日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:島津義久

独特な文化をはぐくんできた沖縄・・・
かつてここに琉球王国という独立王朝が存在していました。
15世紀に成立し、およそ450年の間この地を治めていたのです。
琉球は、日本から見れば南の端・・・
しかし、地図を動かしてみると・・・周りには、中国・フィリピン・ベトナム・タイ・・・アジアの国々への道が開かれています。
琉球王国は、各国との貿易で繁栄した海洋国家でした。
首里城に飾られた鐘には、その栄華を誇る文字が刻まれています。
”万国津梁”・・・つまり、琉球は、世界の懸け橋となることを表明していたのです。

しかし・・・そんな琉球に時代の波が押し寄せます。
時は16世紀後半・・・日本勢力の圧力!!
従属を迫ってきました。
直接の圧力をかけてきたのが、薩摩の戦国大名・島津義久でした。
しかし、リュク急にはグスクと呼ばれる戦国日本を凌ぐ先進的な城砦がありました。
武力で迫る日本・・・そこに、立ち向かったのが琉球の国王・尚寧王でした。

沖縄各地にグスクと呼ばれる建造物が存在します。
その数は300以上・・・多くは琉球王国の成立以前、各地の有力者が争う戦乱の時代に築かれました。
中でも浦添城は、後に琉球国王となる中山王が居城とした場所です。
2017年、その隆盛を示す発見がありました。
発掘調査によって出土した城壁の一部・・・石積みの技術から、14世紀のものと推定されました。
縦目地が通るような城壁は、14世紀ごろの典型的な積み方です。
石積みは、大規模な城壁の一部と推定されています。
城は時代と共に軍事要塞としての機能を発達させていきました。

浦添城より後に築かれた中城城・・・
ここには、敵の侵入に備えた様々な工夫がみられます。
壁の上から攻撃できるつくりとなっています。
さらに、本土では戦国時代の終わりにしかない工夫が・・・!!
侵入する敵を180度逆の方向へ誘導し攻撃をする・・・同じ工夫は、本土では姫路城でみられます。
複雑な仕掛けで有名な姫路城・・・しかし、こうした姿に改修されるのは、17世紀のはじめ・・・
中城城の築城から200年以上も後の事です。
そして石垣の切り石・・・沖縄では、15世紀にはすでにありました。
隙間なく積まれた石垣は、築城技術の先進性を示していました。
さらに、アーチ状の門など、曲線を多用する石垣の技術も、本土の城郭にはほとんど見られない独自性があります。
なぜ琉球に先進的な築城技術があったのか??
それは、琉球がいくつにも分かれて戦う戦乱の時代があり、そこで築城技術が発展したのです。

1429年、その分断されていた勢力が、中山王によって琉球統一・・・
これによって、首里城を中心とした琉球王国が誕生しました。
琉球国王は、中国の皇帝から王として認められていました。
柵封です。
この柵封こそ、琉球王国の繁栄の秘密でした。
柵封を受けた琉球は、当時の中国の王朝・明に対して、定期的に貢物を贈ります。
すると明からは、その見返りに当時世界的にも価値の高い中国陶磁器などを大量に与えられたのです。
さらに、琉球の船は東南アジアへと漕ぎ出します。
各国との貿易ルートを開拓し、酒や香辛料など珍しい品々を買い付けていました。
これらを明に持ち込んで、新たに中国の品々を船に乗せてまた各国に売りさばく、中継貿易で国を潤していました。

首里城の跡からは、世界各国の珍しい品が出土しています。
明やベトナムで作られた陶磁器・・・
琉球には、各国の権力者でも入手困難なものが集まっていました。
白地に青い模様のベトナム製の染付は、世界で数点しか見つかっていないといいます。
当時の日本に比べて、大量に物が入ってきていました。

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中継貿易によって、空前の栄華を築いた琉球王国・・・
しかし、16世紀に入るとその活動は衰退していきます。
ヨーロッパ勢力の進出や、海賊行為を行う倭寇の活発化によって、東南アジアや明との通行が激減したのです。
そして、16世紀後半・・・更なる大問題が起きます。
日本で天下統一を目前にした豊臣秀吉が、琉球王国に従属を迫ってきたのです。
1588年、琉球国王に書状が届きました。
差出人は、島津義久・・・秀吉の配下となっていた薩摩の大名です。

秀吉に従わなければ武力征伐に出るという・・・
独立国である琉球から見れば、理不尽な要求でした。
その危機に対処しなければならなかったのが、時の国王・尚寧王です。
この時、即位したばかりでした。
当時26歳・・・苦難の時代が始まろうとしていました。

日本への従属を迫られた琉球王国・・・この時、尚寧王の言動を伝える書物は少ない・・・
尚寧王が生まれ育った浦添城・・・首里城からおよそ4キロの場所にあります。
王となった尚寧王は、民衆のために首里から浦添までの街道を整備します。
その道の跡が残っています。
首里までの道は急坂が多く、川も挟むので劇的に便利となりました。
尚寧王が作った石畳の道・・・その一部は、現在も人々の生活に使われています。

度重なる要求を受けた尚寧王は、1589年、秀吉に使者を派遣。
しかし、このことが、琉球の立場をより悪化させることとなります。
間もなく秀吉から1通の書状が届きました。

「我らは間もなく軍勢を渡海させ、明に威風を振るうであろう」

なんと、琉球と柵封関係にある明への侵攻・・・!!
さらに秀吉は、琉球との交渉窓口にしていた薩摩・島津氏に思いもよらない命令を下していました。

「琉球を島津の与力として軍役を負担させる」
 
与力とは、大名武士に協力する格下の存在・・・
秀吉は、尚寧王を、島津の下に位置付けて、明侵攻に協力させようとしていたのです。
琉球は島津から兵7000人の兵糧10か月分を要求されました。

この時の尚寧王の心境は・・・??
尚寧王にとっては全く心外な話で、戸惑っていたようでした。
島津氏が、朝鮮出兵に対して兵糧を供出せよという要求に対しては、引き延ばしの後に半分は出すということで妥協します。

秀吉に使者を送ったばかりに、日本に与することになった尚寧王・・・
しかし、その一方で、したたかな外交を展開していました。
なんと、秀吉の侵攻計画を明に密告していたのです!!

「日本を統一した倭王関白なる者が、明を支配しようと企てている
 兵力200万で明に侵攻し、北京へ帰るつもりだ」と。

この情報を流した者の名は、鄭迵・・・琉球王国の役人です。
対日強硬派だった鄭迵は、貿易の実務を担い、明と繋がっていたのです。

1592年、ついに秀吉が明征服に向け、朝鮮半島に出兵します。
しかし、序盤こそ勝利を重ねたが、反撃を受け次第に劣勢となっていきます。
そして1598年、豊臣秀吉の死と共に戦いは終わりました。

しかし、それで琉球の苦難が去ったわけではありませんでした。
新たな天下人・徳川家康が、日本と明との関係回服に動き出したのです。
琉球はその仲介役として目をつけられたのです。
尚寧王に、安息の時はありませんでした。

明との貿易を復活させるため、家康は琉球に接近する機会をうかがっていました。
1602年、東北に琉球船が漂着・・・
すると、家康は島津に命じて、漂着民を琉球へ丁寧に送還します。
恩を売ることで、琉球から返礼の使者を送らせようと仕向けたのです。
しかし、尚寧王が家康に使者を送ることはありませんでした。
豊臣政権時代のトラウマが影響しているのではないか??
秀吉に使者を派遣したことによって一方的に日本の従属国と位置付けられました。
そして、膨大な負担の兵糧を要求されたのです。
新政権に対しても、また同じようなことが起こるのではないか??という危惧が尚寧政権が返礼の使者を拒絶した理由ではないか??

この一連の出来事を快く思わない人物がいました。
島津義久です。
島津は秀吉から琉球を与力として認められており、その権益の独占を狙っていました。
当然、徳川政権の介入は望んでいません。
義久は、琉球への影響力を示すために、自らが尚寧王を動かし、家康に返礼の使者を派遣させようとします。
尚寧王に、脅迫じみた手紙を送りつけたのです。

「聘礼を今年も怠り、来年も怠れば、琉球の存在は危ういであろう」

さらに、島津家の新たな当主となった家久については・・・

”家久は、琉球へのうっぷんが止まず、若さに任せて浅はかな企てがあった
 それを私が助言して押しとどめたのだ!”

企てとは・・・武力侵攻です。
家久は、琉球に対する軍事行動まで考えていたというのです。
武力攻撃をちらつかせ、圧力を強める島津!!
琉球に危機が迫っていました。
島津の要求に従い家康に使者を派遣するべきか、苦悩する尚寧王・・・!!

この頃、琉球と明との関係を一層強くさせる行事にも成功!!
秀吉の朝鮮出兵など様々な理由から先送りになっていた柵封の儀式・・・
1606年、明から柵封を受けます。
尚寧王は、即位から17年目にして正式な琉球国王の称号を授かりました。
戦を回避するために家康に使者を送るか??明との関係を強化して独立路線を進むべきか・・・??

尚寧王が家康に使者を送ることはありませんでした。
しかし、その一方で、家康の望みをかなえる折衷案を見出していました。
1607年、尚寧王は明に対し、あることを嘆願しています。

「琉球は、明と柵封関係にあるが、貿易は通じず国は痩せて民は乏しくなっている  
 どうか特別に、民間商船との貿易を許可してほしい」

明は、一部の民間商船に特許状を与えていました。
尚寧王は、その制度に琉球を加えてもらい、日明貿易の中継地になろうと考えたのです。
琉球を中継地にすることで、家康の求めていた要求は達成されます。
そうなれば、島津氏が、琉球に攻め込む口実が無くなるということでもありました。
戦争を回避する唯一の手段でした。
琉球の主体性を失わずに、島津の侵攻も阻止する・・・それが、この尚寧の要求でした。
しかし、この要求はかないませんでした。
明が拒否したのです。

その返答にはこうあります。

「琉球への往来として、貴国は密かに日本と交易するのだろう
 断じて通商を開くわけにはいかない」

秀吉の侵攻以来、日本への警戒を強めていた明は、日本と関係を持つ琉球との関係を危険視していました。
明との交渉は進まず、いたずらに時間は過ぎていきました。
その間に、島津は幕府から出兵許可を得てしまっていました。

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1609年3月4日、島津軍およそ3000が出兵!!
島津軍は、奄美大島、徳之島を制圧!!わずか17日間で沖縄本島に上陸!!
瞬く間に今帰仁城を陥落させ、那覇へと進軍しました。
尚寧王は、和睦の使者を送るも、島津に拒否されてしまいました。
止む無く防衛軍およそ3000を那覇港へ!!
防衛軍は、那覇港の入り口に築かれた砦に配備されました。
そして4月1日、島津軍の船団がそこに突入しました。
島津軍を迎え撃ったと言われる三重城・・・現在も那覇港に面した場所に残っています。
ここから、島津軍に大打撃を与えたといいます。
高石垣に所々矢狭間を明け、大石火矢を構え置き、港口には鉄の網で警戒していました。
石火矢を放つと、船はことごとく破壊されました。

しかし、戦国乱世を生き抜いた島津が、これで引き下がるわけではありませんでした。
那覇港を目指す一方で、島津の主力部隊は陸路で首里城へ・・・!!
ことごとく戦火の被害を受けてしまいます。
しかも、島津の進軍には、皮肉にもあの尚寧王が築いた道が利用されたのです。
首里入口に100名ほど送りますが・・・
鉄砲を駆使する島津軍に突破されてしまいます。

4月3日、首里城は陥落し、尚寧王は降伏しました。
島津の船に乗せられ、尚寧王は日本へ連行されます。
尚寧王と重臣たちは、島津への忠誠を誓う起請文を提出させられます。
こののち、琉球は島津から様々な政治的介入を受けることとなります。
奄美大島、徳之島は島津の直轄領とされ、厳しい圧政を受けることとなります。
しかし、それでも琉球王国は独立を維持しました。
そしてその後、明治時代まで存続するのです。

即位から苦難の連続だった尚寧王・・・島津の侵攻から11年後、その生涯を終えました。
葛藤の中でも、人民のことを考えてくれた誇りのある王様でした。
波乱の人生を送った悲運の王・・・
今は、穏やかな場所に眠っています。

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先ごろ、ローマ教皇が38年ぶりに日本を訪問・・・広島や長崎を訪れました。
人々が平和に暮らせる世界を願い、祈りを捧げました。
日本に初めてキリスト教が伝わったのは、今から遡ることおよそ470年前。。。
この国は戦乱に明け暮れる戦国時代の真っただ中でした。
キリスト教は救いを求める人々に瞬く間に広がり、大名の中には自ら洗礼を受けるものまで現れました。
その中でも、戦国最大のキリシタン大名であったのが、九州6か国をおさめた大大名・大友宗麟です。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと出会って、その布教活動を手厚く保護・・・宗麟の領国・豊後では、最盛期にはキリシタン3万人を超えたといわれています。
当時、ヨーロッパで作られた日本地図には、九州をBVNGOとし、JAPANと並ぶ一つの国とみられていました。
ルイス・フロイスは、宗麟のことを「日本にある王侯中、もっとも思慮あり、聡明叡智の人」と称えています。
近年の発掘では、南蛮貿易で手にした莫大な富と力を示した品々が伺えます。
ところが、その繁栄を揺るがしかねない選択が宗麟を待ち受けていました。

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フランドル絵画の巨匠Anthony van Dyckの描いた絵・・・
左側がフランシスコ・ザビエルで、右側がなんと大友宗麟です。
ヨーロッパではこんな風にイメージされていました。

実際の肖像画はこちら!!

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大友宗麟は、キリスト教をヨーロッパの文化や文明と一緒に丸ごと受け入れました。

大分県大分市・・・大伴家の最盛を築いた大友宗麟の拠点です。
市の中心部では、大規模な発掘調査が行われています。
それは、全国でも類を見ないほどの館でした。
歴代当主が暮らした大友館・・・広大な敷地に行けや庭園まである全国でも屈指の規模の館だったと思われます。
館を中心に、道が整然と格子状に敷かれ、45もの町が形成されていたといい、およそ5000軒の町屋が並んでいたといいます。
当時の国際貿易都市の堺、博多と匹敵する規模の町があったのです。
発掘調査では当時の繁栄を物語る品がたくさん出土しています。
当時、この館の当主である大友宗麟が、南蛮貿易を積極的に推し進め、たくさんの東南アジアと西洋に関する文物が輸入されていました。
ベトナムやタイの陶磁器、ヨーロッパのベネチアングラスも見つかっています。
南蛮貿易で莫大な財を得ていた証です。
大伴義鎮・・・後の宗麟は、1530年に大友家の長男として生れました。
鎌倉以来、400年にわたって豊後国を治める名家だった大友家・・・宗麟はその嫡男として誕生したものの、当主の座につくまでの道は順風満帆ではありませんでした。
弟・塩市丸を当主にという派閥に、父の義鑑が結託・・・宗麟派の粛正を画策するものの、弟は殺害され、父も巻き込まれて死亡する事件が勃発しました。
そんな肉親同士の骨肉の争いを経て、1550年大友家21代当主になります。
時に21歳・・・不安定な領国統治のために目をつけたのが南蛮貿易でした。
1543年、種子島の鉄砲伝来以来、日本とポルトガルとの交易が始まりました。
豊後・府内はポルトガル船に港を開放し、一大貿易拠点として発展していきます。
ポルトガルから商人が行き交い、町は大いににぎわったといいます。
カンボジアから宗麟に象が贈られたとの記録もあります。

世界史的にみると、大航海時代が日本にやって来ていました。
それに対応する九州の大名は、陸上だけでなく海上勢力とも立ち会わなければならない・・・
そこに活路を見出した・・・一番最先端をいった大名が大友宗麟でした。
宗麟の領国経営を支えた南蛮貿易・・・その成功の裏には、ある人物がいました。
1551年、宗麟はそのイエズス会宣教師を自らの屋敷に招きます。
イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルです。
日本にキリスト教を最初に伝えた人物です。
その時の宗麟の様子がイエズス会側の記録に残っています。

「彼は司祭に対して敬意を表し、愛情をこめて歓迎した」

はるばる日本まで布教に来たイエズス会の活動の背景には、この頃のヨーロッパでの歴史のうねりがありました。
15世紀末・・・大航海時代を切り開いた大国スペインとぽrとがると出の海外領土分割条約・・・それは、独自に引いた線から東はポルトガル、西はスペインが植民地として支配する、世界を二分するというものでした。
アジアへの進出を目論むポルトガルの援助を受け、一体となって進出したのがカトリック教団のイエズス会でした。

大航海時代、ポルトガルとスペインは、海外に植民地を獲得するため進出しました。
カトリック教会が、この枠組みに乗って、海外布教を実現させました。
国家は植民地獲得のために、教会は不況のために・・・
相互に癒着しながら、海外に進出していました。
日本に進出したイエズス会は、キリスト教の布教・保護を領主に求めます。
その見返りとして領主にはポルトガルとの貿易の便宜を図りました。
宗麟はザビエルの求めに応じて、豊後での布教を許可し、多くの土地を提供します。
府内には、教会や育児院などの施設が・・・病院では治療が無料で行われたといいます。
さらに音楽や演劇など西洋の文化が積極的に取り入れられ、府内は異国情緒あふれる町となっていきました。
府内で集中して出土するメダイ・・・この素材は南蛮貿易で輸入したタイの鉛でした。
これと同じ鉛を使って作っていたのは火縄銃の鉄砲玉です。
キリスト教を保護することによって南蛮貿易の恩恵・・・それは富だけではなく、軍事的なメリットもありました。
大友宗麟がキリスト教を受け入れたのも、信仰的な理由も大きいが、戦国時代の中でヨーロッパの進んだ武器を手に入れるということは当然でした。
さらに、重要な貿易品が火薬の原料となる硝石でした。
南蛮の良質な硝石を確保することは、戦国大名の大きな課題でした。
宗麟は九州への進出を企てる毛利氏との戦いの中、ポルトガル側に書状を送っています。

「山口の王(毛利氏)への硝石の輸出を取りやめて、私だけに良質の硝石を輸出してほしい
 そうすれば、山口の暴君は領国を失い、キリスト教は今後も私の国で一緒にいられるだろう」

宗麟は、さらにポルトガルから大砲(国崩)まで入手していました。
領国の強化を図る宗麟と、アジアでの布教拡大を目指すイエズス会・・・両方の思いが合致して、大友家は繁栄を迎えていきます。

豊後から九州全土へと勢力を広げていく大友宗麟・・・
1559年には九州6か国を領有し、室町幕府から九州探題に任じられます。
その間も宗麟の領国では、キリスト教の布教を一貫して保護し続けました。
日本全国でも布教は実を結び、信徒はおよそ10万人に・・・!!

肥前のキリシタン大名・大村純忠の領国に残る記録には、キリシタンが数多くの神社仏閣を破壊し、僧侶を殺害したと書かれています。
キリスト教徒と既存宗教との確執は・・・??
イエズス会では神社仏閣の破壊は日本人のキリシタンが勝手に行ったものであると主張しています。
実際にはイエズス会の宣教師が、日本人のキリシタンに神社仏閣への放火などをそそのかしたのでは・・・??
ヨーロッパ人の宣教師にとって見れば、日本の宗教や信仰というものは偶像崇拝に当たります。
本来容認できるものではありませんでした。
一方仏教徒も・・・キリシタンの住む町に放火、教会は焼け落ち、宣教師は国外に避難する事態となりました。
こうした宗教間の軋轢に、宗麟も悩んでいたといいます。
イエズス会の記録によれば、キリシタンになることを勧めた宣教師に対して、宗麟はこう答えたといいます。

「私がキリシタンになろうとすれば、家臣たちは私を国守と認めなくなるだけでなく、それ以前に殺されてしまう」

大友家は代々禅宗とのかかわりが深く、豊後は仏教信仰に厚い土地柄でした。
1562年、33歳の時、キリスト教の保護をしながら、宗麟は出家し法名を名乗ります。
この時より宗麟の法名を名乗ります。
キリスト教に偏っていたわけではなく、仏教・禅宗への信仰心を維持していました。
宗教受容の多様性・・・その姿勢は、西国大名の場合は根本的に持っていました。

宗麟が目指したものは何だったのか・・・??
この頃、宗麟は本拠地を府内から臼杵に移しています。
出家をしながらも、キリスト教色の濃い町づくりをしています。
町づくりで特徴的なのが、城から教会へとのびる大通り・・・
イエズス会師の教育施設も建てられ、臼杵はキリスト教布教の一大拠点となりました。
近年の発掘調査では、国内最大規模のキリシタン墓地・・・棺桶を埋める穴や、墓標となる石材が66個も発見されています。
さらにこの墓地からは、十字架が建てられた広場や、礼拝堂と思われる建物の跡も発見されています。
臼杵では、キリシタンたちが平和に暮らしていた時代があったのです。
臼杵での宗麟は・・・??
自分は平和のうちにどうやったら領国が統治できるか苦慮していました。
そのために、キリスト教が最もふさわしい教えではないか??
自分の領国を平和のうちに統一して運営できるために、キリスト教を導入したいと思っていました。
キリスト教と既存の宗教が共存できる領国統治を目指した大友宗麟・・・
しかし、その繁栄を大きく揺るがしかねない選択が迫っていました。

日向国を巡って、宗麟は大友家の命運を左右する選択を迫られます。
当時、日向の大半を治めていたのは伊東氏でした。
南の薩摩・大隅を治めていたのは武門の名門・島津氏でした。
1576年、島津氏が日向の伊東領内に侵攻。
領地を奪われた伊東は、姻戚関係のある宗麟に援軍を求めてきました。

この当時、大友と島津の間に大問題が発生していました。
発端は、南蛮貿易を行う大友の船が、島津領で行方不明になったのです。
大友側は、船と積荷が島津に横領されたと疑っていたのです。
さらに日向は、大友家の南蛮貿易にとって重要な寄港地でした。
大友、島津にとって、南蛮貿易の利権をかけた戦いの側面を持っていました。
日向に出兵し、島津と戦うか??否か・・・??

①出兵を回避する??
島津と戦えば、毛利、龍造寺に攻め込まれるかもしれない・・・。
家督は嫡男に譲ったばかり、領国の安定を図るべきではないか??
当時、大友家の重臣たちは、出兵に反対するものが多かったといいます。
相手は勇猛果敢な島津軍・・・戦いは激戦が予想されました。
さらに、家督を譲った中利の義統はまだ21歳。

”義統は国主にそぐわない無能な人間であるとして罷免すべきか家臣の間で協議された”

ともいわれています。
義統は、家臣からの信頼が薄く、当主の資格さえ疑われていたといいます。

②日向に出兵する??
宗麟は、日向を手に入れたのちの構想を、イエズス会の宣教師に語ったと記録しています。

「日向に築く町は、従来の日本のものとは違う新しい法律と制度によって統治されねばならない
 日向の土地に住む者たちは、みながキリシタンとなって愛と兄弟的な一致をもって生きねばならない」

宗麟は、大友家が持つ領地とは別に、日向の地に争いのないキリシタンだけが住む理想郷を作ろうとしていたのです。
領国の統治は義統に任せ、自分は新しい国を造るのだ・・・。
ポルトガルや、東南アジアの協力を得ながら、キリスト教のもとで民と心を合わせ国を統治するのだ・・・!!

日向に出兵する??それとも出兵を回避する・・・??

宗麟の取った選択は・・・??日向へ出陣・・・!!
宗麟は日向に出兵する道を選びました。
この時宗麟は、これまでの自分を振り切る重大な選択をしていました。
洗礼をしてキリシタンとなったのです。
洗礼名は、ドン・フランシスコ。
キリスト教との出会いをもたらしたフランシスコ・ザビエルの名をもらったものです。
日向に向け、4万もの大友軍が進撃を開始。
宗麟の船には、十字軍さながらに深紅の十字の旗が掲げられたといいます。
宮崎県延岡市無鹿町・・・宗麟が本陣を置いた場所です。
この時つけられた無鹿という名前は、ポルトガル語で音楽・・・MUSICAのことです。
宗麟はここに宣教師たちの宿舎や教会を建設します。
その一方で、周辺の神社仏閣を破壊したといいます。
宗麟の挙兵に対し、迎え撃つ島津軍が日向に進出!!
1578年11月、戦いの火ぶたが切られます。
しかし、大友軍はもともと出兵に反対するものも多く、武将の意見がまとまらず一枚岩ではありませんでした。
島津軍は、陽動や待ち伏せを行い大友軍を翻弄します。
結果、戦いは島津軍の圧勝に終わりました。
敗戦の報を受けた宗麟は、急いで臼杵に撤退・・・命からがらの逃避行でした。
この戦いの後、勢いに乗った島津軍は九州北部に侵攻し、大友領にも殺到します。
苦境に立たされる宗麟・・・
領国や命を預かるキリシタンを守るにはどうすればいいのか・・・??

追いつめられた宗麟は、起死回生の一手に打って出ます。
全国統一を目指す秀吉のもとに自ら出向いて援軍を求めたのです。
1586年、宗麟の直訴により秀吉軍が20万軍で九州へ侵攻、翌年島津を降伏させます。
結果、九州全域は秀吉のもとに落ち、大友家は秀吉配下の一大名となりました。
しかし、島津攻略の直後、宗麟は病に倒れその生涯に幕を閉じます。

1587年、大友宗麟死去・・・享年58歳でした。
宣教師やキリシタンの身内に看取られた静かな最期でした。

九州を制圧した秀吉は、宗麟の死から1か月後、突如宣教師たちの国外追放を命じました。
世にいう伴天連追放令です。
この後、秀吉、家康と続く天下の中で、キリスト教徒たちは厳しい迫害の時代を迎えます。
かつてヨーロッパまで轟いた大友宗麟の名も、その輝きを失っていくのです。


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日本の近代化の始まりとなった明治維新・・・その大改革の位置役を担ったのが、西郷隆盛などを擁した薩摩藩です。
しかし彼らの活躍は、あの出来事がなければなかったかもしれません。
1600年9月15日、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍併せて8万の大軍が激突した関ケ原の戦いです。
子の天下分け目の合戦で、西軍の敗戦が決しようとしたとき、よう軍の主力部隊に突き進む隊がありました。
薩摩の島津義久率いる島津軍!!これが、後世に名を残す島津の退き口です。

島津義弘は、室町時代後期の1535年に九州の名門・島津家の次男として生まれました。
義弘は、長男・義久に代わって島津軍を率いて多くの戦に出陣。
島津の旧習制覇に向けて、八面六臂の大活躍!!
猛将としてその名を全国に轟かせていました。

秀吉の九州征討によって、薩摩国・大隅国・日向国(一部)の62万石になってしまっていたのですが・・・
当時は兄の義久が、拠点である薩摩国を、弟・義弘が大隅国を治めていました。
秀吉の命で、義久が大隅を、義弘が薩摩を治めることになったのですが・・・
それは、義弘の活躍ぶりを秀吉が気に入り、島津の代表として秀吉が扱ったのだといいます。
弟・義弘が正統の当主となったわけではないのですが・・・この微妙な関係で、義弘に大きな試練が・・・!!

1600年、豊臣秀吉亡き後、虎視眈々と天下を狙う五大老筆頭の徳川家康と、秀吉の跡継ぎの石田三成との争いが激しくなります。
一触即発の中、天下分け目の決戦に向けた激動の日々が始まりました。
先に動いたのが、大坂城にいた家康でした。
家康は五大老のひとりである上杉景勝に謀反の疑いがあるとし、諸大名に出陣を要請!!
自ら会津の上杉討伐に向け、京都の伏見城に入りました。
しかし、会津に遠征することは、政の中心であった髪型を留守にすることになり、家康にとっては危険なことでした。
家康によって佐和山城に隠居させられていた石田三成が、家康が神永を留守にするのに乗じて挙兵するかも知れなかったからです。
そこで、上方の重要拠点である伏見城を奪われないように万全を喫します。
家康の重臣・鳥居元忠を城に残し、城の守りを依頼したのは島津義弘でした。
家康が義弘に依頼したのは、猛将としての腕を見込んでのことでした。
秀吉が行った朝鮮出兵での活躍は、聞きしに勝るものがありました。
当時日本は苦戦していましたが、義弘は、秀吉亡き後の泗川城の戦いで、5000の兵で数万の明と朝鮮の連合軍を打ち破ります。
これによって、日本軍の撤退が容易になったのです。

こうして家康から伏見城の守りを依頼をされた義弘ですが、これを受けると豊臣の世を守ろうとする三成を敵に回すことに・・・。
義弘の返答に島津の運命がかかっていました。

「家康殿の命とあらばお受けいたしたいが、家中の者と相談して正式にお答えしたい。」

と、即答を避けたものの、義弘には家康の頼みを断れない大きな借りがありました。
それは、前年の事件・・・
義弘の子・忠恒が、島津家の重臣で都城8万石の領主となっていた伊集院忠棟を茶席で手打ちにしてしまったのです。
それは、主君である島津をないがしろにした忠棟の行いに業を煮やしてのことでしたが、秀吉のお気に入りを殺してしまったことで三成が激怒!!
島津と伊集院との確執は収まらず、殺された忠棟の子が、都城で反乱を起こすという事態に発展してしまいました。
それによって、島津家は苦境に陥りましたが、その際、和睦を図ってくれたのが家康だったのです。
熟慮の末、家康のために、伏見城を守ることにした義弘。
家康は、1600年6月に会津に出陣!!
家康の出陣を待っていたかのように、石田三成が動きます。
7月半ば、家康のいなくなった大坂城に戻ると大軍を集め、打倒家康を掲げて蹶起しました。
そうして西軍が大坂で挙兵したころ、義弘は200の軍勢と共に京都にいました。
遅かれ早かれ西軍が伏見城に攻め込んでくるのは明白でした。
そこで義弘は、家康との約束を守るために、伏見城に入城を申し入れます。
ところが、鳥居元忠は、あろうことか義弘の入城を拒絶したのです。
鳥居はどうして義弘の入城を拒んだのでしょうか?

これは、家康と義弘とのあくまでも口約束であって、文章が存在していませんでした。
しかも、外様大名の義弘が裏切ることを恐れたからです。
聞いていなかった鳥居元忠によっては当然のことでした。
そして、この事態が義弘に危機的状況をもたらします。
周囲は伏見城を攻撃しようとする西軍で埋め尽くされていたのです。
戦おうにも兵は僅か200!!
そこで、義弘は生き残るために苦渋の決断をします。
一転して、西軍に組することでこの危機を脱しようとしたのです。
そして義弘は、戦うからには200の兵では島津の名が廃ると、国元に至急兵を送るように申し入れます。
ところが、薩摩からの援軍はなかなか到着しません。
家康を恐れた兄・義久が兵を出すことを拒んだのです。
兄から見放されてしまった義弘・・・そんな時に駆け付けてくれたのが、義久の甥・島津豊久でした。
こうして義弘を慕うものが次々と集まり、軍勢は1500ほどに・・・。
それでも兵は足りません。
天下分け目の関ケ原の戦いは、1か月後に迫っていました。

1600年8月11日、石田三成は東軍の進軍に備えるべく、6000の兵を美濃の大垣まで進めます。
1500の兵の島津義弘も三成に従い布陣しました。
そして、8月22日、三成の命を受けた島津軍は、最前線の墨俣につきます。
すると翌日、状況が一変!!
東海道を登ってきた東軍の先鋒隊が、岐阜城を急襲!!
たった1日で落城させてしまいました。
また、東軍の黒田長政、藤堂高虎の軍勢が長良川西岸に押し寄せ、西軍の先鋒隊を打ち破り進撃!!
大垣から進軍していた三成本体にも危機が迫ります。

そこで三成は、墨俣から少し離れた佐渡で軍議を開きます。
その内容は、義弘にとって思いもよらないものでした。
それは、大垣への撤退・・・しかも、義弘に・・・
「義弘殿が一緒だと心強い、ご同行願おう!!」by三成
逃げたら、最前線の墨俣にいる島津軍は置き去りとなり、東軍が攻撃してきたらひとたまりもありません。
納得のできない義弘は、三成を突っぱねます。
すると三成は、そのまま大垣へと戻ってしまいました。
義弘は、墨俣に布陣する島津軍を救い出すべく出陣!!
無事島津の兵を撤退させたのです。
その後三成は義弘に詫びますが、このことで確執が生じたともいわれています。
それから20日後の9月14日、家康をはじめとする東軍は関ケ原に進軍!!
一方三成は笹尾山に布陣!!
島津軍はその近くに軍を構えます。
両軍が布陣を終えたのは、15日早朝!!
いよいよ決戦の火ぶたが切られようとしていました。

1600年9月15日朝・・・深い霧が立ち込める中、美濃国関ケ原で東軍7万VS西軍8万の大軍が対峙しました。

島津義弘率いる島津軍も、石田三成の陣の近くに布陣します。
そして、午前8時・・・東軍・井伊直政軍が西軍・宇喜多秀家軍に向かって発砲!!
一気に戦闘が始まりました。
しかし、義弘の島津軍は動こうとしません。
まるで東軍と西軍との戦いを傍観しているかのようでした。
その後、松尾山に陣取った小早川軍が東軍に寝返り、大谷吉継軍を背後から急襲します。
この小早川の寝返りで西軍は劣勢となっていきますが、義弘の軍は動きません。
島津軍の出撃をを今か今かと待っていた三成は、義弘の元へ伝令を送ります。
しかし・・・義弘は出撃の命を出しません。
そのうちに小西行長軍、宇喜多秀家軍の敗走が始まりました。
逃げ惑う兵たちが右往左往、大混乱が・・・!!
にもかかわらず、島津軍は動きません。
そのうち、しびれを切らした三成自らやってきて、出撃を促します。
しかし、義弘に代わって甥の豊久は答えます。
「人のことなど構う暇はござらん!!」

どうして義弘は島津軍を出撃させなかったのでしょうか?
島津軍は数が少なく、二番備え・・・先陣の次に攻め入る軍勢だったので、戦機を見極めようとしていた義久・・・。
そして、戦機が訪れなかったというのが本音でしょう。
数の少ない島津軍は、むやみに出撃すれば命を落とすことは確実でした。
そこで、少しでも勝てる機会を待っていたのですが、とうとう来なかったのです。

義弘は後に語っています。

もし、島津軍に5000の兵があればあの戦、勝っていたものを・・・!!

東軍の優勢が明らかになると、出撃しなかった島津軍にも容赦なく攻撃が・・・!!
島津軍の前方には、見渡す限り東軍の兵!!
背後には伊吹山が立ちはだかっていました。
島津軍は絶体絶命の危機に陥ってしまいました。
義弘は家臣たちに告げます。

「老武者のわしには、伊吹山の泰山は越え難し。
 たとえ討たれると言えど、敵に向かって死すべし!!」by義弘

数々の危機を乗り越えてきた義弘も、この時は死を覚悟しました。
そんな義弘を甥の豊久は諫めます。
豊久の想いは、島津軍全員の思いでもありました。
なんとしても義弘を生きて薩摩に・・・!!

石田三成が配送を始めました。
東軍は、ここぞとばかりに西軍に襲い掛かり、島津軍も四方八方を囲まれ絶体絶命の危機に・・・!!
すると義弘は、
「皆の者、退却する・・・!!」
義弘は、関ケ原を抜け出し、国元・薩摩に戻ることを家臣たちに告げます。
しかし、退却すると言っても1500の島津軍が、東軍だらけの関ケ原でどうやって逃げるのか・・・??
伊吹山を背にした島津軍の退却ルートは4つ。
東海道を幾ルートは、薩摩とは反対方向なので却下。
中山道を西に進む?北国街道を北に進む?
伊勢街道を南に向かう??
義弘の退却路は、伊勢路から・・・!!
しかし、伊勢街道は、家康直臣の軍勢がいる最も難しいルートでした。

義弘はどうして伊勢街道を選んだのでしょうか?
中山道は小早川軍1万5000。北国街道は黒田・細川軍など2万。。。伊勢街道ルートは1万にも満たず、敵兵が少なかったと思われます。
合理的で冷静な判断でした。
しかし、精鋭ぞろいの家康の部隊を突破することは容易い事ではありません。
ここから、島津の退き口という歴史に残る壮絶な退却戦が始まるのです。
少数の島津軍はどんな戦法を使ったのでしょうか?

穿ち抜け・・・とは、島津軍が得意とする戦法で、錐で穴をあけるように敵の一点を集中攻撃をして突破する、至近攻撃です。
まず、島津軍に立ちはだかったのは猛将の福島軍!!
これを突破します。
”孫子”には、死に物狂いの兵には近寄るなとあります。
これが当時の常識だったので、福島軍が道をあける形になってしまったようです。
さらに、東軍を突き進んでいく島津軍。
その激闘を東軍の兵のひとりが書状に残しています。

まず少ない島津軍は、東軍に飲み込まれながらこれを突破!!

まさに必死の戦いで敵陣を進んだ島津軍は、進路を南にとります。
伊勢街道を目指します!!
すると、そこに敗走する三成を追う家康本隊と遭遇してしまいました。
しかし家康軍は、島津軍をやり過ごし、先頭は起きませんでした。
一説では、この時義弘は、家臣を家康に差し向けこんな口上を述べさせたといいます。

「島津兵庫入道義弘、こたび はからずも御敵となり、戦い利あらずして ただ今、御陣頭を過ぎて本国薩摩へと帰り申す。
 わが心事については、後日改めて言上つかまつるべし。」と。

本意ではない戦いではあった・・・と。

生き延びて、このまま薩摩に帰ったとしても、西軍として戦った島津家に未来はありません。
ひとまず家康に礼を尽くしておく・・・義弘のしたたかな作戦だったのかもしれません。
関ケ原の戦いで、西軍の敗色が濃厚になる中、薩摩に変えるために敵中突破し伊勢街道を突き進む島津軍!!
東軍も島津軍を逃してなるものか!!
と、徳川四天王・井伊直政、闘将・本多忠勝による追撃が始まりました。
その際、島津軍の繰り出した作戦は・・・??捨て扞でした。
殿の兵が残って、討ち死に覚悟で戦って他の兵を逃がすという決死の戦法です。
島津軍は、兵の命を犠牲にしながら、穿ち抜けを何度もしたと思われます。

「明良洪範」によると・・・東軍にも思わぬ被害が・・・
井伊直政が右肩に被弾し落馬、重傷を負いました。
島津軍も、甥・豊久が命を落とします。まだ31歳の若さでした。
島津軍は、多くの命を失いながら、かろうじて伊勢街道を逃げ延びます。
島津軍が関ケ原から20キロほどの駒野坂に達したのは、午後7時ごろのことでした。
この時、島津軍の兵の数は、100にも持たなかったといいます。
しかし、薩摩はまだはるか先・・・
鈴鹿峠を抜けるとき、東軍の追撃だけでなく落武者狩りにも遭ってしまいます。
さらに、困難を極めたのが、食料の調達でした。
足りなくなった時は、軍馬で飢えをしのいだといいます。
島津軍がなんとか大坂に到着したのは、5日後の9月20日。
兵の数はさらに減り、70人余りだったと言われています。
そして、大坂から薩摩へ・・・!!

東軍の勝利に終わった関ケ原・・・西軍として参戦した島津家の事情を聴くために、島津義弘の兄で実権を握る義久に出頭を命じます。
しかし、義久はこれを拒んで防御を固めます。
対決姿勢を崩さない島津家に家康は、9月30日、九州の諸大名に島津討伐軍の結成を命じます。
ところが、家康はいつまでたっても攻撃の命を出しませんでした。
実際、島津家と戦うことによって混乱し、反徳川が蹶起する可能性があったからです。
結局家康は、島津討伐を断念することに・・・。

驚くことに、島津家の本領安堵が決定!!
62万石のままになります。
同じく西軍として戦った毛利家は、121万石から37万石に、四国の長宗我部家に至っては、領地没収という憂き目に・・・。

家康は、島津家に対して異例にも寛大でした。
この時、重要な役割を担っていたのは、島津の退き口で負傷した井伊直政です。
関ケ原から半年、直政は島津家に書状を送り、和睦を成立させるために自分が働くことを伝えます。

井伊直政は、島津軍の強さを身に染みて知っていました。
なので、戦いたくはなかったのです。
おまけに、南九州まで行くということは、大変で、上杉や毛利とも和睦できていない今、何が起こるかわからなかったので、島津との和睦を進めました。
関ケ原の戦い前と変わらず本領安堵を認められた島津家・・・
さらに、義弘の助命を勝ち取っています。
これ以上ない和睦でした。
これによって、島津家は生き残り、雄藩として江戸時代を生きていく基礎となりました。

無謀と思われた島津の退き口は、結果として薩摩藩を本領安堵へと導きました。
しかし、家康にとって島津家を処分できなかったことは、大きな心残りだったともいわれています。
そして、その家康の心残りが後に災いをもたらします。
それは、関ケ原の戦いから267年後のこと・・・家康が築いた江戸幕府は、その家康が許した島津家の薩摩藩
ら討幕派によって終わりを迎えることになるのです。

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1600年9月15日、日本を二分する大合戦・関ケ原の戦いがありました。
東西入り乱れて15万を越える闘いは、東軍・徳川家康の勝利で終わろうとしていました。
この時、家康には天下の道がはっきりと見えていたかもしれない・・・
そんな家康に立ちはだかったのは・・・西軍の薩摩軍です。
この時、薩摩軍を率いていたのは島津義弘。
前代未聞の先鋒に・・・
家康の本陣に向かい、退却のための突撃を始めました。
”島津の退き口”です。
島津隊は、井伊直政を負傷させ、家康の四男・忠吉にも被弾させ・・・退却といいながら、徳川に大きな打撃を与えました。
更に闘いの後・・・西軍の諸将が改易される中、東軍に屈せず家康を翻弄します。
その中心となったのが、義弘の兄・16代当主島津義久です。

1600年9月15日関ケ原・・・東西両軍15万に及ぶ戦国武者たちが関ケ原に布陣を終えたのが午前6時ごろ・・・
東軍率いる徳川家康の側近の記録には・・・小雨が降り、山間のためにきりが深く、30メートル先も見えない・・・とあります。
濃霧で敵の陣も見えず、戦場に不穏な静寂が満ちていました。
西軍に味方した薩摩軍は、北国街道を隔て、石田三成の傍に布陣。
薩摩軍を率いるのは島津義弘!!
生涯52度の合戦に臨み、鬼島津と恐れられていました。
この時義弘、齢66でした。
午前8時ごろ開戦!!
東軍7万、西軍8万以上・・・!!
一進一退の攻防が続く中、島津は兵を動かしませんでした。
それは、兵数が少なかったためだといわれています。
この時62万石の薩摩軍は僅か1,500。

宇喜多秀家・・・57.4万石・・・17,000
石田三成・・・・・19.4万石・・・・6,000
大谷吉継・・・・・・5万石・・・・・・1,500

島津は62万石を誇ったものの、他の西軍諸侯と比べると、極端に少なかったのです。
戦いの2か月前、義弘が国元に宛てた手紙には・・・
「軍勢がなく、何をしたところでうまくいかずに困っている。」とあり、兄に何度も援軍要請をしています。
しかし、国元にいる義弘の兄・16代当主・義久が断っています。
援軍を送ると、島津は西軍に参加したことになる・・・
もし、東軍が勝った場合・・・申し開きができない。
西軍に、独断で義弘が参加したのであれば、家は安泰だ・・・。

どうして島津は西軍に参加することになったのでしょうか?
石田三成が、打倒家康に立ち上がった時、義弘は僅かの兵を連れて上方にいました。
西軍の大軍勢が大坂に集中し・・・義弘は西軍に味方するよりほかなかったのです。
島津には、西軍に積極的に組する理由はなかったのです。
一方で、義弘の危機に、国元の薩摩武士の中には義弘の元へ駆けつける命知らずの猛者も・・・。
こうして薩摩軍は1500!!
関ケ原の戦いが始まり4時間・・・正午ごろ、一進一退から動き出しました。
松尾山に布陣した小早川の裏切り・・・!!
中山道に布陣した味方に突進し、この一撃で戦いは東軍有利に・・・!!
午後1時・・・混乱の中、西軍の敗走が始まりました。

この時、義弘が戦場を脱し大阪へ向かう選択は、西か南!!
西へのルートは中山道か北国街道で向かう。
東のルートは伊勢街道を南下して伊賀を抜け大坂を目指す。。。
義弘の手勢僅か1500!!目の前には敵の軍勢8万!!
どの道を選んで薩摩に帰るのか・・・??

中山道は敵となった小早川が道を塞ぎ、
北国街道は、西軍が撤退のために殺到!!
どのみち、敵を背に向けての退却は厳しい・・・。

南へ向かう・・・??
そのためには、目の前にある敵の大軍勢を蹴散らさなければならない・・・。
敵中を突破し、伊勢街道を南へ・・・至難の業だ。。。

寡兵をもって大敵を破る・・・
義弘は、九州の桶狭間と呼ばれた1572年の木崎原の戦いで、10倍の数の敵に勝利し、大将を討ち取ったこともある・・・
しかし、この時、自身の兵の8割を失う結果となっています。
中央突破の損害は計り知れない・・・。
関ケ原から薩摩までおよそ1000キロ・・・。
虎口から脱するためにはどうすればいいのか・・・??
一刻の猶予もならない!!
敵の大軍勢が迫る中、どのルートで退却するのか・・・??

僅かな人数では勝利するのは難しい・・・
老武者では西に退却しても、伊吹山を越えるのは困難・・・
義弘は、目の前の敵を蹴散らしながら、南へ退却します。
それも、最も猛勢な敵に向かって、前進退却!!
島津の退き口の始まりでした。
戦場で勢いがるのは、猛将・福島正則、家康本陣!!
どうして猛勢を選んだのでしょうか?
それは、意表を突くためでした。
それに、家康の近くでは鉄砲が使えない・・・
東軍である味方が討たれる可能性が高いのです。
島津勢に迫られた福島正則は、この意表をついた行動に道を譲りました。
島津兵を止めれば、自軍の損害も多大になると思ったようです。

それを見た家康は・・・
「島津は西国一の強将である。
 早く打ち破らなければ、味方の多くは討たれるであろう。」と。
この時、突破を食い止めようとしたのが、徳川四天王のひとり井伊直政!!
直政は、義弘を討てと、島津軍を追撃!!
しかし、島津の銃撃によって負傷・・・この傷が元で、2年後に亡くなることとなります。
直政を襲ったのは、「捨てがまり」という島津独特の戦法です。
義弘本隊を通した後、狙撃部隊が残り、敵を待ち受け攻撃!!
その間に義弘本隊は逃走!!
これを何度も繰り返し、敵との距離を稼ぐのです。
しかし、兵士たちにとっては決死の覚悟が求められる戦法でした。
関ケ原の戦場から南へ10キロ・・・大垣市上石津町には・・・
義弘の甥・島津豊久の墓が残っています。
義弘の身代わりとなって尽力し、命果てたようです。
家臣たちの命がけの犠牲で、義弘は敵の追撃を引き離すことができたのです。
辛くも敵の追撃から逃れた義弘軍・・・しかし、敗者となった者には落武者狩りが・・・!!
義弘はこれらの襲撃を切り抜け、伊勢街道を脇道に・・・堺へ・・・船で瀬戸内海を渡り、薩摩へ帰還したのは10月3日となっていました。
1500の兵のうち、帰ってこれたのは僅か80余り・・・。
しかし、この時、九州にいた軍勢が、薩摩の国境に迫っていました。

島津と家康との戦いの第二幕が始まりました。
1600年10月、加藤清正や黒田如水など東軍の大軍勢が国境まで押し寄せていました。
絶体絶命の危機・・・!!
この時、領国防衛の中心人物は、義弘の兄・第16代当主島津義久です。
合戦で有名な弟に対し、義久とは・・・??
東軍の軍勢が迫る中、兄弟の意見は真っ向からぶつかっていました。
退き口の後、兄の義久は一戦を交えようというものの、弟・義弘は、戦いになるとひとたまりもないと反対。
そのため、家中は二つに分かれてしまいました。
徳川と和睦すべきか、一戦交えるべきか・・・??

弟・義弘の意見。
国元にいる兄は、世間に疎すぎる・・・
三成は処刑され、西国諸藩も家康に下った・・・和睦しかない。
すでに支配者となった家康に・・・敗戦は必至。
おまけに島津家中は一枚岩ではない・・・
内部から反旗が翻るかも・・・??
和議を結んで内政に力を入れるべきでは・・・??

兄・義久の意見
義弘は政に疎い。
是が非でも徹底抗戦!!
はなから和睦すれば、家康になめられ、毛利の二の舞になる・・・。
関が原の戦いで、西軍の盟主となった毛利家・・・。
しかし、毛利は徳川と密約を交わしていました。
「毛利輝元に対しては粗略には扱わない・・・」にもかかわらず、毛利家は120万石から37万石に減封されてしまった。
義弘は、関ケ原の戦いで、薩摩の恐ろしさを見せつけたから、それを使わない手はない・・・。
万が一、家康が攻めて来ても、戦を長引かせることができれば・・・!!
当時薩摩には、強固な防衛システムがありました。
島津の居城・内城を取り囲むように、100以上の外城が配置されていました。
関ケ原の後、防衛拠点を増強していた島津・・・。
徳川に対する臨戦態勢を築いていました。

徳川との戦を回避して和睦するのか?
一戦交えるのか・・・??

東軍が迫る中、義久は弟・義弘に城を修築させ、国境の死守を命じます。
しかし、義久は家康との戦いを決意したわけではありませんでした。
10月10日、井伊直政から薩摩へ使者が送られています。
義久に上洛を催促した書状です。
家康にとっても、薩摩出兵は時間と莫大な戦費がかかります。
義久を上洛させ、謝罪させれば、戦わずして支配下におけます。

義久は・・・
「遠国のため、ご無沙汰しております。
 義弘から事情は聴きましたが、義弘自身、西軍のたくらみなど知らなかったようです。
 家康様も、御承知のように秀頼さまに忠節を尽くすべき誓紙を入れており、君臣の道忍び難く、それに従ったまでということです。」

と、謝罪の言葉は一切ありませんでした。

義久は、戦の準備をしながらも、東軍に対し、自らの兵力を動かすことはありませんでした。
さらに家康との書状のやり取りは続きます。

国境にある東軍勢力のために上洛できないとか、老衰のために体の自由が利かないとか、ありとあらゆる理由をつけて、上洛を拒みました。
その交渉のさ中・・・不可解な事件が起こっています。
1601年5月、明の商船が消息を絶ちました。
島津家のお抱え商人・伊丹屋の仕業とされています。
しかし・・・2隻・・・300人が跡形もなく殲滅されてしまう・・・??
そのためには、兵力は1,000人はいなければならない・・・!!
伊丹屋が、明船を襲ったのであれば、義久の思惑の中で活動したとしか考えられないのです。
明船襲撃の黒幕は義久・・・??

関ケ原以降、国内覇権を確立しようとしていた家康にとって、秀吉の朝鮮出兵以降断絶していた明との国交回復は悲願でした。
国内需要の高い、明の銅銭や生糸などが手にはいる貿易は、多額の富を生み出すこととなります。
後に家康は、朱印船制度を創設し、海外貿易を盛んに行います。
交易ルートにあたる薩摩が、日明貿易のカギを握っていたことは言うまでもありません。
明船襲撃は、義久の家康に対するアピールだったのでは・・・??
家康に対して、このような事件が今後も続くぞ・・・!!と。。。
そうなれば、東シナ海の安寧秩序は永久に訪れません。
天下を目指す家康にとって、これ以上薩摩と対立することに異はありません。

1602年12月、家康は島津の本領安堵を確約しました。
義久の後継者として島津忠恒が上洛し、家康に謁見。
家康は義弘が西軍に参加したことを赦免し、領国を安堵することを認めました。
関ケ原の戦いから2年・・・西軍のうち全領土を安堵されたのは、島津家のみでした。

関ケ原の戦い以降、薩摩は江戸幕府に対し、独立の気風を保ち続けます。
関所では厳しく検査・・・野間之関から熊本県の水俣まで、無人地帯となっていました。
噂では、胡乱な者が見つかった場合、わざと通して切り殺したといわれています。
江戸時代を通じ、この閉鎖性は独自の気風を生み、一筋縄ではいかないものとなっていきます。
鹿児島では関ケ原での退き口をテーマにした行事があります。
妙円寺詣り・・・これには、若き日の西郷隆盛や大久保利通も参加しています。
幕末、新しい時代を切り開いた薩摩藩・・・その原点となったのが関ケ原の戦いで退き口を成功させた弟・義弘と、老練な交渉で家康を翻弄した兄・義久の二人の決断でした。




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前回、家康がようやくの上洛。。。
東の脅威がなくなった今、九州へと出陣することになる秀吉なのでした。

長政から大坂城での家康の様子を聞く官兵衛。。。

長政は、家康をできた人だという。。。

「殿下お召の陣羽織を賜りとうございます。」by家康

自分が代わりに矢面に立つので秀吉には陣羽織は要らないというのだ。。。

有名なお話ですが・・・
秀吉がお願いしました。

kan1














みんなが秀吉についてくれるように、家康にお願いしたのです。

ま、家康にとっては恩を売ったということで。。。
タナボタだったのかもしれませんね。

あ~、すでに部屋までキンキラキンになっている・・・

日本でバテレンの立ち位置が変わってきたようです。。。

kan3















このままいけば、この国の者すべてがキリシタンに。。。
って、植民地化を気にしているのかと思いきや、秀吉がネックになっているのは一夫一婦制らしい・・・

こんなんでいいのか・・・??

だって、キリスト教は、布教しながらの侵略をず~っとしてきたわけだから、ここでキリスト教を禁止にするから日本が助かったって言いかえることもできるだろうし。。。

秀吉さまさまかも知んないのに・・・一夫多妻でないと許せないだけなの??殿下・・・。


九州平定は・・・
豊前城井谷城城主、宇都宮鎮房にあう官兵衛。

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官兵衛に本領安堵を約束してもらって・・・

「これで用は済んだ・・・」by宇都宮鎮房。

って・・・??

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そんなに簡単にすんで・・・茶々のシーンいるのか・・・??

茶々が心を開いてくれたと知ると、秀吉は
「九州を片付けてすぐに帰ってくる・・・!!」

九州は平定は、宇都宮鎮房が先鋒と決まります。

総勢25万・・・ひと月余りで薩摩に入る秀吉。。。

「数が違い過ぎる・・・!!」by島津達。。。

降伏を願い出る島津に・・・

「領地没収の上、島津義久の切腹」by三成
「寛大な処置を・・・」by官兵衛

と、対立しますが・・・
出家した義久に・・・「はげめ」とだけ言って・・・

ちゃんちゃん!!
と、ナレで決着・・・。
ほんとに茶々に約束した通り、すぐに終わっちゃいました。

わざわざ利休を呼んで茶会をする秀吉。

「殿下にお願いの儀がございます。
 博多は戦で焼け野原でございます。」

って、戦ったっけ・・・??


で・・・キリスト色が濃くなってきている日本。。。

宣教師コエリョの話を楽しく?聞く秀吉。

あ~、キリスト教に洗脳されている右近と官兵衛、何とか秀吉の誤解を解こうとしますが・・・

でもさっきも書いたみたいに、よーく考えたら、世界的にこんなふうにして占領してきたわけだから・・・
ここまで上り詰めてきた秀吉の勘が勝っていたということのほかありませんね。

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洗脳されている右近が大名たちにキリスト教を布教したということで・・・
右近ピンチ!!

「官兵衛・・・
 おぬしもキリシタンじゃったな?」

ついにバテレン追放令がだされたのでした。

って、殿下は一向一揆のようになると心配していましたが、それも大当たり!!
このあと、家康が島原の乱で痛い目を見るわけなので、今回は官兵衛の目が、信仰によって曇っちゃったってことよね。

そして・・・
価値観がずれてきている二人・・・
殿下は官兵衛に、九州の武功に対しての褒美として、豊前六郡を与えるのです。
しかし、その場所は、宇都宮鎮房に本領安堵を与えた領地でした。
宇都宮には国替えを命じると言う・・・。

あ~、なんだか宇都宮鎮房にとっては官兵衛に裏切られたという気持ちでいっぱいでしょうね。

そうそう、島津なんか、どっかに吹っ飛んじゃいました。
ほんと、この大河は戦ってくれないので、なんだか寂しい。。。


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