日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:川中島

松代藩―親兄弟の血縁を断っても護った真田の家名。信州最大の (シリーズ藩物語)

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長野県長野市松代町は・・・真田10万石・・・真田幸村の兄・真田信之の城下町です。
その町は、真田家10代が六文銭の旗印のもと、明治維新まで治めた歴史ロマンあふれる町です。

日本一の兵・真田幸村。その兄の信之が初代藩主です。
三途の川の渡し賃・六文銭を旗印とし、戦で数々の武功をあげてきた一族です。

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松代城は、天守のない城です。
この真田19万石の城は、もともと戦国最強の甲斐の虎・武田信玄の城でした。
川中島の合戦の時に、上杉謙信と戦うために造られた城、それが海津城・・・松代城です。
山本勘助に命じて造らせたものです。
5回もあった川中島の合戦で、最も激闘を繰り広げた第4回川中島の合戦の前年に完成したと言われています。
そして、この城を中心に戦いが行われたのです。

信之は、松代城に入った際に、武田信玄の城をリフォームして住んだのです。
今も変わらない城郭も残っています。

天正3年にあった長篠の戦いで、織田・徳川に滅ぼされた武田家・・・。
しかし、武田家家臣の真田昌幸が信州・上田で独立し、そこに武田家家臣たちも移り・・・そして真田松代藩を支えることになりました。

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真田邸は、9代藩主幸教が母の隠居所として建築し、明治維新後は真田家の私邸となっています。
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佐久間象山ゆかりの城下町でもある松代。
松代が生んだ幕末の思想家であり科学者です。
象山神社もあります。
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下級武士の出身でありながら、その才能を認められときの松代藩八代藩主・真田幸貫に見いだされ江戸へと遊学します。
天保13年真田幸貫が幕府の老中・海防掛を命じられ、象山は西洋学の研究に着手。
海防八策を解くようになります。


ちなみに海防八策とは・・・

  1.諸国海岸の要所に砲台を設置すること。
  2.オランダに輸出している銅を禁止し、この銅
    で大砲を鋳こと。
  3.他国に劣らぬ大船をつくり、江戸への物資
    輸送を安全にすること。
  4.海運にたずさわる役人を厳選して、海上の
    取り締まりを強化すること。
  5.船艦製法の術を学び、水軍(海軍)の養成
    に努めること。
  6.津々浦々に学校を設け、愚夫愚婦に至るま
    で忠孝節義の道を教えること。
  7.賞罰を明らかにして政治に信頼を持たせ、
    民心の団結をはかること。
  8.貢士(人材登用)の道を開くこと。

です。
明治維新の25年前なのに、とても先進的な内容でした。

象山の門下生・吉田松陰がペリーの船に乗り込もうとする事件が起きます。
この松陰の密航を助けたということで、9年間松代で蟄居をすることになるのです。
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蟄居中に住んでいたのが”高義亭”です。

蟄居を許された象山は、京都で一橋慶喜と謁見。
幕府朝廷の橋渡しをする最中・・・攘夷派の志士によって暗殺されるのでした。




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松代藩文武学校は、嘉永6年に八代藩主真田幸貫が、佐久間象山の意見を取り入れて設立した藩校です。



御用商人だった八田家は、呉服・酒造・松代焼など多角経営に成功し、豪商として藩財政を支援していました。
そこには、400通にも及ぶ佐久間象山の直筆の手紙がありました。
下級武士だった象山の年収は・・・5両5人扶持(約300万円)でした。
その上科学者だったので、お金が必要でした。
経済的に援助をしていたようです。
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真田家が生き残りをかけた城下町、信州・松代。
明治維新まで松代を守り、・・・幕末の日本を守る原動力となりました。
家臣たちの末裔が、六文銭魂をしっかりと守り続けている町でした。


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戦国時代最強と詠われた武田信玄。

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甲斐の虎と呼ばれるまでには、いくつもの転機が。。。。。
5つのターニングポイントがありました。

山梨県甲州市塩山・・・ここ恵林寺は、鎌倉時代に開かれ、信玄が尊敬する快川紹喜が住職となったことから菩提寺となりました。
信玄は快川紹喜を仰ぎ、いろいろ人間として相談していたようです。
ここにある武田不動尊には、領民を守るという信玄の強い意志が現れています。

その武田信玄の人間像とは???

武田信玄は、戦国時代を代表する武将ですが・・・
人びとのイメージは・・・立派な武将・大物政治家・戦略家・・・戦上手な人と思われているようです。


1521年11月3日甲府市積翠寺で武田信虎の嫡男として生まれます。
孫子の兵法を重んじ、風林火山の名のもとに、甲斐の虎として恐れられていました。
「民こそが国家の財産である」という孟子の政治学を重んじ、国内の開発にも積極的でした。

信玄棒道・狼煙台・・・周囲の戦国大名に恐れられた戦略家でした。
対するは越後の龍・上杉謙信です。
龍虎の戦い・・・これを納めているのが甲陽軍は、武田信玄・勝頼二代の記録です。
高坂虎綱が口述し、甥が書き、江戸時代に軍学者によってまとめられたものです。
信玄を密かに尊敬していた家康、この甲陽軍鑑が江戸幕府の教本となりました。

徳川時代タブーだった三方が原の戦い・・・出版禁止されずにありました。
つまり、甲陽軍鑑は、徳川家にとって権威ある書物だったようです。


ターニングポイント①父・信虎を駿河へ追放する

では、どうして父親を追放したのでしょうか?
当時甲斐の国は、自信過剰でワンマンな専制君主・信虎の悪政に苦しめられていました。
そう、当主としての信頼は薄れつつあったのです。
政権末期的な様相で・・・家臣をはじめ、民衆が世直しを求めていたようなところがありました。
そんな中、嫡男晴信は大手柄を立てます。
父のできなかった海ノ口城の攻略にわずか300人で攻め落としました。
しかし、その城に残らなかったということで“臆病だ”と、信虎は弟・信繁に盃を取らせ跡を継がせようとし・・・晴信を阻害しようとしました。

こうした信虎の振る舞いに、父を駿河に追放することを決めるのです。
当時、武田を配下にしようとしていた駿河の今川義元に手紙を送ります。
うつけのふりをして・・・今川義元に家督を誰にするか???と・・・任せます。
うつけなら大丈夫???と、今川が思うように・・・。
その思惑通り、謀反に協力させようとしたのです。
信虎が駿河から戻ってくるところを待ち受けて・・・甲斐の国から追放したのです。
駿河で隠居することになった信虎・・・
こうして晴信は一国の主となり、甲斐の国を治めることになったのです。
大胆不敵な戦略家だったのです。


ターニングポイント②甲斐で初めての法律を作る

甲斐の国は山岳地帯で積雪が多く・・・実りもあまり多くなく・・・
借金や訴訟が多くありました。
人びとは、貧しさゆえに疲弊していました。
1547年甲州法度之次第を制定します。
この法律は、家臣や領民に対してですが・・・
領民に対しては減税もありました。
釜無川と笛吹川・・・この二つの河川の氾濫は、当時の甲斐にとって大きな問題でした。
そこで、信玄堤を作り、その周辺に集落をつくりました。
その人たちには・・・信玄堤の管理を任せ、税金を免除しました。
また、貴重な財源だった甲州金・・・金山衆に免税をし、増産をさせます。

そして・・・そこにはびっくり、
「晴信、決まり事を破ったら相当の処分を受ける」
と、ありました。必罰を自分に課したのです。
内政の充実を図り、家臣や領民の信頼を得ようとしたのです。
人と金を握る“カリスマ経営者”でもあったのです。


ターニングポイント③三国同盟を結ぶ

甲斐の国は、越後の上杉謙信、駿河の今川義元、相模の北条氏康と・・・戦国大名の中でも屈指の三氏に囲まれていました。
北の上杉の土地は・・・海もあり、豊穣で・・・どうしても手に入れたい土地でしたが。。。
その為には、後ろにいる今川・北条が気がかりでした。
1554年三国同盟が、甲斐、駿河、相模の間で結ばれます。
戦国時代2国間の同盟でも大変なのに、3国の同盟を結ぶのは、並大抵のことではありませんでした。
ところが、晴信は・・・前例のない快挙をすることが出来ました。

注目していたのは、相模の北条氏康。
北には関東管領の上杉憲政、西は駿河の今川義元がいたため、武田とも戦いが始まれば・・・窮地に陥ってしまいます。
そこで・・・北条に敵対していた上杉・今川と和睦させることに成功し。。。
そして・・・この二国を取り込み、三国同盟を成功させるのです。
この同盟は、婚姻関係を結ぶことで強いきずなとなり、以後20年間友好関係を結ぶことになりました。
三国同盟のおかげで背後に安心した晴信は・・・念願の信濃平定に向けて全力を尽くすことになります。


ターニングポイント④川中島・壮絶な戦い

越後の雄・上杉謙信との戦い・・・
川中島の戦いは5度にわたっています。
信濃平定を望む信玄と、それを阻もうとする謙信。
両者には、本陣同士の決戦はなく、小競り合いが続いていました。
しかし、第4次川中島の戦いは、今までとは明らかに違う・・・戦国時代最大と言える壮絶な戦いがそこにはありました。

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上杉が布陣したのは妻女山。
武田軍は茶臼山に布陣し、上杉軍の退路を断ちます。
この時、武田軍は2万。上杉軍は1万3000。
そして、合戦は、山本勘助がたてたキツツキ戦法から始まるのです。

武田軍別働隊が、妻女山の後ろから攻め込みます。
逃げた上杉軍を武田の本陣が待ち受ける・・・その場所は、八幡原。
戦いは、上杉軍優勢に徹し、武田軍は壊滅寸前に!!

そして、謙信が・・・・・信玄との一騎打ちです。

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盛り返す信玄側は、この戦いで名だたる武将を失います。
弟・武田信繁、諸角虎定、山本勘助・・・この激戦で武田軍の死者数は8000人、上杉軍は5000人と言われています。
余りにも多くの兵士を失ってしまった信玄・・・この後は戦法を変え、戦わずして勝つ戦いへとなります。
“失わずして得る戦い”
箕輪城・・・長野業盛城主は、5年かけて落城しています。それは、家臣たちを武田に寝返らせることで城主を孤立させるという方法でした。

深沢城・・・北条網成城主は、籠城する敵方に屋文を投げ込んで、降伏するように説得しています。
戦わずして勝つ!!という戦術を手に入れました。
“失敗から学べる強さも持っていた”のでしょう。


ターニングポイント⑤義信が謀反を企てる

1565年一人の男が信玄に反旗を翻そうとしていました。
信玄の嫡男・義信です。
発端となったのは・・・駿河に対しての意見の相違でした。
川中島の信玄との戦いが思うようにいかない中、駿河の今川義元は桶狭間で討ち死に・・・駿河は当主交代で揺らいでいました。

そこを攻め込もうとしたのですが・・・駿河は義信の正室の故郷・・・
その為に反対したのです。

しかし・・・信玄には駿河を・・・海を手に入れたくてたまりませんでした。
織田信長と対決するために・・・水軍が必要でした。
そして、その先には・・・天下統一!!
思いがすれ違っていく親子・・・そして、義信は、信玄謀殺に臨みますが、悟られて失敗。甲府市の東光寺に幽閉されることになりました。

それから2年後・・・
息子・義信に死を命じます。
わが道を貫くために!!
天下統一の夢は、確固たる意志へと変わっていくのでした。

本格的に駿河侵攻に挑みます。
間もなく駿河は、信玄の手に落ちることになります。

そこには“我が道を貫く、冷徹なまでの合理性”がありました。

天下統一を夢見ていた信玄・・・
1572年京を目指しているうちに、病気に。。。
長篠城で療養するも、一向に良くならず甲斐に戻ることに・・・
しかし、甲斐の土地は踏むことはありませんでした。

食道がんを患っていたようです。
享年53歳。甲陽軍鑑によると、家督をついだ4男の勝頼や家臣に遺言を・・・

①三年間は自分の死を隠しておくこと。
②信長が攻めてきたときは、難所に陣を構え持久戦に持ち込むように。
③家康が攻めてきたときは、駿河国内で討ち取るように。

“上杉謙信と和議を結ぶこと”
“謙信は男らしい武将であるから、若い勝頼を苦しめるような行いはしないだろう
 まして和議を結んで頼ると言えば、決してそれを破るような者ではない”

それは、自分の口から“和議を結びたい”と言えなかった後悔からだったのでしょうか?
やはり、武勇を決した仲だったからでしょうか?

信玄は、決して城を持つことはありませんでした。
そこには・・・
「人は城 人は石垣 人は堀」
裏切りが当たり前だった時代に・・・信玄にとっては人こそが城そのものでした。

武田信玄は打算的で計算高い・・・しかし、先見の明のある一筋縄ではいかない
武将でした。そこにはぶれない決断力がありました。


甲陽軍鑑には信玄の誓いがあります。
生涯守り抜いた言葉・・・
それは・・・“生涯力を抜かない”ということ。
でした。



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