日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:島津重豪

斉彬に消された男―調所笑左衛門広郷

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地中海に面したフランスの都市トゥーロン。
ここに、興味深い絵が残されています。
水彩で描かれた南国の島・・・そこには琉球王国の大臣が・・・。
これらの絵が描かれたのは、1846年。
フランス海軍中尉によるものです。

この年、フランスは琉球に3隻の艦隊を派遣していました。
目的は、開国通商・・・。
アヘン戦争をきっかけに激化する東アジアの勢力争い・・・
その矛先が、終に日本に向かったのです。
この問題に真っ向から当たったのが、当時琉球を支配していた薩摩藩の家老・調所広郷でした。
圧倒的な武力で開国を迫るフランスの脅威。
頑なに鎖国を掲げる幕府・・・。
そんな中、調所は一世一代の賭けに出るのでした。
調所の命をかけた秘策とは・・・??

1776年鹿児島城下で下級武士の次男として誕生。
13歳で調所家の養子となりました。
調所家は祖父の代から茶道坊主を務めており、広郷も剃髪し、その道を選びました。
23歳で江戸に出府・・・奥茶道に・・・。
藩主を凌ぐ権力を持つ重豪の目に留まったとこは、広郷にとって大きな転機となりました。
1828年、武士に戻り、藩全体の財政改革を任されます。

その頃、薩摩藩は破産の危機に瀕していました。
幕府から命じられる治水工事などの莫大な負担。
島津家の姫君を将軍家に嫁がせる婚礼費用。
借金は膨らみ、500万両・・・今のお金にして2500億円を超える膨大なものとなっていました。

調所が財政改革の柱の一つにしたのが奄美大島の黒砂糖でした。
それまで島民に許されていた砂糖の売買を禁じ、生産量すべてを薩摩藩に納入させ、大坂商人を使って売りさばきます。
黒砂糖の利権を与える一方、大坂商人たちに債務返済に大幅な譲歩を迫ります。
元金千両に付き年4両返済、250年割賦という強引な条件を飲ませたのです。
そしてもう一つの切り札が・・・
北海道近海の昆布を富山を介して入手し、琉球を通じて清国に輸出していました。
この貿易を発展させようとしたのです。
薩摩藩は漢方薬の原料である薬種を輸入販売していました。
富山の売薬商から入手した昆布を琉球の交易船に積み、清国で販売し、薬種を仕入れ、日本の市場で売りさばいたのです。
当時、貴重な薬種の殆どは幕府でしたが、薩摩藩は琉球を通じて一部の薬種の輸入販売が許可されていました。
調所はこれに目をつけ、規制を越えた量、薬種を売買し、膨大な利益を生んだのです。

誰もがなしえなかった財政再建を実現し、50万両もの備蓄金を蓄えるに至った調所。
そんな調所の前に思いもよらないことが・・・。
1844年3月11日、一隻の軍艦が琉球に・・・フランス船アルクメール号です。
琉球王府に対して、開国通商を要求しました。

アヘン戦争で清国に圧勝したイギリスは、香港を割譲させ、東アジア貿易の拠点を手に入れていました。
中国市場で後れを取ったフランスは、琉球に狙いを定めたのです。
この要求は、琉球王府を動揺させます。
当時の琉球王府は薩摩の実効支配だけでなく、名目上は清国の柵封を受けた属国でした。
独自の通商など許される立場ではなかったのです。

琉球王府は、フランスの要求を必死に拒絶!!
我国は、金銀銅などの資源が乏しく、貿易には耐えられない・・・と。
しかし、船長はこれに応じず、再交渉の為大艦隊が来ると通告し立ち去りました。
薩摩へ急報・・・そのことは、幕府に伝えられました。
6月・・・調所はフランス船への対処を幕府と協議。
鎖国を掲げる幕府としては、フランスの要求を放置するわけにはいかない・・・
対応に当たったのは阿部正弘。
調所に、琉球への警備兵派遣を命じます。
調所も従い、100人ほどの兵を渡海させました。
一旦は鎖国に従った調所・・・しかし、この後、調所は薩摩を意外な方向へ導いていくのです。

1846年5月、3隻のフランス艦隊が琉球に来航。
フランス海軍提督ジャン・バティスト・ヤシーユ・・・自ら琉球に出向き、開国を迫ります。
ヤシーユは今後国も極秘にある計画を進めていました。
「琉球諸島は、日本とヨーロッパの中継地点になり得る
 那覇の仲買人を使って、我々が必要な商品を日本から輸入し、引き換えに日本の裕福な貴族が欲している品を輸出する」

セシーユの目的は、最終的に日本の開国通商でした。
琉球が拒否するので、一向に進展せず・・・。

セシーユ同様、通商への道を模索し始めていたのが、調所広郷でした。
背景には、財政再建の前途に兆し始めた暗い影が・・・
国内各地で砂糖生産が盛んになったことで、黒糖価格が下落。
もう一つの柱・・・唐物貿易も、密貿易の疑いを強める幕閣によって免許停止に・・・。
そんなタイミングで直面したフランスの通称要求・・・
拒絶策・・・和親通商策・・・どうする??

1846年5月25日江戸城・・・
調所は、老中・阿部正弘と対峙しています。
調所の選択は・・・

「琉球は、外藩である
 琉球に限定して、交易を許していただきたい。」by調所

調所が選んだのは、和親通商策でした。

「要求を拒絶すれば、フランスは清国と交渉して、勝手に交易を始める
 幕府としても、捨て置けず戦になる」と・・・。

調所の巧みな主張を、阿部は受け入れるほかありませんでした。
幕府は琉球を「異国」として薩摩に対策を一任。

まさに、調所の目論見通りの展開でした。
許しが出た4日後・・・6月12日、密命を言い含め、使者を国元に送ります。
その内容は・・・
琉球北部の運天港に商館を建て、薩摩が1,2万両の資金を準備し、日本の反物とフランス製品の交易をおこなうというものでした。
上手くいけば、御禁制の5種の唐物を紛れ込ませる・・・。
調所は、閉ざされられた唐物貿易をフランスとの貿易で打開しようと考えていたのです。
ところが、これに難色を示したのが、琉球でした。
日本の反物や金銀を貿易すれば、琉球には物産がないとしてフランスの要求を断ったことと食い違う・・・と主張したのです。
砂糖などは貢納として薩摩藩に吸収されていました。
貿易そのものを維持するだけの商品がない・・・それは、経済的な植民地になる可能性があったのです。
原料を収奪され、インドのように市場として編成をされる・・・。
貿易は無理だったのです。
さらに、フランスとの貿易が露見すれば、清国との貿易にも影響が出ると調所に脅しをかけます。
完全に調所の案は、暗礁に乗り上げてしまいました。
そして・・・調所の足元を揺るがしたのは・・・

1847年5月、阿部は島津斉彬とあっていました。
40を目前にした斉彬が、藩主の座を手に入れるために、藩の内情を幕府に漏らした可能性が出てきました。
調所が考えていた10万両規模の琉球を舞台にした中国との密貿易。
この実態を幕府に知られては困ります。
そして、琉球に派兵した軍隊の数を虚偽申告していました。

阿部との会見の直後、斉彬が薩摩に書簡を送っています。

”調所一派のありとあらゆる行動・・・とりわけ琉球の事情を 逐一探り出すように”
そして、事態は思わぬ結末に・・・
1848年12月19日、参勤交代で江戸に赴いた調所が藩邸で死去しました。
享年73歳でした。
吐血が見られたことから、死因は服毒自殺だと推定されています。
調所の死の背後に何があったのか・・・??
しかし、調所の突然の死によって、薩摩の秘密は闇へと葬られたのです。

調所の戦略構想は・・・
①財政立て直し
②農政改革 貿易で増収
③軍制改革
でした。

琉球は軍事力はないが外交力がありました。
琉球が清国を使って上手く立ち回ったのです。
幕府としても、大々的にフランスと開国通商すれば、他の国も・・・開国政策全面展開せざるを得なかったのでしょう。
ヨーロッパと直接貿易できる藩ができたら・・・
ナポレオン戦争のあとに開発された最新型の銃が薩摩に渡ることになります。
そこまで見据えて・・・調所は貿易を考えていたのかもしれません。

薩摩藩別邸・仙厳園・・・今も、島津斉彬が作らせた工場や反射炉跡が残っています。
藩主の座に就いた斉彬は、薩摩の近代化を強力に進めます。
その後、斉彬の薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通らが明治維新を成し遂げる中、調所は不当に貶められてきました。
調所家は家格を下げられ、家禄や屋敷も召し上げられました。
鹿児島に有志によって調所広郷の像が建立されたのは、僅か20年前のことです。

島津家の墓所・福昌寺跡・・・調所広郷は現在歴代藩主と共にここに祀られています。
遺骨は一時、東京に移されていましたが、平成13年、子孫の尽力によって、ここに分骨埋葬されるようになりました。

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明治維新はなぜ薩摩からはじまったのか

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明治維新の立役者の一人、西郷隆盛・・・
西郷が新しい国づくりに邁進できたのは、薩摩藩11代藩主・島津斉彬の存在があったからです。
斉彬がなくなった際には、西郷は死のうとしたといいます。
そこまでさせる島津斉彬とは・・・??

薩摩藩10代藩主・斉興の長男として江戸にある薩摩藩邸で生まれました。
母は、正室の弥姫・・・教養が深く、教育熱心で、乳母を置かずに育てました。
6歳の頃から中国の書物を声を出して読み、絵画、和歌などを母から厳しく教えられた斉彬は、やがて”二つビンタ”と呼ばれるようになります。
ビンタは薩摩弁で頭の事・・・まるで頭が二つあるかのようにいくつものことを同時に処理することができました。
その噂を聞いた幕府の重役たちは・・・
「薩摩のような外様ではなく、譜代大名であったら、幕府の重役として活躍できたであろうに・・・」と、言ったといいます。

しかし・・・40歳を過ぎても藩主にはなれませんでした。
それは、父・斉興がなかなか家督を譲らなかったからです。
斉興は、19歳で藩主となったものの、実権は曽祖父・重豪が握っており、業興が名実ともに藩主となったのは重豪が亡くなってからなのです。
斉興は43歳、斉彬は25歳になっていました。
ようやく藩の実権を握ったものの・・・待っていたのは厳しい財政難でした。
その原因は、重豪でした。
重豪は、オランダ語を話し、歴代のオランダ商館長とも親交を結ぶなど、西洋の学問である蘭学や文化にひどく傾倒し、蘭癖と呼ばれていました。
そこには、薩摩藩の置かれた環境がありました。
全国300あまりある藩の中で、特異な薩摩藩・・・
薩摩藩は、薩摩国・大隅国・日向国諸県郡・琉球王国・・・つまり、現在の鹿児島県・沖縄県・宮崎県の1/3・・・南北1200キロにわたっていました。
おまけに、琉球王国は、名目上中国の支配下の異国・・・藩の中に外国があって、中国貿易が行われている・・・
海外からの物資、情報、文化が次々と入ってきていたのです。
蘭癖大名と呼ばれた重豪は、オランダ、中国などの知識を吸収し画期的な開化政策を打ち出しながら、金に糸目はつけない・・・新しいものや珍しいものを次々と収集します。
藩校である造士館、天文観測施設の天文館を建設し、藩の財政を圧迫していきます。
一時は500万両・・・今の5000億円の借金を抱えていたといいます。
その莫大な借金を返済して、藩の財政を立て直すことが急務でした。
そこで斉興は、幕府の鎖国政策を無視し、琉球を通しての密貿易、抜け荷の拡大で財政の立て直しを図っていきます。
その努力の結果、10年後には50万両の備蓄ができるようになりました。
しかし・・・斉興は斉彬に家督を譲ろうとはしません。
というのも、斉彬は曽祖父・重豪にとてもかわいがられていました。
重豪が斉彬に与えた影響はとても大きかったのです。

斉彬は重豪の蘭癖を受け継いでいました。
多くの蘭学者を優遇し洋書を翻訳させたり、自らローマ字で日記を書いたり・・・蘭学に熱中。
曽祖父と同じく蘭癖と呼ばれるようになるのです。
なので、藩の財政を揺るがす・・・そう考えていた斉興は、斉彬に家督を譲ろうとはしませんでした。
父に疎まれるほどだった斉彬の蘭癖でした。

19世紀半ば、西欧列強が東アジアに進出・・・
アヘン戦争では、東アジア最強と目されていた清がイギリスに負けて開国を余儀なくされてしまいます。
琉球にもフランス船やイギリス船が度々来航。
軍事力をちらつかせながら、通商を迫ってきました。
幕府は薩摩藩に、琉球へ兵を派遣し守るように命じますが、斉興は少数の兵を派遣しただけで幕府には指示通りに送ったと報告していました。
西欧列強が相手では、琉球どころか薩摩藩さえもあぶないと判断し、日本と西欧列強を差を埋めるべく藩の軍事力を強化しようとしました。
武器などの近代化、工業化を進めていきます。
ところが、父・斉興のやり方に斉彬は反対・・・
より近代化を進めようとしますが、藩の財政への圧迫を恐れこれ以上はしないという斉興と対立するのです。
十分対策を取っていると思っている父・・・しかし、斉彬は薩摩だけでは太刀打ちできないと、幕府や他藩と連絡を取り合いましたが・・・父・斉興にとっては、藩の秘密さえも守れない斉彬だと思っていたのです。
家督を譲ることは出来ない・・・

他にも家督を譲らない理由としては、朝廷から与えられる官位です。
薩摩藩主は、四位止まりでしたが、財政再建をさせた斉興は従三位をもらえるのではないか?と、期待していました。
そのため、官位を受けるまでは財政を悪化させる恐れのある斉彬に家督を譲ることはできなかったのです。

父との確執のために、30を超えても藩主になれない斉彬ですが・・・跡継ぎである事には変わらず、江戸の薩摩藩邸に詰めていました。
そんな中、父・斉興の行動が波紋を呼びます。
参勤交代で薩摩を留守にするときは、斉彬の弟・久光に任せることにしたのです。
斉彬の藩主を望む藩士たちは、弟の久光が藩主となるのでは??と勘繰ります。
そして、影で操るのが斉興側室のお遊羅の方だと・・・
そのさなか、斉彬の息子二人が相次いで病死・・・斉彬の家臣たちは、お遊羅の方の呪いではないか?と噂始めました。
実際に、呪符が見つかっていました・・・が・・・これは・・・斉興が琉球にやってきた外国の銀貨を呪符で包んで呪ったものでした。
すべては勘違いでしたが・・・早合点した斉彬派の家臣たちは・・・
「このままでは、斉彬も呪い殺されてしまう!!」と、お遊羅の方の暗殺計画を立てます。
ところが・・・お遊羅の方を愛する斉興が激怒!!
1849年斉彬派を処罰!!
12人を切腹、38人を磔や島流しになどの刑に処しました。
父との対立は深まる・・・??
しかし、このお家騒動が幕府の耳に入り・・・1851年斉興が隠居届を提出。
斉彬はようやく11代藩主となったのでした。
この時、すでに43歳でした。

西欧列強に対抗する為に、軍備の強化、近代化を図っていく島津斉彬。
それは、鎖国体制の日本にあって先駆的なものでした。

◎洋式船の建造
当時、日本にやってきていた西欧列強の巨大な船は、鉄製で、蒸気で動き、大砲を何本も装備していました。
対して日本の船は、幕府によって”大船建造禁止令”が出され、大きくても米を500石積めるだけの船しか作ることができず、大砲も積めませんでした。
戦国時代さながらの船だったのです。
斉彬は、外圧に晒される今、大型船の必要性を思っていました。
ペリーが浦賀に現れ・・・幕閣もついに西洋の脅威に気付きます。
斉彬はこの機を逃さず、幕府に大型船の建造の解禁を願い出て、これを認めさせたのです。
そして、西洋船の西欧に着手・・・全長30m、砲16門を搭載する西洋式の軍艦・昇平丸を作ります。
その後も、大型船を作り、日本初の蒸気船・雲行丸を作らせています。

◎鉄製大砲の鋳造
島津家の歴史を語る尚古集成館にも、斉彬の近代化の痕跡が・・・反射炉跡です。
ここで、鉄の大砲を作るために作られたもので、基礎部分が残っています。
斉彬は丈夫な大砲を作ろうとしましたが・・・当時、その知識・技術は日本にはなく、作るのに大変な苦労がありました。
すでに反射炉を成功させていた佐賀藩からオランダの書物を取り寄せ研究を開始、西洋式反射炉の制作に取り掛かります。
失敗を繰り返し・・・日本の技術を応用し、苦労をする家臣たち・・・

「西欧人も人なり
 佐賀人も人なり
 薩摩人も同じく人なり
 退屈せず、ますます研究すべし」

と言って励ましたといいます。
藩士たちは奮起し、意地と努力で1857年反射炉を完成させます。
併せて日本初の溶鉱炉も建設、鉄の大砲の鋳造に成功するのです。
斉彬は他にも、ガラス工場や蒸気機関研究所を設け・・・そうした工場群を集成館と名付けました。
最盛期には、1200人もの人が働いていたといいます。
2015年、集成館は歴史的価値のある工場群として世界遺産に登録されました。
独自の近代化を進めた斉彬の功績が世界に認められたのです。

日本を守るために、軍備の近代化を進める斉彬ですが・・・
「第一人和」日本を守るためには、人の和は城となる・・・人の和を生み出すのは人々に豊かな生活を保障すること・・・を目指していました。
紡績、ガラス、出版、酒造りなどの産業を育成しました。

中でも薩摩切子という新しい工芸品を生み出します。
それは、西洋でも難しいとされていた技術でした。
斉彬は外国に輸出することを考えていたようです。
薩摩焼も、外国人好みに変えろと命令しています。
1867年のパリ万博では好評で、薩摩焼が大量に輸出されました。
薩摩切子も外国に出ることを夢見ていました。
日本初のガス灯の実験もしていました。

城下をガス灯で照らそうと考えていたのです。
研究と実験をかさね、次々と近代産業を立ち上げていった斉彬ですが・・・持てる技術と知識を幕府や他藩に教え、視察も喜んで受け入れています。
そこには、”日本一致一体”の精神がありました。
日本の挙国一致体制を思ってのことでした。

人材育成にも長けていた斉彬は・・・
「付和雷同で意見を持たぬもの、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない」と言っていました。
偏屈な男こそ、国の宝である・・・と。
そこで、取り立てられた若者は、藩の中心人物となっていきます。
激動の時代・・・非常事態に対応し、日本を背負っていきます。
西郷隆盛もその一人でした。
斉彬は、下級藩士だった西郷を初めて知ったのは、大量に送られてきた建白書によってでした。
当時、薩摩藩の郡方書役助だった西郷は、農家や村を指導監督する中で、農民などが重い年貢で困窮していることを知ります。
そこで、その改善策と共に、悪政を訴えた建白書を何度も斉彬に提出します。
斉彬はこれを高く評価し、藩主として江戸にのぼる際に、西郷を庭方役に抜擢し、江戸に連れて行きます。
庭方役とは、藩主の用事を庭先で聞く役職で、西郷を諸藩との重要な連絡や情報収集に当たらせるなど、信頼していました。
人脈や政治的視野が広がったことで、西郷は、明治維新の立役者となるのです。

当時、幕府内では将軍の後継問題が勃発・・・
家定は体が弱く、跡継ぎを望めなかったので、次期将軍の決定が急務となっていました。
候補は二人・・・一人は紀州藩主・徳川慶福、もう一人は、一橋慶喜でした。
慶福を推したのは、譜代大名の井伊直弼らで、慶喜を推したのが阿部正弘で・・・斉彬は一橋派でした。
次期将軍を決めるのに際し、大奥の力が大きく働くことを知っていた斉彬は、篤姫を将軍に嫁がせて慶喜擁立を有利にしようと画策したのでは??と言われています。
が・・・この縁談話は、家定が将軍となる3年前に持ち上がったものでした。
将軍の世継ぎであった家定は、公家の娘を2度正室に迎えていましたが、共に死別・・・。
次は武家から迎えたいと考えていました。
そこで白羽の矢が立ったのが島津家でした。
というのも、前例があったからです。
11代将軍が正室に迎えたのが、重豪の娘・茂姫で、その後、家斉は将軍在位50年、正室と側室との間に53人もの子を設けました。
子の出来なかった家定も、薩摩から正室を迎えれば、死別せずに子宝に恵まれるのでは??と思われました。
つまり、斉彬は、幕府の要請で篤姫を養女とし、将軍に嫁がせることにしたので、後継問題とは関係ありませんでした。
どうして、利用したといわれたのでしょうか??
篤姫の輿入れは、1850年に申し込まれたものの・・・
黒船来航、江戸での大地震・・・と、実現するまでに6年もかかってしまいました。
そして・・・その頃、継承問題が出てきたから言われるようになってしまいました。
家定に輿入れして1年・・・世継ぎは生まれません。
斉彬が動いたのはこの時でした。
信頼していた西郷を江戸詰めとし、諸藩との連絡係にし、慶喜の将軍擁立を画策!!
しかし、1858年、南紀派の井伊直弼が大老となり、その権限で慶福が14代将軍・家茂になります。
斉彬は再び動きます。
薩摩の兵を率いて、京に上るために西郷に準備を命令させます。
その動きは、斉彬が朝廷を武力で動かし、慶喜を将軍に差せようとしたのでは?と、考えられますが・・・
西欧列強の脅威にさらされている今、国内で争っている場合ではない!!
斉彬の行動には、常に日本の未来を見据えた大局的な視点がありました。
まもなく・・・斉彬が病に・・・。
弟・久光らを呼んで遺言を伝えます。
自分の跡継ぎは・・・息子がまだ小さいので、久光か、久光の長男・忠義に・・・と。

1858年7月16日、島津斉彬死去。
50歳の生涯でした。
明治という新しい時代を見ることなく・・・
斉彬亡き後、忠義が薩摩藩12代藩主となります。
久光は後見役に・・・斉彬の遺志を継ぎ、藩士たちと共に幕末から明治維新にかけての薩摩藩をけん引していきます。
彼等が目指したのは、”順聖院様御深志”・・・斉彬の遺志の実現でした。
それは、挙国一致体制を築き、日本を西欧列強の植民地とされないような国にすることでした。
斉彬の遺志と夢を実現するという共通の夢を持っていたからこそ、薩摩藩士は分裂することなく明治維新での重責を担っていくこととなるのです。
西郷隆盛は、中心人物として廃藩置県、警察制度に関わり、近代国家の礎を作りました。
同じように大久保利通は、富国強兵を明治維新のスローガンとし、殖産興業政策を推進。
富岡製糸場などの官営模範工場を各地に作り、近代産業の育成に尽力しました。
明治維新によって近代国家となった日本・・・斉彬の遺志を継いだ明治政府の高官たちによって、富国強兵策が全国展開し、日本は強く豊かになっていきます。
斉彬は近代日本のプランナーだったのです。

勝海舟は言っています。

「維新の折、薩摩から人材が多く出たのは、斉彬の教育感化によるものである」と。

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時は風雲急を告げる幕末!!
西郷隆盛や大久保利通、大改革を担った逸材を生んだ薩摩藩の人材力!!
欧米列強と互角に渡り合った軍事力と外交力!!
あらゆる能力に抜きんでた薩摩藩は、江戸幕府の幕引きという大改革を成し遂げていきます。
どうしてそんなことができたのでしょうか?

鹿児島市にある照国神社・・・この神社は、薩摩藩の活躍を導いたある人物を祀るためにつくられました。
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬公です。
その死後、孝明天皇により照国大明神という名をもらい、この地に祀られました。
国を照らすとまで言われた島津斉彬・・・
どんな人物だったのでしょうか?

島津斉彬は、江戸の薩摩藩邸で生まれました。
薩摩藩の未来の藩主として青年時代を送りました。
斉彬の人となりは・・・

”色が黒く、体格はお背が高く、横張りの頑丈なお方で、お正月のはじめなど
 「おめでとう」と、隅々まで通る大きな声で仰せられたものである。
 まことに威風堂々たるものであった”

人柄は穏やかで頭脳明晰、会えば雷に打たれたような印象を与えた斉彬・・・
斉彬が、日本の将来に強い危機感を抱く事件が中国で発生します。
アヘン戦争です。
イギリス軍の圧倒的な軍事力を前に、清が屈服したという知らせに、斉彬は衝撃を受けました。
斉彬自身がまとめた「清国阿片戦争 始末に関する聞書」では・・・
貿易を強引に要求し、相手国を植民地化する脅威を察知したことがわかります。

1851年、43歳で藩主となった斉彬は、すぐさま行動に出ます。
尚古集成館には、斉彬が取り組んだ大砲が再現されています。
それまでの大砲は、青銅で作られていました。
斉彬は、銅よりも安く強度の高い次世代の武器・・・鉄製の武器に取り掛かります。
そして、この鉄製の大砲が、飽くなき探求心の始まりでした。
青銅に比べて、鉄は高い温度で溶かさなければなりません。
青銅の大砲よりも高度な技術が必要でした。
オランダから反射炉を使った鉄の大砲づくりが導入されることとなります。
衝撃や熱に耐える良質の鉄を造ることができます。

佐賀藩の専門書を頼りに見たことのない反射炉の製作に取り掛かります。
失敗の連続の末に・・・5年の歳月をかけて反射炉が完成!!
斉彬は、溶鉱炉や鑚開台を作らせます。
大砲づくりのコンビナートを作ったのです。

斉彬の目標は、大砲だけでなく、西洋式の軍艦の建造。
貴重な情報源は、中浜万次郎・・・ジョン万次郎でした。
小型の様式帆船を建造し、それを発展させ、大砲を備えた日本初の大型軍艦「昇平丸」を作りました。

蒸気の力を動力とする蒸気機関は、当時の最新技術でした。
その開発に成功し、日本初の蒸気船を完成させます。
”薩摩の火だるま船”と、呼ばれ、ペリーの来た直後には完成していました。
斉彬が開発に成功したのは、ペリー来航からわずか2年後だったのです。
薩摩の技術力には驚かされるばかりです。

更に斉彬が取り組んだのが・・・「薩摩切子」・・・カットグラスです。
薩摩独自の産業にも力を入れた斉彬は、貿易による国力増強も考えていました。
軍備の強化だけではなく、人々の生活を豊かにする・・・富国強兵・殖産興業の先駆けだったのです。

未曽有の外圧を前に斉彬は・・・

「幕府も、諸大名も、これまでの一国一群単位の意識では、欧米の脅威から日本を守ることはできない。
 日本一致一体となって一応に高性能の軍備を備えて初めて、本当の防備が出来るというものだ」

西欧列強の脅威にオールジャパンで対対応していくことを提言した斉彬・・・そのキーワードが「日本一致一体」でした。
この後、どのようにこれを実現していくか・・・??薩摩藩の幕末は動き出したのでした。


16世紀後半のアジアの地図・・・
日本が曖昧な形の時代に、Cangoxina(鹿児島)が書かれています。
薩摩藩は、中世以来、交易の門戸を開き続けてきた海洋国家でした。
江戸時代を通じ、琉球王朝(沖縄)を統制下におき、鎖国の時代に、莫大な貿易の利益を得ていました。
鹿児島県日置市美山、薩摩焼の郷。
薩摩焼のルーツは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、島津家が優れた陶工を鹿児島に連れて帰ったことに始まります。
そこに、海洋国家薩摩藩の知られざる姿がありました。
他の藩も陶工を連れて来たものの日本人にしてしまいました。
しかし、薩摩藩は、朝鮮人技術者のみならず、彼らの言語を保護し、一カ所に住まわせ、朝鮮名を名乗らせ、朝鮮語を喋らせる・・・「リトルコリア」・・・保護区を作ったのです。
江戸時代を通じ、薩摩藩は鹿児島の朝鮮人陶工たちに髪型や朝鮮の言葉を使い続けることを許しました。
密貿易で薩摩にやってくる商人たちを、漂流民として扱い、幕府に報告していました。
そこに、海洋国家の薩摩のしたたかさがありました。
薩摩の人が船の修理のお代にもらった高麗人参は、富山の薬売りに高く売れました。
代わりに仕入れるのは、北海道産の昆布でした。
それを選別として朝鮮に渡し・・・彼らも地元に戻ってこの高級品を売りました。
広大な海の交易圏の中心に薩摩があったのです。
幕府に極秘に行われた密貿易・・・
それは、物資だけでなく、大陸からもたらされる最新の国際情勢や、技術、文化をいち早く入手することを可能にしました。
この海洋国家としてのDNAが、代々国際性豊かなリーダーを作り上げていくのです。

中でも・・・蘭癖大名・・・島津重豪。
ローマ字を書く重豪は、学問を重視し、天文館を設置、百科事典や辞書、世界地図を作成させ、文化力向上に努めました。
そんな重豪から将来を託されたのがひ孫の斉彬でした。
斉彬は18歳の時、重豪に連れられてオランダ商館付きの医師・シーボルトと面会・・・世界を見つめる目を茶しなっていきます。
斉彬もローマ字をマスターし、海の向こうの未知の文明を全身で学び取ろうとしました。
はるか中世から続く、海洋国家としてのDNA・・・それが、東アジアの小さな島国・日本の危機を見抜いた名君・島津斉彬をうんだのです。


寺島宗則(松木弘安)
鹿児島の中心・・・鹿児島中央駅前の銅像・・・タイトルは「若き薩摩の群像」
激動の時代に密かにイギリスに渡った薩摩の17人の留学生を顕彰しています。
メンバーの一人は、五代友厚・・・後に、大阪経済界を代表する実業家となります。
明治政府の初代文部大臣・森有礼。
なかでも名君・斉彬ととりわけ深いかかわりを持っていたのが、寺島宗則です。
明治の条約交渉で、日本外交に大きな功績を残した政治家でした。

元の名は、松木弘安。1832年に生まれ、優れた蘭方医の養父に育ちます。
語学力に優れた薩摩きっての秀才でした。
彼の力は藩も認め、医学の修行や最先端の蘭学にかかる費用は、全て藩が負担したといいます。
マルチな才能を持っていた松木弘安・・・蘭学、医学、文学、化学、物理学、天文学・・・語学の天才で、オランダ語が凄くできました。
期待したのは斉彬・・・。
オランダ語の翻訳から、反射炉の実験、蒸気機関の設計に至るまで、集成館に必要な技術の研究と実用化くぉ松木に一任しました。
期待に次々とこたえていく松木は、島津家別邸仙巌園では、庭園の石灯篭に石炭から精製したガスを使用しガス灯をともすことに成功・・・明治にガス灯が作られる15年も前の事です。

また、絹糸を巻いた電線を鶴丸城から庭園探勝円まで引き、550mの距離で電気通信に成功。
松木は日本の電気通信の父と称えられました。
写真術の研究にも没頭し、松木の飽くなき探求心に応え、斉彬は次々にミッションを与えていきます。
薩摩藩の近代化の夢に邁進していく二人がいました。
ところが・・・1858年7月16日島津斉彬死去。
大砲教練を視察した日に・・・50歳での突然の死でした。
藩主として7年・・・その悲報に、斉彬の薫陶を受けた者たちは涙しました。
松木は勉学を続けます。
開港したばかりの横浜で、外交文書の翻訳に従事しながら、斉彬の志を・・・西洋を研究していきます。
すると、その努力が認められ、幕府のヨーロッパ使節団の一員に選ばれます。
日本の未来を担う有能な存在を幕府がリストアップし、松木は海外諸国を歴訪する初めての薩摩藩士として参加します。
時に1861年、松木弘安30歳でした。
その中で松木を驚かせたのが、産業革命後高度な文明のイギリスでした。

「このヨーロッパ巡視の中で初めて知ったことがあります。
 オランダ国外に出れば、オランダ語を知る人は一人もおらず、
 イギリス、ドイツ、フランスに比べれば、百分の一以下の国でした。
 日本に戻ったのち、もはや蘭学を教える意味はないと思います。」by弘安

松木の視線は、オランダからイギリスに移っていきました。
斉彬の遺志を継ぎ、松木はヨーロッパを巡り、世界の中で日本の進む道を考える・・・
そして・・・それが、薩摩藩の窮地を救うこととなっていきます。


1862年松木がヨーロッパ視察から帰国・・・この年を境に、薩摩藩の藩の存亡の危機に・・・!!
この難局をいかにして乗り切っていくのでしょうか?
ピンチで発揮される薩摩イズムとは・・・??
斉彬の死後、その遺志を継いだのは弟・久光でした。
そこに、薩摩藩最大の危機・・・生麦事件が・・・!!
1862年8月21日生麦事件。
江戸から鹿児島へと帰還する島津久光の大名行列に、不用意にも近づいてしまったイギリス人一行を、薩摩藩の警護役が迷いなく斬りつけました。
一人のイギリス人青年が、死亡・・・するとこれが大事件に・・・。
イギリス側が、幕府と薩摩に賠償を要求。
犯人の処刑も求める強硬姿勢にでます。
その時、誤った情報が薩摩に伝わります。
「イギリスは、久光の首の差出を求めている・・・」
薩摩とイギリスとの激突は必至・・・!!
この時、イギリスとの交渉に薩摩が頼みの綱としたのが、語学力に長け、海外経験のある松木弘安と五代友厚でした。
1863年6月27日・・・イギリス艦隊が鹿児島湾に現れます。
その4日後・・・一向に動かない薩摩にしびれを切らし、薩摩藩の汽船3隻を捕らえようとします。
その1隻に松木と五代が・・・!!
薩摩の船を守るために、抗議する松木!!
しかし、船は拿捕され、二人はイギリス軍に拘留。
それをきっかけに、砲撃を開始する薩摩でしたが、イギリスとの火力の差は歴然!!
砲台や集成館が破壊され、鹿児島城下は火の海となりました。
薩英戦争です。
想定外の戦闘となってしまったイギリスは横浜に帰還。
松木と五代は捕虜として連行されてしまいました。
その後、薩摩とイギリスとの関係は・・・
そこには、もう一人の薩摩藩士の活躍がありました。
横浜で行われた薩英戦争の賠償交渉・・・英国代理公使・ニールと相対したのは、薩摩藩士・重野厚之丞。
重野も、斉彬の薫陶を受けた学者肌の藩士で、後に久光の庭方役をしていた切れ者でした。
イギリスとの難しい交渉に驚くべき提案をしています。
賠償をするので、その代わりにイギリスから軍艦を購入します。
さらには、軍艦操縦法を教わりたいので、若者を留学させたい・・・。と。
なんと、重野は、賠償問題だけにせず、両国の通商交渉へと変換させたのです。
思いもよらない提案に、虚を突かれたイギリスは、もともと望んでいたのでこの提案を受け入れます。
相手の本心をついて事態を打開する・・・これこそ、究極の薩摩イズムでした。

重野の功績で、薩摩とイギリスとの関係は急接近していきます。
この交渉の結果、留学生として再び海を渡ったのが、捕虜となっていた松木でした。
松木は五代友厚らと共に、1865年3月22日・・・イギリスへと向かいます。
この留学で松木はある任務を帯びていました。イギリスと薩摩との間で貿易協定を結ぶこと・・・でした。

最初に面会したのが、英国下院議員・オリファントでした。
来日経験もある知日派で、日本に同情的でした。
オリファントは、はるばる海を渡ってきた松木に言っています。

「我がイギリスが、貿易条約を結ぶ時、両国お互いに利益があるというのは、表向きの挨拶にすぎません。
 その本心は、あなたの国をむさぼり尽すことにあります。
 兵器を使って戦うのではなく、貿易による知略が、弾丸となることを知らなくてはなりません。」

オリファントから教わった、国際貿易の本質・・・松木に日本のあるべき姿が見え始めていました。

「我が国が諸外国と並立していくためには、国家最上の主君の目を覚まし、一人の新生児のようにならなくてはならない。
 天皇の指揮のもと、我国が一体となって他国と友好関係を築かなければ、独立は難しい・・・」

それは、斉彬が唱えた日本一致一体の発展形・・・天皇による中央集権国家への変革構想でした。
そして、松木は英国外相・クラレンドンとの会談に持ち込みます。
日本の条約批准権を幕府から天皇に移す構想を語り、その協力を求めました。
幕府の下に薩摩があるのではないのです。
イギリスから薩摩に戻ると、イギリス公使・パークスの鹿児島訪問に列席。
通訳をしながら、薩摩と日本がとるべき外交の道を探り続けます。
その時、松木は故郷に浮かぶ小島にちなみ、寺島宗則と改名・・・日本の未来のために尽くす外交官としての道を歩み始めます。
斉彬の唱えた日本一致一体を胸に、寺島宗則は、日本外交のパイオニアとなっていくのです。

薩摩の武士の伝統は、野太刀自顕流です。
一撃必殺で相手を倒すのが極意です。
維新の原動力となった多くの英傑も、この剣術のけいこに汗を流しました。
同じ志を持った先輩、後輩たちが同じ道を進んで行く・・・郷中教育です。
「郷中」という地域ごとに成立した集団教育で、西郷隆盛の郷中には、大久保利通、大山巌、東郷平八郎、黒木為楨がいました。
同じ郷中出身の者は、強い結束で結ばれていました。
そして、二才という15~25歳の元、6歳からの稚児たちが文武両道をたたき込まれていきます。
中でも特徴的なのが「詮議」と呼ばれるケーススタディ・ディスカッションです。
例えばお題は・・・
「目の前に、主君の敵と親の敵が同時に現れたら、どちらから成敗するか?」
不測の事態に陥った時、どうやって対処していくのか?
実践的な思考を養う伝統が、薩摩の英傑たちを生み出していきます。

薩英戦争の翌年、京都で大事件が起こります。
1864年7月、禁門の変です。
過激な攘夷論を掲げる長州と、それを暴挙と見なす薩摩、会津の幕府連合軍が御所の前で激突しました。
長州藩は、薩摩の軍事力の前に惨敗・・・御所に向かって発砲したことで、朝敵の汚名を着せられました。
この時、幕府側の陣頭指揮を執ったのが、西郷隆盛です。
生前の斉彬の遺志を継ぐ、薩摩きっての戦略家でした。

幕府は、西郷に命じ・・・第1次長州征討!!
かくして、西郷は、歴史の表舞台に躍り出ました。
日本に内乱の危機をもたらした長州を許すわけにはいかない・・・!!
無謀に攘夷を叫び、内乱の火種をまき散らす長州・・・そんな長州を断固討ち果たす覚悟でいました。
が!!そんな考えを一変させる情報が・・・!!
「幕府が忌み嫌っているのは、薩摩と長州の勢いです。
 幕府の真の狙いは、ここで薩長両藩を戦わせ、その力を消耗させようというもの。
 先鋒を務めれば、薩摩の災いとなるのは必至、徳川の思うつぼとなるでしょう。」
情報に接した西郷は・・・幕府の本当の狙いは、長州だけでなく、薩摩の力を削ぐことであると判断します。
そう悟ると、強硬路線から、急遽、長州との戦争回避策に方向転換します。

しかし・・・いきり立っている長州をどう説得するのか・・・??
すると西郷が放った探索方から突破口な情報が・・・!!
岩国藩主の吉川経幹が、長州の過激派に反対、幕府に恭順すべきだと内部分裂を起こしているというものでした。
一計を案じる西郷・・・
西郷の交渉術①穏便派を懐柔
吉川を取り込んで長州の過激派に揺さぶりをかければ、幕府との衝突を避けられるのでは・・・??
長州の分裂に乗じた一か八かの賭けでした。

1864年11月、西郷は岩国・吉川経幹と会談
幕府との戦いを避けたければ、禁門の変の首謀者である三家老の切腹など幕府と朝廷への謝罪の意を示すことを要求・・・
その代わり、西郷は捕虜となった藩士の開放や、朝敵となった長州の汚名返上に薩摩が力を尽くすことを誓います。
すると、吉川は過激派の説得に向かいます。
西郷にはもう一つの難問がありました。
幕府が提示した長州を許す条件に、過激派の本拠地・下関に匿われていた三条実美ら攘夷派の公家らの身柄開放がありました。
しかし、それに反対したのが、奇兵隊をはじめとする長州の民兵組織諸隊でした。
彼らにとって攘夷派の公家たちは、自分たちを正当化する存在・・・
むざむざと引き渡すわけにはいきませんでした。

西郷の交渉術②命を懸けた直談判
すると西郷は、自ら下関に赴き、諸隊との直談判に・・・!!
今、無防備に長州に乗り込めば、命の保証はない・・・!!
周囲の反対を押し切って、密談に・・・諸隊の説得に向かいます。
相手の意表をついて、懐に飛び込んで、自分の命を投げ出すことのできる人でした。
西郷以外にはあり得ないやり方でした。
長州藩の説得に成功!!
1864年12月27日、幕府軍撤兵!!
幕府は長州の恭順に兵を引いたのでした。
ここに、第1次長州征討は、未然に収束しました。
この時、西郷は、交渉の窓口となった吉川に驚くべき交渉をしていました。

「天皇を疎んじる幕府の非情の仕打ちは、許しがたい。
 西国の諸藩連合結成の折は、是非とも長州にも参上願いたい。」by西郷

後の薩長同盟の伏線でした。
内乱の危機を防いだ西郷・・・苦虫を噛み潰すように見ていたのは、一橋慶喜でした。

「幕府軍は、薩摩の芋焼酎にひどく酔わされ、してやられた!!
 その焼酎の銘柄は大島(西郷)とかいうらしい・・・」by慶喜

京都・・・幕末の薩摩藩の活躍は、この地を抜きには語れません。
薩摩藩の底力を支えたのは・・・まずは・・・京都南にある伏見。
薩摩藩伏見屋敷は、篤姫が江戸に向かう途中滞在したことでも有名です。
寺田屋から逃げて来た龍馬が助けを求めた場所でもあります。
江戸時代、伏見は人や物資、情報の一大集積地でした。
伏見は、参勤交代の重要地点で、薩摩は琉球使節団を連れてやってきました。
異国情緒漂う行列は、京都の人々の注目を集めたといいます。
上洛のチャンスに存在感を示す・・・したたかな戦略です。

二つ目は、洛中にありました。
薩摩藩にとって幕末の一大拠点となったのは・・・久光が政治的に立ち回りやすいように作った屋敷です。
現在の同志社大学の敷地にあった京都二本松薩摩藩邸。
造営されたのは1862年で、京都における薩摩藩の政治活動を支えました。
当時、この周辺は武家屋敷はなく、公家の屋敷が並んでいました。
そんな場所に、どうやって広大な屋敷を構えることができたのでしょうか?
大名の京都における政治の条件は、京都における公家との関係にあります。
近衛と島津・・・日本中世以来、関係の深い縁戚関係でした。
摂関家のTOPの公家・近衛家・・・この権威を朝廷工作に使ったのです。
近衛家の近くに藩邸があれば、極秘の任務にうってつけです。
これが、薩摩藩の政治活動に多くの利点をもたらします。
そして、周りにいる人にも威圧感を与えることができました。

御所の東には・・・薩摩の英傑のひとり・西郷隆盛の盟友・大久保利通が住んでいました。
大久保は、島津久光の側近で、当時の大久保の任務は朝廷工作でした。
薩摩藩への国政への影響力を強め、反幕府運動を展開する為に、公家との連携を深めていきます。
西郷隆盛も、大久保邸の近くに暮らしていました。
そして、薩摩藩邸の北西1キロほどのところに屋敷を構えたのが小松帯刀です。
諸説ありますが、近衛家の別邸・・・お花畑屋敷と言われていたこの場所に、薩摩の家老・小松が借りて住んでいたのです。
久光の名代として全権を任されていました。
この屋敷の治外法権・・・幕府の力の及ばないところを利用していました。
この小松邸で結ばれたのが、幕末最大の密約・・・1866年薩長同盟でした。
薩摩は長州との関係を急速に深め、反幕府体制を強めていきます。
小松はその誠実な人柄で幕府の人間にも信頼されており、過激な西郷や大久保を御しながら、新体制樹立を模索します。
西郷や大久保、小松・・・薩摩屈指の人材が集結した幕末の京都・・・ここから日本の大変革が始まるのです。

幕末の動乱は、最終局面へ・・・。
徳川慶喜に突き付けられる大政奉還、密かに進められる武力討幕・・・
電光石火の突破力がものをいいます。
幕末も押し迫った1867年5月・・・西郷が島津久光に送った3メートルに及ぶ建白書。
その中で西郷は、徳川も一大名となり、諸大名と共に天皇を補佐する体制をつくるべきだと進言します。
そのための政権返上の建白を行ってもらいたいと久光に訴えます。
島津斉彬が掲げた日本一致一体の理想・・・。
その西郷たちが、どうして徳川を排除した中央集権国家をつくることになっていくのでしょうか?

1866年6月、日本を再び内乱の危機が・・・
幕府に謝罪したはずの長州が、再び軍備を増強!!
この事をかぎつけた幕府が再び征討へ・・・しかし、一度謝罪した長州に出兵するなど不当な戦いだと薩摩藩は出兵を拒否。
薩摩の軍事力を失った幕府軍は惨敗し、権威を失墜します。
第2次長州征討失敗!!
その背景にあったのは、小松帯刀の采配でした。
幕府には極秘に薩摩名義でイギリスから大量の洋式銃を購入。
それを長州に流していたのです。
ところが、その半年後、西郷たちの前に巨大な壁が・・・!!
その政治手腕の高さから、家康の再来と言われた慶喜が、第15代将軍に・・・!!
慶喜は、失墜した幕府の権威回復に、次々と手を打ちます。
フランスからの支援の下、幕府の軍備の近代化を図ります。
薩摩と繋がるイギリスとの関係強化も画策します。
さらに、外交問題にも類まれな能力を発揮!!
当時、欧米列強との間での問題となっていた兵庫の開港。
慶喜は、外国との貿易利権に繋がる決断を、幕府の力のみで実現しようとします。
そして、1867年5月24日、誰もが不可能だと見ていた兵庫開港の勅許をえるのです。
将軍慶喜の名は、日本の新しい君主・大君として知れ渡り、指導者としての力量が高く認められることとなります。
時代の風向きが徳川に向き始める・・・??
焦燥感を抱き始める西郷たち・・・兵庫開港勅許の5日後の5月29日、薩摩藩邸で重臣会議を招集した小松帯刀。
形勢逆転に打って出ます。
徳川に政権返上を迫るために硬軟織り交ぜた計画でした。
この強硬策の大一手が、大政奉還。
黒船来航以来、幕府の政治力の衰退は明らか・・・
将軍慶喜に、朝廷に政権を返上するように求め、天皇のもと、諸大名が挙国一致で国政に当たる新体制の樹立を・・・!!というものでした。
その裏で、西郷と大久保は違う策を練っていました。
8月・・・長州との密談で明かした秘策・・・京都・大坂・江戸の三都同時挙兵計画でした。
京都藩邸の1000人を三手に分け、一手は天皇を確保、一手は会津邸、一手は幕府駐屯所を襲撃、国元からは3000人が出兵し、大坂城、大阪湾の軍艦を焼き払う!!
江戸にいる1000人は幕府軍の上京を阻止する!!
この時、西郷と大久保は、慶喜は大政奉還を拒否すると踏んでいました。
その時は、武力をもって政権返上を要求する!!
もし、失敗したら、薩摩藩の存在が危ぶまれる危険な策でした。

そんなこんなが水面下でうごめいていた頃、薩摩藩のリアリズムを象徴する暗殺事件が・・・
暗殺されたのは、イギリス兵学の専門家であった信州上田藩士・赤松小三郎でした。
京で私塾を開き、その評判から薩摩藩が兵学の師として登用していました。
西郷たちの武力蜂起計画を知るや否や、反対する赤松!!
しかし、西郷たちは止まることはなく・・・失意の赤松は上田に帰ることに・・・。
薩摩の出兵計画は、会津と二条城を襲うこと・・・赤松が薩摩から離れたときに、情報が漏れる可能性がある・・・。
回避するためには命を奪うほかない!!
薩摩藩だけではなく、会津、幕府とも通じていた赤松・・・いかに信頼できる人物であったとしても、内情を知るものを放ってはおけない・・・赤松が殺害されたのは、薩摩主催の送別会の帰りの事でした。
そこには、薩摩の冷徹なまでのリアリズムがそこにはありました。

ところが・・・驚天動地の事態が・・・!!
1867年10月14日、景気が大政奉還を表明!!
将軍自ら260年の幕藩体制に終止符を打って・・・政権返上をしたのです。
武力討伐の大義名分が無くなってしまいました。
しかし、慶喜の狙いはその先にありました。
幕府に代わる新体制がつくられたのち、自分もそこに加わり、日本の近代化政策に自らの政治手腕を発揮したい!!
西郷と大久保は、慶喜に対する警戒を強めます。
新政府が誕生しても、そこに慶喜が参加した場合、政治の主導権は、能力の高い慶喜に再びわたる可能性がありました。
一方、突然の政権返上に、公家たちは動揺するばかり・・・
諸大名からも慶喜の手腕に期待する声が・・・
その状況に西郷たちは、新体制から徳川を排除しなければ、本当に日本が生まれ変わることにはならない・・・

1867年12月9日、京都の薩摩藩邸から西郷率いる1,000人の兵士が、近衛邸を通って御所に侵入し、慶喜を排除した新政権の樹立が強引に宣言されました。王政復古のクーデターです。
その前日、西郷はこんな言葉を残しています。

「二百有余年の太平の旧習に、汚染仕り候人心・・・
 一度干戈を動かし候て 反て天下の耳目を一新・・・
 戦いを決し候て 死中活を得るの御着眼」

その後、時代は怒涛の中を突き進みます。
鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争・・・激しい衝突を経て明治の日本は産声をあげます。
幕末の大変革・・・それは、時代のうねりに挑み続けた西郷たちの執念の結晶でもあったのです。

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今回も、薩摩がどれだけ酷かったか??
農民たちはどれだけ貧しかったのか??
そして、草莽の志士たちの素地がどんなふうに酷い環境だったのか??の説明な回でした。

で・・・どんなお話??

酷い、酷い、藩政を行っていた島津斉興&調所広郷に対し、斉彬待望論が・・・!!
ということですが、もちろん、この二人は緊縮財政・・・というか、かなり農民を苦しめる税制だったようですが、本当の犯人は薩摩藩中興の祖・重豪の莫大な・・・500万両もの借金です。
この借金を返すために、頑張ったのが調所広郷だったわけで・・・
本当の悪人は、重豪なんじゃないのかな??って思える私です。

と、西郷さんは、熊吉と鉄砲でイノシシを仕留めていました。

don3















こんな農民みたいな武士な生活も、生産性のない武士の割合がとっても高かったことに起因しています。
おまけにサツマイモを栽培するぐらい土壌も今一つだしなあ・・・。

下級武士の西郷家は、貧しくおまけに大家族・・・
三男の信吾が病気なようで・・・

don4















刀を借金のかたにしようとする吉之助ですが・・・武士の刀は・・・と止められ。
代わりに獲ったシシを町に売りに行こうとするも、恥さらしだと父に止められ・・・
借金をすることに・・・。
赤山様の紹介で、横柄な父・吉兵衛には貸してくれなかったものの、なりふり構わずな吉之助を見込んで貸してくれましたとさ・・・。
それも、100両!!

don7















だいたい、100両ものの大金をこうも容易く貸してくれるのか?とも思うし、でも、小判はあんまり流通していないよね・・・見たことのない人が殆どだったでしょう。
おまけに、この頃の西日本では、”銀”なハズなんですが。。。
ま、細かいところはいいかな・・・??
だって、この返済は、明治になっても苦労してしていたって話だからね。

その頃江戸城では・・・阿部正弘・・・に、我が藩の密貿易を密告する斉彬。

でもっていも泥棒をしている子供に出くわします。

don6















子どもの名は半次郎。
かなりの剣の使い手です。
そうね・・・だって、後に西南戦争まで吉之助に従う人斬り半次郎(桐野利秋)なんですもの。

でもって、この借りた100両で、米を買ってたらふく食べる西郷家の人たち。
ああ・・・なんて暢気なんだ・・・。
おまけに、世話になっている熊吉の実家にも持って行くことに・・・。

don2













こんなに大盤振る舞いして・・・
借りた金だよ、借りた・・・大事に使わないとなあ・・・西郷家の人たちよ。

熊吉の実家で一夜を過ごした吉之助&熊吉・・・
逃散??と思われる人を発見!!
それは先日のいも泥棒でした。
もと侍の少年・・・武士なら脱藩、百姓では逃散・走りと言われ、土地から離れることはあってはならないことでした。
侍は・・・二度とは侍には戻れない・・・。
と、吉之助に言われ、逃げようとする母を、説得する半次郎。

「わかりもした。おいがなんとかすって!!」by吉之助

と、またまた安請け合いをして熊吉に怒られる始末。

子供は国の宝だ・・・と、教えてくれたのは斉彬でした。
江戸の薩摩藩邸では・・・斉彬の子・寛之助が息を引き取っていました。
斉彬はこれまで立て続けに3人の子を失くしていました。
探したら・・・呪いの札が・・・!!
と、お由羅の仕業では??と、うわさ話になっていました。

夜逃げを助けたのではないか??と、上司に怒られる吉之助。
タダではすまん!!と言われてしまいましたが、赤山様が助け舟を出してくれました。
ということで、この件は、赤山様お預かりとなったのです。

don















でもって、半次郎の件も、赤山様にお願いしてしまいました。
貧しくても必死に生きている!!と言ってますが、どうも、半次郎の父親は、貧しさから藩の金を使い込んでしまっていたらしい・・・それでも、それは貧乏のせいだ!!と、何もかも貧乏が悪い体になってしまっています。
武士は食わねど高楊枝ではないのか??
そんなレベルでもないぐらいの貧乏なのか??
遊郭に・・・女郎となって落ちぶれても、武士の娘であってほしい・・・その凛とした一本気なところがいいんじゃないの?
例えば、桂小五郎の奥さんになった芸妓・幾松とかさ~~~!!

この年の12月、江戸城に呼び出された調所広郷・・・相手は阿部正弘。
呼び出された理由はもちろん密貿易でした。

斉興は関係なく、全て自分がやったこと・・・と、全ての罪をかぶります。
そして・・・その密告者が斉彬であることも知った上で・・・

「どうじゃ・・・今宵、一献傾けんか。
 わしを廃嫡せしめんとするは専らその方が首謀者という噂があってな・・・
 いささか疎遠になってしもうた。
 このまま終わりとうはない・・・。
 これからの薩摩の事など教えてほしい・・・」by斉彬

「残念ながら、今宵はちと野暮用がございもして・・・
 お世継ぎ様がお生まれになった日・・・われら一同そいは喜んだもんでございもす。
 こいで、薩摩は安泰じゃっち・・・。
 そん時に飲んだ酒の旨さをふと思い出しもした・・・。」by調所

そしてその野暮用の夜・・・

don5












毒を煽り切腹!!

この知らせは、薩摩にもすぐに届きます。
ここに、斉彬VS斉興&久光の構図が完成されました。

斉彬派な人々が、次々と島流し、切腹・・・50人を超えました。
これがお由羅騒動です。

そして・・・赤山靱負に切腹の沙汰が下ったのでした!!

って、斉興&調所が悪者で、キ~って怒っているのがお由羅、アタフタしているおバカな久光・・・って感じですね・・・
とりあえず、上にも書いたように重豪の莫大な借金・500万両を返済し、200万両もの蓄財を築いたのは調所でした。
分母の割に分子の多い生産性のない武士・・・人員削減することもなく、米に適さない土地柄の中、藩のために一生懸命頑張ったのは調所でした。
この重豪がどうして借金を作ったのか??
それは、洋学かぶれだったからで・・・斉興&調所は、斉彬とダブるところがあって、やっぱり久光しかいいんじゃね?
と、40歳を過ぎた息子・斉彬に藩主の座を譲らなかったんです。

ちなみに、お由羅がき~っと、怒っていましたが、”呪いのお札事件”が噂になったのは事実です
もちろん、斉彬が、斉興を藩主の座から引きずり下ろすために、阿部正弘に密告したのも事実なんですが・・・

ただ・・・
密貿易や、商人たちが御禁制の品を取り扱うのを見逃す代わりに借金の棒引きをしてもらったり・・・
奄美大島の黒砂糖とか・・・
いろんな禁じ手を使っての借金返済でしたが、斉興&調所・・・この二人がいたからこそ、斉彬もいっぱいお金を使えたんじゃないかな??なんても思ってしまいます。
そんな悪者にしなくても良かったんじゃないか?ってことです。

単純ではなく、結構みんな賢い、自分たちの正義のために、信念をもって動いていた人たちなんです。
そんなこんなをもっと表現してほしかったんですが・・・
そんなドラマは重いのかな・・・??


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調所笑左衛門は、幕末の薩摩藩財政を再建した立役者です。

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1830年12月、調所はときの藩主・島津重豪から、

①50万両を蓄えること。
②幕府への納付金及び非常用の手当金を準備すること。
③500万両の古借証文を回収すること。



を命じられます。
家老兼側詰の重臣となり、翌年から10か月の期間でこれを達成させます。

調所が財政改革の主柱としたのが、奄美大島など3島からの砂糖の総買入制度。
改革着手から10か年の売り上げは、それまでに比べ98万4000両にものぼりました。
また、彼は大胆にも500万両の負債を無利子250年賦与とし、偽金を造ったり・・・また琉球を通して大々的な密貿易を行いました。

加えて・・・調所は、”近代工業の開発””軍備の近代化””各主産物の振興”にも着手。
しかし・・・財政改革を成し遂げたあと・・・
藩経営に携わろうとした時。。。
江戸桜田藩邸で変死します。死因は服毒自殺。。。

定説では、自殺させたのは後の・・・第11代藩主島津斉彬だとするのが通説となっています。
調所が財政改革すべく、危険を冒して行った密貿易を、斉彬が幕府に密告したというのです。
そして・・・その責任を一身に背負っての・・・・つまり、謀殺???

これには、調所の推し進めた農政・軍政の改革が、藩士の不満を高めていたからだと言われています。
また、重豪亡き後の斉彬と久光の家督争いが絡んでいたことに最大の理由がありました。

斉彬は早くから英才の評が高く、藩政を執ることを期待する藩士が少なくありませんでしたが、調所は財政再建の当事者として、斉彬の妨害者のひとりと見られ、憎むものも多かったと言われています。


突破700年 島津家退くことを知らずは
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