である鹿鳴館が建てられました。
その名は、中国の「詩経」の”鹿鳴”・・・賓客を迎えて鹿が鳴くに由来します。
8000坪の敷地に建てられたのは、2階建てのレンガ造り・・・本格的な西洋建築で部屋数は40あまり・・・
一階には食堂やビリヤード場、二回には豪華なダンスホールが設けられ、そこでは毎晩のように晩餐会、舞踏会が催されました。

どうして鹿鳴館が建てられたのでしょうか?
”太政官公文録”によると・・・
当時の官省のほぼ全てからお金が出された鹿鳴館建設!!
近代日本の象徴として国家の威信をかけて作られたものでした。
総額は・・・14万1633円・・・今のお金に換算すると、5億6000万円以上となります。
同じころ作られた外務省の庁舎が4万円だったことを考えると、けた違いの建築費でした。
政府は、潤沢な資金があったわけではなく・・・
かき集めた大金・・・どうして鹿鳴館は必要だったのでしょうか??

幕末・・・黒船が浦賀に来航し、幕府はアメリカの圧力に負けて開国しました。
1858年日米修好通商条約調印、アメリカだけではなく、オランダ、イギリス、フランス、ロシアとも同じように条約を結びます。
安政の五か国条約と呼ばれるこの条約は、日本にとって不平等なものでした。
その問題のひとつ・・・領事裁判権が各国に与えられているという現実・・・
外国人が日本で犯罪を犯した場合・・・日本の法律で裁くことは出来ず・・・その権利は諸外国の領事にあるというものです。
関税自主権もなく・・・
外国からの輸入品にかける関税・・・関税率を自国できめられないので、外国の製品が安く入ってきてしまうのです。
国内産業が大打撃でした。
金銀の交換率も、外国に有利だったことから・・・開港半年で100万両(1000億円)もの金貨が海外へ流出してしまったといわれています。
このままでは植民地化されてしまうかもしれない!!
政府としては、不平等条約改正が急務となったのでした。

1871年岩倉使節団を欧米諸国に派遣し、条約改正に向けて発進した日本。
しかし、最初の訪問地アメリカで苦境に・・・
書類の不備などで交渉を打ち切られてしまいました。
この時、明治政府は日本の外交の弱さに直面します。
痛感し・・・罵倒を受け取ったのが井上馨でした。

1835年長州藩士の次男として生まれた井上馨。
16歳で明倫館に入り、20歳で江戸遊学を果たしました。
尊王攘夷に共鳴し、高杉晋作、久坂玄瑞らと共にイギリス公使館焼き討ちなどに参加。。。
過激な行動を繰り返していました。
不平等条約を結んだ幕府にも腹立たしさを感じていた井上。。。
「日本の植民地化を防がなければ!!」
ということで、敵を知るために海外渡航を決意します。
1863年5月、長州ファイブとしてイギリスへ・・・!!
そこで目にしたのは、産業革命にわく街で・・・攘夷は無理だと判断し、開国へと変わっていきます。
日本の近代化構想を練りながら帰国の途に就きます。

明治維新・・・国際感覚を買われ、1879年外務卿に就任。
条約改正の役を担うこととなるのです。

その目的のためのひとつが鹿鳴館でした。
井上は鹿鳴館建設を急がせます。
当時外国の来賓をもてなす迎賓館が無く、その社交場として必要でした。
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それまでは・・・旧幕府の”延遼館”だったのです。
が・・・井上はさらに西洋化された迎賓館の必要性を感じていました。
社交外交を通じて条約改正を狙っていたのです。


東京大改造計画
当時、外国人居留地は築地にありました。
そこで、銀座・・・煉瓦街として文明開化の象徴にしようと再開発に着手します。

銀座の街は大変貌を遂げ・・・洋館が立ち並び、拡張された道路では馬車が・・・ガス灯が・・・
洋服姿の紳士も・・・

しかし、庶民たちの西洋化は容易ではなく・・・
裸同然でも平気な男女・・・非文明国で野蛮な国から脱却するために。。。
違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)を出します。
庶民の風俗を取り締まるもので、90条の風俗を取り締まっています。
もっとも逮捕者の多かったのは・・・”裸体禁止”でした。
外国人の目を気にしていたのです。
罰金刑で払えないものはむち打ちでした。
今までの暮らしが制約されたことで、文明開化に反発する人も出てきましたが・・・突き進む井上馨。

鹿鳴館を建設したのはイギリスの建築家”ジョサイア・コンドル”・・・文明開化の日本には欠かせない建築家で、日本文化に傾倒していました。
1877年工部大学校で建築を教えるために招かれました。
当時政府は近代国家建築のために、お雇い外国人をたくさん抱えていました。
ニコライ堂・旧岩崎邸なども彼の建築です。
その初期の代表作が鹿鳴館でした。

国家的大プロジェクトの鹿鳴館・・・。それは、西洋と日本の建築を融合させたものでした。
が・・・その設計を井上は却下!!
井上が求めていたのは、外国人好みのする堂々とした西洋的なものだったのです。
不本意ながら、煉瓦の洋館の設計をし・・・2年の歳月をかけて鹿鳴館が完成しました。
堂々たる白亜の洋館でした。

しかし・・・外国人の反応は・・・
「まるで温泉場のカジノ!!」だったのです。
政府の威信をかけて作った鹿鳴館だったのに・・・!!
歴史的な重みのない・・・西洋そのまんまなところが駄目だったのかもしれません。

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日本を男女平等の世の中にしたいと思っていた井上・・・毎晩のように鹿鳴館で交流を広げます。
そんな井上の外交は、鹿鳴館外交と言われています。
食事も、最高の食材を使ったフランス料理が出されました。
当時は食材は香港から取り寄せていました。

日本が西洋に並ぶ国だということを見せつけるために・・・!!
料理一つにしても疎かには出来ません。
が・・・外国人たちの評判は一向に上がりませんでした。


roku3











当時の招待状の裏には・・・
「婦人着服はローブ・デコルテの事、男子着服は燕尾服の事」と書かれていました。
日本女性が洋服を着るのは男性よりも遅く、鹿鳴館時代が洋装の始まりでした。
日本製だったといわれるドレス・・・招待客は1500人余り・・・皇族・財界人・政府役人・・・婦人を連れてやってきます。

sute猿まねのようだ・・・と嘲笑される中で、外国人をも魅了したのが「鹿鳴館の華・大山捨松」です。
日本人離れしたスタイルに、洗練された語学力にダンス・・・まさに完ぺきでした。

捨松は・・・1860年会津藩山川家の末娘として生まれました。
12歳の時に岩倉使節団と共に日本初の女性留学生としてアメリカへ・・・!!
11年後、アメリカの大学を卒業した際には・・・
「イギリスの日本に対する外交政策」・・・不平等条約について語ったのです。

日本が文明国として見せることが自分の責任だ!!と思った捨松は、陸軍大将・大山巌と結婚します。
夫と共に鹿鳴館の舞踏会に出席し・・・鹿鳴館外交に拍車をかけることとなるのです。

捨松は・・・井上馨夫人、伊藤博文夫人と共に、1884年には鹿鳴館で日本で初めてとなる慈善バザーを開きます。
手作りのハンカチや人形をだし・・・1万2000人が訪れ、大きな収益を得、この資金を元に作られたのが、1885年有志共立東京病院看護婦教育所です。

外交の場だけではなく・・・慈善事業の場ともなっていく鹿鳴館。。。
しかし、完成からわずか4年で潰されてしまうこととなるのです。

井上の外交の成果が見られずの時・・・1886年に事件が勃発します。
ノルマントン号事件です。
横浜から神戸に向かった途中・・・和歌山沖で沈没。。。
この事件で・・・船長以下イギリス人は全員助けられたものの・・・乗り合わせた日本人は救助されず、たくさん亡くなりました。
その船長の裁判が行われましたが・・・結果は無罪!!
イギリスに裁判権があったからです。
この結果に日本中が憤りをあらわに・・・早期の解決が望まれました。


譲歩案・・・
①外国人裁判官の採用
②内地雑居を許可しよう
というものでした。

井上の譲歩案には内閣府でも反対意見が・・・!!
急速な欧化政策にも不満を持っていた庶民。。。
鹿鳴館を舞台にしたものは・・・海外の顔色をうかがうための媚態外交とまで皮肉られるようになりました。

日本の西洋化が条約改正に繋がると思っていた井上は窮地に陥り・・・
1887年9月に外務大臣辞任させられ・・・それと共に鹿鳴館外交も終わりを告げました。
国辱的建物とまで言われるようになった鹿鳴館。。。
条約改正の失敗によって・・・完成からわずか4年で・・・その時代を終えるのです。

華族会館に払い下げられた鹿鳴館・・・表舞台から消えていくことになります。

「鹿鳴館時代・・・それは実に奇妙な時代であった」by大倉喜八郎

井上馨の辞任後・・・大隈重信、陸奥宗光らが外務大臣を務め、不平等条約改正を進め・・・
1894年領事裁判権の廃止、1911年関税自主権を獲得するのです。
それは。。。開国から60年の事でした。

華族会館に払い下げられた鹿鳴館は、1940年・・・昭和15年不経済であるという理由で解体されてしまいました。
そして・・・今、その面影は全くありません。

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明治外交官物語―鹿鳴館の時代 (歴史文化ライブラリー)

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文明史のなかの明治憲法 (講談社選書メチエ)

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日本の政治の中枢・・・国会議事堂。
その敷地の一角には伊藤博文像が・・・。
初代内閣総理大臣であり、大日本帝国憲法・・・いわゆる明治憲法の起草者です。

1889年に公布された明治憲法。
それは、天皇大権の元、国民の権利が大幅に制限された憲法だと思われてきました。
が・・・伊藤博文が国民が広く政治に参加する立憲国家を目指していたようです。
しかし、憲法制定にかかる伊藤に・・・次々と難題が起こります。

明治時代初め、日本は憲法の必要性を痛感します。
きっかけは、明治4年の岩倉使節団による欧米先進国の視察でした。
伊藤博文は・・・木戸孝允や大久保利通らと参加。
一行は、最初アメリカでの工業力による国の発展を目の当たりにします。
そして・・・それを支えているのは憲法であることに気付いたのです。
アメリカ合衆国憲法・・・
木戸孝允は・・・
「国の興廃存亡はひとえに憲法の在り方にかかっている」と語っています。
その後、ヨーロッパを巡る中で・・・メンバーはそのことを確固たる信念としていきます。

明治6年・・・使節団が帰国すると、政府は憲法制定に向けて準備を始めました。
当時の日本は・・・不平等条約によって治外法権で関税自主権がありませんでした。
これを変えなければならなくなったとき・・・憲法が必要だったのです。

伊藤博文は、諸外国訪問の経験とその英語力で、責任者となりました。
伊藤を始め、参議たちは、日本の電燈や文化にあった憲法を・・・と考えていました。
伊藤は日本の国民が、憲法を運用するのに成熟していないとみたようです。
国民という基盤がない上に、法律だけ作っても意味がないと。。。

国民が議論できるようになって、国民を背景にして憲法にもとづいた政治を作りたいと思っていたのです。
しかし・・・明治7年以降、伊藤の考えのはるか先を突き進み始めます。
土佐出身の板垣退助らが始めたのは、自由民権運動。
彼等は薩摩と長州が占める藩閥政治に対して建白書を提出・・・国民から議員を選んで政治を行うために、国会の開設を要求しました。
運動は瞬く間に階層をこえて・・・士族から平民へと広がりました。
自分達の力で、新しい国の形を!!ということで、五日市憲法など・・・色々な憲法ができます。
国民の権利や自由の保障・・・先進的な内容でした。
高まる国民の声は、政府をも動かします。
明治13年・・・参議たちは、意見書を提出するように求められました。
伊藤は・・・従来の方針通り、時間をかけて制定したいと思っていましたが・・・
明治14年・・・大隈重信が意見書を出し、大きな波紋を呼びます。
イギリスをモデルにした立憲君主制で、議会を国政の中心においたもので・・・きわめて急進的なものでした。
岩倉具視は・・・ヨーロッパに詳しい井上毅に対案を書くように命じます。
皇帝が大きな権力を持つ、ドイツの憲法を参考にして大隈案に対抗します。
井上の案は、天皇に権力を持たせ、議会の力を削いだものとなっていました。

伊藤は???どちらも受け入れがたいものでした。
伊藤の中では、憲法の中で天皇をどのような地位につけるのか・・・??それが一番難しかったのです。
しかし・・・誰も、そこまで深く、憲法の本質を分っていませんでした。
身体を壊す伊藤を尻目に・・・政府は高まる国民の声に押されるように・・・明治23年の国会開設を公約してしまいました。
憲法制定まで・・・もう・・・時間は残されていませんでした。

明治15年3月・・・憲法の青写真を描けず・・・ヨーロッパ派遣の命が下った伊藤博文。。。
まず向かったのはドイツでした。
ワイマール憲法の元、議会が設けられていました。
伊藤が教えを乞うたのは・・・ベルリン大学教授ルドルフ・フォン・グナイスト・・・
グナイストは、「憲法は国民の精神である。未熟な国民に議会運営など出来るわけがない。。。極めて弱い権限を与えるしかない。」と。。。
議会の力を大幅に制限した方が・・・鉄血宰相ビスマルクも議会に手を焼いていたからです。
君主大権にする??
しかし・・・国民不在の君主制で、真の立憲国家と言えるのだろうか??


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ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授は・・・
行政重視を唱えていました。



行政によって天皇君主を制限し、君主・行政・議会の3つに分けた憲法で国に安定と成長をもたらす。。。






ロンドンでは・・・「君臨すれども統治せず」。。。
この原則の元、国王が権力を持たないイギリス。。。
政党政治、二院制もこの国で生まれました。
イギリスの議会では、政党が互いに意見を出し合いながら議論していました。
議会政治が国を動かしていたのです。

目指すべき国家像とは???

ヨーロッパから帰国後、行政の強化に努めます。
明治18年内閣制度を創設。
外務省・内務省・大蔵省・陸軍省・海軍省・司法省・農商務省・文部省・通信省・宮内庁を作り、自らそのトップである初代内閣総理大臣に就任します。
明治20年・・・草案作りに着手しました。
神奈川県横須賀市夏島・・・伊藤は憲法草案が外部に漏れることを恐れ、この島で草案を練りました。
井上毅をはじめとする精鋭官僚を集め、議論します。
この話し合いで決まったものもあります。
「天皇は神聖にして犯すべからず」
議論を経てまとめられていく憲法草案。。。

①天皇の権限
当時井上が考えていたのは、天皇に権限が集中するというものでした。
が、そこに、大臣の天皇への助言を意味する輔弼を盛り込みます。
なので、天皇は内閣の意見を無視し、独断で権限を振るうことができなくなりました。
井上毅は天皇を中心としたものを考えていましたが、伊藤博文は総理大臣を中心とした内閣を考えていたのです。
総理大臣は国の責任を持つようにしたのです。

そして、将来の国民の政治参加を考えます。
②議会の役割
政府からだけではなく、議会からも法案を出すことを認めます。
国家予算についても、議会に図り、同意を必要とさせました。
しかし、議会が同意しなかった場合にも、政府は前年度予算を施行できるとしました。
伊藤は、議会を認めつつ行政の停滞を防ごうとしたのです。

明治21年6月、憲法草案は、枢密院で最終審査にかけられました。
大きな議論となったのが。。。”臣民の権利と義務について”です。
会議では、文部大臣・森有礼が草案に異議を申し出ます。
「改めて憲法に書き込む必要はない!!」と。。。
伊藤は、「憲法創設の精神は、第一に君権の制限である。そして次に重要なのは、臣民の権利を明記することである。」と。。。
天皇の大権を制限し、国民の権利を守る姿勢を貫きます。

明治22年2月11日・・・
東アジアで初めての憲法”大日本帝国憲法”発布!!
国を挙げての祝賀ムード・・・議会の権限が認められたことで、民権派にも好意的に受け入れられたのです。
日本は、明治憲法で文明国への道を歩み始めたのです。

明治憲法の発布後・・・全国各地へ遊説にまわる伊藤・・・。
憲法の思想を広めて国民に理解を求めました。
そして・・・立憲政友会を立ち上げます。
憲法に基づく政治をする為に・・・
しかし、それを揺るがす勢力が・・・日露戦争に勝ったことで強大な力を持った軍部です。
憲法第11条・・・天皇は陸海軍を統帥す・・・これは、天皇が直接指揮監督できると定めたもので、統帥権と言います。
上げる方は・・行政事項を内閣で・・・総理大臣・陸海軍大臣が天皇を輔弼して承認を得るのが本当でしたが・・・
軍部はこれを拡大解釈し、陸・海軍大臣から天皇に上げるようになっていっていました。
膨張する軍による内閣の軽視は、伊藤には許せないことでした。

明治40年元老として国政に強い影響力を持っていた伊藤は、改革に踏み切ります。
国の公式文書を見直して・・・軍の行政事項にも内閣総理大臣記名を必要とする政治改革をしようとしたのです。
しかし・・・軍部は黙っておらず・・・元老・山県有朋は、統帥権を制圧する伊藤に憤慨します。
対立するふたり・・・妥協点は・・・??

山県は・・・軍事命令については、内閣の許可なしに発令できる軍令という新しい法令を伊藤に認めさせます。
伊藤は、行政事項については・・・総理大臣の署名が必要だと譲りません。
それを山県は了承。。。二人の会談以降・・・軍令と行政事項はきっちりと分けられ、内閣と軍の関係は保たれたのでした。
この憲法を元に、普通選挙、議会政治・・・大正デモクラシーが起こるのです。

しかし、伊藤や山県が亡くなる昭和になると・・・
明治憲法下での危機が・・・
軍部が統帥権を乱用し・・・伊藤が築いた憲法の理念は骨抜きにされていきます。
大日本帝国憲法は・・・昭和22年5月3日の日本国憲法の施行によって、その役割を終えるのです。

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明治憲法の起草過程: グナイストからロェスラーへ

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伊藤博文と明治国家形成 「宮中」の制度化と立憲制の導入 (講談社学術文庫)

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「国民が、国家に対して”万歳”と呼ぶ言葉を覚えたのも、確かこの時代から始まったように記憶している。」By.永井荷風。

1889年2月11日、日本で大日本帝国憲法が発布され人々はお祭り騒ぎとなりました。

「憲法発布」を「絹布法被」と間違え、天皇から豪華な贈り物を頂ける・・・というデマまでありました。

しかし、明治維新からそれまでの20年、長く険しい道のりでした。
なぜなら、日本が国家の骨組みは何かを探す、大漂流時代だったからです。


新しい国のかたちを探して海外へ出た「岩倉使節団」。

庶民の間でも白熱した憲法談義が盛んでした。
私擬憲法は、50以上、庶民も国家づくりに夢を描きました。
国家が近かった時代、誰もが近代国家にならなければ!!と、思いつめていました。
それが、脱亜入欧の第一歩だったからです。

「憲法がないと、西洋に認められない!!」
アジアで初めて憲法を生み出そうという気概がありました。
体裁を整えて猿まねをするのではなく、自分たちで・・・!!


1853年ペリー来航に対し、幕府は対応しきれなかった。。。このままでは駄目だ!!
と、近代化とぺーりー来航が、憲法のきっかけとなりました。
そして、この憲法こそが、”国のかたち”だったのです。

1868年の明治元年、京都御所では五箇条の御誓文が高らかに宣言されました。

第1条「広く会議を起こし万機公論に決すべし」

しかし、開かれた国家ビジョンは見当たらず・・・

1871年11月12日、横浜から船が・・・欧米14か国を回る新政府の切れ者が46人出発しました。
代表は「岩倉具視」
目的は、不平等条約の改正と、政治経済・教育などの視察でした。

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そこには、31歳の伊藤博文もいました。
伊藤は、この旅で近代国家のビジョン、とりわけ憲法の大切さを知ることになるのです。

1871年12月6日、アメリカのサンフランシスコに着きます。
初めて西欧の文化を目の当たりにします。

1872年1月21日に、ワシントンで民主主義の心臓部となる議会を見学、議論の飛び交う議会に衝撃を受けるも・・・

「議員を公選し、法律を多数決で決めるのは、一見実に公平に見える。
 しかし、上下院の議員全員が、最高の秀才たちではありえないから、大議論ののちに多数決で決めれば、上策が採用にならず、下策がとられることが多い。
 これからは、全て共和政治の残念なところだ。」

と、分析しています。


使節団はその後、イギリスを経てヨーロッパ大陸へ。

フランスは、パリコミューンの混乱が冷めやらず混乱の中、自由と権利を与えすぎた民衆の恐ろしさを実感します。

3つの大国を巡って1年、憲法を見いだせないままドイツへ・・・。
オットー・フォン・ビスマルクとの出会いに衝撃を受けます。
このビスマルク、出遅れた新興国ドイツを率いて、フランスとの戦争に次々と勝利していました。
そのビスマルクの語った国際政治の本質とは・・・?

「国と国との関係は、”万国公法”という国際ルールに基づいている。
 しかし、そんな約束事は絵空事にすぎない。
 大国は自分に利益がある場合は”万国公法”に従うが、ひとたび不利と見ればたちまち軍事にモノを言わせてくる。」


この”万国公法”とは、19世紀後半に尊重された国際ルールです。
そこには、国際紛争が発生した際の取り決めや、和平交渉のやり方が書いてありました。
日本はこれを近代国家の証と考えていました。

しかし、ビスマルクはこれを一笑し、植民地化の進む中、”万国公法”=ザル法にすぎないと言ったのです。

「国際社会で小国が主権を守るためには、国家を強くしなくてはならない。」
そのためにはまず・・・
「国民意識」を養わなくてはならない。
近代国家に相応しい国民を作るためには憲法がやはり必要だ!!
日本の憲法作りはここからスタートしました。
ビスマルクの言葉に目を覚ましたのです。

そして、その憲法の必要性をベルギーで見出します。
ベルギーは、世界で初めて立憲君主制の成文憲法を制定した国です。
こんな小さな国が、大国に挟まれながらも独立国としてやっていけているのは憲法があるからだ!!

日本にはまだ、国民という意識がまだない。。。
しかし、ベルギーは、主君と国民が一体となっている!!

憲法の重要性を確信して帰国した彼らを待っていたのは、新政府の分裂でした。
朝鮮との外交問題を政治の中心課題とした西郷・板垣に対し、岩倉らは国力の充実こそが最優先・・・。
と、対立し、日本各地で反乱がおきます。反乱を起こしたのは、江戸時代の特権階級、特権を無くした武士達でした。

政府はかろうじて鎮圧したものの、憲法起草にかかる余裕がありません。
そんな政府をしり目に、庶民の間に広まった思わぬ動きがありました。

仕掛け人は、西郷と共に新政府を離れた板垣退助でした。
1874年板垣退助は、民選議員設立建白書を政府に提出。
国民が、政府に参加できる議会の設立を、政府に要求しました。
武力でなく、言葉の力とそれを支持するものの数で、政治を動かそうとしました。

自由民権運動の始まりでした。

さらに、自由民権運動は、人形芝居にもなりました。
そう、国民たちが憲法づくりを始めたのです。
当時の人は目的意識が強く、明治元年から5年、アメリカに渡った留学生だけで、官民併せて500人以上いました。具体的な国づくりを自分たちで考え始めます。

時は、憲法創作時代へ。。。
先刻で書かれた私擬憲法、その数55。
最も革新的だったのが、高知の「東洋大日本国々憲案」。
これは、板垣退助と一緒に自由民権運動をしていた植木枝盛の手によるものです。

その特徴は第72条、自由権利を侵害された場合、国民は政府の転覆を図り、新政府を建設できる武力による革命が出来る権利を主張しています。


さらに注目される憲法は、日本帝国憲法、通称五日市憲法です。
驚いたのは、その見識の高さ。
様々な国民の権利が204条にわたって成文化されています。
例えば・・・
教育は父兄にとって免れない責任とする=子供の教育の権利を主張しています。

昭和43年に発見された五日市憲法。
書いたのは、五日市の小学校教諭、千葉卓三郎。
千葉は、宮城県生まれ、幕臣として戊辰戦争に参加。負けた後、医学、政治学、宗教と学び、五日市へ。。。
五日市は、自由民権運動が根付いた地域でした。

そして、五日市の中心的存在へ・・・。
明治14年五日市憲法が生まれました。
そこには、
「日本国憲法第11条・国民は、全ての基本的人権の享受を妨げられない。」と、似たようなことが書かれています。

全国各地で私擬憲法が作られました。
日の目を見ることはありませんでしたが。。。


当時の最大の関心は、政治でした。
そして、それぞれの村には、”知”を受け止めて発信できる人がいました。
リーダーたちも凄いが、民も考えて・・・手をのばせば届く政治でした。
幕府が倒れるという激動を見てきた国民にとっては、政治が近かったのです。

明治14年の政変で、この”私擬憲法ブーム”がそらされてしまいました。
西郷、木戸、大久保がいなくなり、まとめることが出来なくなってしまった政府。

そんな中、明治政府の中心人物となった伊藤博文が、自由民権運動を抑え込むために、10年後の国会開設を約束しました。しかし、憲法はまとまっていません・・・。

国会開設に必要な憲法。しかし、憲法の起草は固まっておらず・・・
1882年伊藤は憲法調査の為に渡米します。

ベルリンでは・・・ビスマルクが議会の猛反対にあっていました。
これを見て悩む伊藤。。。
「ある国の憲法をそのまま翻訳するのは難しいことではない。
 しかし、その国の実態と共にこれを見なければ、本当の政治体制を知ることは出来ない。」


日本にあった憲法を探し始めました。
そして、ウィーン大学の法学者、ローレンツ・フォン・シュタインの講義に夢中になりました。
国家の運営の中での憲法の役割は・・・
国家とは、人格を持つもので、
人間は自我・意思・行動で生きているが、
国家は君主・立法・行政で生きています。

そして、立法の根本原理が憲法で、安定した国家運営は行政によって成り立っているというものでした。

つまり、どんなに良い憲法を作っても、政治運営がうまくいかなければ、意味がないということ。
よい政治運営を求めるならば、”行政”を固めることが必要だということです。

1年半後に帰国した伊藤は、1885年12月22日内閣制度を制定。
行政を先に行い、自ら初代内閣総理大臣となりました。
立法と行政は、国家の両輪だということに気づいたのです。

日本初の国家ビジョンが出来ました。
4年後に開かれる国会。しかし、未だに憲法はありません。

1888年夏、伊藤は別荘で憲法の起草にかかります。
たたき台を作ったのは、井上毅。
「夏島草案」からは、伊藤の執念が読み取れます。

伊藤の執念①
井上毅のたたき台にはなく、伊藤が付け加えた条文があります。
「天皇ハ諸大臣ノ輔弼ヲ以テ大政ヲ施行ス」
内閣が天皇を補佐して責任を負うとして、行政の強化を図りました。
このことで井上毅と対立。井上毅は、行政の独立は強すぎるとしたのです。
これは修正され、
「国務各大臣ハ、天皇ヲ輔弼シ、其ノ責ニ任ス」=第55条となりました。


伊藤の執念②
1888年6月草案について枢密院で最終審議。
明治天皇の下、議長は伊藤。白熱したのは・・・
第二章臣民の権利義務について・・・でした。
森有礼は、臣民の権利義務など書く必要はない!!
しかし、伊藤は・・・
憲法創設の精神は、第一に君権を制限し、第二に市民の権利を保護することにある。
そうしなければ、君主専制国になってしまう。
臣民が如何なる権利をもち、如何なる義務を持つか明記することは、憲法の骨子なのです。
と主張し、そのまま残されました。

兵役の義務・納税の義務と一緒に、制限されてはいたものの、法の下の言論・集会・結社の自由が明記されました。

1889年2月11日大日本帝国憲法発布。
日本は近代国家へと踏み出します。

伊藤の意気込みは、「憲法を絵に描いた餅にはしない!!」ということ。
アジアの国にはまだ憲法のない時代。アジアを背負った大実験だったのです。


伊藤は、最初は行政重視だったが、いずれは民中心の政治へとシフトしていきたかったようです。

1907年の憲法改革で・・・
”統帥権”の独立を防ごうとしたと言われています。
そう、あの統帥権です。。。

統帥権を、内閣のコントロールの下に置こうとしていました。


大日本帝国憲法というと、昭和の戦争との関係が非難されます。
しかし、憲法の名に値する憲法で、帝国憲法下でも、民主政治が行われていたといっても過言ではありません。


政治が近かった時代のお話です。はたして今の世の中は、政治が近くにあるのでしょうか?

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