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大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:島津義弘

決戦!関ヶ原 島津義弘編 丸に十文字【電子書籍】[ 矢野隆 ]

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1600年9月15日、日本を二分する大合戦・関ケ原の戦いがありました。
東西入り乱れて15万を越える闘いは、東軍・徳川家康の勝利で終わろうとしていました。
この時、家康には天下の道がはっきりと見えていたかもしれない・・・
そんな家康に立ちはだかったのは・・・西軍の薩摩軍です。
この時、薩摩軍を率いていたのは島津義弘。
前代未聞の先鋒に・・・
家康の本陣に向かい、退却のための突撃を始めました。
”島津の退き口”です。
島津隊は、井伊直政を負傷させ、家康の四男・忠吉にも被弾させ・・・退却といいながら、徳川に大きな打撃を与えました。
更に闘いの後・・・西軍の諸将が改易される中、東軍に屈せず家康を翻弄します。
その中心となったのが、義弘の兄・16代当主島津義久です。

1600年9月15日関ケ原・・・東西両軍15万に及ぶ戦国武者たちが関ケ原に布陣を終えたのが午前6時ごろ・・・
東軍率いる徳川家康の側近の記録には・・・小雨が降り、山間のためにきりが深く、30メートル先も見えない・・・とあります。
濃霧で敵の陣も見えず、戦場に不穏な静寂が満ちていました。
西軍に味方した薩摩軍は、北国街道を隔て、石田三成の傍に布陣。
薩摩軍を率いるのは島津義弘!!
生涯52度の合戦に臨み、鬼島津と恐れられていました。
この時義弘、齢66でした。
午前8時ごろ開戦!!
東軍7万、西軍8万以上・・・!!
一進一退の攻防が続く中、島津は兵を動かしませんでした。
それは、兵数が少なかったためだといわれています。
この時62万石の薩摩軍は僅か1,500。

宇喜多秀家・・・57.4万石・・・17,000
石田三成・・・・・19.4万石・・・・6,000
大谷吉継・・・・・・5万石・・・・・・1,500

島津は62万石を誇ったものの、他の西軍諸侯と比べると、極端に少なかったのです。
戦いの2か月前、義弘が国元に宛てた手紙には・・・
「軍勢がなく、何をしたところでうまくいかずに困っている。」とあり、兄に何度も援軍要請をしています。
しかし、国元にいる義弘の兄・16代当主・義久が断っています。
援軍を送ると、島津は西軍に参加したことになる・・・
もし、東軍が勝った場合・・・申し開きができない。
西軍に、独断で義弘が参加したのであれば、家は安泰だ・・・。

どうして島津は西軍に参加することになったのでしょうか?
石田三成が、打倒家康に立ち上がった時、義弘は僅かの兵を連れて上方にいました。
西軍の大軍勢が大坂に集中し・・・義弘は西軍に味方するよりほかなかったのです。
島津には、西軍に積極的に組する理由はなかったのです。
一方で、義弘の危機に、国元の薩摩武士の中には義弘の元へ駆けつける命知らずの猛者も・・・。
こうして薩摩軍は1500!!
関ケ原の戦いが始まり4時間・・・正午ごろ、一進一退から動き出しました。
松尾山に布陣した小早川の裏切り・・・!!
中山道に布陣した味方に突進し、この一撃で戦いは東軍有利に・・・!!
午後1時・・・混乱の中、西軍の敗走が始まりました。

この時、義弘が戦場を脱し大阪へ向かう選択は、西か南!!
西へのルートは中山道か北国街道で向かう。
東のルートは伊勢街道を南下して伊賀を抜け大坂を目指す。。。
義弘の手勢僅か1500!!目の前には敵の軍勢8万!!
どの道を選んで薩摩に帰るのか・・・??

中山道は敵となった小早川が道を塞ぎ、
北国街道は、西軍が撤退のために殺到!!
どのみち、敵を背に向けての退却は厳しい・・・。

南へ向かう・・・??
そのためには、目の前にある敵の大軍勢を蹴散らさなければならない・・・。
敵中を突破し、伊勢街道を南へ・・・至難の業だ。。。

寡兵をもって大敵を破る・・・
義弘は、九州の桶狭間と呼ばれた1572年の木崎原の戦いで、10倍の数の敵に勝利し、大将を討ち取ったこともある・・・
しかし、この時、自身の兵の8割を失う結果となっています。
中央突破の損害は計り知れない・・・。
関ケ原から薩摩までおよそ1000キロ・・・。
虎口から脱するためにはどうすればいいのか・・・??
一刻の猶予もならない!!
敵の大軍勢が迫る中、どのルートで退却するのか・・・??

僅かな人数では勝利するのは難しい・・・
老武者では西に退却しても、伊吹山を越えるのは困難・・・
義弘は、目の前の敵を蹴散らしながら、南へ退却します。
それも、最も猛勢な敵に向かって、前進退却!!
島津の退き口の始まりでした。
戦場で勢いがるのは、猛将・福島正則、家康本陣!!
どうして猛勢を選んだのでしょうか?
それは、意表を突くためでした。
それに、家康の近くでは鉄砲が使えない・・・
東軍である味方が討たれる可能性が高いのです。
島津勢に迫られた福島正則は、この意表をついた行動に道を譲りました。
島津兵を止めれば、自軍の損害も多大になると思ったようです。

それを見た家康は・・・
「島津は西国一の強将である。
 早く打ち破らなければ、味方の多くは討たれるであろう。」と。
この時、突破を食い止めようとしたのが、徳川四天王のひとり井伊直政!!
直政は、義弘を討てと、島津軍を追撃!!
しかし、島津の銃撃によって負傷・・・この傷が元で、2年後に亡くなることとなります。
直政を襲ったのは、「捨てがまり」という島津独特の戦法です。
義弘本隊を通した後、狙撃部隊が残り、敵を待ち受け攻撃!!
その間に義弘本隊は逃走!!
これを何度も繰り返し、敵との距離を稼ぐのです。
しかし、兵士たちにとっては決死の覚悟が求められる戦法でした。
関ケ原の戦場から南へ10キロ・・・大垣市上石津町には・・・
義弘の甥・島津豊久の墓が残っています。
義弘の身代わりとなって尽力し、命果てたようです。
家臣たちの命がけの犠牲で、義弘は敵の追撃を引き離すことができたのです。
辛くも敵の追撃から逃れた義弘軍・・・しかし、敗者となった者には落武者狩りが・・・!!
義弘はこれらの襲撃を切り抜け、伊勢街道を脇道に・・・堺へ・・・船で瀬戸内海を渡り、薩摩へ帰還したのは10月3日となっていました。
1500の兵のうち、帰ってこれたのは僅か80余り・・・。
しかし、この時、九州にいた軍勢が、薩摩の国境に迫っていました。

島津と家康との戦いの第二幕が始まりました。
1600年10月、加藤清正や黒田如水など東軍の大軍勢が国境まで押し寄せていました。
絶体絶命の危機・・・!!
この時、領国防衛の中心人物は、義弘の兄・第16代当主島津義久です。
合戦で有名な弟に対し、義久とは・・・??
東軍の軍勢が迫る中、兄弟の意見は真っ向からぶつかっていました。
退き口の後、兄の義久は一戦を交えようというものの、弟・義弘は、戦いになるとひとたまりもないと反対。
そのため、家中は二つに分かれてしまいました。
徳川と和睦すべきか、一戦交えるべきか・・・??

弟・義弘の意見。
国元にいる兄は、世間に疎すぎる・・・
三成は処刑され、西国諸藩も家康に下った・・・和睦しかない。
すでに支配者となった家康に・・・敗戦は必至。
おまけに島津家中は一枚岩ではない・・・
内部から反旗が翻るかも・・・??
和議を結んで内政に力を入れるべきでは・・・??

兄・義久の意見
義弘は政に疎い。
是が非でも徹底抗戦!!
はなから和睦すれば、家康になめられ、毛利の二の舞になる・・・。
関が原の戦いで、西軍の盟主となった毛利家・・・。
しかし、毛利は徳川と密約を交わしていました。
「毛利輝元に対しては粗略には扱わない・・・」にもかかわらず、毛利家は120万石から37万石に減封されてしまった。
義弘は、関ケ原の戦いで、薩摩の恐ろしさを見せつけたから、それを使わない手はない・・・。
万が一、家康が攻めて来ても、戦を長引かせることができれば・・・!!
当時薩摩には、強固な防衛システムがありました。
島津の居城・内城を取り囲むように、100以上の外城が配置されていました。
関ケ原の後、防衛拠点を増強していた島津・・・。
徳川に対する臨戦態勢を築いていました。

徳川との戦を回避して和睦するのか?
一戦交えるのか・・・??

東軍が迫る中、義久は弟・義弘に城を修築させ、国境の死守を命じます。
しかし、義久は家康との戦いを決意したわけではありませんでした。
10月10日、井伊直政から薩摩へ使者が送られています。
義久に上洛を催促した書状です。
家康にとっても、薩摩出兵は時間と莫大な戦費がかかります。
義久を上洛させ、謝罪させれば、戦わずして支配下におけます。

義久は・・・
「遠国のため、ご無沙汰しております。
 義弘から事情は聴きましたが、義弘自身、西軍のたくらみなど知らなかったようです。
 家康様も、御承知のように秀頼さまに忠節を尽くすべき誓紙を入れており、君臣の道忍び難く、それに従ったまでということです。」

と、謝罪の言葉は一切ありませんでした。

義久は、戦の準備をしながらも、東軍に対し、自らの兵力を動かすことはありませんでした。
さらに家康との書状のやり取りは続きます。

国境にある東軍勢力のために上洛できないとか、老衰のために体の自由が利かないとか、ありとあらゆる理由をつけて、上洛を拒みました。
その交渉のさ中・・・不可解な事件が起こっています。
1601年5月、明の商船が消息を絶ちました。
島津家のお抱え商人・伊丹屋の仕業とされています。
しかし・・・2隻・・・300人が跡形もなく殲滅されてしまう・・・??
そのためには、兵力は1,000人はいなければならない・・・!!
伊丹屋が、明船を襲ったのであれば、義久の思惑の中で活動したとしか考えられないのです。
明船襲撃の黒幕は義久・・・??

関ケ原以降、国内覇権を確立しようとしていた家康にとって、秀吉の朝鮮出兵以降断絶していた明との国交回復は悲願でした。
国内需要の高い、明の銅銭や生糸などが手にはいる貿易は、多額の富を生み出すこととなります。
後に家康は、朱印船制度を創設し、海外貿易を盛んに行います。
交易ルートにあたる薩摩が、日明貿易のカギを握っていたことは言うまでもありません。
明船襲撃は、義久の家康に対するアピールだったのでは・・・??
家康に対して、このような事件が今後も続くぞ・・・!!と。。。
そうなれば、東シナ海の安寧秩序は永久に訪れません。
天下を目指す家康にとって、これ以上薩摩と対立することに異はありません。

1602年12月、家康は島津の本領安堵を確約しました。
義久の後継者として島津忠恒が上洛し、家康に謁見。
家康は義弘が西軍に参加したことを赦免し、領国を安堵することを認めました。
関ケ原の戦いから2年・・・西軍のうち全領土を安堵されたのは、島津家のみでした。

関ケ原の戦い以降、薩摩は江戸幕府に対し、独立の気風を保ち続けます。
関所では厳しく検査・・・野間之関から熊本県の水俣まで、無人地帯となっていました。
噂では、胡乱な者が見つかった場合、わざと通して切り殺したといわれています。
江戸時代を通じ、この閉鎖性は独自の気風を生み、一筋縄ではいかないものとなっていきます。
鹿児島では関ケ原での退き口をテーマにした行事があります。
妙円寺詣り・・・これには、若き日の西郷隆盛や大久保利通も参加しています。
幕末、新しい時代を切り開いた薩摩藩・・・その原点となったのが関ケ原の戦いで退き口を成功させた弟・義弘と、老練な交渉で家康を翻弄した兄・義久の二人の決断でした。




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関ケ原古戦場の後編です。
家康はどうして関ヶ原の合戦に勝利して、天下を取れたのでしょうか?
そして、西軍から見た関ケ原はどんなものだったのでしょうか?


seki

関ケ原ウォーランドは、関ヶ原の戦いを200対以上のコンクリート像で再現してくれています。

seki2










関ケ原合戦屏風に書かれている”伍”の旗指物をさし、戦場を駆け回っている武将・・・
seki3



この武将たちは、使番。戦場での記録、伝令・・・所謂スコアラー監視係です。
伍=仲間ということで、この者を襲うことは禁じられていたといいます。



不破関は、古代三関のひとつで、壬申の乱の時に、大友皇子と大海皇子が天下分け目をしたのち、関所を置いた場所です。

この関所より東を関東、西を関西と呼ぶようになりました。

開戦から6時間後の午後2時・・・小早川軍の裏切りによって西軍が敗走する中、最後まで戦った島津義弘の兵・300人は・・・退却として、敵中突破を試みます。

敵は4、5万・・・しかし、見事敵中突破に成功します。
あまりの島津の勢いに怖気づいたと言います。

敵ながらあっぱれ!!by福島正則

追撃される島津・・・義弘を守るために、全員討ち死に覚悟の陣で奮戦します。
必至の作戦で、討ち死にしながらも島津義弘を守り続けます。
井伊直政・本多忠勝・松平忠吉が負傷・・・
2時間余りの激闘でした。
追撃中止・・・!!!
島津隊が薩摩に帰ったのが2週間後、わずか80人となっていました。

西軍の英雄は・・・
小早川が裏切らないように見張っていたのが大谷吉継。
若宮八幡神社。。。に陣はありました。
そこからは松尾山・・・小早川の陣を望むことができます。
小早川を牽制していたのです。
小早川の裏切りによって、総崩れとなっていく西軍・・・
その中にあって大谷隊は、わずか2000の兵で15000の兵を3回も押し返したと言います。
しかし、この山の中で大谷吉継自刃・・・享年42歳でした。

大谷吉継の墓は、関ヶ原の中で一番の人気スポットだそうです。

どうして吉継のことが好きなのか???
三成からの挙兵の要請を受け・・・
しかし、無謀であると説き続けます。
耳を貸さない三成に・・・死を覚悟し・・・病をおして死に装束で参加した戦いでした。
負けると解っていても戦わなければならない・・・。

大谷吉継を解釈したのは湯浅五助。
五助は吉継の首を埋めているところを見つかって・・・
しかし、自分の首を差し出すので主君・吉継の首を埋めさせてほしいと懇願しました。
藤堂仁右衛門は、その言葉に感動し、秘密を誰にも語らなかったと言われています。
そして、家康もそこは追及しなかったそうです。
大谷吉継の墓は、関ヶ原合戦後藤堂家によって建てられました。

午後1時ごろ・・・西軍の敗北が決定的となる中・・・
三成の首を目がけてやって来ました。
最大の激戦地は笹尾山。。。攻め上がる東軍と守る西軍がぶつかりました。
笹尾山・・・相手の動きが一目で分かるとっても良い陣地です。

絶対有利の中・・・どうして三成は勝てなかったのか???

75歳で激動の生涯を閉じた家康・・・
遺言には・・・
「天下は一人の天下に非ず
        天下は天下の天下なり」

天下とは万民のものである・・・ということを書いています。それが家康が関ヶ原の戦いに勝てた原動力だったのかも知れません。

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大名家の生き残り策・・・今回は、島津家です。
鹿児島・桜島の南を700年も治め続けた一族・・・それが島津家。
勇ましく豪胆な武の気風は鎌倉時代から受け継がれ、明治維新まで同じ地に君臨したという稀有な一族です。
しかし、平穏とは無縁の激動の700年でした。

猛将・島津義弘の敵中突破。
島津義久のVS家康の外交戦。
空前の危機に登場する史上最強のご隠居様・島津重豪。
幕末・・・島津斉彬・久光兄弟。。。
これらを実現させた行動力とは???

危機を乗り越えるたびに大きくなる島津家・・・
関ヶ原の戦いにおいて・・・東軍西軍合わせて17万人・・・日本中の名将・猛将が集まる中・・・
鳴り響いた名は、島津義弘。

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島津は西軍の敗北が決まりかけたころ・・・西軍の後方にいた義弘は・・・
西軍が敗走を始める中・・・敢えて敵のただ中に活路を見出し、死に物狂いで突撃したのでした。
義弘軍の錐のような鋭い進軍は、家康の本陣をかすめ・・・
本陣を脱出することに成功しました。
島津義弘奇跡の敵中突破です。その姿は、敵である東軍の武将までもが称えたと言われています。

勝者はあくまでも家康・・・
これに対抗したのが、義弘の兄・第16代当主島津義久。
弟とは正反対、関ヶ原で弟が援軍を要請したにもかかわらず、兄・義久は無視・・・
それは、島津家が中央政府とどのように接していこうとしているのか???
その考え方の違いにあったようです。
義久は、豊臣大名と言うよりもあくまで古い戦国大名のような体質=豊臣政権とは距離を置く。。。
義弘は、豊臣大名として生きていくこと=秀吉に奉仕することが島津家の生きる道・・・。
と、考えていたようです。
兄弟の立場の違いがありました。

徳川家康と島津義久の、関ヶ原の戦後交渉において・・・。
西軍についた理由について義久は・・・
「遠いところに住んでいる私たちは、西軍が家康さまに刃向うという企ても弟が参加していることさえ知りませんでした。」
と、義弘を桜島に蟄居させます。

この対応に家康は・・・
加藤重次・鍋島直茂・黒田如水・加藤清正・立花宗茂に島津の包囲を命令。
2万の兵を送ります。
義久は、城を増強し、徹底抗戦を図ります。
関ケ原に出さなかった・・・温存されていた兵力は島津3万軍。
睨み合います・・・。
そこで家康は、義久に上洛し謝罪するように要求しました。
しかし義久の返事は、「昨年からの病気が治らないので上洛できない」「旅費が足りません」というものでした。
どうしてこれだけ強気に出ることができたのでしょうか?
そこには、大陸に理解という島津家の国際戦略がありました。
中国・明との貿易です。
この明と島津のパイプは、家康にとってこの明貿易での利権は、魅力的なものでした。
島津に下手に手は出せなかったのです。
関ヶ原の戦いから1年半がたち・・・家康と義久の交渉は・・・
薩摩・大隅などもとの領地を安堵する・・・というものでした。
不可能と思われた西軍方の生き残りが実現したのでした。
薩摩を敵に回さない方がいい・・・家康の判断がそこにはありました。


元々島津家は鎌倉時代・・・元寇・蒙古襲来に対して大勢の武士が立ち向かったのですが・・・
その中に、島津家がありました。
宮崎県都城市にある荘園・島津荘・・・ここに源頼朝の御家人・惟宗忠久が任命されました。
ここに、島津忠久が誕生し、島津家が始まりました。
そして・・・薩摩・大隅・日向・・・と、南九州を治めることになります。
ここで重要なのは、薩摩半島の西・・・海を手に入れたことでした。

中国から青磁や白磁が・・・これらの品は、貴重品として大きな利を生むことになります。
坊津は明貿易の要に。。。
しかし、常に島津家が安泰であったわけではなく・・・14C~16Cは南九州では常に覇権争いが行われていました。
南北朝時代には、本家と分家が争い、分家が嫡流となります。
しかし、島津の名は残るのです。


江戸時代には・・・さまざまな気風が・・・
東郷示現流・・・この武の気流が特別な藩となっていきます。
その代表的なのが、外城制度。
他の藩では、城下町に武士を集めるのが主流の時代にあって、薩摩では外城制度・・・100以上の城を造り、その周りに武士を住まわせました。
薩摩全土に武の気風が浸透します。
他藩と比べると・・・
武士が圧倒的に多く、4人にひとりでした。

江戸時代には、パワフルで型破りな藩主が現れます。
第25代当主・島津重豪です。
外様大名として厳しい立場にあった島津家・・・
お手伝い普請では莫大な費用が必要になります。
薩摩にとって厳しかったのは、木曽川の堤防工事でした。
多くの人命を失い、藩の財政は大打撃を受けます。
江戸時代の後期、島津藩の赤字は500万両、3000億円に膨れ上がっていました。
慢性的な財政危機に藩のかじ取りを執ったのが、89歳まで生きた島津重豪です。
43歳で隠居をするも、その後も50年も実権を握った男です。

西洋文化の好きな重豪・・・
ローマ字の勉強、世界地図を作り、シーボルトと会見、オランダ語を堪能に使いこなします。
赤字を無くすために・・・徳川幕府との関係改善に努めます。
その為に、婚姻政策・・・
重豪の三女の婿が・・・なんと、11代将軍家茂となったことがきっかけでした。
将軍の義理の父となった重豪は・・・幕府の要職にあるものたちに娘を嫁がせます。
全国の有力者と親しくなることによって幕府での発言力を強化していったのです。
そして・・・お手伝い普請を無くそうとしますが・・・
これに異論を唱えたのが、重豪の息子・島津斉宣でした。
儒教を重んじる生真面目な斉宣。。。
婚姻政策などお金がかかるやり方では財政再建は困難・・・と、藩全体に質素倹約をし、幕府にもそのように進言しようとしました。
それが・・・参勤交代の15年免除だったのです。
江戸への行き来の莫大な費用の免除を願い出たのですが・・・
父・重豪は、幕府の機嫌を損ねるのはもってのほかと、家臣13人を切腹させ、100人以上を処分てしまいました。
息子を隠居に追いやり、孫を藩主に据えて自らが後見人となりました。
そして18年後・・・83歳の時に、財政再建を無名の役人に全権委任し・・・
借金500万両の返済、余剰金50万両を生み出せと申し付けます。
この命令を受けたのは、調所広郷。
そして・・・商人たちを集めて・・・借金を250年分割で支払うとします。
貿易の販路拡大、年10万両の利益を生むようになっていきます。
このお金が・・・後に幕末に活躍することになるのです。


幕末・・・ペリーが来航する少し前・・・
1844年に琉球に英米船が出現していました。
それに危機感を抱いていたのが薩摩・・・
薩摩の近海には、西欧列強の脅威がやって来ていたのです。
それが日本の脅威となります。
日本が混乱の時代を迎えたのでした。
この時の藩主は・・・第28代当主・島津斉彬。
造船業を起こし大砲をつくる・・・天下に先駆けようとしていました。
そして、政治活動でも・・・
挙国一致で国難にあたろうという幕府改革案でした。

斉彬は一橋慶喜と組んで幕府に働きかけます。
ところが・・・49歳・・・志半ばでこの世を去ってしまいました。
その意思を継いだのが、弟・久光。。。
兄は正室の子であるのに対し、久光は側室の子で五男・・・
ふたりの間でお家騒動もありました。
そんな因縁の中・・・兄の意思を継ぎます。

斉彬の死から3年・・・
久光がとったのは・・・薩摩から1000名の軍勢を連れて・・・1862年に世に言う卒兵上京を行います。
幕府に対する反逆行為ともとられかねない行動でした。
これにより一橋慶喜は、将軍後見人という重責に就任することになります。
しかし、この久光の行動が、反幕府勢力を刺激・・・武力を行使するようになります。
混乱が広まる中・・・挙国一致の夢は・・・。。。

そして、15代将軍に慶喜が・・・。
有力藩に力を与えるのではなく徳川主導の政治を行おうとする慶喜、島津が目障りになってきました。
1867年5月・・・京都で会議がありました。
将軍・慶喜と久光ら有力藩の代表が会議を持ったのです。
しかし・・・慶喜は得意の演説で久光らを翻弄、会議は歩み寄ることなく決裂してしまいました。
久光は・・・中央の政界から距離を置くようになります。

このままなら・・・薩摩は潰されかねない・・・。
この難局を突き破ったのが・・・西郷隆盛、大久保利通たちです。
無謀にも、幕府との戦争へ・・・
幕府を挑発して1868年1月戊辰戦争を起こします。
朝廷を味方につけて、明治新政府樹立へ!!!

薩摩と言う枠を超えて・・・日本そのものを再生させることになります。

借金の250年ローンは・・・延々と・・・明治4年まで続きます。
この時、廃藩置県が行われたからです。
土地の統治は藩から明治政府へ・・・
そして島津の700年にわたる統治も終わりを告げたのでした。
 

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