日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:崇徳上皇

京都・桂川を見下ろす小倉山・・・ここにあったといわれる山荘で、日本の文学史上燦然と輝く和歌集が生れました。
百人一首です。
百人一首を編纂したといわれるのが、鎌倉時代の公家で、天才歌人と言われた藤原定家です。
その定家が集めた百人一首は、日本で最も有名な和歌集の一つですが・・・
いつ出来たのか、何のために作られたのか、どのような基準で選ばれたのか・・・多くの謎に包まれています。

定家が10代から80歳で亡くなるまで欠かさずにつけていたといわれる「明月記」に書かれていることは・・・
1235年5月27日、百人一首に関する記述があります。
定家74歳の時の事・・・

「嵯峨中院の障子の色紙形を予に書いてくれと彼の入道から懇切に頼まれた
 余なぞがと 恐れ多いと思いながらも、出来ないなりに書き始めこれを送った
 古来の人の歌をそれぞれ一首ずつ天智天皇より(藤原)家隆 雅経に及ぶまでを選んだ」

この日記に登場する彼入道とは、京都嵯峨に山荘を持っていた蓮生法師です。
定家より10歳年下といわれる蓮生も、和歌の名手でした。
定家の嫡男・為家と蓮生の娘が結婚しており、二人は姻戚関係にあったことから、定家は嵯峨の山荘に良く歌を詠みに行っていたといいます。
そんな蓮生が定家に、

「この山荘の襖障子に、和歌の色紙を貼りたいので、よいものを選んでくれませんか。」

と、熱心に頼んできたので、定家はこれを受け、古来の和歌を一人一首ずつ選んで届けたと日記にあるのです。
このことから、百人一首の成立は、1235年と考えられています。
成立当初、百人一首という名がついていたわけではありませんでした。
百人一首という名が最初に文献に現れるのが、室町時代になってからの事。
1406年に成立した現存最古の百人一首の注釈書と言われる「百人一首抄」の序文で・・・
室町時代には定家の選んだ百首の和歌に「小倉山庄色紙和歌」という名がついていて、百人一首と呼ばれていることがわかります。
定家が嵯峨の小倉山に山荘を持っていて、そこで和歌を編纂したためと通説では言われています。

四季をテーマにしたものが32首あり、その半分が秋を詠んでいます。
そして恋をテーマにしたものも多く、43首もあります。
しかし、選ばれたのは美しい歌や、著名な歌人だけではありません。

歌集は、平安時代、鎌倉時代に盛んに編纂されました。
中でもよく知られているのが勅撰和歌集と言われる天皇や上皇の命による公的な歌集です。
そこに歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉でした。
百人一首は、そんな勅撰和歌集に選ばれる歌人たちの歌を中心に選ばれたことから、優れた歌が集められたと思われてきました。
しかし・・・勅撰和歌集に収録された和歌が、10首に満たない歌人が20人近くもいます。
天智天皇、持統天皇、阿倍仲麻呂らが該当しています。
定家はどんな基準で選んだのでしょうか?
謎を解くカギは、持統天皇・・・

 春すぎて
    夏来にけらし
          白妙の
 衣ほすてふ
    天の香久山

天の香久山に真っ白な衣が干されているところを見ると、春が来て夏が来たらしいわ

持統天皇は、残された和歌の数が少なく、歌人と呼べるかどうかも疑わしいのです。
定家は、和歌の内容よりも、誰が詠んだのかを重視したと思われます。

詠み人を重視したという狙いは諸説あります。

①平安王朝の歴史書説・・・百人一首は、390年続いた平安王朝の壮大な歴史物語を和歌で表現した説です。
百人一首には、歴史に名を遺す逸話を持つ天皇や天皇を経験した上皇が載せられています。
光孝天皇・陽成天皇・持統天皇・天智天皇・順徳上皇・後鳥羽上皇・崇徳上皇・三条上皇です。

百人一首の一番目に選ばれた天智天皇

秋の田の
    かりほの庵の
       笘をあらみ
わが衣手は
     露にぬれつつ

秋の田の側に建つ仮小屋の屋根を葺いた苫の目があらいからだろう
私の衣の袖が露に濡れているのは

秋の収穫時期の様子を詠んだこの歌は、もともと萬葉集におさめられていら詠み人知らず歌でした。
それを天智天皇が気に入って読み直したとされていますが、定かではありません。
それでも定家は、天智天皇の歌として、百人一首の最初に収録したかったのだといいます。

天智天皇が選ばれた理由は、桓武天皇の直系の先祖に当たることが挙げられます。
平安朝の皇統の大元として歴史を語るうえで外せない人物としてです。
桓武天皇は曽祖父である天智天皇の律令制に倣い、国を立て直そうと平安京に都を移した天皇です。
そのことから、定家は天智天皇を平安王朝の始祖として、百人一首の一番最初に選んだのです。
そして次に・・・天智天皇の娘である持統天皇を収録したのです。
百人一首は、平安王朝の始まりを思わせる親娘の句から始まっているのです。
さらに、百人一首で平安王朝の歴史を綴ろうとした定家が、その15番目に選んだのが平安王朝に欠かせない光孝天皇の歌でした。
光孝天皇は、鷹狩の復活を遂げるなど、宮中行事の再興に努めるとともに、和歌などを奨励。
平安貴族文化を花開かせた天皇です。
そして、締めくくるために選ばれた歌は、後鳥羽上皇と、順徳上皇の親子でした。
二人は、鎌倉時代初期の1221年、鎌倉幕府に反旗を翻し乱を起こします(承久の乱)。
幕府軍の圧倒的な力で鎮圧され、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ配流。。。
これによって武家政権の優位がゆるぎないものとなり、平安王朝の復活の目は絶たれたのです。
こうしたことから、天智・持統父娘の歌で始まり、後鳥羽・順徳親子の歌で終わる百人一首は、華やかなりしころの平安王朝を歌でつづった壮大な物語だとされてきました。

②不幸な人生説・・・人生で悲劇に見舞われた人や、不幸な人生を送った人を定家は選んだのではないか・・・??
その一人が、平安中期の三条上皇です。
三条上皇は25年にもわたる皇太子時代を経て、1011年に天皇に即位。
しかし、わずか5年で譲位を余儀なくされます。
そこには、時に権力者・藤原道長の存在がありました。
道長は、自分の娘・彰子を一条天皇に嫁がせて男の子(敦成親王)を設けていました。
道長は、その孫を天皇に即位すべく、三条天皇に早く譲位するように圧力をかけたのです。
三条天皇はこれに屈し、敦成親王に譲位・・・その翌年の1017年に失意のうちに42歳で崩御しました。
不遇の人生を送った三条上皇の歌の中から定家が選んだのが・・・

心にも
  あらでうき世に
      ながらへば
恋しかるべき
      夜半の月かな

心ならずも、この辛く儚い世に生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出されるに違いない
この夜更けの月を

不本意ながら、譲位した辛さを描いた歌でした。

平安時代末期の崇徳上皇の人生も苦難に満ちていました。
父・鳥羽上皇が朝廷の実権を握る院政を行っていたため、天皇時代にも思うような政治ができなかったばかりか、父に譲位させられてしまいます。
その後、弟の後白河天皇と対立。
武士を巻き込む戦へと発展・・・1156年保元の乱です。
戦いの結果、崇徳上皇側が破れ、上皇は讃岐に流されてしまいます。
そして、京に帰る夢がかなわないまま・・・崇徳上皇の魂は怨霊となって都を呪ったとされています。

百人一首に定家が選んだ不幸な歌人たちは、天皇や上皇だけではありませんでした。
朝廷で出世するも、敵対する藤原氏の策略で左遷され、亡くなって怨霊となった菅原道真。
鎌倉幕府三代将軍で、兄を殺され、その後将軍となったものの甥に暗殺されてしまった源実朝。
どうして定家は不幸な人生を送った歌人を選んだのでしょうか?
それは、彼等に対する鎮魂の意味があったのです。
和歌の作成を依頼した蓮生こそが、不幸な人生を送った歌人の和歌を選ぶことを定家に提案したのではないか?と思われます。
蓮生が提案した理由は・・・彼の人生を見るとわかると思われます。
蓮生は、宇都宮を中心として活動していた豪族の棟梁で、名を宇都宮頼綱と言いました。
もともと鎌倉幕府の有力御家人として活躍し、幕府を支えた武士でした。
しかし、1205年、人生を大きく変える事件が起こります。
執権・北条時政の後妻・牧の方が三代将軍実朝の暗殺を画策。
計画は失敗に終わりましたが、頼綱にも謀反の疑いが・・・
頼綱の妻が、時政と牧の方の娘だったため、頼綱が通じていると疑われたのです。
頼綱は、身の潔白を証明する為に思い切った手に打って出ます。
一族郎党約60人と共に出家したのです。
その後は、実信房蓮生として京都で暮らし、浄土宗に深く帰依していきます。
蓮生が浄土宗の信者になった事が、不幸な歌人を選ぼうと考えた理由です。
現世で苦しんだとしても誰でも極楽浄土に行ける・・・
蓮生は、山荘の襖障子に不幸な歌人の和歌を貼ることで、彼らに想いを馳せる場所にしたかったのです。
追善供養したかったのではないでしょうか。

藤原定家が選者とされる百人一首ですが、どうして100人だったのでしょうか?
そこには朝廷の実力者だった人物が深く関係しています。
定家は藤原道長の血筋をひいていました。
ところが、道長の直系だった定家の祖父の俊忠が死去、父・俊成が養子に出されてしまったことで運命は一変・・・出世コースから外れ、家は没落の一途をたどりました。
そんななか、燻っていた定家を引き上げてくれたのが、後鳥羽上皇でした。
後鳥羽上皇は皇族でありながら、相撲、水泳、乗馬、弓道などの武芸を嗜み、その一方で和歌も嗜んだ万能の才を持っていました。
1200年、後鳥羽上皇は貴族に100首の和歌を提出させました。
そして、その中から定家の和歌を手にとった後鳥羽上皇は、その才能をすぐさま見抜き、側近に取り立て・・・
1201年定家を和歌所の役人に任命します。
さらに、勅撰和歌集・新古今和歌集の選者のひとりに抜擢します。
この時、定家40歳・・・後鳥羽上皇に認められたことで、歌人として、臣下としてその地位を確立していきます。
こうして二人は和歌を通して互いを認め合い、蜜月の時を過ごしていましたが・・・
和歌に対する価値観の違いから対立するようになります。
1220年、ついに定家は後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、朝廷へ出仕を禁じられます。

1221年、後鳥羽上皇が承久の乱を起こします。
京の都からはるか遠い隠岐へ配流に・・・。
定家と後鳥羽上皇は、二度と会うことはありませんでした。

この時、上皇の側近たちにも処罰が下ったのですが、定家は袂を分かっていたために免れます。
それどころか、政界に復帰・・・71歳の時には権中納言にまで出世するのです。
この年、1232年、定家は「新勅撰和歌集」の編纂を任されます。
今の自分があるのは後鳥羽上皇のおかげ・・・と、後鳥羽恐慌の歌を選んで新勅撰和歌集の中に織り込みますが・・・
幕府に反旗を翻した人間の歌を入れるのは不適切だと周囲から圧力がかかります。
仕方なく定家は後鳥羽上皇の歌を外します。

そして無念の思いを抱えたまま・・・1235年3月、「新勅撰和歌集」完成。

その歌集を朝廷に納めた2か月後の5月・・・
蓮生法師から山荘の襖障子に歌を・・・と、依頼されたのです。
これは新勅撰和歌集の公的な歌集ではなく、私的なもの・・・。
そのために、どこからも圧力がかからず、叶わなかった後鳥羽上皇の歌を入れることができる・・・。
定家は構想を練り始めます。
そしてこの歌が頭をよぎります。
後鳥羽上皇が流された隠岐の地で作られた「時代不同歌合」です。
歌人を100人、1人3首ずつ選んだ歌集です。
定家は歌人として経営する後鳥羽上皇の歌集に刺激を受け、歌人を100人選ぶことにしたのです。
そしてその中に、後鳥羽上皇の歌を入れたのでは・・・??と思われてきました。
が・・・1951年、宮内庁書陵部であるものが発見され騒然となりました。
それが「百人秀歌」です。
歌の並び順は違うものの・・・定家の原案・・・草稿ではないかと考えられます。
そこには、後鳥羽上皇の歌がなかったのです。
つまり、定家は蓮生から依頼された和歌の中に、結局後鳥羽上皇の歌を入れていなかったのです。

③どうして定家は、後鳥羽上皇の歌を入れなかったのでしょうか?
定家は、鎌倉幕府と対立している後鳥羽上皇の歌を入れると、幕府に仕えていた蓮生が不快に思うのでは・・・
と思われてきましたが・・・。
しかし、和歌を選ぶ対象が、亡くなった歌人で、後鳥羽上皇はまだ存命していたために入れられていないのでは・・・??

こうして定家は、後鳥羽上皇の歌を入れずに蓮生に草稿を渡したのです。

現在知られている百人一首には、後鳥羽上皇の歌が入っています。
定家が選歌をし蓮生に草稿を託したその時に事件が起こりました。
1235年5月14日・・・定家は宮中に出入りしていた息子の為家から思わぬことを聞きます。
後鳥羽上皇の都に戻りたいという懇願が、鎌倉幕府によって拒否されているというのです。
後鳥羽上皇は、死ぬまで隠岐に・・・。

その知らせは蓮生の元にも届きます。
蓮生は、後鳥羽上皇の不幸な人生が決定したので、鎮魂の対象になると考えました。
そこで、後鳥羽上皇の和歌も入れて検証するように提案しました。
後鳥羽上皇を恩人とし、敬愛していた定家にとって、異論はありませんでした。
そこで、この歌を選びました。

人もをし
   人もうらめし
      あぢきなく
世を思ふゆゑに
      物思ふ身は

人が愛おしく思われ、また人が恨めしくも思われる
面白くないとこの世を思うところから、あれこれともの思いをするこの私にとっては

世の中は思い通りにはいかないと嘆いた歌です。
定家が百人一首に選んだ自らの歌は・・・

こぬ人を
   まつほの浦の
        夕なぎに
焼くやもしほの
   身もこがれつつ

待っても来ない人を待つのは
(淡路島の)松帆の浦で夕凪の頃に焼く藻塩のように
恋焦がれてい苦しいものだ

これは定家が淡路島のアマが恋人を待つ気持ちを詠んだ歌だとされています。
もしかすると、このこぬ人に後鳥羽上皇を重ねていたのかもしれません。

後鳥羽上皇は後鳥羽院と表記されています。
この後鳥羽とは、諡号のことです。
1235年に定家が百人一首を編纂
その時は、後鳥羽上皇はまだ御存命でした。
1239年に後鳥羽上皇が崩御し、1241年に定家が死去。1242年に「後鳥羽」という諡号が贈られます。
つまり、定家が百人一首に後鳥羽院とは書けないのです。

④他の誰かが改訂した・・・??その人物とは・・・??
京都嵐山の北・・・そこに蓮生の別邸がありました。
蓮生は、1259年11月12日にこの世を去ります。
その後、山荘を受け継いだのが、蓮生の娘婿で、定家の息子であった為家でした。
そして子の為家こそが、改定した人物なのです。
為家は、父・定家と後鳥羽上皇の関係を知り、義父である蓮生とも深い交流がありました。
改訂したのは、定家の嫡男である為家の可能性が高いのです。
為家もまた、後鳥羽上皇から目をかけられていました。
さらに、後鳥羽上皇の子・順徳上皇からも気に入られており、順徳上皇が承久の乱後に佐渡に流される時に、順徳上皇は為家についてきてほしいと頼んだといいます。
為家はお供しようとしましたが、父・定家に引き止められて京の都にとどまり、定家の死後、朝廷の有力者たちから蓮生の和歌の色紙を一冊にまとめてほしいと依頼がありました。
そのために・・・為家は作者表記を直したり、順番を変えたりしたのです。
その際に、為家が「隠岐院」の表記を「後鳥羽院」に変えたと考えられています。
それが百人一首として広まっていったのでは・・・??

最後の百首目は、為家がお供できなかった順徳上皇の歌です。

ももしきや
    ふるき軒ばの
        しのぶにも
なほあまりある
    昔なりけり

宮中の古びた軒端の忍ぶ草を見るにつけても、偲び尽くせぬほど昔の良き時代が懐かしい

天皇家が栄えていた古き良き平安王朝を懐かしむ歌で百人一首は締めくくられています。
定家と蓮生、二人の心が息子に受け継がれ、生まれた鎮魂の歌集・・・百人一首。
苦難の人生を余儀なくされ、この世に未練を残し、この世を去った歌人を偲び、壮大な平安王朝の歴史に想いを馳せ・・・美しくも悲しい絵巻物の様な歌集・・・

京都・嵯峨野にある二尊院・・・
参道を抜け、長い石段を登った先にある細い山道を進むと・・・そこに定家の小倉山の山荘跡があります。
今でも百人一首を愛する人たちが訪れる定家ゆかりの場所です。
そしてここでは、定家の法要と、歌会が行われています。
百人一首を残した藤原定家に想いを馳せて・・・。

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かつて、日本を恐怖のどん底に陥れた怨霊・・・
当代随一の絵師・歌川国芳によって書かれたその怨霊とは・・・

sutoku

数奇な運命に翻弄された崇徳上皇の浮世絵です。

崇徳上皇・・・平安時代の終わり、骨肉の権力闘争に巻き込まれた悲運の最期を遂げた上皇です。

謀反の罪で流罪となった崇徳上皇は、遠く讃岐の地でその生涯を閉じました。
鎌倉時代の軍記物「保元物語」には、晩年、強い恨みを抱えた崇徳上皇が自らの舌を噛みきって怨霊となる衝撃の場面が記されています。
その呪いが現実となったのか、その後天変地異や政治不安が起こり、誰もが崇徳上皇の祟りと恐れました。

さらに、怨念は天皇家にも襲い掛かります。
「皇を民となし 民を皇となさん」
そして、武士の世が到来・・・以来700年、明治まで天皇は政治の表舞台から遠ざかることとなります。
こうして崇徳上皇は、日本最大最強の怨霊ととなったのです。

背後には院政という一強独裁の権力の暴走・・・既存の価値観が崩壊する混乱の時代がありました。
怨霊誕生の背景にあったものは・・・??

京都御所の北西にある白峯神宮・・・ここに祀られているのが、崇徳上皇です。
創建は1868年、今から150年前、明治天皇が即位と同時にある決意を込めて建てたものです。
幕末維新の大変革の時代、明治天皇は崇徳上皇を祀り、その怨念を鎮めたというのです。
崇徳上皇の御霊は、流罪となった讃岐にありました。
そこから10日間かけて、京都に運ばれました。
以降、京都の人々は、この地を恐れ敬ってきました。

崇徳上皇とはどんな人物だったのでしょうか?
伏見区にある安楽寿院・・・ここは、崇徳上皇の人生を狂わせた崇徳の父・鳥羽天皇が建てました。
平安時代後期、絶大な権力を誇った鳥羽上皇・・・。
この鳥羽上皇との関係に、崇徳は生涯悩まされることとなります。
院政とは、天皇を退いた上皇・・・院が中心となって行った政治の事です。
天皇の後見人となって権力の座に就いた上皇は、それまで摂関家に守られてきた慣例をことごとく無視!!
かつてない一興独裁制を作り上げていました。
その象徴が、鳥羽離宮でした。
ここで、それまでの政治手法や身分制度にとらわれない独裁政治を行いました。
上皇に気に入られれば誰でも出世可能に・・・院近臣は、身分の低い、下級貴族の出身でした。
さらに北面の武士も組織、手柄を立てたものを優遇し、軍事力も意のままに・・・。
宮廷内の人事、政治権力を掌握し、莫大な権力を持つこととなった院。。。
そんな院を周囲は治天の君と言って称えたといいます。
しかし院政のシステムには、重大な欠陥がありました。
摂関時代は、天皇の外戚が大きな力を持っていました。
院政期に入ると、皇位継承をはじめとして重大問題は院が独裁的に決めてしまうようになります。
もし院が判断を誤れば、とんでもないことが起こってしまうのです。

1119年、鳥羽上皇の第一皇子として生まれます。
1123年、崇徳天皇として即位したのは、僅か5歳でした。
院政の次なる担い手として帝王学をたたき込まれ、和歌の才能に恵まれ、歌会を頻繁に主催し、宮廷の中でもひときわ輝いてる存在でした。
深い教養と、芸術を兼ね備えた崇徳天皇・・・父と同じ治天の君を期待されていました。
1141年、天皇を退位し、23歳で崇徳上皇となります。
新しい天皇は、息子の重仁が選ばれ、院政が始まるはずでした。
ところが・・・鳥羽上皇がそれを許さなかったのです。
権力の座に座り続け、新しい妻との間の子・近衛天皇を即位させたのです。
崇徳上皇にとっては、腹違いの弟でした。
梯子を外された崇徳上皇は、大いに失望したといいます。

院政は、天皇の直系尊属でなければなりません。
弟だと院政は出来ない・・・崇徳上皇が近衛天皇に位を譲る、次は崇徳上皇の皇子・・・この路線を描いて、崇徳上皇も納得したと考えることができます。
その後も、鳥羽上皇は権力を手放そうとはしませんでした。
崇徳上皇は、実権のない上皇としてチャンスを待つ以外にありませんでした。
事態が動いたのは、それから14年後・・・
1155年、近衛天皇が崩御
後継者を選ぶ必要性が出てきました。
遂にこの時が・・・!!
しかし、父・鳥羽上皇は権力を譲りません。
即位したのは実の弟・後白河でした。
帝王学もろくに学ばず、天皇の器にはないとされていました。
まさに、想定外の出来事で、朝廷を非常に動揺させました。
崇徳の怒りは、相当なもので・・・今後は、後白河の血が継承していくこととなってしまいました。
崇徳の子孫は、皇位から外されてしまいました。
崇徳にとってこの上ない屈辱であり、激しく憤ったといいます。

どうして父は、私を執拗に排除するのか・・・??
鎌倉時代の「古事談」には、その頃、まことしやかにささやかれていた崇徳上皇の出征の秘密が原因ではないか?と言われています。
実は、崇徳上皇の父は、曽祖父・白河法皇で、その噂を信じた鳥羽上皇が崇徳上皇を忌み嫌うようになったのでは・・・??ということです。
噂を流したのは、崇徳上皇の失脚を望む、後白河派の公家たちだったともいわれています。
朝廷内にはびこる思惑に翻弄され、政治権力への道を閉ざされてしまった崇徳上皇。
この泥沼の確執が、怨霊伝説の引き金となっていくのです。

稀代の若の名手として名高い崇徳上皇・・・。
代表作の一つが百人一首に選ばれています。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
          われても末に あはむとぞ思う

切ない恋の歌として名高いが、父・鳥羽上皇との和解を謳ったとも取れます。

秋の田の 穂波も見えぬ 夕霧に
          畔づたひして 鶉なくなり

田んぼの畔に従ってしか歩けない飛べない鶉・・・父に翻弄され続けた諦めの想いが反映されています。
行き場のない葛藤と孤独を抱える崇徳上皇に近づく一人の男・・・藤原頼長です。
摂関家・藤原氏の頂点に立つエリートで、日本一の知識人でした。
頼長は、院政に乱れた休廷政治の回復を主張・・・摂関政治の栄華を取り戻そうとしていました。
しかし、院の主流派と対立し、悪左府と揶揄されていました。
朝廷内に敵の多かった頼長は次第に孤立・・・
後白河天皇の側についた実の兄・忠通の謀略により、政治の中枢から外されてしまいました。
院政に不満を持つ二人が急接近していきます。
天皇家と摂関家を真二つにする権力闘争が始まりました。
そして、色めきだったのは武士たち・・・。
公家たちからの一方的な差別に不満を持っていました。
武士たちにとってこの騒動は、武士の地位向上を図るまたとないチャンスでした。

時代は突如動き出しました。
1156年、鳥羽法皇崩御
その直後、都に噂が・・・崇徳上皇と頼長に謀反の疑いあり!!
これは、後白河天皇がしかけた挑発でした。
そして、後白河側は、警護のためと称し、兵を招集・・・緊張は極限まで高まりました。

このままでは後白河法皇に捕らえられ、謀反の罪を着せられかねない・・・
この事態をどうやって和解する??
それとも武力に訴える・・・??

7月9日・・・ついに決断を下します.
夜に白川北殿へ・・。
翌日頼長と合流すると、陣を構えたのです。
崇徳上皇の元には、源為義・為朝親子をはじめ、思いを同じくする人が・・・。
後白河天皇の元には、平清盛や源義朝など気鋭の若武者たちが集結・・・。
天皇家、摂関家、武家・・・身内同士が真っ二つに・・・後に保元の乱と呼ばれる戦いが始まろうとしていました。
1156年7月11日未明・・・両軍は鴨川を挟んで睨み合っていました。
事態が動き出したのは、余も明けやらぬ午前4時!!
後白河天皇軍の600余りの兵が奇襲を仕掛けました。

思わぬ襲撃に驚いた崇徳上皇・・・
必死の抵抗も、火を放たれて止む無く敗走・・・僅か4時間ほどで雌雄は決しました。
崇徳上皇に組した武士は、捕らえられ死刑・・・実に、350年ぶりの死刑復活でした。
捕らえられた崇徳上皇は讃岐に流罪・・・。
武力がものをいう時代の幕開けでした。

香川県坂出市・・・ここで、崇徳は怨霊となったと言われています。
最初の3年は雲井御所で・・・。
やがて讃岐国府の近くに移され、生活は厳しい監視下に置かれます。
住居にした木丸殿は、粗末は小さな小屋でした。
1164年・・・46歳で亡くなった崇徳上皇。。。
その死にまつわる不思議が伝説があります。
遺体が運ばれる際に立ち寄った高家神社。
棺から血が流れたことから血の宮と言われています。

崇徳上皇の棺が納められたのは、白峯御陵。
その最後は、何者かに殺されたとも、自ら命を絶ったともいわれています。
しかし、怨霊にまつわるモノは残っていません。

それではどうして怨霊となったのでしょうか?
都では保元の乱以降、後白河上皇の世になってから天変地異が・・・。
すると、崇徳上皇の復権を願うものから怨霊の存在が語られだしたのです。
ある公卿の日記には・・・

「近頃天下に相次いで起きる悪事は崇徳上皇の祟りに違いない。
 その魂を鎮めることは重要なことである。」

後白河上皇は、最初は全くとり合いませんでした。
しかし、親族が次々と病に倒れ、不幸が相次ぐと、その存在を認め、対策を講じることに・・・。
かくして、崇徳上皇の怨霊伝説は生まれたのです。
そして、祟りを恐れた人々の創造により、虚実ないまぜの物語が生み出され、語り継がれたのです。

江戸時代になると、崇徳上皇は物語の登場人物として活躍し、広く庶民に知られていきます。
幕末になると、平田篤胤などの王政復古を唱える国学者たちから、鎮魂が訴えられるようになりました。
朝廷の権威が衰え、武家に移った根本は、崇徳上皇の怒りではないか??
今こそ、その祭祀を復興すべきである!!
明治天皇によって創建された京都白峯神宮・・・讃岐から迎えた御霊にささげた祝詞は言います。

天皇と朝廷を末永く守り、奥羽の旧幕府軍を鎮圧し、新政府をお守りくださいますよう

崇徳上皇は、700年の時を経て恐怖の怨霊から国を守る守護神へと変貌を遂げたのです。


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いよいよ坂に挑戦です。

有間皇子のお墓の近くには・・・

PB222377.JPG

お地蔵さんがありました。

ここから藤白坂を登っていきます。

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はじめは平坦な道ですが・・・

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ああ、階段が!!
峠に突入です。黒ハート


動くのが苦手な私ですが、道には1丁ごとにお地蔵さんが立っています。

この地蔵は元禄年間(1688~1704)に海南の高僧全長上人が、安全祈願と坂の長さを計るために1丁ごとに建てたものです。

全部で18体あるそうです。

私も、あと〇丁・・・と、勘定しながら登りました。黒ハート
けっこう励みとなりました。

ずんずん進んでいくと、竹藪もあります。

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笠をかぶった平安美女が、赤い衣装で出てきそうです。

そんな趣も感じながら、

十四丁まで行くと、筆捨松と硯石がありました。
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この筆捨松、そのいわれは・・・
平安初期の仁和(885)のころ、絵師巨勢金岡は熊野への途中、藤白坂で童子と出会い競画をすることになりました。
金岡は松にウグイスを、童子は松にカラスの絵を描いたのですが。。。

金岡は童子の絵のカラスを、童子は金岡の絵のウグイスを、手を打って追うと、両方とも飛んでいってしまいました。
童子がカラスを呼ぶと、どこからか飛んできて絵の中に収まったのですが、しかし、金岡のウグイスはついに帰りませんでした。

金岡は「無念!」と筆を投げ捨てたといいます。
その筆は、「投げ松」のところへ落ち、以来、筆捨松と呼ばれてきました。

その童子は熊野権現・・・おもいあがった巨勢金岡を、熊野の神様がいましめたというお話です。

その故事にちなんで初代紀州藩主徳川頼宣公が筆捨松のそばに造らせたのがこちら。
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硯石です。

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ピンとはった空気の中、今も昔も変わらない・・・そんな空間を楽しみながら

たどり着いたのは

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峠のおじぞうさん、地蔵峰寺です。

この中には、大事にお地蔵さんが祀られています。
この裏にある丘は御所の芝といい和歌浦から淡路島まで見渡せる景勝の地です。

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この日は朝から雨だったので、ちょっと靄がかかっていますが、片男波がとても綺麗でした。

熊野への行幸は、宇多天皇が最初だと言われています。

熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言われています。
白河上皇はその後あわせて9回の熊野行幸を行いました。
これにより京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになり、その後、後白河上皇も34回の熊野行幸を行っています。
ちなみに回数は、有名どころで・・・
宇多法皇(1)・白河上皇(9)・鳥羽上皇(21)・崇徳上皇(1)・後白河上皇(34)・後鳥羽上皇(28)・・・と、いろいろな天皇や貴族に愛されていました。

でも。。。
ホントに、天皇行幸ってなったら、輿はいるは荷物も多いは・・・よくこんな道を歩けたものだ・・・と思います。
決死の覚悟だたのでしょうね。
だからこそ、景色にも、温泉にも、大自然の神秘にも、心の底から感動したのでしょうね黒ハート


ああ、ほんとに、視聴率低迷の”平清盛”ですが、もっと熊野古道もタイアップしてれば良かったのに・・・!
出てきた天皇、みんな熊野詣してるじゃん!!


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