日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:島津斉彬

1853年、アメリカ東インド艦隊司令官マシュー・ペリー率いる黒船4隻が、浦賀沖に姿を現しました。
黒船来航・・・それは、2世紀半続いた江戸幕府の終焉の始まり・・・
外圧に、攘夷を叫ぶ声、幕府の権威は低下していきました。
そんな時代に幕府をしょって立つことになったのが、14代将軍・徳川家茂です。
家茂が将軍だったのは、8年9カ月・・・そのすべてを、幕末の騒乱を治めるために奔走しました。

新版 知れば知るほど面白い 徳川将軍十五代 (じっぴコンパクト新書)

新品価格
¥1,045から
(2022/11/14 09:56時点)



14代将軍・徳川家茂誕生。
黒船の来航により、長く続いた太平の世は終わります。
ペリーは開国を要求、そのわずか19日後、危機に直面した幕府に追い打ちをかけるように、12代将軍徳川家慶が死去。
13代将軍に就任したのは、家慶の子・家定でした。
しかし、生まれつき病弱の家定に、世継ぎの誕生が望めなかったことから、早々に次の将軍を誰にするか、将軍継承問題が持ち上がります。
候補は2人・・・御三家・水戸藩の出身で御三卿・一橋家を継いだ一橋慶喜と、御三家・紀州藩主の徳川慶福(のちの家茂)です。
慶喜を擁立した一橋派を占めるのは、薩摩藩主・島津斉彬や土佐藩主・山内容堂らの外様大名、将軍選びには能力を重視し、譜代大名以外の有力大名も幕政に参加すべしという開明派でした。
対して慶福を担ぎだしたのは、譜代大名の彦根藩主・井伊直弼や会津藩主・松平容保らの南紀派・・・今までの幕藩体制を維持しようとする保守派でした。
この将軍争いで、当初は慶喜がリードしていました。
慶喜はすでに元服していて慶福より年長で、さらに、非常に優秀で、英名の誉れ高い青年でした。
慶福はまだ13歳・・・血筋は近いが、難しい政局を乗り切るには慶喜の方がいいのでは??と思われていました。
しかし、将軍の光景となったのは、劣勢とみられていた慶福でした。

どうして将軍になれたのでしょうか??
ひとつには、慶喜の足を引っ張った人物・・・慶喜の父で水戸藩主の徳川斉昭です。
斉昭は、かつて大奥の女中を襲って妊娠させ、大奥から嫌われていました。
その為、その子である慶喜が将軍になることに、大奥が強く反発したのです。
当時、大奥の力は強く、将軍後継選びにも及びました。
さらに、慶福を押す南紀派の井伊直弼が大老に就任。
形勢は逆転・・・直弼の強権によって、慶福は将軍後継となるのです。

徳川15代将軍 解体新書 (ポプラ新書 か 12-1)

新品価格
¥1,045から
(2022/11/14 09:57時点)



1858年、13代将軍・徳川家定が死去。
それに伴い、慶福は名を家茂と改め、14代将軍に就任します。
この時まだ13歳でした。

家茂は、1846年5月24日、11代紀州藩主・徳川斉順の嫡男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれます。
幼名は菊千代・・・父は、菊千代が生まれる前に亡くなってしまったため、誕生後、12歳紀州藩主となっていた叔父・斉疆の養子となりました。
ところが、斉疆も、30歳の若さで死去・・・
1849年、菊千代はわずか4歳で13代紀州藩主に就任しました。
そんな菊千代には心強い味方がいました。
波江という美しく聡明な教育係です。
家茂の誕生から教育係を務め、しっかりと手堅く、相応の人物でした。
波江の教育のおかげで、家茂はリーダーとしての資質を備えて行きました。

6歳になった菊千代は、元服の儀に先立って、12代将軍・家慶に拝謁することになりました。

「今日は非常に大切な日ですから、お泣きにならないよう、大人しくしていなければなりませんよ」by波江

しかし、重々しい雰囲気で不安になり号泣・・・

「好きなものでなだめすかし 遊ばせよ」by家慶

そうして座敷に持ってこられたのは小鳥・・・
菊千代は、鳥や虫が大好きで、この時もすぐに泣き止み、無事将軍と対面することができました。
屋敷に帰ってきた菊千代は、波江の顔を見るなり

「波江、泣いたよ!」by菊千代

約束を破って泣いてしまったことをそのまま報告・・・
誠実な少年へと成長していきます。

菊千代は、家慶から慶の字を賜り、13代紀州藩主・徳川慶福となります。
そして藩主として恥じないよう、鍛錬をかさねて行きました。
毎日、朝は手習いのために筆をとり、その後、論語や孟子などを素読・・・剣術や柔術の稽古も怠りませんでした。
まさに文武両道・・・
1858年、慶福は江戸幕府14代将軍・徳川家茂となります。
その真面目さ、聡明さは変わることがありませんでした。

そんな家茂は、多くの幕臣から慕われます。
しかし、その優しさが動乱の時代の家茂を苦しめます。
家茂は、自分を将軍にしてくれた大老・井伊直弼に絶大な信頼を寄せます。
しかし・・・幕府の実権を握る直弼が暴走して開国路線を強行・・・!!
朝廷の勅許をえることなく独断でアメリカと日米修好通商条約を結んでしまいます。
さらに、安政の大獄を行い、幕府に批判的な勢力を弾圧粛清していきました。
直弼の横暴を良しとしない水戸藩士たち・・・尊王攘夷派によって、大事件・・・桜田門外の変!!
1860年3月3日・・・水戸浪士たちが登城中の井伊直弼を江戸城桜田門前で暗殺!!
直弼の死を知った家茂は涙し、悲嘆にくれたといいます。

将軍継承問題で勝利した南紀派の力が一気に弱まり、対立していた一橋派が息を吹き返します。
1862年、新たに将軍後見職に就任したのは、家茂と将軍を争った一橋慶喜でした。
幕府の実権は、一橋派が握っていくことになります。

天璋院と和宮 (PHP文庫)

新品価格
¥513から
(2022/11/14 09:57時点)



1860年、家茂の婚礼の儀が執り行われます。
将軍家に輿入れするため、京の都から江戸へ向かったその女性こそ・・・
時の孝明天皇の妹・皇女和宮でした。

アメリカの強硬な姿勢に屈し開国を決めた弱腰外交への批判、そして、大老・井伊直弼が白昼暗殺されるなど幕府の権威は急速に衰えていきました。
焦った幕府は、将軍・徳川家茂と皇女との婚礼を画策します。
天皇家と姻戚関係を結び、公武合体を行うことで、緊張を緩和し幕府の権威回復を働こうと目論んだのです。
この時、家茂と年のころが釣り合うと選ばれたのが、時の孝明天皇の妹・皇女和宮でした。
しかし、宮中以外の世界を知らない皇女には、江戸は恐ろしいところと死か思えませんでした。

「鬼のような異人が集まるところに違いない」by和宮

和宮は、当初この婚礼を強く拒みました。
しかし、

”惜しまじな
   君と民とのためならば
 身は武蔵野の
   梅雨と消ゆとも”

兄・孝明天皇の為、民衆のためとこの婚礼を受けることになります。
1861年、和宮はお輿入れのために京都を発ちます。
道中の警備を入れると、総勢1万人以上、50kmにも及ぶ行列になったといいます。
そして、和宮の江戸到着から3か月後・・・
1962年2月11日、将軍家茂と和宮との婚儀が行われました。
この時二人は同じ17歳。
若い二人に混迷する幕府の行く末が託されたのです。

皇女から御台所となった和宮の住まいは、江戸城大奥!!
200年以上にわたる伝統と、厳しいしきたりによってつくられた女の園でした。
京の都とは異なる大奥での暮らし・・・不安と孤独の中で、和宮の心は固く閉じていきます。
しかし・・・やがて、和宮は心を開いていきます。
家茂の優しさから、信頼関係が生まれていったのです。
家茂は、和宮を大事にすることによって、幕府と朝廷の関係が良くなることを望んでいました。
かなり気を遣って大切にし、気にかけていたのです。
夫・家茂の優しく誠実な人柄が、和宮の心を開かせたのです。

229年ぶりの上洛・・・
時の孝明天皇は、異国人が日本に入ることを嫌い、外国勢力を打ち払う攘夷を望みます。
これに呼応し、天皇のいる京の都には、尊王攘夷派の志士たちが、全国から集結していました。
中心となったのは、桂小五郎・高杉晋作らのいた長州藩です。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけていきます。
そして、過激化した長州藩士とそれに呼応する公家たちは、天誅と称して、反対派への脅迫行為と暗殺を繰り返していました。
これに対し、幕府は会津藩主・松平容保を京都守護職に任じ、配下に浪士集団である新選組を置くなど、治安維持に努めます。
そんな中、1863年3月、14代将軍・家茂が上洛するのです。
江戸幕府将軍の上洛は、3代将軍家茂以来229年ぶりのことでした。

江戸幕府歴代将軍から学ぶ リーダーに必要な15の資質: 265年も続いた江戸幕府を繁栄させた15人のリーダーの秘訣

新品価格
¥580から
(2022/11/14 09:58時点)



当時の京都は、尊王攘夷を掲げる過激派の志士たちが暴れ回っていました。
将軍がいくことによって、幕府の力を京都に及ぼそうとしたのです。
それは、公武合体をより確かなものにするためでした。

孝明天皇と対面した家茂・・・2人の間である約束が交わされます。
「攘夷」実行が、天皇及び朝廷の強い意向でした。
孝明天皇の周りの尊王攘夷の過激派を納得させるためには、幕府が戦闘に立って外国船を打ち払うこと・・・それが、孝明天皇に対する忠誠だと考えました。
家茂は、現実的に外国船打ち払いは不可能だとわかっていました。
しかし、孝明天皇に対し、5月10日に譲位を実行すると約束するのです。

妻・和宮の兄でもある孝明天皇の御心を無下にはできない・・・
心優しき将軍は無理を承知の約束をしますが、これが家茂をさらに追い詰めていきます。
家茂が譲位決行日とした5月10日、幕府は動きませんでしたが、長州藩がとんでもない行動に出ます。
なかなか攘夷を行動に移さない幕府に業を煮やし、下関を航行中のアメリカ商船などに向かっていきなり大砲を放ったのです。
さらに、家茂が江戸に帰ったのち、京の都でも事件が起きます。
際限なく過激化する長州藩と尊王攘夷派の公家たちが、孝明天皇の不興を買い京都から追放されたのです。
世にいう、八月十八日の政変です。

その翌年の1864年1月・・・将軍家茂は、二度目の上洛を果たします。
参内した家茂は、孝明天皇からお言葉を賜ります。

「汝は朕が赤子
 朕 汝を愛すること子の如し
 汝 朕を親しむこと父の如くせよ
 その親睦の厚薄
 天下挽回の成否に関係す」by孝明天皇

親子のように互いに情愛をもって親しむことが、天下泰平へとつながると・・・
それは、公武合体を強固なものにしていこうということでした。
さらに、

「無謀な攘夷は望むところではない」

京都で家茂の心を癒してくれたものは、他にもありました。
和宮からの手紙でした。
しかし、時代のうねりは早く、激しく、家茂を巻き込んでいきます。

1864年7月19日、京の都を追放された長州藩が、御所周辺で武力蜂起!!
御所に攻め込んできました。
禁門の変です。
この暴挙に、孝明天皇は激怒!!
1865年9月、孝明天皇は長州征討の勅許を下します。
第1次長州征討・・・大坂にいた将軍・家茂が、幕府軍総大将として指揮を執りました。
しかし・・・なんと、混乱のさ中、朝廷に将軍の辞職を願い出るのです。
家茂はどうして将軍の辞職を望んだのでしょうか?
当時、国内の混乱に加え、諸外国からの圧力も強硬になっていく一方でした。
イギリス・フランス・オランダが、兵庫(神戸)の開港と、通商条約の勅許を強硬に求めていました。
幕府は兵庫開港をやむなしと考えていましたが、将軍後見職・一橋慶喜が開港に反対していました。
慶喜は江戸幕府と別の権力を京都で構築していました。
一会桑・・・一橋家・会津藩・桑名藩のことで、彼らは朝廷と強く結びついていました。
江戸幕府は、朝廷をコントロールしようと考えていましたが、「一会桑」は、朝廷の意向を第一に考えていました。
それが、大きな亀裂となっていたのです。
家茂は、幕府と一会桑の対立に板挟みとなり、有効な手段を打てずにいました。
事態は、家茂のキャパシティを越えてしまっていたのです。
将軍職を、慶喜に譲ろうとしていました。
しかし、慶喜はこの一番の難局に将軍となって火中の栗を拾う必要はないと考えていたのです。
家茂は、慶喜の説得を受けて辞意を撤回し、将軍職にとどまります。


不安なご時世に、庶民が歌い踊る「ええじゃないか」がはやる中、決してええじゃないかと言えない将軍・家茂はますます追い詰められていきます。

第1次長州征討の際、幕府への恭順派が権勢を握ったことで長州藩は戦わずして降伏。
しかし、これに我慢できなかったのが、長州藩の尊王攘夷派の中心にいた高杉晋作でした。
高杉は、町人や農民などの民衆で組織した奇兵隊を結成、武装蜂起し、再び幕府に反旗を翻しました。
これに対し、1866年再び長州征討の勅許が出され、幕府は15万人の兵を挙げて鎮圧に乗り出します。
第2次長州征討の始まりでした。
三度目の上洛をしていた将軍・家茂は、大坂城で布陣。
しかし、前とは状況が変わっていました。
長州藩と密か同盟を組んでいた薩摩藩が出兵を拒否します。
足並みが乱れた幕府軍は、敗戦を繰り返します。
そんな中、家茂が体調を崩します。
喉や胃腸の障害をきたし、やがて足が腫れだしました。
脚気です。
墓所の発掘調査によって、家茂には虫歯が30あったことがわかっています。
当分は、脚気の原因であるビタミンB1の消費を加速させます。

幕末の天皇 (講談社学術文庫)

新品価格
¥1,012から
(2022/11/14 09:59時点)



孝明天皇が、自らの御典医を家茂のもとに送ります。
懸命の治療が行われましたが、その甲斐もなく、1866年7月20日、14代将軍・徳川家茂死去。
大坂城で息を引き取りました。
将軍在位・8年9カ月、まだ21歳でした。

激動の時代に将軍となった徳川家茂・・・後世の評価は??
幅広い人たちの信頼を得て、幕府の内紛や事件を未然に防いでいます。
確執が表に出ないような安定した政治を行えた人でした。
バランスがよく、人との信頼関係も上手に築けたようです。

家茂のような調整型の人との信頼関係を作る政治家には、もっと時間が必要でした。
家茂の亡骸は、和宮の待つ江戸城に運ばれました。
一緒に届けられたのが西陣織の反物・・・和宮が家茂におねだりしていたもので、家茂は具合が悪い中、忘れずに買っていてくれたのです。

悲しみに暮れる和宮が詠んだ歌・・・

空蝉の 唐織衣 なにかせむ
      綾も錦も 君ありてこそ

家茂亡き後、和宮は京の都に戻ることなく、徳川の女として生きます。
そして、1877年8月に亡くなりました。

その遺言により、2人は今、寄り添うように眠っています。
いつまでの仲睦まじく・・・

家茂の後、将軍となった第15代将軍徳川慶喜は、1867年に大政奉還。
江戸幕府は終焉を迎えました。
しかし、混迷を迎える幕末・・・
大きく揺れる日本を、崩れゆく江戸幕府を、必死で支えようと紛争開いていたのは間違いない将軍・家茂でした。
激動の世を駆け抜けた将軍、波乱に満ちた21年の生涯でした。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと

新品価格
¥5,500から
(2022/11/14 09:59時点)



幕末、その男は様々な姿で写真に納まりました。
ある時は紋付・羽織袴で、銃と刀を両脇に勇ましい武士の姿・・・
ある時は高貴な衣冠の装束・・・伝統を重んじる公家のよう・・・
またある時は、フランス式の軍服に身を包み革新的なリーダーを気取る・・・

江戸時代最後の将軍・徳川慶喜・・・いったい慶喜とはどのような人物だったのでしょうか?

最後の将軍 徳川慶喜 (文春文庫)

新品価格
¥570から
(2021/9/18 19:48時点)



当時の人々は、ミステリアスな慶喜のことを”二心殿”と呼びました。
海外列強が日本に押し寄せ、攘夷の風が吹き荒れた動乱の時代、英邁の誉れ高かった慶喜は将軍候補として期待され、政治の表舞台に登場しました。
しかし、力強く開国を唱えたと思ったら、攘夷と意見を翻す・・・
国の行く末を決める会議を暴言を吐いてぶち壊す・・・!!
二心殿の言動は、しばしば周りを混乱させました。
そんな慶喜に迫られた最大の選択・・・それは、将軍になるべきか、ならざるべきか・・・!!

当時すでに幕府は弱体化し、朝廷や雄藩に振り回されるばかりでした。
将軍となって、この舵取りを担うことは果たして得策なのか・・・??
慶喜はどうして将軍となり、自ら幕府に終止符を打ったのか・・・??

茨城県水戸市・・・徳川御三家の一つ水戸家の城下町だったこの地に、慶喜が書いた書”楽水”が残されています。
七郎麻呂と呼ばれていた頃の書です。
”楽水”とは、中国の孔子の言葉です。
論語の中で「知者は水を楽しむ」という一節があり、知識が豊かな人は水のように変幻時代に形を変える・・・書いた本人は意識していなかったかもしれませんが、慶喜の変幻自在ともいえる政治手法を6歳の段階で暗示しています。

慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族出身の登美宮吉子との間に生れました。
徳川と皇族、二つの血筋を受け継いだ子供でした。
しかし、7男だったため、藩主となる道はほとんど閉ざされていました。
通常では、他の大名家に養子に出されるところでしたが、父・斉昭はその才能に期待し、水戸に置いていました。
そんな中、幕府からある意向が伝えられます。
慶喜を、御三卿・一橋家の養子に欲しいというのです。
家康の子供たちで作られた御三家に対し、御三卿とは八代将軍吉宗が子供や孫に作らせた3つの家・・・将軍に跡継ぎがいないときに宗家を絶やさないためでした。
1847年、慶喜は10歳で一橋家の当主となります。
しかし、一橋家には城もなく、家臣も幕府からの出向で賄われていました。
独立した大名ではなく、あくまで将軍家の家族・・・政治的実権を持たない存在でした。

慶喜の運命が大きく変わったのが6年後・・・
1853年、ペリー来航し、強大な軍事力を背景に、日本に開国と通商を迫りました。
この時の将軍・徳川家定は、ひどく内気で病弱・・・緊急事態に適切な判断は出来ないとみられていました。
その為、この国難を担う次期将軍の必要性が叫ばれました。
幕閣や譜代大名の多くは、家定の従兄弟で、血統的にも近い紀州藩主・徳川慶福を押しました。
しかし、慶福はこの時10歳に満たず、政治手腕に疑問がありました。
一方、越前藩の松平春嶽、薩摩藩の島津斉彬ら有力大名は、当時17歳となっていた慶喜の擁立に動きました。
しかし、水戸徳川家出身の慶喜は、宗家の血縁とは遠く、正当性が弱かったのです。
しかも、父・斉昭は、幕府の政治に対して強硬意見を繰り返し、幕閣や大奥とも折り合いが悪い・・・慶喜が将軍になればうるさく口を挟むのではないかと警戒されました。
不利な状況の中で、どうやって慶喜を将軍候補として推していったのでしょうか?

尾張徳川家に残っている「慶喜公御言行私記」・・・
慶喜を推す大名たちは、慶喜の日々の行動を記した文書を配り、支持を集めました。
これを書いたのは、慶喜の側近・平岡円四郎と考えられています。
平岡は、慶喜が一橋家に入ったときに、推薦され家臣となった人物です。
慶喜が最も信用した側近でした。
書かれたエピソードには、慶喜を将軍につけたいという平岡の強い思いが感じ取れます。

その人柄を知らしめると共に、東照宮・神孫という・・・慶喜こそ将軍に相応しいというイメージを広げていきます。
慶喜自身はどう思っていたのでしょうか??
当時、父・斉昭に宛てた手紙によると・・・

”天下を取ることほど気骨の折れることはありません
 天下を取った後仕損じるよりは、天下を取らない方が大いに勝るのではないでしょうか”

しかし、そんな思いとは裏腹に、慶喜を推す勢力と慶福を推す勢力の対立は一層深まっていきました。

みみずのたわごと 徳川慶喜家に嫁いだ松平容保の孫の半生 ([テキスト])

新品価格
¥1,980から
(2021/9/18 19:48時点)



大老・井伊直弼が就任すると、事態は大きく動きます。
将軍家の血筋を重んじた井伊は、慶福の就任を強く後押しします。
さらに、将軍・家定の希望もあり、跡継ぎは慶福に・・・後の14代将軍・家茂です。
次期将軍候補から外れた慶喜・・・しかし、この構想を通じて慶喜に対する期待はますます高まっていくのです。

将軍継嗣問題のあと、幕府の危機が深まる中で慶喜は政治の表舞台に登場することになります。
1858年、幕府は列強の圧力に屈し、アメリカはじめ5か国と・・・安政五カ国条約締結。
新たに4つの港を順番に開き自由に交易することを認めました。
開国に舵を切ったのです。
しかし、これに激怒したのが孝明天皇でした。
外国嫌いの天皇は、勅許をえることなく結ばれた条約を決して認めようとはしませんでした。
そうした中、天皇を尊び、外敵を排除しようとする尊王攘夷の動きが高まり、一部の志士が過激な行動に出ます。
1860年3月3日、江戸城桜田門外で、井伊直弼暗殺。
将軍のおひざ元で大老が襲撃されるという前代未聞の事件・・・幕府の弱体化が白日の下にさらされました。
これを機に、英邁の誉れ高い慶喜に幕府の立て直しが期待されたのです。
その結果、薩摩藩などの後押しによって、慶喜は将軍・家茂を補佐する将軍後見職に就任することになりました。
しかし、前途多難!!
当時、京都では強硬な攘夷を唱える長州藩が公家たちと結びついていました。
長州藩の武力に力を得た朝廷は、将軍・家茂に条約の破棄、攘夷の実行を約束させようと考え、三条実美を孝明天皇の勅使として江戸に派遣しました。
勅使を受け入れ、攘夷を実行すべきか?
このまま開国路線を続けるべきか??
幕府で議論が紛糾する中、慶喜は語りました。

「世界ではすでに多くの国が交流している
 独り日本のみ鎖国のしきたりを守るべきではない
 むしろ、自ら進んで外国と交わりを結ぶべきだ」by慶喜

朝廷にもはっきりと意見が言えるリーダーかと思われました。
しかし、その2週間後・・・改めて開国の覚悟を聞かれると

「しばらく明言はやめて、老中たちが開国というのを待とう」by慶喜

すっかり弱気な発言に、慶喜の本心はどこにあったのでしょうか?
そこには、母が皇族出身ということが考えられます。
慶喜は、徳川家よりも朝廷の方に比重がかかっていた人物だったのでは??
縁の深い、血縁的にも深い人である・・・
一方で、慶喜はクレバーなので、もう攘夷が出来ない、開国は避けられないと思っていました。
心の中では開国すべきと思いながら、天皇の願いを蔑ろにはできない・・・
結局、幕府は攘夷の実行を約束してしまいます。
朝廷の圧力に屈し、列強の脅威にもさらされるという八方ふさがりの状況でした。

そんな幕府にとって、起死回生のチャンスとなったのは・・・
1863年、八月十八日の政権です。
長州藩の過激な動向に目を見張らせていた会津藩と薩摩藩が、御所の門を藩兵で固め、長州藩とそれに組する公家たちを京都から追放したのです。
むやみに攘夷を主張し、外交を妨害してきた長州藩はいない・・・
朝廷を説得する好機でした。
ここで動いたのが、薩摩藩で国父として実権を握る島津久光でした。
久光は、朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体の実現を目指します。
久光の建議で、慶喜を含む有力諸侯が参与というポストに任命され、朝廷との話し合いがもたれました。
参与たちは、このまま開国を続ける考えを示し、話しはまとまりかけました。
しかし・・・またもや慶喜が混乱を巻き起こします。
既に開いていた箱館、横浜、長崎の3つの港のうち、横浜を閉鎖し、朝廷が要求する攘夷の一歩を踏み出すことを主張したのです。
それだけではなく、その後開かれた宴席で、慶喜は先に酔いました。
そして、朝廷の実力者・中川宮に向かって、目の前の島津久光らを罵倒したのです。

「この者たちは、天下の代愚物、天下の大奸物であります
 何故この者たちを信用されるか?
 後見職である自分と一緒にしないでほしい」by慶喜

久光たちは怒り、結局、参与会議は解散となりました。
この騒動をきっかけに、久光は慶喜に強い不信感を抱くようになります。

運命の将軍 徳川慶喜 ? 敗者の明治維新

新品価格
¥1,650から
(2021/9/18 19:49時点)



”一橋卿の御心底 大いに六ヶ敷”

ころころと考えを変える慶喜・・・人々はそんな彼を皮肉を込めて”二心殿”と呼びました。

参与会議の解散後、慶喜は驚きの行動に出ました。
将軍後見職を一方的に辞退し、新設された”禁裏御守衛総督摂海防禦指揮”に就任しました。
禁裏とは、天皇の暮らす御所、摂海とは大坂湾・・・その警備を担う役職でした。
このポストは、聖慮・・・つまり、将軍ではなく天皇の意向に基づいて任命されました。
京都にとどまり、朝廷への接近を強める慶喜・・・江戸の幕閣はその行動を疑い、将軍・家茂の命で何度も江戸に呼び戻そうとしました。
しかし、慶喜は断ります。
将軍の命令を拒否して、京都に残る・・・
体感的に、自分は天皇、朝廷上層部と引っ付いた方がいいだろうと感じていました。

京都で慶喜は獅子奮迅の活躍を見せます。
1864年7月、前年に京都を追放された長州藩が兵を引き連れ上洛しました。
退去の呼びかけにも応じず、戦闘が始まりました。
禁裏御守衛総督・一橋慶喜は、自ら先頭に立って薩摩、会津の軍事支援のもと、長州を退けることに成功しました。
この活躍で慶喜は孝明天皇の厚い信頼を得ることになります。
そして、天皇の意を受けて、長州への処罰の実行を主張しました。
そこで、幕府は長州藩を朝敵と見なし、諸藩からなる征討軍を送ります(第1次長州征討)。
この時、参謀を務めた薩摩藩の西郷隆盛は、長州と取引し、家老3人を自害させるなどの条件で事態を収束させます。

微笑む慶喜: 写真で読み解く晩年の慶喜

新品価格
¥2,090から
(2021/9/18 19:50時点)



しかし、長州への甘い処分に、一部の幕臣や会津藩は納得しませんでした。
その不満を抑えきれず、1866年第2次長州征討。
これに、今度は薩摩が反発!!
薩摩は出兵を拒否し、長州と密かに通じるようになります。
国を二分するかもしれない内戦の事態でした。
この局面をどう打開すればいいのか・・・??
悩む慶喜に、急報が届きます。
1866年7月20日、将軍・家茂死去。
もはや、難局を乗り越えられるのは慶喜しかいない・・・!!
老中たちは、慶喜に将軍になることを要請します。

迷う慶喜・・・!!

将軍就任の要請に、慶喜はどう答えたのでしょうか?
慶喜が朝廷に送った手紙の写しが残っています。

”徳川宗家の相続につきましては、国家の大事には代えがたく、承知いたします
 ただ、将軍職に関しましては、私は薄力非才、失態の恐れもあり、お断りいたしたく申し上げます”

将軍職を断わり、徳川宗家の相続だけを引き受ける・・・誰も想像できない選択でした。
徳川宗家を相続することが、自動的に将軍職を継ぐことだと・・・家康以来そうなってきました。
それが初めて実は違うんだと、別のものなんだと示されたのです。

それだけではありません。
徳川宗家を継ぐにあたり、慶喜は自らの思い通りに幕政改革をするという条件を取り付けます。
前代未聞の将軍空位という中、慶喜は幕府の立て直しを進めます。
フランスに習った軍制改革を導入、旗本御家人から石高に応じて人や資金を出させ、新たな歩兵部隊を編成、フランス式の軍事教練を受けさせました。
慶喜のもとで幕府軍は着実に強化されていきました。

長州藩の木戸孝允は、後にこう語っています。

「いまや、江戸幕府の政治体制は一新され、その軍事力は目を見張るものがある
 一橋の大胆にして思慮深い計略は、決して侮るべきではない
 実に、家康の再生を見るようだ」

その一方、慶喜は幕府の精鋭軍を率いて長州との戦争に自ら出陣することを表明。
長く続いた戦いに決着をつけようとしました。
しかし・・・ここで、慶喜はまたもや心変わりをしてしまいます。
先発した幕府軍が敗北を喫したという報告を聞くと、急遽出陣を中止・・・
そして、周囲の十分な同意を得ることなく長州と和解し、休戦に持ち込みました。
突然の休戦に、共に長州征討を推進してきた会津藩や幕臣は納得できず、怒りをあらわにしました。
慶喜は孤立を深めていきます。

頭がいいので、変わり身が早い・・・先が読めてしまう・・・
しかし、人の心はもう一つ読めないところがるのです。

そうした中、1866年12月5日、慶喜はあれほど固辞していた将軍に・・・第15代将軍に就任。
この時30歳。
何故このタイミングで受諾したのか??
諸説あります。
①最初から将軍になるつもりで自分に味方する勢力を見極めていたのか?
②孝明天皇の願いを断わり切れなかった?
いずれにせよ、慶喜は第15代将軍として日本のかじ取りをする覚悟を決めたのです。

将軍宣下のわずか20日後・・・孝明天皇が突然この世を去りました(12月25日)。
常に後ろ盾になってくれた天皇の死・・・しかし、それは攘夷という天皇の願いから解放されるということを意味していました。
慶喜は、ようやく開国という本来の考えのために動き出します。
当時、通商条約で定められた港のうち、兵庫だけが開港されていませんでした。
孝明天皇が京都に近い兵庫の開港を断固拒否していたためです。
慶喜は、国際条約を守り、兵庫開港を実現することは日本の将来の為と信じました。

慶喜は、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津久光など有力諸侯とこの問題を協議しました。
この時、諸侯たちも兵庫開港に反対ではありませんでした。
貿易の利益で藩が潤うことを期待していたからです。
しかし、まだ大勢いた攘夷論者を恐れ、積極的に賛成する者はいませんでした。
慶喜は違いました。
夜を徹して熱弁を振るい、遂に諸侯たちを説得しました。
そして、朝廷に強く働きかけて、
1867年5月、兵庫開港の勅許がおります。
慶喜の決断によって、安政の条約締結以降揺れていた日本の開国への道は決定的となりました。

幕末の天才 徳川慶喜の孤独: 平和な「議会の時代」を目指した文治路線の挫折 (勉誠新書)

新品価格
¥800から
(2021/9/18 19:51時点)



慶喜のすごいところは、攘夷主義者がものすごく多いことを知っていました。
しかし、あえてそれを無視して、この機会に一気に開国体制に持って行こうと決断して、それを実行したのです。
慶喜の、幕末史におけるもっとも重要な役割の一つです。

政局の主導権を握りつつあった慶喜に対して、薩摩藩や長州藩は畏れ、警戒しました。
そして、倒幕のクーデター計画を練ります。
ところが、慶喜が先手を打ちます。
1867年10月、大政奉還です。
幕府に委任されてきた政権を天皇に返納する・・・
慶喜は、264年続いた幕府を終わらせたのです。
それでも、新たな政府が出来れば、慶喜は要職に就くことが見込まれました。
慶喜の名声は依然高く、本人もそれを確信していたと言われています。
ところが、薩摩・長州は許しませんでした。
王政復古のクーデターを断行し、天皇を頂点とする新政府を樹立、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争では旧幕府軍を賊軍として征討。
慶喜を新政府から徹底的に排除しました。
慶喜は、死罪は免れたものの、全ての官位を奪われ、謹慎を命じられます。
最後の将軍・・・激動の幕末は終わりました。

明治になり、謹慎をとかれた慶喜は、静岡や東京で長い隠居生活を送りました。
溢れる才能・・・写真や油彩画など様々な趣味に傾けました。
前半生とは正反対の悠々自適の日々・・・
名誉回復を計られ、明治35年に最高の爵位・公爵に叙せられました。
自らを追いやった西郷たちよりも長生きし、大正2年、77歳でこの世を去りました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

司馬遼太郎原作・本木雅弘主演 大河ドラマ 徳川慶喜 完全版 第弐集 DVD-BOX 全6枚セット【NHKスクエア限定商品】

新品価格
¥16,190から
(2021/9/18 19:51時点)





















明治維新の立役者の一人・西郷隆盛・・・
西郷が新しい国づくりのために邁進出来たのは、ある一人の男の存在があったからでした。
薩摩藩11代藩主・島津斉彬です。
斉彬が亡くなった際に、西郷は後を追って死のうとしたと言われています。
西郷がそこまで惚れ込んだ島津斉彬とは・・・??

1809年・・・薩摩藩10代藩主・斉興の嫡男として江戸の薩摩藩邸で生まれました。
母は、正室の弥姫・・・教養が深く、教育熱心な人で、乳母をおかずに自らの手で斉彬を育てました。
6歳の頃から中国の書物を越えに出して読むことや、絵画、和歌などを母に厳しく教えこまれた斉彬は、やがてこう呼ばれるようになります。
”二つビンタ”・・・ビンタとは、薩摩弁で頭の事・・・斉彬は、まるで頭が二つあるかのようにいくつものことを同時に処理できたというのです。
その噂を聞いた幕府の重役たちは、
「薩摩のような外様ではなく、譜代大名であったなら幕府の老中となって活躍できたろうに・・・」
と、残念がったといいます。

斉彬は趣味も多彩、体格にも恵まれ、威風堂々としたものでした。
藩主になるべくして生まれた男・・・しかし、40歳を過ぎても藩主には慣れませんでした。
それは、父・斉興がなかなか家督を譲らなかったからです。
というのも、斉興は19歳で藩主になったのですが、実権は父・重豪が握っており、斉興が名実ともに藩主になれたのは、重豪が亡くなってからのことでした。
斉興は43歳、斉彬は25歳になっていました。
ようやく藩の実験を握った斉興でしたが、待っていたのは深刻な財政難でした。
原因は、重豪でした。
重豪は、オランダ語を話し、歴代のオランダ商館長とも交流を深めるなど西洋の学問である蘭学や文化にひどく傾倒・・・蘭癖と呼ばれるほどでした。
それは、薩摩藩の置かれた環境が強く影響しています。
薩摩藩は、現在の鹿児島県、宮崎県、沖縄県にひろくありました。
しかも、沖縄は、名目上琉球国王が支配する・・・藩の中に外国があり、貿易をしていました。
海外からの物資や情報、文化が薩摩藩に流入していました。
蘭癖大名と呼ばれた重豪は、オランダや中国などの知識を吸収、画期的な開化政策を打ち出す一方で、金に糸目をつけずに新しいものや珍しいものを収集します。
さらに、藩校である造士館や天文館などを建設、藩の財政を圧迫していきました。
一時は500万両・・・今のお金で5000億円もの借金をしていました。
その莫大な借金を再建することが急務でした。
そこで斉興は、幕府の鎖国政策を無視し、琉球王国を隠れ蓑にした密貿易・・・抜け荷の拡大などで財政の立て直しを図っていくのです。

努力の甲斐あり、10年後には50万両もの備蓄ができるほどに持ち直します。
その功績を花道に、斉興は嫡男・斉彬に家督を譲っても良かったのですが、そうはしませんでした。
その原因もまた、重豪にありました
斉彬は幼い頃、重豪にとてもかわいがられていました。
重豪が斉彬に与えた影響は、大きかったといいます。

斉彬は重豪の蘭癖を継承・・・多くの蘭学者たちを優遇し、洋書の翻訳をさせたり、自らオランダ文字で日記をつけたり蘭学に熱中・・・
曽祖父と同じ蘭癖と称されるようになるのです。
蘭癖は、藩の財政を揺るがすもの・・・そう考えていた父・斉興は、
「斉彬が藩主になったらまた藩の財政が悪化してしまう!!」
そう恐れたため、斉彬が30代半ばを過ぎてもなお、家督を譲らなかったのです。


nariakira父に疎まれるほどだった斉彬の蘭癖・・・
その証拠が、尚古集成館に残っています。

銀板写真・・・日本人が銀板写真に写っているのは、この島津斉彬だけです。
その外に、地球儀なども残っています。

19世紀半ば、イギリスやフランスなどの西欧列強が東アジアに進出・・・
アヘン戦争では東アジア最強と目されていた中国の清がイギリスに負け、開国を余儀なくされてしまいます。
琉球にも、フランス船やイギリス船が度々来航・・・
軍事力をちらつかせながら、通商を迫ってきました。

幕府は薩摩藩に、琉球へ兵を派遣し、守りを固める様に命じますが・・・
斉興は少数の兵を短期間派遣しただけで、幕府には、指示通り兵を送ったと報告しました。
西欧列強が相手では、琉球を守るどころか薩摩藩自体も危ういと判断し、日本と西欧列強の差を縮めるべく、藩の軍事力を強化しようとしたのです。
その外に、武器の近代化、工業化を進めていきます。
ところが、父・斉興のやり方に、斉彬が・・・
「より近代化が必要!!」
しかし、藩の財政を第一に考える斉興は、これ以上の近代化は不要と一蹴・・・真っ向から対立していきます。

斉興が、藩主の座を譲らない理由は他にもありました。
朝廷から与えられる官位です。
薩摩藩士は、通常ならば四位どまりなのですが、斉興は、財政再建をした功績によって、その上の従三位を与えられるのではないかと期待していました。
その為、官位を受けるまでは財政を悪化させる恐れのある斉彬に藩主の座を譲る気などなかったのです。

30代半ばを過ぎても藩主になれない島津斉彬・・・
しかし、跡継ぎであることに変わりはなく、江戸の薩摩藩邸に詰めていました。
そんな中、父・斉興の行動が大きな波紋を呼びます。
参勤交代で江戸に滞在する時、留守中の薩摩のことは斉彬の弟の久光に任せることにしたのです。
斉彬の藩主就任を望む藩士の一部は弟の久光が藩主になるのでは??と勘繰ります。
しかも、それを陰で操るのが久光の母であり斉興の側室であるお遊羅の方だと考えるようになります。
そのさ中、斉彬の息子二人が病死・・・
斉彬の家臣達は、お遊羅の方の呪いではないかと噂をはじめます。
というのも、実際に呪符が見つかったからです。
しかし、これは、琉球にやってきた外国人を呪った父・斉興が作ったもの・・・??
全ては勘違いだったのですが、早合点した斉彬方の家臣達は、”このままでは、斉彬さまが呪い殺されてしまう!!”と、陰で操るお遊羅の方を暗殺しようと企てました。
ところが、これがお遊羅の方を寵愛する斉興の耳に入り、激怒!!
1849年、斉彬派を処罰します。
12人が切腹、38人が貼り付けや島流しの刑に処されるのです。
こうして、父との対立は深まっていくかに見えましたが・・・
このお家騒動が幕府の知る処となり、斉興は責任を取って、1851年隠居届を提出します。
斉彬は、ようやく11代藩主となるのです。
この時すでに43歳・・・!!

五代友厚さん 720ml 25度 山元酒造 1868-2018 明治維新150周年 薩摩藩 鹿児島県 鹿児島市 西郷隆盛 西郷どん 大久保利通 島津斉彬 天璋院篤姫 小松帯刀 五代友厚 坂本竜馬 大河ドラマ 幕末 郷中教育 薩摩藩英国留学生 薩長同盟

価格:2,197円
(2020/12/4 10:06時点)
感想(0件)



薩摩藩士となった島津斉彬は、西洋列強に対抗するため、軍備の強化、近代化を推し進めていきます。
それは、鎖国体制の日本にあって、先駆的なものでした。

・洋式船の建造
当時、日本近海にやってきていた西欧列強の巨大な軍艦は、鉄製で蒸気によって動き、大砲を何本も装備していました。
たいして日本の船は、幕府によって”大船建造禁止令”が出ていたため、大きくても米を積む500石積の船しか作ることが出来ず、大砲も搭載できませんでした。
斉彬は、外圧に晒される今、日本も大型船を作る必要があると考えていました。
そんな中、浦賀に黒船が来航・・・幕閣たちも、ようやく西洋の軍艦の脅威に気付きます。
斉彬はこの機を逃しませんでした。
幕府に大型船建造の解禁を願い出て、これを認めさせたのです。
そしてすぐに、西洋風の大型船の製造に着手・・・
全長30m、砲16門を搭載する西洋式軍艦昇平丸を完成させたのです。
その後も、大型船の建造を続け、日本初の蒸気船も完成させています。

・鉄製大砲の鋳造
島津家の歴史を語る博物館・尚古集成館の敷地内にも、斉彬の近代化の痕跡が・・・!!
反射炉跡が残っています。
反射炉とは、燃料を燃やして発生した熱を、天井に反射させて炉の中を高温に保つことで金属を溶かす施設・・・
これを使って、斉彬は丈夫な大砲を作ろうとしたのです。
しかし、当時、こうした反射炉を作る知識は日本にはなく、完成までには大変な苦労がありました。
斉彬は、既に反射炉を作ることに成功していた佐賀藩から、オランダの書物を取り寄せ、それをもとに研究を開始します。
西洋式反射炉の建設に取り掛かります。
しかし、外国語の書物のみが頼りとあって、失敗を繰り返します。
そこで・・・耐火煉瓦は薩摩焼の技術を使って作り・・・何度も諦めかける家臣たちにこう声をかけます。

「西欧人も人なり
 佐賀人も人なり
 薩摩人も同じく人なり
 退屈せずますます研究すべし」

藩士たちは奮起し、意地と努力で1857年反射炉を完成させます。
あわせて日本初の溶鉱炉も建設、鉄の大砲の鋳造に成功するのです。
斉彬は、他にもガラス工場や、蒸気機関研究所などを建設、そうした工場群を集成館と名付けました。
最盛期には、1200人もの人が働いていたといわれています。
2015年、集成館は歴史的価値のある工場群として世界遺産に登録。
独自の近代化を進めた斉彬の功績が、世界に認められたのです。

斉彬は幕府に対して日の丸を日本の船のしるしにするように提案します。
もともと、日本の船は帆が一つしかないなど、世界的にも特異な形であったため、外国船と間違われることはありませんでしたが、日本で洋式船を製造するとなると判断するのが難しいので、日本の船であると示す必要があると考えたのです。
日の丸は、古くから日本人が使っていたようですが、そのデザインは様々でした。
丸が三つ、五つも書いたデザインもあったのです。
この時、斉彬は白地に赤い丸ひとつを書いたサンプルを作成し、提案します。
幕府もそれを認め、1854年、日の丸を日本の船印に採用しました。

日本を守るために西洋式の軍艦や大砲を作るなど軍備の近代化を進める島津斉彬・・・
一方でこんな言葉を残しています。

「第一人和」

斉彬が一番大切に思っていたのは、人の和でした。
人の和は日本を守る城となる!!
人の和を生み出すためには、人々に豊かな暮らしを保証することだとも言っています。
斉彬は、軍備以外にも様々な産業を興しています。
国民の豊かな暮らしを目指し、近代化に取り組んだのです。

斉彬は、紡績、ガラス、出版、酒造りといった産業の育成にも力を入れました。
中でもガラスは、薩摩切子と呼ばれ、新しい工芸品を生み出します。
薩摩切子は、今でも日本を代表する工芸品で、高く評価されています。
斉彬は、外国に輸出することを考えていたようです。
薩摩焼に対しても、外国人の好みに代えろと指示し、あでやかなものとなっています。
そして、パリ万博で高い評価を得て、大量の薩摩焼が海を渡ることとなります。

島津家の別邸・仙厳園・・・桜島を望むこの美しい庭園にも斉彬が残した遺産があります。
日本初のガス灯の実験が行われました。
斉彬は、城下をガス灯で照らそうと考えていたといいます。
研究と実験を重ね、西欧の技術を習得し、次々と産業を立ち上げていった斉彬ですが・・・

「薩摩だけ強く豊になっても意味がない・・・」

そういって、持てる技術と知識を惜しみなく幕府や他の藩に教え、視察も喜んで受け入れたといいます。

斉彬は、日本が挙国一致体制で富国強兵策を・・・!!という考えでした。
それが、やがて明治政府によって実現され、斉彬の唱えた富国強兵を明治政府が展開していくこととなります。
斉彬が目指したもの・・・それは、まだ見ぬ維新という新しい日本の姿でした。

斉彬は、人材育成にも長けていました。
身分にとらわれず、優秀な若者を見出し、意見を求め、藩の政治に取り入りました。
斉彬はこう言っていました。

「付和雷同で意見を持たぬ者、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない
 偏屈な男こそ、国の宝である」

そう考える斉彬に取り立てられた若者たちの多くは、藩の中心人物に・・・そして、激動の時代、まさに非常事態に対応し、日本を背負う人物に大きく成長していきました。
西郷隆盛もその一人でした。
斉彬が、下級藩士だった西郷隆盛を初めて知ったのは、大量に届いた建白書によってでした。
当時、薩摩藩郡方書役助だった西郷が、農家や村を指導監督する中で、農民が思い年貢などに苦しみ困窮している状況を知ります。
そして、その改善策と共に、悪性を訴えた建白書を、斉彬に何度も提出・・・
斉彬はこれを高く評価し、そこで、藩主として江戸に赴く際に西郷を庭方役に抜擢し、江戸に連れていきます。
庭方役とは、何種の用事を藩邸の庭先で聞く役職のことです。
西郷を、諸藩との重要な連絡や情報収集に当たらせるなど、斉彬の信頼は厚いものでした。
この時、人脈や、政治的視野が広がり、西郷は明治維新の立役者となります。

1856年・・・時の将軍・・・第13代家定の婚礼が行われました。
花嫁は、島津斉彬の養女・篤姫です。
この結婚・・・斉彬が篤姫を政治利用したと言われていますが・・・その真相とは・・・??
当時、幕府内では将軍の後継問題が勃発していました。
家定は体が弱く、世継ぎが見込めなかったため、次期将軍の決定が急務となっていました。
候補の上がったのは、2人・・・
一人は紀州藩主・徳川慶福・・・慶福を推したのは、譜代大名・彦根藩主・井伊直弼で、南紀派と呼ばれていました。
もう一人は、一橋家当主・徳川(一橋)慶喜で、慶喜を押したのが、老中・阿部正弘ら一橋派でした。
斉彬は、この一橋派でした。
次期将軍を決めるのに大奥の意見が強く影響すると知っていた斉彬は、篤姫を将軍に嫁がせ、大奥に入れることで慶喜擁立を有利にしようと工作したのではないか?といわれています。
しかし・・・この縁談話は、家定が将軍になる3年も前に持ち上がったものでした。
将軍の世継ぎであった家定は、公家の娘を二度正室に迎えていましたが、共に死別・・・。
その為、幕府は次は武家から迎えたいと考えます。
そこで、候補に挙がったのが島津家でした。
というのも、良い前例がありました。
11代将軍・家斉が、正室に迎えたのが、茂姫・・・斉彬の曽祖父・重豪の娘でした。
その後、家斉は、将軍在位50年と歴代最長を記録し、正室、側室の間に53人もの子を設けました。
子供ができなかった家定も、島津家から妻を迎えれば死別せずに子宝に恵まれるのでは??と、考えたのです。

つまり。斉彬は、幕府からの要請を受け、篤姫を養女とし、将軍に嫁がせることにしただけで、将軍後継問題とは関係がなかったのです。
どうして斉彬は篤姫を政治利用したと思われたのでしょうか?
黒船の来航や、江戸の大地震などで婚礼が先延ばしになり、将軍継承問題が盛り上がるころに輿入れとなったため、送り込んだという誤解が生まれたのです。
嫁いで1年後・・・待望の世継ぎは出来ませんでした。
斉彬が動いたのはこの時・・・信頼していた西郷隆盛を江戸詰めとし、諸藩との連絡係にしました。
そして、次期将軍として慶喜の将軍擁立を画策。

1858年、南紀派の井伊直弼が大老に就任・・・
その権限によって、慶福が14代将軍となりました。
斉彬は再び動きます。
薩摩の兵を率いて京に向かうため、西郷にその準備を命じたのです。
その行動は、斉彬が朝廷を武力で動かし、慶喜を将軍にしようとしたのではないかとも考えられますが??

「西欧列強の脅威にさらされている今、国内で争っている場合ではない!!」

斉彬の行動には、常に日本の未来を見据えた大局的な視点があったのです。

それから間もなく、斉彬が病に倒れます。
死期が近いことを悟った斉彬は、弟の久光らを枕元に呼び遺言を伝えます。
自分の跡継ぎは、嫡男ではまだ幼いため、久光か、その長男の忠義のいずれかにするようにと・・・。

そして・・・1858年7月16日、島津斉彬死去・・・50歳で生涯を終えました。
明治という新しい時代を見ることなく・・・・・!!

日本の行く末を案じながら、その生涯を終えた島津斉彬・・・
しかし、その遺志は受け継がれ、日本を新しい時代へと導いて行きます。
島津家の家督は、弟の久光が辞退したため、その息子・忠義が相続しました。
久光は、後見役を務めました。
そして、久光は、斉彬の遺志を継ぎ、西郷たちと共に幕末から明治維新へかけての薩摩藩をけん引していきます。
彼等が目指したのは、順聖院様御深志(斉彬)の遺志の実現でした。
それは、幕府、朝廷、藩という枠を超えた挙国一致体制を築き、日本を西欧列強の植民地にされないような国にすることです。
斉彬の遺志と夢を実現するという共通の目的を持っていたからこそ、薩摩藩士たちは分裂せずに明治維新での重責を担っていくこととなるのです。
その一人、西郷隆盛は、新政府の中心人物として廃藩置県や警察制度の導入などに関わり、近代国家の礎を築きました。
そして、西郷同様下級武士から出世した大久保利通は、富国強兵を明治政府のスローガンとし、殖産興業政策を推進・・・富岡製糸場などの官営模範工場を日本各地に作り、近代産業の育成に尽力しました。

斉彬は、近代日本のプランナーだったのです。
日本を強く豊かな国にすることを夢見て、実現に向けて邁進し、様々な功績を残した幕末の名君・・・島津斉彬・・・

「維新の折、薩摩から人材が多く出たのは、斉彬の教育感化によるものである」by勝海舟

斉彬がいたからこそ、明治維新があった・・・そう言っても過言ではありません。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

【ふるさと納税】島津薩摩切子「二色衣(にしきえ)冷酒杯」ペア C251 伝統工芸 ガラス工芸 西郷どん 島津斉彬 尚古集成館 鹿児島

価格:300,000円
(2020/12/4 10:06時点)
感想(0件)

薩摩藩 箱入り 720ml 指宿酒造 1868-2018 明治維新150周年 薩摩藩 鹿児島県 鹿児島市 西郷隆盛 西郷どん 大久保利通 島津斉彬 天璋院篤姫 小松帯刀 五代友厚 坂本竜馬 大河ドラマ 幕末 郷中教育 薩摩藩英国留学生 薩長同盟

価格:1,361円
(2020/12/4 10:07時点)
感想(0件)

川路利良・・・幕末・薩摩藩出身!!初代警視総監であり、警察の父と呼ばれる人物です。
幕末動乱の時代、薩摩は長州と共に倒幕に突き進んでいました。
武士より身分の低い与力の出身だった川路、数多の戦いに参加したものの、一兵卒にすぎませんでした。
そんな川路がどのようにして栄達のきっかけを掴んだのでしょうか?

鹿児島・・・城下からおよそ北に12キロのところにある皆与志町比志島地区・・・
1834年5月、川路利良は「与力」の家に生れます。
後に大警視にまで上り詰める川路が、最下層の身分与力の子として生まれたのです。
大久保利通や、西郷隆盛らよりも身分が低く、武士と見なされませんでした。
比志島地区は今も農村地帯で、川路は農業で生計を立てなから、毎日遠い城下まで通い、藩の務めを果たしていました。
14歳の時、後の薩摩藩主・島津斉彬のお供で江戸へ。
藩の情報を伝える飛脚として活躍します。
薩摩と江戸を何度も往復しました。

川路にはもう一つ誰にも負けないと自負するものが・・・剣術です。
高杉晋作も江戸に剣術修行に行っていますが・・・
川路のことを「志ある者なり」と評しています。
川路は飛脚で培った情報収集力と剣術で、徐々に藩内で知られるように・・・
そして、幕末維新の動乱が、川路を表舞台へと押し上げていきます。

1864年7月・・・きっかけは禁門の変です。
前年に起きた政変によって京都を追われた長州が、主導権を取り戻すために御所を攻撃した事件です。
御所を守るのは、薩摩藩と会津藩!!
31歳の川路は一兵卒として参加していました。
序盤は長州が有利でした。
長州勢は守りを蹴散らし蛤御門へ!!
そこに援軍として駆けつけたのが川路達薩摩勢でした。
川路は長州勢を率いる大将を狙えば勝てると仲間の兵を鼓舞します。
薩摩兵がその大将を狙撃、重傷を負わせ、長州勢の進撃を食い止めました。
川路の機転は、戦局の変わるきっかけとなり、薩摩、会津の勝利でこの戦は終わりました。
勇猛果敢な一人の男・・・これに目を留めたのが薩摩藩の軍事指導・西郷隆盛でした。
西郷は川路を取りたて、やがて大隊長に・・・。

4年後の1864年1月・・・鳥羽。伏見の戦いが勃発
薩摩・長州の新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外で戦い新政府軍が勝利します。
この時の川路の活躍は・・・??
「世の中に戦ほど面白きものはなし!!」
その後、川路は西郷に従い戊辰戦争を会津まで転戦!!
新政府軍の勝利に貢献します。
そして明治維新後、新しく首都となった東京で、川路は活躍の場を広げることとなります。

1871年、川路は新政府の参議だった西郷隆盛から重要な任務を任されます。
それは、首都・東京の治安維持でした。
江戸時代、町奉行が管轄していた職務を近代的な組織に変える必要性に迫られていました。
新政府は士族3000人を雇用。
そのうち1000人は薩摩藩士で、川路自ら鹿児島で集めたといいます。
彼等は邏卒と名付けられました。
現在の警察官の前身です。
1872年、川路は邏卒総長に就任。
薩摩藩士の中で、江戸の町を一番熟知していたのは川路でした。
川路はこの時から、日本の警察制度を確立する為に将来を捧げることとなります。

明治維新後、政府は早急に解決しなければならない問題青抱えていました。
威信の功労者たちが、次々と各地で暗殺・・・または暗殺未遂に会っていました。
新政府では、一連の事件を機に、これからの治安維持には犯罪の捜査だけではなく、犯罪を未然に防ぐ近代的な警察組織が必要だとなりました。

8月邏卒は、司法省警保寮の管轄となり、川路はそのNo,2警保助となりました。
そんな川路にヨーロッパ警察の視察の命が・・・!!
9月、川路達司法省の視察団が横浜を出発!!
フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ロシアなどを1年かけて回りました。
川路がとりわけ感銘を受けたのは、フランスの警察制度でした。
当時、フランスはプロイセンとの戦争に敗れ、戦後も労働者の革命自治政府パリ・コミューンが樹立されるなど混乱が続いていました。
しかし、7000人を超える警察官によって、パリの治安は守られていました。
当時のパリは、維新後の日本と同じだったのです。
激動の時期、日常にどう戻していくのか??
戦乱、武士の力、軍事力ではなく、日常的に秩序を作り上げていくためには・・・??

1873年9月帰国・・・
そして、すぐさま政府に建議書を書きます。
新しい警察組織の創設を訴えたものです。

警察は国家平常の治療なり・・・
ヨーロッパでは、邏卒に軍人を用いるのは通例
日本にも士族がいるので、これを使わないのは失政の極みである

川路はフランスでの視察を盛り込んで、建議しました。

これに目をつけたのが、西郷と共に政府の実力者だった大久保利通でした。
大久保は、警察から地方行政まで全般を担う内務省を創設を準備していました。
川路は大久保の後ろ盾のもと、新しい警察組織の創設に邁進します。
ところが・・・建議書提出の翌月、新政府を揺るがす大事件が起こります。
西郷隆盛が新政府を離れ、鹿児島に戻ってしまいました。
朝鮮との外交方針を巡って、大久保らと意見が対立、論争に敗れたのが原因でした(明治6年の政変)。
西郷下野!!
その影響は大きく、薩摩藩士の多くは離脱・・・100人以上の邏卒が西郷を追って鹿児島へ帰ってしまいました。
川路もまた薩摩人として岐路に立たされます。

西郷を追って鹿児島へ・・・??
それとも警察の創設に邁進する・・・??

1873年11月10日、西郷が新政府を去ってわずか数日後、大久保利通肝いりの内務省が設置されました。
TOPである内務卿には大久保が就任、この内務省誕生は川路の選択に大きな影響を与えることとなります。
自らを取り立ててくれた西郷の恩・・・しかし、もっと国に尽くしたいという思い・・・!!

国家の安定、市民を守る警察行政制度の更なる拡充が頭の中にありました。
刻下の行政は一日たりとも揺るがせにできない・・・。
しかし、西郷への恩義は感じており、市場においては忍びないが・・・と言っています。

1874年1月15日、内務省の管轄下に警視庁が誕生しました。
当時の警視庁は、首都東京の治安維持だけでなく、国家全体にかかわる事件を地方警察に代わり担当していました。
川路は大警視・・・現在の警視総監の地位にある警視庁のTOPにつきます。
そして、日本の警察制度を一から作り上げていくことになります。

邏卒から警察官に変わったことで、新しく導入されたのが警察手帳です。
警視庁創設当時、警察官は約5300人でした。
この警察官の実力が試される時が・・・!!
各地で士族の反乱が起きます。
明治政府に不満のある士族たちが各地で反乱を起こしたのです。
士族たちは刀を持つことを禁じた廃刀令や、家禄廃止に反感を抱いていました。
警察官たちは次々に現地派遣され、軍の後方支援などで活躍、乱の鎮圧に貢献します。
そんな中・・・最も警戒していたのは鹿児島の西郷・・・
大久保や川路は、西郷の私学校の士族たちが能初することを恐れ、対策に講じます。
鹿児島に巡査を密偵として派遣!!
さらに・・・警察官の増員計画・・・目をつけたのが、戊辰戦争で敗者となった会津藩や仙台藩などの士族たちでした。
中でも旧会津藩主は、北寒の青森に移住して、斗南藩で苦難の生活を送っていました。
斗南藩も無くなり、路頭に迷うものも多くいました。
川路は、会津藩で家老を務め、鬼官兵衛として官軍に恐れられていた佐川官兵衛と接触します。
会津戦争の時に、徹底抗戦を貫いた官兵衛は、部下からの信頼も厚かったのです。
川路は、佐川に旧藩士を連れて警察官になるように要請します。
佐川はかつての部下たちのことを想い、決断します。

「皆、衣食に窮し 飢餓に迫る 之を養ふは我分なり」

佐川は、旧会津藩士300人を従えて警察官となりました。
川路と西郷の対決が、刻一刻と迫っていました。

1877年、川路と西郷の対決が・・・!!
薩摩では、士族を蔑ろにし、中央集権化を進める新政府への不満が爆発寸前でした。
そこに、川路が密偵を派遣していたことが露見!!
私学校の士族たちの怒りに火をつけることとなりました。
2月・・・武装した1万数千人が鹿児島で蹶起!!東京を目指して出発します。
九州各地で、薩摩と行動を共にする士族が現れ、西郷軍に加わります。
西南戦争の始まりです。
西郷軍を阻止する為に、警察は陸軍と共に各地で奮戦します。
今回は、後方支援にとどまらず、およそ1万3000人の警察官が武装して従軍しました。

川路は、陸軍少将兼大警視として西南戦争に参戦。
当時、熊本城にいた政府軍は、西郷軍に包囲され孤立していました。
八代に上陸した川路は、熊本城の救出に向かいます。
しかし、その登城、川路軍は西郷軍の奇襲を受けます。

部下の死を聞いた川路は激怒!!

「いざ、弔い合戦せん!!」

部下たちを叱咤激励します。
兵を率いて反撃に転じ、西郷軍を蹴散らします。
川路の勝利を知った西郷は、こう語ったといいます。

「川路は、兵の機をよく把握している
 敵ながら天晴なり」

やがて陸軍の増援部隊が加わり勢いづいた政府軍は、西郷軍を敗退させ、落城寸前の熊本城を救いました。
その後、火力と兵力に勝る政府軍は、鹿児島県との県境まで押し戻すことに成功!!
しかし、6月・・・川路は陸軍少将及び別働第三旅団長を辞任し、終戦を待たずに東京へ・・・。
その理由は・・・??

西郷にとどめを刺すというのは、私情において・・・と、ここに私情が出てくるのです。
本来、巡査隊の仕事ではない・・・ほかにやるべきことがある・・・という建前です。
最後・・・周りが避けさせたのではいか・・・??
開戦から7か月たった9月24日、鹿児島の城山に追い込まれた西郷は自害・・・西南戦争は終結しました。

大恩ある西郷を裏切ったともいわれた川路・・・。
当時の心情は・・・??

敗色濃厚の中で、鹿児島に戻った西郷が士族たちに最期の決起を呼び掛けた回文・・・。
死の20日ほど前にかいた絶筆です。
川路はこの手紙を手に入れ、西郷の直筆であると自ら書き加えたといいます。
絶筆と言える回文を自分のところに大事に保管したかったのでは・・・??

1879年10月、病のために46歳で亡くなります。
大警視の地位にあったのはわずか5年でした。
川路が眠る墓は、鹿児島ではなく東京にあります。
西南戦争のあと、川路は鹿児の地に足を踏み入れることはありませんでした。
墓には桜島の溶岩が・・・

大義の前に私情を投げ打ったという川路・・・。
しかし、鹿児島、西郷を思う心は、終生変わらなかったのかもしれない。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

大警視川路利良の魅力―『翔ぶがごとく』の司馬遼太郎から警察官へのメッセージ

新品価格
¥2,160から
(2019/7/10 23:25時点)

大警視・川路利良―日本の警察を創った男

中古価格
¥920から
(2019/7/10 23:26時点)

幕末維新と松平春嶽

中古価格
¥1,983から
(2018/10/17 23:23時点)



今からおよそ150年前、大改革が行われていました。
参勤交代は、全国の大名が二年に一度江戸へ赴き、軍役奉仕を行う江戸時代の基本制度です。
その費用は莫大で、藩財政を圧迫・・・幕末には多くの藩の財政を圧迫し、破たん寸前となっていました。
当時は異国船の来航・・・防衛力の強化と財政の立て直しが叫ばれていました。

「最早参勤交代をしている場合ではない!!」

そういったのは、越前福井藩主・松平春嶽です。
春嶽は、大胆な緩和を幕府に提案し、大名の負担軽減と防衛力の強化を叫びます。
しかし、参勤交代は主従関係を確認する幕藩体制の根幹・・・周囲は難色を示します。
国家存亡の危機を前にしても帰られないその制度とは・・・??!!

松平春嶽が、参勤交代の帰り道を書いた日記によると・・・
江戸を出て間もなく、農民たちの姿を目の当たりにして・・・

”裕福なら牛や今を使えるが、貧しいとそうはいかぬ
 もし百姓の苦労や実情を知らぬ大名がいたら、嘆かわしきこと”

一国の主たるもの、領民を慈しむ政治をしなくてはならない!!
その政治信条を培ったのが、幕末の財政難でした。
90万両もの借財があったと言われていて、自分の藩を見つめ直し、領民に対する見方を戒めたのです。
つもりに積もった福井藩の借金・・・90万両=450億円・・・。
そのしわ寄せが領民の年貢に・・・打ちこわしや一揆が頻発していました。
危機的な懐事情で・・・春嶽ですら一汁一菜でした。
粗食で耐え凌ぐ有様でした。
他の藩も同様の状況で苦しめられていました。

その最大の原因が、莫大な経費を必要とする参勤交代でした。
その旅路は宿代だけでもバカにならず、2000人のお供を連れていた加賀藩の場合、1泊で1000万以上・・・
江戸までの片道の宿泊費は総額2億円にもなりました。
少しでも宿泊日数を減らそうと、速足で駆け抜けるという涙ぐましい努力をする藩もありました。
さらに、江戸へ人質として置いていた妻や子の住む江戸藩邸の維持費も大きなものでした。
5000人もの藩士がいた加賀藩では、年間予算の半分・・・50億円を江戸で費やしていました。

それなら参勤交代の規模を縮小すれば・・・??
御用商人たちの武鑑には、各大名の名前、石高、武器の種類や数まで事細かく書かれていて・・・それが大名の格となっていました。
江戸に暮らす庶民は、この武鑑を大名行列のガイドブックとしていたので、大名たちは、お家の威信にかけて格を下げるようなことはできませんでした。
しかも、この行列は、幕府にとっても大名にとってもメリットがあり・・・
江戸に大名が来るというのは、幕府の権威を非常に高め政権が安定します。
大名同士の序列の中で、自分の家が他藩より高いか努力します。
参勤交代の道具を増やすことを幕府に嘆願し、幕府が許可する・・・
それは、幕府の恩恵を感じ、大名は同等だった大名たちに一歩先んじる努力をしたのです。

将軍との謁見でも、格に応じて畳の何枚目に座るかが決まっており、大名の努力次第で位置を変えることができ・・・参勤交代は、大名同士の格式をめぐるせめぎあいでもありました。
しかし、その制度の改革を迫る未曽有の危機が日本を襲います。

1853年ペリーが浦賀に来航。
どう対応するのか??幕閣は連日議論していました。
しかし、結論を出すことができません。
時の老中・阿部正弘は、全国の大名に意見を募ります。
幕府としては異例の試みでした。
そして、1通の建白書が幕府に届きます。
その差出人こそ、26歳の福井藩主・松平春嶽で、その内容は、幕府にとって衝撃的なものでした。

全国の大名は参勤交代で疲弊しきっております。
この国難に対峙するためには、江戸に散布する大名を帰国させ、挙国一致で軍備を整えるべきかと存じます。

春嶽は、異国に立ち向かうためには、財政をひっ迫させている参勤交代を緩和する必要があると幕府に訴えたのです。
しかし、将軍の忠誠を誓う証である参勤交代の改革を主張すれば、幕府から反逆を疑われ、処罰されてもおかしくありませんでした。
どうして春嶽は危険を省みず主張したのでしょうか??
春嶽は、本来は田安徳川家の出身で、将軍になったかもしれない立場でした。
なので、福井藩のことだけを考えてはいなかったのです。
春嶽が生まれた田安徳川家は、八代将軍吉宗に始まる家柄で、春嶽は11代将軍家斉の甥に当たり、12代将軍家慶のいとこにあたるサラブレッドだったのです。
これは譜代からは言えず・・・親藩大名の将軍に近い自分だからこそ言える!!自信と使命感に溢れていました。
しかし、幕府はこれを却下。

「幕府を人体に例えれば、大名の参勤は、骨の最大なるもの。
 骨を砕いてしまえば、取り返しがつかない。」by阿部正弘

納得がいかない春嶽は、当時最も英明と言われていた薩摩藩主・島津斉彬に自分の意見を解き、幕府説得の協力を求めます。
しかし、斉彬は春嶽に同意するものの・・・外様の自分に言えるわけがないと答え、幕府の前で突飛な言動は控えるようにとくぎを刺されてしまいます。
しかし、建白書を出し続ける春嶽。

諸大名の忠誠と服従を繋ぎ止めてきた参勤交代を緩和すれば、幕府の権威は一気に崩れ去るかもしれない・・・
そんな危機感が幕閣にはあったのです。
このまま何も変えなくていいのか・・・??
春嶽の前に大きな壁が立ちはだかっていました。

最早自分一人の力だけではどうすることもできない・・・春嶽は、行動に移します。
同じ志を抱く大名と党派を組んで幕府の政治を変えようというものでした。
春嶽は、水戸・徳川斉昭、薩摩・島津斉彬と共に、栄明と評判の高い一橋慶喜を次期将軍に推薦します。
さらに、1857年8月、江戸の藩邸に徳川家に近しい大名達と会談し、協力を要請します。
春嶽の意見を聞いた徳島藩主・蜂須賀斉裕は、神君家康公以来の法に触れるのは幕府に不審を抱かせると難色を示しました。
それでも春嶽は引き下がらない!!改革の意義を力説します。
その熱い想いにじっと耳を傾けていたのが鳥取藩主・池田慶徳です。
慶徳はその後も春嶽と会談を進め、大名の声が天下変革の響になるという春嶽の想いに共感し、幕府に建白書を提出します。
やがて春嶽達に同調するかのように幕府内からも参勤交代を見直すことが挙げられます。
特に海防を担当する海防掛大目付は改革の必要性を痛感。
「参勤交代の緩和が諸藩の出費を減らし、海防強化の一助になる」と、建白書を出しています。

春嶽が参勤交代の緩和を主張してから4年・・・改革の機運は高まりつつありました。
ところが・・・一人の男が立ちはだかります。
譜代最大の大名・井伊直弼です。
次期将軍に紀州の徳川慶福(のちの家茂)を推した直弼は、次期将軍をめぐっての主導権争いに勝利!!
そして・・・一橋派の一掃に乗り出しました。
世に言う安政の大獄です。
1858年7月、春嶽は隠居謹慎処分に・・・江戸藩邸で逼塞生活を送ることとなりました。
井伊直弼の強硬な姿勢に耐え忍ぶようにと、家臣たちを戒めます。
2年後、春嶽を謹慎に追い込んだ井伊直弼が桜田門外で暗殺されます。
幕府の権威は急速に傾き始めました。
しかし、春嶽の近親が解かれることはなく、4年にも及びました。
春嶽はどのような政治構想を持っていたのでしょうか。
虎豹変革備考・・・春嶽がイギリスの政治体制をもとに自らの政治構想を記しています。
上院と下院に分かれた議会で、幕府には行政のみを委ねる議会制度を構想していました。
上院には大名を、下院には武士や百姓町人を参加させるべきだと説いています。
春嶽は参勤交代の改革を突破口に、近代的な政治の導入を模索していたのです。

井伊直弼の暗殺から2年後・・・時代は大きく動きます。
1862年3月、島津久光が藩兵1000人を率いて上洛。
朝廷を後ろ盾にして、幕府に政治改革させようとしました。
それは、春嶽を大老に、慶喜を将軍後見役に就任させ、幕政の助けにするという要求でした。
これに慌てたのが老中たちです。
朝廷や外様大名の要求を受け入れ幕政改革が行われるような事態になれば、幕府の権威は地に落ちたも同然!!
1862年5月、春嶽は謹慎を解かれ江戸城へ登城!!
将軍家茂の元へ・・・!!
欧米列強の対応で亀裂の入っていた朝廷との関係を修復、公武合体の実現に向けての交渉役を依頼されます。
春嶽にとって、それは将軍の以来と引き換えに参勤交代の緩和の絶好のチャンス!!
しかし、幕府の権威が落ちた今、それを行うのは大きなリスクをはらんでいました。
どうする・・・??

参勤交代の緩和を今切り出すのか?それとも時期を見るのか・・・??

将軍を目の前にどう応えたのでしょうか?
春嶽は将軍自らが不退転の覚悟で幕政改革をすると約束しないならば、従うつもりはないと言い放ちました。
その上で、老中らに速やかに徳川優先の政治をやめ、大名を苦しめる参勤交代の緩和をはじめとする幕政改革を迫ったのです。

改革の時はいまを置いて他になし!!

1862年7月、将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽を任命。

その一月後・・・幕府はついに参勤交代の緩和を布告しました。
この改正によって参勤は2年→3年となり、江戸の滞在日数を1年→100日としました。
江戸にいる間は幕府に積極的に政治的意見を具申するようにさせます。
大名妻子は帰国は自由とし、大名たちを最も苦しめていた江戸での経費削減を実施していきます。
効果は覿面!!
全国で藩政改革が進んで行きます。

大名達はこぞって軍艦や大砲を購入。
それまでできなかった軍事力の強化と産業の育成に励みます。

しかし・・・その先には、春嶽も予測できなかった時代のうねりが・・・。
それは、急速に発言力を持ちだした朝廷でした。
春嶽たちが幕政改革をし出した2か月後・・・大名に対し、帝のいる京都の治安を守るように京都警護を発令!!
幕府を通さず、天皇が直接大名たちに軍役奉仕を求めたのです。
強硬な公家・三条実美は将軍後見職の慶喜に対し、諸大名の参勤は江戸と京都で折半しようと持ちかけさえしました。
1863年2月、上洛のために家茂が江戸を出発。
開国を容認してもらうために・・・。
その交渉役を任された春嶽は、将軍上洛の数か月前から朝廷と開国容認の交渉を続けていました。
しかし、孝明天皇は認めず、攘夷実行尾を春嶽に迫ります。
交渉は暗礁に乗り上げていました。
幕府と朝廷との板挟みになる春嶽・・・

さらに盟友であった一橋慶喜との間で政治方針を巡って対立し始めました。
3月、春嶽は政事総裁職を辞任。
政治改革の道から離脱してしまうのです。
その後、日本は本格的な激動を迎えます。

1864年第一次長州征討
幕府は諸大名に出兵を命じます。
その1か月後、幕府は参勤交代の復旧を発令!!
幕府への統制力を強めようというのが狙いでした。
ところが大名たちは、国家の大事件だと困惑・・・。
春嶽にも問い合わせが来ます。

「幕命には従わなければならないが、そのまま様子を伺い、幕府から催促が来た場合には病気を口実に断ればよい」と。

春嶽から見ても、衰退は止めようがありませんでした。

1867年10月14日、大政奉還
仕える将軍がいなくなったことで、参勤交代制度は終焉を迎えます。

明治に入っていからの春嶽は、執筆活動に専念。
数々の著作を残しています。
井伊直弼のことは・・・
”徳川家の威光を盛んにせんとの志にて、決して私欲のためにやったことではない。
 彦根公の英断が今に至りては感すへし”
と書いています。

直弼の一連の決断は、幕府と徳川を思っての英断だったと振り返っています。

春嶽は、自分が行った改革を失敗だったと思っていたのでしょうか?
その真意が明かされることはなく、1890年6月、春嶽死去・・・63歳でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

横井小楠と松平春嶽 (幕末維新の個性)

中古価格
¥2,847から
(2018/10/17 23:23時点)

カメラが撮らえた 最後の将軍と徳川一族 (ビジュアル選書)

中古価格
¥2,915から
(2018/10/17 23:24時点)

このページのトップヘ