京都・桂川を見下ろす小倉山・・・ここにあったといわれる山荘で、日本の文学史上燦然と輝く和歌集が生れました。
百人一首です。
百人一首を編纂したといわれるのが、鎌倉時代の公家で、天才歌人と言われた藤原定家です。
その定家が集めた百人一首は、日本で最も有名な和歌集の一つですが・・・
いつ出来たのか、何のために作られたのか、どのような基準で選ばれたのか・・・多くの謎に包まれています。
定家が10代から80歳で亡くなるまで欠かさずにつけていたといわれる「明月記」に書かれていることは・・・
1235年5月27日、百人一首に関する記述があります。
定家74歳の時の事・・・
「嵯峨中院の障子の色紙形を予に書いてくれと彼の入道から懇切に頼まれた
余なぞがと 恐れ多いと思いながらも、出来ないなりに書き始めこれを送った
古来の人の歌をそれぞれ一首ずつ天智天皇より(藤原)家隆 雅経に及ぶまでを選んだ」
この日記に登場する彼入道とは、京都嵯峨に山荘を持っていた蓮生法師です。
定家より10歳年下といわれる蓮生も、和歌の名手でした。
定家の嫡男・為家と蓮生の娘が結婚しており、二人は姻戚関係にあったことから、定家は嵯峨の山荘に良く歌を詠みに行っていたといいます。
そんな蓮生が定家に、
「この山荘の襖障子に、和歌の色紙を貼りたいので、よいものを選んでくれませんか。」
と、熱心に頼んできたので、定家はこれを受け、古来の和歌を一人一首ずつ選んで届けたと日記にあるのです。
このことから、百人一首の成立は、1235年と考えられています。
成立当初、百人一首という名がついていたわけではありませんでした。
百人一首という名が最初に文献に現れるのが、室町時代になってからの事。
1406年に成立した現存最古の百人一首の注釈書と言われる「百人一首抄」の序文で・・・
室町時代には定家の選んだ百首の和歌に「小倉山庄色紙和歌」という名がついていて、百人一首と呼ばれていることがわかります。
定家が嵯峨の小倉山に山荘を持っていて、そこで和歌を編纂したためと通説では言われています。
四季をテーマにしたものが32首あり、その半分が秋を詠んでいます。
そして恋をテーマにしたものも多く、43首もあります。
しかし、選ばれたのは美しい歌や、著名な歌人だけではありません。
歌集は、平安時代、鎌倉時代に盛んに編纂されました。
中でもよく知られているのが勅撰和歌集と言われる天皇や上皇の命による公的な歌集です。
そこに歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉でした。
百人一首は、そんな勅撰和歌集に選ばれる歌人たちの歌を中心に選ばれたことから、優れた歌が集められたと思われてきました。
しかし・・・勅撰和歌集に収録された和歌が、10首に満たない歌人が20人近くもいます。
天智天皇、持統天皇、阿倍仲麻呂らが該当しています。
定家はどんな基準で選んだのでしょうか?
謎を解くカギは、持統天皇・・・
春すぎて
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香久山
天の香久山に真っ白な衣が干されているところを見ると、春が来て夏が来たらしいわ
持統天皇は、残された和歌の数が少なく、歌人と呼べるかどうかも疑わしいのです。
定家は、和歌の内容よりも、誰が詠んだのかを重視したと思われます。
詠み人を重視したという狙いは諸説あります。
①平安王朝の歴史書説・・・百人一首は、390年続いた平安王朝の壮大な歴史物語を和歌で表現した説です。
百人一首には、歴史に名を遺す逸話を持つ天皇や天皇を経験した上皇が載せられています。
光孝天皇・陽成天皇・持統天皇・天智天皇・順徳上皇・後鳥羽上皇・崇徳上皇・三条上皇です。
百人一首の一番目に選ばれた天智天皇
秋の田の
かりほの庵の
笘をあらみ
わが衣手は
露にぬれつつ
秋の田の側に建つ仮小屋の屋根を葺いた苫の目があらいからだろう
私の衣の袖が露に濡れているのは
秋の収穫時期の様子を詠んだこの歌は、もともと萬葉集におさめられていら詠み人知らず歌でした。
それを天智天皇が気に入って読み直したとされていますが、定かではありません。
それでも定家は、天智天皇の歌として、百人一首の最初に収録したかったのだといいます。
天智天皇が選ばれた理由は、桓武天皇の直系の先祖に当たることが挙げられます。
平安朝の皇統の大元として歴史を語るうえで外せない人物としてです。
桓武天皇は曽祖父である天智天皇の律令制に倣い、国を立て直そうと平安京に都を移した天皇です。
そのことから、定家は天智天皇を平安王朝の始祖として、百人一首の一番最初に選んだのです。
そして次に・・・天智天皇の娘である持統天皇を収録したのです。
百人一首は、平安王朝の始まりを思わせる親娘の句から始まっているのです。
さらに、百人一首で平安王朝の歴史を綴ろうとした定家が、その15番目に選んだのが平安王朝に欠かせない光孝天皇の歌でした。
光孝天皇は、鷹狩の復活を遂げるなど、宮中行事の再興に努めるとともに、和歌などを奨励。
平安貴族文化を花開かせた天皇です。
そして、締めくくるために選ばれた歌は、後鳥羽上皇と、順徳上皇の親子でした。
二人は、鎌倉時代初期の1221年、鎌倉幕府に反旗を翻し乱を起こします(承久の乱)。
幕府軍の圧倒的な力で鎮圧され、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ配流。。。
これによって武家政権の優位がゆるぎないものとなり、平安王朝の復活の目は絶たれたのです。
こうしたことから、天智・持統父娘の歌で始まり、後鳥羽・順徳親子の歌で終わる百人一首は、華やかなりしころの平安王朝を歌でつづった壮大な物語だとされてきました。
②不幸な人生説・・・人生で悲劇に見舞われた人や、不幸な人生を送った人を定家は選んだのではないか・・・??
その一人が、平安中期の三条上皇です。
三条上皇は25年にもわたる皇太子時代を経て、1011年に天皇に即位。
しかし、わずか5年で譲位を余儀なくされます。
そこには、時に権力者・藤原道長の存在がありました。
道長は、自分の娘・彰子を一条天皇に嫁がせて男の子(敦成親王)を設けていました。
道長は、その孫を天皇に即位すべく、三条天皇に早く譲位するように圧力をかけたのです。
三条天皇はこれに屈し、敦成親王に譲位・・・その翌年の1017年に失意のうちに42歳で崩御しました。
不遇の人生を送った三条上皇の歌の中から定家が選んだのが・・・
心にも
あらでうき世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな
心ならずも、この辛く儚い世に生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出されるに違いない
この夜更けの月を
不本意ながら、譲位した辛さを描いた歌でした。
平安時代末期の崇徳上皇の人生も苦難に満ちていました。
父・鳥羽上皇が朝廷の実権を握る院政を行っていたため、天皇時代にも思うような政治ができなかったばかりか、父に譲位させられてしまいます。
その後、弟の後白河天皇と対立。
武士を巻き込む戦へと発展・・・1156年保元の乱です。
戦いの結果、崇徳上皇側が破れ、上皇は讃岐に流されてしまいます。
そして、京に帰る夢がかなわないまま・・・崇徳上皇の魂は怨霊となって都を呪ったとされています。
百人一首に定家が選んだ不幸な歌人たちは、天皇や上皇だけではありませんでした。
朝廷で出世するも、敵対する藤原氏の策略で左遷され、亡くなって怨霊となった菅原道真。
鎌倉幕府三代将軍で、兄を殺され、その後将軍となったものの甥に暗殺されてしまった源実朝。
どうして定家は不幸な人生を送った歌人を選んだのでしょうか?
それは、彼等に対する鎮魂の意味があったのです。
和歌の作成を依頼した蓮生こそが、不幸な人生を送った歌人の和歌を選ぶことを定家に提案したのではないか?と思われます。
蓮生が提案した理由は・・・彼の人生を見るとわかると思われます。
蓮生は、宇都宮を中心として活動していた豪族の棟梁で、名を宇都宮頼綱と言いました。
もともと鎌倉幕府の有力御家人として活躍し、幕府を支えた武士でした。
しかし、1205年、人生を大きく変える事件が起こります。
執権・北条時政の後妻・牧の方が三代将軍実朝の暗殺を画策。
計画は失敗に終わりましたが、頼綱にも謀反の疑いが・・・
頼綱の妻が、時政と牧の方の娘だったため、頼綱が通じていると疑われたのです。
頼綱は、身の潔白を証明する為に思い切った手に打って出ます。
一族郎党約60人と共に出家したのです。
その後は、実信房蓮生として京都で暮らし、浄土宗に深く帰依していきます。
蓮生が浄土宗の信者になった事が、不幸な歌人を選ぼうと考えた理由です。
現世で苦しんだとしても誰でも極楽浄土に行ける・・・
蓮生は、山荘の襖障子に不幸な歌人の和歌を貼ることで、彼らに想いを馳せる場所にしたかったのです。
追善供養したかったのではないでしょうか。
藤原定家が選者とされる百人一首ですが、どうして100人だったのでしょうか?
そこには朝廷の実力者だった人物が深く関係しています。
定家は藤原道長の血筋をひいていました。
ところが、道長の直系だった定家の祖父の俊忠が死去、父・俊成が養子に出されてしまったことで運命は一変・・・出世コースから外れ、家は没落の一途をたどりました。
そんななか、燻っていた定家を引き上げてくれたのが、後鳥羽上皇でした。
後鳥羽上皇は皇族でありながら、相撲、水泳、乗馬、弓道などの武芸を嗜み、その一方で和歌も嗜んだ万能の才を持っていました。
1200年、後鳥羽上皇は貴族に100首の和歌を提出させました。
そして、その中から定家の和歌を手にとった後鳥羽上皇は、その才能をすぐさま見抜き、側近に取り立て・・・
1201年定家を和歌所の役人に任命します。
さらに、勅撰和歌集・新古今和歌集の選者のひとりに抜擢します。
この時、定家40歳・・・後鳥羽上皇に認められたことで、歌人として、臣下としてその地位を確立していきます。
こうして二人は和歌を通して互いを認め合い、蜜月の時を過ごしていましたが・・・
和歌に対する価値観の違いから対立するようになります。
1220年、ついに定家は後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、朝廷へ出仕を禁じられます。
1221年、後鳥羽上皇が承久の乱を起こします。
京の都からはるか遠い隠岐へ配流に・・・。
定家と後鳥羽上皇は、二度と会うことはありませんでした。
この時、上皇の側近たちにも処罰が下ったのですが、定家は袂を分かっていたために免れます。
それどころか、政界に復帰・・・71歳の時には権中納言にまで出世するのです。
この年、1232年、定家は「新勅撰和歌集」の編纂を任されます。
今の自分があるのは後鳥羽上皇のおかげ・・・と、後鳥羽恐慌の歌を選んで新勅撰和歌集の中に織り込みますが・・・
幕府に反旗を翻した人間の歌を入れるのは不適切だと周囲から圧力がかかります。
仕方なく定家は後鳥羽上皇の歌を外します。
そして無念の思いを抱えたまま・・・1235年3月、「新勅撰和歌集」完成。
その歌集を朝廷に納めた2か月後の5月・・・
蓮生法師から山荘の襖障子に歌を・・・と、依頼されたのです。
これは新勅撰和歌集の公的な歌集ではなく、私的なもの・・・。
そのために、どこからも圧力がかからず、叶わなかった後鳥羽上皇の歌を入れることができる・・・。
定家は構想を練り始めます。
そしてこの歌が頭をよぎります。
後鳥羽上皇が流された隠岐の地で作られた「時代不同歌合」です。
歌人を100人、1人3首ずつ選んだ歌集です。
定家は歌人として経営する後鳥羽上皇の歌集に刺激を受け、歌人を100人選ぶことにしたのです。
そしてその中に、後鳥羽上皇の歌を入れたのでは・・・??と思われてきました。
が・・・1951年、宮内庁書陵部であるものが発見され騒然となりました。
それが「百人秀歌」です。
歌の並び順は違うものの・・・定家の原案・・・草稿ではないかと考えられます。
そこには、後鳥羽上皇の歌がなかったのです。
つまり、定家は蓮生から依頼された和歌の中に、結局後鳥羽上皇の歌を入れていなかったのです。
③どうして定家は、後鳥羽上皇の歌を入れなかったのでしょうか?
定家は、鎌倉幕府と対立している後鳥羽上皇の歌を入れると、幕府に仕えていた蓮生が不快に思うのでは・・・
と思われてきましたが・・・。
しかし、和歌を選ぶ対象が、亡くなった歌人で、後鳥羽上皇はまだ存命していたために入れられていないのでは・・・??
こうして定家は、後鳥羽上皇の歌を入れずに蓮生に草稿を渡したのです。
現在知られている百人一首には、後鳥羽上皇の歌が入っています。
定家が選歌をし蓮生に草稿を託したその時に事件が起こりました。
1235年5月14日・・・定家は宮中に出入りしていた息子の為家から思わぬことを聞きます。
後鳥羽上皇の都に戻りたいという懇願が、鎌倉幕府によって拒否されているというのです。
後鳥羽上皇は、死ぬまで隠岐に・・・。
その知らせは蓮生の元にも届きます。
蓮生は、後鳥羽上皇の不幸な人生が決定したので、鎮魂の対象になると考えました。
そこで、後鳥羽上皇の和歌も入れて検証するように提案しました。
後鳥羽上皇を恩人とし、敬愛していた定家にとって、異論はありませんでした。
そこで、この歌を選びました。
人もをし
人もうらめし
あぢきなく
世を思ふゆゑに
物思ふ身は
人が愛おしく思われ、また人が恨めしくも思われる
面白くないとこの世を思うところから、あれこれともの思いをするこの私にとっては
世の中は思い通りにはいかないと嘆いた歌です。
定家が百人一首に選んだ自らの歌は・・・
こぬ人を
まつほの浦の
夕なぎに
焼くやもしほの
身もこがれつつ
待っても来ない人を待つのは
(淡路島の)松帆の浦で夕凪の頃に焼く藻塩のように
恋焦がれてい苦しいものだ
これは定家が淡路島のアマが恋人を待つ気持ちを詠んだ歌だとされています。
もしかすると、このこぬ人に後鳥羽上皇を重ねていたのかもしれません。
後鳥羽上皇は後鳥羽院と表記されています。
この後鳥羽とは、諡号のことです。
1235年に定家が百人一首を編纂
その時は、後鳥羽上皇はまだ御存命でした。
1239年に後鳥羽上皇が崩御し、1241年に定家が死去。1242年に「後鳥羽」という諡号が贈られます。
つまり、定家が百人一首に後鳥羽院とは書けないのです。
④他の誰かが改訂した・・・??その人物とは・・・??
京都嵐山の北・・・そこに蓮生の別邸がありました。
蓮生は、1259年11月12日にこの世を去ります。
その後、山荘を受け継いだのが、蓮生の娘婿で、定家の息子であった為家でした。
そして子の為家こそが、改定した人物なのです。
為家は、父・定家と後鳥羽上皇の関係を知り、義父である蓮生とも深い交流がありました。
改訂したのは、定家の嫡男である為家の可能性が高いのです。
為家もまた、後鳥羽上皇から目をかけられていました。
さらに、後鳥羽上皇の子・順徳上皇からも気に入られており、順徳上皇が承久の乱後に佐渡に流される時に、順徳上皇は為家についてきてほしいと頼んだといいます。
為家はお供しようとしましたが、父・定家に引き止められて京の都にとどまり、定家の死後、朝廷の有力者たちから蓮生の和歌の色紙を一冊にまとめてほしいと依頼がありました。
そのために・・・為家は作者表記を直したり、順番を変えたりしたのです。
その際に、為家が「隠岐院」の表記を「後鳥羽院」に変えたと考えられています。
それが百人一首として広まっていったのでは・・・??
最後の百首目は、為家がお供できなかった順徳上皇の歌です。
ももしきや
ふるき軒ばの
しのぶにも
なほあまりある
昔なりけり
宮中の古びた軒端の忍ぶ草を見るにつけても、偲び尽くせぬほど昔の良き時代が懐かしい
天皇家が栄えていた古き良き平安王朝を懐かしむ歌で百人一首は締めくくられています。
定家と蓮生、二人の心が息子に受け継がれ、生まれた鎮魂の歌集・・・百人一首。
苦難の人生を余儀なくされ、この世に未練を残し、この世を去った歌人を偲び、壮大な平安王朝の歴史に想いを馳せ・・・美しくも悲しい絵巻物の様な歌集・・・
京都・嵯峨野にある二尊院・・・
参道を抜け、長い石段を登った先にある細い山道を進むと・・・そこに定家の小倉山の山荘跡があります。
今でも百人一首を愛する人たちが訪れる定家ゆかりの場所です。
そしてここでは、定家の法要と、歌会が行われています。
百人一首を残した藤原定家に想いを馳せて・・・。
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百人一首です。
百人一首を編纂したといわれるのが、鎌倉時代の公家で、天才歌人と言われた藤原定家です。
その定家が集めた百人一首は、日本で最も有名な和歌集の一つですが・・・
いつ出来たのか、何のために作られたのか、どのような基準で選ばれたのか・・・多くの謎に包まれています。
定家が10代から80歳で亡くなるまで欠かさずにつけていたといわれる「明月記」に書かれていることは・・・
1235年5月27日、百人一首に関する記述があります。
定家74歳の時の事・・・
「嵯峨中院の障子の色紙形を予に書いてくれと彼の入道から懇切に頼まれた
余なぞがと 恐れ多いと思いながらも、出来ないなりに書き始めこれを送った
古来の人の歌をそれぞれ一首ずつ天智天皇より(藤原)家隆 雅経に及ぶまでを選んだ」
この日記に登場する彼入道とは、京都嵯峨に山荘を持っていた蓮生法師です。
定家より10歳年下といわれる蓮生も、和歌の名手でした。
定家の嫡男・為家と蓮生の娘が結婚しており、二人は姻戚関係にあったことから、定家は嵯峨の山荘に良く歌を詠みに行っていたといいます。
そんな蓮生が定家に、
「この山荘の襖障子に、和歌の色紙を貼りたいので、よいものを選んでくれませんか。」
と、熱心に頼んできたので、定家はこれを受け、古来の和歌を一人一首ずつ選んで届けたと日記にあるのです。
このことから、百人一首の成立は、1235年と考えられています。
成立当初、百人一首という名がついていたわけではありませんでした。
百人一首という名が最初に文献に現れるのが、室町時代になってからの事。
1406年に成立した現存最古の百人一首の注釈書と言われる「百人一首抄」の序文で・・・
室町時代には定家の選んだ百首の和歌に「小倉山庄色紙和歌」という名がついていて、百人一首と呼ばれていることがわかります。
定家が嵯峨の小倉山に山荘を持っていて、そこで和歌を編纂したためと通説では言われています。
四季をテーマにしたものが32首あり、その半分が秋を詠んでいます。
そして恋をテーマにしたものも多く、43首もあります。
しかし、選ばれたのは美しい歌や、著名な歌人だけではありません。
歌集は、平安時代、鎌倉時代に盛んに編纂されました。
中でもよく知られているのが勅撰和歌集と言われる天皇や上皇の命による公的な歌集です。
そこに歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉でした。
百人一首は、そんな勅撰和歌集に選ばれる歌人たちの歌を中心に選ばれたことから、優れた歌が集められたと思われてきました。
しかし・・・勅撰和歌集に収録された和歌が、10首に満たない歌人が20人近くもいます。
天智天皇、持統天皇、阿倍仲麻呂らが該当しています。
定家はどんな基準で選んだのでしょうか?
謎を解くカギは、持統天皇・・・
春すぎて
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香久山
天の香久山に真っ白な衣が干されているところを見ると、春が来て夏が来たらしいわ
持統天皇は、残された和歌の数が少なく、歌人と呼べるかどうかも疑わしいのです。
定家は、和歌の内容よりも、誰が詠んだのかを重視したと思われます。
詠み人を重視したという狙いは諸説あります。
①平安王朝の歴史書説・・・百人一首は、390年続いた平安王朝の壮大な歴史物語を和歌で表現した説です。
百人一首には、歴史に名を遺す逸話を持つ天皇や天皇を経験した上皇が載せられています。
光孝天皇・陽成天皇・持統天皇・天智天皇・順徳上皇・後鳥羽上皇・崇徳上皇・三条上皇です。
百人一首の一番目に選ばれた天智天皇
秋の田の
かりほの庵の
笘をあらみ
わが衣手は
露にぬれつつ
秋の田の側に建つ仮小屋の屋根を葺いた苫の目があらいからだろう
私の衣の袖が露に濡れているのは
秋の収穫時期の様子を詠んだこの歌は、もともと萬葉集におさめられていら詠み人知らず歌でした。
それを天智天皇が気に入って読み直したとされていますが、定かではありません。
それでも定家は、天智天皇の歌として、百人一首の最初に収録したかったのだといいます。
天智天皇が選ばれた理由は、桓武天皇の直系の先祖に当たることが挙げられます。
平安朝の皇統の大元として歴史を語るうえで外せない人物としてです。
桓武天皇は曽祖父である天智天皇の律令制に倣い、国を立て直そうと平安京に都を移した天皇です。
そのことから、定家は天智天皇を平安王朝の始祖として、百人一首の一番最初に選んだのです。
そして次に・・・天智天皇の娘である持統天皇を収録したのです。
百人一首は、平安王朝の始まりを思わせる親娘の句から始まっているのです。
さらに、百人一首で平安王朝の歴史を綴ろうとした定家が、その15番目に選んだのが平安王朝に欠かせない光孝天皇の歌でした。
光孝天皇は、鷹狩の復活を遂げるなど、宮中行事の再興に努めるとともに、和歌などを奨励。
平安貴族文化を花開かせた天皇です。
そして、締めくくるために選ばれた歌は、後鳥羽上皇と、順徳上皇の親子でした。
二人は、鎌倉時代初期の1221年、鎌倉幕府に反旗を翻し乱を起こします(承久の乱)。
幕府軍の圧倒的な力で鎮圧され、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ配流。。。
これによって武家政権の優位がゆるぎないものとなり、平安王朝の復活の目は絶たれたのです。
こうしたことから、天智・持統父娘の歌で始まり、後鳥羽・順徳親子の歌で終わる百人一首は、華やかなりしころの平安王朝を歌でつづった壮大な物語だとされてきました。
②不幸な人生説・・・人生で悲劇に見舞われた人や、不幸な人生を送った人を定家は選んだのではないか・・・??
その一人が、平安中期の三条上皇です。
三条上皇は25年にもわたる皇太子時代を経て、1011年に天皇に即位。
しかし、わずか5年で譲位を余儀なくされます。
そこには、時に権力者・藤原道長の存在がありました。
道長は、自分の娘・彰子を一条天皇に嫁がせて男の子(敦成親王)を設けていました。
道長は、その孫を天皇に即位すべく、三条天皇に早く譲位するように圧力をかけたのです。
三条天皇はこれに屈し、敦成親王に譲位・・・その翌年の1017年に失意のうちに42歳で崩御しました。
不遇の人生を送った三条上皇の歌の中から定家が選んだのが・・・
心にも
あらでうき世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな
心ならずも、この辛く儚い世に生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出されるに違いない
この夜更けの月を
不本意ながら、譲位した辛さを描いた歌でした。
平安時代末期の崇徳上皇の人生も苦難に満ちていました。
父・鳥羽上皇が朝廷の実権を握る院政を行っていたため、天皇時代にも思うような政治ができなかったばかりか、父に譲位させられてしまいます。
その後、弟の後白河天皇と対立。
武士を巻き込む戦へと発展・・・1156年保元の乱です。
戦いの結果、崇徳上皇側が破れ、上皇は讃岐に流されてしまいます。
そして、京に帰る夢がかなわないまま・・・崇徳上皇の魂は怨霊となって都を呪ったとされています。
百人一首に定家が選んだ不幸な歌人たちは、天皇や上皇だけではありませんでした。
朝廷で出世するも、敵対する藤原氏の策略で左遷され、亡くなって怨霊となった菅原道真。
鎌倉幕府三代将軍で、兄を殺され、その後将軍となったものの甥に暗殺されてしまった源実朝。
どうして定家は不幸な人生を送った歌人を選んだのでしょうか?
それは、彼等に対する鎮魂の意味があったのです。
和歌の作成を依頼した蓮生こそが、不幸な人生を送った歌人の和歌を選ぶことを定家に提案したのではないか?と思われます。
蓮生が提案した理由は・・・彼の人生を見るとわかると思われます。
蓮生は、宇都宮を中心として活動していた豪族の棟梁で、名を宇都宮頼綱と言いました。
もともと鎌倉幕府の有力御家人として活躍し、幕府を支えた武士でした。
しかし、1205年、人生を大きく変える事件が起こります。
執権・北条時政の後妻・牧の方が三代将軍実朝の暗殺を画策。
計画は失敗に終わりましたが、頼綱にも謀反の疑いが・・・
頼綱の妻が、時政と牧の方の娘だったため、頼綱が通じていると疑われたのです。
頼綱は、身の潔白を証明する為に思い切った手に打って出ます。
一族郎党約60人と共に出家したのです。
その後は、実信房蓮生として京都で暮らし、浄土宗に深く帰依していきます。
蓮生が浄土宗の信者になった事が、不幸な歌人を選ぼうと考えた理由です。
現世で苦しんだとしても誰でも極楽浄土に行ける・・・
蓮生は、山荘の襖障子に不幸な歌人の和歌を貼ることで、彼らに想いを馳せる場所にしたかったのです。
追善供養したかったのではないでしょうか。
藤原定家が選者とされる百人一首ですが、どうして100人だったのでしょうか?
そこには朝廷の実力者だった人物が深く関係しています。
定家は藤原道長の血筋をひいていました。
ところが、道長の直系だった定家の祖父の俊忠が死去、父・俊成が養子に出されてしまったことで運命は一変・・・出世コースから外れ、家は没落の一途をたどりました。
そんななか、燻っていた定家を引き上げてくれたのが、後鳥羽上皇でした。
後鳥羽上皇は皇族でありながら、相撲、水泳、乗馬、弓道などの武芸を嗜み、その一方で和歌も嗜んだ万能の才を持っていました。
1200年、後鳥羽上皇は貴族に100首の和歌を提出させました。
そして、その中から定家の和歌を手にとった後鳥羽上皇は、その才能をすぐさま見抜き、側近に取り立て・・・
1201年定家を和歌所の役人に任命します。
さらに、勅撰和歌集・新古今和歌集の選者のひとりに抜擢します。
この時、定家40歳・・・後鳥羽上皇に認められたことで、歌人として、臣下としてその地位を確立していきます。
こうして二人は和歌を通して互いを認め合い、蜜月の時を過ごしていましたが・・・
和歌に対する価値観の違いから対立するようになります。
1220年、ついに定家は後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、朝廷へ出仕を禁じられます。
1221年、後鳥羽上皇が承久の乱を起こします。
京の都からはるか遠い隠岐へ配流に・・・。
定家と後鳥羽上皇は、二度と会うことはありませんでした。
この時、上皇の側近たちにも処罰が下ったのですが、定家は袂を分かっていたために免れます。
それどころか、政界に復帰・・・71歳の時には権中納言にまで出世するのです。
この年、1232年、定家は「新勅撰和歌集」の編纂を任されます。
今の自分があるのは後鳥羽上皇のおかげ・・・と、後鳥羽恐慌の歌を選んで新勅撰和歌集の中に織り込みますが・・・
幕府に反旗を翻した人間の歌を入れるのは不適切だと周囲から圧力がかかります。
仕方なく定家は後鳥羽上皇の歌を外します。
そして無念の思いを抱えたまま・・・1235年3月、「新勅撰和歌集」完成。
その歌集を朝廷に納めた2か月後の5月・・・
蓮生法師から山荘の襖障子に歌を・・・と、依頼されたのです。
これは新勅撰和歌集の公的な歌集ではなく、私的なもの・・・。
そのために、どこからも圧力がかからず、叶わなかった後鳥羽上皇の歌を入れることができる・・・。
定家は構想を練り始めます。
そしてこの歌が頭をよぎります。
後鳥羽上皇が流された隠岐の地で作られた「時代不同歌合」です。
歌人を100人、1人3首ずつ選んだ歌集です。
定家は歌人として経営する後鳥羽上皇の歌集に刺激を受け、歌人を100人選ぶことにしたのです。
そしてその中に、後鳥羽上皇の歌を入れたのでは・・・??と思われてきました。
が・・・1951年、宮内庁書陵部であるものが発見され騒然となりました。
それが「百人秀歌」です。
歌の並び順は違うものの・・・定家の原案・・・草稿ではないかと考えられます。
そこには、後鳥羽上皇の歌がなかったのです。
つまり、定家は蓮生から依頼された和歌の中に、結局後鳥羽上皇の歌を入れていなかったのです。
③どうして定家は、後鳥羽上皇の歌を入れなかったのでしょうか?
定家は、鎌倉幕府と対立している後鳥羽上皇の歌を入れると、幕府に仕えていた蓮生が不快に思うのでは・・・
と思われてきましたが・・・。
しかし、和歌を選ぶ対象が、亡くなった歌人で、後鳥羽上皇はまだ存命していたために入れられていないのでは・・・??
こうして定家は、後鳥羽上皇の歌を入れずに蓮生に草稿を渡したのです。
現在知られている百人一首には、後鳥羽上皇の歌が入っています。
定家が選歌をし蓮生に草稿を託したその時に事件が起こりました。
1235年5月14日・・・定家は宮中に出入りしていた息子の為家から思わぬことを聞きます。
後鳥羽上皇の都に戻りたいという懇願が、鎌倉幕府によって拒否されているというのです。
後鳥羽上皇は、死ぬまで隠岐に・・・。
その知らせは蓮生の元にも届きます。
蓮生は、後鳥羽上皇の不幸な人生が決定したので、鎮魂の対象になると考えました。
そこで、後鳥羽上皇の和歌も入れて検証するように提案しました。
後鳥羽上皇を恩人とし、敬愛していた定家にとって、異論はありませんでした。
そこで、この歌を選びました。
人もをし
人もうらめし
あぢきなく
世を思ふゆゑに
物思ふ身は
人が愛おしく思われ、また人が恨めしくも思われる
面白くないとこの世を思うところから、あれこれともの思いをするこの私にとっては
世の中は思い通りにはいかないと嘆いた歌です。
定家が百人一首に選んだ自らの歌は・・・
こぬ人を
まつほの浦の
夕なぎに
焼くやもしほの
身もこがれつつ
待っても来ない人を待つのは
(淡路島の)松帆の浦で夕凪の頃に焼く藻塩のように
恋焦がれてい苦しいものだ
これは定家が淡路島のアマが恋人を待つ気持ちを詠んだ歌だとされています。
もしかすると、このこぬ人に後鳥羽上皇を重ねていたのかもしれません。
後鳥羽上皇は後鳥羽院と表記されています。
この後鳥羽とは、諡号のことです。
1235年に定家が百人一首を編纂
その時は、後鳥羽上皇はまだ御存命でした。
1239年に後鳥羽上皇が崩御し、1241年に定家が死去。1242年に「後鳥羽」という諡号が贈られます。
つまり、定家が百人一首に後鳥羽院とは書けないのです。
④他の誰かが改訂した・・・??その人物とは・・・??
京都嵐山の北・・・そこに蓮生の別邸がありました。
蓮生は、1259年11月12日にこの世を去ります。
その後、山荘を受け継いだのが、蓮生の娘婿で、定家の息子であった為家でした。
そして子の為家こそが、改定した人物なのです。
為家は、父・定家と後鳥羽上皇の関係を知り、義父である蓮生とも深い交流がありました。
改訂したのは、定家の嫡男である為家の可能性が高いのです。
為家もまた、後鳥羽上皇から目をかけられていました。
さらに、後鳥羽上皇の子・順徳上皇からも気に入られており、順徳上皇が承久の乱後に佐渡に流される時に、順徳上皇は為家についてきてほしいと頼んだといいます。
為家はお供しようとしましたが、父・定家に引き止められて京の都にとどまり、定家の死後、朝廷の有力者たちから蓮生の和歌の色紙を一冊にまとめてほしいと依頼がありました。
そのために・・・為家は作者表記を直したり、順番を変えたりしたのです。
その際に、為家が「隠岐院」の表記を「後鳥羽院」に変えたと考えられています。
それが百人一首として広まっていったのでは・・・??
最後の百首目は、為家がお供できなかった順徳上皇の歌です。
ももしきや
ふるき軒ばの
しのぶにも
なほあまりある
昔なりけり
宮中の古びた軒端の忍ぶ草を見るにつけても、偲び尽くせぬほど昔の良き時代が懐かしい
天皇家が栄えていた古き良き平安王朝を懐かしむ歌で百人一首は締めくくられています。
定家と蓮生、二人の心が息子に受け継がれ、生まれた鎮魂の歌集・・・百人一首。
苦難の人生を余儀なくされ、この世に未練を残し、この世を去った歌人を偲び、壮大な平安王朝の歴史に想いを馳せ・・・美しくも悲しい絵巻物の様な歌集・・・
京都・嵯峨野にある二尊院・・・
参道を抜け、長い石段を登った先にある細い山道を進むと・・・そこに定家の小倉山の山荘跡があります。
今でも百人一首を愛する人たちが訪れる定家ゆかりの場所です。
そしてここでは、定家の法要と、歌会が行われています。
百人一首を残した藤原定家に想いを馳せて・・・。
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