日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:島津義弘

水郷の町として知られる福岡県柳川市・・・
江戸時代、柳川藩10万9000石の城下町として栄えました。
城跡には、明治時代に旧藩主が立てた洋館や、江戸時代の壮麗な大名庭園があります。
ここの旅館を経営しているのは・・・柳川藩主・立花家の子孫です。
戦国大名に連なる家が、今も城内の屋敷を守り続けているのは全国でも珍しい・・・。

柳川藩の礎を築いたのは、立花宗茂・・・当今無双の勇士と秀吉に称えられ、西国一の猛将と言われていました。
宗茂の戦歴はすさまじく・・・秀吉の天下統一戦争にことごとく参陣、江戸時代には大坂の陣、島原の乱で活躍し、その武勇を轟かせました。
そんな宗茂の生涯で最大の試練となったのは、関ケ原の戦いでした。
東西両軍の決戦は、わずか半日で終了・・・
宗茂のいる西軍の大敗北に終わりました。
決戦に参加することもできず、宗茂は敗者となりました。
しかし・・・宗茂には秘策が・・・??

福岡県柳川市・・・その中心に水堀に囲まれた広大な敷地に柳川城址があります。
資料館には・・・関ケ原合戦時の立花宗茂愛用の甲冑が残されていました。
その甲冑は、戦いの神・摩利支天を模し、鉄の地金が厚く、実践向きです。
体格は非常に大きく・・・身長175cmから180cmの間ではないかと言われています。
天下無双と呼ばれた武将・・・立花宗茂・・・その武勇は、二人の父親から譲り受けたものでした。
宗茂は、1567年、九州筑前の武将・高橋紹運の長男として生まれました。
宗茂が紹運から譲り受けた刀・・・鎌倉時代の名工長光の剣・・・宗茂が15歳で養子に出されるとき、敵味方に分かれたらこの剣で父を討ち取るようにと言われたという・・・
紹運からは、武将としての覚悟をたたき込まれました。
もう一人の父・養父・立花道雪。
道雪は勇猛果敢で知られているが、彼が与えた刀は、道雪が雷神を一刀両断にしたという名刀・雷切丸。
切っ先が変色しているのは、雷神を切り裂いた証だといいます。
道雪の猛々しさをよく伝えています。
二振りの刀を常に戦場に持ち、武勇に長けた宗茂・・・
道雪から家督を譲り受け立花家を継ぎます。
主は、紹運や道雪が仕えた大友宗麟。
九州北部・6か国を治める大名でした。
海外の文化をいち早く取り入れたキリシタン大名としても知られています。

九州は動乱の時期を迎えていました。
島津が急速に版図を拡大し、大友に迫ってきていました。
同じころ、中央では豊臣秀吉が台頭し、瞬く間に畿内や中国地方を制圧し、四国まで勢力圏を広げていました。
島津の圧迫に・・・1586年4月、大友宗麟、秀吉に救援を求めます。
大友が服属したことで、宗茂も秀吉の配下となりました。
5万の大軍勢を率いて大友領に侵攻した島津軍は、九州の要・筑前に狙いを定めました。
この時、宗茂に任されたのは、北の玄関口・博多湾を押さえる立花山城。
実父・紹運はその先の要衝・岩屋城で南から迫る島津の大軍勢を待ち構えました。
島津軍の猛攻に、紹運はわずか70余りの兵と共に徹底抗戦!!
しかし・・・兵力の差は大きく、7月27日岩屋城は陥落、紹運は自刃し、籠城兵はことごとく討死という非業の死を遂げました。
島津の次の狙いは立花山城・・・大小7つの峰に砦が築かれた山城です。
若干20歳の宗茂は、兵1700と共に籠城しました。
8月、立花山城を囲んだ島津軍は、宗茂に降伏を呼びかけました。
宗茂はこう答えます。
「関白秀吉公のご命令を守るのみ!!
 関白殿を捨ておき、島津に降伏するなど武士のすることではない!!
 実父・紹運はこの義を固く守り、見事に切腹して果てたというのに、自分だけ生き長らえて汚名を天下に伝えるなど、思いもよらぬことである。」と。
宗茂も戦死した父と同じく徹底抗戦を宣言したのです。

大軍勢の島津にどう立ち向かうべきか・・・!!

宗茂には勝算がありました。
籠城から1か月後、総勢20万に及ぶ秀吉の第一陣が九州に迫りました。
秀吉の九州征伐です。
この時を宗茂は待っていたのです。
秀吉軍の到来を聞いた島津軍は、8月25日撤退を開始!!
宗茂はこの機を逃しませんでした。
兵力わずか1500で場外へ出陣!!
撤退するしまずの大軍勢を果敢に追撃!!
宗茂の逆襲は、島津軍には思いもよらないことで、散々に蹴散らされたと言われています。
この時、父の守っていた岩屋城の奪還にも成功しています。
後の秀吉は、宗茂を「真に九州の一物」と、称え、大友の家臣から10万石の大名に取り立てました。
領地は築後の柳川・・・ここに、戦国大名・立花宗茂が誕生したのです。

しかし・・・1588年8月18日、豊臣秀吉死去。
豊臣政権を受け継いだのは、政務を司る五大老と実務を行う五奉行でした。
やがて五大老の筆頭・徳川家康と五奉行の筆頭石田三成の対立があらわに・・・
家康につくのか??三成につくのか・・・??

宗茂に宛てた三成の書状が残っています。
朝鮮出兵での宗茂の功績をたたえたものです。
三成は、宗茂を頼りにしていました。
1600年、家康は謀反の疑いありと五大老のひとり・上杉景勝討伐に動きます。
3万の軍勢を率いて会津に向かいました。
その隙をつき、石田三成は同じ五大老の毛利輝元を総大将に担ぎ出し、反家康の兵を挙げます。
宗茂は迷うことなく三成に味方しました。
「戦いの勝敗如何を問わず。
 ただ、秀吉公の恩義に報いるのみ!!」
宗茂は三成に求められた兵を越える4000の兵を率いて8月に上洛。
8月22日、宗茂達西軍は、美濃大垣に進出。
上杉討伐から取って返してくる東軍の大軍勢を待ち受けるためでした。
ところが西軍の大津城主・京極高次の裏切りが発覚!!
宗茂は三成の要請に従い、大津城攻略に矛先を変えることとなります。
琵琶湖の南に位置し、古くから交通の要所として栄えた大津・・・平地に築かれた大津城は、琵琶湖に突き出た湖上の城・・・。
攻め手の攻撃を阻む三十の堀に囲まれた守りの固い要塞でした。
9月7日、宗茂たちの大津城攻めが始まりました。
これに対し、籠城する京極勢は、夜討ちで対抗しようとしました。
しかし・・・
「立花は西国第一の猛将・・・
 世に知られた武勇の達人
 夜討ちの油断をするわけがない」
京極勢は、宗茂を恐れ、守りに徹したのです。

大津城をいかに攻略するか・・・
宗茂たちが注目したのは城の背後の長等山でした。
日本史上大筒を使用した攻城戦は、大津城の戦いが初めてです。
西軍は、長等山から大津城を攻撃!! 
前代未聞の攻撃に、城内は阿鼻叫喚となりました。
9月15日、大津城は陥落・・・京極高次は降伏し、城を明け渡しました。
宗茂達西軍の完勝でした。
同じ日・・・美濃では東西両軍が関ケ原へ転進。
東軍7万5000、西軍8万が激突!!
天下分け目の合戦・・・関ケ原の戦いの始まりでした。
緒戦は一進一退の攻防が続きます。

しかし・・・西軍に組しながら戦いを傍観していた小早川軍・1万5000が突然西軍に襲い掛かりました。
小早川秀秋の裏切りでした。
結果、西軍は総崩れ・・・戦いはわずか半日で東軍の勝利となりました。
大津城にいた宗茂は、まだこの事実を知りませんでした。

1600年9月15日、関ケ原の戦いに敗れた西軍の武将たちは、戦死する者、敗走する者が後を絶ちませんでした。
宗茂の一代記「立斎旧聞記」には、その後の宗茂の動向が記されています。
翌16日、大津城にいた宗茂に西軍敗北の報せが届きます。
東軍が石田三成の居城・佐和山城を攻めているという情報が入ります。

関ケ原のこと・・・事実であるに違いない・・・
ここは覚悟を決めなければならない・・・

17日早朝、宗茂は大津城を引き払い西へと向かいます。
当時、大坂城には秀吉の遺児・豊臣秀頼と西軍総大将・毛利輝元が対陣していました。
西軍が破れた今、どう行動すべきか・・・??
難攻不落の大坂城に籠城して迎え討つ・・・??
大坂城は北と東に川に守られ、南を低湿地が守る天然の要害・・・
秀吉はここに三重の堀を構え、当時最大の城を築きました。

2003年、現在の追手門近くで巨大な堀跡が発見されました。
幅22m、深さ6mの障子堀です。
障子堀は、秀吉を悩ませた関東の雄・北条氏の築城術です。
侵入してきた敵は、細かく仕切られた堀に手間取り、矢や鉄砲の攻撃にさらされます。
堀に落ちた者には逆茂木が待っていました。
大阪城の主要な出入り口3カ所にこのような堀が作られていたとされています。
秀吉が無くなる寸前に作っていました。
秀頼のことが心配で、城をより強固なものにするために掘られたのです。



大坂城を守る??それとも九州へ帰還??
関ケ原の戦いで毛利は動かず、小早川が裏切ったため、西軍は敗北した。
いくら難攻不落の大坂城とはいえ・・・心が一つでなければ籠城戦は出来ない・・・。
九州に帰還しても、宗茂には勝機がありました。
同じ西軍で、武勇の誉れ高い薩摩の島津義弘と手を組むという方法です。
前年、宗茂と義弘は起請文を交わしていました。

「この度の談合について、心の底から残らず互いに語り合ったことは、一切他言しないこと」

島津家は、そもそも立花宗茂にとっては実父・高橋紹運の敵でした。
しかし、秀吉の九州平定後は、親密な間柄になってきていました。

大坂城に籠城する??
それとも、九州に帰還する・・・??

1600年9月17日、宗茂は大坂城に向かいます。
籠城戦に打って出ることを選択したのです。
早速総大将・毛利輝元のもとに使者を派遣。
しかし、輝元は決断できませんでした。

「これから評議を尽くしてご返答申し上げる」

宗茂はあきれ返りました。

「今から評議するなどとは、ことのほか浅き知恵である
 総大将がそうであれば、とても籠城などできまい」

宗茂は軍勢を連れて九州へ帰還することに・・・!!
これにより、大坂城での決戦は幻に終わりました。

10月、急ぎ領国・柳川に戻った宗茂・・・しかし、新たな苦難に直面・・・
東軍の軍勢・4万に、柳川を包囲されたのです。
東軍の武将・加藤清正が降伏を勧めます。

「兵たちの命は、城主が切腹して助けるというのが武将の大法である」

宗茂は自らの命で城兵を守ろうとしたのです。
しかし、清正は宗茂を生かし、全ての兵を助けることを約束。
宗茂はこれに応じ、城を明け渡しました。

1601年3月、立花家改易。

宗茂は一介の牢人となりました。
しかし、宗茂は諦めません。
自ら上洛し、家康との接触を図り、旧領柳川の復活を目指したのです。
何が宗茂を突き動かしたのか・・・??

宗茂は、養子として立花家(戸次家)に入ってきたのでアウェーでした。
なので、家臣に対して心配りができる武将になっていたのです。
家臣の大半は、その後清正に召し抱えられましたが、二十数人は牢人の宗茂に付き従いました。
この家臣たちを路頭に迷わせないためにも、旧領の回復が必要だったのです。
そんな宗茂を乞うっておかなかったのが家康でした。
敵でありながら、宗茂の武勇と人徳を認めていたのです。

1606年、家康の計らいによって陸奥棚倉・3万石を拝領します。
宗茂は大名への復帰を果たしたのです。
その後、大坂の陣で活躍、1617年将軍・秀忠の御咄衆となります。
徳川家の絶大な信頼を勝ち取っていきます。

1620年11月、宗茂、旧領・柳川に復帰。
関ケ原の戦いから20年の歳月が経っていました。
関ケ原で西軍に属して改易された大名は88家。
立花宗茂だけは、旧領に戻れたのです。

敗軍の将から奇跡の復活を遂げた宗茂は、1643年11月25日、76歳の生涯を閉じました。
江戸から明治、そして現代・・・激動の時代を乗り越え、立花家は今も柳川城の中に生き続けています。

立花家に代々受け継がれてきた宗茂の言葉があります。

「領民の幸せこそ 第一の義とせよ」

その思いは、今も受け継がれています。

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日本の近代化の始まりとなった明治維新・・・その大改革の位置役を担ったのが、西郷隆盛などを擁した薩摩藩です。
しかし彼らの活躍は、あの出来事がなければなかったかもしれません。
1600年9月15日、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍併せて8万の大軍が激突した関ケ原の戦いです。
子の天下分け目の合戦で、西軍の敗戦が決しようとしたとき、よう軍の主力部隊に突き進む隊がありました。
薩摩の島津義久率いる島津軍!!これが、後世に名を残す島津の退き口です。

島津義弘は、室町時代後期の1535年に九州の名門・島津家の次男として生まれました。
義弘は、長男・義久に代わって島津軍を率いて多くの戦に出陣。
島津の旧習制覇に向けて、八面六臂の大活躍!!
猛将としてその名を全国に轟かせていました。

秀吉の九州征討によって、薩摩国・大隅国・日向国(一部)の62万石になってしまっていたのですが・・・
当時は兄の義久が、拠点である薩摩国を、弟・義弘が大隅国を治めていました。
秀吉の命で、義久が大隅を、義弘が薩摩を治めることになったのですが・・・
それは、義弘の活躍ぶりを秀吉が気に入り、島津の代表として秀吉が扱ったのだといいます。
弟・義弘が正統の当主となったわけではないのですが・・・この微妙な関係で、義弘に大きな試練が・・・!!

1600年、豊臣秀吉亡き後、虎視眈々と天下を狙う五大老筆頭の徳川家康と、秀吉の跡継ぎの石田三成との争いが激しくなります。
一触即発の中、天下分け目の決戦に向けた激動の日々が始まりました。
先に動いたのが、大坂城にいた家康でした。
家康は五大老のひとりである上杉景勝に謀反の疑いがあるとし、諸大名に出陣を要請!!
自ら会津の上杉討伐に向け、京都の伏見城に入りました。
しかし、会津に遠征することは、政の中心であった髪型を留守にすることになり、家康にとっては危険なことでした。
家康によって佐和山城に隠居させられていた石田三成が、家康が神永を留守にするのに乗じて挙兵するかも知れなかったからです。
そこで、上方の重要拠点である伏見城を奪われないように万全を喫します。
家康の重臣・鳥居元忠を城に残し、城の守りを依頼したのは島津義弘でした。
家康が義弘に依頼したのは、猛将としての腕を見込んでのことでした。
秀吉が行った朝鮮出兵での活躍は、聞きしに勝るものがありました。
当時日本は苦戦していましたが、義弘は、秀吉亡き後の泗川城の戦いで、5000の兵で数万の明と朝鮮の連合軍を打ち破ります。
これによって、日本軍の撤退が容易になったのです。

こうして家康から伏見城の守りを依頼をされた義弘ですが、これを受けると豊臣の世を守ろうとする三成を敵に回すことに・・・。
義弘の返答に島津の運命がかかっていました。

「家康殿の命とあらばお受けいたしたいが、家中の者と相談して正式にお答えしたい。」

と、即答を避けたものの、義弘には家康の頼みを断れない大きな借りがありました。
それは、前年の事件・・・
義弘の子・忠恒が、島津家の重臣で都城8万石の領主となっていた伊集院忠棟を茶席で手打ちにしてしまったのです。
それは、主君である島津をないがしろにした忠棟の行いに業を煮やしてのことでしたが、秀吉のお気に入りを殺してしまったことで三成が激怒!!
島津と伊集院との確執は収まらず、殺された忠棟の子が、都城で反乱を起こすという事態に発展してしまいました。
それによって、島津家は苦境に陥りましたが、その際、和睦を図ってくれたのが家康だったのです。
熟慮の末、家康のために、伏見城を守ることにした義弘。
家康は、1600年6月に会津に出陣!!
家康の出陣を待っていたかのように、石田三成が動きます。
7月半ば、家康のいなくなった大坂城に戻ると大軍を集め、打倒家康を掲げて蹶起しました。
そうして西軍が大坂で挙兵したころ、義弘は200の軍勢と共に京都にいました。
遅かれ早かれ西軍が伏見城に攻め込んでくるのは明白でした。
そこで義弘は、家康との約束を守るために、伏見城に入城を申し入れます。
ところが、鳥居元忠は、あろうことか義弘の入城を拒絶したのです。
鳥居はどうして義弘の入城を拒んだのでしょうか?

これは、家康と義弘とのあくまでも口約束であって、文章が存在していませんでした。
しかも、外様大名の義弘が裏切ることを恐れたからです。
聞いていなかった鳥居元忠によっては当然のことでした。
そして、この事態が義弘に危機的状況をもたらします。
周囲は伏見城を攻撃しようとする西軍で埋め尽くされていたのです。
戦おうにも兵は僅か200!!
そこで、義弘は生き残るために苦渋の決断をします。
一転して、西軍に組することでこの危機を脱しようとしたのです。
そして義弘は、戦うからには200の兵では島津の名が廃ると、国元に至急兵を送るように申し入れます。
ところが、薩摩からの援軍はなかなか到着しません。
家康を恐れた兄・義久が兵を出すことを拒んだのです。
兄から見放されてしまった義弘・・・そんな時に駆け付けてくれたのが、義久の甥・島津豊久でした。
こうして義弘を慕うものが次々と集まり、軍勢は1500ほどに・・・。
それでも兵は足りません。
天下分け目の関ケ原の戦いは、1か月後に迫っていました。

1600年8月11日、石田三成は東軍の進軍に備えるべく、6000の兵を美濃の大垣まで進めます。
1500の兵の島津義弘も三成に従い布陣しました。
そして、8月22日、三成の命を受けた島津軍は、最前線の墨俣につきます。
すると翌日、状況が一変!!
東海道を登ってきた東軍の先鋒隊が、岐阜城を急襲!!
たった1日で落城させてしまいました。
また、東軍の黒田長政、藤堂高虎の軍勢が長良川西岸に押し寄せ、西軍の先鋒隊を打ち破り進撃!!
大垣から進軍していた三成本体にも危機が迫ります。

そこで三成は、墨俣から少し離れた佐渡で軍議を開きます。
その内容は、義弘にとって思いもよらないものでした。
それは、大垣への撤退・・・しかも、義弘に・・・
「義弘殿が一緒だと心強い、ご同行願おう!!」by三成
逃げたら、最前線の墨俣にいる島津軍は置き去りとなり、東軍が攻撃してきたらひとたまりもありません。
納得のできない義弘は、三成を突っぱねます。
すると三成は、そのまま大垣へと戻ってしまいました。
義弘は、墨俣に布陣する島津軍を救い出すべく出陣!!
無事島津の兵を撤退させたのです。
その後三成は義弘に詫びますが、このことで確執が生じたともいわれています。
それから20日後の9月14日、家康をはじめとする東軍は関ケ原に進軍!!
一方三成は笹尾山に布陣!!
島津軍はその近くに軍を構えます。
両軍が布陣を終えたのは、15日早朝!!
いよいよ決戦の火ぶたが切られようとしていました。

1600年9月15日朝・・・深い霧が立ち込める中、美濃国関ケ原で東軍7万VS西軍8万の大軍が対峙しました。

島津義弘率いる島津軍も、石田三成の陣の近くに布陣します。
そして、午前8時・・・東軍・井伊直政軍が西軍・宇喜多秀家軍に向かって発砲!!
一気に戦闘が始まりました。
しかし、義弘の島津軍は動こうとしません。
まるで東軍と西軍との戦いを傍観しているかのようでした。
その後、松尾山に陣取った小早川軍が東軍に寝返り、大谷吉継軍を背後から急襲します。
この小早川の寝返りで西軍は劣勢となっていきますが、義弘の軍は動きません。
島津軍の出撃をを今か今かと待っていた三成は、義弘の元へ伝令を送ります。
しかし・・・義弘は出撃の命を出しません。
そのうちに小西行長軍、宇喜多秀家軍の敗走が始まりました。
逃げ惑う兵たちが右往左往、大混乱が・・・!!
にもかかわらず、島津軍は動きません。
そのうち、しびれを切らした三成自らやってきて、出撃を促します。
しかし、義弘に代わって甥の豊久は答えます。
「人のことなど構う暇はござらん!!」

どうして義弘は島津軍を出撃させなかったのでしょうか?
島津軍は数が少なく、二番備え・・・先陣の次に攻め入る軍勢だったので、戦機を見極めようとしていた義久・・・。
そして、戦機が訪れなかったというのが本音でしょう。
数の少ない島津軍は、むやみに出撃すれば命を落とすことは確実でした。
そこで、少しでも勝てる機会を待っていたのですが、とうとう来なかったのです。

義弘は後に語っています。

もし、島津軍に5000の兵があればあの戦、勝っていたものを・・・!!

東軍の優勢が明らかになると、出撃しなかった島津軍にも容赦なく攻撃が・・・!!
島津軍の前方には、見渡す限り東軍の兵!!
背後には伊吹山が立ちはだかっていました。
島津軍は絶体絶命の危機に陥ってしまいました。
義弘は家臣たちに告げます。

「老武者のわしには、伊吹山の泰山は越え難し。
 たとえ討たれると言えど、敵に向かって死すべし!!」by義弘

数々の危機を乗り越えてきた義弘も、この時は死を覚悟しました。
そんな義弘を甥の豊久は諫めます。
豊久の想いは、島津軍全員の思いでもありました。
なんとしても義弘を生きて薩摩に・・・!!

石田三成が配送を始めました。
東軍は、ここぞとばかりに西軍に襲い掛かり、島津軍も四方八方を囲まれ絶体絶命の危機に・・・!!
すると義弘は、
「皆の者、退却する・・・!!」
義弘は、関ケ原を抜け出し、国元・薩摩に戻ることを家臣たちに告げます。
しかし、退却すると言っても1500の島津軍が、東軍だらけの関ケ原でどうやって逃げるのか・・・??
伊吹山を背にした島津軍の退却ルートは4つ。
東海道を幾ルートは、薩摩とは反対方向なので却下。
中山道を西に進む?北国街道を北に進む?
伊勢街道を南に向かう??
義弘の退却路は、伊勢路から・・・!!
しかし、伊勢街道は、家康直臣の軍勢がいる最も難しいルートでした。

義弘はどうして伊勢街道を選んだのでしょうか?
中山道は小早川軍1万5000。北国街道は黒田・細川軍など2万。。。伊勢街道ルートは1万にも満たず、敵兵が少なかったと思われます。
合理的で冷静な判断でした。
しかし、精鋭ぞろいの家康の部隊を突破することは容易い事ではありません。
ここから、島津の退き口という歴史に残る壮絶な退却戦が始まるのです。
少数の島津軍はどんな戦法を使ったのでしょうか?

穿ち抜け・・・とは、島津軍が得意とする戦法で、錐で穴をあけるように敵の一点を集中攻撃をして突破する、至近攻撃です。
まず、島津軍に立ちはだかったのは猛将の福島軍!!
これを突破します。
”孫子”には、死に物狂いの兵には近寄るなとあります。
これが当時の常識だったので、福島軍が道をあける形になってしまったようです。
さらに、東軍を突き進んでいく島津軍。
その激闘を東軍の兵のひとりが書状に残しています。

まず少ない島津軍は、東軍に飲み込まれながらこれを突破!!

まさに必死の戦いで敵陣を進んだ島津軍は、進路を南にとります。
伊勢街道を目指します!!
すると、そこに敗走する三成を追う家康本隊と遭遇してしまいました。
しかし家康軍は、島津軍をやり過ごし、先頭は起きませんでした。
一説では、この時義弘は、家臣を家康に差し向けこんな口上を述べさせたといいます。

「島津兵庫入道義弘、こたび はからずも御敵となり、戦い利あらずして ただ今、御陣頭を過ぎて本国薩摩へと帰り申す。
 わが心事については、後日改めて言上つかまつるべし。」と。

本意ではない戦いではあった・・・と。

生き延びて、このまま薩摩に帰ったとしても、西軍として戦った島津家に未来はありません。
ひとまず家康に礼を尽くしておく・・・義弘のしたたかな作戦だったのかもしれません。
関ケ原の戦いで、西軍の敗色が濃厚になる中、薩摩に変えるために敵中突破し伊勢街道を突き進む島津軍!!
東軍も島津軍を逃してなるものか!!
と、徳川四天王・井伊直政、闘将・本多忠勝による追撃が始まりました。
その際、島津軍の繰り出した作戦は・・・??捨て扞でした。
殿の兵が残って、討ち死に覚悟で戦って他の兵を逃がすという決死の戦法です。
島津軍は、兵の命を犠牲にしながら、穿ち抜けを何度もしたと思われます。

「明良洪範」によると・・・東軍にも思わぬ被害が・・・
井伊直政が右肩に被弾し落馬、重傷を負いました。
島津軍も、甥・豊久が命を落とします。まだ31歳の若さでした。
島津軍は、多くの命を失いながら、かろうじて伊勢街道を逃げ延びます。
島津軍が関ケ原から20キロほどの駒野坂に達したのは、午後7時ごろのことでした。
この時、島津軍の兵の数は、100にも持たなかったといいます。
しかし、薩摩はまだはるか先・・・
鈴鹿峠を抜けるとき、東軍の追撃だけでなく落武者狩りにも遭ってしまいます。
さらに、困難を極めたのが、食料の調達でした。
足りなくなった時は、軍馬で飢えをしのいだといいます。
島津軍がなんとか大坂に到着したのは、5日後の9月20日。
兵の数はさらに減り、70人余りだったと言われています。
そして、大坂から薩摩へ・・・!!

東軍の勝利に終わった関ケ原・・・西軍として参戦した島津家の事情を聴くために、島津義弘の兄で実権を握る義久に出頭を命じます。
しかし、義久はこれを拒んで防御を固めます。
対決姿勢を崩さない島津家に家康は、9月30日、九州の諸大名に島津討伐軍の結成を命じます。
ところが、家康はいつまでたっても攻撃の命を出しませんでした。
実際、島津家と戦うことによって混乱し、反徳川が蹶起する可能性があったからです。
結局家康は、島津討伐を断念することに・・・。

驚くことに、島津家の本領安堵が決定!!
62万石のままになります。
同じく西軍として戦った毛利家は、121万石から37万石に、四国の長宗我部家に至っては、領地没収という憂き目に・・・。

家康は、島津家に対して異例にも寛大でした。
この時、重要な役割を担っていたのは、島津の退き口で負傷した井伊直政です。
関ケ原から半年、直政は島津家に書状を送り、和睦を成立させるために自分が働くことを伝えます。

井伊直政は、島津軍の強さを身に染みて知っていました。
なので、戦いたくはなかったのです。
おまけに、南九州まで行くということは、大変で、上杉や毛利とも和睦できていない今、何が起こるかわからなかったので、島津との和睦を進めました。
関ケ原の戦い前と変わらず本領安堵を認められた島津家・・・
さらに、義弘の助命を勝ち取っています。
これ以上ない和睦でした。
これによって、島津家は生き残り、雄藩として江戸時代を生きていく基礎となりました。

無謀と思われた島津の退き口は、結果として薩摩藩を本領安堵へと導きました。
しかし、家康にとって島津家を処分できなかったことは、大きな心残りだったともいわれています。
そして、その家康の心残りが後に災いをもたらします。
それは、関ケ原の戦いから267年後のこと・・・家康が築いた江戸幕府は、その家康が許した島津家の薩摩藩
ら討幕派によって終わりを迎えることになるのです。

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武将たちがしのぎを削った戦国時代、およそ100年続いた下剋上に終止符を打ったのは関ケ原の戦いでした。
石田三成の西軍8万4000の軍勢と、徳川家康の東軍7万4000の軍勢があい見えた天下分け目の合戦です。
勝ったのは東軍!!
その勝因は、西軍の4人の武将たちによる裏切りがありました。

その中で誰が一番痛手を与えて得をしたのでしょうか?

①小早川秀秋 
②島津義弘
③毛利輝元
④吉川広家

明治時代、日本政府の招聘により来日していたドイツ人将校に関ケ原の布陣を見せたところ・・・
「勝ったのは西軍であろう。」と言いました。
西軍は、石田三成が笹尾山に、他の武将たちはその周りに・・・鶴翼の陣で、重要な山をすべて押さえていました。
迫りくる東軍を山の上からけん制し、平地に追い込んで一網打尽にしようと考えていました。
一方東軍は、家康以外はほとんどが平地に布陣。。。
両軍の配置は・・・西軍の方が圧倒的に世おりな状態で始まったのです。
圧倒的に不利な東軍・・・しかし、それがひっくり返るのですが・・・
松尾山に布陣したのは小早川秀秋1万5000。
三成の傍にいたのは闘将・島津義弘。
家康のすぐそばにいたのは、吉川広家。
さらにその後ろにいたのは毛利軍でしたが・・・ここに、西軍の大将である毛利輝元はいませんでした。
この時、輝元は大坂城にいたのです。

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①小早川秀秋
1600年9月15日午前6時・・・
雨もやみ、深い霧が立ち込める中・・・15万の軍勢が睨み合っていました。
そして午前8時・・・天下分け目の戦いの火ぶたが切って落とされます。
一進一退の攻防が続くこと2時間・・・早く膠着状態を打開したい石田三成は、松尾山に布陣している小早川秀秋に攻撃を仕掛けるように合図します。
しかし・・・小早川は動きません。
再三の出撃命令にも攻撃しない小早川にいら立ちが募る三成・・・。
この時、小早川に苛立っていたのは・・・東軍の大将・徳川家康でした。
小早川は、戦の前から家康と内通し、東軍に寝返るように説得されていたのです。
開戦から4時間後の正午・・・業を煮やした家康は、小早川軍に向かって鉄砲を打ち込ませます。
世に言う家康の問鉄砲です。
小早川はこれにひるみ、寝返りを決断、味方である西軍に襲い掛かったと言われていますが・・・
関ケ原の平地から松尾山までは1.5キロ・・・火縄銃の有効射程はたかだか100m。
弾は届きそうにありませんが・・・小早川は銃声に怯んだのでしょうか??
戦の時は、怒号や銃声が飛び交っています。
大筒の音さえも聞こえにくかったようですが・・・
家康の問鉄砲が後世の創作だったとすると、どうして寝返るまでに4時間もかかったのでしょうか??

三成からは、勝った暁には関白の地位と、上方に2ヵ国を加増すると褒賞を約束されていました。
悩む小早川は、戦局をうかがっていたので4時間もの間動かなかったのです。

そもそも小早川はどうして家康と内通したのでしょうか?
豊臣秀吉の正室ねねの甥である小早川秀秋・・・
3歳の時に跡継ぎのいなかった秀吉の養子となり、ねねの手で大切に育てられましたが・・・
秀吉の側室淀の方が秀頼を産むと、状況は一変!!
13歳で有力大名・小早川隆景のもとに養子に出されてしまいます。
さらに秀吉から・・・もう一人の養子であった秀次と、謀反を企てた嫌疑をかけられます。
秀秋も、丹波亀山10万石を没収されてしまうのです。
謀反は秀吉のでっち上げ・・・??
自分を疎んじた秀吉を恨んでいたのかもしれません。

丹波亀山を没収された秀秋ですが、その後、養父・小早川隆景から領地の一部の筑前などを受け継ぎます。
そして、15歳で秀吉の命で朝鮮出兵!!
ところが帰国すると、いきなり筑前30万石から越前北ノ庄15万石への減俸・転封を命じられたのです。
一説には石田三成が、朝鮮における秀秋の失敗を大げさに報告したと言われています。
秀吉と三成を恨んでいた・・・??

小早川が寝返ると、近くにいた脇坂・朽木・小川・赤座も寝返ります。
大混乱の西軍・・・2時間後、東軍の勝利が確定します。
家康は、この機を逃さず総攻撃!!
これに焦った石田三成は、なぜか、開戦から傍観している薩摩・島津義弘に出陣を命じます。
ところが、島津も動かなかったのです。

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②島津義弘
朝鮮出兵では、7000の兵で20万の明と朝鮮の兵を破った島津軍・・・
しかし、関ケ原の戦いに参加したのは、僅か1500の兵でした。
それは、この時義弘が、兄・義久と対立し、島津家が二分していたからです。
義久は、中央勢力とは距離を置いた方がいいと考えていました。
なので、義弘に対して、国元の軍勢を送ることはなかったのです。
鬼の島津こと、島津義弘66歳・・・。
百戦錬磨の武将ですが・・・1500の兵で戦っても勝ち目はないと動かなかったのです。

そして三成との確執・・・
合戦前日の出来事です。
西軍は大垣城に・・・東軍は美濃赤坂宿付近に陣取り、杭瀬川を挟んで前哨戦が行われました。
結果は西軍の大将・・・兵たちの士気は大いに上がります。
そこで島津義弘は三成に進言します。
「勢いをそのままに、夜襲をかけてはどうか?」
これに対し三成は・・・
「夜襲はかけぬ!!」でした。
この時三成は、家康の軍は大坂城へ向かうのでは??という情報を掴んでいました。
それを阻止する為に、先回りをしたかった・・・関ケ原で東軍を待ち構えることになったのです。
1500の兵の島津軍を頼りにできないと考えていました。
前回、墨俣の戦いでも置き去りにされてしまった義弘・・・軽んじられた義弘・・・。
三成に対して不信感を持っていたのです。

午後二時・・・西軍は総崩れ・・・
主力が次々と敗走し、多くの武将たちが討死・・・。
これを見た島津義弘は、
「さて・・・われらも如何にここから脱出するか・・・」
その大脱出劇が島津の退き口です。

関ケ原は6つの街道が交わる交通の要所です。
西への逃走ルートは三つ・・・
❶北国街道へ向かう北西ルート
この道は、敗走していく西軍と、追いかける黒田長政の軍、細川忠興の軍で溢れていました。
❷中山道の南西ルート
東軍に寝返った小早川秀秋の軍が占拠。
❸伊勢街道の南東ルート
ここには前線まで来ていた徳川本隊が待ち構えていました。
井伊直政、本多忠勝・・・猛者たち相手に1500の兵では討死しに行くようなもの・・・
しかし、鬼の島津は・・・敵中突破!!
島津軍は笹尾山あたりから南東方向へ進み、徳川本隊の脇を通って伊勢街道へと出ます。
穿ち抜けという戦法で、敵の一点を集中攻撃し、対象の義弘を通した後で捨てがまり戦法へ・・・!!
部隊が残って敵と戦い、その間に本隊は先へ・・・これを何度も繰り返して、距離を稼ぎます。
島津義弘は、こうして井伊直政、本多忠勝らを振り切って、関ケ原を脱出します。
関ケ原から脱出した際には、100人も残っていなかったといいます。

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③毛利輝元
中国地方の半分120万石を治めていた毛利輝元は、九州征伐で大きな成果をあげるなど、秀吉の天下統一に貢献。
秀吉亡き後の政権で、家康と共に五大老を務めるなどしていました。
関ケ原の戦いで、西軍の大将に就任したのは・・・
反家康の三成の要請を受けたからでした。
7月半ば・・・輝元は大坂城に入ります。
三成はこの時、まだ8歳だった秀頼の補佐を輝元に任せ、合戦の際は供に出陣させようとしていました。
関ケ原の合戦は、秀吉の家臣同士の戦いでした。
恩顧の意識が強いうちに、秀頼が出てくることで、こちらの方に大義名分があるということを示したかったのです。
合戦間近、三成は輝元に出陣を要請。
しかし、大坂城に留まる輝元。
代わりにやってきたのは、養子・秀元と1万5000のの軍勢でした。
輝元はどうして関ケ原に来なかったのでしょうか??
色々あります。
淀の方が、幼い我が子の参戦を好まなかったので、補佐役の輝元も出陣できなかった。とか、
大阪城内に、家康と内通していると噂の増田長盛の軍勢がおり、その動向をうかがっていたから。とか・・・

輝元は、秀頼を守るために、大坂城に留まった??

しかし、実のところ、家康を気にして戦う気などなかった??
輝元から家康への手紙には・・・
「三成殿の謀と当方とは関係ない」とあります。
今回の戦いには自分は関係ないと言っているのです。
その真意は・・・どちらが勝ったとしても、毛利家が生き残れるように・・・という思惑はあったようです。
東軍西軍を両てんびんにかけていたのでは・・・??

毛利輝元は、当時、自国の領土拡大に動いていました。
関ケ原に出陣していた蜂須賀家など四国の大名たちに攻め入っていたのです。
東西の面目を保ちながら、自らの野望も叶える・・・そんな戦略家だったのです。

桃配山・・・東軍の大将・徳川家康が最初に陣を置いた場所です。
家康はその周辺に3万の軍勢を配置しました。
その背後にそびえるのは・・・南宮山。
西軍の多くの武将がここに陣を置いていました。
長曾我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家、毛利秀元・・・
兵の数を合わせるとおよそ3万・・・西軍の主力ともいえる軍勢です。
その中で、先陣を任されたのが、毛利家家臣・吉川広家でした。
家康に最も近い場所に布陣していました。

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④吉川広家
毛利秀元をはじめ、安国寺、長束、長曾我部の軍勢は、開戦と共に南宮山を下って家康軍に襲い掛かろうとしていました。
ところが・・・肝心の吉川広家の軍が動きません。
後ろにいた武将が問いただすと・・・
「霧が立ち込めて、敵の姿がみえぬ・・・」
確かに、周囲は深い霧に包まれていました。
しかし・・・数時間後の霧が晴れた後も、吉川は相変らず陣にとどまったままでした。
これに激怒したのが、長曾我部盛親です。
苛立つのも当然・・・吉川が動かないのは大問題でした。
一番槍は、決められていました。
そして、それに従うのが、当時の習わしだったのです。
つまり、吉川が動かなければ、皆、動くことができなかったのです。
吉川に代わって長宗我部に応えたのが毛利秀元でした。
「今、丁度兵に、弁当を食べさせようとしているところじゃ・・・!!」と。
宰相殿の空弁当と言われるエピソードです。

吉川広家は、毛利輝元と同じ毛利元就の孫でした。
二人はいとこ同士だったのです。
吉川家は、父・元春の頃から献身的に毛利家を支えてきていました。
その一方で、吉川は黒田長政とも通じており・・・
早々に東軍有利と見た広家は、輝元に東軍に着くべきだと進言ようとした矢先、輝元は三成らによって、西軍の大将に担ぎ上げられてしまったのです。
仕方なく西軍に着いた吉川でしたが・・・黒田長政の父・官兵衛から書状が届きます。
「上方の大名もみな、家康公に味方します。
 あなたの判断が第一。」
東軍の勝利を確信した吉川は、寝返ることを決断し、家康に約束します。
この密約が、既に戦の前になされていたことは、家康の陣の位置からもわかります。
吉川が陣取っていたのは南宮山の頂上・・・家康の桃配山とは峯続きなので、三万の軍で攻めればひとたまりもなく・・・そんな無謀な布陣ができたのも、吉川が後ろで留めてくれると安心していたからでしょう。

吉川の寝返りの真意は・・・??
家康との間に、毛利輝元の寛大な処遇を内々で求めていました。
毛利本家のことを思っていたのです。
輝元に、大坂城に残ることを強く進言したのもまた、広家なのです。
さらに吉川の裏切りは・・・小早川秀秋にも関係しています。
小早川は吉川が足止めしている情報を手に入れていたので、寝返ることにしたのです。

毛利輝元を大坂城に留まらせ、
西軍3万の軍勢を足止めし、小早川秀秋に寝返りの決断をさせた・・・
もっとも西軍にダメージを与えたのは、吉川広家でした。
真の裏切り者は・・・吉川広家だったのです。
こうして関ケ原の戦いは、僅か半日で東軍の勝利に終わりました。

西軍を裏切った武将のその後は・・・??
関ケ原の戦いを制し、大坂城に入った徳川家康が、東軍の武将たちに褒賞を与えるとともに、西軍方の処遇を決定します。
筑前30万石の小早川秀秋は岡山55万石に加増・・・
しかし、その2年後、小早川は21歳の若さでこの世を去ります。
戦場で切腹した西軍武将の呪いと言われました。

戦は傍観していたものの家康軍に突っ込んだ島津義弘に対しては討伐を考えます。
しかし、周囲の取りなしによって中止。
義弘の隠居を持って領土を安堵します。

西軍の大将・毛利輝元は、吉川広家の根回しもありお咎めなしと思われましたが、身分所領をすべて没収する改易でした。
家康はその領地の一部を吉川広家に与えようとしていました。
これを聞いた吉川は・・・家康に毛利家の存続を直談判し、自分の報奨を辞退します。
その甲斐あって、毛利家は120万石から30万石に減俸されましたが、改易は免れたのです。
毛利家のために尽力した吉川には、毛利家から岩国3万石が与えられました。

数の上でも、陣形でも、最初は勝っていた西軍でしたが、多くの裏切りによって負けてしまいます。
天下分け目の戦いでどちらにつくのか・・・??
それは、大名たちにとって裁量が試される時でした。
日本の歴史を大きく変える関ケ原の戦い・・・
一人一人の心のうちを覗くと、それもまた面白いものです。

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決戦!関ヶ原 島津義弘編 丸に十文字【電子書籍】[ 矢野隆 ]

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1600年9月15日、日本を二分する大合戦・関ケ原の戦いがありました。
東西入り乱れて15万を越える闘いは、東軍・徳川家康の勝利で終わろうとしていました。
この時、家康には天下の道がはっきりと見えていたかもしれない・・・
そんな家康に立ちはだかったのは・・・西軍の薩摩軍です。
この時、薩摩軍を率いていたのは島津義弘。
前代未聞の先鋒に・・・
家康の本陣に向かい、退却のための突撃を始めました。
”島津の退き口”です。
島津隊は、井伊直政を負傷させ、家康の四男・忠吉にも被弾させ・・・退却といいながら、徳川に大きな打撃を与えました。
更に闘いの後・・・西軍の諸将が改易される中、東軍に屈せず家康を翻弄します。
その中心となったのが、義弘の兄・16代当主島津義久です。

1600年9月15日関ケ原・・・東西両軍15万に及ぶ戦国武者たちが関ケ原に布陣を終えたのが午前6時ごろ・・・
東軍率いる徳川家康の側近の記録には・・・小雨が降り、山間のためにきりが深く、30メートル先も見えない・・・とあります。
濃霧で敵の陣も見えず、戦場に不穏な静寂が満ちていました。
西軍に味方した薩摩軍は、北国街道を隔て、石田三成の傍に布陣。
薩摩軍を率いるのは島津義弘!!
生涯52度の合戦に臨み、鬼島津と恐れられていました。
この時義弘、齢66でした。
午前8時ごろ開戦!!
東軍7万、西軍8万以上・・・!!
一進一退の攻防が続く中、島津は兵を動かしませんでした。
それは、兵数が少なかったためだといわれています。
この時62万石の薩摩軍は僅か1,500。

宇喜多秀家・・・57.4万石・・・17,000
石田三成・・・・・19.4万石・・・・6,000
大谷吉継・・・・・・5万石・・・・・・1,500

島津は62万石を誇ったものの、他の西軍諸侯と比べると、極端に少なかったのです。
戦いの2か月前、義弘が国元に宛てた手紙には・・・
「軍勢がなく、何をしたところでうまくいかずに困っている。」とあり、兄に何度も援軍要請をしています。
しかし、国元にいる義弘の兄・16代当主・義久が断っています。
援軍を送ると、島津は西軍に参加したことになる・・・
もし、東軍が勝った場合・・・申し開きができない。
西軍に、独断で義弘が参加したのであれば、家は安泰だ・・・。

どうして島津は西軍に参加することになったのでしょうか?
石田三成が、打倒家康に立ち上がった時、義弘は僅かの兵を連れて上方にいました。
西軍の大軍勢が大坂に集中し・・・義弘は西軍に味方するよりほかなかったのです。
島津には、西軍に積極的に組する理由はなかったのです。
一方で、義弘の危機に、国元の薩摩武士の中には義弘の元へ駆けつける命知らずの猛者も・・・。
こうして薩摩軍は1500!!
関ケ原の戦いが始まり4時間・・・正午ごろ、一進一退から動き出しました。
松尾山に布陣した小早川の裏切り・・・!!
中山道に布陣した味方に突進し、この一撃で戦いは東軍有利に・・・!!
午後1時・・・混乱の中、西軍の敗走が始まりました。

この時、義弘が戦場を脱し大阪へ向かう選択は、西か南!!
西へのルートは中山道か北国街道で向かう。
東のルートは伊勢街道を南下して伊賀を抜け大坂を目指す。。。
義弘の手勢僅か1500!!目の前には敵の軍勢8万!!
どの道を選んで薩摩に帰るのか・・・??

中山道は敵となった小早川が道を塞ぎ、
北国街道は、西軍が撤退のために殺到!!
どのみち、敵を背に向けての退却は厳しい・・・。

南へ向かう・・・??
そのためには、目の前にある敵の大軍勢を蹴散らさなければならない・・・。
敵中を突破し、伊勢街道を南へ・・・至難の業だ。。。

寡兵をもって大敵を破る・・・
義弘は、九州の桶狭間と呼ばれた1572年の木崎原の戦いで、10倍の数の敵に勝利し、大将を討ち取ったこともある・・・
しかし、この時、自身の兵の8割を失う結果となっています。
中央突破の損害は計り知れない・・・。
関ケ原から薩摩までおよそ1000キロ・・・。
虎口から脱するためにはどうすればいいのか・・・??
一刻の猶予もならない!!
敵の大軍勢が迫る中、どのルートで退却するのか・・・??

僅かな人数では勝利するのは難しい・・・
老武者では西に退却しても、伊吹山を越えるのは困難・・・
義弘は、目の前の敵を蹴散らしながら、南へ退却します。
それも、最も猛勢な敵に向かって、前進退却!!
島津の退き口の始まりでした。
戦場で勢いがるのは、猛将・福島正則、家康本陣!!
どうして猛勢を選んだのでしょうか?
それは、意表を突くためでした。
それに、家康の近くでは鉄砲が使えない・・・
東軍である味方が討たれる可能性が高いのです。
島津勢に迫られた福島正則は、この意表をついた行動に道を譲りました。
島津兵を止めれば、自軍の損害も多大になると思ったようです。

それを見た家康は・・・
「島津は西国一の強将である。
 早く打ち破らなければ、味方の多くは討たれるであろう。」と。
この時、突破を食い止めようとしたのが、徳川四天王のひとり井伊直政!!
直政は、義弘を討てと、島津軍を追撃!!
しかし、島津の銃撃によって負傷・・・この傷が元で、2年後に亡くなることとなります。
直政を襲ったのは、「捨てがまり」という島津独特の戦法です。
義弘本隊を通した後、狙撃部隊が残り、敵を待ち受け攻撃!!
その間に義弘本隊は逃走!!
これを何度も繰り返し、敵との距離を稼ぐのです。
しかし、兵士たちにとっては決死の覚悟が求められる戦法でした。
関ケ原の戦場から南へ10キロ・・・大垣市上石津町には・・・
義弘の甥・島津豊久の墓が残っています。
義弘の身代わりとなって尽力し、命果てたようです。
家臣たちの命がけの犠牲で、義弘は敵の追撃を引き離すことができたのです。
辛くも敵の追撃から逃れた義弘軍・・・しかし、敗者となった者には落武者狩りが・・・!!
義弘はこれらの襲撃を切り抜け、伊勢街道を脇道に・・・堺へ・・・船で瀬戸内海を渡り、薩摩へ帰還したのは10月3日となっていました。
1500の兵のうち、帰ってこれたのは僅か80余り・・・。
しかし、この時、九州にいた軍勢が、薩摩の国境に迫っていました。

島津と家康との戦いの第二幕が始まりました。
1600年10月、加藤清正や黒田如水など東軍の大軍勢が国境まで押し寄せていました。
絶体絶命の危機・・・!!
この時、領国防衛の中心人物は、義弘の兄・第16代当主島津義久です。
合戦で有名な弟に対し、義久とは・・・??
東軍の軍勢が迫る中、兄弟の意見は真っ向からぶつかっていました。
退き口の後、兄の義久は一戦を交えようというものの、弟・義弘は、戦いになるとひとたまりもないと反対。
そのため、家中は二つに分かれてしまいました。
徳川と和睦すべきか、一戦交えるべきか・・・??

弟・義弘の意見。
国元にいる兄は、世間に疎すぎる・・・
三成は処刑され、西国諸藩も家康に下った・・・和睦しかない。
すでに支配者となった家康に・・・敗戦は必至。
おまけに島津家中は一枚岩ではない・・・
内部から反旗が翻るかも・・・??
和議を結んで内政に力を入れるべきでは・・・??

兄・義久の意見
義弘は政に疎い。
是が非でも徹底抗戦!!
はなから和睦すれば、家康になめられ、毛利の二の舞になる・・・。
関が原の戦いで、西軍の盟主となった毛利家・・・。
しかし、毛利は徳川と密約を交わしていました。
「毛利輝元に対しては粗略には扱わない・・・」にもかかわらず、毛利家は120万石から37万石に減封されてしまった。
義弘は、関ケ原の戦いで、薩摩の恐ろしさを見せつけたから、それを使わない手はない・・・。
万が一、家康が攻めて来ても、戦を長引かせることができれば・・・!!
当時薩摩には、強固な防衛システムがありました。
島津の居城・内城を取り囲むように、100以上の外城が配置されていました。
関ケ原の後、防衛拠点を増強していた島津・・・。
徳川に対する臨戦態勢を築いていました。

徳川との戦を回避して和睦するのか?
一戦交えるのか・・・??

東軍が迫る中、義久は弟・義弘に城を修築させ、国境の死守を命じます。
しかし、義久は家康との戦いを決意したわけではありませんでした。
10月10日、井伊直政から薩摩へ使者が送られています。
義久に上洛を催促した書状です。
家康にとっても、薩摩出兵は時間と莫大な戦費がかかります。
義久を上洛させ、謝罪させれば、戦わずして支配下におけます。

義久は・・・
「遠国のため、ご無沙汰しております。
 義弘から事情は聴きましたが、義弘自身、西軍のたくらみなど知らなかったようです。
 家康様も、御承知のように秀頼さまに忠節を尽くすべき誓紙を入れており、君臣の道忍び難く、それに従ったまでということです。」

と、謝罪の言葉は一切ありませんでした。

義久は、戦の準備をしながらも、東軍に対し、自らの兵力を動かすことはありませんでした。
さらに家康との書状のやり取りは続きます。

国境にある東軍勢力のために上洛できないとか、老衰のために体の自由が利かないとか、ありとあらゆる理由をつけて、上洛を拒みました。
その交渉のさ中・・・不可解な事件が起こっています。
1601年5月、明の商船が消息を絶ちました。
島津家のお抱え商人・伊丹屋の仕業とされています。
しかし・・・2隻・・・300人が跡形もなく殲滅されてしまう・・・??
そのためには、兵力は1,000人はいなければならない・・・!!
伊丹屋が、明船を襲ったのであれば、義久の思惑の中で活動したとしか考えられないのです。
明船襲撃の黒幕は義久・・・??

関ケ原以降、国内覇権を確立しようとしていた家康にとって、秀吉の朝鮮出兵以降断絶していた明との国交回復は悲願でした。
国内需要の高い、明の銅銭や生糸などが手にはいる貿易は、多額の富を生み出すこととなります。
後に家康は、朱印船制度を創設し、海外貿易を盛んに行います。
交易ルートにあたる薩摩が、日明貿易のカギを握っていたことは言うまでもありません。
明船襲撃は、義久の家康に対するアピールだったのでは・・・??
家康に対して、このような事件が今後も続くぞ・・・!!と。。。
そうなれば、東シナ海の安寧秩序は永久に訪れません。
天下を目指す家康にとって、これ以上薩摩と対立することに異はありません。

1602年12月、家康は島津の本領安堵を確約しました。
義久の後継者として島津忠恒が上洛し、家康に謁見。
家康は義弘が西軍に参加したことを赦免し、領国を安堵することを認めました。
関ケ原の戦いから2年・・・西軍のうち全領土を安堵されたのは、島津家のみでした。

関ケ原の戦い以降、薩摩は江戸幕府に対し、独立の気風を保ち続けます。
関所では厳しく検査・・・野間之関から熊本県の水俣まで、無人地帯となっていました。
噂では、胡乱な者が見つかった場合、わざと通して切り殺したといわれています。
江戸時代を通じ、この閉鎖性は独自の気風を生み、一筋縄ではいかないものとなっていきます。
鹿児島では関ケ原での退き口をテーマにした行事があります。
妙円寺詣り・・・これには、若き日の西郷隆盛や大久保利通も参加しています。
幕末、新しい時代を切り開いた薩摩藩・・・その原点となったのが関ケ原の戦いで退き口を成功させた弟・義弘と、老練な交渉で家康を翻弄した兄・義久の二人の決断でした。




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関ケ原古戦場の後編です。
家康はどうして関ヶ原の合戦に勝利して、天下を取れたのでしょうか?
そして、西軍から見た関ケ原はどんなものだったのでしょうか?


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関ケ原ウォーランドは、関ヶ原の戦いを200対以上のコンクリート像で再現してくれています。

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関ケ原合戦屏風に書かれている”伍”の旗指物をさし、戦場を駆け回っている武将・・・
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この武将たちは、使番。戦場での記録、伝令・・・所謂スコアラー監視係です。
伍=仲間ということで、この者を襲うことは禁じられていたといいます。



不破関は、古代三関のひとつで、壬申の乱の時に、大友皇子と大海皇子が天下分け目をしたのち、関所を置いた場所です。

この関所より東を関東、西を関西と呼ぶようになりました。

開戦から6時間後の午後2時・・・小早川軍の裏切りによって西軍が敗走する中、最後まで戦った島津義弘の兵・300人は・・・退却として、敵中突破を試みます。

敵は4、5万・・・しかし、見事敵中突破に成功します。
あまりの島津の勢いに怖気づいたと言います。

敵ながらあっぱれ!!by福島正則

追撃される島津・・・義弘を守るために、全員討ち死に覚悟の陣で奮戦します。
必至の作戦で、討ち死にしながらも島津義弘を守り続けます。
井伊直政・本多忠勝・松平忠吉が負傷・・・
2時間余りの激闘でした。
追撃中止・・・!!!
島津隊が薩摩に帰ったのが2週間後、わずか80人となっていました。

西軍の英雄は・・・
小早川が裏切らないように見張っていたのが大谷吉継。
若宮八幡神社。。。に陣はありました。
そこからは松尾山・・・小早川の陣を望むことができます。
小早川を牽制していたのです。
小早川の裏切りによって、総崩れとなっていく西軍・・・
その中にあって大谷隊は、わずか2000の兵で15000の兵を3回も押し返したと言います。
しかし、この山の中で大谷吉継自刃・・・享年42歳でした。

大谷吉継の墓は、関ヶ原の中で一番の人気スポットだそうです。

どうして吉継のことが好きなのか???
三成からの挙兵の要請を受け・・・
しかし、無謀であると説き続けます。
耳を貸さない三成に・・・死を覚悟し・・・病をおして死に装束で参加した戦いでした。
負けると解っていても戦わなければならない・・・。

大谷吉継を解釈したのは湯浅五助。
五助は吉継の首を埋めているところを見つかって・・・
しかし、自分の首を差し出すので主君・吉継の首を埋めさせてほしいと懇願しました。
藤堂仁右衛門は、その言葉に感動し、秘密を誰にも語らなかったと言われています。
そして、家康もそこは追及しなかったそうです。
大谷吉継の墓は、関ヶ原合戦後藤堂家によって建てられました。

午後1時ごろ・・・西軍の敗北が決定的となる中・・・
三成の首を目がけてやって来ました。
最大の激戦地は笹尾山。。。攻め上がる東軍と守る西軍がぶつかりました。
笹尾山・・・相手の動きが一目で分かるとっても良い陣地です。

絶対有利の中・・・どうして三成は勝てなかったのか???

75歳で激動の生涯を閉じた家康・・・
遺言には・・・
「天下は一人の天下に非ず
        天下は天下の天下なり」

天下とは万民のものである・・・ということを書いています。それが家康が関ヶ原の戦いに勝てた原動力だったのかも知れません。

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