江戸時代、幕末動乱の京都・・・町では無差別に人が斬られ、放火や恫喝が横行・・・
そんな京の町の治安を守ろうと結成されたのが、局長・近藤勇が率いた幕末最強の剣客集団とも称される新選組です。
そんな新選組が一躍有名となったのが・・・1864年6月5日、池田屋事件です。
発端は、江戸幕府と対立する長州藩などの尊王攘夷派の志士たちが京都の町を大混乱に陥れ、とんでもない計画を企んでいることが発覚したことでした。
京都の町を震撼させた池田屋事件!!その一日とは・・・??

当時江戸幕府は、欧米列強の開国要求に屈したことで、諸藩からの信頼を失い、急速に弱体化・・・
そこで、朝廷に近づき、共に政治を行うことでなんとか幕藩体制の再強化を図ろうとしていました(公武合体)。
14歳将軍・徳川家茂と、孝明天皇の妹・和宮の婚礼を推し進めたのもその為でした。
この公武合体に激しく反発したのが長州藩を中心とした尊王攘夷派でした。
すぐさま外国勢を打ち払い、時の天皇・孝明天皇を中心に政治を行うべきだと主張します。
そうした尊王攘夷派の一部の志士たちは、天誅と称して対立する幕府側の要人や、その家族を襲撃するなど過激な行動に出ていました。
そこで、悪化の一途をたどる供与の治安を守るために結成されたのが、新選組でした。
京都守護職を務める会津藩主・松平容保の配下におかれ、新選組は市中の警備を任されます。

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池田屋事件当時、新選組の隊士は40名ほど・・・
局長・近藤勇、副長・土方歳三、そして沖田総司、斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁などがいました。
隊士のほとんどは農民や町民の出身でしたが、剣術道場で研鑚を積んでいました。
腕の立つ強者ぞろいだったのです。
斬捨御免の特権が与えられていたこともあり、尊皇の志士たちからは鬼神のごとく恐れられていたといいます。
対する尊王攘夷派の主なメンバーは、長州藩・桂小五郎・・・後の木戸孝允です。
長州藩から京都留守居役を命じられた桂は、京都にある長州藩の屋敷に滞在し、密かに尊王攘夷派の志士たちと連絡を取り諜報活動を行っていました。

そんな中、事態が動き始めます。
池田屋事件の4日前・・・6月1日。
この頃、新選組はある男の行方を血眼になって探していました。
桂小五郎と並ぶ尊王攘夷派の肥後藩・宮部鼎蔵です。
幕府や新選組は宮部を危険人物としてマークしていたのです。
宮部は、同じ尊皇思想である吉田松陰と親友でした。
処刑された吉田松陰の志を継ぐべく、京都での尊王攘夷運動に参加します。
さらに、宮部には長州藩と共に企んでいる噂が・・・

”御所に火を放ち、会津の容保公と中川宮の首を狙っている”

この時、長州藩は前の年に起こった政変によって朝廷から締め出され、京都の町からも追放されるという憂き目にあっていました。
その政変の首謀者だった会津藩・松平容保と宮家・中川宮二人の命を宮部が狙っているというのです。
当然そのたくらみを阻止したい新選組・・・しかし、なかなか宮部の行方がつかめません・・・。

この日も、手掛かりを求め、宮部がかつて定宿にしていた南禅寺塔頭の前で張り込んでいました。
すると、宮部の下で働く小間使いの忠蔵がやってきたのです。
忠蔵をすぐにとらえた新選組は宮部の行方を厳しく追及しますが、なかなか口を割りません。
そこで、作戦を変更し、忠蔵を利用することに・・・。
南禅寺の山門に忠蔵をくくりつけ晒し者にしたところ・・・仲間が救出に来ました。
新選組は気付かれないように忠蔵の後をつけたのです。
忠蔵の向かった先は、市場にある桝屋という店でした。
新選組はにわかに色めき立ちます。
何故なら、この桝屋、幕府側が尊王攘夷派と関係があるかもしれないと目をつけていたからです。

”表向きは、薪や炭などを扱う店だが、下働きの男2人を召し抱えている以外、家族もなく、町内の付き合いも致さず、不審である”

新選組局長・近藤勇は、すぐに桝屋を調べるように指示・・・
張り込みや聞き込みを続けました。
その結果、桝屋の主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の志士たちの深いつながりがわかってきたのです。
果たして桝屋主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の関係は・・・??
近江出身の古高は、儒学者で尊王攘夷派の指導者・梅田雲浜の弟子でした。
しかし・・・1859年、雲浜は安政の大獄で投獄中に病死していました。
古高は、その志を継ぎ、京都での尊王攘夷運動に参加します。
その後、縁あって、桝屋に養子に入り”桝屋喜右衛門”を名乗りました。
古高は、商人という隠れ蓑を利用し、諜報活動に没頭・・・
いつしか桝屋は、尊王攘夷派の活動拠点となっていきます。
実は桝屋、筑前藩御用達であったため、武士である尊王攘夷派の志士たちが出入りしても、目立たなかったので、重用されていました。
そして、新選組が行方を追っていた宮部鼎蔵も桝屋に仮住まいし、活動拠点にしていたのです。
さらに、古高は長州藩からある重要任務を任されていました。
それは、長州藩に朝廷の情報を提供する連絡役だったのです。
当時、朝廷内の重職は、幕府派で占められていましたが、有栖川宮は数少ない長州派でした。
有栖川宮は、幕府の介入によって孝明天皇の妹・和宮との婚約を破棄されていました。
和宮は、結局14代将軍・家茂に嫁いでいます。
長州藩は、有栖川宮熾仁親王を足掛かりに、朝廷での復権を目論んでいました。
しかし、古高と有栖川宮とのつながりは・・・??
古高は、父親の代から山科にある毘沙門堂の門跡に仕えていました。
その門跡が、有栖川宮の叔父であったため、古高は有栖川宮との交流があったのです。
長州藩にとって、古高はまさに好都合な人物だったのです。
古高俊太郎は、長州藩と朝廷を繋ぐ重要な連絡係であり、尊王攘夷派の志士たちの強力な支援者だったのです。

近藤勇は、桝屋の摘発を命じます。
1864年6月5日、池田屋事件当日早朝・・・
緊張の面持ちで、四条にある桝屋へと向かう新選組の隊士たち・・・
この時、尊王攘夷派の志士たちが潜伏しているというとの情報を得ていました。
ところが、いざ桝屋へ乗り込んでみると、中にいたのは主人の古高俊太郎ただ一人・・・!!
実は、京都に残ることを許された長州藩士たちが、忠蔵が捕まったと聞き危険を感じて、宮部鼎蔵ら尊皇攘夷派の志士たちを藩の屋敷に匿っていたのです。
してやられた新選組の面々・・・
しかし、このまま手ぶらで帰るわけにはいきません。

「徹底的に調べ上げろ!!」

すると、奥にあった蔵の中から、刀や鉄砲など大量の武器と甲冑が出てきたのです。
それは、古高が来るべき時に備え、買いそろえていたものでした。
さらに、志士たちが書いた命を懸けて戦うとの血盟書や長州藩との書簡も出てきました。
そこには・・・
”御所に火を放ち、会津藩主・松平容保、宮家の中川宮を襲撃する”
と・・・襲撃をほのめかす内容が書かれていたのです。

尊王攘夷派が企む過激な計画の確かな証拠をつかんだ新選組は、古高を連行し、意気揚々と壬生の屯所に引き上げていきました。
そしてこの日の夜、池田屋事件が起きるのです。

6月5日、池田屋事件当日・午前・・・
古高を三部の屯所に連れ帰った新選組は、さらに厳しい尋問を行いました。
担当したのは、鬼の副長・土方歳三でした。
土方は、古高を逆さづりにし、拷問にかけます。
五寸釘を古高の足の甲に打ち込み、貫通させた上でそのくぎにロウソクを立てました。
火を点け、暫くすると熱いロウが古高の傷口に滴り落ちていきます。
たまらず、大きなうめき声をあげる古高・・・
それでも、もだえ苦しみながら耐え忍んでいましたが、30分ほどで観念・・・
一説には古高はこう白状したといいます。

「6月22日ごろ、風が強ければ御所を焼き打ちし、帝を奪い去り、山口城へと連れ去る謀反を企んでいる
 その為、大勢の長州人が京都に潜伏している」

松平容保や中川宮を襲撃するどころか、孝明天皇を長州藩の山口へと連れ去ろうとしているというのです。
天皇が連れ去られるなど、前代未聞・・・!!
これは一大事です。
当然、市中の取り締まりを任せられていた新選組の面目も丸つぶれに・・・
なんとかしなければ・・・!!

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古高俊太郎の自白によると、御所襲撃計画の実行は6月22日ごろ・・・
この時は6月5日でしたが、近藤勇は焦っていました。

「我々が古高を捕らえたことで、やつらは慌てて事を起こすかもしれん!!
 ・・・!!
 今日は宵々山か・・・!!」by近藤勇

この日は、祇園祭の直前に行われる祭り・宵々山の日でした。
毎年、町には大勢の見物客が訪れます。
近藤はその混乱に乗じ、尊王攘夷派の志士たちが仕掛けてくると、考えたのです。
すぐに、京都守護職で新選組を統括する会津藩主・松平容保に事態を報告!!
そして、潜伏する志士たちを摘発する為に支援を要請しました。
これに対し、会津藩は・・・

”一橋様 桑名様 町奉行と相談の上 人を差し出そう
 夜五つ時 祇園会所前で待つよう”

この時、京都の警備にあたっていたのは容保の会津藩の外、禁裏御守衛総督・一橋慶喜、容保の弟で京都所司代の松平定敬の桑名藩、そして京都町奉行所などでした。
会津藩は、それぞれに根回しして援軍を送るので、夜5つ時・・・9時ごろに八坂神社近くにある祇園会所前で合流しようというのです。

その頃、尊王攘夷派の志士たちは・・・
古高が捕縛されたと聞き、長州藩の屋敷に次々と集まってきていました。
重要な協力社を奪われ、今後どうするのかを激論を交わします。
一説に、その席には尊王攘夷派のリーダー・宮部鼎蔵や、長州藩主の吉田稔麿などもいたといいます。
吉田は、松下村塾出身で、高杉晋作、久坂玄瑞と共に”三秀”に数えられ、将来を嘱望された若者でした。
そして、宮部と吉田の二人は、この夜起こる池田屋事件に巻き込まれることになるのです。

池田屋事件当日昼過ぎ・・・
新選組は、夜の摘発に向けて早くも動き出しました。
局長・近藤勇は、病に伏していた一部の者を屯所に残して34人で出動することにします。
潜伏する尊王の志士たちに気付かれないよう、数人に別れ分散して出動させました。
さらには、武器や甲冑などをまとめて大八車に乗せ隠しながら運びました。
慎重に事を進めたのです。

池田屋事件当日8時ごろ・・・
準備を整えた新選組は、まだ会津藩との約束前でしたが、それを待たずに動き出します。
近藤は、隊を自分が率いる組(10人)と、土方歳三が率いる(24人)二つに分けます。
土方率いる24人に祇園界隈の捜索をはじめませます。
この時近藤は、潜伏先を祇園と三条周辺にある茶屋や旅籠など二十数カ所に絞っていました。
茶屋は、会員制で不審なものが入ってくることはなく、芸妓の口が固かったので、情報が漏れにくかったのです。
旅籠は、様々な場所からいろいろな身分の人が宿泊したので、志士たちは紛れ込みやすかったのです。

そして会津藩との約束の9時・・・
約束の時間になっても、援軍はやってきませんでした。
どうして幕府の援軍は来なかったのでしょうか??

援軍は、来るには来たのですが、かなり遅れてやってきました。
遅刻した理由は、色々説がありますが・・・
①会津藩が根回しに時間がかかってしまった
②新選組とは違う作戦で摘発するつもりだった
夜9時ごろの集合時間はあくまで目安で、会津藩は指示を出すまで配下の新選組は動かないと思っていたのです。
援軍が期待できない中、近藤率いる10人も動き始めました。
しかし、尊王攘夷派の志士たちの潜伏先はいまだ不明・・・目星をつけていた個所を探していくほかありません。
祇園周辺と三条周辺の二手に分かれて捜索する新選組・・・
先に土方歳三率いる24人が祇園周辺を調べていましたが、なかなか見つかりません。
一方、近藤が率いる10人は、四条通から木屋町通りを北上し三条へと向かいます。
この辺りには多くの旅籠は軒を連ねていたからです。

池田屋事件当日夜10時ごろ・・・
そんな中、新選組は三条にある旅籠・池田屋で長州藩と尊王の志士たちが密会をしていることを突き止めます。
尊王攘夷派の志士たちはどうして池田屋にいたのでしょうか?
当時、長州藩京都留守居役だった桂小五郎は、この時のことを後にこう書き残しています。

”かつて古高と同盟していた者を三人選んで古高救出に加わることを許し、他の者が門を出ることを禁じた
 私もこの夜、池田やで会合する約束をしていた“

古高が長州藩と朝廷の一部との窓口になっていたので、新選組に捕縛された古高俊太郎をいかにして奪還するか相談するための会合でした。
”すぐに奪還すべき”という過激派と、”慎重に状況を見極めるべき”という慎重派に分かれていました。
一説に、宮部鼎蔵や吉田稔麿は、過激派を思いとどまらせようと池田屋にやってきたともいわれています。

近藤勇は、近隣の者から池田屋の間取りを聞き出します。
建物には、三条通側にある表口の外に、裏手にも出入り口があることが分かり、近藤はそれぞれに3人の隊士を配置、そして、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人で中へ踏み込みます。

夜10時30分頃・・・
近藤は、怯むことなく踏み込んでいきました。
すると、奥から旅籠の主人が出てきました。

「今宵、御用改めである」by近藤勇

驚いた主人は、急いでおくに・・・2階に向かって

「御用改めでございます!!
 御用改めでございます!!」by池田屋主人

そう叫びます。
池田屋は、元々長州藩の定宿で、何かと尊王攘夷派の志士たちに融通をきかせていました。
近藤は、主人を殴り飛ばし、奥の階段から沖田と共に二階へ上がります。
するとそこでは・・・十数人の志士たちが、密会していたのです。

「手向かい致せば容赦なく切り捨てる!!」by近藤勇

志士の一人が斬りかかってきました。
沖田はそれをかわし、すかさず切り捨てたのです。
すると、尊王攘夷派の志士たちの大半が、吹き抜けになっていた中庭や裏庭に飛び降りたため、近藤は急いで1階に向かいます。
その直前、沖田総司が突然倒れてしまうのです。
今までは、持病の結核で喀血し倒れたと言われていましたが、喀血なら医学的にそれ以後4年も生きられないのではないのか??と言われています。
最近の説では、暑さにやられて熱中症だったのではないか?と言われています。
いずれにしても、剣の達人の沖田の離脱は、新選組にとっては大きな痛手でした。
近藤、永倉、藤堂のわずか3人で戦うこととなった新選組・・・
そこで近藤は、永倉には表口付近の台所で、藤堂には中庭付近で戦うように指示・・・自分は奥の間で敵を迎え討ちました。
すると・・・まず、永倉が表口に逃げようとする敵を続けざまに後ろから仕留めました。
一方、中庭付近にいた藤堂は、敵に額を切られてしまいます。永倉が助太刀し、命だけは助かりましたが、出血が激しく、藤堂も離脱・・・残るは、近藤と永倉の二人だけ!!
絶体絶命のピンチ!!
しかも、近藤は大勢を相手に苦戦!!
その時のことを、永倉は晩年、こう振り返っています。

「近藤は、2、3度斬られそうになっていた」

その窮地を救ったのが、新選組最強の一人に数えられていた永倉その人だったのです。
永倉の余りの強さにおののき、一部の尊王攘夷派の志士が降伏・・・
丁度その頃・・・一報を聞いた土方歳三率いる一団が、ようやく祇園から駆けつけました。
一気に形勢は逆転、土方や、島田魁などの活躍により、新選組は池田屋にいた尊王の志士たちを見事鎮圧したのです。
踏み込んでから、1時間半ほどが経っていました。

6月6日、深夜0時半ごろ・・・
会津藩や、桑名藩など幕府の援軍が到着しました。
新選組は、援軍と共に潜伏する残党をも一網打尽にしたのです。
近藤勇によると、池田屋とその周辺を含め、新選組は7人を斬殺、4人を手負いにし、23人を召し捕ったといいます。

しかし、この時亡くなった長州藩や尊王攘夷派の志士たちの身元についての詳しい記録は残っていません。
一説に、尊王の志士たちのリーダー格だった宮部鼎蔵は池田屋で自刃、長州藩士の吉田稔麿は、援軍を呼ぼうと長州藩邸に戻る途中に討ち取られたと言われています。

幕末最強の剣客集団・新選組が、京都三条にあった旅籠・池田屋で密会する尊王攘夷派を襲撃した池田屋事件・・・
この池田屋での会合に、長州藩京都留守居役の桂小五郎も出席する約束を交わしていましたが、難を逃れています。
後年、桂はこう記しています。

「約束の刻限に池田屋に行ったが、まだ誰も来ておらず、一度池田屋を後にし、対馬藩の屋敷で待たせてもらっていた
 その後、新選組が池田屋を襲撃した」

なんと、桂は、新選組とニアミスしていました。
そして、すんでのところで難を逃れていたのです。

一方、事前に尊王の志士たちの過激な計画を阻止し、京都を混乱から守った新選組は、幕府から総額600両、の報奨金が与えられ、新選組の名を天下に知らしめたのです。
しかし、この時、多くの同志を殺された長州藩から大きな恨みを買ったことで、やがて新選組の運命は一転・・・
時代の波に飲み込まれていくことになります。

池田屋事件から3年・・・長州藩が、薩摩藩と手を組み倒幕を叫ぶと、15代将軍・徳川慶喜は、あっさりと政権を返上。
しかし、江戸幕府が終わりを告げても、なお、徳川に忠義を尽くし続けた新選組は、逆賊となってしまうのです。
局長・近藤勇や、土方歳三は、旧幕府軍と共に最後まで抵抗を続け、無念の死を遂げていきます。
池田屋事件での新選組の活躍は、長州藩をはじめとする尊王攘夷派に、大きな打撃を与え、明治維新が1年遅れたともいわれています。
しかし、時代の波には逆らうことが出来なかったのです。
そう思うと、池田屋事件は、幕末最強の剣客集団と畏れられた新選組のハイライト・・・最後の花道だったのかもしれません。

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