日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:島津斉彬

川路利良・・・幕末・薩摩藩出身!!初代警視総監であり、警察の父と呼ばれる人物です。
幕末動乱の時代、薩摩は長州と共に倒幕に突き進んでいました。
武士より身分の低い与力の出身だった川路、数多の戦いに参加したものの、一兵卒にすぎませんでした。
そんな川路がどのようにして栄達のきっかけを掴んだのでしょうか?

鹿児島・・・城下からおよそ北に12キロのところにある皆与志町比志島地区・・・
1834年5月、川路利良は「与力」の家に生れます。
後に大警視にまで上り詰める川路が、最下層の身分与力の子として生まれたのです。
大久保利通や、西郷隆盛らよりも身分が低く、武士と見なされませんでした。
比志島地区は今も農村地帯で、川路は農業で生計を立てなから、毎日遠い城下まで通い、藩の務めを果たしていました。
14歳の時、後の薩摩藩主・島津斉彬のお供で江戸へ。
藩の情報を伝える飛脚として活躍します。
薩摩と江戸を何度も往復しました。

川路にはもう一つ誰にも負けないと自負するものが・・・剣術です。
高杉晋作も江戸に剣術修行に行っていますが・・・
川路のことを「志ある者なり」と評しています。
川路は飛脚で培った情報収集力と剣術で、徐々に藩内で知られるように・・・
そして、幕末維新の動乱が、川路を表舞台へと押し上げていきます。

1864年7月・・・きっかけは禁門の変です。
前年に起きた政変によって京都を追われた長州が、主導権を取り戻すために御所を攻撃した事件です。
御所を守るのは、薩摩藩と会津藩!!
31歳の川路は一兵卒として参加していました。
序盤は長州が有利でした。
長州勢は守りを蹴散らし蛤御門へ!!
そこに援軍として駆けつけたのが川路達薩摩勢でした。
川路は長州勢を率いる大将を狙えば勝てると仲間の兵を鼓舞します。
薩摩兵がその大将を狙撃、重傷を負わせ、長州勢の進撃を食い止めました。
川路の機転は、戦局の変わるきっかけとなり、薩摩、会津の勝利でこの戦は終わりました。
勇猛果敢な一人の男・・・これに目を留めたのが薩摩藩の軍事指導・西郷隆盛でした。
西郷は川路を取りたて、やがて大隊長に・・・。

4年後の1864年1月・・・鳥羽。伏見の戦いが勃発
薩摩・長州の新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外で戦い新政府軍が勝利します。
この時の川路の活躍は・・・??
「世の中に戦ほど面白きものはなし!!」
その後、川路は西郷に従い戊辰戦争を会津まで転戦!!
新政府軍の勝利に貢献します。
そして明治維新後、新しく首都となった東京で、川路は活躍の場を広げることとなります。

1871年、川路は新政府の参議だった西郷隆盛から重要な任務を任されます。
それは、首都・東京の治安維持でした。
江戸時代、町奉行が管轄していた職務を近代的な組織に変える必要性に迫られていました。
新政府は士族3000人を雇用。
そのうち1000人は薩摩藩士で、川路自ら鹿児島で集めたといいます。
彼等は邏卒と名付けられました。
現在の警察官の前身です。
1872年、川路は邏卒総長に就任。
薩摩藩士の中で、江戸の町を一番熟知していたのは川路でした。
川路はこの時から、日本の警察制度を確立する為に将来を捧げることとなります。

明治維新後、政府は早急に解決しなければならない問題青抱えていました。
威信の功労者たちが、次々と各地で暗殺・・・または暗殺未遂に会っていました。
新政府では、一連の事件を機に、これからの治安維持には犯罪の捜査だけではなく、犯罪を未然に防ぐ近代的な警察組織が必要だとなりました。

8月邏卒は、司法省警保寮の管轄となり、川路はそのNo,2警保助となりました。
そんな川路にヨーロッパ警察の視察の命が・・・!!
9月、川路達司法省の視察団が横浜を出発!!
フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ロシアなどを1年かけて回りました。
川路がとりわけ感銘を受けたのは、フランスの警察制度でした。
当時、フランスはプロイセンとの戦争に敗れ、戦後も労働者の革命自治政府パリ・コミューンが樹立されるなど混乱が続いていました。
しかし、7000人を超える警察官によって、パリの治安は守られていました。
当時のパリは、維新後の日本と同じだったのです。
激動の時期、日常にどう戻していくのか??
戦乱、武士の力、軍事力ではなく、日常的に秩序を作り上げていくためには・・・??

1873年9月帰国・・・
そして、すぐさま政府に建議書を書きます。
新しい警察組織の創設を訴えたものです。

警察は国家平常の治療なり・・・
ヨーロッパでは、邏卒に軍人を用いるのは通例
日本にも士族がいるので、これを使わないのは失政の極みである

川路はフランスでの視察を盛り込んで、建議しました。

これに目をつけたのが、西郷と共に政府の実力者だった大久保利通でした。
大久保は、警察から地方行政まで全般を担う内務省を創設を準備していました。
川路は大久保の後ろ盾のもと、新しい警察組織の創設に邁進します。
ところが・・・建議書提出の翌月、新政府を揺るがす大事件が起こります。
西郷隆盛が新政府を離れ、鹿児島に戻ってしまいました。
朝鮮との外交方針を巡って、大久保らと意見が対立、論争に敗れたのが原因でした(明治6年の政変)。
西郷下野!!
その影響は大きく、薩摩藩士の多くは離脱・・・100人以上の邏卒が西郷を追って鹿児島へ帰ってしまいました。
川路もまた薩摩人として岐路に立たされます。

西郷を追って鹿児島へ・・・??
それとも警察の創設に邁進する・・・??

1873年11月10日、西郷が新政府を去ってわずか数日後、大久保利通肝いりの内務省が設置されました。
TOPである内務卿には大久保が就任、この内務省誕生は川路の選択に大きな影響を与えることとなります。
自らを取り立ててくれた西郷の恩・・・しかし、もっと国に尽くしたいという思い・・・!!

国家の安定、市民を守る警察行政制度の更なる拡充が頭の中にありました。
刻下の行政は一日たりとも揺るがせにできない・・・。
しかし、西郷への恩義は感じており、市場においては忍びないが・・・と言っています。

1874年1月15日、内務省の管轄下に警視庁が誕生しました。
当時の警視庁は、首都東京の治安維持だけでなく、国家全体にかかわる事件を地方警察に代わり担当していました。
川路は大警視・・・現在の警視総監の地位にある警視庁のTOPにつきます。
そして、日本の警察制度を一から作り上げていくことになります。

邏卒から警察官に変わったことで、新しく導入されたのが警察手帳です。
警視庁創設当時、警察官は約5300人でした。
この警察官の実力が試される時が・・・!!
各地で士族の反乱が起きます。
明治政府に不満のある士族たちが各地で反乱を起こしたのです。
士族たちは刀を持つことを禁じた廃刀令や、家禄廃止に反感を抱いていました。
警察官たちは次々に現地派遣され、軍の後方支援などで活躍、乱の鎮圧に貢献します。
そんな中・・・最も警戒していたのは鹿児島の西郷・・・
大久保や川路は、西郷の私学校の士族たちが能初することを恐れ、対策に講じます。
鹿児島に巡査を密偵として派遣!!
さらに・・・警察官の増員計画・・・目をつけたのが、戊辰戦争で敗者となった会津藩や仙台藩などの士族たちでした。
中でも旧会津藩主は、北寒の青森に移住して、斗南藩で苦難の生活を送っていました。
斗南藩も無くなり、路頭に迷うものも多くいました。
川路は、会津藩で家老を務め、鬼官兵衛として官軍に恐れられていた佐川官兵衛と接触します。
会津戦争の時に、徹底抗戦を貫いた官兵衛は、部下からの信頼も厚かったのです。
川路は、佐川に旧藩士を連れて警察官になるように要請します。
佐川はかつての部下たちのことを想い、決断します。

「皆、衣食に窮し 飢餓に迫る 之を養ふは我分なり」

佐川は、旧会津藩士300人を従えて警察官となりました。
川路と西郷の対決が、刻一刻と迫っていました。

1877年、川路と西郷の対決が・・・!!
薩摩では、士族を蔑ろにし、中央集権化を進める新政府への不満が爆発寸前でした。
そこに、川路が密偵を派遣していたことが露見!!
私学校の士族たちの怒りに火をつけることとなりました。
2月・・・武装した1万数千人が鹿児島で蹶起!!東京を目指して出発します。
九州各地で、薩摩と行動を共にする士族が現れ、西郷軍に加わります。
西南戦争の始まりです。
西郷軍を阻止する為に、警察は陸軍と共に各地で奮戦します。
今回は、後方支援にとどまらず、およそ1万3000人の警察官が武装して従軍しました。

川路は、陸軍少将兼大警視として西南戦争に参戦。
当時、熊本城にいた政府軍は、西郷軍に包囲され孤立していました。
八代に上陸した川路は、熊本城の救出に向かいます。
しかし、その登城、川路軍は西郷軍の奇襲を受けます。

部下の死を聞いた川路は激怒!!

「いざ、弔い合戦せん!!」

部下たちを叱咤激励します。
兵を率いて反撃に転じ、西郷軍を蹴散らします。
川路の勝利を知った西郷は、こう語ったといいます。

「川路は、兵の機をよく把握している
 敵ながら天晴なり」

やがて陸軍の増援部隊が加わり勢いづいた政府軍は、西郷軍を敗退させ、落城寸前の熊本城を救いました。
その後、火力と兵力に勝る政府軍は、鹿児島県との県境まで押し戻すことに成功!!
しかし、6月・・・川路は陸軍少将及び別働第三旅団長を辞任し、終戦を待たずに東京へ・・・。
その理由は・・・??

西郷にとどめを刺すというのは、私情において・・・と、ここに私情が出てくるのです。
本来、巡査隊の仕事ではない・・・ほかにやるべきことがある・・・という建前です。
最後・・・周りが避けさせたのではいか・・・??
開戦から7か月たった9月24日、鹿児島の城山に追い込まれた西郷は自害・・・西南戦争は終結しました。

大恩ある西郷を裏切ったともいわれた川路・・・。
当時の心情は・・・??

敗色濃厚の中で、鹿児島に戻った西郷が士族たちに最期の決起を呼び掛けた回文・・・。
死の20日ほど前にかいた絶筆です。
川路はこの手紙を手に入れ、西郷の直筆であると自ら書き加えたといいます。
絶筆と言える回文を自分のところに大事に保管したかったのでは・・・??

1879年10月、病のために46歳で亡くなります。
大警視の地位にあったのはわずか5年でした。
川路が眠る墓は、鹿児島ではなく東京にあります。
西南戦争のあと、川路は鹿児の地に足を踏み入れることはありませんでした。
墓には桜島の溶岩が・・・

大義の前に私情を投げ打ったという川路・・・。
しかし、鹿児島、西郷を思う心は、終生変わらなかったのかもしれない。

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幕末維新と松平春嶽

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今からおよそ150年前、大改革が行われていました。
参勤交代は、全国の大名が二年に一度江戸へ赴き、軍役奉仕を行う江戸時代の基本制度です。
その費用は莫大で、藩財政を圧迫・・・幕末には多くの藩の財政を圧迫し、破たん寸前となっていました。
当時は異国船の来航・・・防衛力の強化と財政の立て直しが叫ばれていました。

「最早参勤交代をしている場合ではない!!」

そういったのは、越前福井藩主・松平春嶽です。
春嶽は、大胆な緩和を幕府に提案し、大名の負担軽減と防衛力の強化を叫びます。
しかし、参勤交代は主従関係を確認する幕藩体制の根幹・・・周囲は難色を示します。
国家存亡の危機を前にしても帰られないその制度とは・・・??!!

松平春嶽が、参勤交代の帰り道を書いた日記によると・・・
江戸を出て間もなく、農民たちの姿を目の当たりにして・・・

”裕福なら牛や今を使えるが、貧しいとそうはいかぬ
 もし百姓の苦労や実情を知らぬ大名がいたら、嘆かわしきこと”

一国の主たるもの、領民を慈しむ政治をしなくてはならない!!
その政治信条を培ったのが、幕末の財政難でした。
90万両もの借財があったと言われていて、自分の藩を見つめ直し、領民に対する見方を戒めたのです。
つもりに積もった福井藩の借金・・・90万両=450億円・・・。
そのしわ寄せが領民の年貢に・・・打ちこわしや一揆が頻発していました。
危機的な懐事情で・・・春嶽ですら一汁一菜でした。
粗食で耐え凌ぐ有様でした。
他の藩も同様の状況で苦しめられていました。

その最大の原因が、莫大な経費を必要とする参勤交代でした。
その旅路は宿代だけでもバカにならず、2000人のお供を連れていた加賀藩の場合、1泊で1000万以上・・・
江戸までの片道の宿泊費は総額2億円にもなりました。
少しでも宿泊日数を減らそうと、速足で駆け抜けるという涙ぐましい努力をする藩もありました。
さらに、江戸へ人質として置いていた妻や子の住む江戸藩邸の維持費も大きなものでした。
5000人もの藩士がいた加賀藩では、年間予算の半分・・・50億円を江戸で費やしていました。

それなら参勤交代の規模を縮小すれば・・・??
御用商人たちの武鑑には、各大名の名前、石高、武器の種類や数まで事細かく書かれていて・・・それが大名の格となっていました。
江戸に暮らす庶民は、この武鑑を大名行列のガイドブックとしていたので、大名たちは、お家の威信にかけて格を下げるようなことはできませんでした。
しかも、この行列は、幕府にとっても大名にとってもメリットがあり・・・
江戸に大名が来るというのは、幕府の権威を非常に高め政権が安定します。
大名同士の序列の中で、自分の家が他藩より高いか努力します。
参勤交代の道具を増やすことを幕府に嘆願し、幕府が許可する・・・
それは、幕府の恩恵を感じ、大名は同等だった大名たちに一歩先んじる努力をしたのです。

将軍との謁見でも、格に応じて畳の何枚目に座るかが決まっており、大名の努力次第で位置を変えることができ・・・参勤交代は、大名同士の格式をめぐるせめぎあいでもありました。
しかし、その制度の改革を迫る未曽有の危機が日本を襲います。

1853年ペリーが浦賀に来航。
どう対応するのか??幕閣は連日議論していました。
しかし、結論を出すことができません。
時の老中・阿部正弘は、全国の大名に意見を募ります。
幕府としては異例の試みでした。
そして、1通の建白書が幕府に届きます。
その差出人こそ、26歳の福井藩主・松平春嶽で、その内容は、幕府にとって衝撃的なものでした。

全国の大名は参勤交代で疲弊しきっております。
この国難に対峙するためには、江戸に散布する大名を帰国させ、挙国一致で軍備を整えるべきかと存じます。

春嶽は、異国に立ち向かうためには、財政をひっ迫させている参勤交代を緩和する必要があると幕府に訴えたのです。
しかし、将軍の忠誠を誓う証である参勤交代の改革を主張すれば、幕府から反逆を疑われ、処罰されてもおかしくありませんでした。
どうして春嶽は危険を省みず主張したのでしょうか??
春嶽は、本来は田安徳川家の出身で、将軍になったかもしれない立場でした。
なので、福井藩のことだけを考えてはいなかったのです。
春嶽が生まれた田安徳川家は、八代将軍吉宗に始まる家柄で、春嶽は11代将軍家斉の甥に当たり、12代将軍家慶のいとこにあたるサラブレッドだったのです。
これは譜代からは言えず・・・親藩大名の将軍に近い自分だからこそ言える!!自信と使命感に溢れていました。
しかし、幕府はこれを却下。

「幕府を人体に例えれば、大名の参勤は、骨の最大なるもの。
 骨を砕いてしまえば、取り返しがつかない。」by阿部正弘

納得がいかない春嶽は、当時最も英明と言われていた薩摩藩主・島津斉彬に自分の意見を解き、幕府説得の協力を求めます。
しかし、斉彬は春嶽に同意するものの・・・外様の自分に言えるわけがないと答え、幕府の前で突飛な言動は控えるようにとくぎを刺されてしまいます。
しかし、建白書を出し続ける春嶽。

諸大名の忠誠と服従を繋ぎ止めてきた参勤交代を緩和すれば、幕府の権威は一気に崩れ去るかもしれない・・・
そんな危機感が幕閣にはあったのです。
このまま何も変えなくていいのか・・・??
春嶽の前に大きな壁が立ちはだかっていました。

最早自分一人の力だけではどうすることもできない・・・春嶽は、行動に移します。
同じ志を抱く大名と党派を組んで幕府の政治を変えようというものでした。
春嶽は、水戸・徳川斉昭、薩摩・島津斉彬と共に、栄明と評判の高い一橋慶喜を次期将軍に推薦します。
さらに、1857年8月、江戸の藩邸に徳川家に近しい大名達と会談し、協力を要請します。
春嶽の意見を聞いた徳島藩主・蜂須賀斉裕は、神君家康公以来の法に触れるのは幕府に不審を抱かせると難色を示しました。
それでも春嶽は引き下がらない!!改革の意義を力説します。
その熱い想いにじっと耳を傾けていたのが鳥取藩主・池田慶徳です。
慶徳はその後も春嶽と会談を進め、大名の声が天下変革の響になるという春嶽の想いに共感し、幕府に建白書を提出します。
やがて春嶽達に同調するかのように幕府内からも参勤交代を見直すことが挙げられます。
特に海防を担当する海防掛大目付は改革の必要性を痛感。
「参勤交代の緩和が諸藩の出費を減らし、海防強化の一助になる」と、建白書を出しています。

春嶽が参勤交代の緩和を主張してから4年・・・改革の機運は高まりつつありました。
ところが・・・一人の男が立ちはだかります。
譜代最大の大名・井伊直弼です。
次期将軍に紀州の徳川慶福(のちの家茂)を推した直弼は、次期将軍をめぐっての主導権争いに勝利!!
そして・・・一橋派の一掃に乗り出しました。
世に言う安政の大獄です。
1858年7月、春嶽は隠居謹慎処分に・・・江戸藩邸で逼塞生活を送ることとなりました。
井伊直弼の強硬な姿勢に耐え忍ぶようにと、家臣たちを戒めます。
2年後、春嶽を謹慎に追い込んだ井伊直弼が桜田門外で暗殺されます。
幕府の権威は急速に傾き始めました。
しかし、春嶽の近親が解かれることはなく、4年にも及びました。
春嶽はどのような政治構想を持っていたのでしょうか。
虎豹変革備考・・・春嶽がイギリスの政治体制をもとに自らの政治構想を記しています。
上院と下院に分かれた議会で、幕府には行政のみを委ねる議会制度を構想していました。
上院には大名を、下院には武士や百姓町人を参加させるべきだと説いています。
春嶽は参勤交代の改革を突破口に、近代的な政治の導入を模索していたのです。

井伊直弼の暗殺から2年後・・・時代は大きく動きます。
1862年3月、島津久光が藩兵1000人を率いて上洛。
朝廷を後ろ盾にして、幕府に政治改革させようとしました。
それは、春嶽を大老に、慶喜を将軍後見役に就任させ、幕政の助けにするという要求でした。
これに慌てたのが老中たちです。
朝廷や外様大名の要求を受け入れ幕政改革が行われるような事態になれば、幕府の権威は地に落ちたも同然!!
1862年5月、春嶽は謹慎を解かれ江戸城へ登城!!
将軍家茂の元へ・・・!!
欧米列強の対応で亀裂の入っていた朝廷との関係を修復、公武合体の実現に向けての交渉役を依頼されます。
春嶽にとって、それは将軍の以来と引き換えに参勤交代の緩和の絶好のチャンス!!
しかし、幕府の権威が落ちた今、それを行うのは大きなリスクをはらんでいました。
どうする・・・??

参勤交代の緩和を今切り出すのか?それとも時期を見るのか・・・??

将軍を目の前にどう応えたのでしょうか?
春嶽は将軍自らが不退転の覚悟で幕政改革をすると約束しないならば、従うつもりはないと言い放ちました。
その上で、老中らに速やかに徳川優先の政治をやめ、大名を苦しめる参勤交代の緩和をはじめとする幕政改革を迫ったのです。

改革の時はいまを置いて他になし!!

1862年7月、将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽を任命。

その一月後・・・幕府はついに参勤交代の緩和を布告しました。
この改正によって参勤は2年→3年となり、江戸の滞在日数を1年→100日としました。
江戸にいる間は幕府に積極的に政治的意見を具申するようにさせます。
大名妻子は帰国は自由とし、大名たちを最も苦しめていた江戸での経費削減を実施していきます。
効果は覿面!!
全国で藩政改革が進んで行きます。

大名達はこぞって軍艦や大砲を購入。
それまでできなかった軍事力の強化と産業の育成に励みます。

しかし・・・その先には、春嶽も予測できなかった時代のうねりが・・・。
それは、急速に発言力を持ちだした朝廷でした。
春嶽たちが幕政改革をし出した2か月後・・・大名に対し、帝のいる京都の治安を守るように京都警護を発令!!
幕府を通さず、天皇が直接大名たちに軍役奉仕を求めたのです。
強硬な公家・三条実美は将軍後見職の慶喜に対し、諸大名の参勤は江戸と京都で折半しようと持ちかけさえしました。
1863年2月、上洛のために家茂が江戸を出発。
開国を容認してもらうために・・・。
その交渉役を任された春嶽は、将軍上洛の数か月前から朝廷と開国容認の交渉を続けていました。
しかし、孝明天皇は認めず、攘夷実行尾を春嶽に迫ります。
交渉は暗礁に乗り上げていました。
幕府と朝廷との板挟みになる春嶽・・・

さらに盟友であった一橋慶喜との間で政治方針を巡って対立し始めました。
3月、春嶽は政事総裁職を辞任。
政治改革の道から離脱してしまうのです。
その後、日本は本格的な激動を迎えます。

1864年第一次長州征討
幕府は諸大名に出兵を命じます。
その1か月後、幕府は参勤交代の復旧を発令!!
幕府への統制力を強めようというのが狙いでした。
ところが大名たちは、国家の大事件だと困惑・・・。
春嶽にも問い合わせが来ます。

「幕命には従わなければならないが、そのまま様子を伺い、幕府から催促が来た場合には病気を口実に断ればよい」と。

春嶽から見ても、衰退は止めようがありませんでした。

1867年10月14日、大政奉還
仕える将軍がいなくなったことで、参勤交代制度は終焉を迎えます。

明治に入っていからの春嶽は、執筆活動に専念。
数々の著作を残しています。
井伊直弼のことは・・・
”徳川家の威光を盛んにせんとの志にて、決して私欲のためにやったことではない。
 彦根公の英断が今に至りては感すへし”
と書いています。

直弼の一連の決断は、幕府と徳川を思っての英断だったと振り返っています。

春嶽は、自分が行った改革を失敗だったと思っていたのでしょうか?
その真意が明かされることはなく、1890年6月、春嶽死去・・・63歳でした。

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西郷どん・・・なんだか見ていて全く理解できず、虚しくなってしまいました。
そんな第28回「勝と龍馬」でした。
小栗旬さん大好きなのに・・・その大好きな小栗旬さんをもってしても、私の興味は薄れてしまったの・・・??
銀さんの方が、一本筋が通ってたりして・・・??

で・・・お話は・・・??

禁門の変の時に右足を負傷した吉之助、幕府軍の圧勝に終わったんですが、しかし戦火は京全体に・・・!!
薩摩軍は、長州の残した兵糧米を炊き出し、負傷した長州兵も治療しました。
ということで、とってもいい人な吉之助です。

焼け野原になった京の都を見て呆然とする吉之助・・・。
死んでいった人を思いやる吉之助。
瓦礫の中から犬を助け出す吉之助。
「お!!この犬があの犬か??」byわが家のパパ。
あの犬・・・??そうそう上野の西郷さんが連れている犬です。
緊張感も全くないし、笑っちゃったわ・・・。

そこにたたずむフキどん・・・
慶喜の側室なんだったら、もうフキどんって言っちゃだめでしょ?
それに、そんな綺麗なベベ着て・・・不釣り合いなんだよ~~~!!
と、地底の果てまでゲンナリ・・・。
とと思っていたら、どうしてこんなことになってしまったのか?誰が悪かったのか??と、フキに追及されます。
う~ん・・・そういう問題じゃないんだよ・・・。
と思っていたら、「みんなじゃ・・・」と言い出す吉之助。
おもんないんだよ・・・。
みんなそれぞれの正義のために戦ってんじゃないの??
だから、誰のせいでもなくって、生みの苦しみって思いたいのよね・・・

長州征伐にイケイケどんどんな慶喜・・・
「長州許すまじ!!天子様の勅命じゃ!!」と言い出しています。

吉之助と小松帯刀の話を襖越しに盗み聞きするお虎・・・
これが密偵なら緊張感があるし、花燃ゆの文なら女主人公だからな・・・盗み聞きしないと話が進まないのか??って思うけど、こちらは男性主人公の西郷吉之助であり、明治維新になってもその中心にいる人物なんですけど・・・??「なんで盗み聞きやねん・・・はしたない・・・」って思っていら、ケガやのに動いたらあかんとか言い出して・・・なのに、拒否されると「わかりました。すぐに駕籠を呼びますさかい・・・」なんて言い出しコントする・・・。止めるなら、命をかけて止めてみたら・・・??
こんな間延びした雰囲気もNo thank youです。



慶喜にべらんめえ調ではなす勝さんもNo thank youです。
ここに出てくる人は、節度ってもんがないんでしょうか??
ほんと、折り目正しい日本人が・・・困ったもんです。

そこへ吉之助が来て勝さんと初めての出会いでした。
呼び出されていた吉之助は慶喜とお話し中・・・
そんなところへフキが乗り込んできて、
また戦をするのか?とか言い出しました。
目の前で町が焼け、民が苦しんでいるのが見えぬのですか?と、ウザい限りです。
戦などやめてください、西郷さまからも言ってください!!
と言われた吉之助は・・・
「口を慎みなされ、ここは、女子の来るとこじゃなか・・・!!」と、言いました。
う~ん・・・吉之助が変わったと表現したいのでしょうか?
それにしても、みんなの味方の優しい西郷さんで突き通すんじゃなかったのか・・・??
ブレブレな西郷さんな気がします。
女性を無碍にしただけで、人格が変わったことを表現したいのでしょうか??
違う気がする・・・。

”勝海舟を説得しろ”と吉之助に命令する慶喜。
う~ん・・・慶喜・・・勝海舟は幕臣なんだから、どうして吉之助に頼むの・・・??

勝を訪ねて行った大坂には坂本龍馬がいました。
あ~~~この呑気な音楽、なんなんだ・・・恥ずかしい・・・。
やめてくれよ~~~!!

don















これ見よがしにピストル見せんのもおかしいんじゃないの・・・??
刀然り、ピストル然り・・・抜くときは殺すときだよ・・・??
そんなこと、したのかなあ・・・龍馬。
そこへ、めっちゃフレンドリーな勝海舟登場!!
なんか・・・この場面の音楽・・・ほんと・・・なんじゃ・・・。

don2













色々話してますが、内容が薄すぎて頭に入ってきません。
現在勝海舟がどんな立場の人間なのか??
今現在、政治がどうなっているのかわからないからです。
でも、ここだけはわかりましたよ・・・

「なるほどな・・・あの島津斉彬さまが見込んだだけのことはある!!」by勝海舟
どの斉彬だよ・・・??
「俺が斉彬さまならこう言うね・・・もう、幕府なんざ、見限るこった!!」
と、慶喜の書状を火鉢にくべてしまいました。

「俺の書状を燃やしやがっただと・・・??!!」

と、相変らず品のない慶喜です。
勝には軍艦がある、万が一江戸城に向けられたら・・・??と、いきなりな話をし出す吉之助。
どうして軍艦でやられると思うんだよ・・・。
勝が嫌がるから、長州征伐を言い渡された吉之助。

don3















戦をするのが嫌だというかと思ったという慶喜に、
「たった今、勝ち目が見え申したで・・・
 おいにお任せくださいませ」と言い出す吉之助。
だ・か・ら!!どんな勝ち目なの??
何が何だか理解できないのは、私が阿呆だからか・・・??

ってことで??
総大将は、前尾張藩主徳川義勝です。
この人も、いろいろ考えがあって行動しているはずなのに、なんとも阿呆に表現されています。
なんでこんなにバカな感じにするかなあ・・・??と思っていたけど、旦那が言いました。

「まあ・・・300年近く、戦ってないんだからこんな感じかもなあ・・・」と。
う~ん・・・そうかもしれないけど、それをドラマ化はして欲しくないよなあ・・・。

密偵を放つも、もう帰ってきています。
見せ場になるあんなこんなを全部カットするから緊張感が全くなくなるんだよ・・・。

おバカな義勝のもとへやってきて、長州に行きたいと言い出す吉之助。
みんな戦を望んでいないとか言い出し、一人長州に出向いて、戦わずして終わらせてみせると言い出しました。

don4















岩国に、単身で乗り込む吉之助。
返すものがあると、先の戦で傷つけた兵を養生させておいたと連れてきました。
ここはある程度事実です。
やっぱり、結局いいひと設定なんだ・・・吉之助。

ということで、西郷さん一人で申し状に従うと、決めてきました。
吉之助一人で長州を倒したそうだ・・・。
それでも、手助けをしただけだという吉之助。

戦争をすると思っていたのにしてこなかったことに「失望した」という慶喜・・・。

そうなんだよね・・・
この長州征伐は御所に向けて発砲した長州に対して、孝明天皇が怒り遊ばしたことが発端で・・・
慶喜はそんなに戦いたくはなかったと思っています。
でもね・・・この時に長州をたたいておけば・・・!!と、幕府側が後に思うのも事実です。

慶喜に楯突いた吉之助は「腹を切れ!!」と言われ・・・

don5















決別します。
ああ・・・この演出も興ざめです。
高倉健がしてそうですよ・・・
あ・・・誤解のないように、高倉健さんは私の一番の俳優さんです。
命のやり取りをするヤクザが多かった健さんです。
背筋がピンと伸びて、着流しがとっても似合うギラギラとしたいい男・・・
それを思うと、ギラギラしていない吉之助は命のやり取りをしてないからだろうなあ・・・

で・・・腰を抜かし、「くっそお~~!!」と悔しがる慶喜。
みんな、ホントに品がないんだよなあ・・・

吉之助は徳川だけが残るのではなく民のために・・・と言っとりますが、この時点では、そんなに幕府を見限っているわけでもなく、長州と仲良しなわけではありません。
禁門の変後・・・長州の人たちは、こんな思いでした。

satuma

















「薩賊会奸」と、下駄に書き、それを踏みつけて・・・憎んで再起を図るわけです。
当時の藩は=国で、みんな自分の国のために戦っているわけで、「民のため」に戦っているわけではありません。
吉之助も、薩摩藩の利になるように働いているわけです。
この幕末明治にかけて、薩摩藩が一番うまく立ち回ったと思います。
日和見というか・・・。
元々倒幕だった長州、佐幕だった会津・・・そして、佐幕だったのに倒幕に寝返った薩摩!!なんです。
私は小さい頃からやっぱり佐幕が好きで、でも、一貫している長州も好きで・・・寝返った薩摩は嫌いでした。
でも、国を守るために清濁を併せ飲んだ結果、国を守るために佐幕から討幕に寝返ったわけで、そこには西郷隆盛という男の才があったと思います。

ドラマとして・・・この時点で長州を思いやっている時点でアウト!!
なんでもいがみ合っている両者が手を組むからこそドラマがあると思います。
もちろん、薩摩も幕府も確固たる信念をもって動いていました。
そこらへんも書いてほしいのは山々ですが、そこら辺を目をつぶったとしても、薩摩と長州がいがみ合っていないと話は全く面白くないのが現状で・・・龍馬が頑張る必要は1000%要らないわけです。

ドラマとしても面白くない、間延びした・・・
「西郷どんは凄い!!」と言いながら、その凄さを何に求めているのか・・・??
全くすごくない西郷どんが仕上がってしまいました。
西郷隆盛は策士であって、軍人です。
これから戊辰戦争、明治維新、下野、西南戦争・・・どうやって表現するのか??
「民のため」とか、「戦いはしたくない」と連呼すればするほど、担ぎ上げられてなんの能力もない・・・つまり、凄くない西郷どんが仕上がっていっていますよね

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今から140年前の1878年5月14日、東京千代田区の紀尾井坂で事件が起こります。
明治維新を成し遂げた一人の英雄が暗殺されたのです。
殺されたのは、薩摩藩出身の大久保利通!!
大久保は、今の総理大臣である内務卿として、廃藩置県、身分制度改革などを断行。
そのため、武士としての特権を奪われた困窮した士族の恨みを買って、命を落とすこととなりました。
その死の間際まで大切に思っていた一人の盟友・・・それは、西郷隆盛でした。
背広の胸ポケットに・・・西郷の手紙が二通ありました。

「王政復古のことは、外国に良く説明すべし」
もう一つは、大久保の写真を送られた西郷が、あまりいい男ではないと大久保をからかった手紙でした。
西郷は、1877年自決してこの世を去っていましたが、西郷からの手紙を肌身離さず懐に入れていたのです。
その絆はどんなものだったのでしょうか?

大久保利通は1830年、薩摩国高麗町に生まれました。
父は、薩摩藩士の利世、母は薩摩藩医の娘・ふく・・・5人兄弟の長男でした。
大久保家は、下級藩士の家柄で貧しい暮らしでしたが、大久保はひたすら勉強し、学問に秀でていました。
幼い頃、高麗町から下加治屋町に引っ越して・・・運命の出会いが!!
同じ下級藩士の子で、3歳年上の西郷吉之助・・・後の西郷隆盛でした。
二人は、郷中教育という薩摩藩の青少年の教育制度の下、机を並べ学び、切磋琢磨しました。
西郷は大久保を「正助どん」と呼び、大久保は「吉之助どん」と呼ぶ親しい仲になります。
そして、赤穂浪士の討ち入りの日には、二人で夜を徹して「義臣伝」を読み、忠義を貫いた武士に胸を熱くしていました。
そして、二人は藩校「造士館」で学び、西郷は郡方書役助として、大久保は記録所書役助となりました。
そんな若き日の二人に試練が・・・
大久保が20歳の時に薩摩藩のお家騒動・・・お由羅騒動が起こります。
当時の薩摩藩主・島津斉興の家督相続をめぐって、正室の斉彬派VS側室の久光派の内紛です。
その結果、お由羅を寵愛していた斉興によって斉彬派が粛清され、斉彬派に属していた大久保の父・利世が喜界島に流刑となります。
1850年・・・大久保もこれに連座して免職・・・謹慎となりました。
収入を発たれた大久保家は困窮・・・大久保は恥を承知で妹の嫁ぎ先に借金を頼み込みます。
それでも先の見えない生活に大久保は・・・「何も心配することなか」と、安心させようとします。
そんな時、大久保を支えてくれたのが西郷家でした。
大久保は、西郷の家にやってきて、黙って食事をして帰ったともいわれ・・・西郷も大久保を弟のように思っていたようです。
西郷は、このお由羅騒動で、恩師・赤山靱負が切腹しています。
悔しい思い、苦しい思いを共有していました。
大久保の謹慎は3年に及び、解けたのは1853年のことでした。
島津斉興が隠居し、息子の斉昭が藩主となったからです。
復職した大久保でしたが・・・その時すでに、西郷は異例の大出世をしていました。
11代藩主は斉彬の手足となって東奔西走・・・そして大久保は・・・??

復職した大久保は、薩摩の若手藩士らと、秩序と大義名分を重んじる朱子学の勉強会を開き、藩の力になろうとしますが・・・
彼等が藩を見限り脱藩を画策する思想集団へと変貌していきます。
そこには、藩主・斉彬の存在が大きくありました。
斉彬は黒船来航によって現実味を帯びてきた西欧列強の侵略を警戒し、この国難を乗り切るために、朝廷、幕府、諸藩が一体となって政治を行う挙国一致体制でなければならないと・・・実現に向けて奔走するものの・・・
あくまで幕府が主体となって政治を行おうとする大老・井伊直弼と対立!!
そんな中、1858年7月16日、斉彬が急死してしまいました。
その後を甥の忠義が継ぎます。
しかし、薩摩藩の実権を握ったのは、忠義の父で斉彬の弟・久光でした。
久光は、井伊直弼と対立していた斉彬のことで幕府から追及されないように斉彬の腹心だった西郷を島流しとし、蟄居を命じます。
これに猛反対したのが、勉強会のメンバーで後の精忠組です。
精忠組は大久保がリーダーとなり、蟄居となった西郷精神的な盟主として藩政に異を唱えるようになって過激化していきます。
久光は、幕府に対して恐れを抱いていました。
大久保はそんな態度が不満で、斉彬の遺志を継いでほしかったのです。
そこで大久保は考えます。
「わしらが動いたところで限界がある
 薩摩藩を動かすために、藩の事実上の支配者である久光公を、動かさなければ・・・!!」
しかし、下級武士で久光に会うこともままならない大久保が、どうやって・・・??

そこで大久保は久光に取り入るために策を練ります。

①囲碁

久光公は碁をする・・・相当な碁好きと知った大久保・・・大久保の趣味も囲碁でした。
そこで、久光の碁の相手をしていた碁の名手・吉祥院の住職に弟子入りします。
さりげなく住職に政治の意見を語り、住職を通じて久光の耳に入るようにします。

②書物
大久保は久光が読書家であることを知ると・・・
詠みたがっている本を知人からそれとなく聞き出し、その本を探し出し、藩の政治に対する自分の意見を挟み込みます。
そして久光公に献上し、喜ばせると同時に自分の意見も直接伝えていました。

幕府を恐れる久光に不満を抱く精忠組の薩摩藩士たち・・・
前藩主・斉彬が目指していた薩摩藩が参加する挙国一致体制を実現するため、リーダーだった大久保は大胆な行動に出ます。
精忠組四十数人が脱藩!!
水戸藩など尊王攘夷派の志士たちと共に、挙国一致体制の障害となる大老・井伊直弼たちの暗殺を計画したのです。
この計画が実行されれば、薩摩藩は窮地に陥ってしまう・・・!!
1859年11月5日、誠忠組全員が遺書を認め、船に乗り込もうとしたその時・・・
精忠組の計画を知った久光によって藩主・忠義の名で諭書が出されました。
そこには・・・
薩摩藩は斉彬公の遺志を尊重する。
精忠組の有志達も脱藩せず、協力してほしい。
と書かれていました。
久光が折れたのです。
大久保は、もはや脱藩の必要はないと、血気盛んなメンバーを説得し、計画は取りやめとなったのです。

しかし・・・この騒動は、大久保によって仕掛けられたものでした。
精忠組の中でも冷静で沈着冷静だった大久保は、内心では地方の浪士が幕府首脳を暗殺することは無理だと考えていました。
そこで、精忠組の脱藩計画を久光側に漏らし・・・
慌てた久光は、彼らを引き留めるために慌てて諭書を出すこととなったのです。
大久保は、久光が兄・斉彬と同じく挙国一致体制を目指しているのを知っていました。
久光を促すために、脱藩計画を利用したのです。
そして・・・精忠組を説得したことで、久光の信頼を得ます。
さらに大久保は、久光との交渉の中でもう一つの条件を出していました。
西郷隆盛を奄美大島から戻すことでした。
この転換期に、薩摩にとっても日本にとっても必要な男だと思っていたようです。

大久保はこの日のことを日記に記しています。

「藩全体で立ち上がってこそ、大偉業が出来る。」

大偉業とは、挙国一致体制・・・更なる作戦を繰り出します。

大久保利通は、西郷隆盛を鹿児島城下に戻すことに成功!!
そして、亡き斉彬の遺志を継いで西郷と共に奔走します。
しかし、外様大名の薩摩藩の言葉が簡単に幕府に通るはずもなく・・・
久光は、自らが上洛して朝廷を動かそうと考えます。
それを実現させるために動いたのが大久保でした。
1862年1月京都・・・島津家と関係の深かった近衛忠煕・忠房親子と対面します。
薩摩藩が目指す挙国一致体制の実現を訴えて、強力を要請します。
そして、近衛親子を通じて、久光が上洛し、幕府の改革を要求する建白書を朝廷に提出することとなったのですが・・・
大久保が準備を整えた上洛に異を唱えたのが西郷でした。
西郷は久光は藩主ではなく後見人だと主張します。
「久光公は、憚ることなく申せば田舎者!!
 しかも不用意であり、今乗り出したとしても、事が成就するとは思えませぬ!!」
この言葉に激怒する久光!!
大久保が仲裁に入り、事なきを得ます。
3月16日、久光は上洛するため、大久保ら1000人を従えて薩摩を出発しました。
上洛に伴う準備を任された西郷は、下関で久光一行の到着を待つように言われていましたが・・・
京都で尊王攘夷派の過激な志士たちによる挙兵の動きがあると知ると、それを阻止する為に、久光の命に背き、無断で京都へ・・・!!
またしても、西郷が・・・!!
激高した久光は、西郷に対して捕縛命令を出します。
4月9日・・・それを知った大久保は、兵庫の浜辺に西郷を誘います。

「最早・・・久光公の怒りを鎮めることは難しい・・・
 きっと吉之助どんは捕縛を免れられない・・・
 そうなれば、吉之助どんは面目を潰されたと切腹をするだろう。
 自分にはそれを止めることもできない。
 吉之助どんが死ねば、自分も生きている甲斐はない
 だからお互い、ここで刺し違えて死ぬことにしよう。。。」by大久保

この言葉が、西郷を動かしました。

「自分はどのような辱めを受けようと、耐え忍び、わしらが目指す前途を見つめるつもりだ。
 自害はしない。
 ここで二人して死んだら、誰が斉彬公のご遺志を実現するのか・・・??」by西郷

こうして西郷は、捕らえられることを受け入れ、沖永良部島に流されたのです。

8月21日武蔵国生麦村で・・・薩摩藩を揺るがす大事件が起こります。
大久保は一部始終を目撃していました。
大久保が久光の行列に付き添っていた時に・・・ 
イギリス商人チャールズ・リチャードソンと遭遇。
警護役が馬を降りて端によれというものの・・・彼等は無視しました。
すると、激怒した薩摩藩士が無礼打ちとして4人に斬りかかったのです。
その結果、一人が死亡し、二人がけがをしました。
世にいう生麦事件です。

イギリスは、悪質な攘夷行動と受け取りました。
怒り心頭のイギリスは、幕府に対して正式な謝罪と、10万ポンド(約370億円)の賠償をもとめてきました。
薩摩藩に対しても、犯人の逮捕と死刑執行、遺族と負傷者に2万5000ポンド(90億円)の賠償を要求します。
もし要求に応じない場合は、軍事行動に・・・!!
横浜に停泊していたイギリス艦隊に恐れをなした幕府は、事件の発生から8か月後、賠償金全額を支払いました。
ところが、薩摩藩は拒否!!

1863年6月・・・薩摩藩との交渉が難航する中、イギリスは軍艦7隻を横浜から薩摩に向かわせ、軍事的圧力で要求をのませようとします。
そして7月・・・薩英戦争火ぶたが切られました。
イギリス艦隊のアームストロング砲が炸裂し、鹿児島城下は火の海となり、街の半分が焦土と化します。
薩摩藩側の中心となったのは、攘夷派の武士たちでした。
この時大久保は、圧倒的なイギリスの軍事力に、攘夷論に限界を感じるようになりました。

9月28日、横浜のイギリス公使館で講和交渉が行われました。
薩摩側は賠償金の受け入れを決めました。
しかし、大きな問題が・・・薩摩藩には賠償に充てる資金がなかったのです。
そこで大久保は??
江戸へと向かいます。
幕府の担当者に・・・
「英吉利の要求通り、賠償金は支払います。
 ただしそのお金は、幕府が用立てていただきたい。」
と、幕府に圧しつけたのです。
幕府はこれに激怒し、拒否!!
すると大久保は幕府を脅します。
「薩摩藩は賠償金を支払えません。
 幕府が支払わないと、また戦争になりますが、それでもいいのですか?」
この大久保の一言で、幕府は賠償金を肩代わりすることになったのです。

大久保は、1863年には久光の秘書役・御側約に就任します。
そんな大久保の悲願は、前藩主・斉彬の挙国一致体制を確立し、新しい政治の枠組みの中に薩摩藩を組み入れることでした。
しかし、これに大きく反発したのが幕府でした。
朝廷の力を背景に、久光の幕政改革案を飲まされた幕府は、薩摩藩を恨んでいました。

そんな中、1864年1月、久光の提案で京都に新しい政治の決定機関・参預会議ができました。
参預と呼ばれる評議員を幕府と諸藩の有力者から選出し、朝廷がそれを任命・・・。
朝廷から参預に任ぜられた人物が重要な政策を協議するというものでした。
参預として参加したのは、徳川慶喜・松平容保・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・・・諸藩からは、藩主や経験者が選ばれ、久光は本来ならば藩主でないので参加できないものの朝廷から「左近衛権少将」の官位を授かり参預として参加しました。
この6人で、日本の重要問題が協議されることとなりました。

ところが・・・会議は、開港していた横浜港を巡っていきなり紛糾・・・
久光は開港を続けるべき・・・他のメンバーも同意しましたが・・・慶喜が反対し、鎖港を訴えたのです。
幕府中心の政治を展開したい慶喜は、薩摩藩が力を持ちすぎることを警戒していました。
どうしても、自分が主導権を握りたかったのです。
そう・・・参預会議は、幕府と薩摩の権力闘争の場となってしまったのです。

慶喜は、攘夷論者の孝明天皇の支持を得ていました。
攘夷思想の孝明天皇に、横浜鎖港を主張し、取り入ったのです。
幕府主導の公武合体を画策したのでした。
大久保の悲願だった参預会議が行き詰ってしまいました。
行き詰ったのを心配した朝廷が設けた酒席で、酔った慶喜が大暴れ!!
久光らを指さし、罵倒したのです。
最早慶喜との話し合いは不可能と・・・幕府を見限って参預辞職を申し出た久光。
こうして新しい政治体制は短期間で瓦解・・・。
薩摩藩が朝廷や幕府と共に政治に参加する道が閉ざされてしまいました。
挙国一致体制が不可能と知った大久保・・・考えを一変させます。

「幕府を倒す!!」討幕へと舵を切ったのです。
奇しくも、久光が参預を辞職したのと同じころ・・・島流しを許された西郷が・・・!!
こうして大久保と西郷は討幕へと突き進むこととなるのです。

王政復古を断行し、新政府を樹立、廃藩置県、版籍奉還などの近代国家への大改革を成し遂げていきます。
大義の為ならば命がけで・・・!!
しかし、二人はやがて決別・・・西郷は西南戦争の首謀者として自決!!
大久保は大改革の反発を一身に受けて・・・
1878年5月14日、道半ばで暗殺されてしまいました。
49歳の若さでした。


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地中海に面したフランスの都市トゥーロン。
ここに、興味深い絵が残されています。
水彩で描かれた南国の島・・・そこには琉球王国の大臣が・・・。
これらの絵が描かれたのは、1846年。
フランス海軍中尉によるものです。

この年、フランスは琉球に3隻の艦隊を派遣していました。
目的は、開国通商・・・。
アヘン戦争をきっかけに激化する東アジアの勢力争い・・・
その矛先が、終に日本に向かったのです。
この問題に真っ向から当たったのが、当時琉球を支配していた薩摩藩の家老・調所広郷でした。
圧倒的な武力で開国を迫るフランスの脅威。
頑なに鎖国を掲げる幕府・・・。
そんな中、調所は一世一代の賭けに出るのでした。
調所の命をかけた秘策とは・・・??

1776年鹿児島城下で下級武士の次男として誕生。
13歳で調所家の養子となりました。
調所家は祖父の代から茶道坊主を務めており、広郷も剃髪し、その道を選びました。
23歳で江戸に出府・・・奥茶道に・・・。
藩主を凌ぐ権力を持つ重豪の目に留まったとこは、広郷にとって大きな転機となりました。
1828年、武士に戻り、藩全体の財政改革を任されます。

その頃、薩摩藩は破産の危機に瀕していました。
幕府から命じられる治水工事などの莫大な負担。
島津家の姫君を将軍家に嫁がせる婚礼費用。
借金は膨らみ、500万両・・・今のお金にして2500億円を超える膨大なものとなっていました。

調所が財政改革の柱の一つにしたのが奄美大島の黒砂糖でした。
それまで島民に許されていた砂糖の売買を禁じ、生産量すべてを薩摩藩に納入させ、大坂商人を使って売りさばきます。
黒砂糖の利権を与える一方、大坂商人たちに債務返済に大幅な譲歩を迫ります。
元金千両に付き年4両返済、250年割賦という強引な条件を飲ませたのです。
そしてもう一つの切り札が・・・
北海道近海の昆布を富山を介して入手し、琉球を通じて清国に輸出していました。
この貿易を発展させようとしたのです。
薩摩藩は漢方薬の原料である薬種を輸入販売していました。
富山の売薬商から入手した昆布を琉球の交易船に積み、清国で販売し、薬種を仕入れ、日本の市場で売りさばいたのです。
当時、貴重な薬種の殆どは幕府でしたが、薩摩藩は琉球を通じて一部の薬種の輸入販売が許可されていました。
調所はこれに目をつけ、規制を越えた量、薬種を売買し、膨大な利益を生んだのです。

誰もがなしえなかった財政再建を実現し、50万両もの備蓄金を蓄えるに至った調所。
そんな調所の前に思いもよらないことが・・・。
1844年3月11日、一隻の軍艦が琉球に・・・フランス船アルクメール号です。
琉球王府に対して、開国通商を要求しました。

アヘン戦争で清国に圧勝したイギリスは、香港を割譲させ、東アジア貿易の拠点を手に入れていました。
中国市場で後れを取ったフランスは、琉球に狙いを定めたのです。
この要求は、琉球王府を動揺させます。
当時の琉球王府は薩摩の実効支配だけでなく、名目上は清国の柵封を受けた属国でした。
独自の通商など許される立場ではなかったのです。

琉球王府は、フランスの要求を必死に拒絶!!
我国は、金銀銅などの資源が乏しく、貿易には耐えられない・・・と。
しかし、船長はこれに応じず、再交渉の為大艦隊が来ると通告し立ち去りました。
薩摩へ急報・・・そのことは、幕府に伝えられました。
6月・・・調所はフランス船への対処を幕府と協議。
鎖国を掲げる幕府としては、フランスの要求を放置するわけにはいかない・・・
対応に当たったのは阿部正弘。
調所に、琉球への警備兵派遣を命じます。
調所も従い、100人ほどの兵を渡海させました。
一旦は鎖国に従った調所・・・しかし、この後、調所は薩摩を意外な方向へ導いていくのです。

1846年5月、3隻のフランス艦隊が琉球に来航。
フランス海軍提督ジャン・バティスト・ヤシーユ・・・自ら琉球に出向き、開国を迫ります。
ヤシーユは今後国も極秘にある計画を進めていました。
「琉球諸島は、日本とヨーロッパの中継地点になり得る
 那覇の仲買人を使って、我々が必要な商品を日本から輸入し、引き換えに日本の裕福な貴族が欲している品を輸出する」

セシーユの目的は、最終的に日本の開国通商でした。
琉球が拒否するので、一向に進展せず・・・。

セシーユ同様、通商への道を模索し始めていたのが、調所広郷でした。
背景には、財政再建の前途に兆し始めた暗い影が・・・
国内各地で砂糖生産が盛んになったことで、黒糖価格が下落。
もう一つの柱・・・唐物貿易も、密貿易の疑いを強める幕閣によって免許停止に・・・。
そんなタイミングで直面したフランスの通称要求・・・
拒絶策・・・和親通商策・・・どうする??

1846年5月25日江戸城・・・
調所は、老中・阿部正弘と対峙しています。
調所の選択は・・・

「琉球は、外藩である
 琉球に限定して、交易を許していただきたい。」by調所

調所が選んだのは、和親通商策でした。

「要求を拒絶すれば、フランスは清国と交渉して、勝手に交易を始める
 幕府としても、捨て置けず戦になる」と・・・。

調所の巧みな主張を、阿部は受け入れるほかありませんでした。
幕府は琉球を「異国」として薩摩に対策を一任。

まさに、調所の目論見通りの展開でした。
許しが出た4日後・・・6月12日、密命を言い含め、使者を国元に送ります。
その内容は・・・
琉球北部の運天港に商館を建て、薩摩が1,2万両の資金を準備し、日本の反物とフランス製品の交易をおこなうというものでした。
上手くいけば、御禁制の5種の唐物を紛れ込ませる・・・。
調所は、閉ざされられた唐物貿易をフランスとの貿易で打開しようと考えていたのです。
ところが、これに難色を示したのが、琉球でした。
日本の反物や金銀を貿易すれば、琉球には物産がないとしてフランスの要求を断ったことと食い違う・・・と主張したのです。
砂糖などは貢納として薩摩藩に吸収されていました。
貿易そのものを維持するだけの商品がない・・・それは、経済的な植民地になる可能性があったのです。
原料を収奪され、インドのように市場として編成をされる・・・。
貿易は無理だったのです。
さらに、フランスとの貿易が露見すれば、清国との貿易にも影響が出ると調所に脅しをかけます。
完全に調所の案は、暗礁に乗り上げてしまいました。
そして・・・調所の足元を揺るがしたのは・・・

1847年5月、阿部は島津斉彬とあっていました。
40を目前にした斉彬が、藩主の座を手に入れるために、藩の内情を幕府に漏らした可能性が出てきました。
調所が考えていた10万両規模の琉球を舞台にした中国との密貿易。
この実態を幕府に知られては困ります。
そして、琉球に派兵した軍隊の数を虚偽申告していました。

阿部との会見の直後、斉彬が薩摩に書簡を送っています。

”調所一派のありとあらゆる行動・・・とりわけ琉球の事情を 逐一探り出すように”
そして、事態は思わぬ結末に・・・
1848年12月19日、参勤交代で江戸に赴いた調所が藩邸で死去しました。
享年73歳でした。
吐血が見られたことから、死因は服毒自殺だと推定されています。
調所の死の背後に何があったのか・・・??
しかし、調所の突然の死によって、薩摩の秘密は闇へと葬られたのです。

調所の戦略構想は・・・
①財政立て直し
②農政改革 貿易で増収
③軍制改革
でした。

琉球は軍事力はないが外交力がありました。
琉球が清国を使って上手く立ち回ったのです。
幕府としても、大々的にフランスと開国通商すれば、他の国も・・・開国政策全面展開せざるを得なかったのでしょう。
ヨーロッパと直接貿易できる藩ができたら・・・
ナポレオン戦争のあとに開発された最新型の銃が薩摩に渡ることになります。
そこまで見据えて・・・調所は貿易を考えていたのかもしれません。

薩摩藩別邸・仙厳園・・・今も、島津斉彬が作らせた工場や反射炉跡が残っています。
藩主の座に就いた斉彬は、薩摩の近代化を強力に進めます。
その後、斉彬の薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通らが明治維新を成し遂げる中、調所は不当に貶められてきました。
調所家は家格を下げられ、家禄や屋敷も召し上げられました。
鹿児島に有志によって調所広郷の像が建立されたのは、僅か20年前のことです。

島津家の墓所・福昌寺跡・・・調所広郷は現在歴代藩主と共にここに祀られています。
遺骨は一時、東京に移されていましたが、平成13年、子孫の尽力によって、ここに分骨埋葬されるようになりました。

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