日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:嵯峨天皇

奈良で出会う 天皇になった皇女たち

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皇女の結婚 潔姫

律令に基づいて政治が行われるようになった奈良時代。
朝廷の様々な制度が確立、天皇の娘である皇女には、内親王という称号が与えられることに・・・。
更には皇女は天皇か4世代までの皇族としか結婚できないと定められました。
皇族の血筋をむやみに広げないということが目的でした。
ところが平安時代、この時代を破って、皇女が臣下と結婚するという前代未聞のことが・・・!!
それは、嵯峨天皇の皇女・潔姫です。
嵯峨天皇は、女性好きで知られ、50人もの子を設けました。
しかし、これが問題で・・・当時、律令によって、天皇の子には一品から四品までの品位が与えられ、その品位に応じて税収の権利や私有地などの膨大な俸給が支払われていました。
これに倣い、50人の子全員に俸給を払うと・・・その額は膨大で、朝廷を圧迫することは目に見えていました。
そこで目をつけたのが臣籍降下です。
臣籍降下とは、皇族がその身分を離れ、「源朝臣」という姓を与えられて臣下となることです。
これなら、子供達への俸給は払わなくて済むのです。
この時、嵯峨天皇が格下げしたのは50人中32人!!
皇女は15人!!
皇女が臣下に下ることは史上初のことでした。

源潔姫もその一人ですが・・・どうして格下げされることとなったのでしょうか?
潔姫の母親が、当麻治田麻呂(下級役人)の娘だったので、内親王になることができなかったからです。
臣籍降下となった潔姫・・・ほかの14人の皇女たちも同じ理由からでした。
皇族でなくなった彼女たちの生活は一変!!
俸給カット、御所への出入り禁止、身の回りの世話をする女官もいません。
潔姫は、母方の実家に身を寄せますが、下級役人だったので、その生活は天と地との貧しいものでした。
そんな清姫を不憫に思ったのが、張本人の嵯峨天皇。
幼いころから潔姫を人一倍かわいかったので・・・思いついたのが貴族との結婚!!
皇族ならば限られていましたが、臣下となった立場なら貴族との結婚が可能です。
裕福な貴族と結婚し、不自由ない生活をさせてやろうと考えました。
相手探しに奔走し、見つけたのが藤原良房でした。
良房は、時の左大臣・藤原冬嗣の次男で、藤原氏の中でも藤原北家という家系に属していました。
藤原北家は、奈良時代に活躍した藤原不比等の子がそれぞれ・・・

藤原南家・・・・武智麻呂
藤原北家・・・・房前
藤原弐家・・・・宇合
藤原京家・・・・麻呂

を祖とする家系の一つで、平安時代に入り他の家が力を失う中、天皇の側近として頭角を現していました。
そんな有力な藤原氏との結婚を取り付けた嵯峨天皇、この結婚にはもうひとつ思惑が・・・
潔姫を大変可愛がっていたことは事実ですが、この結婚で藤原氏を天皇家を守る一族にしようとしたのです。

潔姫は、皇女だった女性として初めて臣下である貴族に嫁ぐこととなります。
その結婚は、当時の貴族の結婚・・・婿取婚でした。
結婚式にも独特のしきたりが・・・
決まると陰陽師が日取りを決めます。
その日が来ると、花嫁に恋文を認め、ふみ使いの子供に届けさせます。
その夜、花婿は牛車に乗り花嫁の家へ・・・
嫁入り行列ではなく、婿入り行列で、上流貴族ともなると盛大でした。
花嫁の家に着くと、道中の灯りに使った日をその家の灯籠と燈台に移し、1か月にわたって消さないように守りました。
その後、花婿と花嫁は帳台に新枕(共寝)をします。
花婿は、翌朝には自宅に戻り、後朝の文を送ります。
花嫁を慕う恋の歌を記して・・・。
新枕の夜から3日間、花婿は花嫁の家に通い続け、ようやく結婚が成立するのです。

そして、結婚が成立した3日目に・・・三日夜餅の儀式が・・・。
寝所にお餅が供えられ、二人が自分たちの結婚を祝うのです。
女性の家のお餅を男性が食べる・・・そのことで、男性を女性の家の一員に迎えるという儀式です。
この夜、露顕(ところあらわし)と呼ばれる現代の披露宴が行われ、夫婦になったことを周囲に認めてもらいました。
有力貴族・藤原良房の妻となった潔姫の暮らしは向上します。
おまけに、皇女をもらった良房の地位も上がります。
天皇から引き立てられ、出世していきます。
二人の娘・明子(あきらけいこ)が文徳天皇と結婚、二人の間の男の子が清和天皇となり、天皇の母方の祖父となった藤原良房は、皇族以外で初めての摂政となり、絶大な権力を手に入れるのです。

潔姫の結婚を機に、藤原氏は皇女の結婚相手にされるようになり、それ以来、平安時代を通し、皇女の結婚は、藤原氏の権威を高めるために利用されていくのです。


平安時代の皇女はなかなか結婚できませんでした。
というのも、律令によって、結婚相手は皇族か一部の貴族だけに限られていたこと。
そして、斎王を務める義務があったからです。
斎王とは、天皇に代わって、伊勢神宮と京都の加茂神社に仕える女性のこと。
延喜式には・・・”天皇が即位したら、未婚の内親王を選んで斎王に定めよ”とあります。
そのため、皇女は幼いころから斎王となり務めを果たすことに・・・。
斎王に任命された皇女は、沐浴などで二年間身を清めた後、斎王として周囲から隔離された生活を送ります。
姿を見せるのは、毎年4月の葵祭の時だけ・・・。
斎王は、華麗な行列を率いて加茂神社に参拝。
神に使える身として祭祀を行いました。
そんな斎王は一度なると、天皇の崩御、譲位、親族がなくなるなど、よほどのことがない限り、解かれることはなく・・・斎王である間は結婚が許されませんでした。
いつ終わるとも知れない長い孤独の日々を送る斎王・・・。
その選び方は亀占い??
占いは形式上で、本当は天皇や重臣で決まっていたとも・・・??

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866年閏3月10日夜・・・京都を震撼させる怪事件が発生しました。
朝廷の政務や儀式を執り行う朝堂院の正門・応天門が突如炎上したのです。
展をも焦がす炎におののく人々・・・何者かによる放火。
容疑者は政府の要人・・・??

容疑者として告発されたのは・・・??
政権ナンバー2・・・左大臣・源信
政権ナンバー4・・・大納言・伴善男
真犯人は誰なのか?放火の目的は何・・・??
余りにも衝撃的な事件でした。
背後にあったのは、貴族たちの権力闘争でした。

政権ナンバー1の太政大臣・藤原良房は、重大な決断をします。
そこにナンバー3の左大臣・藤原良相もからんで・・・??

一夜にして、応天門とその左右の楼閣がことごとく焼け落ちました。
この頃、都では咳逆病と呼ばれる流行性感冒が流行し、死者が溢れていました。
異常気象による不作、富士山の噴火・・・応天門の炎上は、不幸な出来事が相次ぐ不安に満ちた時代に起こりました。
事件からしばらくして、政権ナンバー2の左大臣・源信の屋敷が突然軍勢に包囲されました。
応天門放火の容疑がかけられたのです。
指示したのは、政権ナンバー3の右大臣・藤原良相とナンバー4の大納言・伴善男。
二人は手を携えて、源信に反逆の疑いありと実力行使に出たのです。
驚いたのは、政権ナンバー1の藤原良房です。
良相の兄でもある良房は、弟や伴善男の行動に愕然とし、清和天皇に軽々しく結論を出さないように願います。

「源信は陛下に対し、大きな功績を立てた臣下です。
 どうしても罰するというなら、まず年老いた私が罪に服しましょう。」by良房

源信への疑いは、彼を陥れようとする者の偽りかも知れない・・・
返す返すよく調べてから対処すべきであると進言したのです。
天皇は良房の意見を聞き入れ、確かな証拠がない以上、罪には問わない・・・と、源信の屋敷に使いを出します。

火事の原因は謎のまま迷宮入り・・・
その後も都では、人々の恐怖を煽る出来事が続きます。
たびたび物の怪が現れます。
朝廷は、災いを払うために、各地の神社仏閣で祈祷を行いますが、不安は治まることを知らず・・・
5か月後、事態は急変・・・
一人の下級役人が、大納言・伴善男とその息子が放火したと訴え出たのです。
放火を告発した側が訴えられたのです。
朝廷は騒然・・・
善男は尋問を受けるものの、犯行を全面否認・・・証拠はあがらず・・・
政府要人に次々とかけられた疑い・・・世情は不穏な空気に包まれました。17歳の清和天皇は、事件の捜査に行き詰まりを感じ・・・
そして、一つの決断を下しました。

「太政大臣(藤原良房)に詔し、天下の政を摂行せしむ」by清和天皇

政権のナンバー1・藤原良房が天皇に代わって政治を執り行う摂政の詔を出したのです。
事態収拾の全権が、良房の手に・・・!!

容疑者二人の人物像とその背景は・・・??

<天皇の子・源信>
左大臣・源信は、嵯峨天皇の子でした。
影響力が強く、兄弟たちも高い地位につくものが多く・・・
嵯峨源氏は、藤原氏をも脅かす存在でした。
信は文武を兼ね備え、鷹狩りや乗馬を好み、屋敷には武芸に秀でたものを多く集めていました。
しかし、これが疑いを招く原因となるのです。

864年、政権ナンバー1の藤原良房が、流行りの伝染病にかかり、生死を彷徨います。
すると、信はこの機に乗じ兵を動かし、政変を企てているとの投書が朝廷に寄せられました。
政権ナンバー4の伴善男は朝廷に・・・
「源信が良からぬことを企んでいるとは聞いてはいたが、投書によって反逆の意志は明らかとなった。」
源信は、失脚の危機に陥りますが、武力に秀でた家来たちを追放することで、事態の決着をみるのです。
この源信に対する攻撃の先頭に立っていたのが大納言・伴善男でした。

<名門氏族の末流・伴善男>
伴善男の一族・・・大伴氏は・・・積悪の家・・・悪事を積み重ねてきた一族・・・と、ひどく言われています。
大伴氏は、神話の時代に天孫降臨の先導をしたといわれている名門・・・。
6世紀には天皇を守って、軍事権を掌握。
壬申の乱においては、天武天皇を勝利に導き、朝廷で確固たる地位を得ます。
しかし、大伴氏の運命は、相次ぐ政権争いの中暗転・・・
善男の曽祖父は、謀反に加担したとして獄死・・・
祖父は、政府要人の暗殺事件を起こしたとして斬首・・・
善男の父も連座し、佐渡に流されています。
先祖が立て続けに失脚し、衰えてしまった大伴氏の復権は、善男の悲願・・・。
努力をして立身出世するほかありませんでした。

勉強熱心な善男は、政務や朝廷の制度に詳しく、どんな質問にも答えることができたといいます。
そのため、優秀な官吏としての能力が認められ、参議にまで出世します。
しかし、善男は周囲の人々から悪賢い男とみられていました。
寛容さがなく、人に反論をしていたとか・・・
伴善男は、政権ナンバー1の良房に接近・・・良房の姉・皇太后の近くに仕えることで大きな信頼を得ます。
藤原良房の忠実な部下として、ついに源信の兄弟たちを差し置いて、政権ナンバー4の大納言に・・・!!

そんな中、二人が応天門放火の疑いをかけられたのです。
解決をゆだねられた良房は・・・??

<政権一の実力者・藤原良房>
藤原氏は、大化の改新で功績をあげた鎌足以降、天皇家に一族の娘を嫁がせて親戚となることで有力氏族としての地位を保ってきました。
そして、政変によって、次々とライバルを排除していったのです。
良房も、自らの娘を天皇に嫁がせ、誕生した皇子が清和天皇として9歳で即位。
史上初となる幼少の天皇に代わって政治を執り行ったのが良房でした。
政治的に重要な決定を、清和天皇の成人まで待てない・・・幼い天皇に代わって政治的な決定を行っていました。

しかし、盤石に見える良房にも不安要素が・・・次期権力者・藤原良相。
良房は、朝廷の職務からほとんど身を引き、政権ナンバー3の弟・藤原良相に任せていました。
する良相は良房にたがわぬ力をつけ・・・
すでに60歳を越えていた良房は、跡取りとなる男子に恵まれず、養子しかいません。
天皇に嫁がせる娘ももういない・・・。
一方良相は兄よりも恵まれ、男子が成人し、天皇に嫁がせた娘も寵愛を受けていました。

応天門の炎上は、良房にとって不都合な人物が力を伸ばしてきたときに起こったのです。
最大のライバル氏族・源信、新しく力を伸ばしてきた身内・藤原良相、実際に告発された伴善男・・・
誰に罪を負わせるのか・・・??
事件をどのように終息させるのか・・・??

”善男は伊豆の国に配せらる”

善男は、応天門放火の罪を負わされて、伊豆に流刑に・・・!!
良房の選択はナンバー4の伴善男に罪を負わせるというものでした。

伴善男を有罪としたのは・・・
藤原良房に摂政の詔が出た10日後・・・伴善男の従者が捕らえられなす。善男を告発した下級役人の娘を殺害したという・・・。
拷問された従者は、応天門の放火は善男が手を下したのではなく、息子が行ったものだと証言。
そこから、善男は首謀者だと決めつけられたのです。

伴善男は、最後まで罪を認めませんでした。
朝廷内では、善男の罪に疑問を抱くものもいました。
本当に伴善男が放火したのか・・・??
応天門は、平城宮の時代には大伴門と呼ばれ、大伴氏が守護していました。
末裔に当たる伴氏が放火するだろうか・・・??
放火犯としては無罪だったのでは・・・??

善男は、2年後の869年・・・流刑地の伊豆で失意のうちに57歳で亡くなります。
以後・・・大伴氏が活躍することは亡くなります。
源信は、事件の後、屋敷の門を閉ざし、世間との交わりを断ちました。
善男と同じ年・・・12月、落馬によって60歳で亡くなり、嵯峨源氏も力を失っていきます。

弟の良相も、右大臣の職を辞したいと願い出ます。
願いは聞き入れられなかったものの・・・
867年病死・・・54歳でした。

騒動の中一人勝ち残りゆるぎない地位を手にした藤原良房。
死後、養子だった基経が初の関白に・・・!!
その子孫が、摂関家として藤原氏の栄華を独占するのです。

都を震撼させた平安京最大の怪事件・応天門の変・・・
多くの疑惑を秘めたまま、永遠のミステリーとして語り継がれています。



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空海の秘密

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2000とも3000ともいわれる伝説とともに生き続ける・・・空海。
杖でたたくと温泉が出た伊豆・修善寺、柄杓が杉の木となったと言われる高尾山・・・
伝説とともに川崎大師や成田山、四国八十八カ所等でも有名な・・・弘法大師・空海です。

平安時代高野山を中心に新しい教えを広めました。
「人は生きながらにして仏になれる」という密教の教え。。。
死後の世界より、現世に重きを置く密教!!
その奥義を極めた空海は、世の中に広めていきました。
現在の法事の原型を作り、貴族を思いのままに・・・天皇さえも弟子とした。
空海は、「56億7000万年後、人々を救済するため再びこの世に現れる」と言ったとか。。。

今から1200年前、原生林を切り開き密教の聖地が生まれました。
高野山です。
1000㏊の巨大な土地に117の寺院、600人の僧が暮らすこの山は、密教の修行者にはまさに聖地。。。
2004年には世界遺産に登録されました。
この一大拠点を築いたのが空海です。
エリート官僚を目指していた空海・・・どうして官僚の道を捨てて中国へ・・・??

774年、空海は香川県で、豪族の三男として生まれました。
幼いころから成績優秀で、両親は将来は国の官僚に・・・!!と思っていました。
国の官僚になるには、都に一つしかない大学に入る必要がありました。
しかし、その大学に入学できるのは、ほとんど貴族の子弟・・・豪族にとっては狭き門でした。
その狭き門を突破し、入学後もひたすら勉強します。
しかし、空海は目の前にある壁に気付きます。
どんなに成績優秀でも、地方の豪族出身は・・・生涯下っ端だったのです。
やる気を失った空海は「虚空蔵求聞持法」・・・と唱えるものに出会います。
険しい道を修行しながら100日で100万回の呪文を唱える空海・・・。
その身なりは乞食でさえ目を背けたといいます。
そんな時神秘的なことが・・・
明けの明星が口の中に飛び込んできたのです。
この体験は何を意味するのでしょうか??

その答えを探すために、修行にのめり込んでいく空海・・・
遂に、100日で100万回の呪文を唱えることに成功!!
官僚の道を諦め、出家を決意します。

しかし、親族は反対します。
大学を卒業さえすれば、エリートでなくても中央官僚でいられるのです。
親族の声に反論したのが国宝「聾瞽指帰」です。
その中で空海は、仏教・儒教・道教を比較しています。
「それぞれ聖人の教えであるが、儒教より道教の方が優れている、その道教より優れているのが仏教である。
さらに親孝行という小さな高校より、人々に広く慈愛を及ぼす大きな孝行の方が大切である。
どうして目先のことにこだわらなければならないのか。」

名だたるあらゆる宗教の経典を読み漁る空海・・・
そんなある日、「大日経」と出会います。
そこには、曼荼羅、真言など、全く新しいことが書かれており、理解できませんでした。
もしかしたら・・・この大日経の教えの中に、あの神秘的なことの答えがあるかもしれない!!
しかし、当時、大日経を理解する者は日本にはいませんでした。

暗澹たる思いに駆られる空海は、明師を求めて中国に行くしかありませんでした。
当時・・・中国に行くなら遣唐使でした。
が、遣唐使になるには、朝廷の人脈、莫大な費用がかかりました。
空海は伯父に・・・船に乗れるように願います。
実家にも帰り、お金を出してくれるように頼みます。
留学僧には20年の滞在義務があり、そのお金が必要だったのです。
大学もやめてしまって放浪した上に、中国に行きたいのでお金が欲しい・・・
それでも父は、お金を工面してくれました。
804年、31歳で唐に出発!!

留学した僧に定められた滞在期間は20年・・・
中には、船が来なかったために30年いた者もいました。
ところが・・・空海はわずか2年で帰国します。
空海が唐の都・長安にたどり着いたのは、804年・31歳の時でした。
当時、唐は国際都市で、仏教以外にもイスラム教、キリスト教、マニ教・・・好奇心旺盛な空海は、色々な名だたる寺院を回りました。
こうした中・・・空海は、大日経が密教の経典であることを知ります。

それまでの仏教が死後の世界を説いていたのに対し、密教は現世利益を唱え、修行をすれば生きながら仏になれるという教えに加え、加持祈祷によって、病気を治し悪霊退散しました。
そのため人気を集め、信者が増えていたのです。
空海は密教の奥義を極めるために、大日経に取り組みます。
経典はサンスクリット語・・・古代インドの言葉”サンスクリット語”を理解しないといけません。
3か月でサンスクリット語を習得し人々を驚かせ・・・第一人者を訪問することに・・・!!
その人物は恵果。世界中から集まった1000人もの弟子がいました。
さらに、唐の皇帝三代(代宋・徳宋・順宋)を弟子とし「三朝国師」と呼ばれていました。

その恵果を尋ねた空海に・・・
「私はこの地に、あなたが来ていることを知っていて、長い間待っていた。
 今日、こうして会うことができてとてもうれしい。
 私は寿命が尽きようとしている。
 しかし、法を伝えるべき人がいなかった。
 早速、あなたに密教のすべてを捧げよう。」と言われます。

空海は待ち望まれていた人物だったのです。
恵果と一対一の公伝が始まりました。
わずか3か月で密教のすべてを学んだ空海・・・。
世界でただ一人の密教の伝道者としての位”伝法阿闍梨”の名をもらうのでした。
そして恵果から帰国を促されます。
「一刻も早く日本に帰り、この教えを国中に広め人々の幸せが増すように祈りなさい。
 そうすれば、世の中は平和となり、すべての人が心安らかに暮らせるでしょう。」
空海には自分も三朝国師なりたいという野心が生まれるのでした。

20年もいられない!!しかし、帰るすべはありません。
20年の留学期間が終わるまで、遣唐使船が来る予定はありません。
しかし、空海は諦めません。
20年分の留学費用のすべてをつぎ込んで、日本での布教に必要なものを買い漁り始めます。
密教の経典・法具・曼荼羅・・・日本にない物を・・・!!
そして奇跡が・・・!!
唐の新しい皇帝の即位を祝うために、日本から使者がやってきました。
唐に渡ってわずか2年、空海は日本に戻ってきました。

帰国した空海は、20年間修業をしなかった罰で九州に留め置かれます。
何とか都に戻りたい空海は・・・唐から持ち帰った経典や法具がいかに貴重なものかという御請来目録を書いて、朝廷に提出することにしました。

しかし、役人たちは見向きもしません。

ところが・・・この目録に驚いたのは・・・天台宗の開祖・最澄でした。
どうして関心を寄せたのでしょうか?
仏教界のエリート・最澄は、桓武天皇から比叡山を与えられるほどの信頼を得ていました。
そして・・・天台宗の教えを極めるために、空海と同じころに唐に渡りました。
が・・・特別扱いだったために、留学期間は1年!!
最澄は、天台宗の教えを修めた後、帰国する前の1か月間だけ密教を学んだのです。
桓武天皇は、最澄が密教を持ち帰っていたことを喜んでいました。
病床に臥せっていた桓武天皇は、この病気を怨霊の仕業と思っていて、加持祈祷によって病を治し、悪霊を追い払う密教は、天皇の望むものだったからです。
密教を深く知ることが必要だった最澄・・・その時目にしたのが空海の目録でした。
809年大宰府にいる空海を都に招いた最澄。
当時、最澄が空海にあてた手紙には、”下僧最澄”と書かれています。
最澄の望みで、最澄を弟子にした空海。
桓武天皇の寵愛を受け日本仏教界の第一人者が無名の僧に弟子入りしたことで、空海の名が一躍有名になります。
空海から経典を借り、密教への理解を深め4年が経ったある日・・・
最澄は、密教の最も重要な経典「理趣経」の注釈書である「理趣釈経」を貸してほしいと空海に頼みます。
しかし、空海は断りました。
「理趣経」は、タブーだった欲を肯定し、性愛でさえ清浄と解くもので、注釈書を読むだけでは誤った解釈をしかねなかったからです。
そして最澄に時間をかけて学びに来るように言います。
しかし、天台宗の開祖は度々比叡山を離れることはできませんでした。
結局、二人の興隆はありませんでした。

密教を広めるために活動を始める空海・・・それは、空海伝説の始まりでした。
空海の故郷香川県満濃池。
灌漑用のため池が決壊し、修復が進んでいませんでした。
この治水工事を・・・唐で最新の土木技術を学んでいたのです。
現代にも通じる方法で・・・。

これらを密教のおかげだとさせるために、現場で加持祈祷をします。
空海は、病気も治します。
唐で薬も勉強していましたが、ここでも加持祈祷は欠かしません。
このようにして空海は密教を浸透させていきます。
そして・・・各地に残る伝説は空海のカリスマ性によるものから出来上がっていきます。

空海は布教を始めたのは、奈良仏教が浸透していた時代・・・
そんな時代に空海はどうして密教を一気に広めることができたのでしょうか??
貴族の間に密教を広めようとします。
そこで供養に重きを置きます。
当時は、戦が絶えませんでした。
戦死した相手が祟りとなり呪う・・・そんな時代だったのです。
死んだ相手を供養すればよい・・・ということで、一周忌に加持祈祷、密教の抗議・・・
貴族たちを信者としていきます。
これは法事として現代に残っています。

そして・・・天皇に近づく・・・そのためには、貢物を利用します。
桓武天皇の息子・嵯峨天皇は、のちに三筆と呼ばれるほど書に秀でていました。
唐の文化に憧れていました。
そこで空海は天皇に直接手紙を書きます。
謙遜分の中に・・・密教を学んできたことと書を学んできたこと・・・それが嵯峨天皇をつる撒き餌だったのです。
唐から持ち帰っていた「書」を、何度も分けて送り続けたのです。
空海は、徐々に天皇の信頼を得ていきます。

そして・・・天皇と友達のような文章になっていきます。
パトロンは天皇・・・そして、823年嵯峨天皇を密教の継承者として認める灌頂を与えています。
天皇を弟子にすることをついに達成するのです。
唐から帰って18年・・・空海50歳の時のことでした。

仏教界の頂点に上り詰めた空海は、密教の拠点づくりに力を注ぎます。
高野山です。
どうして高野山に・・・??
ここを本格的な修行の場とします。
しかし街にも・・・東寺を教王護国寺としました。
密教がこの国には欠かせないもの・・・!!
立体曼荼羅を設置し布教に励みます。

高野山と東寺を行ったり来たりする日々・・・心理を追い求め、あらゆる手段を使って密教を広めます。
65歳の時に空海は食事も水も絶ち、高野山・奥の院の御廟に入定!!
空海はこう言い残します。
「56億7000万年後、人々を救済するため弥勒菩薩とともに再びこの世に現れる。」

四国八十八カ所を訪れるお遍路・・・自らの願いを叶えるために・・・供養のために・・・歩く・・・その白衣に記された「同行二人」の文字・・・それは、空海が常にそばで見守ってくれているという意味です。
空海の入定から86年後、醍醐天皇が弘法大師という名を贈りました。
その際、奥之院を開けると空海の姿は生き生きしていたといいます。

空海は今も生き続け、人々の幸福を願っているとされています。

「宇宙が亡くなり
 人間は誰もいなくなり
 悟りもなくなってしまうまで
 私の願いは尽きません。」


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先日・・・和歌山県の九度山町にある慈尊院へ行ってきました。

P1056518















この慈尊院は・・・??

空海が・・・嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に・・・
高野山詣での要所に当たるこの九度山に・・・高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所として高野山への宿所ならびに冬季避寒修行の場としました。

P1056521















高齢となった空海の母・阿刀氏は、讃岐から高野山を一目見ようとやってきましたが・・・
当時高野山は7里四方女人禁制となっていました。

P1056529















そこでこの慈尊院に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰しました。
空海は、ひと月に9度(頻繁に)母に会うために高野山の山道を20数km下ってきました。

だからこの辺りは”九度山”というのです。

空海の母が、この弥勒菩薩を熱心に進行していたので、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、”女人高野”と言われるようになったのです。

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さすが”女人高野”です。
おっぱいの絵馬が納められています。
女性の病気も治してくれる、女性に優しい慈尊院です。

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いつもは見ないのですが・・・
あのまったり感があんまり好きではないのです。あせあせ(飛び散る汗)

「歴史秘話ヒストリア」です。
和歌山県の高野山のことだったので・・和歌山県人として見てみました。黒ハート


紀伊半島の中央部・高野山・・・標高800mを超える山の上に、100余りの寺院が・・・
およそ1200年前に弘法大師・空海が開いた真言密教の聖地です。

kuu.png

以来、たゆみなく信仰が受け継がれてきました。

参道には20万を超える供養塔があり、2004年に世界遺産に指定され、海外にも知られるようになりました。
日本人の心のよりどころです。

高野山の麓、九度山町・・・慈尊院には・・・
女性たちがお詣りした安産祈願や子育て祈願のお守りでいっぱいです。

言い伝えによると・・・
年老いた空海の母が、故郷の四国・讃岐から高野山にやってきましたたが・・・
高野山は女人禁制しかも厳しい修行の場・・・
そこで、空海はその麓で暮らしてもらいました。
そして、母を案ずる空海は、月に九度も高野山から下りてきた・・・
そこからこの地が九度山と呼ばれ、この寺が女人高野と与荒れるようになりました。

高野山にある大門・・・
高さ25メートルの大きな門、ここから先は女人禁制、真言密教の聖地への入り口です。

密教が中国からもたらされたのは平安時代の初め・・・
唐に渡った空海が・・・
「生けるものすべてが その身のまま 仏となる」
新しい考え方を広めようととしました。
朱色に色どられた「根本大塔」
この中には、空海がもたらした密教の世界を目で見て感じることが出来ます。

曼荼羅・・・密教では大切なものです。
2枚一組とされ、仏の教え、悟りの境地を現したものです。
私たちの世界の成り立ちが表現され・・・また、悟りに至るまでの道のり・境地を示してくれています。
曼荼羅を通して、仏の教えを感じとり、正しい修行を行えば、人は誰でも生きている間に悟りを開けるという”即身成仏”の教えを説きました。

空海の弟子たちは、寺を建て・・・そこは現在・宿坊となっています。
そこでは修行や精進料理が体験できます。
空海の時代は、僧侶は一汁一菜の粗末な食事でした。
肉や魚の他、ニラ・ネギ・にんにく・生姜・ラッキョウなど…匂いのキツイ野菜は禁じられていました。
そのうちに皇族や貴族達の高野詣でで料理の工夫が始まりました。

東西5㎞・南北3㎞に広がる高野山の中でも、神秘的なのが奥之院。

oku.png

奥之院に向かう2㎞の参道には・・・平安時代からの供養塔が立ち並び・・・
その中には武田信玄・勝頼親子・上杉謙信の霊屋・・・樹齢数百年の杉木立の中に立つ奥之院・燈籠堂。。。
空海を拝む場所です。

そして弘法大師への信仰は、全国に広まり・・・高野詣でや四国八十八か所を巡礼するお遍路さんが根付いてます。

空海の仕事のひとつに・・・
仏像や仏具、経典を整えて密教の布教の土台を作ったことです
漢頂暦名・・・祈祷・・・法具・・・曼荼羅・・・仏像・・・立体曼荼羅・・・

空海の残した言葉・・

「あなたの心が暗闇であれば
  出会うものは
   ことごとく禍いとなります

 あなたの眼が明るく開かれていれば
  出会うものは
   すべて宝となります

 正しい道は
  遠くにあるものではありません
 あなたの心ひとつで
  目の前に開かれるのです」

理知的で前向きな空海・・・

しかし・・・

「哀しい哉 哀しい哉 復哀しい哉
 悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉」

という言葉も残しています。
この言葉にはあるエピソードが・・・
空海が数多くの弟子の中でもかわいがっていたのが智泉。

平安時代の初め、20代の空海は仏教を志し、山林修行に明け暮れていました。
この頃、このような僧は私度僧と呼ばれ、正式な僧侶としてみとめっれていませんでした。
しかし、修行を続ける空海。
その頃弟子となったのが、智泉。姉の子で、弟子になったのは14歳のときでした。
最初の弟子だったのです。
いつも光と影のように寄り添っていました。

しかし・・・804年空海は、仏教を学ぶ留学生として遣唐使船に乗り込み、唐の国に渡りました。
密教を2年間ですべて学んで、帰国します。
が・・・空海は、国から20年間の留学命令を受けていたので都に入れません。
この窮地にかけつけたのが智泉。
力強い味方になったようです。

智泉に密教を教えます。
そして・・・嵯峨天皇が即位します。
密教に強い関心のあった天皇で、許され都に入ることが出来ました。

嵯峨天皇に書を献上・・・天皇の信頼を得るために!!

嵯峨天皇には子供がいなかったので祈祷を命じられます。
智泉は昼夜問わずに祈祷をし・・・翌年男の子あ誕生。
後に皇太子となりました。
これは、空海をかなり助けます。


高野山に修業道場を作りたいと申し出る空海。

「紀伊の国に幽玄で静かな平地があります。
 その名を高野と言います。
 荒地の草木を刈り、平らげて
 修行のできる一院を建立したいのです。」

それは許され、寺院の建立が始まります。
忙しい空海の手足となって働く智泉・・・
しかし、高野山は標高800m・・・冬には雪が!!!


825年・・・智泉が37歳の若さで亡くなってしまいました。
その時に言ったのが・・・
「哀しい哉・・・・・」だったのです。

「悟りを開けば この世の悲しみ 驚き
 すべて迷いの生み出す
 幻に過ぎないことはわかっています
 それでも あなたとの別れには
 涙を流さずにはいられません」

832年空海は高野さんで最初の法要を行います。
その流れをくむ万灯会はいまも続いています。


平成27年高野山は空海の開創から1200年目を迎えます。
高野山大伽藍・・・唯一の弱点は落雷。
高野山は幾度となく落雷に遭い、江戸時代だけでも4回も焼失しました。

しかし、多くの人の努力によって復活してきました。
そして、空海の密教への想いは受け継がれ、今もその信仰は衰えることはありません。
今現在、1200年に向けて江戸時代の火災で焼失した中門を、最古の記録に基づいて復元しています。

空海が高野山開創に託した願いはいまも大切に受け継がれています。


高野山、和歌山人にとっては本当に身近で、でも聖地です。
ここに行くと背筋がしゃんとするというか、下界とは違ったピンと張った空気感がたまりません。
例えば、「帽子脱がなくっちゃ揺れるハート」みたいな。

奥之院へと通じる道には、武田信玄以外にも・・・
豊臣秀吉、織田信長、石田三成、薩摩島津家、伊達政宗、武田信玄、大岡越前・・・なんかのお墓もあります。他にも前田とか、いっぱいあったような・・・
神を神とも思わない織田信長もあるなんて、お墓の前に立つとちょっと不思議な気分になります。あせあせ(飛び散る汗)

紀の川筋には、真言宗の信者さんが多いです。
わが家のお寺の上は根来寺ですが、もちろんその上は高野山です。揺れるハート
何かあると、高野山に行きたくなります。
気持ちが引きしまります黒ハート
本当に今も庶民に親しまれている弘法大師さんです。

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